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はてなキーワード: 自然的とは

2016-07-17

http://anond.hatelabo.jp/20160717194147

資本論大月書店版)第2巻68頁

資本家にとって自明なことは、労働者は彼の1生活日の全体をつうじて労働力以外のなにものでもないということ、したがってまた、彼の処分しうる時間はすべて自然的にも法的にも労働時間であり、したがって資本自己増殖のためのものだということである

人間教養のための、精神的発達のための、社会的機能遂行のための、社交のための、肉体的および精神生命力自由な営みのための時間などは、日曜の安息時間でさえも──そしてたとえ安息日厳守の国においてであろうと──ただふざけたことでしかない!

ところが、資本は、剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動、その人狼的渇望をもって、労働日の精神的な最大限度だけではなく、純粋に肉体的な最大限度をも踏み越える。資本は、身体の成長のためや発達のためや健康維持のための時間横取りする。資本は、外気や日光を吸うために必要時間を取り上げる。資本は、食事時間をけずり、できればそれを生産過程のもの合併する。

2015-10-18

http://anond.hatelabo.jp/20151018001835

のかって分かりかねるよね。分かりかねるってのはアレだ。今俺が見ている景色がそれはそれはまったく何だ・・・非実在的な差・こkれをよみがえらせるのは、真の知っていうかでしかないわけで、結局人間馬鹿なんだ、馬鹿から場にぬなるだぶるすたんだーとって言葉を知ってるけれど、ソレに十雨中にしにして近いこごいn、、・・・・・あ。あ、わかりはじめた。今俺がいるアパートの一室、でもさ、それは結局この世に生を受ける、また人間の創りだす価値しかこの世は判定さんでい出来ないわけで、オレの幼少期を思い返してみると。。。そうだな、オレが他人を省みているようで顧みなくなったきっかけは、やっぱり家庭環境なんだろうな。価値観、俺の家庭が持つ価値観価値観もまた遺伝子のように伝承されるものの一つであり、それは俺も例外ではなく、そう価値観を育まれた。内向的だったなあ、幼少期の頃から、幼少期の頃から、人の顔色ばっかり伺っていた気がする。人の顔色を伺ってさ、両親の顔色、今日喧嘩してないかな?とか?祖父母との軋轢はないだろうか?とかさ、子供の頃から気をつかっていたね。幼少期からまれた性根なんだよ、。結局。三つ子の魂百までっていうけどまさにアレだ。俺ははみ出せなくなったんだよ。自分のカラから。何をやるにも、周りの顔がちらつく、両親や親類の顔がちらつく、。俺は俺が俺を俺たら占めていると思っていたけど、違うんだ。俺は結局、自分がないんのではないか・・・・・自分を足らしめるための自我が芽生えていないのではないかという気がしてならない。本当は実現したいこともあった。でもできなかった、ソレは俺の怠惰が産んだ結果かもしれないと同時に俺の心を縛る何かが、また。何かがあったんだ。俺の俺の心情には、幼少期から学生時代に成長して、思ったよ。俺は俺をさ、俺たら占めている、そんな気がして無かった。人の顔色が、社会の目が俺を狭くしているんだった。俺一人がこの社会にいられたら、どんなに楽だろうかと、何度となく考えた。それは馬鹿らしい考えだったけどだs。俺は、俺を俺であるために俺から俺を俺から開放する、そんな時分の中のアクションgあ必要だと、何度となく思ったよ。俺は俺を俺たらしめるものが何もない、てって、社会的にも精神的にも肉体的にもまたはそういう実存的な概念でもってしても、俺って一体俺なんだろうか。俺は俺であるからなのだろうか。俺は俺であるのは本当に俺が俺である証拠なのだろうか。俺が俺を俺たらしめる俺の部分は俺の中のどこのb俺を俺にしているのだろうか。俺が俺らしくらしくsらいく、俺がおれがgrで俺gであるための俺であるためにのおレレの俺rの己が己に打ち勝つための、でもソレは俺が俺であることが前提条件であり、俺が俺であるための俺でゃkぉ俺で俺は実に俺であるとのは誤認であって俺が実阿おrでhなく、俺が己を打ち勝つ俺は俺ではない、俺はが俺でなく俺であるための俺が俺を俺に俺たらしめる、俺たらしめるための俺が折れたら占めていなかった。結論的にはどうなんだろう、社会で生きていても、思う子男が多い、俺は何のために、こんなぼんやりと生きているんだろう、ぼんやりぼんやり働いて、ぼんやりぼんやりと金を稼いて出ぼんやりぼんやりぼんやりぼんやり、何をするでもなく、何をするのでも、あk、何が必要なのだろう、承認欲求承認欲求なのではなあk、て思ったこともあるが、そんな気がしない。社会的成功社会的な欲求が満たされれば、俺はこんな気持ちにならないのかと言われれば、そうだと言えない、もっと根源的な、本能的な欲求が満たされれば俺はこんな気持にならないのかと言われればそうだと思わない。オレhのなかのもっと、、、人間の核の部分が満たされていないように感じる、そしてそれは人間社会では決して手に入るようなものではなさそうなのだ非実在的な創作物からえられるものに、それは近いのかもしれない、、、もうすでに思考が、脳が、もうすでに、一元的な欲求では満たされなくなっていsル、気がする。3大欲求や、社会的な欲求、それではもう俺は満たされる気がしない。もっと根源的な、k,、というか、、次元を上げたもの必要だ。。宗教家の求めるソレに近いのかもしれない。宗教家が求めるものが、l超次元的な欲求を満たすものだとすれば、おあお俺が求めているもののに近いのもはそれだ。。超次元的な欲求というのは、、。ソレを言語化するすべは持ち合わせていないgあ、。、超次元的な欲求とは、まさに、現在認識されている次元を超越したものであり、超越するための、、その生きる方法がかるあお確率されていあない。ようにおもれえる。確率必要な物は、、その、。ちょウ自然的な、もっと、脳髄を脳髄を根本的に揺るがすようあん、心、精神的ん欲求とは、ソレの角の部分を揺るがすような、そうういうも野にちかい。オレhがものも求めるものがもはやそこにしかないのだはないあk.。労働しても高リュうしても3大欲求を満たしても何をしても満たされることがない。。もっと欲求が湧いてくる根源、源泉がそこにはあるのではないか。。。姓名を維持すること、それによてって生じる姓名の根源、は一次的庵ものではあり、ソレを満たすには、また別のソレを満たさなければならない。それを満たすことはソレおwみたすことにつながり、まさに無限回廊のものだl,満たすことが満たすものを呼び、満たすことがまた別の満たすおmのを呼ぶ、よって、人は、苦心してしまう。ではどうするべきなのかといえば、それはヒットつしかなく、その欲求が生じる、源泉を絶つ、欲求が湧いてくる源泉を満たせばよいのである。。。そしてソレを満たす方法を我々あh本来ならば探さなければならない。kもはや現代社会において、求められる命題はそれしかない。欲求が湧いてくる源泉あh、それは生命維持のための欲求や、社会的な、人間的な欲求とは確実に異なるものだ。欲求の源泉を、源泉が根源的に存在するのは何故か。それすら我々は理解できてイナイのだ。まだ。それが宗教家の言うような、超常的な存在、神や仏、、だと考える、当てはめっるlそういう認識に落とすことあh実に容易なことであるが、それは一種の逃避でしかない。超常的な存在によって、欲求や自身のまた雑然的な現象説明させるノアh安易であり、もっと断罪されるべき施工方法なのだ本来、これから、我々あh、原初にもどって、、考えなおさなければならないことは、人間的な、生物的な欲求、それの解消法ではなく、そんな全時代的な方法唾棄されるべきだ。。我々がこれから求めるべきあ、欲求雨の源泉、精神的、と呼ばれるものに近いものの源泉を求め、そこを絶つべなのだ。源泉が欲求を生み出しmその生み出した欲求がさらに欲求を生み出していく。源泉が生み出す欲求うは実に一元的もので、一元的ものがもたらす欲求は欲求を解消されても、所詮一元的ものに、一元的な解消にとどまる、一元的な解消は一元的な解消でしかなく、多次元的な、根源的な、源泉をm,超時限的な源泉を解消するニアh所詮いたらない、。超時限的な源泉を解消するための、その方法は、人打つぃかなく、一つしか存在せず、根源的な、根源的な欲求を解消するための、夜急を解消するための、根源的、源泉的、超次元的、多次元的、超常的、超自然的な、その何かを解消するしか無い、のではある。一次元的な欲求をかいしょうするための現代メソッド、法本論、それ自体すでに、前時代的、原初的な、人間実態に沿うようなものではなくなってしまっている。一次元的欲求が社会人間社会事物ym出来事などによって実現されたとしても、それは所詮一次元的なものしかなく、一次元的なもの一次元たら占めているにすぎない、。一次元的な欲求を愚かにも何百回、何千回、何万回とk気の遠くなるほどに実現させようとしている、人間社会、それ自体が誤りにすぎず、我々が目指すべき、自己実現、実現はまさに、一次元的なものを生じさせているものおの根源である。根源は源泉であり、一次元的欲求が生じる、その源泉を我々が、一次元的に解消してしまっていては、所詮一次元的でしか無いことは明確。発送をかえるための、発想をかえる、それすなわち、欲求の源泉への対処法なのである。欲求の源泉といっても我々あh、未だかつて、それを言語化したり、ましてや認知したりすることはいまだかつて実現せしめたことはない。一次元的な自己実現が生み出す、一次元的ん自己実現あhは逆説的に一次元的な欲求をまた、同時に生み出すことも行っている。一次元的な欲求を解消し、一次元的な欲求を一次元的に解消せしめても、我々人間構造的には、その一次元的な欲求を認知してしまうことにもつながってしまう。それを潜在的な意識下で我々あh一次元的案欲求のwパターンをmた、また認知してしまうことにもつながってしまう、。つまり一次元的な欲求を煩雑にし、雑然にし、永久うに沸かし続ける源泉あh、根源的欲求のみならず、我々人間構造的に、一次元的な欲求を認知し、解消することで、さら一次元的な欲求のヴァリエーションを増やすことにもつながってしまうことで、一次元的な欲求が生じやすくなってしまっているために起きる、また一次元的な欲求の再生を我々は生きている間に繰り返すに至っている。一次元的よっキュうを我々が解消することがいかに愚かで、前時代的で、後進的な人間のための方法論なのか。。割れ和れはまだ完全に認知するに至っていない。。ソレは我々が現代社会最適化された人間線を含有してしまっているからであり、人間性がまたは、一次元的な欲求を満たすために最適化されているための弊害、そしてソレは根源的ンは、間違いでしか無いのである。根源的に行って、一次元的な欲求を解消し続ける人間社会は変革が、根本的な土台から変革することが必要なのである一次元的な欲求を解消し続けても一次元的な欲求は湧き続け、我々が頭を悩まし続けるに過ぎない。一次元的な欲求が生み出し続けリる一次元的な欲求の連鎖一次元的な欲求を、解消してもまた一次元的な欲求を生み続けるにしか足り得ないことであり、そして自らが生み出す、一次元的な欲求を満たすべくして見たっす、一次元的な欲求はそれ自体が、我々に意味を附さず、一次元的な欲求は我々の認知限界たくみに利用した、いわゆる、無限切ろうてきにな、欲求の連鎖しか無いため、一次元的な欲求を解消し続けいることの無為さが我々は十分に認知しかしそれもまた、しかしそれおっもまた。、一次元的な認知しか我々が認知できる一次元的なものしかないkが、我々は一次元的んことへの唾棄進歩性を持つべフェーズに我々あは、ネクストフェーズ差し掛かっているのである。で、だがしかし、だsしがかし、そうはいっても、我々はまだ、全時限的、根源的ん欲求を解消するためのメソッドを持たない。根源的な欲求を解消するメソッドを持たない我々が出来ることは、そろそろ根源的な事象への認知を働かせることが必要なのである。根源的なよっキュうはそれ自体、本当に今現在、後進的な我々が認知できるかどうかは、我々はまだ分からない、根源的な欲求が生じる原因を突き止めることが出来るのは我々には不可能かもしれない。古代より、人間が、アミニズムであったり、様々な超常的な事象への畏怖から生じさせる、神であったり仏であったり、今日宗教家が言うような、そのような超常的な存在は、我々はいまだかつて認知できていない、。そのような超常的な存在認知し、逃げこむこと、ある種の逃避行動は容易であるが、我々は次のフェーズに来ている。次のステージは、フェーズあh、根源的な事象の解決だ。一次元的な欲求を解消して、そして、無限回廊に迷い込んでいる時代を捨て去れうべきkなのだ。根源的な、源泉的な欲求は、我々が認知できないだけで、それは、また、三大欲求や、つまらない、人間的、社会的事物から生じる、一次元的な欲求ではない。一次元tねきな欲求が満たされたとこrであh、、我々が出来ることはただの堂々巡りしかない。我々が真に、取り組むべきことは、源泉を、欲望の源泉を認知し、ソレを満たすことなである。我々が必要であり、今後、必要である、そう、必要になる、ものもの実物、出来事は、源泉を掌握し、我々を次のフェーズへ導くためのメソッドなのである。根源的、厳選的案事象は我々はソレを解消するに至っていない。根源的なよっキュ、う、それはまだ我々の認知科に及ぶに至ってはいないが、、しかいsk,、根源的にはソレをほっ知っている。割れ我が、欲望との闘争歴史におおいて、必要であるノアh、根源的な欲求をいかに、認知するか。それにつきる。それを仮に、精神的、こころが我々の根源的な欲求の源泉であるとしようl.こころはまさに実態がない、我々の認知科に及んでいない。。こころを満たすものあh、今現在流通している欲望では案あんあい、ない、先程述べた容易、に一次元的な欲望を満たすことは現代人間社会で容易なことである。、それは3大欲求や社会的な、精神tねき充足に近いだろう。。そのようなつまらない、後進的で、憎むべき、唾棄すべき、事象はもうすでいnに我々あh手放すフェーズを迎えている。こころを満たすべき事象こころを満たすべき事象は何に依るのだるか、だろうか。それは一時的な充足をすべて捨て去った。現代宗教家が実行しているもののさきにあるといえるかもしれない。または、一時的な欲求を解消し続けた先に、いつかおとずれる、根源的な欲求を絶つフェーズへ我々あh訪れることができるのかもしれない。あるいは、もっとなにか、脳髄を揺さぶるような、脳幹をぶん殴るような、そんな衝撃が、精神的とも、身体的とも違う、そういうインパクトを我々あhどうにかして体験する必要があるのかそもしれない。そして、それは天啓に似た、それは気づき、根源的な、もっと、なにか、、。気づくことが必要なのかもしれない。。我々が持っている視点認知では認知で起案い。。出来ない。認知を超える、あるいは認知を広げる、または認知の裏側にある、ソレを我々は認知することで、それこそ、根源的な、源泉的な、欲求、あるいはそれともまた違う、なにか、現代、現状、人間にhにはい認知でないん、何かを認知するに至るのかもしれない。進歩的な、その知を我々が獲得するために派、現代を捨てる、執着を捨てる、そうsれは知のカタストロフィーである。それが、革命必要なのだ現代我々が、論じる、認知するっもの、知は、真の知へとは至っていない。としかいいようがない。。物量的観念的な充足、それはもう満たすことが可能なのであり、。それを我々はもう100年い所以上、、異常く、以上繰り返してしまっている。本来必要なのは、次のフェーズへ行くことダリ、次の知、知覚、認知は我々が1000年先の人類、10000年先の人類が獲得しているものを、我々h日進月歩で獲得しようとしている。真の知、というものは確実にそんな良い、、お、存在し、ソレは、現代社会、我々が、唾棄すべき、人間一次元的なもの、そrは1000年後の人間にとてじゃは、非常に視野の狭いもおの、認知に至っていない、あらゆる観念が、我々あh100年後1000年ご10000年後「のために、認知に至るための準備をはじめなければならない。一次元的な欲求、認知は我々がすでに、うんざりするほど、まとわりついている一次元的な欲求は、早々に放棄するべきものであるそれからまず、認知し、日進月歩的に個人個人が、一次元的な欲求を捨て、根源的な欲求、根源的な、源泉的な欲求をそうそうに突き止める必要がある。。。それは100年後、またh1000年後の人間にはアタリマエに認知されているもの、そう私が信じているものnにほかならにあない、人間なh、科学技術のみで進歩的人間的な充足を得られるというのは、ある種の現代社会蔓延する嘘でしかなく、本来我々が求めるものは、科学産業技術にはない。それらが我々に与えるもの、我々を救うものは、しょせん一次元的案欲求をでしかなく、それは今現在語られるつまらない愚かな、欲求のためのツールしかない。我々が、本来求めるべきは、現代社会、に最適化されることではなく、現代社会最適化された、欲求、身体的、精神的欲求ではなく、本来我々が求めるべきものは、それを超えた、ソレの下に埋まっている、またhあ、。ソレの裏側に潜む、または、それに内包されている、我々があいまだ認知下におくことができない、根源t気、源泉的な、欲求、または欲求とはまた何かの概念的な観念のを我々は更生のために、更生のために後世ために残すべきものであり、それは個人個人の意識ないから進歩、進捗が行われるべきものにほかならない。一次元的な欲求は100年、1000年後の人間コミュニティでは、それhあ、それはすでに実にチープな概念へと堕落していると私は確信を持って言いたい。。100年後1000年後、我々が途方も無い科学ギジュつを手に入れるか、それは、現代社会病理のひとうつで一つである一次元的な考え方であるが、我々が本来、欲するべきものは、必要とするべきものは、ほんr内は、本来は根源的な欲求、源泉的な内面人間という存在認知で規ていない、認知へ踏み出すことであり、それは100年後1000年後にはアタリマエになっている認知なのである、。我々あhまだ、それを見ることhおろあか、認知することができていない。それは我々の目の前にあるかもしれないし、考えもつかない、超次元的な認知下にあるものかもしれない、あるいは、常識認知、知を混ぜっ返した裏に潜むような、今世では手に入れられない、真の知ともいえるだろう。宗教家が言うような概念偶像化、は。教義化は我々の頭皮だ、逃避だ敗北なのだ。100年後、10000年後の人類、とも呼ぶべき我々の次のフェーズである存在が見れば、まさに嘲笑に附さずにはいられないような、後進的で全時代的な、そんな概念、我々が本来追い求めるべきもの放棄して、自ら目をそむけるような、そおようlそのような社会のあり方では、我々に待っているものあh破滅、あるいは、なにかもっと恐ろしい物がわれわれに待っているだろう。一次元的な欲求が我々に与えているもの本質は、破滅破壊終焉なのだ。。k我々が闘争するべきあh、経済的な、社会的な、政治的な、科学的な、技術的な、創造的な、文化的な、対人的な、そんな、ものではない。それらはすべて、現代社会をこうせいしている一次元的な事象しかない、我々を惑わすものの一つでしか無い、100年後1000年後の人間がそのようなものには、おそらくkく、精神的な肉体的な充足を放棄しているだろう。超常的な存在超自然的案存在、それらが存在するのかというう愚問、我々が、我々人類の中にこそ、認知の次のフェーズへの全身こそが、我々を真の人間、真の知へと導くものにほかならない。」l。人間との闘争人間内の闘争を諦めることは非常に危険であり、我々が漸進的ことを及ぼす必要がある。。 Permalink | 記事への反応(1) | 01:45

http://anond.hatelabo.jp/20151017233618

ゃあ死ぬかなーそろそろまあもうそろそろ終わっていいでしょって感じで死にたい事故死とか病気とか嫌すぎる。だkら、ツラいだろうなと思う。遺族もそうだけど、何より。本人が一番つらいだろう。死んでからつらいという観念を持てるかhは甚だ疑問だが。もし魂が会ったら、俺ならあの世めっちゃ文句言ってると思うしめちゃめちゃ悔しがってると思うし、殺したいくら自分を殺したやつを呪っていると思う。当然だ。そういう観点から見ても罪深いなー。死にたくない。死んだらおしまいからすべてがおしまいだkら。嫌だな怖いなそんなの嫌だな。何でだよ。俺は不老不死になりたい。ずっと生きていた。人類の終焉まで見届けたい。そして太陽に飲まれて灰になるまで生きていたい。あー、人類ってこういう風に終わっちゃうんだってあーなるほどって納得したい。親兄弟友人馴染みのある人物みんなが死んでもいいから生きていたい。そう考えると100歳を超える人はやっぱり身内がいないとダメだな。次ブンと同世代のひとがみんな死んで当然親兄弟も死ぬ年令になって、そんな時に孤独とか、人間は耐えられなさそう。100歳を超える人は凄いな。自分と同世代の日は軒並みしんで、自分だけが次の世界を見ていられるって、素敵なことじゃないか。同世代は皆知らずに死んでいったことを、自分は知ることが出来る。100歳って素敵じゃないか。自分だけが見た景色。でも、次世代の人は普通に見てるわけで、ソレはムカつくなwやっぱり不老不死だ。自分と同世代のつながりがあった人たちを全員看取って、それで次の世代を生きていくって、素敵じゃないか。でも、そうだな、次世代とつながりを持てるのだろうかと考えると難しいな。さすがに身を隠すしか無いか、世間パニックになるから、で、いつまでも自分と同世代を生きていた人物たちを思い浮かべながら生きていくのか。うん。うーん。不老不死もツラいな。ああ、でも、そうか世界中の地を訪れたいな。海底も良いな、海底を散歩したい。不老不死になって大海の真ん中で浮かんでいたい。海の生物たちをふれあいたい。深海を遊歩したい。うーっm、不老不死いいな。ああ、でも宇宙も行きたいなあ。なんだっけ、惑星タイタン?もうあれの存在もすげーし、絶対生きたいね。世界冒険するには遅すぎて、宇宙冒険するには早過ぎる時代だって誰かが言ってたけど、宇宙冒険って可能なんだろうか。それこそ不老不死にならなければいけないような気がする。あー、いいな火星もいいな。でもやっっぱり太陽系以外に行きたいな。NHKのBSの宇宙家の番組もなかなかロマンにあふれていてよかった。冒険したさを書き立てていた。あー、死にたくねーな。死にたくねーな。地球全てを見て、宇宙全部を見てから死にたい。駄目だ。100年ちょっと人生でも無理だ。悲しい。後そうだな。世界中の、書物も読みたいし、世界中tの映像作品も見たいし、世界中の娯楽作品w楽しみたい。あーあ、人生ってつくづく足りないな。今世の意識があるまま転生したい。ああーあ、死にたくねーな、一日は長いけど、一生って短いな。頭で考えるとそうだなあ。やだなー死にたくないなー。そういう意味で行くと、事故事件で生命を絶たれたひとは、とんでもないな。人一人の命を奪って正直、取り返しのつかないとんでもない悪行だろ。その人の今後の可能性すべてを奪うわけだろ。遺族がうんぬんより、それが第一にとんでもないことだろ。自分の身に置き換えて考えてみると、絶対嫌だわ。そんな他人に自分人生強制終了させられたくねえなあー。許せねーだろ。殺人ってッ罪が重いなー。どんだけ償いしてもそれはもう取り返すのは不可能だし。ほんと遺族も悲しいんだろうけど、何より本人だろ。怪我とかはまあ、時間を金で補えばいいけdp、死ってもうどうしようもないしな^。どうすんだよ。これ。正直俺が殺されたら、殺した奴は絶対に殺したいし。人を殺めた人間はどうしても償うことあh不可能だよなあ。教習所事故で人を殺めたヴィデオをみたけおd、アレもクルものがあったなあ。そうだ、この場合は、どうなるんだろ。俺が偶然人を殺めてしまったらどうなってしまうんだろう。いやあー。。。それは考えても考え尽くしてもどうしようもねえなー。死んで償うってことも出来ないし。何よりそうか、遺族の心はもうどうしようもないわけで。俺が何しようがどうしようが、もう壊れたものは元に戻せないのか。。。うーん、そうなるとなあ、うーん、やだなー怖いなー。死ぬのの死なせるのも怖いなー、どうしようもないなー。やだなー怖いなー。心ってのは厄介だなー。どう償いをしようともう心に受けた傷ってのはどうしようもないわkで。そうだな。もっと心の傷ってのは重要視されてもいいかものなあ。いいだろ減るもんじゃないしって心は減ってるって何かで見たけど、まさにその通りだあなあ。心がすり減った場合ってどうしようもないもんなあ。いじめ学校にいけなくなるとか暴行とか器物破損とかよりもまず第一に心の傷がもんだいだよなな。心の傷ってヘタしたら一生涯引きずるわけで、いくら償いしても取り返せるものではないしなああ。そう考えるtp、いじめ加害者ってのはとんでもないなあ。人の心を壊しておいて、どう落とし前つけるんだろ。ああ大半の場合落とし前をつけることはないのか。そういうやそうか、いじめはいじめたガワは覚えてないっていうしなあ。それもあれか。事実と罪深さを自覚したら、人は耐えられなくなるからかな?いやそもそも、耐えられなくなる人はいじめなんてしねーかあ。うーん、やだなー怖いなー人間社会怖いなー、心の傷って知らんうちに出来るもんだからなー;知らんうちに加害者になってるからなあ^・どうしようもない場合もあるかー。そういえば俺が、学生時代クラスメイトをある一人を面白半分に罵倒しちゃったことがあったなああ。。。あああ、あれも何でそんなこと言うの?的な顔されたなあ。アレもとんでもなく悲しい顔してたなあ。・・すげえ謝り倒したけど、ほんと申し訳なかったなあ。正直あの出来事でももう償いきれないのではと、オレの中でh思ってるし。ほんtの後悔してもしきれないなああの出来後お手ゃ。ましてや、人をいじめてたり、人を殺めてしまったら、俺はどうなってしまうんだろう。罪の重さに耐え切れる自信がない。まあ、自重していこう自嘲が大切だコレ。^^^・・。。。うーん。。。っておいwこいつカップラーメン食った後コンビニの袋に入れて縛ってやがるよwワロチwろwゴホホホw。ダハハwうわー、wはあ、コンビニでよく売ってるやつだなこれ、、ってwおいおい袋w!袋にコンビニの名前書いてある!wダハハwコレ常識上s気wぬほおおあwはあ、いい年してお前ww。。。自炊しwりwろwバカやろwっw自炊ってお前生きる力に直結だからなw直腸にも直結だけおwどw我はっデっぃwダサい出しあwスキルになるんだよな自炊ってのはwあー、説教してえ、こいつに説教してえ、・・・人生舐めるなってw舐め腐ってんんあよw人生厳しんだぞwって説教してーあー説教してえ、くっっそー。説教してえせっきょうしたさが高まってるよーー。。wせっっくすより説教だ!w説教ってきもちえーもんなー。俺もよく近所のガキどもに説教してたなー。説教きもちえ^からなー。へたな風俗嬢とせっっくすすうるよりきもちえええーわw打破っwダハアハwむっっほwあー、石鋸してwどほっっぅふw室町、室伏wッッッwロンゴバルディwはははあああw嗚呼wそういえば近所のあのガキは元気かな、ちょっと勉強できなさそうだったし、顔もあんまりよろしくなさそうだったけおd、どっかで元気にやってんのかなあ。あいつも、俺でさえ苦労してんだから、あいつもきっと苦労してんだろうなあ。ブホっw親切だ俺!wあいつを案ずる俺w杏を案ずるwブホリォイwなアパtゥwハー、懐かしい。。。夏かしい。。。b歩ッィイイwツッ!wゴロツキッwああーワロかせるワロかせる出来事が多すぎるwわろかせるわー。うーん、、、、、っここにあったのかなあwおいおいおいおい、通帳あるよwブホルミンwッォタwくろわすwどれどれどれー、ヲジサンにミセテチョーーダイw無ホイッwwwwおっwwゴホロwぅwwww全然ねえええ。ww笑かすわw人の通帳おもしれえええ。wこいつ、駄目すぎだろw所得低すぎw非正規かこりゃwおいひおいひwどう人生をさぼってたらこ^ーなんねんwなんでやねん1wお前の貯蓄何でねん!wアホちゃいまんねんパーでんねん!w所得がパーでんねん!wクホッw笑かすなあwこりゃ、もしかしてアレは・・・自業自得だああああああああ!!!!wwwwwwwwkyほw人生をサボってたつけだあわw説教ポイントまた貯まるwうほーーーwこいつの貯蓄はたまらないのにw俺のなかの説教ポイントはうおお積立預金wwダハリlいwはーー。真面目にアレだ、むしろアレだ心配だわ・・・wこいつの将来がwおおおーいw大丈夫かw?食ってるか?うまいもん食ってるかーw?インスタント?おおぉおおおい!!!突っ込みどころ多凄いw馬鹿yラオwクエッw食えっwうまいもんを自炊して食えwあっ・・・酷か・・この金で食料にきをつかうのは濃くk。。ゴメンなきつい説教して・・・ってバカやろwお前、あまえんな!あまえんな!お前が低い給料で怠けてる間に高所得者達はお前の何十倍も稼いでんだぞ!wあまえんな再就職しろw高所得層にジョブチェンジしろwハローワークへ行け!wあっ、逝けだったw逝けハローワークで、年収を50倍にしろw見下せw人類を見下せる職にジョブチェンジしろ!wあまえるなw頑張れwあまえるなwがんばれW見せろ根性!!!wはあー、わろかせてもらいましたわ、人の通帳でこんなに笑ったは初めてだ・・ごっつええ感じのDVD全巻より笑えますわ。。。こんな薄っぺらい通帳でごっつええ感じのDVD全巻より笑えるとはコスパええわ・・・wしかも値段もそんなに変わらないこともない・・・リーズナブルプライスwwnebadleiwオボwムヒltいwはー、はらたいら世界オルゴールの館・・w腹痛いはw写メ撮っとこwそりゃーwパシャwパシャwどははwうほー、boketeに投稿しとくわwいや、この画像自体すでにボケかwぬホイファls;樹www狂おし良いwはー、わろ化したくれたわ。w引きずるwこれ数週間引きずりますわw思い出し笑い確定wぬほんでぃわwl;っほwwwwがあhぃwwはああー、、、、しかしこうしてみると、他人の家ってのは安心感がないなあ。やっぱ家主がいなくてもくつろぐことはできねええなあ。そこがアレか出世出来る人間と出来ない人間の差的な。おいおおい、俺はなんだかんだ言ってお行儀の良い人間からなあ。やっぱり相手の気持にたって色々と考えちまう。相手の気持ちに立って考え続けた結果、あれだ人間関係も希薄になってるからああなあ。人を傷つけずに生きるには人と接しないのが一番ってか!wノハハw自嘲しるww逆説的w逆説的w愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけないって覚悟をもってればなあ。あれもだいぶ自分勝手な歌だと思ってたもんだが、今思えば、なかなか人の業をとらえたいい歌詞だ。あれぐらい身勝手に生きないと、人間なh心を縛り続けて生きてしまうのかもしれない。なあ。愛されるよりも愛したいマジでっていう姿勢も大切だな。なかなかいいこといってんじゃねーか、1000両役者シンガー共も。確かにもっと、オフェンシブにな。愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけないっていう姿勢をもって、愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけないっていう心持ちをもって愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけないっていう姿勢実践することで逆説的に愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけないって言う事にはならずに、同時に愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない状態を実現できることこそ、愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけないから学ぶべきことであって、自分愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけないっていうことを実践すればよかったな嗚呼。または、愛されるよりも愛したいマジで、っていう姿勢をもって愛されるよりも愛したいマジでっていう信念をもって行動にしておけば、逆説的に愛されるよりも愛したいマジでっていうことを実現できるのではないかtという気もするなあ。愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけないことを信念に、愛されるよりも愛したいマジでって姿勢を持って、愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけないってことを行動に移すことで、おそらく大多数の人が悩みから開放され、愛されるよりも愛したいマジでって状態をテーゼへと消化できるんだろうなあ。ああーあ、後悔ばっかだアタシ。。。アタシって弱い人間だわ。。。って、そうこうしてる間にお前、こんな時間かよ、はあ、時が経つのって早いなあ。時間が立て!時間よすぎる!ってうちは時間が過ぎず、時間よすぎるな!時間よ立つな!って時に限って時間がすぎるのはアレか、これも人の業なのかなあ。許せねえな。神様が許せねえな。下手くそだよ人の作り方が。バカやろ。許せねえ。。・どうすえれば復讐できるんdな。これ、許せねえ。神が許せねね。神は死んだってなんかだれかが叫んでたけど、まさにそのとおりだオワコンだ、オワコンなんだ、人間を作った時ぐらいにオワコン化していたんだ、神は。あーあ、俺も黎明期に生まれたかったよ。神の全盛期に生まれたかったよ。オワコン化する前にこのジャンルに関わりたかったよ。オワコン化してから飛びついちまったよ。人間を一週間で作るあたりから迷走が始まってたね。贔屓目に言ってもあそこからオワコン化始まってるね。ああ^あ、くそったれ、オワコン化はえーよ。ダボハゼッ!オワコン化してから色々てをくわえてもおせーよ、もっとはやくきづけよ、無茶してからとりかえしはつかねえよ、ユーザーの心は離れてんだよ、あーあ。オワコンだわ、悲惨だわー、オワコンだわー、クソッタレ、、、、生ごみ野郎め。。。いいや、やめよう、オワコン化なんて単語をつかっちゃあいけない、オワコン化なんてただの一方的レッテル張りのクソみたいなワードでしか無いんだ。終わったコンテンツって、、、何基準だ!コラ!馬鹿やろう!てめえの勝手物差しで図って好き放題喚いてんじゃねえぞ!あー、許せねえ、すげえムカついてきた。。何がオワコン化だよ、最初にこの言葉考えた奴誰だ。すげえ悪意の塊みたいな言葉から、相当、多分、おそらく、推測するに性格が悪いだろうな。見た瞬間、あっ、こいつがオワコンって言葉考えたなってレベルで性格の悪そうな顔してんだろうなあ。そういうやつの顔ってやっぱり見ただけでわかるからなあ・・・会っ、こいつ駄目だ、ネットで暴れてるわ、あっ、こいつだ駄目だ、Twitterではしゃいでそうだ、って顔を見ただけで一発でわかる奴ってゴロゴロいるからなあ、、、ああ、やべっ、あいつらの顔おもだしたら、原立ってきtあ、あはらたいら世界オルゴールの館だコレ、あ^。腹立ってきた。ムカついてきたー。なんで俺はあの時、あのスマホを見ながらダラダラ歩くアイツをはりたおさなかったんだろう。何で俺はあの時、横に広がってダラダラあるく女子大生集団スクラムかまさなかったんだろう。何で俺はあのとき下品な笑い声ではしゃいでる大学生っぽい集団を一発ずつ殴らなかったんだろう。何で俺はあのとき。調子に乗ってる風のでかい顔してるチャラいアイツを6発殴らなかったんdなろう。何で俺はあの時、繁華街ででかい顔して闊歩してる、腹立つほどでかい態度のあのやからチンピラやいい年こいた大人をなんとか、地獄に送ることをしなかったのだろうか。はあ、街を一歩歩くだけで、腹立つことが5個位ある世の中だわ、特に夜の繁華街歩いてる奴の9割9部はムカつくわ。あいつら態度デカすぎだわ。・・・おとなしく家で待機しとれや、ボケカスがって一人一人にいってまわりたくなるね。まあそんなことしたら100ぱーせんと殺されるだろうけどね。あー、そういうところも許せねえな。。法が及ばない範囲でやりたい方だ、ダボが。。。糞野郎、、、あー。ムカついてきた。夜の街を歩いてる人間がムカついてきた。教育の無力さを感じる。どんだけ道徳でいいこと教えても、結果、あん人間g量産されるとか、教育の敗北だ、排斥してくれ、排斥運動してくれ、ああいうヤカラやチンピラやプチチンピラみたいな男女、でかい態度のおっさん、全員排斥してくれ頼む!!!暴力団排斥運動もいいけど、あいつらも排斥してくれ!!頼む!排斥運動してくれ!全人類、自宅でぼーっとして一日過ごす人間になるように、小学生のうちに脳をいじってくれ!義務化してくれ!小学一年生入学式直後に脳をいじってくれ!尊大な態度と野蛮な行動が出来ないように脳をいじってくれ!たのむ厚生労働省1?いや文部科学省!脳をいじるか脳にチップを埋めてくれ!周りの人間不快感の与えたら脳がはじけるチップを埋め込んでくれ!頼む!あいつら、ムダに態度と体だけはでかいんだ!俺達の人権を平気で蹂躙してくるんだ!!頼むあいつらをなんとかしてくれ!あいつらを排斥できるなら徴兵制が復活しても良い!あいつらをなんとかしてくれ!!!頼む!脳にチップ強制的に!ポルポトのように!ポルポトのようにあいつらをなんとかしくれ!あの粗暴で下品人間たちをなんとかしてくr!!!頼む、ぜんざいさん叩いても良い!!!頼むあいつらをなんとかしてくれ!!!!ああああムカついてきたWWW!!!あー、どうしようもねえ、、、これはまさに月に向かって石を投げるような行為だ。石に向かって石を投げるような?おそnfj。はあ、落ち込んだ、なんか世の中の理不尽さを改めて実感して、落ち込んだ、あいつらをどうにかして欲しい、こんど、投書しよう新聞意見欄に、市役所にも言いに行こう。行政の仕事だ、市民の義務だ。あああ、。。。はあ、、相変わらず切ったねえな。この部屋はよ。あー。やっぱ、モテねーのかw?恋人はいなさそうだぞっwいやいやいたらこんな汚くなんない!w気遣いが出来ないってことはモテない、モテナイから気遣いしてない。!wこれが真実だ多分!wああはf;wwダサ坊だnダサ坊団wwぼほljだjw説教してえええwまあ、うん、そうじってのは面倒くさいあら、気持ち分からんでもないよ、俺も誰かやってくんねーかなーって常日頃おもてるよ。。。ぶほうっw常日頃は思ってねええwたまにたまにえwたまにwおもうくらいだコレwwnyぎやwえじゃおふぁほw打破あhwダハウぁwwぐほティパズリアjw受けるwはあ、正味な話、あれだ、うーmn、こういうときあは、やっぱ、人ってのは誰かの存在を欲するね、マジで、。おっさんもそうおもうね。。。。誰かアガ近くにいるって存在感はやっぱ全然やっぱ全然やっぱ全然やっぱ全然やっパッ前違うわけだからね。え。例えば、それが生まれた頃や幼少期は親であり、っていうか親というか家族の存在ってのはそういう意味でとても大切なモノだね。。。誰かがいる安心感と後、家?家も大切ね。かえるところがある安心、大切ね。異国の地で一人になった時の不安ってのはハンパないハンパないわけだし、それを自国で味わいたくはないね。まあ、そうはいても、親はやっぱり毒にも薬にもなるわけでい、子供の将来を決定づけるのは、なんだかんだ言ってがっこうって よりは家庭環境が8割9割占めてんじゃねーかと俺は睨んでるね。家庭で教わることってのは、学校や世の中で教わることの基礎にしかれるだろうし、そもそも、学校社会で学ぶことは応用であるわけで割。。。家庭が良ければ、そういう意味では、良い人生に歩めるのかね。そういう意味で、俺は微妙だったのかもしれない。、それは今でもよくわからないけど、。ネグレクトや虐待が子供に及ぼす影響ってやっぱ絶大だえね。あんまり大層なことは俺hわかんないわけだけどさ。。。うーんあ、世の中の大きなズレってのはひとつひとつの家庭の小さなズレから来てんのかもしれないねええ。。。また、まあ恋人ってのも違うわけだコレあ、家庭の安心感ってのは母なる大地だとしたら、恋人はまああ。なんだ、美味い例えが見つからないわけだが、船着き場のような?世知辛い世の中を渡っていくための。?まあ、そんな感じだなあ。俺もなあ、もうちょっと上手くやればなあ、と後悔のれんぞくなわけd、こう、需要と供給があってなかったというか、あれは一概に、俺の気持ち悪さのせいではないね。。まあひとつ大人になってないかっていったら嘘になるね。めんどくさい子との法が多いけど、まあ、アレが、家庭になるわけでい、ーん、おれは家庭を作れなかったってわけで、うーm、後悔しかないわけであってって感じっで。心が離れてってるのを感じるってのはツラいもんだね、、、つれーn、人間関係つれー、心の機微めんどくせー、こえー、。。はあー、落ち込んだ、落ち込んだ、落ち込むことのほうが多い、そもそも俺は、モテナイわけであるから恋愛市場mの勝者ではない。うーん、つらい、社会でも勝者ではないわけで、つらい、。あー、ヤバイ、死にたくなってきた。唐突に、。過去のことを思い出すと死にたくなることしかない、なんでだろう、おそらく、何かを乗り越えてきた体験がないからだおるか。。…何かを大きく乗り越えたり、何かに大きく挫折したりした経験がない。だから、確固たる自我が構築できていない。フニャチンなのだ俺のの精神は。経験は。死にたくなる。死にたくなるけど、つまり現実逃避したくなる。小さい成功より小さい失敗のほうが、人生は多いわkで、そうなると必然的に、心に傷は細かくつくわけで、そうなると必然的に、思い出も後悔しかないわけで、そうすると、自分がフニャチンのだせー存在だということから逃避したくなるわけで、でそうなると死にてー死にてーって言いたくなるわkで、大した成功体験も当然このままでは積み重ねられないわけで、そうなるとどうなるか、もう何かを、自分のなかで、何かを築こうとする意識も、意欲も失せてしまうわけで、デフレスパイラルみたいに、袋小路にはまるわけで、すると、ますます、過去は色あせたものばかりになるわけで、すると数年後、また自分人生を思い出すと、後悔しか、思い出せないわけで、するとどうなるかというと、数年後の俺は、また、しょぼいださい自分から現実逃避したくなるわけで、すると、俺は何をその時するかというと予想はついていて、また意欲ややる気が減退して、うだうだ過去の自分を恨み、今の自分を慰めるっていう無限回廊を歩むわけで、結局は、過去を思い出し、現実で後悔し、過去の自分の過ちを現在何となく反省して、その現状をなあなあで生きていって、ダラダラ、積み重ねるものも積み重ねず、積み重なるのは歳ばかりであって、で、また過去の自分呪い、現状を慰める、現状を慰める言い訳のために、ダメな過去の自分を作っているのではないかと疑ってしまうくらい、自分は同じことばかりを繰り返して、同じ後悔をしている。つまり、現状をかえることは未来かえることに直結しており、そして引いては過去をかえることにもつながっていると俺は十二分に分かっているつもりだ。でも、何故か行動に移していない。何故行動に移さないのか。それは簡単なことで、俺は人間である限り、感情がある、怠惰が俺の性格の大部分を占めていると分かってる、。生来備わっているこの怠惰という感情こそ、現状を停滞せいしめている、現況であり、当然、今後も自分の中で大きくもたれかかってくる存在なのだ。克己という言葉があるがまさに自分に必要なのはそれだろう、、克己、己に克つことの必要性人間誰もが分かっている。でも、容易には打ち勝てない。何故か、ソレは人間怠惰からだ。。怠惰から、現状を慰める、そのために過去を持ち出す。過去を持ち出すために、現状をないがしろにする。人間無意識のうちに自身を殺しているのだ。この現象からさ、導かれることって何嗚呼る

2015-08-28

長編大作をスケールに見合ったノリで畳もうとすると

http://anond.hatelabo.jp/20150825163025

益体もなくつらつらとだが上手くやろうと思ったら

1.長編だがそもそもスケールを大きくしすぎないパターン

 セットアップがある程度整った段階で、話の規模はもう見えていて、実際それを超えたスケールの話にはしないパターン

 ある意味予定調和な規模で話が畳まれて行くので、クライマックスは個人の内的な心境変化で魅せて行くくらいしか、盛り上げる手がないのがネック。

 女性作家が得意かも。男性作家キャラクター内面を成長させてしまうと、キャラ付けが変わってしまうためか、終盤に心境変化を魅せるのを嫌う傾向があると思う。

2.実はSFでした・メタ世界ありましたパターン

 とにかくもっとでっかいスケール世界の手のひらで踊っていたんだよ、というパターン

 80~90年代にわりと見たというか正味やりつくされていて、すでにネタ割れきって、パロディもされつくした感はある。

3. 2の逆、結局素朴なもの・大自然的ものこそが唯一不滅パターン

 最初からSF場合は逆にこっち。

 自然を幼心に置き換えれば、セカイ系ある意味この一種だと思う。

 頭で理解できることなんて、実はこの世界ではちっぽけだった系。

4.ジャンル:大河

 最初からスケールでっかく広げて畳めるテンプレートが整ったジャンルとして成立している。

 国一個滅んで、別国が一個成立して、最初からいたキャラが一人、時代の終わりと共に象徴的に死ねば良い。

スケールでかくすると畳みに失敗しやすいケース

1.サイコ

 異常者であるものが、社会を飲み込んでいくケース。

 サイコ20世紀少年もコレで詰まった感。

 地球人類滅亡オチくらいしか、上手く話を畳める方法がない気がするが、ハッピーエンド症候群なのが長編読者なので厳しい。

(辛うじて大自然オチへ持っていけば何とかなる?)

2.主人公が常に報われる

 主人公強くなる、敵をもっと強くしないといけなる、の典型サイクルにはまって、収拾つかない。

 JoJo式のリセットが一つの解決手段だけど、キャラファンがついてこなくなるのと、ゲームとかだとリセットされたらプレイヤー萎えるため、長編メリットが得られないジレンマ

3.主人公一定位置から動けない

 学園ものなど。

 旅型主人公場合キャラが不変でも環境が変わるのでメリハリがつけられるが、環境が変えられないと、キャラを足し続けるくらいしか状況変化の手がないが、増えすぎたキャラでやっぱり収拾つかなくなる。

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考察

1.煽った以上は、煽りに見あった結果を出さなきゃ萎えるが、劇的な結果が次々続くと、世界観分散して、全部どうでも良くなる

 煽りをこまめに回収していくと、劇的な展開が続くわけで「どうせこれも簡単にひっくり返っちゃうんでしょ」と、なる問題

2.そもそも「煽りと回収」とは何か

 「回収」とは「思い込みが崩れる変化の瞬間」であり、「煽り」はその予告。つまり回収段階で、状況の見方根本的に変わることが起こらなくてはならない。

 これは適度な量なら良いけれど、何度もやると、そもそも信用できるものがなくなっていって、何もかもどうでも良くなっていってしまう。

3.細切れ連載もの問題

 ある程度辛いシーンが続かないと、あっと言う間にインフレするが、辛い状況に連載の読者は耐えられない。

 かといって、定期リセットも、長期ファン資産を失いかねない。

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そもそも論

エンターテイメントはどこかでリセットする瞬間がないと、破綻するが、コンテンツである以上は、多くの客から金を回収することが最上であり、そのためには長期にコンテンツを続ける以外にほぼ道はない。

そのため結局、客が離れるまで、破綻てもとにかく提供し続けるしか道はなく、そして破綻する瞬間を先延ばしにする技術重要視される。

結局「コンテンツがちゃんと終わること」を誰も求めていない。

何故ゲスト系は廃れた?

 旅もの職業ものなど、毎回毎回別のシチュエーションを持った奴らが出てきて、そいつらの物語の解決に、主人公が尽力する形式。連載ものでは安定した手法

 これは恐らく、固定キャラが少なく、また固定キャラ本人にはドラマが起こりにくくなるため、キャラ萌えがやりにくく、キャラ商法メインだと使いにくくなったため。

2015-06-01

カロリーは恐ろしい。

カロリー商品名に付いている者があるが、とある商品について気になることがある。

この商品カロリー名前に付いているかカロリーオフとかそういう類かと思ったけれど

全く違うものだった。

カロリーがたんまり含有しているやつだった!

カロリーオフカロリーゼロカロリーフリーなどの商品特保とか健康食品に多い。

まりカロリーを減らすことこそ健康に繋がるのに、

ベクトルで攻めているカロリーたっぷり商品もあるので注意が必要だ。

それにしてもカロリーゼロ健康に繋がるのになんでカロリー入れちゃうんだろうか?

疑問が尽きない。

カロリーについて少し調べてみたけれど

物理的な計算式で表せるようなものだった。

自然的ものではなく数学的なものを口に入れているようなものだ。

人工だデジタルだ!

こんなもの規制しないのはおかしい!!

断固カロリーフリーカロリーオフだ!!

2015-04-07

         主    文

     原判決を破棄する。

     被告人罰金一五、〇〇〇円に処する。

     右罰金を完納することができないときは、金一、五〇〇円を一日に換算

した期間被告人労役場留置する。

     原審および当審における訴訟費用は、全部被告人負担とする。

         理    由

 本件控訴の趣意は、東京高等検察庁検察官検事鈴木信男が差し出した東京地方

察庁検察官検事伊藤栄樹作成名義の控訴趣意書に記載してあるとおりであるから

これを引用し、これに対して当裁判所は、次のように判断する。

 控訴趣意第一点(訴訟手続法令違反ないし事実誤認の主張)について

 所論は、原判決が、被告人に対する本件酒酔い運転の公訴事実につき、警察官

よつて採取された被告人の本件尿は、被告人に対し偽計を用いこれを錯誤に陥し入

れて採取したと同様のものであり、かつ尿中のアルコール度を検査する真意を告知

すれば被告人がこれに応じないことが推認される場合であるのに、令状なくして採

取したことは、憲法五条刑訴法二二二条(原判決は二一三条と記載している

が、これは明らかな誤記と認められる。)、二二五条または二一八条等の定める令

状主義の原則を潜脱し、憲法一条刑訴法一条要求する適正手続にも違反する

ものであるから、右尿は事実認定証拠としては使用できないものであり、右尿中

に含有するアルコールの程度の鑑定結果を記載した鑑定書も、右尿と同じく事実

定の証拠とはなしえないもの判断し、結局被告人が酒に酔いまたは酒気を帯び

て、身体に呼気一リットルにつき〇・二五ミリグラム以上のアルコールを保有する

状態にあった事実が認められないとして、無罪の言渡しをしたのは、憲法刑訴法

解釈を誤って採証演則に関する訴訟手続法令違反おかし、ひいては事実を誤

認したものであつて、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、破棄を

免れないと主張する。

 そこでまず、本件において問題となる尿の採取及び鑑定の各過程について検討

るに、原審証人A、同B、同C、同Dの各供述、当審証人E、同Bの各供述、D作

成の鑑定書二通、司法警察員作成の鑑定嘱託謄本、当審において取調べた被疑者

留置規則実施要綱(昭和四二年五月二五日通達甲三号)謄本警視庁刑事部刑事

課長作成の「玉川警察署被疑者留置運営内規の報告受理について」と題する書

面、警視庁玉川警察署作成の「玉川警察署被疑者留置運営内規の送付について」

と題する書面、「玉川警察署被疑者留置運営内規の制定について」と題する書面

(右内規を含む)謄本総合すれば、次の事実が認められる。即ち、被告人は、昭

和四七年九月一九日午前〇時四四分ごろ、東京都世田谷区ab丁目c番d号付近

路上において、酒酔い運転の現行犯人として警察官逮捕されたものであるとこ

ろ、酒酔いの事実否認し、呼気検査に応ぜず、玉川警察署連行されてからも右

検査拒否していたが、同日午前二時五分ごろ同署留置場に入監させられたこと、

当時玉川警察署留置場における夜間の留置人の処遇は、被疑者留置規則昭和三二

国家公安委員会規則四号)、前記被疑者留置規則実施要綱および玉川警察署被疑

留置運営内規に則って行われていたが、留置人の夜間の用便に際しての処置につ

いて、右要綱第三、看守の項の「13看守者の遵守事項」中の(15)には、「夜

間、留置人が不時に疾病、用便等を訴えたとき留置人の出房は、必ず幹部の指揮

を受け、他の看守者立会いのうえ措置しなければならない。」と規定されており、

また右内規二一条には、「看守者は夜間宿体制に入つてから留置人の起床、就

寝、用便、急病等に際し、必ず宿直幹部の立会いを求めてこれらを行う」べき旨定

められていたこと、なお同署留置場の房内には便所が設けられていなかったこと、

当夜同署留置場において看守勤務についていたB巡査は、被告人の入房に先立ち身

検査をした際、入房後不時に被告人から用便の申出があると宿直幹部の立会が必

要となるので、入房前に用便をさせておくのがよいと考え、被告人に対し「トイレ

に行くか」と尋ねたものの、被告人が「行きたくない」と答えたので、午前二時二

〇分ごろ同人を入房させたところ、ほどなく被告人から用便の申立があったので、

前記諸規定に則り宿直幹部の立会を求めるため、留置場備付けのインターホンで宿

事務室に連絡をしたが、応答がなくその立会が得られなかつたため、被告人に房

内で用便をさせようと考え、以前留置人が病気ときに使用したおまる様の便器が

たまたま留置場横の物入れに保管されていたので、その便器を出して被告人に渡

し、立会幹部が来られないからこの便器の中に尿をしてくれと告げたところ、被告

人は午前二時三〇分ころ房内において右便器内に排尿し、排尿した右便器をBに引

き渡したこと、当夜内勤宿直主任(宿直幹部)として勤務していた警察官Eは、前

記のように玉川署に連行されて来た被告人の取調べに当り、これを終えて午前二時

二〇分ごろ事務室に戻つた際、警視庁から神田警察署管内の派出所爆弾が投入さ

れたので庁舎等を警戒するようにとの緊急電話指令が入つていたことを知り、これ

に基づき警察署庁舎および付属施設周辺の警備を実施すべく、直ちに宿直警察官

指揮して庁舎周辺等を巡視点検させ、自らもその巡視に出て午前二時四〇分ころ事

務室に戻ったなどの事情があつたため、同人をはじめ他の宿直幹部はいずれもBの

前記インターホンによる連絡を知らず、被告人の用便の立会に行けなかつた状況に

あったこと、前記B巡査は、被告人を入監させる際、交通係のF巡査より、被告人

が酒酔い運転の容疑で逮捕され入監する者でアルコール度の検知が未了であること

を告げられ、被告人から用便の訴えがあつたときは小便をとつておいてくれとの依

頼を受けていたので、被告人の排泄する尿がアルコール度を検定する資料に用いら

れることはその予想するところであつたが、前記のように被告人が用便を訴えた際

には、右のことには触れず、前記のとおりのことのみを申し向けて便器を差し入れ

たこと、そして同巡査は、F巡査より前記の依頼を受けていたため、被告人から

け取つた右便器内の尿を便所に流すことをせず、便器はふたをして看守室に置き保

存したこと、そして同日午前五時ころ宿直事務室に尿をとつてあるから取りに来る

ようにと連絡したところ、同署交通係のC巡査が牛乳の空瓶を持つて留置場に来

て、便器内にあつた尿の全量を右牛乳瓶に移し入れ、その口をビニ―ル製の袋で塞

ぎ輪ゴムでとめて持帰り、同日午前九時三〇分ころ前記F巡査とともに右牛乳瓶入

り尿及び鑑定嘱託書を携行して玉川警察署を出発し、警視庁科学検査所に行つて係

官にこれを渡し鑑定を依頼したこと、同検査所第二化学主事作成昭和四七年

九月二八日付鑑定書は右牛乳瓶入り尿(容量約五〇ミリリツトル)を資料としてし

た鑑定結果を記載したものであること、その他被告人は、現行犯逮捕された現場

警察官がうがい用に差し出した水筒の水を飲み干したほか、玉川警察署に到着後調

室内洗面所において湯のみ茶碗に四杯の水を飲み、その後取調を受けている途中に

捜査係の室にある便所に排尿に行き、これを終ってのち水道蛇口に口をつけて若

干の水を飲んだこと、以上の各事実を認めることができる。被告人は、原審並びに

当審公判においてB巡査から便器を差し入れられたことは記憶にあるが、その中に

排尿をした記憶はないと供述し、弁護人は、入監前に大量に水を飲んだ被告人の排

尿の量がわずかに五〇ミリリツトルであることはあり得ないことであり、被告人

供述をも総合して考えれば、本件において鑑定の資料とされた尿が被告人の尿であ

るということはすこぶる疑わしいというが、被告人の原審並びに当審におけるこの

点に関する各供述は、その他の証拠と対比して到底信用できないものであり、入監

前に相当量の水を飲んだ事実があつても、前記のとおり入監前に一度捜査係の室の

便所において相当量の排尿をしたことが認められる本件の場合においては、入監後

二五分位を経過した時点における排尿の量が五〇ミリリツトルであつても、異とす

るには足りないと考えられるのであるから弁護人の所論は容れることができな

い。弁護人は、また、F巡査からの依頼により被告人の尿を保存することを予定し

ていたそのB巡査が被告人の用便に際し宿直幹部の立会を求めたということは、あ

り得ないことである旨、及び、そもそも前記被疑者留置規則実施要綱及び玉川警察

被疑者留置内規中の留置人の夜間の用便に関する規定は、いずれも、刑訴法に根

拠を有しない違法規定であるのみならず、憲法保障する基本的人権特に生理

に関する自由侵害するものである旨論ずるが、右要綱及び内規は、国家公安委員

会が警察法五条一、二項、同法施行令一三条に基づき逮捕された被疑者留置を適

正に行うため必要とする事項を定めた昭和三二年国家公安委員会規則四号、被疑者

留置規則等に根拠を有するものであつて、それらの中の夜間の用便等につき宿直幹

部の指示を受けることまたはその立会を要する旨の定めは、事故防止の見地から

るそれなりの合理的理由のある規定であつて、疾病等でやむを得ない者については

房内で便器を使用させることができる旨の規定(要綱13の(16))があること

に徴すれば、本件のように宿直幹部の立会が得られない場合に応急措置として房内

において便器を使用することを禁ずる趣旨のものとも解せられないのであるから

その規定自体は、人の生理自由特別侵害するものはいえず、これを違法

違憲とする理由はない。

 またB巡査は、留置人の夜間の用便については宿直幹部の立会を要する定めにな

つているため、一応形式的に宿直事務室に連絡を取つたとみられるのであつて、F

巡査よりあらかじめ被告人の尿を採取保存することを依頼せられていたにかかわら

ず、宿直事務室に連絡したことを架空の全くの虚構のことであるといわなければな

らない理由はないのであるから、叙上の点に関する弁護人の所論もまた容れること

はできない。

 そこで、以上の事実関係を前提として、本件尿の採取行為適法性及びD鑑定書

証拠能力の有無について考えてみるに、被告人現行犯逮捕現場においても、

玉川警察署連行されたのちにおいてもその呼気検査拒否し続けていたことは前

認定のとおりであるが、前段認定のとおりの尿の採取経過によつてみれば、本件

尿の採取は、酒酔い運転の罪の容疑によつて身柄を拘束されていた被告人が、自然

生理現象として尿意をもよおした結果、自ら排尿の申出をしたうえ、看守係巡査

が房内に差し入れた便器内に任意に排尿し、これを任意に右巡査に引渡したことに

帰するものであつて、この採取行為違法というべき理由を発見することはできな

い。原判決は、立会の幹部が来られないというのは単なる口実であるといい、本件

尿は、偽計を用い被告人を錯誤に陥し入れて採取したのと同様であるとするが、立

会の幹部が来られないということが単なる口実ではなかつたことは、前段認定のと

おりであるばかりでなく、被告人尿意をもよおして排尿を申し出て排尿した尿で

あることは、右のことの如何にかかわらず動かし難い事実である。もつとも、看守

係のB巡査が、被告人の尿がその中に含まれているアルコール度検出のための資料

とされることを知りながら、そのことを告げないで便器を差し入れたことは前段認

定のとおりであり、原判決も、被告人の原審公判廷における供述根拠として、

被告人自己の尿中にあるアルコールの程度を検査する意図であることを知った

ならば、尿の排泄を断念するか、あるいは排泄した尿を任意捜査官に引き渡さな

かつたもの推認できる」とし、右の点においても被告人を錯誤に陥し入れたこと

になるものとしていると解せられるが、本件被告人のように、酒酔い運転の罪の容

疑によつて身柄を拘束されている被疑者自然的生理現象の結果として自ら排尿の

申出をして排泄した尿を採取するような場合法律上いわゆる黙秘権保障されて

いる被疑者本人の供述を求める場合とは異なり、右尿をアルコール検査資料

することを被疑者に告知してその同意を求める義務捜査官にあるとは解せられな

いのであるから、右のことを告知して同意を求めなかつたことをもつてその採取

為を違法とする理由の一とすることはに賛同できない。特に本件被告人場合は、

容疑事実否認していたことは別としても、呼気検査拒否したばかりか、逮捕

大量の水を飲み体内のアルコール度の稀薄化を意図していたと認められるのである

から、尚更である

 弁護人は、本件の場合被告人は、その尿が便所に捨でられると思つていたか

便器に排尿したもので、これを検査に使用するといえば当然に反対することが予想

された場合であるから、便所に捨てるというような道徳上または常識承認される

処置完了するまでは、被告人が排泄した尿は、排泄着たる被告人占有に属した

物であり、これについて適法な法的手続をとらず、勝手検査の用に供した措置

違法であると論ずるが、各人がその自宅の便所以外の場所において日常排泄する尿

の如きものは、特段の意思表示のない以上は、排泄の瞬間にこれに対する権利を放

棄する意思をもつて排泄するというのが社会常識上も首肯できる解釈であり、被告

人の場合もその例外ではなかつたと認むべきてあるから、排泄後の占有が依然とし

被告人にあつたことを前提とする所論は、採ることができない。

 これを現行刑訴法上の立場から考えても、理論的には、裁判官の発する鑑定処分

許可状・差押令状を得てこれを採取することその他の方法が考えられないではない

としても、刑訴法二一八条二項が「身体の拘束を受けている被疑者指紋若しくは

足型を採取し、身長若しくは体重を測定し、又は写真撮影するには、被疑者を裸

にしない限り、前項の令状によることを要しない。」と規定していることとの対比

からいつても、本件の場合のように、被疑者が自ら排泄した尿をそのまま採取した

だけでその身体を毀損するなどのことの全くないものは、むしろ右二一八条二項に

列挙する各行為と同列に考えるのが相当である。その他、酒気帯び状態ないしは酒

酔い状態の有無は、他の徴憑によつてこれを判定することが不可能でない場合にお

いても、できる限り科学検査方法によつて明らかにされることが望ましいとこ

ろ、尿はその性質飲酒後の時間の経過とともにアルコール含有量漸減して行

ものであつて、飲酒後なるべく早い時間採取される必要性、緊急性がある<要

旨>ことも、考慮に値いしないことではなく、上述のところを彼此総合すれば、本件

のように、酒酔い運転の罪の</要旨>容疑により身柄を拘束されている被疑者が、自

然的生理現象の結果として自ら排尿方を申し出て担当看守者が房内に差し入れた便

器内に排尿した場合に、担当看守者が尿中のアルコール度を検定する資料とする意

図をもつて右便器内の尿を保存採取することは、たとえ右担当看守者が房内に便器

差し入れ被疑者をしてこれに排尿させる際当該尿を右検定の資料とする意図があ

ることを告知しなかつた場合であつても、憲法及び刑訴法規定する令状主義の原

則及び適正手続に違反する無効証拠収集であるということはできない(原判決

引用する仙台高等裁判所判決は、採血に関するものであり、本件とは事案を異に

し、適切ではない。)。

 そうとすれば、本件において、前記B巡査が便器内に保存したうえ、C巡査が牛

乳空瓶に移し入れて警視庁科学検査所に持参した尿は、これを証拠として使用でき

ないという理はないのであり、右尿中のアルコール度を鑑定したD作成の鑑定書

も、その作成者であるDが原審公判廷において証人として尋問をうけ真正作成

ものであることを供述している以上、その証拠能力において欠けるところはない

というべきである。そして右鑑定書によれば、右尿中には一ミリリツトルについて

一・〇二ミリグラムアルコールが含有されており、これを血液アルコール濃度に

換算すると、血液ミリリツトル中のアルコール含有量が〇・七八ミリグラムとな

ることが認められるのであるから、右鑑定書は本件酒酔い運転の公訴事実証明

欠くことのできない証拠であるというべきである。とすれば、右鑑定書を事実認定

証拠とはなしえないものとした原判決には、訴訟手続法令違反があり、これが

判決に影響を及ぼすことは明らかである

 以上説示のとおり、論旨は既に右の点において理由があり、原判決は破棄を免れ

ないので、控訴趣意第二点、事実誤認の主張)については判断を省略し、刑訴法

七条一項、三七九条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従つて更に次の

とおり自判する。

 (罪となるべき事実

 被告人

2015-03-31

http://anond.hatelabo.jp/20150330162001

こういう人に限って、新年初詣に行き、盆には墓に手を合わせ、

食事時にはいただきますと手を合わせて、よくわからないまま親の葬儀仏式で挙げたりするんだ。

現に「結婚式の下見で教会に・・・」って。本当に無宗教ならなぜ教会で挙式をするのか。

>>これは単なる慣習でしょ。

他は大体同意見。 

神社自然的雰囲気教会美術賛美歌寺院仏像やお経など感覚的に信仰を持つこともできるし、

哲学なり宗教教義などザッと本読めば大体自分にしっくりする考え方が一つはあるはず。

なければ足してくなり作り上げればいいんだよ。

2015-02-11

すごく欲しいけど高いものを買うかどうかウンウン悩んでいる。

どうしようかなー。ああー!悩むうう!!!

突然だが私には悩んでいるときGoogleという神にその悩みをとにかく告白するという奇癖がある。この神はたまに良いお告げや天啓をくれるが、余計に悩ませてくれることも稀によくあるという実に自然的な神だ。

今回も多分にもれず「欲しいもの 買うか迷う」という悩みをGoogleへ投げかけると、Googleは膨大な数の記事をそれっぽい順番で示してくださる。

上位に来ていた記事のうち一つには「買うのを悩む時間もったいないので、ビジネス用途なら迷わず買え、嗜好品なら迷ったら買うな」という教えが示されていた。

よく読んでいないが、お金を貯めるにはそれがいいらしい。確かにそうかもしれない。嗜好品で少しでも迷うということは、それは人生において絶対必要というわけではないのだろう。そしてその時間を何かもっと有意義なことに使ったほうが、お金人生も充実するのだろう。

でもさー、よく考えたらこの買おうかどうか迷う時間結構好きなんだよなあ。実際買って品物を手に取って使うのと同じくらい好きなのかもしれないな。

悩むのにはお金はかからない!嗜好品としてのプライスレス時間サイコー

ああ、そうか。だったら私は買うのを悩んでいる状態から抜け出そうとせず楽しめばいいんだ。

よーし、もうちょっと悩むぞー!(限定版だからあんまり悩んでられないのがまたもどかしい!そしてそれもまたスリルがあって楽しい

やはりGoogle神は良い啓示をもたらしてくれる。

さて買おうか悩むなあ、どうしようかなあ。

2014-11-08

環境のために」という名目LED照明に替えたのに、

環境保護意識が高くなると、自然的生活を求める意識が高くなり

自然的な穏やかな光、つまり消費電力の高い白熱電球に変えるのである

あると思います

2014-06-30

海の思い出

小学生低学年の頃に幼稚園で一緒だった友達家族ぐるみキャンプに行った。

1泊2日の帰りに海によって遊んできた。

日が暮れる前に海から離れた。帰りの車の中で後部座席に俺と友達とその弟で座っていたのだけど、気が付いたら眠ってたらしく、起きたら自宅のベットにいた。

遊び疲れて眠り落ちるというのを経験したのはこれが唯一だと思う。眠り落ちるというところと家族ぐるみというところがとても幼少期の思い出に向いてる。

中学生の頃とても仲の良かった友達がいてそいつしか遊んだ記憶がない。

ある日俺とそいつどちらからともなく海に行こうということを言った。

正確には街と海の間にある林を抜けようと言っていた気がする。林の中に人が通れるようになってる道があってそこを抜ければ海に出るのかという真偽を確かめようとした。

40分程かけて林の向こう側に出た。林の中で散歩してるおっさんとか見えないクモの巣とかゴミ不法投棄禁止の張り紙があったのが印象深い。

結局海を見れたのかどうか覚えていない。でも現代のガキにしてはずいぶんと自然的というか活動的というか一昔前の子供みたいな遊び方をよくしてた。

高校生になってテスト期間中学校は午前で終わった。

高校の近くで飯を食べて、特に遊ぶこともなく電車で家に帰った。

午後1時か2時くらいに地元の駅に着いて改札を抜けるととても新鮮な感じがした。自転車の帰り道もどこかしらいつもと違っていた。

午前で終わることに高揚感があったのかもしれないし、昼間の学生が少ないのも一因かもしれない。

家に帰ってもテスト勉強なんかするわけないし、テレビだって平日の昼間だから面白くない。

地元友達高校が違うからテストの時期も違う。昼間からパソコンネットをするのもなんだかはばかられる。

自転車に乗って海に行こうと思った。

林の中ではなくきちんと整備された道を行った。その道は人が歩いてることはまずなく、いてもランナーくらいだし、田舎からランニング趣味の奴も少ない。

車通りも少なく少しくらい大きな声で歌っていたって誰も聞いてる人なんかいない。

海について自転車を停めて防波堤に寝転んでみた。誰もいないと思ったけど、砂浜で絵を描いてるおじさん、バイク車でツーリングドライブしてる人、大学生とおぼしきカップルがいた。

帽子を顔に乗せて陽をさえぎりイヤホンをつけて音楽を聞きながら季節の過ぎた海で寝ていた。今こうやってロマンチックなことしてる高校生なんて俺だけだろうなと思った。

すごく楽しくてその状況に酔っていたけど、こんなことをしてる俺ってマジキモイとも思っていた。

今が上手くいってないとどうしても過去の思い出ばかりに目が向いてしまう。

もう夏だし夏の思い出ばかり思い出す。遠くから聞こえてくる太鼓の練習の音や野球をやってるガキの声、自転車にのりながら意味不明な会話をしている小学生の声が聞こえてくると胸が痛む。

俺の人生どうなるのかという思いと、感受性豊かな人がもってるセンチメンタルな切なさがこみ上げてくる。

はいつも今日こそ俺の人生好転する日だと信じている。信じたいと思う。

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