はてなキーワード: ガチガチとは
私も毎年寝込んでる。16時までベッドから起きられない日もザラにある
【どん底の日もなるべくやる】
・朝ご飯を食べる(炭水化物、たんぱく質、野菜。使い捨て食器で皿洗いをなくす)
・水分をとる
・歯磨き
・午前中にカーテン開ける
【マシな日にやる】
・風呂
・日記を書く
・ひたすら散歩
・机や床を掃除する
・散髪
・歯科検診
・鍼灸院
冬至の頃はマジでどん底だったけど先週ちょっと浮上して勢いで鍼灸院に行ってみた。「冬に調子を崩す典型例」と言われた。「普通は冬に交感神経が優位になるけど、あなたはバランスが崩れすぎて副交感神経が優位になりっぱなしになっている。だから活動できない」らしい。
ガチガチだった肩こり首こりが軽くなってそっからちょっと仕事もできてる。通院継続するか迷ってる。高いんだよな〜。冬季うつで鍼灸院に通ったことある人いたらどうだったか教えてほしい。
ゲームとしてはポケモンっていうよりはARKで、基本洋ゲーの文脈で作られてる
ポケモンやブレワイといった任天堂周辺のゲームと類似してるのもその通り
良くブレワイパクリゲーとされる原神とかは移動周りのシステムを除くと実際は結構違ってて、戦闘の組み立てやらで差別化してるしそもそもがガチャゲー
だけど、こっちは良くも悪くもそのまんまARKにポケモンの意匠を乗っけたアウトロー感がある
操作性はARK等よりも良好だしとっつきやすくなってて色々な改善点が見られる
この洋ゲーのノリやアウトロー感、改善してる感じがミソで、結論としてはパルワールドはPCゲームのMOD文化をそのまんま商業に載せてしまっている様な作品だ
だからストリーマーとかが笑顔でやってるのは解るんだよね、ちょっと古い人ならFPSやGTAでMOD文化に触れてるだろうから、こういうノリが好きなPCゲーマーは凄く多いし
最近の対戦ツールとしての要求値が上がった事でMOD規制がガチガチになったPCゲームや、コンシューマーにしか触れていない人にとってもこのヤバい事をしてる感じは新鮮だろう
というかPCゲームに品格なんかを求めてる方がおかしいという意見も解る、人殺しやゲームの改変を40年以上練り込んできた業界である
同時にPCゲーマーでもDotA、CS、Dayzみたいに、MOD派生の名作みたいな新しい遊び方を提供する独自性まで突き抜けてるとは思えないし
今時ガワだけModみたいにやってるのどうなん?ってモヤっと来てる人も多いんじゃないかな
そんな中でノイズになってるのが社長周りで、インタビューとか見るとこいつPCゲーム文化とか理解しないで天然で邪悪ムーブやってんのか?と思う事が多い
結果、コインチェック流れのやべーやつとMOD文化の悪魔合体が何故か商業に載ってしまってるという炎上案件な所は否めない
ポケモンに差し替えるMODとかが既に出て炎上してるみたいだが、これは同時に希望でもある
ていうかこのゲームこそMOD制作の対象として滅茶苦茶素晴らしい土台だと思う
MODフレンドリーな展開をしていけば日本から出て来た怪作として立ち位置を確立できるかもしれないからさっさとゲームを完成させて欲しい
……が、過去作のクラフトピアがあのザマなので大丈夫かなと思っている
流石に儲かっただろうからやり逃げは止めてくれ
まっちゃんのことは普通に好きだしおもろいし頭の回転早すぎてすげーなとかいつも思っていて。
けど今話題になってる飲み会のノリで女性をうんぬんはマジでキモいなと思う。
ラインのやり取り出てた(あれも嘘かほんとか知らんけど)の見るに、まあ女性側も最初ファン心が先に出ちゃって迂闊だったのかもねとも思うんだけど
迂闊だったよね、迂闊は悪だよねっての、こういう性被害でよく出てくる論調、これマジ頭来るんだよな
誰だったかな、ツイートで誰かすげー分かりやすい表現してて。これから書く事は、LGBTの配慮とかほんとに抜きで分かりやすい例として出すんだけど、
世の男性のゲイとノンケの割合が半々で、たまたままっちゃんがゲイで、呼ばれたのが男で、男が性被害に遭った告発したとするよ?
男はまっちゃんのファンで、まっちゃんに会いたくて会いに行って、このケースも呼ばれた男が迂闊だったってことになるんかいな。
女ってだけでバキバキに自衛固めて当然だろって、生まれてこのかた常識として?いや身をもって?分からされてきた
ADHDの女とか、自他の境界が曖昧だから自衛が緩くて、ひでえ目に遭うんだ
ひでえ目に遭った後にみんな口を揃えて言うんだ 迂闊だったよね 迂闊は悪だよねって
男でも女でもそう 口を揃えてそう 日本人なんて全然優しくない
男って威圧感に加えてまっちゃんの場合は、芸能人、しかもボス級、っていう肩書きがあるんだから
部屋通されて合意ですよねって言われたらまずハイと答えるしかないし
そこでいいえと答えても「信じられねえ!」という空気と「恥かかせやがって!」という威圧感に耐えて
酒臭い部屋で酔ってる男がいつ怒鳴り出すか、殴られるか息止まりそうになりながら
ひたすら謝るしかないんじゃないの
これ読んでる人がもし男だったら、酔ってるムキムキのゲイのヤクザと密室で関係迫られるって考えてくれよ
そんなん無理やん 怖すぎるやん
ムキムキのゲイのヤクザがもし本当に相手のことが好きなら、もっと自分が怖い存在やと自覚せんといかんやろ
自覚した上で、怖くない状況から相手に安心して心開いてもらうのが大事やん
ワイドナショーで東大卒のアナウンサーのお姉さんが言いたかったのってそう言うことじゃん?
もっと良くないのは、自分が怖い存在やってわかっててやってる時なんだけど
まあ大体世の中の男性の9割は無意識に女が弱いの分かってるから、女がガチガチに自衛するべきっていう、なぜか自分達を律しない方向に持ってくんだよなあ
女の方も生まれてこのかたそれが当たり前になってて
超めんどいしうざいし本当女なんていいことひとつもねえって日々うんざりしてるから
自衛を緩めちゃったせいで被害に遭いましたピーピーなんて泣いていると
ほれ見たことか!私たちは日々めんどくてもうざくても自衛頑張っているんだから
そんな呑気に生きられるはずがないのよ!と逆に苛立ってくる
あーーーー
よく思うんだけど
夜にさあ、ふと思い立って
すっぴんに部屋着にサンダルでふらっと外へ出て、星が綺麗だなあなんて思いながら、街灯も人通りも少ない道を歩いて、
コンビニでビールとプリンなんて手にとって レジの兄ちゃんは普通にレジ打ってくれて
帰り道も夜風を感じながらふらふらと歩いて
エレベーターで知らない住人と鉢合わせても、にこやかに軽く会釈して
玄関のドアを開け放って 誰もいない部屋に向かって
ただいまー とか言ってみたいなあ
女だから全部無理
すっぴん部屋着サンダルは隙が多くて性に緩そうに見えるからダメ
おじさんと夜道で通り過ぎる時は暗がりに背を向けないように目を合わせないように、でも決して不快に思われないように早足ですれ違う
そもそも女は必要なもの以外は夜一人で買い物しに行くべきでないし
レジの対応も男の人に対するそれよりいい加減でも文句は言わないし
残業帰りでも夜歩いてると襲われるんだから、用もないのにフラフラ出歩くなんて愚の骨頂
エレベーターで男と乗り合わせないように歩幅も調節するし
万が一乗り合わせても目を合わせて微笑んだりしない、好意的な態度は身を滅ぼす
玄関鍵開けたら秒で閉じる
帰っても暗い部屋に何か潜んでいないか怖い
女を生きるのは本当に疲れる
別にまっちゃんのことは好きだし、処罰して欲しいとか全然思わないし
テレビに出てまたおもろいこと言って笑かして欲しい
増田を書くとき、大抵「なぜこの文章がこの世に存在する運びになったか」という言い訳から書き始める。
今回もやはり例に漏れない。アノニマスでのダイアリーでご丁寧に言い訳。難儀な性格だと我ながら思う。
うつとは付き合い始めてもう五年近くになるが、未だに自分のうつについては何も分からないままでいる。
私の場合は、気候に加えて何種類かの不安や悲しみが同時期に積み重なり、トリガーとなるパターンが多い。
不安や悲しみは自らの努力で解消可能なものから、不可能なものまでさまざまだ。
今回もそうだし、五年前もそうだった。
うつについては、それ以外理解できていることはない。ないのだが、最近うつに関して感じたことを書き留めておこうと思い、増田を書くことにした。
未来の自分の道標になるかもしれないし、ならないかもしれない。これは、私のための文章だ。
盛りに盛って自己肯定感は低下の一途を辿り、何を言っても、何を考えても面白みに欠ける。独創性もない。何か行動を起こそうにも、冷えて硬くなった脳が軽やかな動きを阻害する。
そうして、「自分はつまらない人間である」という意識から自己肯定感が更に低下する。典型的なうつによる負のスパイラルに陥っている。
おまけに寒い。毎日毎日、体の芯から凍りつくような寒さに文字通り震えている。都心で大雪など降るなアホたれ。
うつ症状が軽い時期は、アイデアがするすると湧き出てくるものだ。
例えるなら柔軟性のある、水をたっぷり含んだスポンジに近い。脳に少しの力を加えてやれば、まとまりのある言葉が簡単にアウトプットされる。情報もサッと染み込み、インプットも楽勝だ。
出てきた言葉やアイデアには、自信が持てる。整然とした美しさや、鮮やかさに自信が持てる。
力が要らず、アウトプットに不満もない。健康的な思考の活動だ。
対して、うつ症状が重い時期の脳は、「凝り固まっている」という表現が適切に思える。
アイデアや言葉は頭の中に堆積しているが、脳がガチガチに硬い。硬い脳を叩こうが押そうが、うんともすんとも言わない。
目から入ってくる絵や文字の情報もろくに整理できず、ドロドロとしていて頭の芯まで染み込まない。
うんと力を込めて、ようやく絞り出された雀の涙ほどのアウトプットは、濁っていて美しくない。
強い力を要し、アウトプットに全く満足できない。これ程不健康で悲しいことはない。
だが、私はこうして文字を書けている。
そして重要なのは、今書いている文章に別段美しさも、鮮やかさも感じないのだが、なぜか心が安らいでいる。
この現象に気がついたのは、ここ数日のことだ。
冒頭からつらつらと書き続けて分かったが、やはり私は難儀な性格だ。
匿名で書く日記ですら書く言い訳が必要だと思っているし、「面白みに欠ける」ことが嫌いだ。たぶん発言に「独創性」も欲しいのだろう。
なぜこのような性格なのか。おそらくそれは私の言葉やアイデアが、基本的に「自分とセットで社会から評価されるもの」という前提にあるからだろう。
仕事でも、趣味で文章を書くときでも、限られた友人同士でしかやり取りしないSNSでも、「自分と、自分の発言がどう見られているか」で常に頭がいっぱいだ。そういうシーンでは自分と、自分が発信する表現は地続きのものなのだ。
別に私が面白くなくても、独創性がなくても、美しくなくても、実は誰も怒ったり責めたりはしないのだが……そのような自分の醜態を、おそらく私自身が一番許していないのだろう。
だからこそ、この苦しみはなかなか解けにくいのだ。
だが、気がついた。
「自分とセットで社会から評価されるもの」ではない文章は、脳からアウトプットするのがあまり苦ではない。例えば、この増田のような文章だ。
匿名で宙に放り投げる文章は、社会で活動している自分からはぷっつりと切り離された存在だ。しがらみや他人の目に囚われない文章をアウトプットする行為は自由で、とても快適だ。
私の場合は、おそらくこの思考の活動がリハビリになるのではないか、と感じている。
この活動を起点として、自分が「面白みに欠ける」ことや、自分のアウトプットに「独創性」がないことを許す。
自分の発言やアイデアは、本来もっと自由で快適だったことを、体と頭に思い出させる。そうすれば、次第に脳は元の柔軟なスポンジに戻るだろう。
希望的観測を含むうつ真っ盛りの時期の所感だ。少し楽観的すぎたか。
しかし、言葉が自由で快適なことを思い出すリハビリなのだから、能天気なくらいでちょうどいいはずだ。楽観的に表現できる、ということが重要にも思える。
九州から集団就職で都会に出てきた母方の祖母が創価学会の会員となり、母方の祖父、彼らの2人の子供も会員となる。
父親は元々別の宗教の家に生まれたが、大学入学で上京した際に勧誘され会員に。
父は地元に帰ってからも活動を続け、そこで出会った母と結婚。姉と俺が生まれる。
そこまで極端な教育を受けた覚えは無いが、子供の頃(3歳ぐらい?)からの毎朝15分ぐらいの唱題という名のお経上げと地域の学会イベントへの強制参加はあった。
ただそのような創価公式イベントにおいても、また両親の口からも、創価についての体系的な教え、つまり世界はどのようなものであると創価学会は考えており、毎朝唱えている意味不明な漢字ばかりのお経には何が書かれており、我々がそれを唱えるという行為はどのような意味を持ち、またそのような営みを支える背景にはどのような宗教的歴史があるのか、といったことは全く教えられなかった。ここら辺は俺がまだ子供だったから教えられなかったという可能性もあるが、理屈っぽく素直で無かった俺には自分のしている行為の意味不明さが子供ながらに大変苦痛であったのを覚えている。
で、だいたい俺と同じ創価体験を受けた姉は両親の言うことを良く聞くとても良い子だったので熱心な信者となり、創価大学までいった。俺は中学ぐらいから唱題をあげるのを拒否するようになり、たまにある地域イベントなどにはなんとなく参加したが創価との関わりはそれぐらいで大学のに進んでからはそれも辞めた。
両親と姉は当然今も熱心な信者で、家庭内で俺だけ完全に無宗教といった感じだが、家族中は大変良好である。両親とも創価大学→学会幹部といったガチガチの家庭でない限り、まあだいたいそんなものではないだろうか。周りの3世を見てもそう思う。
俺が創価学会に関して思うのは、よく言われることだが創価学会の本質的な役目は戦後日本で解体された地域互助組織の都会における再構築であったということである。両親や姉、周りにいた学会員の方々を見て、とても善人が多いとは思うが、特に宗教的な人間が多いとも思わない。教え自体は日蓮宗ベースだろうが、キリスト教ベースだろうが、浄土真宗ベースだろうが彼らにとっては本質的には変わらないのでないだろうか。本質は池田大作というカリスマ信仰に基づく強固な人間関係組織の構築である。
創価学会の教えのとても特徴的な点だと思うことは、極端とも思える現世利益主義である。創価学会の教え(あるいは日蓮宗の教え?)では、宗教的成功と世俗的成功は同一であり、このことは学会のイベントでも何度もよく聞いた。難解な宗教的教義を多くの人間に理解させることは難しいが、世俗的利益のことは誰もがよく理解しているため、創価学会はこんなに会員がいるんだろうな〜と大人になって気付いた。
あ、あと体系的教義の説明がないとは言ったが、ある程度の大人になると教学試験などを通してそこら辺は勉強することになるし、家庭によっては親が教えることもあるかもしれない。だけどその場合でも日蓮宗の歴史よりは創価学会の歴史に重きが置かれていることは間違いない。
今の世の中には情報がいっぱいある。
新聞、雑誌、自己啓発本、解説書、小説、漫画、テレビ、講演、病院での診察、インターネットだけでも、このはてなブログのようなブログ、一般的な記事、YouTubeの動画やショート、それらに対するコメント、占い、電話相談...いろいろ、いろいろある。
今、少々込み入った片想いをしている。
込み入った、と書くと変な感じがするが、そこまでではなくて、ただ、通常はあまりしない、望みがない、成就したとしてもその後がとても大変、みたいな感じ。しかも普通の人には相談できない系。
そんな片想いしていることに気づいて以降、色々な情報に触れた。
特にインターネットについては、googleを立ち上げては過去のチャレンジャーたちの成功・失敗談、それに対するコメント、恋愛テクニック、心の整理のしかた等を毎夜毎夜、休みの日は一日中読み込んだ。YouTubeもいっぱいいっぱい観た。観てしまった。
だから、この成功・失敗談やいろんなコメント、全く関係ない文章を読んでいる時だって、YouTubeを観ている時だって、日常生活の中でもいつもその人が頭にいて、「あの時の行動の裏ではこう考えられちゃったかな」、「このアクションはどう思われるかな」、「やっぱり恋人がいるのかな」とか「奇跡的に上手く行っても、やっぱりその後大変な思いをさせてしまうかな」等など考えてしまう。
そんな状態で床に就くものだから当然に眠れるはずもなく、読んだ記事やコメント、YouTuber達の解説が頭の中をぐるぐる回り、そのまま外が明るくなってしまうような日々が続いた。その人を考えることで、思い出すことで、心が潰される。吐き気がする。
デジタルデトックスと称してインターネットから離れてみたけれど、一度心にこびり付いた焦げってなかなか取れない。何もしていない時間ができてしまうと、ふとした瞬間にフラッシュバックして、胸のあたりが締め付けられる。呼吸が荒くなる。仕事中もそのことばかり考えて、集中できない。食欲なんて当然無い。
第一印象はどうだったとか、それがどう変わって行って結婚を決意するに至ったか、みたいなことが書いてあって、成就事例として載っているぐらいだから、まぁ良い話なわけ。
だけど、読んだ後心を締め付けてる殻がちょっと緩んだ気がしたんだよね。何十年って生きてるけど、自分の心のしくみにそんな一面があることを初めて知った瞬間だった。
それに気づいた次の日、本屋で平積みにされていた優しい表紙の短編集を買った。最近はもうkindleで買うことが多いんだけど、今は紙の本がいいな、って。
まだまだ心の焦げにはその人がいるから、登場人物で雰囲気の似ている人が出てくると、どうしても重ねてしまうのは止められない。だけど、インターネットの記事やコメントを読んだりYouTubeを観ている時に出てくるその人への感情が、自分の心に棘を突き刺す存在に感じてしまっていたのに対し、本の中で出逢うその人は柔らかく寄り添ってくれて、ガチガチに固まってしまっていた心を、解きほぐしくれるような存在に感じた。ふとした瞬間に心がザワザワしても、本を開けば、すーっと氷が溶けるように、心のモヤモヤが晴れてゆく。
今は真っ暗な中にいるけど、光の方向へ一歩、前に進めるかもしれない。情報の波や逆風に負けきらないかもしれない。うん、大丈夫なような気がする。
買った金額の数%にも満たないはした金相当、しかも使途もガチガチに限定される僅かなおまけと引き換えに、
・財布やカード入れの中の貴重なスペース
・そのスペースの中から毎回ポイントカードを探して店員に提示するという手間と時間
・店員と余計なコミュニケーションをしないといけないという心理コスト
・ポイントがつくかどうかを気にしないで好きな店を選ぶ、という自由
を失っているってことになんで気付かないのかな?
「損にはならないから」ってお前どう見ても損してるよそれ。しかもがさごそポイントカード探す手間で、後ろに並んでる人にまで毎回毎回迷惑かけてるし。
アプリのポイント会員証は更に最悪で、ごそごそスマホいじっていつまでもアプリ見つからんと思ったら「ログイン出来ないんだけど」とか店員に聞くヤツまでいやがる。
それくらいならまだ電子マネーに統一して自動でポイントつくようにした方がいいわ、まあそれでも店選択時の拘束と個人情報売り渡すことは変わらんから俺は使わんけど
昨年2023年ちょうど1月、婚活目的でマッチングアプリを使用し始めた。
それに加え、相談所を使う利点がないと判断した。理由は以下の通り。
言わずもがな。数十万する。
相談所の成婚率は10%〜20%とネットでは見るが、注意すべきは相談所の定義する「成婚」の概念は入籍ではなく、
成婚退会後高額な成婚料を払うことになるのだが、その後に婚約破棄することは十分にありうる。
そして、相談所は成婚退会後に婚約破棄したカップルのデータについては何ら公開していないのだ。
誰がどう調査して「相談所で結婚したカップルの離婚率は10%」という数字が出たのか、根拠がどこにもない。
宣伝文句と捉えてよさそう。
ところで、離婚理由に関する公的な統計はないけれど、司法統計では「性格の不一致」が離婚理由として最も多い。
(ただ司法統計は離婚調停のように法的手段に出た場合の統計なので、そこまでに至らない協議離婚の場合を含めた場合までは分からない)
仮に性格や価値観の不一致が最も多い離婚理由だとしたら(というか一番多い理由だと個人的には思っている)、
3ヶ月とか6ヶ月そこらで相手の普段の地の性格を理解して、自分が受け入れるには、短すぎる期間だと思う。
相談所でいい人見つけたと思ったけど破談したというケース、案外あるんじゃないの?
結婚相談所は3ヶ月とか6ヶ月で結婚相手を決めないといけない。
短期決戦であるゆえ、条件を明確にしないと成婚退会のゴールがはっきりしないから、どうしても条件先行になる。
ただ、人との生活なんて条件だけではないと思うのだよね。
だから、相談所で良い相手に巡り会えるなんて、ごく小数の人にしかできないと思う。
というか、3ヶ月とか6ヶ月で会員が成婚してもらわないと相談所しては商売が成り立たないのだろう。
もう書いた通りだけど、ネットの婚活情報なんて大半は結婚相談所のステマというか、宣伝だ。
結婚相談所は元手なしで出来る商売で、ネットで集客するようだから、そうなるよな。
なぜ、「2020年の離婚件数÷2020の婚姻件数」のように同年の数字で計算するの?
2020年に婚姻したカップルがその年に離婚すればその計算式でいいけど、違うでしょ・・・。
2020年に離婚したカップルはそれ以前(2000年かもしれんし1980年かもしれんし)に結婚してると思うけど、
少子化もあるのか婚姻件数は年々減少傾向にあって、分子は大きくなる傾向にあるのでは・・・? え、違う?
ペアーズを使った。
1年間で会った人数: 10人
そのうち交際に発展した人数: 2人
交際に発展した1人とは6月頃に婚約し、結婚指輪も買い、両親への顔合わせと式場選びまでしたものの、
重大な持病を婚約後まで隠したことが発覚し、その上、お相手の両親がやたらと二人の関係に介入する人たちだったので、我慢ならず関係を絶った。
お互い子供がほしいことで意見一致してたが、お相手の女性は子供ができにくい体質らしく、それを婚約後まで隠していた。
問い詰めると「だから何?」という横柄な態度で、悪びれる様子は一切なかった。
交際中はこんなふうじゃなかったんだけど?
あと、お相手の女性の両親が介入しすぎる件については、彼女(僕の婚約相手)が親の言うとおりにするだけで反論も親には一切せず、
配偶者になるであろう僕の想いは全然斟酌しない人だから、ああ、これは止めた方がいいなと。
まー、くせの強い人が多い。
あと、30代後半以上になると「男は女性に奢りなさいよ」オーラ満載の女性の割合が増える。
何で?
自分の気持ちを伝えて「いつも僕が出してるとお金がなくなっちゃうから、時折は出してほしいな」と伝えると、
それ以降は割り勘にしてくれるようになった。
まだ前途は分からないけど。
" アプリはなー、持病持ち、複雑な家庭事情、宗教の子が普通より多かった印象ある。相談所だと隠せないような地雷持ち率がやや高い"
"結局6か月で婚約まで行って合わない所を見抜けずに破談してたら増田の腐す相談所と同じじゃない?"
なら、自分の自由にできるアプリのほうに利点がありそうですね。
というか、大抵の相談所は3ヶ月だから(6ヶ月の延長期間を設けてるところもあるが)、相談所なら余計に分からんかっただろう。
アプリも相談所も同じとあなたが考えるのなら、ガチガチのシステムやルールがある相談所よりアプリのほうが良くないか?
"結婚相談所の成婚退会率が10〜20パーセントを低いという割にアプリのスコアは11パーセント(もう1人は進行中)"
計算の仕方がおかしいです。成婚退会率は「出会った人数」で計算するのとは違うと思いますよ?
"結果は同じでも、数十万円払わずに済んだことを正当化するのに必死な面が窺える。増田にとっていちばん大事なものはお金なんだね。"
思ってませんね・・・。
本文を読んでいただければ分かると思いますけど、カネだけ書いてるわけじゃないでしょう。
あと、相談所で婚活しても、婚約破棄は普通にありうることだと思うよ。
元々ADHDの気があって、未診断だけど一つのことに集中したら全てを忘れる多動タイプ。
記憶関係には全く症状はない(同じこと何回も言うとかはある) 何なら娘の私の方が認知症なのか疑うくらい記憶してない。
でも感情の起伏がやたら激しくなったり、疑心暗鬼?というか、疑り深くなったように思う。
ど田舎だから車移動だが、数年前まで無事故ゴールドだったのにここ数年で急に小さい壁擦りとか、乗り上げ?とかそういうちっちゃい事故が増えた。
多分空間認知?とかが弱くなっていると思う。 感情失禁ってやつもちょっとある。
認知症って始まったら即治療って意識があったから「あ、やばいな」って思ったから今日言った。
結果めっちゃ怒られた。
というかショックで受け入れられなくて八つ当たりされた?と思う。
「馬鹿にされている」「否定されてるようなもの」「まだバリバリ現役だ(自営業をしている)」と言われた。
全部否定して、最終的に泣きながら私は今の父でい続けて欲しいだけだと、健康で楽しく生きて欲しいだけだと伝えた。
1時間ぐらい話した。
最終的に「風邪ひいたら病院行くのと一緒」「遅かったはあっても早過ぎるはないと私は思った」の言葉で全否定は無くなった。
めちゃくちゃショック受けていたけれど、嫌われても私は構わない。
でもめちゃくちゃ疲れた、
父親はガチガチの九州男児、プライド高杉の頑固親父。 いつかテレビで見た認知症の番組を見ながらうちの父を説得するの骨折れそうだな〜とは思ってたけどここまでとは。
むしろよく一回で「行くことをちゃんと考える」という言葉を引き出せたと思う。
頑張った私。
めんどくさいしクソみたいなおっさんやなってムカつくこともあるけど、何やかんやでそのクソ親父が大好きなので。
何度でも言ってやる。 切れようが、嫌われようが、二度と帰ってくるなと言われようが、健康な老衰死を望んでるので。
書き捨てスッキリ
そいつは人懐っこい性格なのか、たまの帰省でやってくる見知らぬ俺にも触らせてくれるいいやつだった。
猫を挟んだ母との会話も自然、その子の話が中心となり、母は楽しそうで。俺の代わりというよりはもはやかつての俺以上に猫中心で暮らしているんじゃないかと羨ましかったり、母を頼んだぞといった気持ちでいた。
そんな愛の独占者からはじめてプレゼントをもらったのは数年前のお盆だった。
まだ暑い季節。築50年は超えてると思うボロい実家。猫類から人類への贈り物はGだった。Gの死体だった。
フィクションだけの話だと思っていたが、まさか本当にGを咥える猫がいるとは!
俺はGが大嫌いで、ボロ屋で毎年Gが出ても一目散に逃げて母に退治を依頼する軟弱ボーイだった。視界から外れることの方が恐いがそれでも目視も耐え難いので丸投げ一択。依頼して外出だ。一人暮らしをするときも何が一番不安だってGが出たときに一人で対処しないといけないことで恐怖に震えていた。まあガチガチに対策してなんとかシャットアウトしているのだが、毎年夏は憂鬱になる。
閑話休題。
当然俺は飛び起き距離を取り母に報告して玄関で爆発物処理を待ったのだった。
また余談なのだが、俺にもわずかながら彼女といふものが居た期間がある。軟弱学生ボーイだったころだ。そして軟弱学生独りよがりボーイでもあった。
今でも4℃やピケ、ダサピンク、サイゼリヤ問題などの話題が盛り上がるとチクりと胸が痛むのだが、そう、俺は初めてプレゼントでどう考えても喜ばれないアクセサリーをプレゼントしてしまったのだった。当時はそれが彼女に似合うと思っていたんだ。本気で。俺は頭がわいていた。舞い上がっていた。独りよがりボーイだった。
当時これはイケると思ったプレゼントは思ったより喜ばれず(露骨に嫌がられなかったのは感謝しかない)、それが原因じゃないにしろなんだかんだで別れてしまった。
Gをくれた、人の心がわからない哺乳類モンスター。それでも俺はあのキャットが嫌いではなかった。なんせ猫は猫であるだけで愛らしいのである。
一方、人間のやらかしプレゼントは被害甚大だ。俺がGの死体を笑顔でプレゼントしたらその人は俺と絶交を返礼してくれるだろう。あ、爬虫類飼ってる友達はGが餌とか言ってたけど。それでも人to人じゃ喜ばないだろう。
Gを贈られても愛される。猫ってすっごくズルくないか?あるいは人が猫に寛大すぎないか?
人が喜ばないプレゼントを贈っても苦笑されつつ許されるような、そんな猫のような人に私はなりたい。できればついでにあのときに戻ってプレゼントを選びなおしたい……。
なんてことをつらつら考えていた。なぜ今そんなエピソードを書いているかというと、明後日の帰省のときにはもうそいつは居ないからなんだな。Gをプレゼントしたあいつが居ない実家は寂しいなと感じているので、やっぱり猫はズルいよな。
オタク趣味が合致して交際に至り、婚約もしたんだけど、まぁ中々に汚している感覚がある。
例えば食事。あちらはフランスに住んでいた時期が長くて、ヨーロッパの食べ物が好きで、白米が嫌い。納豆に関しては言葉だけで感情が消えるレベル。
基本の食事はスープとサラダくらい。美味しいパンやお菓子が大好きなモデル体型。
習い事はバレエとお花。特技は乗馬とアーチェリー。仕事も外資で課長をやっていて、仕事に関しては鬼みたいな人。
一方俺、貧困ってほどじゃないけど下の中くらいの貧乏家庭出身。
テーブルマナーとか俺分かんないからさ、二人で外食もほぼしないの。
大抵、家で俺の作った料理を一緒に食べるだけ。Youtubeとかアニメとか見ながら。それがデート。
たまに俺が食べたいラーメンとかを食べに行くと、「こんな美味しいものがあったんだ」と目を輝かせる。
吉野家に連れて行って牛すき丼を食べさせた時は、会食で行く高級焼肉より美味しいと笑っていた。
俺にはこの人しかいないって思うけどさ、俺はこの子の世間知らずを利用しているクソ野郎なんだって罪悪感に襲われる。
本当なら、この子と同じように、教養深くてマルチリンガルで高学歴で優しい男と一緒になって然るべきだろうにさ。