はてなキーワード: 社会貢献とは
どんなときに自分が怒るのかなーと考えて、自分の中の正義に反するときだと気付いた
犬猫のことを畜生だとかケダモノだとか罵られたときとか、基礎研究は金にならないと鼻で笑われたときとか、女性が性的に見られるのは当たり前だと開き直られたときとか
自分の中では犬猫は生物学的に対等な存在だから尊重するのが正義だし、基礎研究は科学の根本だからお金や社会貢献度にとらわれず裾野広くやるのが正義だし、女性は人間だから同じ視点で見るのが正義だ
でもそんな自分の中の正義なんてなーんも周りの人に関係ないんだよね、自分勝手な感情なんだよね
正義と悪があるわけでもないんだし、百歩譲って悪があったとて成敗できるわけでもないんだし、
思ったけどうまく心をコントロールできない
あーあ
嫌なんですよ。嫌なものは嫌なんですよ。
別にマスク自体は嫌じゃないですよ。去年までは花粉で鼻がムズムズしてるときとか普通につけてましたよ。マスクつけてかぶれるとかも特にありませんよ。
春先、ちょっとメンタルが弱ってたんですよ。でもそんなの、適度に遊びに行って人と交流して図書館に入り浸ってイベントに通ってとかやってれば自然と治まるくらいのメンタルの落ち込み具合だったわけですよ。
なのにそれを全部奪われた。
狭い部屋に閉じ込められた。ギスギスした環境で暮らすことを強いられた。テレワークの普及でただでさえ遅かった通信回線が激重になって、ネットすらできずそんな場所に軟禁された。死んだメンタルのままで何ヶ月も過ごすことになった。ぶっちゃけ軽く病んでましたよあのとき。
だから、もう、これ以上何かを奪われたり何かを強制されたりするのは嫌なんですよ。
私をあんなふうに閉じ込めた連中の言うことなんて絶対聞きたくないんですよ。
マスクをつけろという圧力がはびこっているのなら私はマスクを外しますよ。マスクが嫌だからじゃない、マスクが強制されているから外すんです。
これが仮に帽子をかぶれという圧力だったら私は髪をむき出しにして往来を歩きますよ。眼鏡をかけろという圧力なら裸眼で街に出ますよ。視力クッソ悪いけど。
私は去年通りの生活を続けますよ。鼻がムズムズしているわけでも咳やくしゃみがすごい出てるとかでもないのなら別にマスクはつけないっていう生活を続けますよ。
それが抵抗ですよ。私のメンタルをボロボロにした連中へのせめてもの抵抗ですよ。私を軟禁したやつらへのささやかな叛逆ですよ。
もちろんわかってますよ、あのひとたちも善意でやってたんだってことは。あのひとたちはあのひとたちなりに必死だったんだろうなってことは。
でもそんなのボロボロになったメンタルとズタズタになった人間関係とポシャった仕事の前では何になるっていうんですか。
許せない。私をあんなふうに閉じ込めたやつらのことは許せない。いや許してもいいけど、あいつらの言いなりになって行動に制限を受けるのだけは我慢ならない。
だからマスクは基本的につけてませんし、接触確認アプリも入れてません。嫌なものは嫌なので。
自分がコロナにかかったらこれまでの判断を後悔する日がひょっとしたら来るのかもしれないけれど、少なくとも今の私は、圧力に屈さずノーマスクを貫くことで自分を支えてる今の私は、熱もなければ咳もしてないのにマスクをつけようという気にはなれない。
数年後くらいにはマスクと和解できる気分になっているのかもしれないけど、残念ながら今の私のメンタルはまだマスクを許せていないので。
っていうか、繰り返しになるけど、許せないのはマスクじゃなくて、マスクが象徴している監禁の記憶なんですよね。あの閉じ込められた悪夢の日々の記憶が薄れない限りユニバーサルマスキングには協力できないなぁ。
こういうふうに言われることがめちゃくちゃ多くてだんだん反・反・反ワクチンくらいの立ち位置になってきましたね(基本的なワクチンは打ってるはずだし、仮に子供ができたらワクチンを打ってもらうけど、今の過剰な反ワクチン叩きはおかしいという立場)。
そもそも自分の身体に何を入れるか決める権利があるのは自分だけなのに何でワクチンは強制してもいいと思えるんですか? いや、効果の有無とかそういう話は聞き飽きました。なんびとも身体に針を刺して不愉快な物質を注入されなければならない義務はないし、むしろそれから逃れる権利を有する、っていうごくごく当たり前の自由と人権の話をしましょう。
後段、問題はそこなんですよね……義務教育の時代から「みんなで一丸になって頑張ろう!」みたいなのが嫌いで体育祭とかではなるべく手を抜いてた人間なので、おんなじ圧力かけられたらおんなじ反応しちゃいますわ……なるべく手を抜くしむしろ抜け道をどんどん探してやるぜ的な……
強制されるのは嫌と言うのは分からないではないが、わざわざ逆を行こうとする必要はないのでは。マスクをつけるのが嫌なのはよく分かる。
別にわざわざ特別な行為をしているわけではないですし……去年と同程度のマスク消費量で暮らしてるだけです。つまりごくごく普通の、当たり前の日常生活を送っているだけ。わざわざ能動的な行為なんてしてないっすよ。
マスク着用のところを非着用で入ろうとして揉めるとか
個人営業のお店とかはね……仕方ないというか、元々「客を理不尽に選別する自由」を持ってる人たちっすよね。極端な話、阪神ファンの店主が巨人ファンの入店お断りってやるのも自由でしょ。だからマスク強要が理不尽だなと思ってもそこは尊重すべき点かなと思います。お店の自由なので。
でも、そういう理不尽な選別が許されない公共交通機関とかでの理不尽な強要にはNOと言っていきたいっすね。
まあ都心部でマスク無しで地下鉄乗りまくってるけど咎められたことなんて一度もないですけどね。地下鉄以外でも知らん人から物言いつけられたことはない。映画館でマスク外して知人と会話したときも別になんも起きなかったっすよ。仮にそういうのに遭遇したら都知事選では平塚に入れてやろうと思ってたけど特に何もなかったんで宇都宮に入れました、はい。
飛行機で降ろされた人?
元々海外にはよく行くのとメーデー民なので飛行機で基本的な自由が制限されることは諦めてますね。空港と機内ではおとなしくマスクつけます。
でも飛行機でマスク拒否して降ろされたマンのニュースには同じマスク拒否マンとして同情と連帯の気持ちが湧いてきて市中では積極的にマスクを拒否していこうなというお気持ちが高まるというか……
所属する共同体への貢献とか、チームプレイみたいな行為のことを、この手の人たちは「同町圧力が」「強制が」「全体主義の足音が」とか言う。
そもそも論として私は去年までと同じ暮らしを送ってるだけですが。
去年まではなにも後ろ指を指されることのなかった当たり前の社会生活をしてるだけで社会不適合者扱いされる風潮、端的に言って狂ってるので積極的に抗っていきたいっすね。
映画館でマスクせずに会話するのなんて去年までは当たり前だったでしょ。その程度のことでガイジ呼ばわりしてくる人の方がどうかしてますよ。まあこっちに関わってこないのならどう思ってようがその人の自由ですけど。私も別に積極的にあんたらに話しかけたりはしないので。
んじゃあ「生きろ」って強制されたら死ぬんですかね、的な極端なことを言いたくなる程度には「ああただの我儘か」で斬って捨てたい案件/自分が感染するのは勝手だけど「他人に感染させる」リスクは考えてくれ。
じゃあ私がメンタル病みそうになったのもただのワガママってことですか。あまりにもクソ野郎の言い分すぎて「マスク拒否に正当性を与えてくれてありがとう」としか言えないっすね。
っていうか、私が風邪をひいたときもインフルエンザにかかったときも水ぼうそうになったときもおたふく風邪をもらってきたときも水虫を発症したときもなんかのウイルスで死ぬ寸前の状態になって病院に担ぎ込まれたときも、誰も私に感染させた人を責めなかったし、病気にかかってそれを他人にうつしてしまった人もあくまで被害者であってなんら責められるべきではないというのが良識的な態度だったはずなのに、なんで私が自分のメンタルを守るために普通の暮らしを送ろうとしたら「他人に感染させるのか!」って責められなきゃいけないんですか? 理不尽 of 理不尽。こういう犠牲者非難には絶対に屈しない。人権を守るために徹底的に闘いぬいてやる。
大口叩いてる割には本気の怒られが発生する場所(飛行機、個人店)ではマスクするとか日和ってるな。大丈夫そうな所でだけマスクしないマンやって勝った気になってるとかダサすぎるわ。
いや、個人店ではしてませんけど。よく行く個人店でマスクしてなくて怒られが発生したことはないし今後もなさそうなんで安心してノーマスクで通ってますね。あくまで民間のお店には巨人ファンを断ったりピアスしてるやつを退店させる自由はあるよね、という原理原則を確認してるだけです。
たっくさん書いた後に「空港と機内ではおとなしくマスクつけます」って書いててズコッとなった。わがまま通せそうなところでは通そうとし、絶対無理なところでは長いものに巻かれとるやん。
上で書いたけど、コロナ前には旅行やら何やらで年に何度か飛行機乗る生活してたんですよね。で、もともと飛行機っていうのはコロナ以前から
という2つの条件があるから、別に1つや2つ制約が増えたところで気にならないわけですよ。っていうか諦めモード。年に数回の非日常経験のために自分の自由やプライバシーが制約されるのはある程度仕方ない、嫌なら船なり列車なりそんな偏執的に身体検査とかされない乗り物に乗ればいいんだし、という話で。
それに対して1年で300日以上過ごし日常的に使う街や施設でこれまで享受できていた自由が享受できなくなるのは受け入れられない、という話です。そんなにわかりづらい?
長期間マスクすると呼吸に支障あるので、それが必要な所にはもう行かなくなった自分には、メンタルが耐えられないと言いつつ何時間もマスクして飛行機に乗れるというのは嘘八百にしか見えない
たまにしか乗らない飛行機の中や空港で当たり前の自由が制限された非人道的な扱いを受けるのは慣れてるしそんなもんかと耐えられるけど日常的に使う地下鉄や商業施設でそんな扱いを受けるのは慣れてないし耐えられないし慣れるつもりも耐えるつもりもないという話なので……
監禁とかよくわかんないんだけど、強制が気に入らないというのなら卒業式の起立斉唱やら戦争中の飼い犬供出にも抵抗するんだろうか。だったら応援します。
卒業式の国歌斉唱を強制するのは明確に反対で、戦時中に非国民呼ばわりされてでも全体主義に反対した人たちのことは尊敬してますね。まさかたかだかマスクをつけずに電車に乗る程度のことで先人の衣鉢を継げることになるとは思いもしませんでしたが……
献血には定期的に行ってますけど、もしも仮に赤十字が「来てくれた人ありがとう! 献血できる人は献血してくれると嬉しいな!」じゃなくて「来て当然。来ないやつは社会不適合者」みたいな態度を取り始めたとしたら献血行くのやめますわ。当たり前でしょ?
こういうのはレアな難病でマスクがつけられない人みたいなものだと思えばいいのでは。徒党組んでマスク反対集会をするわけでもなさそうだし。
クラスターデモに参加しなかった最大の理由は「デモとかするときは顔バレとか嫌だからなるべくマスクを着けたい」というコロナ以前からの考えと完璧に衝突するデモだからですね。どんなに良い目的であっても素顔をさらしてデモ行進とかするのは抵抗がある。でもまさかマスク反対デモにマスク着けていくわけにはいかないので……
表題の通り、検索エンジン(Webアプリ)を作ったので、使ってみて感想を聞かせてほしい、というのが投稿の目的だ。
ただ、せっかく増田に投稿するのだから、制作物の宣伝に終始するのではなく、開発していて考えたことや制作背景を書き添えたいと思う。ここにはエンジニアやデザイナー、また技術職でなくてもWebサービスに携わる人、インターネットを使って遊ぶことが好きな人が多いはず。そんな人たちの向けの四方山話として、思考の一助となれば幸いだ。
SalonaというGoogleを超える検索エンジンを作った。
機能を一覧してもらうと分かる通り、Hashcashによって支えられている。後述する課題認識があってもやもやしていたところに、あるキッカケでHashcashを思いつき、それを考えているうちに上記の機能実装が思い浮かんだ。
Hashcash.org
(けっこういろいろ応用されていて、ビットコインで使われているだけでも素晴らしい。)
他にこんな機能があったらもっと良さそう、というアイデアがあれば教えてほしい。
こんな検索エンジンをつくるのだから当然だが、わたしはSEOが大嫌いだ。いま、この検索エンジンには毎日何の投稿もされない。DBをウォッチしていて、まれに投稿があるとその文書を読み、ノンスの有無について調べ、ハッシュ値を見る。ローンチして4ヶ月が過ぎ、数十件の投稿がされているが、全ての投稿をきちんと読み、そこで語られる内容やハッシュの値について調べている。これがたまらなくつまらなくて、気づくと一月が終わっている。
“一月が終わっている”はさすがに比喩で、サービスのデザインを作ったり追加機能の設計を考えたりユーザー増加施策を講じたりとしているが、集まってこない投稿を待っていると泣けてくるし、その状況をなんとか好転させるためにと機能改善・追加機能のアイデアも自然と出てくる。
こういった熱中・没頭状態は、少女時代のMVや、自社サービスをやっていたベンチャー企業を横目に昼夜開発に勤しんでいた日々にもあった。好きな分野でものづくりをしていると陥る状態で、経験者も多いと思う。
長いことオープンソース界隈には「普遍的なソフトウェアを作ってスターをもらって社会貢献!」みたいな夢があって、ここ何年かはそれ自体がエンジニアリングやデザインを学ぶときの目的と化している人の割合も増えてきた。興味のない分野でも攻略していくこと自体が得意で、淡々と技術を学べる人は凄いと思われるが、もしそれが苦手だと感じた人は、諦める前に「好きなもの、作りたいもの」を見つけることをやってみてほしいと思う。
プログラミングスクールに通うにしても、作りたいものがあるとないとでは大きく違う。もちろん、どうしたら何が作れるのかという知識がなければイメージもわかないかもしれないが、その場合は何かを解決したいとか便利にしたいという思いを持っているだけでもいい。特にこれからの時代は具体的な技術習得よりもそういった見聞を広めることが、何より開発を楽しいと思える素地になると思われる。
わたしはGoogleを利用しており、本当に膨大な情報を探すことができるようになったが、その反面、SEOスパムが少なかった時代と比べると、Googleの検索結果に対して深い信頼を抱くことがなくなってしまったなあと感じるようになっていた。検索で出てくるページが、宣伝という存在の域を出ず、自分の役に立ってくれない。検索をしているが、虚構を消費しているだけのような気がして、真実と自分の間の関係が希薄になりつつある気がしている。これはロボット型検索エンジンの限界によるものなのか、Googleの加齢による革新性の低下なのか判断がつかないが、前者が理由と仮定して作ってみたのが今作だ。
検索で出てきた結果について、自分の投票のノンスを計算する費用を掛けること。投稿が自身の投票でアップボートされていく様子は、平成時代にビットコインの上昇を眺めていたときを思い出す。Googleを「たくさんのゴミと出会う空間」とするならば、Salonaは「出会った情報の中から気に入った情報を連れてきて、褒めて伸ばす空間」と位置付けることができる。この二つの営みは最初は共存し、SalonaがシームレスにGoogleに置き換わっていくことで人間と情報の関係を良好にしていくはずだと考えている。
法人主体がないとプレスリリースに制約が発生することを知らなかった(社会で使われているようなプレスリリース・サービスを利用しようとしたら、まともな人格がないと無理だった)。仕方なく幾つかのメディアに直接プレスリリースをメールで送ってみたけれど、当然のごとく梨のつぶてだ。つまり現状は利用者が誰もおらず、その状況を打破したくて増田に投稿してみたという次第だ。この文章がSEO嫌いの人たちに届くことを願っている。
まず最初に警告しておく。
タイトルにもある通り、私は殺虫愛好家であり、今から始めるのは基本的に殺虫の話だ。
もしあなたに潔癖症の傾向があるか、名前を聞くのも嫌な虫がいるのなら、どうかこの先を読まずに引き返してほしい。
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ここ数日ネットの各所では、大雑把にまとめてしまえば「社会的に認められない性的嗜好をどう扱えばいいか」という話題が飛び交い続けている。
これに対して「社会的に嗜好としての理解はされずとも、行為に対しての感謝はされる」立場、殺虫愛好家の私にも少し思うことがあったので、拙いながらも書き連ねてみようと思う。
先程から繰り返している通り、私は「虫」を「殺す」のが好きだ。
アリンコを踏み潰し、羽をむしったトンボをカマキリに食わせて楽しんでいた子供時代の精神をそのままに、罪を犯さない程度の社会性を身につけて成長した。
まだ性的興奮を覚える域には至っていないが、虫を殺すことで多幸感を得ている自覚は十分にある。
そして運良く、殺虫行為が日々の業務として認められる職種……飲食店で働いている。
はっきり言ってしまうが、飲食店の厨房から虫を根絶するのは無理に等しい。
水道管、換気扇、近隣の家屋、届いた段ボール、侵入経路はいくらでもある。
それに奴等は生命のスパンが短すぎる。いくらでも生まれていくらでも産む。
だからこそ、私のような殺虫愛好家はこの仕事を飽きなく楽しめる。
私の業務は手洗いがてら洗面台にたかるチョウバエを泡で捕らえることから始まり、店を閉めた後で厨房の床に湯を撒いて彼らの子供たちが力なく流れていく様をせせら笑って見送りながら終わる。
それまでの間にも、醤油の匂いを嗅ぎつたショウジョウバエにアルコールを吹き付け溺死させたり、積荷に紛れたチャバネゴキブリを段ボールごと踏み潰したりもする。
定期的な殺虫剤の撒布も、死骸の後始末まで含めて喜んで行っている。特にゴキブリワンプッシュ。あれはあえて隙間から明所へ出てきて死ぬよう設計されていることもあり、私との相性は最高だ。力なく這い出てくる大小様々なゴキブリをモグラ叩きのように仕留め続ける。正直テーブル拭いてるより楽しい。
毎日ではないが、野菜をおいしく食べていた青虫を虫食い共々ゴミ箱に叩き付ける日もある。電灯につられて入店してしまった蛾をそれとなく握り潰す日もある。屋根の下で横たわるセミファイナルに引導を渡す日もある。
……それ以上となると飲食店として必要な業務ではないので、わざわざ外に飛び出して殺したりはしない。それといついかなる場合もその後の手洗い消毒は忘れない。
そうした私の殺虫行為は、少なくともこの飲食店という小さな社会では満場一致で「善行」と見なされている。
店長やオーナーからは、汚れ仕事も進んで引き受ける点を評価してもらえている。
同僚からは、急に湧いた虫を始末すれば、例え社交辞令だろうとも感謝は必ずされる。
客からは、逆にもし虫が料理の中に入ってしまえばクレームを入れられているわけで、それを防げている以上は相対的に良い心象を持たれているはずだ。
と、ここまでは「私自身の頭の中で考えている以上は」美談なのだが。
この場のように、こういった話を人に打ち明けてしまうと、少なからず次のようなことを考える人は出てくるだろう。
「命を弄んでいる奴のどこが良い奴なんだ?」
「虫を殺して楽しんでる奴は、欲求がエスカレートして犬猫や人間まで殺し始めるんじゃないか?」
私だって殺虫行為そのものを、手放しに善行だとは思っていない。
どんな虫にも生きる権利が認められる世の中なら、私は快楽殺虫鬼として裁かれるだろう。ジャイナ教に従えば、来世の私は虫以下の存在になっているだろう。
しかし私は、人の飼っているカブトムシを籠から出して引きちぎるような、殺虫に狂った人間じゃない。
童心に帰り、野山の虫を惨たらしく殺してやりたい気持ちも否定できないが、社会人としてあるからには、社会として許されるまでの殺虫をしているだけだ。
それが「虫」なだけでは殺さない。それが店にとっての「害虫」ならば、実害がなくともその状況に於いて「不快害虫」として認められるならば、殺すだけだ。
仕事として認められ、誰かから感謝される行為だから、私は白昼堂々……とまでしてはいけないが、縁の下で率先して虫を殺し、それで満足している。
そして、これは私に限った話だとは自覚しているが、私は虫以外の動物を己の手で殺したいとは一切考えていない。
端的に言うと血や骨、臓腑の処理をしたくないのだ。オタマジャクシ一匹だろうが死なれたら困る。ホイホイに引っかかるヤモリとか本当にやめてほしい。
私が楽しみながら触れられる脊椎動物の死骸は、血管や臓物と切り離された、おいしい食肉やあたたかい毛皮だけだ。私の職場が調理肉の状態で届く店で良かった。
そんなように、「虫を殺して楽しい」と「飼われた犬猫や人間の殺害」みたいな、一見段階的な関係にも見える嗜好と犯罪行為との間には、社会的な規範や、倫理的な了解や、個人単位の好き嫌いなどいくつもの細かい隔たりが存在しており、それらが人を犯罪行為に走らせぬよう機能しているはずだ。
それでも、私の場合はただ、恵まれていただけだ。私が殺虫の認められる社会に所属して、私が殺虫で喜ばれる仕事を得て、私が殺虫以上の欲求を持たないから、全てが噛み合い今の今まで機能しているだけだ。
これが、物議を醸した先の人物のように、社会として認めらなかったり、正統な仕事として実行できないものだったり、満足せずに発展しうる欲求だったりしたならば、私はとてもじゃないがこんな話を増田にしたためている場合ではない。私が起こしうる犯罪について真剣に考えなくてはいけない。
いや、殺虫に関してもそれが犯罪になりうるものではないか、誰かの権利や尊厳を損なうものではないか、立ち返らなければいけないことに変わりはないが。
一生このまま在宅ワークしたい。通勤が再開されるぐらいならいっそのこと殺して。
いま昼ご飯を食べ終わったらとこなんだけど、今日みたいに天気のいい日にエアコンつけたま窓を開けて自然の風を感じてセミの声を聞きながらInterFMで流れてる中止になったフジロック特集をBGMにしてUber EATSで頼んだフレッシュネスバーガーを食べてシードルを飲む。これがおれのランチ。もう最高。なにこの生活。おれが求めてたのはこれだよ。
年収一千万とか大きな仕事とか社会貢献とか世の中をより良くする仕事とかIPOとか全く興味ないのよ、実際は。
言いたいことは全部書いたつもり。
文章が長くてごめんなさい。
【概要】
この署名の目的は、株式会社集英社に特定の要求をするものではありません。
署名の主眼は、少年ジャンプを応援し作品を応援する人がこれだけの数いるのだと、集英社に知って頂く事にあります。
暴力や性、悪意といった汚いものを描いたフィクションが、傷つき抑圧された誰かの心を浄化・解放して救う事が確かにあります。
いろいろな批判は真摯に受け止めても、クレームには安易に負けないで下さい。
【キャンペーン詳細】
昨今、少年ジャンプの漫画作品について、暴力シーンやお色気(性的と取れる)シーンを含む描写に批判の声がインターネット上であがっています。
そのうちのいくつかは、マンガ表現が読者に悪影響を与え現実の差別や犯罪を助長するのではないかという想像を根拠とし、治安向上のために表現の改変や規制を望む声が多く含まれます。
漫画作品が読者にどのような影響を与えるかは複雑で予想がつかないと同時に、一定の責任が付随するものと私も考えています。
しかし同時に、集英社様には安易にクレームに負けて作品取り下げや改変などといった性急な判断を下す事なく、漫画が果たしている様々な社会的貢献と責任について、あくまで慎重に考え判断してほしい、そして私達の愛する作品をどうか守って欲しいと願っています。
(※自分語りが入る事をお許し下さい。読み飛ばして下さってもあまり問題無いです。)
このような考えを私が持つに至った理由は個人的な経験に由来します。
まず私は少年ジャンプのラブコメ作品を正直あまり好きではありません。
おそらく一般家庭よりも性的に抑圧された教育を受け、また一方で性的嫌がらせとも言えるとても不快な行為を幼児期に経験してトラウマを抱えた私は、気が付けば「強い女性に男性が支配され傅き、あるいは苦しめられる描写」を愛好するようになり、恋愛もののフィクションでもそのような人間関係描写に憧れ、またポルノでもそういったジャンルでしか興奮できないようになっていました。
そんな私にとって、世の中のポルノに限らず純愛と呼ばれる恋愛ドラマ、ラブコメの殆どは生理的に不快なものとして映ります。少年ジャンプのラブコメ漫画も例外ではありません。昔から男女間の軽いセクハラを嫌悪し、純愛ラブストーリーにしらけ、ラッキースケベと呼ばれる不自然な性的描写にも眉をしかめていました。
しかしそれは、私のごく個人的な嗜好の問題に過ぎない事も強く自覚していました。
なぜなら、逆に女性が男性に暴力を振るうという暴力的・性的なフィクションがたしかに私の心を救ってくれて、汚いものを好み申し訳ない存在だと思っていた私でもこの世界に存在しても良いのだという自己受容を得る事ができたからです。辛い子供時代を過ごした私にとって、これは確かに必要なものだったのです。
私が価値観の違う他人を尊重し、その心情や痛みを想像する事を覚え、また卑屈にもならず自分の心を守る事ができる様になったのは、その自己受容のお陰による所が大きいです。
しかし私の「見たくない権利」を過度に押し通せば、大勢の人の「見たい権利」を侵害する事になります。
だから私は「見ない努力」をし「見ない自由」をできる限り行使して日々過ごしています。
【皆さんにお伝えしたい事】
私にとって、少年ジャンプには好きな漫画もたくさんありますが、個人的に不快に思う漫画も沢山あります。
純愛・健全と呼ばれるエロやお色気を嫌悪し、インモラルとも言える暴力・性愛を描いたフィクションに心を救われた私だからこそ、
暴力的・反社会的な表現が、抑圧された誰かの心を浄化・開放する事を知っています。
私の心を不快にする表現が、他の誰かの自殺を食い止め生きる希望を与えている事を知っています。
ハラスメントや暴力、性的描写をフィクションとして消費しながら、同時に人と健全な関係を築き、お互いを尊重し合う事ができる事を知っています。
エロに「健全なエロ」と「不健全なエロ」といった単純な区分など本当はできない事を知っています。
フィクションの表現が読者にどんな影響を与え、時に狂わせるかは製作者にもコントロール不能な難しい問題だと思います。
ジョン・レノンを殺害した犯人がライ麦畑を愛読し、コロンバイン高校射殺事件の犯人がマリリン・マンソンを愛聴していた様にです。(※賛同者さまからご指摘を頂いたので訂正します。当時メディアによって犯人がマンソン愛好者だと報道されバッシングが行われましたが、これは後にデマだった事が発覚しており事実無根のようです。)
刺激的で過激なフィクションが人の認知を歪め犯罪に走らせ、世の中を悪くする可能性が100%無いとは私は思いません。そういう事もあるのかも知れません。
しかし私は「事はそんなに単純ではない」と言いたい。
特定の表現を規制したから悪影響が減る、といったシンプルな考え方は思慮に欠け危険なものだと思います。
【最後に】
暴力や性、悪意といった汚いものを描いたフィクションが、傷つき抑圧された誰かの心を浄化・解放して救う事が確かにあります。
いろいろな批判は真摯に受け止めても、クレームには安易に負けないで下さい。
世の中の大勢の少年少女が読むであろう漫画を出版する企業として、本当の意味での責任は何なのか、深く考えて頂ければと思います。
もし私達がなにか問題を起こしたとしても、それは少年ジャンプのせいではありません。私達がもっと勉強すべきだったのです。