はてなキーワード: 宗主国とは
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190828-00080040-chosun-kr
↑これ。
最近のこの手のニュース、いろいろとdéjà vuではあるなぁ、とは思う。旧日帝の国際連盟に至る過程を見るようでもあるし、あまり上手くない、海外事業展開をしていた某企業の事態収拾プロセスにも似ている、気がする。
というか、これってICJにJurisdictionあるんだろうか。そもそも二国間協議不調→(基本合意に規定される)Arbitrationの不調というプロセスを踏んでいないので、「ICJに管轄権なし。まず、Arbitrationしなさい。」という判決になるんじゃなかろうか。
んで、Arbitrationを拒否しているClaimantの心証はあんまりよくないんじゃないだろうか。
それとも「不当な基本合意を強制的に結ばされた、あれは無効」という訴状なのだろうか。「宗主国は旧植民地諸国に対し、無限の賠償責任をもち未来永劫補償し続けなければならないにも関わらず、そのような条項を盛り込まない片務的な条約(基本合意)の締結調印を強要された。」という訴えなのだろうか。
それはそれで、そこまで遡った係争にしようとすると、旧連合国の植民地であった諸国の独立に関する合意にも大きく波及する話にならないだろうか。しかして、そのように、永久に(新たなネタを見つけ続け)補償賠償請求できる権利を持っている国家の自立独立性って、いったい何なのだろうか。はたまた、そのような主張は、WWIで戦勝国がドイツに要求し、ナチスの台頭遠因となった賠償請求とどう違うのだろうか。
教えて、えらいひと。
今回の日韓のイザコザは個人的にはどうでも良いというか、どう転がろうが老い先短い俺個人の生活に大した影響はないし
お互いの国がそれぞれの選択の結果を受け止めて行けば良いだけの話だと思う。
韓国が自滅しようがそれは韓国の選択だし、逆に日本が自滅しようがそれも日本の選択だ。
それぞれの国の政治システムで選ばれた主導者の選択を選んだ国民が受け止めるしかない。
けど、一つ気になったのが掲題の件。
GSOMIA破棄の件でアメリカの声明発表に対して「ほーら、アメリカに怒られた」とか「根回ししてないのか」みたいな反応が沢山あってそれに星が大量に付いてるのみると「政府関係者どころか一般国民にまで飼い犬根性が骨の髄まで染みついてる」って言う現実があらわになって驚いた。
アメリカ主導で組まれたGSOMIAという仕組みをどうするかは個々の国が個別に判断する話であって、ルールに沿って破棄の決定をするのに「お伺いを立てるのが当然」みたいな意識が一般国民にまで染みついてるのが恐ろしかった。
まぁ、日本は建前上軍隊持ってないのに対し、韓国は軍隊があり徴兵制もあるって言うあたりも関係してるのかも知れないな。
なんで韓国はそれが出来たかというとただの敵意ではなく娯楽になってたから。
レイシズム娯楽。
現地の人は頑張った
日本も手助けした
じゃだめなん?
どこぞの議員が「不適切な」発言をしたとかで盛り上がったらしいけど。
戦争に勝った国が使用を禁止している、敗戦国が使っていた言葉はけしからん…
戦前日本が『敵国語』とか言って言葉狩りしていた時代と何がちがうんだ?
「あえて使う行為は危ない思想の人間がやることだから」とかそういうのはいいよ。
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侵略(植民地化)を正当化しようとしたっていう「事実」も戦勝国が一方的に決めつけたものじゃないの?
戦前日本が植民地化した国はそもそもどこの国の植民地だったかな。
宗主国/植民地になるか、搾取する/される側になるかしか選べなくて日本はする側になった。そして負けた。
日本が敗戦でアメリカの属国になっていなければ、日本人が日本を取り戻すための運動は起きなかった。(1960年代~1970年代の日米安保闘争など)
日本の近代史を省みると、日本の失敗は、鎖国から開国に転じるときの国家体制に不備があったことが分かる。
天皇が税金で生活する公人ではなく、私財で生活する私人に戻っても、日本人は生きていける。
公武合体の代わりに、今なら日本で大統領職を新設すべきなのだろう。(大統領=現代の将軍に相当?)
「数学の修得には時間がかかる」ことの概説 - Unhappy Go Lucky!
ただ、文系学部の「研究」や「卒業論文」の位置づけとかについて、過大評価していただいているような気がしなくもない。日本語とは縁遠い言語を話す地域を専門とする史学科卒の人間として、「ゼミ」や「卒論」の位置づけについて語ってみたい。
いやこれは本当に分野によるのだが、「研究」というよりも「勉強」をやっているところが多い。歴史学というのはまず史料に何が書かれているかを正確に読み解く必要があるのだが、その読み方を徹底的に叩き込まれる。場合によっては修士課程でもこれが続く。もしくは、研究文献の読み方を叩き込まれる。そもそも2・3年前まで高校生だった連中である。文系の研究書をどのように読むべきかよくわかっていない人も多いし、英語の本を通読なんてしたことないですという人がほとんどだろう。レベルの高い大学なら外国語文献の購読をし(何語なのかは研究分野や参加者による)、あまりレベルの高くない大学なら日本語の本・論文の読み方をゼミで躾けられる。
(「史料」ってのは要するに「昔の人が書き残したこと」。王様の勅令だったりお役所の行政文書だったりインテリの書いた思想書だったり過激派の撒いたアジビラだったり新聞記事だったり、色々である。公文書館に行って実物を見てくる場合もあれば、別の学者がまとめて印刷出版してくれたものを参照する場合もある)
何で学部の段階からゼミに分かれるか、というと、「歴史学とは何か」「史料批判とは何か」みたいな概念・方法論レベルの話や、「いやしくも歴史学を学ぶ者として最低限踏まえておくべき各地域・各時代の基礎知識」みたいなのを除けば、分野ごとに身につけるべきスキルが全然違うので。江戸時代の歴史なら江戸時代の古文書、明治期の歴史なら明治期の文書、中国史なら漢文、イギリス史なら当然英語の古文書……を読まないといけない。イギリスについて研究したい学生が日本の古文書の読み解き方を勉強しても時間の無駄だろう。逆もまた然り。
慌てて言えば分野による。
社会調査とかする分野で、自分なりにアンケート調査してみた、とかそういう論文なら、どれだけ拙かろうがオリジナリティはあるだろう。あるいは歴史学でも、オリジナルな史料を発掘することが可能な分野ならオリジナリティは出る。
ただやっぱり、学部4年の段階で大層な「オリジナリティ」は出てこない。そもそも外国史の場合、史料の読解すら教員の手助けを得てようやく、という人が多い。歴史学では一次史料が重視されるが、私の分野では卒業論文で一次史料を使った時点で優秀な学生の部類に入るだろうなと思う。二次文献、つまり他の研究書や論文をまとめて長いレポート(うちの大学では3万2,000字が下限だったかな)を書けたらOK、という運用をしている大学も多いのではないか。まとめるのにもオリジナリティは出るしね、という苦しい理屈だしそんなの査読つき学会誌に「論文」として発表できるレベルではないが、学会誌に「論文」として出せるレベルのものを要求していると4年では足りないわけで、多くの史学科の学生は修士論文で初めて学会誌に投稿できるレベルのものを要求されることになる。
何度も言うようにこれは分野による。地味に重要なのが、「その言語は大学で第二外国語として開講されているか、あるいは教養科目で講義が受けられるか」という点。朝鮮史やドイツ史やフランス史の場合、韓国語やドイツ語やフランス語は文系の学部ならたいていは必修の第二外国語として教えられていることが多いので、卒論でも韓国語ドイツ語フランス語の論文は読めて当然だよなあ? というハードモードになることもある。中国史なら「高校から漢文やってるんだしゼミでも読んでるんだから卒論でもちゃんと漢文の史料は読めるよね? 現代中国語の論文も読んでね」ということになるだろう。英語? そんなの読めて当然でしょ? 第二外国語ではなくとも、たとえばトルコ語やアラビア語なら多少気の利いた大学なら教養科目とかで開講されているから、イスラーム史やりたいなら学部1年のうちから履修しといてね、という話になると思う。逆に、マイナー外国語が必要な分野だと、せめて英語の本くらいは読んどいてね、くらいにまでハードルは下がる。アイスランド史を勉強したいです! と言われても、日本でアイスランド語の授業がある大学がいったいいくつあるのか……という話になるわけで。まあ東大の某ゼミではゲエズ語購読とかやってたらしいですけどね。雲の上の世界すぎてまったく想像もつかない。
なので、大学に入った段階で既にどの分野に進むのかなんとはなしの道筋がついていないと厳しい。第二外国語で韓国語を選択して、やっぱり私ドイツ史がやりたい! というのは不可能ではないが難しい。第二外国語選びの段階である程度進路が決まってしまう、というのが史学科の特徴だ(まあ、英文学科とかは、学科選びの段階で専門地域が決まってしまうわけだが……)。イスラーム史やるなら第二外国語はフランス語にしないとね。そんなのついこないだまで高校生だった連中にわかるか! もちろんこれは大学による。西洋史に進学した者にはドイツ語とフランス語双方の習得を義務付ける大学もあるそうである。これならヨーロッパのたいていの地域に対応できるね! 史学は語学と言われる所以だ。
あとは西洋以外の地域だと、「史料に書かれている言語」と「論文に使われている言語」が違うことが結構あって、何でかといえば近代以降に西洋諸国に植民地支配されていたりすると「オランダ人研究者がオランダ語で書いたインドネシア史についての先行研究」みたいなのがたくさんあるので。つまりいくらインドネシア語やアラビア語が堪能でもそれだけでは片手落ちで、オランダ語やフランス語ができないと先行研究が読めないので勉強せざるを得ない(付け加えるなら、植民地支配されてたということは、お役所では宗主国の言語が使われていたり宗主国のお役所に植民地統治を担当する部局があったりしたわけで、それらの史料は当然宗主国の言語で書かれている)。さらに前近代史だと、「昔使われていた言語」と「現在使われている言語」が異なっていることが多く、典型的には古文とかラテン語とかである。現代日本語の論文はスラスラ読めても古典日本語はチンプンカンプンという人も多かろう。前近代非西洋の征服王朝なんかだと大変で、現地語+支配階級の言語+植民地支配してたヨーロッパの言語、をやらなければいけなかったりする(アラビア語+オスマン語+フランス語、みたいな感じ)。いやー、西洋現代史はヌルゲーの領域っすわ……その国の言語ができれば用足りるからなぁ。現地に行けばネイティブスピーカーがいるから勉強も簡単だし(アッカド語みたいなネイティブがいない言語を習得してる人ほんと尊敬する)。もちろんここで少数民族とか国際関係史とかに興味を持ってしまうと語学沼に引きずり込まれるわけだが。イギリス史なら英語だけでいいだろうと思っていたらうっかりウェールズに興味を持ってしまいウェールズ語を勉強することになりました、とか、ドイツ語だけで通そうと思っていたら枢軸国の外交に興味を持ってしまったせいでイタリア語も読んでます、みたいな。とはいえこれらは院に進学してからの話(あるいは院への進学を希望する学部生の話)だ。院に進学しない学生の卒論レベルなら日本語+英語or中国語でじゅうぶん、という運用の大学がほとんどだと思う。
(ヨーロッパの植民地についてしか述べていないのは、日本の植民地の場合宗主国の言語を習得する困難はほぼ存在しないからであって、日本は植民地支配をしていなかったと言いたいわけではないので念の為。もちろんこれは日本語母語話者である学生の話で、韓国や台湾の学生あるいはそれらの国からの留学生は植民地時代の自国史を勉強しようと思ったら日本語を読まなければいけないわけであり、なんというか申し訳ない)
でもまあ、卒論書くのは大事ですよ。たとえそれがレポートに毛の生えたレベルのものであっても、院に行かない学生にとっては専門家に指導されしっかりと文献を読み込んだ上でこんな長文を書かされる機会はこの先の人生でなかなかないし、それを経験するというのが大学に行く意味だと思う。院に行く学生にとってはもっと長い修論や博論書くんだから当然このくらい書けなきゃ話にならんわけで。
これも分野によるのだけれど、たいていどっかに留学する。中国史なら中国や台湾、フランス史ならフランス、みたいに。留学先で大学のゼミに参加したり史料を集めたり現地の専門家に指導を受けたり、あるいは分野によっては語学の勉強をしたりする。もちろん複数国に留学してもいいし、研究対象国以外に留学することもありえる。アフリカ史を研究するためにポルトガルに留学した人がいたり(イエズス会士が書いたものを読みたかったらしい)。で、帰国してから博論を書く(たまに留学先でそのままPh.D獲っちゃう人もいる)。
上述のような事情があるので、歴史学を専攻している人はたいてい4年以上博士課程に在籍する。ちゃんとした大学で3年で博士号獲るのは一部のバケモノだけです。たまにいるんだよそういうバケモノが。日本史なら楽勝かというとそういうわけではなく普通に4年以上かかってることが多い。留学期間とかもあるので、博士課程の先輩に学年を聞いても即答できないことが多いから気をつけよう。29歳でドクター? 夢物語かな? まあ本当に文系の大学院なんて資産家の子供か養ってくれる配偶者持ちか自殺志願者以外は来ない方がいいです。男性歴史学者が書いた研究書のあとがきに奥さんへの謝辞が書いてある場合、もちろん本当に純粋な感謝の念であることも多かろうがけっこうな確率で一時期ヒモ生活を送っていたことへの感謝だったりする。奥さんの実家でチクチクとイヤミを言われた経験を聞かせてくれた教授もいらっしゃる。これ有名大学の教授様になれたから笑って話せるだけで、なれなかったら悲惨だよな……。まあでも、研究者の不遇っぷりは文理問わないか。
東南アジアに出張してつい先月に爆弾テロ起きた現場近くのホテルやレストランを利用して戦々恐々としていると、本当に日本はそういう問題が無くて良かったと思う。
ブリカスはじめとする欧米宗主国の植民地政策が悪んだけど、その尻拭いさせられてる独立後の政府に同情する。
でも日本だって、19世紀に北海道がロシアの領土にされて、アイヌが間接統治の尖兵になってヤマトを虐めて、ソ連時代は民族対立が抑えられていたけど、冷戦後に吹き出してアイヌとヤマトで殺し合いして、んで当然ヤマト寄りの日本政府への反感からアイヌ過激派が東京の地下鉄でテロやって通勤中の俺が死ぬ、
なんてことになってた可能性はあるんだよな。明治政府グッジョブというか。
そう言えば、こういう「現実とは違う歴史を辿った日本」というフィクションのジャンルってなんて呼ばれてるの? 戦争しないなら仮想戦記ではないよね? 単にSF?
ラグビーのWCで日本では刺青を隠すようにという指示を「日本文化への尊重だ」と肯定的に評価する人がかなりの確立で日本以外で旭日旗を用いるのに肯定的なのはなんでなんだろう?
「外国の文化でどのような意味を持とうと、日本では反社会的集団のメンバーであるシンボルと解釈される」というのは、確かになるほどとも思える。
でもそうなら、外国などで、旭日旗を使用する際も「日本ではどのような意味かは関係なく、その文化でNGとされるなら使わないべき」と言えるよね?
でも「日本ではウンタラカンタラ」とか言って正当化するのはなぜ?
政府もそうだし、「広く受け入れられている」と主語が不明確な言い方しかしないよね?WWII期に日本の植民地だった、占領された国や地域ではどうなのか?とはぜったい答えないよね?
相手が嫌がってるのにわざと使うような差別主義者は論外としてなんでなの?
もっと言うと、旧植民地や占領地の連中ごときは尊重に値しないという宗主国根性なのかな?
いや、本当に不思議なんだよね
何故か、銀河間航行できる宇宙人が何故か、日本に来日して、某番組並みにホルホルしてくれて、何故か機密の軍事技術供給までくれてやり、悪い中国人を倒すとても都合の良いお話があった。
まぁ、死霊の盆踊りを見るような半笑いで斜め読みしていたのだが、その中の主人公と国家主席との会話で「中国は対外戦争に一度も勝ったことがない」とあった。
そうなんですか?と思い改めて調べると、そもそも中国は侵略戦争自体ほとんど起こしたことがなかったのだ。
紀元前から辿れば、白村江の戦いから最新では珍宝島と中越国境紛争を除けば、までだいたい朝貢国を侵した宗主国としての立場の自衛戦争である。
ノモハンでボロ負けしたどっかの国とは大きな違いである。しかもちゃっかり領土まで増やしている。
戦争ネタを齧ってるネトウヨギークの中でも割と常識だと思っていたが、純粋に知らなかったのか。知っても記憶から削除されたのか。そもそも知ろうとしなかったのか。
中国と比較してヤポンはなんと殴りつけのヤクザ紛いの因縁戦争が多いことか。
この認識だと次やるときは確実に負けるでしょう。下痢に誑かされた第二次神聖ニッペ帝国との自衛戦争なら多いにやってくれという感じですが。
ドームもまた増えるでしょうか・・・。
日本国民の「右傾化」が叫ばれて久しい。現政権は「保守政権」と自称している。
なるほど、保守。たしかにそのネオナショナリズムは過去に立ち戻るような考え方のように映る。
しかしながら私はこの保守、あるいはネオナショナリストこそ日本国において最も急進的で未来に希望を託している人種なのでは無いかと思えてならない。
現代日本はさながらラピュタのようだ。我々の足元には確たる基盤がなく、ゆらゆらと宙に浮いている。それには様々な原因があるだろうが、今回は三つの思想的敗北によるということで話を進めていく。
まず、第二次世界大戦の敗戦がある。明治以来国民を支配してきた全体主義・国粋主義が間違いであったことを身を以て知った我々は頼るべきイデオロギーを失った。1回目の敗北である。
次に我々が依拠せんとしたのは共産主義である。ソ連や他の共産国の秘密主義のためにその惨状を知らない日本人は共産主義的桃源郷に夢を馳せた。東大闘争に始まったこの熱は日本中をのぼせ上らせたが、セクト間争い、連合赤軍、そしてソ連の崩壊と暗黒面が目につき、我々は夢から醒めた。
バブル崩壊。アメリカ式資本主義は敗戦からずっと生き残り続けた。奇跡の復興、宗主国アメリカのど真ん中の大きなビルを買えるくらい、日本は資本主義化において成功を収める。しかしそれは文字通り膨らんで行く泡であり、遂には弾け、資本主義さえも信じられなくなった。
無主義・無思想・無宗教の日本に残されたものは、敗戦国という烙印と無機質なハコモノだけであった。今までならば誇るべき別の点のお陰でさほど気にしないで入られた「戦後レジーム」が今更になって癪に触る。
こうしたアイデンティティの喪失によって創り上げられたのがネオ・ナショナリズムである。
先に「ネオナショナリズムは過去に立ち戻るような考え方のように映る」と書いた。しかし歴史上どこに立ち戻るべき過去があるというのか?日本帝国の政治体制が戦禍を巻き起こし(彼らが全てアメリカの陰謀であると主張したところで同じことである。米国にまんまとしてやられ冷静さを失う体制のどこが間違っていないというのか)、華々しい経済も泡沫と消えた。立ち戻るべき場所は本来どこにも無い。では彼らはどうするか?
美しい日本、日本帝国の真実。書店に立ち寄れば過去を美化している本が並んでいる。しかし彼らの言葉の指す「かつての日本」は過去をベースとしたファンタジーなのである。
かの有名な江戸しぐさを思い出して欲しい。教科書にも掲載されたデマであるが、あれは全く過去をベースとしたファンタジーである。いわばベイマックスのフランシストーキョーや銀魂の大江戸のような「そうであったかもしれない日本」の姿であり、それは過去に存在していない以上幻想以外の何者でも無い。
当たり前の話だが、戦前の日本を知るものはもはや生きていない。戦争の怖さは子供にもわかるだろうが、怖い社会を感ずるためにはある程度の年齢が必要だから。誰も知らない、ということは現在の我々が過去を思う時、そのほとんどは幻想に頼るしかないということである。モニターの奥の二次元世界となんら変わらない。現在と過去との間には次元を隔てる障害があり、こちらからあちらへは干渉できない。
たしかにアニメのネオ日本は格好がいい。しかしそれを現実で語ればアニメ脳、ゲーム脳と言われるのがオチだろう。同じようなことをやっているのがまさにネオナショナリスト達なのである。
ネオナショナリストは現時点での閉塞感を解消するためにカッコいい幻想を過去に投影した。そして「これに戻るのだ」と主張しながら未来を作ろうとする。
結果、彼らは前しか向いていない。過去を省みてはいないではないか。これがいわゆる保守こそが進歩的な人たちだという理由である。
私は右傾化を否定も肯定もしない。戦後から不安定さの解決のために右往左往してきた日本人を思えば、当然の帰結だろうと思う。お粗末な思想、主張だが、日本国民がそれを望むのであれば、それも良かろうと思っている。なに、高い授業料になったって構いやしない。
ただ、一つだけ加えておきたいことがある。私は先程からネオナショナリストの思想の根本は幻想、ファンタジー、アニメ的だと主張してきた。幻想、現実ではない、ありえないものなのである。つまりは霊的なもの、神的なもの、呪い的なもの、それらと変わりないオカルティズムだ。オカルトによって国が動くのだとしたら、あなたは怖いと思うだろうか、素晴らしいと思うのだろうか、それを尋ねてこの紙片にピリオドを打ちたい。
世界で最も痴漢問題が激しく、陰湿化する国は日本なのである。おなじ満員電車の国のアメリカや韓国や中国には痴漢はない。なぜ先進国で唯一日本だけこの問題があるかと言うと、それはおそらく「責任の主体を明確化することを渋る」からではないか。痴漢の戦犯は第一に加害者だが、加害男は、ただ好き勝手やってれば自分が処分されることをわかっているため、他人に責任を負わせるのである。鉄道趣味などを煽り、傍観者や共犯者をじわじわと作る。そうすることで、自分ひとりが糾弾されたりすることから逃れられるのだ。もし仮に利用者のうち80%くらいが加害者(傍観者含む)となれば、その常態を企業は「問題がある」と認めることはできない。なぜなら利用者(加害者の家族含む)から「うちの人生がどうなってもいいのか!」と糾弾にさらされることになるからで、行政からも圧がかかる。
もし仮に、その鉄道が都市のすべての鉄道路線のうちにたった1路線がそういった常態だったとしても、それでも1路線が危険地帯一色に染まるともなれば由々しき事態なので、当然新聞沙汰になるし、運営も、場合によっては行政の面々なども処分をされかねなくなる。かくして隠ぺいや黙殺が起きるのだ。隠ぺいや黙殺すればするほど痴漢はじわじわと鉄道路線全体に広まる。そしてそれがどの鉄道でも当たり前になり、どの交通機関でも当たり前に、どの都市も平均的な風景になったのが今の日本だ。東ドイツと同じなのである。宗主国の顔色を窺った東ドイツ政府が、無責任に国民をハラスメントするような構造と一緒だ。
痴漢問題は、加害者が少人数(できれば一人)の時点で発見し、その利用者に定期券の没収などの制裁を科すことができればいい。もしそれが食い止められずに全体に広まれば、運営の首を飛ばす仕組みを作れば、運営会社はもっと積極的にマトモにこの手の問題と向き合うようになる。なぜこれができないのか。本当に日本の公共交通はダメだ。
韓国や中国に過激派左翼や暴力団がない理由を考えたのだが、おそらく「公的勢力の権限」が徹底されているからだと思う。2000年代以降の韓国や中国の風景は、さまざまな公共団体への相談窓口が用意されており、裏社会につながる利権のパイプが発生しないようになっている。これは最近の欧米でも普通のものだ。ようするに公共サービスが徹底していて、社会の裏側に必然的に手出ししないように済むわけで、住民も安心して問題点を解決できる。サービスの効率や質もよい。日本の場合、公的機関の権限がいい加減だから地下の人間(昔は裏社会で今は過激派左翼)が利権を作る原因になるんじゃないか。
これは社会のイメージアップにもつながり、問題などを一番小さな次元で食い止めることができる。日本のような公的機関が蔑視される環境だと、公共責任があいまいになり、過激派利権問題やJKビジネスのようにとりかえしのつかない規模になってしまう。いま、世界に名だたるオタクの街が潰れかかっているのはまさにそれが原因ではないか。よくいえば都市や国家のイメージアップになり、人民の利益やモチベーションのアップにつながる。これは本当に良いと思うので、日本は採用してほしい。欧米だけではなくアジアでこういうシステムをやらないのは日本だけだよ。
日本の民度がいまダメになっている理由もこれで説明がつく。なぜ1940年代の日本や今で言えば韓国の過ちと同じことを繰り返そうとしているのかというと「忖度」してしまうから。これはネトウヨや高齢者も考えるべきことだ。君たちの大嫌いな「だらしない日本人の態度」の原因は、特定の人間の責任にできないことにある。
アメリカ人であれ中国人であれ、世界のどの超人や職人も個人単位での評価が当たり前である。
韓国の超人紹介を見ると、必ず名前の紹介がある。日本みたいに民族そのものの評価になることはない。これは米国でも欧州でも当たり前だ。
日本でこのような考え方が徹底されるようになったのは2010年代以降である。それまで、あたかも日本社会自体がすごいという拡張表現することしかないし、インタビューさえ氏名不在の場合が多い。誰が取材したのか、誰が伝えているのかがさっぱりわからない報道が目立つ。
結果的に、無関係のない人達が矢面に立たされてしまい、特定の世代がひっくるめて糾弾されることになるのではないか。あれだって、世代における共通点があったとしても、悪いのは顔の見えない、名前も出て来ない者である。
諸外国と比べて、日本の左翼は国旗を仰がない、他国に日本を売る売国奴などと聞くが
こういう言説の問題なところは、今の日本の国政と「自分達・自国で作り上げた国」と比較しているところだ
現在の日本の体制は、アメリカによって作られアメリカの規定した国家制度でアメリカの庇護のもとで存在している
つまるところ、おおよそにおいて、国家を象徴するものが「自分たちのものである」と言う点が希薄なのだ
全てにおいても、特に国旗国歌にしても、「アメリカにとって都合が良かったから」と「アメリカに許されたから」でしかなかった
自分たちのものでない以上、自分たちのアイデンティティとはなりえないし、それが象徴として認めえるかは、「自分たちで作り上げた」民主主義国家と比して感情の複雑なものになる
占領から始まり、そこから日本には「アメリカに所属するか」と「アメリカに所属しないか」に分裂していて、ずっとそれが続いているだけの話だ、愛国だの売国だのと言う話ではない
アメリカ以外がロシアであり中国であることはあるがは時代によって変遷するが、結局のところ、両翼の思想において国の主体としての日本と言うものは実のところ存在せず、いわゆる右翼のいう所の愛国と言うものは虚構で
大まかに、アメリカの統治を認めるか=右翼、アメリカの統治を認めないか=左翼と言う構図でしかなく、アメリカを認める=(現在の)日本を肯定する=(虚構としての)愛国となるだけだ
売国奴と言う理屈も、中国やロシアを敵とする前提があって、それに利するから売国奴となるが、そもそも中国やロシアが敵であるというのはアメリカと組するという前提から生じている
アメリカと手を切って中国かロシアと協調すれば、それだけで単純に立場が逆転する
もちろん、中国と組すれば即座に占領地になり、チベットのように虐殺・圧政を受けるという危惧も当然だろうが
北朝鮮、北ベトナム、バングラディッシュと、隣接した社会主義国、中国有効ながら属領とならずにいる国もある
むしろ、チベットは反中国だからこそ攻め込まれ支配されている(勿論、侵略による圧政など否定すべきだが(ここは強調しておく))
個人的に、どっちかマシかと言えば自由主義に組するアメリカではあるのだが
それでもアメリカに所属することを愛国と言い張って、宗主国の選択で競い合ってるだけの相手を売国奴などと、どちらも国を売ってるだけの状況で偉そうに言える言葉ではないように思える