はてなキーワード: 文化破壊とは
歴史的背景
クリストファー・コロンブス(1451-1506)は、1492年に新大陸(現在のアメリカ大陸)に到達したイタリアの探検家です。彼の航海は西洋に新たな領地をもたらしましたが、近年では彼の行為に対する批判が増えています。
コロンブスの評価が悪化している主な理由は、彼の探検がもたらしたネイティブアメリカンに対する暴力と搾取にあります。今日の価値観では、人権と平等が重視されており、コロンブスの行為はこれに反するものと見なされています。
暴力と搾取: コロンブスと彼の部下は、到着した土地のネイティブアメリカンに対して暴力を振るい、彼らを奴隷にしました。
文化の破壊: コロンブスの到来は、ネイティブアメリカンの文化や社会構造を破壊しました。多くの人々が病気や戦争によって命を落としました。
強制労働: ゴールド採掘などのためにネイティブアメリカンを強制労働させ、多くの人々が過酷な労働条件の中で死亡しました。
歴史的背景
織田信長(1534-1582)は戦国時代の日本の武将であり、中央集権化を推進し、戦国時代の終結に大きな役割を果たしました。しかし、彼の手法は残虐であったことから、一部で批判されています。
比叡山延暦寺の焼き討ち: 1571年、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、多くの僧侶や一般市民を虐殺しました。これは、彼が仏教勢力を抑え込むための手段とされています。
長篠の戦い: 1575年の長篠の戦いでは、鉄砲を大量に使用し、敵兵を無差別に虐殺しました。この戦術はその後の戦国時代に大きな影響を与えました。
一向一揆の鎮圧: 一向宗の反乱に対しては、徹底的な弾圧を行い、多くの信者を殺害しました。
3. 共通点と相違点
暴力と抑圧: 両者ともに目的達成のために暴力を使用し、抑圧的な手段を取りました。
文化破壊: コロンブスはネイティブアメリカンの文化を破壊し、織田信長は宗教勢力を弾圧しました。
歴史的な影響: 両者の行為は、それぞれの地域に大きな歴史的影響を与えました。
相違点
行為の規模と影響: コロンブスの行為は、広範な地域にわたり、多くの民族に影響を与えました。一方、織田信長の行為は主に日本国内に限られていました。
目的と動機: コロンブスの探検は新たな領地の発見と経済的利益が主な動機でしたが、織田信長は国内の統一と権力集中が目的でした。
コロンブスと織田信長が評価される背景には、それぞれの文化と歴史的文脈が影響しています。西洋においては、コロンブスの行為が植民地支配と結びつき、その影響が現代の人権意識と相反するため、批判が強まっています。
一方、日本において織田信長は、中央集権化と戦国時代の終結に貢献した英雄として評価されることが多いです。彼の残虐行為も、当時の戦国時代の混乱を収束させるための必要悪とされることがあります。
教育やメディアの影響も大きいです。西洋では、コロンブスの日が祝日として祝われる一方で、その意義が再考されるようになっています。日本では、織田信長の功績が教科書などで強調されることが多く、彼の残虐行為は背景に隠れがちです。
現代の価値観では、人権や平和が重視されるため、暴力や抑圧行為は厳しく批判されます。コロンブスの場合、植民地支配の象徴としての批判が強いですが、織田信長の場合は、国家形成と統一の一部として受け入れられることが多いです。
5. 結論
コロンブスと織田信長は、共にその時代の歴史に大きな影響を与えましたが、現代の価値観と文化的背景の違いから、それぞれ異なる評価を受けています。コロンブスの行為は広範な地域に影響を与えた一方で、織田信長の行為は日本国内に限られ、国家形成の一部として認識されています。これらの違いは、歴史的な背景と現代の価値観の相違によるものであり、教育やメディアの影響も大きいと考えられます。
最近の「クリエイターと作品は別」という風潮に違和感を覚えているのでぶち撒ける。作品だけじゃなくてクリエイターも守らなきゃならんだろ、と。
Aはサークルでも頭一つ、いや二つも三つも抜きん出ていたが、ツイッターでもPIXIVでもどんどんフォロワー数は増えていった。
だからAが就活をせず、イラストレーターとして食べると宣言した時は誰も心配や反対なんてせず、むしろ当然だと思った。
卒業後もTwitterで常時繋がってたが、同人誌即売会がリアルの同窓会になり、会うたびにAの絵の上達や仕事を讃えた。
夏になっても毎年恒例の新刊案内も出さず、もちろん当日スペースに行っても誰も座っていない。
失踪したのだ。
でも、俺はこの時大して心配していなかった。
おおかたAのことだからどこかの企業から声がかかって商業作品に関わっているだけだろうと思った。
そういう話をAに会った時に聞いていたからだ。
でもその年の冬、翌年の夏も、Aは申し込みすらしなかったようでどこにも見つけられなかった。
さすがにこの頃には心配になったが、俺にも仕事があるからプライベートでAを探すなんてことはしなかった。
ある日、元サークル仲間のBとfpsをしていた時、突然Aのことを思い出して「そういえばAって今なにしてるの」とVCで聞いてみた。すると、Bは
「…………は?」
詳しく聞いてみると
・来なかった夏の直前に飲食店に強盗に入った(新刊の印刷代を稼ぐためじゃないかとBは言っていた)
・Aは実刑になった
・今も刑務所にいる
・どこの刑務所かは知らない
ということだった。
ここ数年漫画家とかイラストレーターが逮捕されるたびにAを思い出して胸が締めつけられる。
Aは捕まらなかったら今頃何かのゲームを任され人気のイラストレーターになっていたのは間違いない。
きっと何万、何十万人の人に感動を与えて救っていただろうと思う。
そんな才能を刑務所に送ることが本当に社会の利益になるのだろうか。
昔の文豪や芸術家には今だったら捕まってるようなエピソードが多くある。
それでも彼らは捕まらなかったからこそ、歴史に残る作品を送り出し、今なお世界中の人々を感動させ続けている。
創作の無限の可能性に賭けることこそクリエイターを尊敬し文化を守る社会ではないのか。
昨今、クリエイターが不祥事を起こすたびに仕事を下したり自粛させたりするキャンセルカルチャーが問題になっている。
無論、不祥事がどのようなものであれ、キャンセルは単なる文化破壊であり、絶対に許してはならない。作品には何の罪もない。
キャンセルを推進してる連中の取り締まりは国家の安全保障上何よりも喫緊の課題であると思う。
しかし、俺はクリエイター側に立つ人間がクリエイターを背中から撃っていることを憂慮している。
彼らはいう。「作品に罪はない。でも犯罪は犯罪だから罰されないといけない」と。
このような意見は作品を産み出しているのはクリエイターであるという至極当然のことを理解していない。
当たり前だが、逮捕されたり刑務所に入れられたりすれば物理的に創作が邪魔される。
そして、クリエイターの側に賭けることこそ、クリエイターを尊重するということではないのだろうか。
> あら…お疲れ様でした。それにしても、サイト閉鎖で記事が読めなくなるってのは、電子化の脆さを感じる。紙の本なら作成後の維持費はかからないけど、ウェブサイトはどうしても維持費が継続的にかかるからなぁ
いや、紙でも維持コストかかってるよ。君が見ていないだけ、出版という形態をとっているのなら保管維持のコストは各自で分散して支払っている形。
最初っから電子形態のメディアに対して「電子化の脆さ」とか言い出すのはどうなんよ。
> 急でびっくりした。サービス終了で記事ごと消えるのはホントリスクだなぁ。ネット図書館みたいなものの整備が待たれる。インターネットアーカイブとかあるけど有料サービスは見れないよね?
リスク解消に係るコストをあなたが支払いなさいよ。何を他人任せにして「ネット図書館みたいなものの整備」やねん。
有料サービスの購読などでは賄いきれんということでしょう。
> 思い入れある記事とかがあるわけでもないし維持コストもわかるんだけど、見られなくなるのはnoteを提供する会社としてそれでいいのかというか、やっぱちょっともにょるな(はてなグループのときと似た気持ち)
提供の役目を終えたと言っているのに「noteを提供する会社としてそれでいいのか」とか返しなさんな。
維持コストが分かるんだったら君が支払いなさい。
二次元コンテンツによる検索汚染の権化と言うか集大成みたいな作品だから徹底的に滅んで廃れてほしい。それでも消えきるまで8年かかるから加速度的に廃れて再来年にはサ終してほしい。
物理的な暴力だけじゃなく、文化面で現代的な技術を教えてつええするタイプの話って、人間が潜在的に持つ庇護欲とマウント欲と共有欲求が混ざったもんだなって思う。
特によくある描写で、向こうの住人が「こんな食べ物(異世界では)見たことありません、ほぉー」みたいにやたら文化の高さに感動する。異文化バカにしてんのかなと。江戸に来た耶蘇教の宣教師みたいな鼻持ちならない感じを受ける。とにかく現代に比べて文明も文化も低いのだから現代人が圧倒的にマウントして当然という発想は白人至上主義そのものだなこれ。
むしろ疲れていた現代人が異世界に触れて癒やされる、みたいな物があんまり見受けられないのがネット的というか。価値で全てが測られる世界に生きてんだなという実感を強くする。というより、個人的にも価値こそが評価されるのは紀元前からの歴史だとは思うけど、異世界に対する価値がはっきりと提示されてない感じがするんだよね。オリエンタリズムというか、その文化に触れてびっくりみたいな。その文化に対峙したときにまず俺達より劣っているから文化伝授してやろうという描写そのものが現代人の感性の稚拙さではないかと。こういうのって宮崎駿とかから言わせると、チコの実等未見の食事が出てこないのは何なの、ということになる。土着文化に触れて異邦人が恐縮する感じもない。さながら厚切りジェイソンのようにホワイ、日本人ココガオカシイヨー、とかずけずけやってるわけで。
そこで出てくるのが対立軸。あの異邦人が鬱陶しいからやっちまおうぜみたいなガジェットもたくさん出てくる。しまいに主人公は力量差を明示して屈服させたあと和解という。違うでしょ。お客さんはあんたであって、あんたがむしろマレビトなわけです。そこでなんで力押ししてんだと。そしてその後現代的なものを伝播させて文化破壊と。
これ関連だと思うんだけど、新疆ウイグル自治区での中国の振る舞いをアメリカをはじめ国際社会は非難しまくるじゃん?
当然俺も民族虐殺、浄化なんてあんまりだと思うけど、ほとんどの国に対しておまいうとも思うんだよね。
だってさ、例えばアメリカを例に取ればアイツらインディアンから奪った土地の上でぬくぬく暮らしながら中国批判してるんだもん。
これが例えばインディアンに対する虐殺や文化破壊を精算して土地も返して、イギリスに帰った上で批判してるなら全然わかるんだけど、
現在進行形で土地を奪った相手を保護区という名目の特定の場所に閉じ込めながら中国批判してるのマジ意味わからないんだけど。
当然日本にだってそういう側面はあるから、じゃあ批判の声を上げるなとは言わないんだけど、