はてなキーワード: コメディアンとは
志村けんが死んでみんな大騒ぎしてるけど、「お笑い業界(というか芸能界)における多大な損失」というのもさることながら、「70歳以上でヘビースモーカー(その後禁煙したとしても)とか飲み歩くのが大好き」というのは極めてリスキーだということを改めて知らしめたというのが一番の功績ではないだろうか。
小池百合子のコメントを見て、「相変わらず政治家のくせに言葉選びが下手だ」とは思ったけど、珍しく本質をついたことを言ったように思う。今まで医学関係者をはじめとする専門家がいくら口を酸っぱくして警告しても言うことを聞かなかった70代以上の高齢者が、ようやく自分がハイリスク群に属することに気付き、不摂生な生活をしたり、気楽に子どもや孫に「実家に帰っておいで」と言ったりしてはいけないと認識するようになったのではないかと思う。
話は変わるけど、池江璃花子が白血病になったことをカミングアウトした途端、骨髄バンクへの関心が高まったように、人気のある有名人に不幸が降りかかると、突然その対応策に皆が目覚める現金さに呆れたのを思い出した。ついこの間まで朝ドラで白血病ネタをやっていたので、スカーレットファンや伊藤健太郎ファンは多少興味を持ったかも知れないけど、死んだのはあくまでドラマの主人公のモデルになった人の息子さんであって、リアル伊藤健太郎はぴんぴんしてるんだからみんなすぐに忘れると思う。
こういう例えが良いのか分からないけど、志村けんの影響力は厚生労働省やら感染症と現に闘っている医療関係者の訴えよりも大きな力を持ってしまうのだなと思うと日本人ってアホだなと思ってしまう。
念のため書いておくと特に志村けんに恨みはないし、私は「8時だよ全員集合!」をリアルタイムで見て育った世代だ。ただ、芸能界にとって志村けんの死が損失だというのはともかく、感染症をこれ以上広めないようにと必死で努力しているプロフェッショナルの努力より、一人のコメディアンの死が人々の心を動かしてしまうのは良し悪しだと思う。
70歳超えた死にやすい爺さんが飲み歩いてて死んだだけだろ。
死にたいって言いながら死んだんだから、本望ってもんだろうよ。
死にたくねぇなら、正しく恐れて、それなりの備えをしろって言われてんのに
それを舐め切ってやらないから、老人にとっては致死率の高い病気で死んだだけだな。
コメディアンらしく、見えてる地雷を踏みぬくボケをかまして死んだだけ。愚かで間抜けだよ。
今もたいして恐怖を感じてない爺さん、婆さんに、舐めてると死ぬぞ、お前らから死ぬ病気だぞ。
大丈夫、大丈夫、死ぬときは死ぬんだから、なんて斜に構えてると、あっという間に死ぬぞ。
って教えてくれたと思えば、有意義な死ってもんだな。
俺も両親に「おとなしくしてないと死ぬぞ」と言い含めることが出来て助かったよ。
「ばかもん、この状況で飲みに行く奴があるか。自業自得だ。」ってな。
【速報 JUST IN 】コメディアンの志村けんさん死去 新型コロナ感染で肺炎発症 #nhk_news https://t.co/SkK4h89YvD— NHKニュース (@nhk_news) March 30, 2020
https://quickcms.century.yokohama/?liberal01
https://quickcms.century.yokohama/?liberal02
読んでいて割と同意できる点も多い。
恐らく元リベラル支持層だった人ほど納得でき、現在のフェミニストやポリコレに加担するリベラル層ほど図星を突かれ怒りだす様な内容だろう。
視野の欠如の部分は本気で同意できる部分であり、現在のリベラルが支持者議員問わず視野狭窄に陥っているからこそ、空気が読めない、保守系支持者にすらお花畑と言われる様な言動や政策を発言したりする様な事をするのだろう。
そしてこの他者を見下していると言う潜在意識はそれこそ先鋭化しきったリベラル層がフェミニストやポリコレと組んでオタクバッシングを繰り広げる行動にも表れていると考える。
結果更なる先鋭化を招き、それが要因で更に視野狭窄に陥り、中間層はおろか本来のリベラル層離れを招き、オタクに限らず、その他大勢の人間まで完全に敵に回す事になる。
そして当人達はそれに気づく事はない。
その一例として挙げれば少し前、いや現在進行形で話題になっている赤十字の件やJAの件である。
こちらの一件ではオタクやオタク以外の一般人以外にも医療従事者や農家と言う敵に回すと普通にヤバいとしか言えない様な割と笑えない層まで敵に回してしまっている。
選挙目線で考えれば、致命傷と言うしかない自壊しか伴わない行動を行ってしまっている。
https://togetter.com/li/1452171
そしてイギリスでも労働党の支持者のコメディアンがその主力層である労働者を馬鹿にして見下している。
この国民を舐めきっている態度こそ現在リベラルが抱える病の一端とも言える。
何より日本においても昨今のリベラルの支持者の傾向を見ていると他者を見下すが故に問題行動への同調をしてしまっていると考える。
また私自身としてはこのイギリスにおいての労働党の退廃はEUの案件よりも寧ろ指摘されている様に労働者視点の長期的な政策に欠けている事の方が要因として大きいと考える。
またポリコレやフェミニスト等の弱者の権利を自身の思想に利用する集団のお気持ちにばかり配慮した点やこれ等の団体が規制ばかり推し進めた事に反発したのも理由としてあると考える。
イギリスにしてもジェンダー関連や子供を理由に過剰な規制が進められていたし、労働党に関してはそれこそ動物愛護における捕鯨関連や蟹を生きたまま茹でる事は禁止と言う一般人から見れば狂気の沙汰としか思えない公約まで含まれていたので、その事も一般人の反発を招いた要因の一つではないかと普通に考える。
要はリベラルが理想論ばかり繰り広げ、その結果世間に対して平等や人権を盾に規制を押し付ける様になる等し、それに対して世間は疲れを感じ、支持層すら離れたのは事実ではないかと考える。
また個人的にはもうリベラルはここまで先鋭化をし、動脈硬化に陥った以上もはや手遅れと思っている。
共産党にしろ立憲民主党にしろ政党のスタンス等には関係なく、そのフェミニスト等の問題行動に議員が同調し、ツイッターで空気を読まない発言をし、水面下で自身の気に食わない人物に対して嫌がらせをしている節があるのは事実なのだ。
これはもはや一度壊滅及び消滅しない限り本来の趣旨に戻る事もないだろう。
寧ろリベラルと言う存在そのものが失敗そのものであったのかもしれない。
これ等の事から現状を見る限り自浄作用が働いていないのは見て取れるし、注意をする人達はもはやとっくに離れ、リベラルそのものが見放した後の状態であるとしか言いようがない。
もはや彼等が変わる事はないだろう。
それに共産の固定票にしても昨今は減少傾向みたいだし、左派及びリベラル自体世間から排除されつつあると考える。
また何より選挙においても世間の人間の評価が、自民に対して決して良いわけではないし、寧ろ消費増税や規制問題等で悪化しつつあり、尚且つ失策も多く、政策自体も信者以外良いとも思っていない上に日本経済も壊滅しつつある現状においてもそのカウンターの政党であるリベラル政党自体の支持率は低下し続け、更に選挙自体の投票率が下がり続け、結果リベラルや左派が勝てなくなっている事はそのリベラル自体世間から嫌悪されている証拠そのものである。
彼らは日本のコメディアンです。そして、この歌は、日本が深刻な経済不況にあった2001年にリリースされました。当時、日本の失業率と自殺率は非常に高かった。そして、日本人は非常に落ち込んでいた。
それで、これらのコメディアンは彼らに力を与えることに決めました。そして、これが結果です。
この歌がリリースされた後、日本人は力を得て、日本の自殺率は劇的に低下しました。
この歌の主題は単純です。 「あなたは人生で傷ついていますが、あなたが毎日眠り、目覚めるのが得意であれば、あなたはあなた自身の人生の勝者です。そして、あなたは裸で、葉を一枚だけ着ていますが、あなたが人生をしっかりと生きていればあなたは勝者です」
2019年に印象を残った映画を上げるなら、僕は天気の子とジョーカーを上げるだろう。どちらも大ヒットをした作品で、どちらも非常に「似た要素」を持つ作品だ。
新海誠の作品は前回の君の名はの時も、非常に似た要素を持つシンゴジラがヒットした。新海誠の作品は、どうも数奇な運命作品に巡り合うらしい。
天気の子とジョーカー、どちらも公開時期は近いから、どちらかがどちらを参考にしたという事も無い。
「都会で、周りの人にぞんざいに扱われる」「銃を手に入れ、物語を動かす狂言回しとして存在する」「どちらも既存の正しさに異を唱える作品」
これらの共通点は、単に箇条書きマジックか、偶然だろうか。僕はそうではないと思う。
新海誠も、トッドフィリップスも、どちらも現代社会を描いた結果導かれた必然ではないかと思う。
しかしながらそのような大きな共通点がありつつも、その結果と印象は全く異なる。
トッドフィリップスはジョーカーを「人の温かさを描いた作品だ」と言った。社会的な思想だとあえて言わなかった。
先ほど内容とモチーフが似通っていると言ったが、実はその共通点の中に、二つの物語の差異が存在する。それはまさしく、「人の温かさ」なのだ。
・都会での周囲の人の暴力
風俗店の経営者と聞くと、多くの人は「ちょっと怖い」とか「金持ちそう」とか「褒められたものではない職業」と思うだろう。
これは天気の子の主人公が都会や社会に対して抱いていた感情と似たものがある。
ジョーカーでは、その役割を看板を壊した褒められた存在ではない不良、新卒サラリーに抱くちょっと怖く金持ちそうという存在に負わせている。
天気の子の須賀は主人公を体のいいコマとして使うが、同時に役目と居場所を与えている。
ジョーカーではその役目を、ピエロを雇う事務所と、精神科医が担う。ピエロであることで、役目を与え、向精神薬によって居場所を与えているのだ。
そして周囲の人の中に居た女性は、自分の事を気にかけている、までは一緒だったが、ジョーカーではそれは妄想だった。
ジョーカーの母親は妄想にしか目を向けておらず、誰もジョーカーの事を見ていない。
天気の子の主人公は猫に自分を重ねて助ける優しさを持っていた。
ジョーカーも、幼少期のバットマンの寂しげな顔に自分を重ね、笑わそうとする優しさを持っていたのだ。が。
・『銃』という存在
この銃は、両映画にとって「社会にとっては間違っている、主人公の正しさ」を象徴するアイテムだ。
二人が銃を手にした理由は違えど、持ち続ける理由は、同じだ。片方は風俗店の経営者に暴力(足掛け)をされたこと。もう片方は、不良に襲われた事。
しかし、その銃を持った結果には差異が存在する。「銃を見た人の対処」そして「誰に向けたか」だ。
天気の子では、主人公銃をヒロインの前で撃った。標準を「自分を拒絶する社会」としての風俗店店員に定め、しかし恐怖か迷いかで弾は逸れる。
ヒロインは一回それを拒絶するも、主人公が家出して不安に感じたことを理解した上、それを許容する。
ジョーカーでは、銃を小児病院で落とす。しかしそれに対して社会や人々は、ジョーカーが銃を持った理由を理解しようとせず、拒絶した。
ジョーカーは部屋で銃を持ち踊る時、自分の世界の象徴である母親の椅子に向けて標準を合わせている。結局ジョーカーはその正しさの行き場を失い、自己に閉じ込め、
電車のシーンでは「自分を拒絶する社会」としての新卒サラリーに迷わず発砲する。
天気の子では、あくまで向けるだけで発砲しない。自分の都合の良いように女の子を使って、いなくなっても気にせずに呑気に笑ってる人に対して、脅しとして使う。
主人公にとって世界は「自分を拒絶する社会」ではなくなっていた。主人公も同時に社会を拒絶していた事に気付いて、優しさに触れた。
「女の子一人を見捨てる社会」に対して銃を向けていたのだ。かつて自分がそうなりそうな時に拾ってくれ、見捨てずに愛を教えてくれた一人の女の子に対し、同じことをしたのだ。
ジョーカーはその銃で、「男一人を見捨てる社会」の象徴であるコメディアンを撃つ。自分への愛などないと教えてくれた一人の男に対し、同じことをした。
・『正しさに異を唱える』
天気の子では、兎に角「正しさ」に対して異を唱えている。神社で言われた、「現代の人の考える正しさなど、1000年スパンで考えればないも同じもの」という趣旨のセリフ。
最後のマンションのシーンでも、「昔は海に沈んでいた場所が、あるべき姿に戻ったのかも」というセリフ。正しさというものが絶対的なものとして語られがちな現在に対する批判である。
そして極めつけは、最後の主人公の「天気なんて狂ったままでいい。青空よりも、陽菜がいい」というセリフ。主人公にとっての正しさを「選び取る」セリフだ。
新海誠も「選び取る」事に対して、意識して制作したと言っている。
ジョーカーは「正しさ」を雄弁に語るテレビの向こうの人物を見て笑う。ジョーカーは誰も自分を見てくれず、平気で見捨てる社会に銃を向ける。明らかに世界は狂っているのに、その世界は自分をことごとく無視する。
薬を辞めて、あるべき姿に戻ったことを感じる。正しさの無い世界で、正しさなんて自分で決めていいんだと気付くのだ。「正義なんて自分で決めたっていい」という、主人公にとっての正しさを選び取る。
天気の子もジョーカーも、暴力に遭いつつも、主人公は誰かを見捨てない優しさを持ち、社会から自分を守る銃を持ち、その銃で正しさを行使し、既存の正しさに異を唱えた。
しかしジョーカーの場合は、誰もジョーカーを見ず、助けず、愛など与えなかった。結果的に優しさは失い、銃は社会を襲い、誰かを救うためにその力を使えなかった。
天気の子は現代社会で愛を描くことで愛を表現し、ジョーカーは愛を絵が描かない事で愛を表現した。
愛を与えればいい、そう結論付けるのは簡単だが、僕たちはまだ犯罪を犯してない、
だが金がマックで寝る男を、精神障害を持ち銃を落とす男に優しさを向ける事が出来るだろうか。
少なくとも、優しさを与えないのなら、ちゃんとその道を選んだ覚悟と認識を持ちたい。
そう考えた雨の降る夜であった。
「スピン」とはもともと世論誘導や偏向報道のことを指しますが、日本では特に「政府にとって都合が悪い問題から世間の目を逸らすために芸能人の逮捕などをする」という意味で広まっています。
ちなみに民主党政権のころには、民主党が「スピン」をかけていると糾弾されることもあったので、ウヨク・サヨクはあまり関係がなく、とにかく政府やマスコミを信用しない人間が使うということですね。
薬物問題は、逮捕の時期をあるていどコントロールできる(と思われている)ので、スピン報道の疑惑がかけられやすいです。
(実際には薬物の所持・使用は現行犯で逮捕しなければならないので慎重に狙う必要があるらしいですが)
以下は2015年以降の主な政治問題と主な薬物逮捕の年表です。
(主観だけど)特に話題になったかなーという事件は太字にしました。
これを見て「やっぱり狙ってるじゃないか」と思うか「やっぱり関係ないじゃん」と思うかはあなた次第だ!
宇崎ちゃんこらぼの玉音放送に臥薪嘗胆を誓うものもいれば、負けを認めないのもいて、まあ正直メシウマだな。
叶姉妹がどうのこうの、ってやっぱりオタクはリアルとフィクションの区別つかないの?
オタクに偏見を抱いてる単なる差別主義者とか腹痛いわ、「オタク趣味が浸透した世の中」なら僕ちゃんの大好きなエロい物も受け入れてくれるってまじ思ってるの?正直さ、いい加減「現 実 を 見 ろ」
美術館とかマジ受ける、コメディアンの才能あるよ。クローズな場所で展示されてるのに「広く公開されている」?そもそも日本語理解できてる?
他のコラボにも難癖って、あのさ?オタク君たち、このてのオタクカルチャーとコラボなんてどれくらいあると思ってるの?年間10や20じゃないよ。
で、炎上してるのは何個ある?本当にフェミが騒ぐから炎上してるって理解してるの?君の現実把握能力やばくない?敵をしらず、己も知らずだとどうなるか知ってる?
『ジョーカー』の感想みるとどいつもこいつもアーサーについて語ってるけど
『ジョーカー』はアーサーの映画じゃなくて「ジョーカー」の映画だぞ
ダークナイトで言ったらビギンズ(の前半1時間くらいまで)の物語だ
社会の分断がどうのこうのとか
そんな要素はこの映画のメインである「ジョーカー誕生」を彩る「スパイス」程度のものなの
アーサーの一番の不幸は虐待されてたことでも、精神疾患があることでも、貧乏なことでもない
世界で最も有名なサイコパスの一人であるジョーカーのくせに普通の世界で生きようとしてしまっていたことだろ
この映画はドラゴンボールに例えるなら何をやっても上手く行かないコンビニバイトのベジータが、いろいろあって「俺は誇り高きサイヤ人の王子ベジータ様だ!」と覚醒するまでの物語なわけ
あのベジータがコンビニバイトで人生ハッピーになるか?ならねーだろ(意外となるかもしれんが)。ベジータはサイヤ人の王子として輝く人物だ。
それと同じで「あのジョーカー」が母親の介護をしながらコメディアンを夢見る心優しき青年アーサーとして幸せな人生歩めるはずがないんだよ
因果が逆なんだよ
アーサーにいろんな不幸が積み重なってジョーカーになったんじゃなくて
ジョーカーのくせにアーサーでいようとしたから生きるのマジつら…ってなっちゃってるの
アーサーの数々の不幸はジョーカー爆誕までのなが~い「溜め」なの
最初に例えで出したバットマンビギンズでトーマス・ウェインが言ってただろ
「人が落ちるのは這い上がるためだ」って
「アーサーがジョーカーになるまでの物語」じゃなくて「ジョーカーがアーサーだった頃の物語」として観ればすげえシンプルで面白い
ラストシーンで最大のライバルの存在を匂わせるとこなんかもそっくりだよね
まあ次回作はないだろうけどさ
片親だが親からはとても愛されてきたし家族仲は良好。友だちも多くはないがいるし異性にもそれなりに相手にされる。仕事もべつに嫌ではない。自己肯定感が高く楽観的であるため生きづらいと感じたことはほぼない。「あ、この人から明らかに見下されているな」と感じることはたまにある。一部の男性から非常識な扱いを受けたり、性被害も時々受けるがあまり気にしない。人を嫌うことはほとんどない(見下してくる人間は好きではないが嫌うほどでもない、そういう人もいるな、くらい)。かといって歪みのない素直でまっとうな人間かといわれればそうでもなく、むしろ割とひねくれている気がする。
差別は嫌だし差別する人間になりたくないけど自分の中に差別的な感情が多少なりとも存在していることも知ってる。通勤ラッシュとかで、統合失調症と思われる人が一人で罵詈雑言を叫んでいたりすると、正直勘弁してくれと思う。その上でみんなが平等に扱われるべきだという理想も抱いている。誰にでも分け隔てなく接する心がけはしているつもり。
ジョーカーを見て、アーサーの心理や行動が理解できないというようなことはなかった。わりと的外れではない解釈をしているとも思う。でもそれはもちろん共感ではなく、知識と想像だ。「私だったらこうするのに」「こうすることも可能だったでしょ」と思うことはもちろんない。環境、人格、容姿、境遇、どれをとっても私は彼のようではないからだ。
とても辛くて悲しい気持ちになる映画だった。あれがハッピーエンドだなんて馬鹿げている。どうして、だれも、誰一人として彼に手を差し伸べる人がいなかったんだろう。コメディアンとしてバーでライブしてる時にも、きちんと自分を見てくれている人がたった一人いるだけでよかったのに。
私はアーサーのような人間を見て「かわいそうだ」と思う。心から思う。理不尽な哀れみだ。それはおそらく見下していることと同義だろう。その上心の余裕が充分にある時には、彼のような人間を「救済してあげたい」とすら思うのだ。利己的に。そして切実に。
そうだろうな、と思う。
世の中には様々な生きづらさを抱えた人がいると日々インターネットを通して知る。
生きづらい人の一部は、インターネットで「生きづらい」と叫ぶ。私は「生きづらそうだ」「かわいそうだ」「どうしたらいいんだろう」と思う。
そうした人に対しての、適切な思考、適切な行動とは、一体何を指すのだろうか。もちろん傲慢な意識を排除して彼らと接することができれば一番いいが、果たしてそんなことって可能なんだろうか。
確かにネタ元のひとつのキングオブコメディはそういう映画だけど、劇中でもその妄想オチ要素あったけど、最後までその解釈でいく奴おる?
そもそもタクシードライバーとキングオブコメディの参照はたしかだけど、実は素材は流用して全く違う事を描いてる映画だと思うが。
むしろ知ってる人間ほど、目に映る演出は同じだから読み間違うという、昔の映画の影響語りをするヤツがバカをみるように作ってると思ったが。
それを、じゃあテーマや演出意図も同じだよね、ゴッサムの暴動はアーサーの願望で……実は精神病院オチでしたーって素朴にうけとるか?
というかアーサーの願望通りの妄想が実現するならそれはコメディアンとして大ウケしてから自分の頭をぶち抜くことでは?
タクシードライバーの流用にみえて、狙ってた事はなにもうまくいかない
キングオブコメディの流用にみえて、妄想というには本人の願望と合わない
という演出だと思うんだが。いや、別にぜんぶ妄想だから凄い説も否定できないようにはなってるけど
でもそれがみたいならキングオブコメディ見りゃいいじゃん、ジョーカー見ないでいいやろ
それともそれも信頼できない語り手だからアーサーの自殺願望それ自体が後から挿入されたものって解釈でいくのか?
信頼できない語り手っていう大技に気をとられて安心しすぎでは。
そういう妄想オチならシナトラのThatsLife口ずさむか? 違う曲にするのでは?
なにが言いたいって
ちょっと信じがたい誤解釈というか、ほとんどイチャモン感のある感想があったので、ツッコミを自分のツリーに下げておく。
私は元増田だ。
この人のブログは何度か読んでいる。面白く読ませてもらっている。
その人がこんなにも偏ったというか、ほとんど被害妄想では???という感想を書いてアップしていることに、ちょっと背筋が寒くなっている。
「自分にはもっとすばらしいものが与えられるべきだったのに、そうではなかったから、自分が与えられるべきだったはずのものをもらっているやつらを燃やす」
作中で3人のエリート酔っ払いを射殺した件でニュースに出ていたトーマス・ウェインとおんなじようなこと言うてはる。
嘘やろ。あんなおもろいブログ書く人が。こんなにものが見えてへんようなこと言うものなのか。釣りか?
アーサーが父親に夢を見ているというのはある。あるが、所詮空想の範疇であって(それこそ彼の「母親」のように)病的妄想に駆られているわけではない。
後半で自分で言ってたように、彼はただ温かいハグや親しみの笑みをもって自分を受け入れてくれる存在として父親を欲しがっていただけだ。
だからランディから銃を受け取ってしまったのだ。"My son"とかなんとか言って本気で心配してるみたいなそぶりをしてくれたから。
パンフだったかWikipediaだったかによれば、あいつは実際にはものを深く考えてるように見せたいだけで大して後先考えないタイプで、
だからこそ雇い主に対してアーサーを売っちまい、のちの怨みを買うことになるのだが。
ランディといえば例の銃だが、多くのブログや記事で「小児病棟に銃を持ち込んだアーサーの自業自得」という評価を読んだ。
確かにアレはアーサーの失敗ではあったが、小児病棟に銃を持ち込むこと自体はそこまで責められることかどうか、個人的にはずっと疑問に思っている。
だって普通に通りで仕事してるだけで看板かっぱらわれて殴る蹴るされるんだぞ?
そしてその後に「自衛のため、自己防衛のため」といって銃を渡されるんだぞ?
持ち歩くのが当然だろうが。
アーサーが迂闊だったのはあの時あの場面でポロリしたことであって、
ピエロアクトを始める前にカバンにでもしまっときゃ良かったのにという一点だけだ。
そして発達の私としては、物が銃でなく場面が小児病棟でないだけで、
そういう不注意で細かいドジを踏む機会というのは日常では無数にある。
無数にあるからこそ、私は、銃で小児病棟というシチュエーションがそもそも発生しないように、
いろいろと立ち回ったり細かい工夫でしのいだりしている。
それらは今のところ実っている。
実っているが、なぜ実ったかというと、もうこんなの「運」でしかない。
そんなの私には責められない。
責められないから余計やるせないんだ。
大事なところに限ってやらかすタイプの、クビになって当然の、笑えないミス。
ああ、件の感想記事が、読み返せば読み返すほど恐ろしくて仕方がない。
ジョーカー観てきたとあるけれど、目に入ってなかったのでは?というほど誤読(誤観、か?)が多い。
アーサーはその上司を許さない。自分をあざわらう裕福な奴らも許さない。自分の「パパ」じゃなかった有名人も許さない。殺す。バッキュンバッキュンに殺す。そしてジョーカーになる。
アーサーは上司を殺していない。
殺したのは自分に銃をよこしたランディ、銃をくれたくせに我関せずで貫いてアーサーを裏切ったランディだ。
アーサーは笑われたから裕福な奴らを殺したんじゃない。
例の殴る蹴るをおっぱじめられたから殺したんだ。
そしてアーサーが殺したマーレイは、アーサーのスベり倒したライブの映像を彼に無断でテレビ放送し、更にスタジオに呼びさえした。彼を笑い者にするために。
そして、これは私の持論だが、アーサーはジョーカーになってないし、なれないだろやっぱり。あれら全てが事実なら。
「自分にはもっとすばらしいものが与えられるべきだったのに」。
そもそもアーサーに限っては、これは完全にその通りではないか?
幼少期に母親の恋人から虐待を受け、脳及び神経系に外傷を負った。
これさえなければ、もっと違ったルートもありえたんじゃないか、というのは、そんなに高望みだろうか?
アーサーは大人になった今も、日記で割としょうもない初歩スペルを誤字っている(「下ネタは、いづも、ウケる」)。
アーサーはピエロという「笑うのも仕事のうちだろう?by刑事」な仕事に就いている今でさえ、
「お前のことを嫌がる奴もいる。気味が悪いからだby冒頭のピエロ業ボス」。
ピエロのない日に別のパートタイムジョブを持つか、さもなくばフルタイムで別の仕事をして土日にコメディの舞台に立ったらいい。
他の仕事、あったんかな?
でも、ラミネートカード戻って来んかったんやで、ゴッサムでは(←確かめるためもあって2回観た)
アーサーが徹底して受動的、「りんご食って寝てる白雪姫」なのは、三分の一くらいは肯定できるが、でもやっぱり悪意ある評価に思える。
まずアーサーはマジでかなり受動的ではあって、例えばコメディアンになりたいという夢自体、母が「人を笑顔にさせる人間になりなさい」と言ったから、という以上の動機はない。
その母の台詞も、おそらく「発作」へのフォローかはたまた「発作」等々に端を発するイジメを受けたアーサーへのフォローに過ぎず、母自身アーサーがコメディアンになれるとは思ってないぽい(入浴介助時「あなた、ちゃんと人を笑わせられる?」)。
もうなんていうか、こんなの呪いに等しい。
もちろん「普通は」これを呪いとは受け取らない。呪いと呼ぶには弱すぎる。
でもアーサーは呪われてしまう、その「将来の夢」にすがってしまう。脳の外傷のせいか、アーサー自身に素質があったのか?それはわからない。
アーサーの、あの受動性。ものを判断するときや、自分でその場で考えて何かするときの、微妙な、ちょっとボンヤリとした感じ。
あれと「発作」のコンボがジョーカールートへのかなり決定的なフラグであるってのはあると思う。アーサーが状況を変えることをものすごく難しくしている。
でも、じゃあ例えば受動態人間であるってことをアーサーが自分で変えられるかっていうと、どう考えてもひとりでは無理で(能動的な生き方の受け皿どころかモデルすらない状況だもの)、というか脳外傷から来るものなら誰がいても無理で、あーこれフラグ折れんわー、ツムツムだなあ、となってしまう。みんな病気が悪いんや。病気と虐待が。
まあそれはそれとしても、アーサーは「与えられる側でなければ気が済まない」んじゃない。気が済むとか済まないの問題じゃないだろう。
そもそもあの状態で、母親の介護放り出して家出してどうする??
メシ風呂が自力不可で「みんなが言ってるって、みんなって誰さ。今日誰と会話したの?」言われるくらい孤立してる母親、
郵便ポストを見に行けない母親をひとり置き去りにしたら逮捕されない??保護者責任遺棄的なやつで。
家出したあと住むところは?
あのエレベーターのイカれたボロ家以外にどっかある??アーサーに貸してもらえる???
それと女を口説くことをそんな冒険ポイントみたいに言いなさんなよ…そういうのもう流行んないんじゃないの。
それにアーサー最大の冒険をカウントしないのはフェアじゃない。
コメディアンとして舞台に立ったじゃないか。ネタ帳携えてでも、妄想に後押しされてでも。
母の話の裏付けを取ろうと、ウェイン邸にもデモ会場の劇場にも病院にも行った(どこまで妄想かはともかく)。結構行動している。
これがアーサーをしてジョーカーに変身せしめた動機である。「すばらしいものを与えられるはずだった」というその思い込みに、根拠はない。ないが、なぜかそう思い込んでいる人はこの世にいる。たぶん一定数いる。彼らは「自分にはもっともっとすばらしいものが与えられるはずだったのに」という激しい飢えを抱え、たとえばインターネットで文章を書いているぜんぜん知らない人(私とか)に突然その怒りをぶつける。「おまえなんかが賞賛されていいはずがない」と。
もうこの辺に至っては被害妄想入ってませんかね。飛躍がすごくてどうしてそうなった、みたいな話になってるというか。
アーサーが欲しがっていた素晴らしいものというのは、大衆からの賞賛もあるが、最大のものは愛だろう。アホみたいな結論になるが。
愛。親しさ。笑われないこと。爪弾きにされないこと。受け入れられること。その象徴としての賞賛。
一応言っとくけど、「この人に怒りをぶつける人々が欲しがっているもの」が愛だといいたいのではない。そんなことは知らない。
このツリーでは基本ジョーカーあるいはアーサーの話をしているんであって、賞賛が欲しくてネットで他人に突然キレる人のことはわからない。
ああ、それにしても。
確かに、怖い。怖いですわ、これは。