片親だが親からはとても愛されてきたし家族仲は良好。友だちも多くはないがいるし異性にもそれなりに相手にされる。仕事もべつに嫌ではない。自己肯定感が高く楽観的であるため生きづらいと感じたことはほぼない。「あ、この人から明らかに見下されているな」と感じることはたまにある。一部の男性から非常識な扱いを受けたり、性被害も時々受けるがあまり気にしない。人を嫌うことはほとんどない(見下してくる人間は好きではないが嫌うほどでもない、そういう人もいるな、くらい)。かといって歪みのない素直でまっとうな人間かといわれればそうでもなく、むしろ割とひねくれている気がする。
差別は嫌だし差別する人間になりたくないけど自分の中に差別的な感情が多少なりとも存在していることも知ってる。通勤ラッシュとかで、統合失調症と思われる人が一人で罵詈雑言を叫んでいたりすると、正直勘弁してくれと思う。その上でみんなが平等に扱われるべきだという理想も抱いている。誰にでも分け隔てなく接する心がけはしているつもり。
ジョーカーを見て、アーサーの心理や行動が理解できないというようなことはなかった。わりと的外れではない解釈をしているとも思う。でもそれはもちろん共感ではなく、知識と想像だ。「私だったらこうするのに」「こうすることも可能だったでしょ」と思うことはもちろんない。環境、人格、容姿、境遇、どれをとっても私は彼のようではないからだ。
とても辛くて悲しい気持ちになる映画だった。あれがハッピーエンドだなんて馬鹿げている。どうして、だれも、誰一人として彼に手を差し伸べる人がいなかったんだろう。コメディアンとしてバーでライブしてる時にも、きちんと自分を見てくれている人がたった一人いるだけでよかったのに。
私はアーサーのような人間を見て「かわいそうだ」と思う。心から思う。理不尽な哀れみだ。それはおそらく見下していることと同義だろう。その上心の余裕が充分にある時には、彼のような人間を「救済してあげたい」とすら思うのだ。利己的に。そして切実に。
そうだろうな、と思う。
世の中には様々な生きづらさを抱えた人がいると日々インターネットを通して知る。
生きづらい人の一部は、インターネットで「生きづらい」と叫ぶ。私は「生きづらそうだ」「かわいそうだ」「どうしたらいいんだろう」と思う。
そうした人に対しての、適切な思考、適切な行動とは、一体何を指すのだろうか。もちろん傲慢な意識を排除して彼らと接することができれば一番いいが、果たしてそんなことって可能なんだろうか。
お前にゃ無理だ諦めろ無能