はてなキーワード: フィルターとは
こんなの本人の心がけ一つでなんとでもなる問題だろ
俺はTwitterのことを、自分が書きたいことを書き捨てる場所であり自分の趣味の情報を集める場ぐらいにしか思ってない
インターネットが、というよりSNSが盛んになってきたころからフィルターバブルの害が大きくなってる気がする
2020年12月にハワイに入るためにやる必要があったことのメモ。
2020年1月に仕事の都合で米国に行ってしまった恋人に会いに行く4月のチケットを購入したのは1月3週目のこと。その前週から中国で感染症が流行っているニュースが入りあれよあれよという間に予約したフライトが飛行しない事になり、日程変更の為にサポートに問い合わせどつながらず、アメリカのサポート経由で別の日のチケットを手に入れたのも束の間、出発18日前の3月26日よりハワイ州への入境が完全制限され、フライトも欠航が決行。
一晩失意で枕を涙で濡らしているのを、どこ吹く風の恋人に慰められつつ、在宅勤務でほとんど家に出ることないまま様子を見続けてやってきた秋9月の末。フライト自体はほとんどない状態、にも関わらず収束することを願って12月のチケットをゲット。この予約した羽田便も11月になる前の週にはキャンセルされたけれど、入境後の行動規制が出発72時間前に取得したPCR検査の陰性証明書を所持している人には免除され成田便は飛ばすことが分かったので、急いでハワイアンに電話して飛ぶ予定の便に切り替えました。
あとは12月に無事に飛ぶのを待つばかり。感染者数も抑えられてきているのでこのまま収束を超期待。(ここまでが10月末)
出国というか搭乗のためにPCR検査の陰性証明書が必要なのだけど、ハワイで14日間の自宅退避を免除するには別途指定機関で発行されたPCRの陰性証明書が取得が必要。
https://www.allhawaii.jp/covid19/prepare/certificate/
他の診断やってないんじゃないかって位小さなクリニックで、取得。ハワイの他、グアムと中国入国の両方の証明書を発行していた。ビジネス?
ハワイ・グアムが大体26000円で中国用のが30000円を超えていたと思う。
来客も英語を話す人か中国語を話す人で(勿論日本語も)受付の人はどうやら中国語と英語と日本語がわかる様子だった。
出発前々日の午後に仕事を早退して検査して、出発前日の終業後に発行された証明書を取りに来るスタイル。
三密をここ14日間避けていたか、外食14日していないか、狭い空間で人と話したりしていないか。等。リモート勤務で友達の存在すら危ぶまれているので楽勝。
検査にはパスポートとフライト番号、保険証を持っていけばOK。
次の日に受け取った陰性証明書は、前日の検査結果から陰性を証明する、と医者の手によって書かれたハワイ州の規定の紙が用意されていて、自筆で名前と住所と生年月日と出発日・フライト名を書く感じ。
出発日欄を間違えて生年月日で書きかけて、書き損じで再発行手数料500円が追加で取られた。
ハワイに来る人は前日の健康情報を所定のデータベースに登録する作業が義務付けられています。
https://travel.hawaii.gov/#/trip
オアフ島だけでいいかと思いきや、オアフから尋ねる離島までの間の登録も別途必要だった。
登録する来島理由について、再移住、トランジット、観光、友人・家族への来訪、エッセンシャルワーカー、航空機の乗務員、とあって、この場合は友人家族への来訪を選択。
ステイ先に、ホテル、ホステル、コンドミニアム、自宅、時間貸しスペース、B&B、友人親戚宅、の他にキャンプサイト・ビーチやシェアルームと言う選択肢があって、この状況下でビーチとかキャンプサイト選ぶ人いるのかなとか疑問に思ったり。
健康情報の登録では熱はないか、解熱剤は飲んでいないか、インフルエンザの予防接種は打ったか、どこか別の国から移動した14日間の自宅待機期間ではないか、14日の間にハワイ州以外の自国ではない所に旅行していないか、などの登録が必要。
フライトごとにこの健康情報の登録は必要。サイトにはPCR検査の文書も登録できる場所があって、ハワイ州認定の陰性証明書をpdfにしてアップロードされていると到着時に空港を出る時の手続き項目が減って非常に簡単に出られます。
これが終わるとQRコードが飛んでくるので、入国後空港から出る時の手続きで、パスポートと一緒に見せればよい様子。
これは通常のアメリカ入国でも必要。ちょうどパスポートを切り替えてESTAの登録も切れてしまってたので、再登録。
SNSの登録箇所が以前はTwitterとFacebookだったのに、LinkedInとInstagram が追加されてた。
当然この手の情報はどれも持っていないので登録していません。はてなは無かった。
ESTA登録後の初回は有人の審査も必要になるとかで、結局有人の入国審査もやりました。
どんなに万全を期しても罹ったら現地の医療機関を使わざる負えずなにかあった時の医療費が怖いのでとりあえず3000万まで保証してくれる会社のにしました。結構高いです。4500円。
※やらなきゃいけないことの詳細は
ここ(https://www.allhawaii.jp/covid19/prepare/)に全部書いてあった。
家の冷蔵庫の中身を減らして、残りは帰国後14日間外出しない間に食べられるものを残し、不織布のマスク(VFE99%)の上に布マスク(中に不織布フィルターが入れられる物)を重ね付けて出発。当初の予想も外れて東京の新規感染者数は増え続け、この日は250人弱。
この時期にわざわざハワイへ向かいたい人は、現地で生活がある極限状態の日本人の買い出しかビジネスか家族がいるかで持ち込み荷物の多さを感じるような人ばかりかと思いきや、小さなスーツケースで必要最小限の装備のカップルや、地方から出てきてホノルルで何をして遊ぶという話で盛り上がっている親子連れや、ゴルフに行く様子の人もいて、不要不急の出国をカジュアルに実行する為にPCR検査をする人が居るのに本当にびっくりした。私も引きこもる予定だけど、不要不急の出国者側の人間なんだろうなってここで気づいた。
空港はこのハワイ便に乗る人と他の便待ちの人がいるくらいで、全く人がいなかった。旅行代理店のエリアの座席のところは前の方に空港職員の人がお弁当広げて食べている位、誰も居なかった。三密は全く無いけどレストラン街もほぼしまってて(土産屋もしまっている)いつも入るお店もやってない。出国手続きをした先の免税店もレストランも一切閉まっており、自販機で買った乳酸菌飲料の糖分でかろうじて空腹感をごまかす。おにぎりを食べている集団に羨ましくなりながら、搭乗待ちの間に携帯にアメリカのeSIMを設定したりしてた。
もともと間引きでの座席の提供。大体半分くらいは予約不可席で選べなくなっています。隣の四人席には人が一人しかいなく、気がついたら4席使って横たわって寝てた。
当初は機内食は食べるのをやめようと思ってたけど、機内の空気の循環は良いことや、空腹でおかしくなりそうだったので、ありがたく与えられた糧をいただく。
食後は、前の席にいる老人夫婦(多分片方別の席)がたまに咳をする(喘息っぽい音)上に時折マスクを外す。読書灯つけっぱなしで席移動して寝る、など普通に迷惑な人達なので映画を見て過ごす。目の前の座席が咳したあたりで、ダブルマスクの上にプラスチックのフェースカバーを付けてた。流石に読書灯つけっぱなしで移動されたのが鬱陶しかったので注意したら、装着してたマスクを外して謝ろうとし始めた。やめてほしい。
オアフ島から別の島に移らないといけないので乗り換え。入国審査と入境時健康検査(熱はないか、喉は痛くないか、などの口頭アンケートとQRコードの提出)してから一旦国際線ターミナルを出て国内線へ。米国人もマスクしているし、地面にはこれでもかというほどキープディスタンスを守らせるためのシールが貼られていた。時期をずらしてバカンスにきてたっぽい米国内の人がちらほら居た。結構普通に国内を動いているメリケン。
国内線の搭乗検査で身分証明書(旅券)とマスク外して顔を見せるなどをして無事次の便に。食事をしようと思ったけれどホノルル空港内の飲食店はほとんど動いておらず、BURGER KINGもこの日はやってなくて、スタバでカロリー高そうな飲み物を頼んだ。土産物屋は一軒のみ営業してたけど、ほとんどお客さんは入っておらず。
離島到着。軍服着た人に囲まれながら、再度事前登録のQRコード見せて健康状態のアンケートを受けて、やっと空港の外へ!
あーよかった。きてよかった。生きててよかった!
1年ぶりに会う恋人に狂喜乱舞エキサイティングしつつ、恋人の家で居候。しあわせ。恋人とのご飯。しあわせ。
最初数日間は様子を見ていたけれど特にコロナの初期症状もないので、たまにスーパーに買い物に行ったり散歩に行ったりドライブして海を見たりしてました。
一回だけガラガラの店内でご飯食べた以外は周りの人と距離非常に保たれたアウトドアか家でご飯。飛沫感染リスクかなり低め。
それ以外は延々と仕事する恋人の後ろでゲームしたりお茶のんだり仕事のメール読んだりしてた。完全に邪魔してた。休暇とってよかった。
(後編 anond:20201231031222 に続く)
ご存知のとおり、「名は体を表す」とは、名前がその人の実態を表しているといった意味のことわざだ。
そのわりには、「名前負け」(=実態が名前に追い付いていない)なんて言葉もあったりして、その有効性はいまいち疑問符が付くところではある。
しかし、「名前」というのは親からもらう本当の名前だけではない。
実は、「名は体を表す」ということわざは、本当の名前ではなく、あだ名に関して極めて有効なのである。
すなわち、適切なあだ名を付けることによって、身近に居る他人の性格を上書きすることができるのだ。本当である。
そういう問いを持ったのならば、そもそも他人の性格というものに対するお前の認識が間違っている。
お前が変わるんだ。
ところで、私には「増田っち」とか「増田ぴー」とか「増田りん」とか、かわいらしいあだ名を他人に付ける習慣がある。
いや、家族や友人、同僚にそういうあだ名を付けるわけではない。
怖そうな上司、疎まれている他課の人間など、嫌な人間にそういうあだ名を付けるのだ。
親しい相手ではないので、もちろん面白半分でそんなことをしているのではない。
先ほど挙げた「名は体を表す」の機能を期待してのことだ。
さて、なんであだ名ならば「名は体を表す」ということわざが有効なのか。
それは、他人の性格が自分というフィルターを通して知覚するものだからである。
そのことは、「本当は良い人」が悪い人、というよく知られた事例でわかるだろう。
他人の性格のうち、自分に知覚されない部分(=「本当は~」)など、自分にとってはまさにどうでもいいのである。
そうなると、他人に対する自分の知覚を変えることと、他人の性格を変えることは、自分にとっては全くのイコールだ。
あだ名は、他人の性格を直接操作するわけではない。お前自身の知覚を変える道具になるのだ。
自分にとって嫌な相手を、「増田さん」や「増田課長」などの無味乾燥な呼び方で呼ぶと、その嫌な性格が何のフィルターもなく、自分の知覚に飛び込んできてしまう。
すなわち、柔らかいネーミングを付けて、相手の性格まで「名は体を表す」のだと錯覚すれば良いのだ。
そのネーミングにより、相手はゆるキャラか何かのように知覚され、その本当の実態は見えにくくなるだろう。
(ちなみに、その相手本人に、その珍妙なあだ名を伝える必要は無い。
要は自分の知覚さえ変わればいいのだから、本人に伝えなくても、同僚とのおしゃべり、なんなら独りつぶやく中で、そのあだ名を呼べば十分だ。)
あだ名を呼ぶたびに、嫌な存在とのギャップに滑稽さを覚えるようになる。
そうやって滑稽さを覚えると、そのあだ名をまた呼びたくなる。
すると、自分の会話や想像の中で、その人物の登場回数が増えてくる。
そうでなくとも、嫌なはずの本人に会った際、含み笑い(「増田っち」のくせに生意気な!)を感じられるよう、自ら習慣付けられる。
すると、その相手に怒りを感じるのも本当に馬鹿馬鹿しくなり、コミュニケーションもいつしか苦痛ではなくなる。
「バカの壁」と言われる通り、コミュニケーションの壁となるのは、本当は自分の知覚の方なのだ。
しかし、きっかけ無しにそれを自ら認識し乗り越えることは容易ではない。その壁は大きすぎて、壁であることさえ気づかない。
その壁を、滑稽さを覚える→また呼びたくなる→含み笑いを感じる→コミュニケーションの苦痛が無くなるという、
あだ名がもたらすラダーによって、壁を壁として認識しないまま駆け登るのだ。
自分には、相手に対する滑稽さという悦楽を感じさせながら、「バカの壁」という自分の思い込みを乗り越えるための道具なのだ。
すなわち、かわいらしいあだ名は、相手を内心馬鹿にしながら、自分を馬鹿な内心から切り離すために有効な手段となるのだ。
その「名」は、お前の認識する「体」を変えるのだ。
お前が変わるんだ。
アメトーークで久々にキングコングを見て「なんで嫌われてるんだっけ?」と思ったから調べてみた。
お笑いとしてのフィルターがかかっていたとしても自分は好きになれそうにない感じ。
個人的にYouTuberを見たりすることもないし、カジサックでうまくいってるなら頑張ってね、というお気持ち。
ただ調べてみると「ああ、これは大衆受けしない人間だわ」という感じ。
いろんな発信をしていて、内容は概ね正しかったり面白かったりする。
でも全体的にTPOがあってない感じ。
SNSで投稿する、ラジオでしゃべる、雑誌でコラムを書いたりインタビューを受ける、ビジネスメディアでしゃべる、講演会でしゃべる。
自分もエンタメ業界で働いてるけど、それぞれで気をつけたほうがいい内容や表現ってたくさんある。
別にエンタメ業界にいなくてもわかる部分も多いし、日常生活でもそういう部分全然あるよね?
それを西野さんはそれを全く気にしない。
例えば下記の記事。
https://news.1242.com/article/167986
「会社を存続させるために、盛り上げるために、ユーザーにピンチって思ってもらわないと」って話をしている。
でもこれってエンタメの裏側事情“だけ”なんだよね。まったくユーザーへの気遣いとか愛情が入ってない。
そりゃ中の人によってはそういう感じだろうけど、おおっぴらに言う話ではない。
ましてやマスに向けて喋ったら反感を買う内容と表現。
「ファンの人のために」「楽しんでもらうために」みたいな切り口だったら全然違うと思う。
ラジオの書き出しだから、放送上ではそういう文脈だったりするのかな?
んで、上記の記事をそのままの文脈で捉えて、一ヶ月後に出た公式の記事を読むとめちゃくちゃ寒いし痛い。
https://ameblo.jp/nishino-akihiro/entry-12449919088.html
西野さんの会社の人が「西野さんがめちゃくちゃなことを始めた!お金ないんでクラウンドファンディングやってます!!」みたいな内容。
いやいや、それ全部みなさんが相談してつくったピンチですよね?っていう。
口頭と文章で印象って全然変わったりもするし、近い距離にいればすごく魅力的な人なんだろうと思う。
追記(意図しない読み取られ方があるので前に移動しました、誤解を招く表現だったことおわびします)
私は、書き忘れていたが、日本国憲法第14条に規定される属性による区別は当然のことながら差別だと考えている。私があげた絶対不可能な属性による区別の話は憲法上規定されていない属性に関してそれが差別かどうかを判断するガイドラインとして扱ってほしい。
日本国憲法14条
「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。」
社会的身分には職業が含まれると考えるのが相当であるので、私も職業差別には反対の立場であることは変わりない。
そもそも先述のガイドラインにたどり着いた理由を説明すると、すべての人には自由があり、差別として行為の禁止を行う余地はできるだけ小さくしておくべきという私の価値観がある。ただし、生来変更不可能な属性に基づく差別は第三者による救済が難しいものが多いため、差別禁止によってもたらされるデメリットよりもメリットのほうが圧倒的に大きいのはほぼ間違いないであろう。一方で生まれてから少しでも選択の余地のある問題に関しては差別を禁止するよりも、その人が選択できる余地を増やすことを通した救済が比較的行いやすい。そのためそのような問題に関しては差別の撲滅に注力するよりもより救済を行う方へ注力するほうが望ましいと考えている。
加えて合理性を求めるひとがいるが、およそ全て人間はバイアスを経て観測した世界に対して最も合理的な行動を常にとっている(たとえそれが周囲に人間にとって不合理に見えたとしても)。合理性は客観的なようでその人の価値判断や目的などに左右されるきわめて主観的なものである。この文章は私にとっては合理的に思えるが、読む人にとってはそうは思えないかもしれない。合理性とはきわめて主観的かつ相対的なものなのである。ただ、社会的な意味での合理性は人々の議論を通じたコンセンサスの形成によるものであるので、成熟した議論を経た後での差別の描像がはっきりとより多くの人に共有されることを望んでいる。
追記ここまで
中学受験に関しての増田を端に発した議論がはてな界隈で盛んになっている。
大方ブクマカのダブルスタンダードを批判したものであるが、そもそも差別がはてなーすべて同じ意味で使っているとは思えない。例えば公立中学に通っていたことを黒人になぞらえて批判しているエントリがあったが、肌が黒いことと公立中学に通っていたことが全く同列に扱われるべきものとは現在の社会通念に照らしてもあまり一般的な考えではないと私は考えるが、その増田にとっては同じようなものとして考えていることは明らかである。その是非はともかくとして、現状においては差別は各人それぞれによって定義されるものといって差し支えないため、さまざまな形態の区別を明示し、その日本の社会およびはてなでの受容のされ方について考えるとともに同時に私見を述べてみたい。なお、どこから差別と考えるかは各人に委ねたいと思うのでここから先ではあえて「区別」という言葉を使う事にする。加えて強調しておくが、これはあらゆる社会通念に照らして問題とされている差別を肯定するものではない。差別とは何かを考える指標としていただきたい。
これははてなーはもちろん、現在の社会通念上認められていないといって差し支えない。特に性別についてはこれを支持する判例も存在し(e.g. 最判昭和56年3月24日民集35巻2号300頁 いわゆる日産自動車事件) 、これはおそらく論ずるまでもなく明らかである。ただし憲法の私人間効力については間接適用説が主流となっているため、例えば三菱樹脂事件のような判例も存在する。ここでは憲法の議論を意図したものではないのでこれ以上は触れない。
これは最近聞かれる医療従事者への偏見にも関連している。社会的な建前としてはおそらく差別だと認定されているが、実際としては差別だとする意識が1.ほど完全に浸透しているとは言い難いところがあるだろう。おそらくはてなーに聞いてもこれは差別だと(それが建前であっても)答えると思う。なお、実際にHIVについては陽性者に対し無断で検査を行い陽性だったことを理由に解雇した事件についてはその解雇が無効であるとした判例も存在する(千葉地判平成12年6月12日労働判例785号10頁)。
このあたりから判断が難しい。現在、社会的に定年制は受け入れられている(是正しようとの動きもあるが)ため、年齢”差別”という言葉が社会的にまだ受け入れられていない可能性は高く、受け入れられるにしても近い未来ではないだろう。おそらくはてなーでもこのあたりから認識が分かれ始めると思う。以前あった私立医科大学が女子生徒と多浪生を意図的に排除していた問題にあってはこれを問題視する風潮がはてなにはあったのは覚えている方は多いと思うが、定年制への問題視はあまりなかったように思える(これは自分の印象)。なお、判例においては定年制は公序良俗には反するとは言えないとの判例が出ている(東京地判平成6年9月29日判時1509号3頁)。
これは今渦中にある問題である。実際として就活においてはいわゆる学歴フィルターは存在しないと断定することはできず、存在するものと考えるべきだろう。しかも厚生労働省のガイドライン(https://www.mhlw.go.jp/www2/topics/topics/saiyo/saiyo1.htm)にも採用の可否を決める要素となってはならない項目の中に大学名・学校名に該当する項目は存在しない。少なくとも採用の場においては大学名のみによる扱いの差を設けることは認められているといって差し支えないだろう。私の周りを見渡しても実際学校の評判とそこへ通っている生徒への評価が関連づけて語られることも多く、私的な場においてもこれがタブーとされているとは到底言えないであろう。実際はてなーでも公立中学を「動物園」とまで評する向きもあることからそこまでのタブー視もはてなーの中にはないと言える。
いわゆる「オタク差別」などを念頭にしたものである。これを例にとると過去には東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件などに端を発したいわゆるオタクへの偏見があった(が、現在の社会では薄いものとなってきていると私は感じており、マクロな視点に立つならそもそも区別が存在しなくなってきているのではないかと考えている)。これの社会的な受容を考えてみる。個人のミクロな視点にたつならそういった嗜好を理由にハラスメントを受けた例はあるだろう。ただ、それは嗜好を理由にしたハラスメントが問題とされるのではなく、そのハラスメント自体が問題とされる(ことが多い)ため、おそらく社会的な問題視はあまりないであろう。ただ、そもそも属性による区別はその属性をもつ者がある一定程度存在しないと成立しないものである(その嗜好を持つ人が単独ないし少人数でしか観測されなければ単なる変人として扱われるだけで、それは区別とはよべない)ため、嗜好による区別に接する機会がすくなく、議論の俎上に上がるレベルにすら到達していないかもしれない。これはぜひ読んだ方に該当する例とその社会への受容のされ方を考えていただきたい。
と思いつくものを上げてみた。どれが差別に当たるかは皆さんに考えて、議論していただきたい。正解は存在しない。なお、私の中での差別の定義は「絶対に選択不可能な属性・事実に基づいて行われる区別」と考えている。これに立脚するなら1-3までが差別に該当し、私は公立中学に関して「動物園」と評するなど、悪い評価を与えるものについては差別的表現ではないと考えている。なぜなら公立中学に進むかの選択は自由意志に基づくものである(経済的な事情などにより私立への進学は到底不可能な方がいるのは重々承知している。その実態はともかく)からだ。ただ、その表現は褒められたものではないのは確かで、やはりひどい公立中学の現状があるのだとしてもそれへの是正措置に関する言及があるべきだっただろう。つまりこれは差別の問題として扱うのではなく、公的な機関からの財政的支援などによる学習の機会均等や学習環境の改善の問題に還元されるべきである。これを差別であるからと現状への批判を封じるのは実態への改善の議論を封じることになり、好ましくないと考えている。ただ、度を過ぎた中傷は理由の如何を問わず控えられるべきであることは注記しておく。
また、学歴の問題は、生来変更不可能なものではないのでこれもまた差別ではないと考えている。ただ、大学の再入学を経た後の不利な扱いは年齢差別として問題視されるべきだとも考えている。年齢への差別に関してはこれを問題視し、排除へと議論がより進むことを期待したい。
ここまで様々な属性への区別について述べてきたが、おそらくそれぞれの考える差別があったことだろう。ただ、差別の問題を考える際に忘れてはならないのはそこへの是正措置である。公立中学の問題に関してもそれを差別であるからと議論の提示を封じるのではなく、ではそこにどのような是正措置が行えるだろうかと考えてもらいたいのである。なぜなら本来の理想の状態であれば誰でも自由にその中学に行くか選択できるから、そのような偏見など生じないからである。偏見や差別は現在の不完全から生まれる。差別の問題はセンセーショナルになりがちで議論している双方が異なる差別の概念を持っており、話がかみ合わないという事はありふれたことである。そうなりそうなときには一度立ち止まって双方が差別の概念を共有するよう歩み寄ってもらいたい。以前として世界にはびこる差別への問題提起および是正のきっかけとなればうれしく思う。
某いくみ先生も、某よいこ先生も、某ペコ先生も、漫画は大好きなのだが、最近フェミニズム的なバズり方「しか」していないのが気になる。
私は作家の思想と作品は切り分けられるし、この作家たちの作品も今後読むと思う。なぜなら作品は好きだから。
だから別にTwitterで政治的発言をすることも気にならない。
フェミニズムを身につけることもいいと思う。作品に深みが出ることだってある。
でも、漫画でバズらないのに思想ではバズるとなると気になってくる。
好きな作家が注目されるのは嬉しい。でもやはり、作品で注目されてほしいのだ。
漫画描いてるかどうか関係ない強い言葉で注目されると、作品以外のところでアンチがつく。
私はそれが辛い。
でも多分思想が合わないと思ったアンチは作品を読まないだろう。
それが辛い。
作者の思想で素晴らしい作品がフィルターをかけて読まれる・もしくはそもそも読まれないことになっていくのが悲しい。
作家自身は、自分の発言でアンチが増えることも受け入れているのだろう。
「こんなことで読まなくなる人間はそもそも私の客ではない」それはそうだ。正しい。
でも見ていて悲しい。
https://anond.hatelabo.jp/20201118040213
覚えてる人はいるかもしれないが前にも書いてここで多少話題になりついこの前に某まとめサイトにも載った
まあまあ好き放題書いてくれるな
ここはまだ多少ちゃんと読んでるやつらがいた感じだがまとめサイトの方は本当にひどい ソース元とか確認しないんだな
凄い多かったのが見たくないものなら見なければいいのに
うん本当ソース元ちゃんと見て そのまとめサイトに載ってる太字だけ読んで判断する癖やめよう だから馬鹿って言われるんだよ
まあとうに読解力がなくなっていて数行以上書かれているものは鳥頭なので理解できないだけなのかもしれないが
いや今回はわざわざそんなことを言いたくてまた日記を書いたわけじゃない
Vtuberをやってるユニットが急遽ガワをはいで実写になり出産を発表したという話だ
俺が言いたいのはVtuberが出産!?許さんぞ!とかそういう話じゃない
お前らの反応だ
俺が目に見えてる範囲内だが元々ガチ恋いない奴らだったしとかこれで文句言ってるやつは童貞とかまあおめでとうとかそんなところだ
あのさあ(肩ポン) 嘘つくなって 強がるなよ
最初から実写でそれこそリア充向け陽キャウェーイってやってるようなyoutuberが出産したときにおめでとうみたいな祝福コメントが付くのはまあ分かる
でもお前らはなんだ?雑談ゲーム底辺youtuberでもやらないような企画をやってるやつらをわざわざ二次元というフィルターを通して見てるんだろ?
あのさあそんな奴らがいきなり実写になるどころか出産の話なんてそれ相応に戸惑うはずだし中には怒り心頭な奴もいるだろ
それを強がって何?出産おめでとう やめろやめろつまらない見栄を張るのは
何か技術的なものを持っていて自分にはプライドがある立派なことだ ぜひそのままでいて欲しい
お前らのプライド?今すぐその辺のゴミ箱に捨てろ一円の価値にもなりゃしねえ
一部twitterでガチの怒り心頭の声がまとめられて多くの奴にバカにされRT俺のタイムラインにも回ってきたが心情としては理解できる
そりゃそうでしょ
ガチ恋してた方としては毎日見てコメントして投げ銭して応援してた娘がいきなり交際結婚というハードル全て飛び越えての出産発表だ
お、おめでとうと戸惑いガチになりながらのお祝いコメントが精々だろう
多分ここまで言って理解できてない奴らもいるだろう
俺が推してる子は違うとかそのあたりだろう
あのさあ・・・一緒だよ 同じ人間だよ?その同じ人間に彼氏彼女がいないという押し付けはあまりにも酷じゃないか?
言い過ぎかもしれんが子供をあやしながらとか彼氏彼女とイチャイチャしながら放送とかそういうのも全然あり得るだろう
結論:生きづらさは
A:能力の欠如
と
B:認知の歪み
の2種に大別でき、どちらも構造的に本質的な解決が非常に困難であるため生きづらさが継続してしまう。
Aは失敗が定型・定常化しやすいため実は比較的、サポートしやすい。
Bは失敗が定型・定常化されづらい(うまくいくときといかない時があったり、環境や状況で都度変則的なバグを出す)ため、サポートしにくく、解決にとてつもない時間とリソースがかかる。
ーーー
1:会社勤めも割と苦じゃなく年収も人並みにあるし、2:恋愛のパートナーや親しい友人を作るのもわりと容易にできる。
で、人生で「生きづらい(と自認している)人」からその2つについて相談を受けるので答えているが解決に至らない。
自分は再現性があると考えられる情報を伝えるのが個人的に好きなので一生懸命伝えて行動してもらうが、10年レベルで支援しても解決しない。
どうやら生きづらい人は「生きづらさを固定化するなんらかの要因」を抱えているようだ、と色々な人を見て考えていくうちに2種類の生きづらさに大別できると考えるようになった。
一つ目は、
A:能力の欠如
先天的もしくは後天的に、身体or精神のうち何らかの能力が欠如している。どちらも健常者であればある程度訓練で向上させられるが、伸びが悪いか全く伸びないため生きづらさが固定化される。
解決策としては欠如した能力でも十分か、もしくは評価の対象にならない領域を探すこと。
身体欠損があるならデスクワークにするとか、病的に忘れっぽくても一切気にしないパートナーを探す、など。
2種類の生きづらさのうち第三者からでも割と容易に認識しやすく、失敗も定型・定常化しやすいため実は比較的、サポートしやすい方である。
B:認知の歪み
幼少期の家庭環境によって健康的な愛情を与えられず、ゆがんだ形でしか愛情を受け取れない、与えられないため、良い人間関係を形成できない状態だ。
例えば両親からネグレクトされ、非常に不安な状態で幼少期を過ごすと、不安であることが心のニュートラルポジションになってしまう。
劣悪な環境で生き延びるために「「あんたなんかいない方がいい、さっさといなくなれ」という言葉を通して愛を確かめようとする」ような、いびつなインプットアウトプットを何万回と繰り返し、ゆがんだ思考回路を獲得しており、大人になってもインプットとアウトプットがゆがんだフィルターを通して行われるため、どれだけ周囲から適切な愛情や改善策を与えられてもそれをうまく取り入れたり、行動に移すことができないため生きづらさが固定化されてしまう。幸運にも結婚して子供ができても、「愛されること=ネグレクトすること」という前提があるため子供に親にされたことと同じことをしてしまいまた生きづらくなる。(「自分の子供を愛しているからネグレクトしない」を実行すると、「自分は愛されていなかったらネグレクトされていた」を受け入れなくてはならず、強烈な葛藤が生まれる)
もし、ゆがんだフィルターをかいくぐって正しいインプットを認識したとしても、不安でない状態から逸脱すると非常に疲れたり、より強度の高い不安を感じてしまうため、不安が継続できる状態を維持しようと(意識的、無意識的のどちらかかあるいは両方で)行動してしまう。
この認知の歪みパターンは、まず第三者から認識しにくい。一緒に仕事をしたり時間を過ごすうちに「あれ?」が重なっていきフェードアウトした方がよい人扱いされていく。
インプットとアウトプットが複雑に歪んでいるため失敗が定型・定常化されづらい(うまくいくときといかない時があったり、環境や状況で都度変則的なバグを出す)ため、サポートしにくい。
本人もいびつな思考回路を変えたいと思ってはいるが、仮に本質的な解決策が見出せたとしても、それは心のニュートラルポジションを変えるということになり相当の精神的な痛みが必要で、本人が【生きながらにして】生まれ変わるくらいの覚悟が必要である。
ーー
実際にはAとBの中に無数の差分があって、さらにAはBを誘引しやすく、見分けがつきにくい。
生きづらくない人が「生きづらい人」ともし関わりたい、関わらざるをえない状況にあるとしたら、まずAとBのどちらの生きづらさかを考えてみてほしい。
Aの場合は失敗が定型化されやすいという特徴があるため、それをシステムで自動化したり、別の者に担当させたり、評価の対象に入れないことでするっと解決できたりする。
問題はBの場合で、こちらは解決策が見出しにくく、生きづらくない人からすると「何でこんな簡単なことができない?」と思い何度も矯正しようと試みるが、当事者からすると強烈な負荷になっており、心のニュートラルポジションの変更を迫られるため全人格をかけて反抗してくるので、最悪取り返しがつかない関係になってしまったりする。
(心のニュートラルポジションを変える辛さを例えるなら、あなたが「今日からあなたが出会う初対面の人全員の顔面を、全力で殴らなくてはならない」という生き方を受け入れる、くらいの難易度だと考えるとわかりやすい)
なので「これはBだな」と思ったら、解決することはいったん【保留】すること。本人がいちばん悩んでいるものなので、本人にとって向き合うときがきたら勝手に解決される。
どうしても解決したくなったら、「人にはそれぞれ、自分自身を救う力があるのだ。成長のチャンスを取り上げてはいけない」と自分に言い聞かせて、態度を保留するように。
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「いや、保留してたら仕事(恋人)として破綻するんだよ!!今すぐ何とかする方法を教えろや!!」とお考えになったあなたは、残念ですがあなたから関係を切り離すか、その権限がないなら相手の過失によって向こうが離れていく日を待つしかありません。この構造をなんとなく思い返していただいて、その人の怠慢だけが原因ではないのだ、彼(彼女)はこの社会の病理を背負って必死に生きているのだ、と思って怒りや悲しみを和らげつつ、なんとかして保留のリソースを確保してもらえたらと思います。
10代の頃はちょうど日本が中韓との関係が悪化しだしたころで、慰安婦問題竹島問題尖閣問題に怒りを感じて、右翼寄りだった。この頃が愛国心も一番強かった。日本は偉大な国だと本気で思ってたし、だからこそ技術力が年々落ちていくのに本気で怒りを感じてた。
ただ、高校の同級生の過激な言動(李って名前のやつの前で平気で朝鮮人がどうの言ったり)を見て引いてそこからノンポリ気味になった。
大学入って教養を深めていく中で、それこそ女性の権利やマイノリティの問題、移民問題とかの議論もしっかりできる程度には幅ができた。理系だが社会学や倫理学はかなり勉強したし、海外の友人もたくさんできて国際交流、国際協調の大切さも実感した。一方で、この頃は日本の人権意識の低さや労働生産性の低さを嘆いたりする、いわゆる海外かぶれと揶揄されるようなリベラルをやっていた気がする。
就職してエンジニアとして非常に恵まれた環境で働くようになってから、少なくとも自分の周囲は豊かで何不自由ない世界になってしまった。僕がさんざん共感していたはずの社会の生きにくさは途端に無関係なものになってしまい、大学時代あれほどさんざん議論した社会問題も一気にどうでも良くなってしまった。
これが高級フィルターバブルの内部だという事実は認識していて、Twitterなどで出来るだけ色んな声を聞こうと情報収集してたが、それも疲れてしまった。
正直、格差の向こう側の人々の暮らしを見聞きしてもどうとも思わなくなってしまった。
勿論、僕は技術にコミットしているし、世界をより良くすることに貢献をしている自負はある。
でも昔抱いていた「社会を変えるぞ」という熱量は薄れてしまった。
結婚、子育てとなったらまた見方が変わるのかもしれないが、所詮自分は豊かな環境を与えられた途端に自分本位になる程度の人間だった、というのは少し悲しい。大学生の時は、大学に通えてる時点で豊かでそれを認識してない奴が多すぎる、なんて嘆いてたのにね。
シリコンバレーの連中とかも同じような感じなんだろうな、きっと。