はてなキーワード: 伝統とは
税金を使って見る人が少ない芸術に補助金を出す意味がさっぱり分からない。
その意味が分かる人が、見ることによって収益をあげれば良い話で、税金を使う意義は全くないと思う。儲からないから、補助金が必要という意見もあるが、補助金なしで経営がなりたないということは、運営者側の努力が足りないか、そもそも今の時代に必要のないものなのではないだろうか。何でも補助金というのが根本的に間違っている。補助金は麻薬に近いと思っている。補助金で生き続けていくと、補助金なしの生活をするのが困難になってしまう。大衆芸能なら大衆が支えるものである。
伝統があるからとかは関係ないと思う。宿場町だってなくなった、山岳信仰だってなくなった。旧道だってなくなった。武士だっていなくなった。時代と共に必要とされるものは変わる。昔なら文楽を見た休日の使い方は、今は昔と比べられないほど選択肢が存在する。
文楽は見に行ったことはないが、美術館はかなり頻繁に訪れている。僕は受益者負担が原則だと思っているので、市民や国民の税金が使われて自分自身が絵を見て楽しめることに戸惑いを少しは感じている。(民間の美術館は除く)。美術館の帰りに、ホームレスを見たり、バリアフリーがされていない駅前を歩く足腰の悪い人を見ると、美術館を閉鎖してこちらにお金を使って欲しいと強く思う。別に芸術がなくても、死ぬことはないが(補助金で生活している人は困るが、そんなのはどうでもいい)、最低限のセーフティネットが削減されて死ぬ人はいると思う。使えないほどの税金があれば別だが、どこの自治体もそんな余裕はないはずである。
芸術にお金を出すか出さないかという二択ではなく、税金の使い方として果たして一番納税者に意味があるものかということを考えて欲しい。全てを選ぶことはできない。何かに税金を使うと、何かに税金を使うことはできない。
イルカ漁へのカウンターかとも思ったけど普通に動物愛護団体の圧力っぽい
福島2014.1月 ☆ファミマ、フォアグラ販売中止を!☆米国務省、「イルカ漁懸念」日本政府に伝える☆イルカ追い込み漁反対意見先一覧!太地町イルカ漁は文化でも伝統でもなく水族館への生体販売ビジネス
「保守」っていうけど、それは、既成構造の擁護。革新をしないという意味なんだろう。決して、日本古来の文化や伝統や歴史を知っているわけではない。
例えば靖国神社というのも、国家のために国民が戦争で死ぬことを肯定するプロパガンダで、明治時代につくられて昭和時代に強調された思想にすぎない。これは決して、日本古来の文化や思想ではない。日本史上最近である明治時代以降のプロパガンダ。
「保守政党」というのは、明治時代以降の資本家中心の社会構造を維持しようとする政党。
それと、日本の農業は、敗戦までは大地主中心の農業で、旗本みたいな武士も地主だし、民間の地主というのもつまりは資産家。戦後に農地改革で小作農を原則としてなくしたから、戦後には農家=地主だと思っていい。それで、この農家という地主も既成構造の恩恵を受けてきたわけで、だから自民党の支持層。
戦前も戦後も、日本の政治の特色として、こうした企業や地主のような資産家を中心にした政策とその意思決定が進められてきたことがある。
いま、「ネトウヨ」だのといって、そのなかには自民党を支持するデマゴーグを連呼しているのもいる。けれど、かりにいま貧困なのだったら、それは既成の社会構造によって虐げられているのだから、自民党を支持するのは論理的に破綻している(損だ)。騙されている、釣られているのか。それとも、ただ気分的にスカッとして面白おかしければいいのか。たぶん後者。
いまの政党や政治団体には、おそらく、日本古来の文化や伝統や歴史を真にわかっているのは、ほぼ皆無だと思う。
理解するためには、いま流布されている「日本とはこういうもの」というステレオタイプ(=プロパガンダ、デマゴーグ)を捨てないといけない。全国各地で互いにとんでもなく相違している文化習俗(言語や食や生活習慣や行事などなど)も知っているべきだし、神道や日本仏教や儒教という日本の三大宗教・文化慣習にも造詣が深くなければならない。三大宗教・文化慣習については、それが絶妙な形で社会統治構造(封建社会)を実現してきたことも知らないといけない。言語や食など、明治時代以降に没個性化されたものであって、江戸時代以前には日本国の各地域が物理的・文化的にかなり隔絶されていて、おそらく言葉も通じないことが多かっただろうし、料理もかなりの相違があって互いにびっくらこくレベルだったはずだ。
ところが、いまの政治家や、あるいは一般国民にしても、そうした本当の姿を知らないし、学校でも教えてくれないし、教科書にも載っていないと思う。
自分自身の(自国の)本当の姿を知らないままで、いまの自分自身を制御できるのかも疑わしいし、ましてや将来へ進むことができるのだろうか。昭和時代まではおそらく、欧米を(戦後は特に米国を)追っかけるだけでよかったから、つまり真似するだけで済んだから、自分自身を知らないままでもやってこられたのだろう。
ブコメでも言ってる人が複数居ますが、鯨肉・イルカ肉食とそのための捕鯨・イルカ漁を偏った観点から「非人道」的と言われることはちょっとどうなんでしょうね。先のケネディ大使のツイートは,真に「国際的」観点というより一部の欧米文化における価値観からの批判のように思えます。ということでちょっと学術チック(?)なバックグラウンドの補強を…需要ないかもしれませんが。
わたしは今20代後半なのですが、少なくとも個人の経験の中で鯨肉を食べたことはありません。父や母からは鯨肉が給食に出ていたと聞いた覚えがあるという程度です。そもそも鯨肉食、お今の日本ではどれくらい一般的なものでしょうか?経験的に言っても牛肉や豚肉より食べられていないことは確かで、たとえばクックパッドで「鯨肉」と検索すると、37件しかヒットしません。
http://cookpad.com/search/%E9%AF%A8%E8%82%89
やはりそれほど一般的な現代の食文化とは言えない様子。そもそもわたしが鯨肉を食べたことがない理由の一つに、70年代の米国での商業捕鯨禁止を受け、80年代後半(つまりわたしが生まれた頃)にIWCが国際的にそれを禁止にしたことがあると思います。鯨肉は入手がしづらくなり、日本人にとって一般的な食料ではなくなりました。わたしは鯨肉を食べる文化に抵抗はありませんが(父や母の話を聞いていたからか?)、自分では進んで食べることはこの先ないと思います。元増田を書いた人も恐らくこういう感覚の持ち主ではないでしょうか。
続いて英語圏のレシピサイト(たとえばfood.com)で「whale meat」を検索してみると3件。そのうち2件がアラスカの鯨肉シチュー、1件はトンガの料理本からコピーされたものです。
http://www.food.com/recipe-finder/all?layout=desktop&inclingre=17714
クックパッドのほうがレシピの母数が3倍くらいあるのですが、それでもやっぱり英語圏の人間(米国人に限らない)にとって鯨肉食は身近な文化でないことがわかります。米国の歴史家ナンシー・シューメイカーによれば、ほとんどの米国人が鯨肉を普通の食材(normal diet)として見なしたことがないそうです。
以下は彼女の論文からの受け売りです。実はニューイングランドの先住民は鯨肉を普通に食材として見なしていました(シューメイカーはもともと米国、主にニューイングランドの先住民史を研究している人です)。ただ欧州等から入植してきた人々はそうではなく − 19世紀、ニューイングランドへ入植してきた人々は鯨の油やひげが高く売れるため鯨漁を行いましたが、鯨肉は先住民に分けるか捨てるなどしていたのです。鯨漁師(というよりは捕鯨業者)は海の上では食料に困り、鯨肉を食べることもありました。しかし彼らやその家族の日記に、本物の肉が食べたい…という趣旨の記録があるとのこと。つまり鯨肉は彼らにとって「肉」ではなかったのです。入植者であった捕鯨業者は鯨肉を食べる人々を牛肉を買うには貧し過ぎる(too poor to buy beef)と考えていました。端的に言えば所謂皆さんが思い描く現代の「米国人」の鯨肉食に対する嫌悪感はこういう由来もあるのです。我々とは違う先住民(primitive other)が食べるものなんて食べられるものか。米国は70年代に、鯨肉の食物としての不法性(illegitimacy as food)を理由にほとんどの商業捕鯨(「伝統的な(traditional)」捕鯨を除く)を禁止にしました。
要は、こういう風に批判されることは「日本の捕鯨やイルカ漁は文化ではなく商業だから非人道的」という含みが少なからずあるのでしょう。でも、食べるためにではなく油とひげを売って儲けるために「商業」捕鯨をしていたのはもともと米国の入植者なのです…日本をはじめ、古くから食料にするための捕鯨の歴史がある民族(たとえばノルウェー、フェロー諸島、西インド諸島、トンガなどの人々)にとっては捕鯨そのものが文化であると同時に、捕鯨に関する文化(たとえば絵巻物など)もたくさんあります。
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/kujira/
日本の捕鯨やイルカ漁は、伝統や文化でないというのでしょうか?シューメイカーは米国の視点で世界中の捕鯨を取り締まる…そういう単文化的な視点に警鐘を鳴らしています。欧米の一部の国から商業捕鯨に対する風当たりが強くなった結果、80年代後半生まれのわたしは(そして恐らく同世代の日本人は)少なくとも鯨肉をもう「普通の食材(normal diet)」とは見なさなくなっています。まあ伝統なんてそんなもんと言われればそれまでなのですが、よく言われるように、欧米だけが「世界」ではないでしょうし、このような批判に安易に迎合するようではどんどん伝統とか失っていくんじゃないですかね、ということです。グローバル(笑)な時代に伝統とか笑える、と思う人も居るんでしょうが。
ちなみにシューメイカーの論文はこれですが、
http://envhis.oxfordjournals.org/content/10/2/269.full.pdf+html
サブスクリプションがないと読めませんのでこちらのpdfで読めるほうを貼っておきます。
http://www.hcs.harvard.edu/eac/wp-content/uploads/2012/04/3986115-1.pdf
「人工知能の思想とフェミニズムの思想は中途半端に似ている(しかし絶対違う)ので人工知能側の行うことにジェンダー論が紛れ込む要素がみつかるとフェミの側で炎上しやすい構造が元々ある、という色眼鏡をかけると人工知能学会表紙の件が通りよく理解できるのではないかなぁと思っている。
人工知能は機械が自立性を獲得する学問で、ジェンダー論は女性が自立性を獲得する学問で、「自立性の獲得」という点では共通しているんだけど機械は元々自立性は持っていない反面、人は元々もっている自立性を取り返す、「再獲得する」という点で二つの学問は明確にことなる。
で、ジェンダー論やってるひとはたぶん「獲得する」という言葉を使わないように気をつけてきたと思うんです。元々もっているものを再獲得する、復活するという風にしないと最終的に男女平等が達成されても「女性は元々持っていないものを頑張って手に入れた」になっちゃうから。そもそもが平等じゃない。
という色眼鏡を用いた上で表紙をみると、「たとえ男女平等の世界が達成されたとしても、機械が自立性を獲得したように女性も自立性を獲得したんだね」という、自分の目的は達成されたのに根本的な部分で人と機械が同列に扱われている恐ろしい世界がジェンダー論をやっている方々には幻視されてしまったんじゃないかなぁと。
なので人工知能の思想とジェンダー論の相似と差異、という点にまで踏み込んで人と機械を同列に扱うな!という主張をしてるんだったら擁護するかもしれない。「ただでさえ人工知能とジェンダー論は近いのに掃除する女形なんて微妙なの出してきたらいろいろごっちゃになるだろ!こっちは機械とごっちゃにされちゃ困るんだ!」みたいな。
なので、女性型アンドロイドが掃除をしている姿そのものに政治性は薄いけど、自立性を付与する学問である人工知能の学会誌がこれを表紙にするということでジェンダー論からの解釈が挟み込まれる余地が生まれてくる可能性はなんとなくわかる。まあ色眼鏡かけなかったら特に何も思わないんだけど。
結論としてあれだよね、「人工知能=アンドロイドは固定観念!」という批判は、チューリングテストで人工知能とは人と区別がつかないことであるって定義された人工知能の歴史と伝統を踏まえて言ってるのならいいけど、たぶん互いに無知なところがあるよね。
最近、まわりの友人や知人から中国韓国に対する反感を聞いていて驚く。
そのときは、公に人にそんな事を言えるような状況ではなかった。
しかし、10年後の今、人々はどんどん反中、反韓になってきている。
専攻は法学ながらも、国際関係も曲がりなりにも学んだつもりだ。
その事からみて、やはり隣国の中国、韓国ともに今のような状態が続く事は望ましくはない。
そして、気になるのは、第二次大戦や日中戦争期を昨日のように語る人がこの三カ国に多い事だ。
もし、それを語れるならば、少なくとも75歳以上でなければならない。
しかし、戦争の経験もない我々戦後生まれの一般市民がなぜあの戦争を、東アジアを語るときに使うのだろうか。
アメリカを語るときに我々は太平洋戦争<あるいは大東亜戦争>をここまで強烈に持ちだすだろうか。
私は、東アジアの政治の共通の戦略として、内政運営のため、国民の目を他国に向ける、敵を作るというモノがあると思っている。
これは中国、韓国でよく話題に上がるが、ここ最近、日本もそのような傾向にあるのではないか。
少なくとも、私には、安倍首相が、自身の政治目標である憲法改正に向けてコレをテコにしようといているのではないか、と心配している。
つまり、政府が今まで解釈を積み重ねてきたものを、その時の政府の方針次第でいかようにも動かせるように私には見受けられるのだ。
肯定的に見よう。
もし、憲法が改正されたとして、今のような穏健保守派の自民党政権が未来永劫続けばよい。
そうすれば、自民党的解釈のつまり、穏健保守派的憲法解釈のまま、憲法が運用される期待が持てる。
しかし、そうはならない。
日中韓の緊張がこのまま維持されるとする。
そして、それが国際関係、また外交的文脈で正しかったとしよう。
しかし、国民は納得するだろうか<ワシントン海軍軍縮条約を想起せよ>。
このように、中韓に対する反感が根付きつつある日本で、自民党政権を維持し続ける事ができるだろうか。
企業も生き残りに必死になり、リストラも増えるかもしれない<もちろん大企業正社員はこの限りではないが、リーマンショックの時を思えばおのずとわかるだろう。また戦前の若手将校たちは大企業、財閥をも自身達の敵とした>。
懸念事項である社会保障費の維持も難しくなり、近い将来には薄くなるだろう<つまりは、若年層に負担が増加するという事である>。
この時、自民党より保守色の強い保守政権ができる可能性を我々はどれほど想像できるだろうか。
そして、その強硬派保守政党が改正憲法の下でどのようなことを行うだろうか。
愛国者であれば、日本が他国と戦火を交えこの美しい自然と伝統ある歴史や文化が破壊され、また日本国民が戦争によってその尊い命をなくしていくことに深い悲しみを持たざるを得ないだろう。
その意味から、私は、現在行う全ての事は、将来の国家百年の計と、及び自身の子孫の事を深く慎重に考えたうえで全て行動するべきだと強く確信するものであると確信する。
撮り鉄問題でいくつか思いつくことを書いてみる。
撮り鉄は、昔からいる。現存している昭和50年台までの写真は、写真のコストがとても高かった時代のもので、かなり道楽ができる人でないと写真を残せなかった。戦中、終戦後10年くらいに写真が撮れた人は貴重な存在だった。
今は、携帯にもスマホにもカメラが付いている。3DSにもカメラがある。選ばれし者の趣味ではない。
廃止が決まりました的なイベントやその周辺の時間のキャパシティは限られている。電車が撮れる時間は一瞬だ。しかし、最後だよという情報は、一瞬で全国を駆け巡ってしまう。都市部は潜在的人口が多いので、反応する人も多い。
伝統的な撮影ポイントは、すでにお立ち台通信という書籍で情報が知れ渡ってしまっている。本来、鉄研や友の会的な人の口伝だったものが、全国の潜在的趣味者に知れ渡ってしまった。いい場所は限られることと、列車のダイヤと天気と太陽の位置が理想的な状態になることは稀なので、集中してしまう。
JR東や大手私鉄は、基本設計が同じ車輌を発注しているので、どこにいっても同じ金太郎飴のような電車が増えた。ゆえに地方線区に残ったお古のほうが雑多で趣味的に面白くなる。
業績至上の鉄道会社の本音としては、地方の路線はお荷物であり、社会的使命という方便がなければ、廃止したい。旅情よりも都心の手持ちの土地を効率よく運用したほうが圧倒的に儲かる。
情報の共有と蓄積が進み、最適解を常に得続ける鉄ヲタが増えた。18きっぷの乗り継ぎパターンや最適な座席位置を体得していたり、きっぷの予約も最適解を常に得続ける鉄ヲタに独占されるようなった。人気列車の指定席の転売が問題になり、乗り放題の企画きっぷが廃止されるに至った。
博物館はこども向けで、トワイライトエクスプレスやななつ星などのクルーズトレインは、富裕層老人向けで、20台から40台向けの楽しめる企画がない。
定年後の趣味として出戻った人が参入。お金があるのに昔の貧乏鉄をやっている。
鉄道旅行や鉄道趣味から失敗をしながら試行錯誤を繰り返すことがなくなり、常に最適な収穫を得るような趣味に変節してしまったためにリソースが大幅に制限されるようになったのではないかとうすうす感じる所存。
い
ち
お
う
ねた
ば
れ
なので
これぐらい
送ればいいかな?
1) CO2上がりはじめてからも楽勝で行動できすぎてないか?
換気のない宇宙服に人を閉じ込めて動かしてみればいい。まあ、厳密に言えばCO2の固定と酸素の供給は別なんじゃなかったっけとか。
代案: もっと迅速に
あの、「画面の右側に宇宙飛行士を引き寄せつづける謎の力」はなんだろう?
代案: 普通にテンションで戻ったけど掴まえられず、鋭角のエッジで切られて遭難、でいいんじゃないの?
3) 前は上、上は後ろ、後ろは下、下は前
だっけ? 中国のステーションに行く時に軌道力学ロコツに無視したよね。
代案: 説明抜きでいいから正しい方向に噴かす
4) 消火器パワフルすぎ
70km移動するのにどれだけ相対速度出したか知らないけど、消火器一本でそれをどうこうできるものかしら。
あと、ぐるぐるまわると思うよ。
代案: パラシュートのケーブルをアレスティングワイヤーがわりに使うんじゃだめかな?
6) ハッチ開いて1分で水没
いくらなんでもロシアの伝統ある突入カプセルがそんな設計のはずないのだが…(実際はしらないけど)
いや、野尻先生のロケットガールシリーズ(特に「私と月につきあって」)とか、笹本先生の彗星狩りとか、このスタッフで映画化してほしいなと思いました(無理だけど)。
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2013/12/post-fec0.html
ほんと亡くなってYO!
滅んでYO!
草葉の陰で見守ってYO!
やること山積だYO!
請求書送れって言われてもお前もう仕事納まって帰ってるだろふざけんなYO!
やること多すぎんYO!
メールで今年はお世話になりましたとか終わった感満載で送ってくんじゃねーYO!
やること一杯残ってんだYO!
ああ面倒くさいYO!
分かってるYO!
抱えすぎだYO!
終わらねえんだYO!
はいはい全部自分が悪ぅございましたね今年もいい一年でしかああそうですか私にはまったく関係ありませんけど良い年を迎えるんですかそうですか知らねえYO!
こっちは忙しいんだYO!
何だYO!
宴会ならともかく水一杯も出ない打ち合わせとかいい加減にしろYO!
年末だぞ師走だぞ日本の美しい伝統とかそういうなんとなくそういうものへの配慮とかねえのかYO!
ああもういいですYO!
年中無休ですYO!
ああもう面倒くさい。
というわけでまだしばらく働いています。メールの返事は順次これから出します&メルマガもこれから発行しますいろいろ遅れておりまして申し訳ございませんでした。引き続きYO!ろしくお願い申し上げます。
http://b.hatena.ne.jp/entry/kirik.tea-nifty.com/diary/2013/12/post-fec0.html
id:justsize よをYOにすると完全にラップ。
を見たのでテスト。
リボ払いの件だけどよ、まああんま笑えねえやな。
でもよ、フールペナルティ商売って簡単に言うわけにもイカンよな。
大人は、理解できねぇ契約は絶対にするな。
カネの絡む話は、必ず定期的に確認しろ。
リボ払い、つまりリボルビング払いってのは、revolving repaymentのことな。
これ、名は体を表す典型例で綺麗事を言いがちな借金関連では素晴らしい名前なので、ぜひ意訳したのを覚えておきたい。
「雪だるま式借金」。はい、みなさんご一緒に、「雪だるま式借金」。
雪だるまのように残債がどんどん大きくなって、返済は外側の一定量だけが溶けていくイメージな。
ちっと無茶しすぎだろって話で、まあ色々あった結果、自主規制として30万以下なら3年、30万越えても5年以内が返済期限って事になった。
さらに、年収の3分の1以下に借金を制限するイワユル総量規制がかかったので、まー、リボ払いの消費者金融での多重債務地獄ってのはカナリ減った。
クレジットカードのショッピング枠ってのは、「貸金業法の規制を受けない」。
要は、ありゃ「借金じゃ無い」のよ。このへんは複雑な。
伝統的に消費者金融に行っちゃうのはカネがなくてオカネ借りに行く人で、
ショッピングする人ってのは、カネは持ってて買い物する人ってのが差であるわけだ。
だから、消費者金融側では規制がかかるような状況であっても、ショッピング枠では規制がかからん、みたいなことになってる。
定額、定率、残高スライドとまあ沢山ある。細かく分けると山ほどある。
ざっくり言えば、毎月一定額返すか、毎月一定割合返すかの違いな。
いずれにしても、「分割払いとの違い」だけ抑えておけば問題ない。
どういうことか判りやすく言うとだ、
分割払いってのは、こういうことだ。
リボ払いで定額方式なら、こうなるな。
分割金利手数料その他諸々をジャパネットが負担している場合は、後者のほうが毎月の払いが少なくて済むな。
でも、世の中そうは甘くねえ。
毎月の給料よりも大きい買い物を結構頻繁にしたくて、でも毎月の負担は一定額に抑えたい奴。
……聞くだに詰みそうだな。
まあ、「結婚出産転勤みたいな一時期だけわーっとカネを使うが、後はあんまり使わない」人なら便利かも知れんな。
分割払いができないような買い物でも、擬似的に分割に出来るのがメリットといえばメリットになる。
そもそも月賦払いボーナス払いってのは、「ある物を分割して買う」という意識を持ちやすい。
冷蔵庫と洗濯機を買った。だから分割1万+分割1万の、払いは毎月2万だ!ってのは、理解しやすい。
分割払いが増えれば増えただけ、毎月の払いも増えるから、ヤベーとか感覚的に掴みやすい。
リボ払いだと、一定金額づつ毎月引かれ続けるから「ちゃんと残債を確認しない奴」は、エライことになる。
ここまで言えば分かる通り、リボ払いを使ってイイ人間ってのは、
「毎月ちゃんと残債を確認して、余裕が有るときに多めに返すヤツ」だけだな。
めんどくさがりほど、使っちゃダメな返済方式ってコトだ。
だって、内訳を気にせずに定額定率で払うのがポイントなんだもの。
冷蔵庫を買った、洗濯機も買った、でも、取り敢えず気にせずに毎月1万円で払いまーすって方式なワケだ。
根本的なことを言うとな、信用で買い物しといて、残債を確認しないとかアリエナイわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/feather_angel/20131226/1388058744
突如100万借金が見つかった!てな気分なんだろうけど、実際には100万以上買い物してるわけだよ。
2011年から2013年の3年間で100万積み上がるってことは、おそらくざっくり150万くらいの買い物をしてる。
平均毎月4万くらい使ってて、一括払いをした記憶はあるのに月の請求が5千とか1万とかで、一度もオカシイと思わないっていうのは、相当どうかしているわけだ。
これさ、オーバーしたから発覚したけど、例えば上限300万だったらしばーらく気がつかないワケだ。
そもそも限度額が100万円ってのもどうかとは思うけど、そりゃまた別の話だな。
例えば、消費者金融っていうのは、恐らくその全てが馬鹿から小銭を巻き上げる商売なわけだ。
「ちょっとお金が足りないときに助かるじゃないか!」ッて言うかもしれないが、
カネがねぇときに合コン行くな。病気の時は保険に頼れ。出産結婚は親兄弟に借りろ。
そもそも、「予定外の出費」で「ちょっとカネを借りる」ってのがオカシイわけだ。
銀行から商売で金借りたことがある奴なら解るんだろうが、返済計画とかナンデ借りるんだとか異様に聞かれる。
商売で儲かるメドが立ってるが、まとまったカネがいるんで3年で返すからカネ貸してくれヨ。
ってのが、マトモな借金なワケだ。
じゃあ、クレジットカードのショッピング枠ってのはどうなのかっていうとだ、
こりゃ「代わりに払っといて」システムなわけだ。
クレジットカード会社が代わりに店に払っといてくれる。信用してくれてるから。
だから、クレジットカード会社に対して、払うわけだ。(詳しく知りたきゃ、アクワイアラーとかイシュアーでググれ)
つうことはだ、「代わりに10万払っといて」って言って、「あん時のカネ1万払ってくれよ」って言われたら、
「ん?おかしくね?なんで9万足りねえの?」って聞かなきゃイカンわけだ。
ソレが出来ない奴が、カードを持ってるのが問題だというならば、多分世の中はもっとマジメになるべきだ。
クレジットカードとか、ほとんどすべてのモノの、契約とか約款とかをな、
文字が小さいし何書いてあるか判んねえし、読まねえよフツーって思ってるとするならな、
「ソレ」を使うにゃ、オマエさんにはまだ早い。
携帯電話の契約とか読んだことがない?じゃあオマエはケータイを使う資格が無い。
クレジットカード申し込みの契約見てない?オマエはクレジットカードを持つには幼すぎる。
毎月請求書が届くのは、地球に打撃を与えたい破滅主義者が契約相手の会社に居るからじゃ無え。
例えばだ、口座引落ってのは、「相手の言い値で振替してくれて良いッス」って契約なわけだ。
オマエの口座から全部カネを引っこ抜かねえって保証は、相手の会社をどれだけ信用してるかにかかってる。
だがな、どんなに信用してたって、ちゃんと確認するのがマトモな大人の基本動作なワケだ。
まあ、つまるところだな、
法はカナーリ消費者に対して甘いが、「ヨクワカンネ」で通るほど世の中甘くねぇ。
禁治産者って呼ばれたくなきゃ、イイオトナが理解できねぇ契約しちゃならねぇ。
カネが絡む話はな、ちゃんと毎回確認しなきゃなんねぇ。
良く判んねぇモノにハンコつくな。請求書は必ず読め。
世の中の鉄則だ。
であればこそ、
これはなぜ?
これは全く違うと思うが。
鶴の一声に従うなんてのは民主的な政治が始まるより前は世界のすべてで行われてたこと。
日本の天皇に関しては、戦前は宗教的な感覚も伴って少し異様なほどではあったが、
世界の歴史をみればそれ程異質なことでもないでしょう。宗教がらみの戦争なんてモット悲惨なものが世界には沢山あるわけで。
戦後の当地の際、天皇を利用して鶴の一声でまとめ上げてやろう、なんてことはアメリカは一切考えて無いでしょう。そのような根拠はどこにもない。
アメリカが戦後天皇を残したのはどちらかと言うと本気で天皇と言うものに、そう言った宗教的な、というか文化的な大事さを感じたからだと思うが?
戦争時でさえ、京都とか空襲しないとか、よく分からん文化的な尊重見たいのはするわけで。
もちろん、日本を植民地化して力で支配しよう、というのとは少し違ったやり方で統治しようとしたわけで、日本の反感を最低限に抑える意味があったことは確かだと思うけど、
天皇による支配、はむしろ完全に撤廃する方向で動いてたと思うけども?
そんでいま、
こんな言い方で片付ける様なものではないと思うが。
あえて"必要"という意味合いを付けるのであれば、日本の文化的な物を一子相伝で継いでいる人達、ということであろう。
歌舞伎なんかでそういうものは当たり前にあるわけで、小さい頃から他の人とは違う生活の中、伝統をつないでいる人はまだ居るわけで。
それらと天皇を比べるのはどうかとも思うが、人道的見地から言うと、同じ様なものでは?
現代社会の中での必要性、と言う意味を持ち出せば、そういった日本の文化の1つとして、という意味合いが最も強いと思うし、逆にそれ以外に正しい答えは無いと思うが。
基本的に伝統的な宗教ほど、あからさまな宗教を否定する傾向が強い。
禅寺のような瞑想会を開いているようなところを探し出して参加し、終わった後でお茶でも飲みながら相談すれば良い。
本は無意味。
中村あきの星海社FICTIONS新人賞を受賞したデビュー作『ロジック・ロック・フェスティバル』が、古野まほろのメフィスト賞を受賞したデビュー作『天帝のはしたなき果実』と類似していると指摘され話題になっている。『ロジック・ロック・フェスティバル』は星海社のウェブサイトで無期限全文公開されている(http://sai-zen-sen.jp/works/awards/logic-lock-festival/01/01.html)ので読んでみた。その結果『天帝のはしたなき果実』だけでなく、米澤穂信の諸作品との類似点が見られたので検証したい。ちなみに現時点で私は『天帝のはしたなき果実』を未読であるが、これから読んでみる予定である。
読書メーターに12月4日に投稿されたjinさんのレビュー(http://book.akahoshitakuya.com/cmt/33836748)。
読んだ印象としては、米澤穂信が西尾維新になったつもりで古典部シリーズを書いたらこうなるんだろうなと思った文学部員が書いた同人誌と言った感じ。
読書メーターに12月11日に投稿された×(旧らっきーからー。)さんのレビュー(http://book.akahoshitakuya.com/cmt/34001390)。
米澤穂信とかを目指した結果、残念ながらそこに至らず。そんな印象。
まず『ロジック・ロック・フェスティバル』の物語の流れを説明する。以下が『ロジック・ロック・フェスティバル』の章タイトルだ。
全部で23章で構成されている。『ロジック・ロック・フェスティバル』のメインとなる事件は文化祭開催期間中に起きた密室殺人事件だが、文化祭が始まるのは「9.そして、時は来たれり」からだ。ではそれ以前はというと小さな謎解きが2,3あるという構成になっている。具体的には「4. モバイル・コード」で携帯メールの暗号の謎解き、「6. 大脱出」で閉じ込められた蔵からの脱出、「7. 女バス班室写真消失事件 前編」「8. 女バス班室写真消失事件 前編」で写真盗難事件の謎解きが行われる。
次に米澤穂信のデビュー作『氷菓』の物語の流れを説明する。以下が『氷菓』の章タイトルだ。
この章タイトルだけではどんな物語かわからない。『氷菓』のメインの物語はヒロインである千反田えるの叔父、関谷純が関わったと思われる33年前の事件を解明することである。しかし、その謎がはっきりするのは「4. 事情ある古典部の末裔」からであり、「2. 伝統ある古典部の再生」では千反田えるが地学講義室に閉じ込められた謎解き、「3. 名誉ある古典部の活動」では、ある本が毎週借りられている「愛なき愛読者」の謎解きが行われる。
はじめに小さな謎解きがいくつかあり、中盤からメインの大きな謎解きになるという物語構成は特定の作家の専売特許ではない。であるが『ロジック・ロック・フェスティバル』と『氷菓』の物語構成が類似していると指摘するのは間違いではないだろう。
『ロジック・ロック・フェスティバル』の「6. 大脱出」では、主人公(中村あき)がヒロイン(鋸りり子)の家をはじめて訪れるシーンが描かれる。これを『氷菓』の「6. 栄光ある古典部の昔日」で、主人公(折木奉太郎)がヒロイン(千反田える)の家をはじめて訪れるシーンと比較したい。
目に飛び込んできたのは圧巻の庭園だった。手入れの行き届いた生け垣。刈り込まれた木々。配置を整えられた岩。雨粒を受けてなお静謐を湛える池。その中を悠然と泳ぐ色とりどりの錦鯉。そしてそれらを統べるかのように鎮座する絵に描いたような日本家屋。その向こうには立派な蔵も見えた。
道なりに設置された飛び石を歩きながら息を呑む。家柄でここまで住む世界が違うものなのか。自身の境遇と比較すると、少しばかり悲しい気持ちになってしまう。
(中略)
唖然としているうちに僕は言われるがまま三和土で靴を脱ぎ、板張りの廊下を彼女に説明された通りに進んでいた。
広大な田圃の中に建つ千反田家は、なるほどお屋敷と呼ぶに相応しかった。日本家屋らしい平屋建てが、生垣に囲まれている。水音がするところを見ると庭には池があるらしいが、外からは綺麗に刈り込まれた松しか見えない。大きく開かれた門の前には、水打ちがしてあった。
(中略)
(中略)
石造りの三和土で靴を脱ぎ、千反田に先導されて板張りの廊下を進む。
太字で示したのが二つの作品で完全に一致した箇所である。いくつか単語が一致しているが、文節単位での剽窃は行われていない。単語の一致も同じ「日本家屋を初めて訪れたシーン」を描いたのだからあって当然だ。むしろ、庭園に入ってから周りを描写している『ロジック・ロック・フェスティバル』、生け垣の外から庭をうかがっている『氷菓』という点が大きく異なる。
そもそも、高校一年生のヒロインが日本家屋の豪邸に住んでいるという設定がめずらしいが、かといってこの設定が特定の作家の専売特許というわけでもない。
『氷菓』において、千反田えるが日本家屋の豪邸に住んでいるのは、千反田家が桁上がりの四名家といわれる名家だからだ。『ロジック・ロック・フェスティバル』において、鋸りり子が日本家屋の豪邸に住んでいる理由は説明されない。家柄は明らかにされていないし、両親も学者だ。一般的な学者であれば豪邸を建てるほど高給とも思えない。シリーズ化されこれからの作品で明らかにされるのかもしれないが、現時点では主人公たちが閉じ込められる蔵を登場させるためぐらいしか物語的必然性がない。背景が説明されないので、どうしても取ってつけたような印象を受けてしまう。
『ロジック・ロック・フェスティバル』の「6. 大脱出」で描かれる主人公とヒロインが閉じ込められるシーンは、〈古典部〉シリーズの4作目『遠回りする雛』に収録されている短編「あきましておめでとう」と類似点が多い。例えば、どちらも冒頭に閉じ込められている主人公の述懐を置き、時間を巻き戻す形でなぜ閉じ込められることになったのかを記述する形式をとっている。
あらすじはひとことでまとめると以下のようになる。
具体的に『ロジック・ロック・フェスティバル』では、
具体的に「あきましておめでとう」では、
となっている。
以下、『ロジック・ロック・フェスティバル』において主人公(中村あき)とヒロイン(鋸りり子)が小屋(蔵)に閉じ込められるシーンと、「あきましておめでとう」において主人公(折木奉太郎)とヒロイン(千反田える)が小屋(納屋)に閉じ込められるシーンを比較したい。
目が慣れてくると、そこは本当に本の山だった。本しかないといってもいいくらい。備え付けの本棚に、そこらに積まれたボール箱に、ぎっしりと詰められた本、本、本――今すぐ古本屋が何件だって始められそうだ。
りり子に案内され、その後ろに付いていく形で奥の方に歩いていく。中はそれほどの広さでもないようだったが、薄暗さと障害物のように設置された本棚のせいで、なんだか迷路に迷い込んだような眩暈感があった。
一応分類されているのだろうか。背表紙を見流す限りでは全く統一感がないような気がするぞ。
と、その時。
ぎぎぎ、と何か引きずるような音がして、室内の明度が明らかに落ちた。
なんだろう?
りり子も一度こっちに振り返り、異変があったことを確かめ合う。
そして二人同時に思い当たった。
扉が閉まったのだ。そんな当たり前の結論に到達するのにいやに時間がかかった。
慌てて扉の方に引き返す僕ら。見るとやはり扉はぴっちりと閉められていた。風やなんかであの重い扉が閉まるだろうか。疑問に思いながらも、とりあえず僕は扉に近づいて手を掛けてみる。
「……あれ?」
開かない。まさか。
がちゃがちゃがちゃがちゃ。
いやいや、冗談でしょ?
「鍵が……閉められてる……?」
強く揺さぶってみると扉はほんの薄くだけ開いた。その間からは無慈悲にも完全に閉じられた錠が覗けて。
闇の中に手を突き出し、摺り足で進んでいく。目が慣れればもう少しマシになるのだろうが、いまはこうしないと危ない。そろそろと奥に進み、手に酒粕が当たらないかと気をつけてみるが、どうも手ごたえがない。
「簡単なお使いかと思ったら、なんだか面倒なことになってきたな」
「あの、折木さん」
いつの間に近づいてていたのか、千反田が俺のすぐ後ろで名前を呼んだ。背後でアルミドアが風に吹かれて閉まってしまい、納屋の中はいっそう光が入らなくなった。
『遠回りする雛』角川文庫版、218~219頁
「おう、開いてるぞ」
そして、なにやら不吉な、がこんという音。
「え? いまのは……」
とピンと来ていない千反田。俺はすぐさまドアに、暗くてよくわからないので正確にはドアがあったと思しき場所に飛びついた。アルミのノブの、冷たい感触はすぐに探り当てられた。
しかし。
がたがたと揺れるだけのドア。オレは千反田を振り返る。千反田の輪郭もはっきりしないけれど、なぜか、心配そうに小首をかしげるやつの顔が見えたように思う。
「どうしました?」
どうせ見えないだろうけれど、肩をすくめてみせる。
「閉じ込められた」
『遠回りする雛』角川文庫版、221頁
まず、このドアが閉められている構造をもう一度考える。このドア自体には鍵はない。だから、強く押せば、ほんの少しだけ開く。それ以上開かないのは閂のためだ。
『遠回りする雛』角川文庫版、228頁
今度は先程と違い完全に一致する箇所ではなく、同じ事象を別の表現にしている箇所を太字にした(そもそも完全に一致する単語はほとんどない)。非常に似通ったシーンを描いているので、一致している箇所がいくつかあるが、文節単位での剽窃はおこなわれていない。
違和感があるとすれば『ロジック・ロック・フェスティバル』において、「扉はほんの薄くだけ開いた」という点だろう。「あきましておめでとう」では脱出が困難なことを示すために閂がどのようにかけられているか仔細に描写されており、「強く押せば、ほんの少しだけ開く」というのも話の流れから違和感がない。一方の『ロジック・ロック・フェスティバル』においては、どのような扉なのか、どのように錠がかけられているかは具体的に示されておらず、一般的な扉と錠であれば扉が薄く開き外の錠が覗けるというのはおかしい。
「あきましておめでとう」では、折木奉太郎が脱出するために様々な方法を試す。そこにはどうやって脱出するのかというハウダニットの愉しみがあるが、『ロジック・ロック・フェスティバル』では、早い段階で窓から脱出できることがわかっている。謎解きの興味はほとんどなく、むしろそれまで葉桜仮名先輩一筋だった主人公(中村あき)がヒロイン(鋸りり子)を女性として意識するシーンとして描かれている。
『ロジック・ロック・フェスティバル』と〈古典部〉シリーズ両方を読んでいる私としては、影響は受けていると感じた。しかし、文章の剽窃など著作権法違反に問われるような箇所はないと判断していいだろう。他にも中学時代に探偵していたが、とあることをきっかけに探偵することをやめたという鋸りり子の設定が、〈小市民〉シリーズの小鳩常悟朗の設定と類似するなど気になるところがあるが、それはまたの機会に検証したい。
要するに嫌だからやりたくない、ってだけじゃん。
問題意識を持つなら、なんで問題なのか言えよ。
それ言えないなら、単に「僕はやりたくないからやらない」っていうただの我侭じゃないか?
「答え」を求めてない、ってなんだ?
「問題だ」と思うっことはそこに何かしらのおかしなことがあってそこを改善できる可能性がある、ってことだろ?
それを示せよ。
出来ないなら単なるわがまま以外の何物でもないだろ。
私が思う問題はまず、「様々な場面での合理性の欠如」であって、
そこまではわかりますか?
要するに嫌だからやりたくない、ってだけじゃん。
問題意識を持つなら、なんで問題なのか言えよ。
とあなたは発言しているが、
なぜ問題なのかというと、「無理矢理やらせることで人を人として扱ってないからだ」、とも述べていた。
「答え」を求めてない、ってなんだ?
「問題だ」と思うっことはそこに何かしらのおかしなことがあってそこを改善できる可能性がある、ってことだろ?
それを示せよ。
それに関して言うと「なぜを答えられる必要がある」というのが回答である。
つまり、上司は部下に、それがなぜ必要か「問われたら返せる必要がある」とさんざん言ってきた。
部下は常に「なぜこの仕事をするか」疑問に思っている。
疑問に思うとやる気も出ないし、生産性もあがらないし、生産性があがらないと長期的に見ても不利益だ。
だから、部下がなぜか?と聞いたとき、「これはあの大事なプロジェクトで、こうこうで必要なんだ。それできみに任せている」
むしろ、それもわからず部下に仕事をさせているようでは、どうかと思う。
2〜3秒ですむ事だ。
そして、もし例えば何か上から下の者へやらせることが「伝統で続いているもの」であったとき、
そこには初めてその行儀なり行動をした人たちが考えた思想がある。はずだ。
もし、その思想がわからないまま、ただ闇雲にその行事を継承しても価値がないので、
即刻やめるべき。
私が言いたいのは「なぜかよくわからないけど、とりあえずやっている」とか「常識だからやっている」って言う事が、
それに一切役者は答えられなかったそうだ。
今やっている事はなんのためで、そのためにやらなくちゃいけないんだという
これまで似たような価値観の集まりだったから、そういう発想も出てこなかっただろう。
しかし、今後日本人だけで何かをするというわけにもいかなくなってきた。
だから価値観の違う人間には「論理」でコミニケーションをとる必要がある。
本当にそれでいいのか、フィーリングに頼っていいのか?
と私はこれまで主張してきた。
なるほど。意見は一旦受け止めた。
それならば、そのように伝えればいいだろう。
「事実」は今まで日本社会でそのような形でここまで運営されてきた、ということだ。
お前がそれは間違ってる、どうのこうの、等と言ってもその「事実」の前には単なるお前の「意見」にしか過ぎない。
逆に言えば、「事実」は人を確実に納得させられるものではない。
「事実」はそれまでの経験則であって、100%正しい、というものではない。そんなものは存在しない。
上の薬の例でも、究極的に素粒子反応まで完全に理解する、という事実がない限り(そうであってもその先にさらなる不定性があるかも知れない)
100%誰かを納得させることなんて出来ないのは承知の上である。
例えば仕事で何か役割を振るとき「なぜ必要なのか」を問われたら答えられる必要がある。
それはわかる。もちろんわかるが、このようにやってきた結果、
今までこれくらいの売り上げがあったから、やってみてくれ、と言えばいいだろう。
ただ、必ずしもそういう全体的な答弁ばかりになるはずもない。
あるプロジェクトがあってそのための仕事がある。それらは小さく分解されていて、有機的につながっているはずだ。
例えばコピー取りにしたって、何かの会議で必要だからとるわけだ。
何も伝統でコピーするのが決まりになっているわけではないだろう。
意味があってやっているはずだ。
というのと、
「とにかくやれ」
というのでは聞く側の受け取り方が異なるだろう。
前者なら、「なるほど。だから迷惑をかけないようにちゃんとやらなければ」と思うだろうし。
後者なら「なんでやんなきゃいけないんだよ」と思うだろう。
言いたいのは、必然性があってやっている事を「伝統」だからという言葉で「何も考えず」片付けてしまうことが問題なのだ。