はてなキーワード: コメディアンとは
『ジョーカー』の感想みるとどいつもこいつもアーサーについて語ってるけど
『ジョーカー』はアーサーの映画じゃなくて「ジョーカー」の映画だぞ
ダークナイトで言ったらビギンズ(の前半1時間くらいまで)の物語だ
社会の分断がどうのこうのとか
そんな要素はこの映画のメインである「ジョーカー誕生」を彩る「スパイス」程度のものなの
アーサーの一番の不幸は虐待されてたことでも、精神疾患があることでも、貧乏なことでもない
世界で最も有名なサイコパスの一人であるジョーカーのくせに普通の世界で生きようとしてしまっていたことだろ
この映画はドラゴンボールに例えるなら何をやっても上手く行かないコンビニバイトのベジータが、いろいろあって「俺は誇り高きサイヤ人の王子ベジータ様だ!」と覚醒するまでの物語なわけ
あのベジータがコンビニバイトで人生ハッピーになるか?ならねーだろ(意外となるかもしれんが)。ベジータはサイヤ人の王子として輝く人物だ。
それと同じで「あのジョーカー」が母親の介護をしながらコメディアンを夢見る心優しき青年アーサーとして幸せな人生歩めるはずがないんだよ
因果が逆なんだよ
アーサーにいろんな不幸が積み重なってジョーカーになったんじゃなくて
ジョーカーのくせにアーサーでいようとしたから生きるのマジつら…ってなっちゃってるの
アーサーの数々の不幸はジョーカー爆誕までのなが~い「溜め」なの
最初に例えで出したバットマンビギンズでトーマス・ウェインが言ってただろ
「人が落ちるのは這い上がるためだ」って
「アーサーがジョーカーになるまでの物語」じゃなくて「ジョーカーがアーサーだった頃の物語」として観ればすげえシンプルで面白い
ラストシーンで最大のライバルの存在を匂わせるとこなんかもそっくりだよね
まあ次回作はないだろうけどさ
片親だが親からはとても愛されてきたし家族仲は良好。友だちも多くはないがいるし異性にもそれなりに相手にされる。仕事もべつに嫌ではない。自己肯定感が高く楽観的であるため生きづらいと感じたことはほぼない。「あ、この人から明らかに見下されているな」と感じることはたまにある。一部の男性から非常識な扱いを受けたり、性被害も時々受けるがあまり気にしない。人を嫌うことはほとんどない(見下してくる人間は好きではないが嫌うほどでもない、そういう人もいるな、くらい)。かといって歪みのない素直でまっとうな人間かといわれればそうでもなく、むしろ割とひねくれている気がする。
差別は嫌だし差別する人間になりたくないけど自分の中に差別的な感情が多少なりとも存在していることも知ってる。通勤ラッシュとかで、統合失調症と思われる人が一人で罵詈雑言を叫んでいたりすると、正直勘弁してくれと思う。その上でみんなが平等に扱われるべきだという理想も抱いている。誰にでも分け隔てなく接する心がけはしているつもり。
ジョーカーを見て、アーサーの心理や行動が理解できないというようなことはなかった。わりと的外れではない解釈をしているとも思う。でもそれはもちろん共感ではなく、知識と想像だ。「私だったらこうするのに」「こうすることも可能だったでしょ」と思うことはもちろんない。環境、人格、容姿、境遇、どれをとっても私は彼のようではないからだ。
とても辛くて悲しい気持ちになる映画だった。あれがハッピーエンドだなんて馬鹿げている。どうして、だれも、誰一人として彼に手を差し伸べる人がいなかったんだろう。コメディアンとしてバーでライブしてる時にも、きちんと自分を見てくれている人がたった一人いるだけでよかったのに。
私はアーサーのような人間を見て「かわいそうだ」と思う。心から思う。理不尽な哀れみだ。それはおそらく見下していることと同義だろう。その上心の余裕が充分にある時には、彼のような人間を「救済してあげたい」とすら思うのだ。利己的に。そして切実に。
そうだろうな、と思う。
世の中には様々な生きづらさを抱えた人がいると日々インターネットを通して知る。
生きづらい人の一部は、インターネットで「生きづらい」と叫ぶ。私は「生きづらそうだ」「かわいそうだ」「どうしたらいいんだろう」と思う。
そうした人に対しての、適切な思考、適切な行動とは、一体何を指すのだろうか。もちろん傲慢な意識を排除して彼らと接することができれば一番いいが、果たしてそんなことって可能なんだろうか。
確かにネタ元のひとつのキングオブコメディはそういう映画だけど、劇中でもその妄想オチ要素あったけど、最後までその解釈でいく奴おる?
そもそもタクシードライバーとキングオブコメディの参照はたしかだけど、実は素材は流用して全く違う事を描いてる映画だと思うが。
むしろ知ってる人間ほど、目に映る演出は同じだから読み間違うという、昔の映画の影響語りをするヤツがバカをみるように作ってると思ったが。
それを、じゃあテーマや演出意図も同じだよね、ゴッサムの暴動はアーサーの願望で……実は精神病院オチでしたーって素朴にうけとるか?
というかアーサーの願望通りの妄想が実現するならそれはコメディアンとして大ウケしてから自分の頭をぶち抜くことでは?
タクシードライバーの流用にみえて、狙ってた事はなにもうまくいかない
キングオブコメディの流用にみえて、妄想というには本人の願望と合わない
という演出だと思うんだが。いや、別にぜんぶ妄想だから凄い説も否定できないようにはなってるけど
でもそれがみたいならキングオブコメディ見りゃいいじゃん、ジョーカー見ないでいいやろ
それともそれも信頼できない語り手だからアーサーの自殺願望それ自体が後から挿入されたものって解釈でいくのか?
信頼できない語り手っていう大技に気をとられて安心しすぎでは。
そういう妄想オチならシナトラのThatsLife口ずさむか? 違う曲にするのでは?
なにが言いたいって
ちょっと信じがたい誤解釈というか、ほとんどイチャモン感のある感想があったので、ツッコミを自分のツリーに下げておく。
私は元増田だ。
この人のブログは何度か読んでいる。面白く読ませてもらっている。
その人がこんなにも偏ったというか、ほとんど被害妄想では???という感想を書いてアップしていることに、ちょっと背筋が寒くなっている。
「自分にはもっとすばらしいものが与えられるべきだったのに、そうではなかったから、自分が与えられるべきだったはずのものをもらっているやつらを燃やす」
作中で3人のエリート酔っ払いを射殺した件でニュースに出ていたトーマス・ウェインとおんなじようなこと言うてはる。
嘘やろ。あんなおもろいブログ書く人が。こんなにものが見えてへんようなこと言うものなのか。釣りか?
アーサーが父親に夢を見ているというのはある。あるが、所詮空想の範疇であって(それこそ彼の「母親」のように)病的妄想に駆られているわけではない。
後半で自分で言ってたように、彼はただ温かいハグや親しみの笑みをもって自分を受け入れてくれる存在として父親を欲しがっていただけだ。
だからランディから銃を受け取ってしまったのだ。"My son"とかなんとか言って本気で心配してるみたいなそぶりをしてくれたから。
パンフだったかWikipediaだったかによれば、あいつは実際にはものを深く考えてるように見せたいだけで大して後先考えないタイプで、
だからこそ雇い主に対してアーサーを売っちまい、のちの怨みを買うことになるのだが。
ランディといえば例の銃だが、多くのブログや記事で「小児病棟に銃を持ち込んだアーサーの自業自得」という評価を読んだ。
確かにアレはアーサーの失敗ではあったが、小児病棟に銃を持ち込むこと自体はそこまで責められることかどうか、個人的にはずっと疑問に思っている。
だって普通に通りで仕事してるだけで看板かっぱらわれて殴る蹴るされるんだぞ?
そしてその後に「自衛のため、自己防衛のため」といって銃を渡されるんだぞ?
持ち歩くのが当然だろうが。
アーサーが迂闊だったのはあの時あの場面でポロリしたことであって、
ピエロアクトを始める前にカバンにでもしまっときゃ良かったのにという一点だけだ。
そして発達の私としては、物が銃でなく場面が小児病棟でないだけで、
そういう不注意で細かいドジを踏む機会というのは日常では無数にある。
無数にあるからこそ、私は、銃で小児病棟というシチュエーションがそもそも発生しないように、
いろいろと立ち回ったり細かい工夫でしのいだりしている。
それらは今のところ実っている。
実っているが、なぜ実ったかというと、もうこんなの「運」でしかない。
そんなの私には責められない。
責められないから余計やるせないんだ。
大事なところに限ってやらかすタイプの、クビになって当然の、笑えないミス。
ああ、件の感想記事が、読み返せば読み返すほど恐ろしくて仕方がない。
ジョーカー観てきたとあるけれど、目に入ってなかったのでは?というほど誤読(誤観、か?)が多い。
アーサーはその上司を許さない。自分をあざわらう裕福な奴らも許さない。自分の「パパ」じゃなかった有名人も許さない。殺す。バッキュンバッキュンに殺す。そしてジョーカーになる。
アーサーは上司を殺していない。
殺したのは自分に銃をよこしたランディ、銃をくれたくせに我関せずで貫いてアーサーを裏切ったランディだ。
アーサーは笑われたから裕福な奴らを殺したんじゃない。
例の殴る蹴るをおっぱじめられたから殺したんだ。
そしてアーサーが殺したマーレイは、アーサーのスベり倒したライブの映像を彼に無断でテレビ放送し、更にスタジオに呼びさえした。彼を笑い者にするために。
そして、これは私の持論だが、アーサーはジョーカーになってないし、なれないだろやっぱり。あれら全てが事実なら。
「自分にはもっとすばらしいものが与えられるべきだったのに」。
そもそもアーサーに限っては、これは完全にその通りではないか?
幼少期に母親の恋人から虐待を受け、脳及び神経系に外傷を負った。
これさえなければ、もっと違ったルートもありえたんじゃないか、というのは、そんなに高望みだろうか?
アーサーは大人になった今も、日記で割としょうもない初歩スペルを誤字っている(「下ネタは、いづも、ウケる」)。
アーサーはピエロという「笑うのも仕事のうちだろう?by刑事」な仕事に就いている今でさえ、
「お前のことを嫌がる奴もいる。気味が悪いからだby冒頭のピエロ業ボス」。
ピエロのない日に別のパートタイムジョブを持つか、さもなくばフルタイムで別の仕事をして土日にコメディの舞台に立ったらいい。
他の仕事、あったんかな?
でも、ラミネートカード戻って来んかったんやで、ゴッサムでは(←確かめるためもあって2回観た)
アーサーが徹底して受動的、「りんご食って寝てる白雪姫」なのは、三分の一くらいは肯定できるが、でもやっぱり悪意ある評価に思える。
まずアーサーはマジでかなり受動的ではあって、例えばコメディアンになりたいという夢自体、母が「人を笑顔にさせる人間になりなさい」と言ったから、という以上の動機はない。
その母の台詞も、おそらく「発作」へのフォローかはたまた「発作」等々に端を発するイジメを受けたアーサーへのフォローに過ぎず、母自身アーサーがコメディアンになれるとは思ってないぽい(入浴介助時「あなた、ちゃんと人を笑わせられる?」)。
もうなんていうか、こんなの呪いに等しい。
もちろん「普通は」これを呪いとは受け取らない。呪いと呼ぶには弱すぎる。
でもアーサーは呪われてしまう、その「将来の夢」にすがってしまう。脳の外傷のせいか、アーサー自身に素質があったのか?それはわからない。
アーサーの、あの受動性。ものを判断するときや、自分でその場で考えて何かするときの、微妙な、ちょっとボンヤリとした感じ。
あれと「発作」のコンボがジョーカールートへのかなり決定的なフラグであるってのはあると思う。アーサーが状況を変えることをものすごく難しくしている。
でも、じゃあ例えば受動態人間であるってことをアーサーが自分で変えられるかっていうと、どう考えてもひとりでは無理で(能動的な生き方の受け皿どころかモデルすらない状況だもの)、というか脳外傷から来るものなら誰がいても無理で、あーこれフラグ折れんわー、ツムツムだなあ、となってしまう。みんな病気が悪いんや。病気と虐待が。
まあそれはそれとしても、アーサーは「与えられる側でなければ気が済まない」んじゃない。気が済むとか済まないの問題じゃないだろう。
そもそもあの状態で、母親の介護放り出して家出してどうする??
メシ風呂が自力不可で「みんなが言ってるって、みんなって誰さ。今日誰と会話したの?」言われるくらい孤立してる母親、
郵便ポストを見に行けない母親をひとり置き去りにしたら逮捕されない??保護者責任遺棄的なやつで。
家出したあと住むところは?
あのエレベーターのイカれたボロ家以外にどっかある??アーサーに貸してもらえる???
それと女を口説くことをそんな冒険ポイントみたいに言いなさんなよ…そういうのもう流行んないんじゃないの。
それにアーサー最大の冒険をカウントしないのはフェアじゃない。
コメディアンとして舞台に立ったじゃないか。ネタ帳携えてでも、妄想に後押しされてでも。
母の話の裏付けを取ろうと、ウェイン邸にもデモ会場の劇場にも病院にも行った(どこまで妄想かはともかく)。結構行動している。
これがアーサーをしてジョーカーに変身せしめた動機である。「すばらしいものを与えられるはずだった」というその思い込みに、根拠はない。ないが、なぜかそう思い込んでいる人はこの世にいる。たぶん一定数いる。彼らは「自分にはもっともっとすばらしいものが与えられるはずだったのに」という激しい飢えを抱え、たとえばインターネットで文章を書いているぜんぜん知らない人(私とか)に突然その怒りをぶつける。「おまえなんかが賞賛されていいはずがない」と。
もうこの辺に至っては被害妄想入ってませんかね。飛躍がすごくてどうしてそうなった、みたいな話になってるというか。
アーサーが欲しがっていた素晴らしいものというのは、大衆からの賞賛もあるが、最大のものは愛だろう。アホみたいな結論になるが。
愛。親しさ。笑われないこと。爪弾きにされないこと。受け入れられること。その象徴としての賞賛。
一応言っとくけど、「この人に怒りをぶつける人々が欲しがっているもの」が愛だといいたいのではない。そんなことは知らない。
このツリーでは基本ジョーカーあるいはアーサーの話をしているんであって、賞賛が欲しくてネットで他人に突然キレる人のことはわからない。
ああ、それにしても。
確かに、怖い。怖いですわ、これは。
例えば、ものすごく良い人で会えば皆良く言うのに発言がアレな人なんてのは多い。
そして、とても明晰で仕事も確実で信頼性の高い取引先が、飲みに行くとアレな話をすることも多い。
そして、人はみなスティーブン・キング程には表現が上手ではないので、
「うわヤだな」と思ったことに後から理屈をつけて話す事が多い。少なくとも自分はそうだ。
最初に「宇崎ちゃんは遊びたい!献血ポスター」論点を明確にしよう。
DCコミックスのワンダーウーマンは、その物語がある程度北米で共有されているため、特に男性から消費される性の対象として描かれているとはみなされない。
しかし、イスラム圏のポスターにワンダーウーマンを描けば非難の対象になるだろう。
だから、「あのイラストがエロいかどうか」は、時と場合による。
つぎにB、宇崎ちゃんを好ましく見る人に届けば良い、そうでない対象外の人は見なければ良い、とする意見である。
公共のポスターであり、ゾーニングされているわけではないからだ。Bは対象外の人も見えてしまうとする方が自然だろう。
つぎにCだ。知り合いの医療従事者もこの立場だったが「血が足りないのだから手段を問うている場合ではない」。
外科医はその職責において傷害罪に問われないという点から考えても、一考の余地がある。
待ったなしの局面において、明確に違法でなければ何をしても良いと考える医療従事者は、割といる。
半裸の男性のカレンダーが、売上が慈善に繋がる場合かなり好意的に受け止められている。
つまり、公共性の高さ、公共の福祉というのは、他よりも優先度を上げるという考え方は、社会によっては有り得る。
つぎはDだ。表現の自由は、公共のポスターにも適用されうるか。
表現の不自由展は、「芸術作品の表現が、制限される」という点で問題視されていた。
宇崎ちゃんは遊びたい!が、例え半裸のポスターであっても、適切に販売されるなら検閲すべきではない。
クリムトがウィーン大学向けに描いた作品が論争を引き起こして納品されることが無かったのは有名な話だ。
ポイントは、「作品」ではなく「掲示する場所」だ。争いの余地がある。
職場にヌードポスターを貼るのは、環境型セクハラに該当する、とされる。
Aの論点において「性的なポスター」であり、Bの論点において「嫌なら見るな」は否、ならば環境型セクハラに該当するだろう。
つまり、性的か否か、対象外の人に見えるか否かが、Eの結論に影響する。
性的なポスターであっても、該当の人にだけ見えれば良いという論陣なら、やはり該当しない。
最後にFだ。環境が女性に好ましくない状況である中で、それを維持強化して良いか、である。
これは、「その環境にある、ない」か「強化するか否か明確でない」か「強化はする、強化しない」の論点がある。
強化しない、強化する、いずれも明確に証拠を提示するのは、とても困難な作業になる。
女性が男性よりも性的に消費されやすいとする証拠もまた、提示が難しい。
よってこれは、「その可能性がある」とする立場で考えるのが一番自然だ。
その場合であるときに、他の論点がどう変化するかが、論点となる。
さて、こうすると、例えば自分の立ち位置は、以下となり今回の件はOKという立場だ。
B「ゾーニングはできていない」
C「医療は許容度が高い」
これは端的に言えば「環境型セクハラで女性の不当な扱いを強化する可能性があるが、表現の自由に加えて公共の福祉(医療)の方が優先度が高い」とする立場だ。
自分は、全く同じ図案のポスターが「読書感想文全国コンクールのポスター」であればNGとする立場だ。
環境型セクハラに該当する図案の場合、表現の自由よりも子供の教育環境は優先されるべきと考える。
つまり、同じポスターも時と場合によって許容度が違うと考えている。
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さて、長い前フリを読んでくれてありがとう。
JOKERは、アーサーという中年男性が、コメディアンになる夢を追いかけ、他人から利用されるだけであることをやめ、自分の悲劇が喜劇的であることに自覚的になる、悲しい物語だ。
JOKERはそのスタッフクレジットも、全体として「喜劇」のフォーマットで作られている。軽やかな曲とともに始まり、明るく楽しげな音楽で終わる。
そしてその悲劇が、喜劇的なエンターテインメントであることを理解している。
アーサーは人を笑わせるコメディアンになりたいのであって、人から笑われるピエロであることは望んでいない。
アーサーは人からはわかりにくい障害を持っている。緊張性の発作のように、自分の意志と無関係に笑ってしまうのだ。
劇中には小人症の人物も出てくる。その特性(障害)はわかりやすい。それでもソレは笑いのネタにされる。
現代では、小人症の人物を揶揄するのは不謹慎だとされるだろう。
同様に、アーサーの症例が精神病として一般に認知されていれば、当然それについて差別したり揶揄するのは、社会的に許容されない。
社会的に許容されないというのは、そんな現実がない、ということとは明確に異なる。
たぶん、アーサーは、現代でも差別され生きにくさを感じると思う。
もちろん表立ってではないし、合法的になんの問題もない理屈の上で、差別されると思う。
アーサーがJOKERになったゴッサムシティと、宇崎ちゃんは遊びたい!献血ポスターが掲示される現代は、とても遠くて、実はすごく近い。
医療のための緊急避難だと考えている人が多ければ、たぶん遠く、
そこから更に「しこしこミニシアターに通うサブカルオタどもとクリエイターの卵たちが社会現象を引き起こす奮闘記」が加味されてたんだよ。
当時の熱狂が生んだカタルシスあって初めて100%の面白さを体験できるから、今更見ても当時絶賛された意味はもうわからないよ。
その点ある意味でブレアウィッチプロジェクトと同じなんだよなカメラを止めるな。
それからゲットアウトの話になるけどあれの脚本と監督はジョーダンピールっていう、主にコント番組に出てたコメディアン。ゲットアウトが処女作。
強引な言い方をすればビートたけしみたいなもので、映画オタ特有のロマネスクやこだわりがないかわりにエンターテインメントとしてのサービスをさりげなく仕込むのが上手い。
そんでピールは黒人だけどスノッブで白人に囲まれて育ったような複雑な人で、アメリカの黒人問題を独特な視点で捉えてる。
結果コントとして見ることが出来てとっつきやすいが、単なる娯楽作として割り切れない深刻さもある作品ができた。
映画オタの無邪気でひたむきな活動に大衆が普遍的な共感を覚えたカメ止めと、エンタメのプロが長年のノウハウからアメリカの歪みを喜劇に昇華したゲットアウトは結構対照的な作品だったと僕は思う。
まあ現実貧困だったんだろうけど、それでも「ピエロの仕事をやる」とか「謎のコメディアン集会に参加する」程度には日本の若者的な努力が出来る余地があったわけで。
ママンの介護は現実問題としてあったもののにっちもさっちもどうにもブルドッグ的な状況では無かったと思うぞ。
同じく貧困だった低能先生は九州の遺跡掘りみたいなことせずにラーメン工場でバイトしてたわけじゃん。本物の貧困って言うのはああいうことさ。
「善良な男が周囲の悪意によって追い詰められてジョーカーに…」という話だと思ったらちょっと違った。
もちろん同情の余地は大いにあるけど、好きな女をストーカーしたり、自分に都合の良い妄想に耽ったりしている生っぽいクズだ。
そして、この映画にはアーサーの「敵」として三人の人物が登場する。
しかし、彼らが本当にアーサーを追い詰めるような悪意を持っていたかというのは曖昧に描かれていたと思う。
というか多分にアーサーの被害妄想的な主観がまぶされていたのではないだろうか。
「こんなに酷い目に遭ったアーサーがジョーカーになるのは仕方ない」という同情は、そのままジョーカーが自分自身に言い聞かせていることだし、「いま俺たちが悲惨な境遇なのは悪意を持った誰かがいるからだ」というのはゴッサムシティの暴徒たちと同じ思考だとも思う。
アーサーが、周囲のせいでなく最初からジョーカーになるしかない人間だったというなら、それは「ジョーカー」という悪意の塊みたいなヴィランが下敷きになってるからだ。
あくまでこの作品はジョーカーのオリジンを描いた映画なのであって、「ジョーカーになるかもしれない現実の人間」を描いたものではないと思った。
皆、多少なりとも我慢して譲り合って生きているのだから、自分が少し人と違うからといって、声高にアピールしすぎてはかえって逆効果になるのではないでしょうか。もちろん、歴史的経緯などがあるので積極的に理解をすすめなければいけない、というのはその通りだと思いますが、とにかく平穏無事に日常を送れることが第一なのですから、敢えて人様を刺激するようなことは避ける方が懸命だと思います。
これまで散々、世の健常者を脅かしてきたLGBTさんが言えた立場かよ。
LGBTさんの悪行一覧
・↑を達成するために器物損壊
etc...
我慢もしてなければ譲ってもいないし、声高に言いたい放題言って敢えて人様を刺激するようなことばかり。
それがLGBT。
作家のマーク・トゥエインは、禁煙について書いてはいるが、このジョークを言ったというたしかな証拠はない。
コメディアンのW. C.フィールズは、1938年に「禁酒講義」というラジオ番組で、「禁煙」ではなく、「禁酒」バージョンのギャグを言っている。だが、禁酒バージョンのギャグは、これよりも前にすでに広まっていた。
最も早い事例は、1907年に、ハリス・ディクソンによって書かれた“Duke of Devil-May-Care”というタイトルの小説である。その小説には「ポーカーをやめるなんて簡単なことさ。俺はゲームが終わるたびに、1000回以上もやめているぜ」みたいなセリフがあるという。
マーク・トウェインと禁煙ジョークの関連を調べてみると、1914年に、友人のエリザベス・ウォレスという人に、禁煙をしたいという手紙を書いたらしく、そのときの手紙が「マーク・トウェインと幸せの島」というタイトルの短い伝記に書かれているが、ここで書かれているユーモアは、例の「名言」とは異なるものである。
禁酒法がまだ行われている間の1929年に、ネブラスカのオマハ・ワールド・ヘラルドという人が書いている。「ハリーは酒をやめると言うが、笑わせるぜ。酒をやめられないことなんてないぜ。なぜなら俺自身、もう100回以上も禁酒しているからな。酒をやめられるかやめられないか、これでわかるだろう」
1932年に、鉄道が刊行している“Norfolk and Western Magazine”という雑誌には、禁煙についてのジョークがある。
「車掌のキャンベルは、たばこをやめたと言った。スチュワートは言った。「たばこをやめるのは簡単だよ。私は少なくとも100回はやめているからね」」
1935年の“The American Legion Monthly”の中に、酒でトラブルを起こす製材所の従業員を、主任が解雇させようとしたという、やや長いジョークがある。
「じゃあ何で私が解雇されなきゃならないんです?」
「仕事中に酒ばかり飲んでるじゃないか。そんなことでは、人も殺しかねないぞ」
「それならわかりました。なに、お酒をやめるなんて簡単なことです。実際私は、この10年で1000回以上もやめてきましたから」
1936年の“The Southwestern Sheep & Goat Raiser”という雑誌に、いま知られているジョークと非常に近いバージョンのジョークがある。
先日、友人の一人が私たちに、禁酒なんて簡単なことだと言った。「私はもう1000回もしているからね」
1938年、W. C.フィールドは、「禁酒講義」というラジオの中で、こんなジョークを言っている。
禁酒できないなんて言わないで。簡単なことさ。俺はもう1000回もしている。
1938年10月に発行された“Scribner's Magazine”では、「私、たばこやめます」という記事を発表した。
ある若者が、医者から禁煙するよう命じられたが、それができないと不平を言ったところ、年をとったテキサス州民がパイプを一服しながら答えた。「禁煙なんて世界で最も簡単なことさ。俺はもう1000回もしている」
マーク・トゥエインと禁煙ジョークとの関係が最も早く表れるのが、1938年12月の“Journal of the American Medical Association”.である。彼が1910年になくなってからだいぶ後のものだが、この中に「マーク・トウェインは、これまでしてきた中で禁煙が最も簡単なことだ、なぜなら1000回もしてきたからだと言った」とある。つまり、マーク・トゥエインと禁煙ジョークは、彼の死後になって結びつけられたのである。
1941年に、カリフォルニアの新聞のコラムニストに、酒飲みが理由で解雇された人のギャグがある。
「あなた、酒飲んでるでしょう。仕事中に飲酒すれば、人を傷つけたり殺したりしかねません」
「わかりました。ではお酒をやめます。お酒をやめるなんて簡単ですよ。実際私は、この2,3年で少なくとも1000回はやめましたから」
これは、先の1935年の製材所の従業員が解雇されたときの話とまったく同じである。
1945年のリーダース・ダイジェストで、マーク・トゥエインの名言として、「禁煙は、私がこれまでしてきた中で最も簡単なことだ。なぜなら1000回もしてきたからである」が掲載されている。
最後にnetflixの”get down”というドラマにも触れておきたい。ヒップホップの創生について描いたドラマである。監督は”華麗なるギャツビー”を手掛けたバズ・ラーマン。jaden smithがハウスのクラブで、友達の男の子とキスをするシーンが話題になった。
ハウスは元々シカゴのゲイディスコ”ウェアハウス”を由来とする。ヒップホップも元々、ディスコを由来としていて、初期はエレクトロなどの引用(サンプリング)が多かった。故にハウスとヒップホップはディスコを親とした兄弟と呼ばれたりもする。
例えばSlum Villageのdj dezという人物は象徴的で、ヒップホップDJでもあり、ハウスDJでもある。Andresという別名義で、moodymannというディープハウスの大御所のレーベルからリリースしてたりもする。
上記したキスシーンは、不寛容の時代から、現在へとブリッジするものとして描かれた(ようにかんじた)。少なくともラッパーが同性とぶっちゅーなんてのは、20年前にはできなかった表現である。
Slum Village "Fall in love"
https://www.youtube.com/watch?v=s732BigTxZk
https://www.youtube.com/watch?v=nPT0Zw0z90g
Jose James "Desire (moodymann mix)”
https://www.youtube.com/watch?v=WHNZy-9u2FU
"Get Down"
https://www.youtube.com/watch?v=FYcVrWDOiao
補足。
Childish Gambinoは役者、コメディアンとしても活躍しており、netflixなどで公開されている”Atlanta"はべらぼうに面白い。
元嫁に尻に敷かれまくりながらも、養育費のためにがんばるサウスの男のお話。
Frank Ocean "Super Rich Kids"はソフィア・コッポラの”ブリングリング”の劇中歌である。おもろい映画なので、おすすめしたい。
歌うラッパーは昔も少数いた。Outkast、Ceelo、Bone Thugs N Harmony、Nelly、Nate doggなど。今のように誰でも歌ってる訳ではなかった。
SNSの活用で一番最初に売れたのはSouja boyである。然しながら、今日のTypicalな成功例とはすこし趣が違っている。彼の場合は、まずダンスが先行した。
Kodie Shane "Sad"における三番目のナードな男の名前が"Napoleon"なのは、"バス男"("Napoleon Dynamite")からの引用と思われる。いい映画です。勝手な邦題の暴力性よ。