はてなキーワード: 伝統とは
no one lives foreverと英語にも慣用句がある通り、確かに数百年変わらないでいられるものはない。
だが「変わらないでいられるものなんてないし、変わらないと思っているものも変化し続けている。だからどんどん変えてしまおう」というのは別の話だ。
「変わらずにいられるものはないのだから」という台詞は、文化と伝統の破壊者がよく使う免罪符だ。
それを是とするのは、してしまうのは、他の何よりも軽佻浮薄の極みとみなされる。伝統文化の世界では特に。
チャラい格好をするよりも、今風の言葉を喋り散らすよりも、決まりごとを変えようとする奴の方が「何も分かってない若いの」として攻撃を受ける。
会社のいうことは絶対!間違いない!なぜなら伝統ある会社だから!
単なる思考停止じゃねーか
新しい物は悪!古いものが善!
気○いだなw
あぁすまんすまん。多分、職場の歴史創立数年〜数十年くらい、という前提で話をしていたんだろうな。気付かなかったよ。
そのうえで、四項目を見直してみてくれ。
新人の感じる理不尽さは職場が積み重ねてきた歴史と伝統に押し潰されるし、歴史の裏打ちのある指示に逆らおうとは思わないし、体質を改善しようと思う事が不遜になるから。
いや、どうしてここまで反論があるのか、どうしてこいつらは匿名とは言えここまで甘ったれた意見をいけしゃあしゃあと口にして恥じる色もないのだろう、と考えていたのだが。
前のエントリの中で、“守る価値のない伝統”という書き方をしているのを見てようやく分かったわ。うちの業界の人間は絶対にそんな事書かないから。
以前に、創立された会社の九割が十年後にはなくなっている、という統計を見た事があるんだが。
そうだよな。
ここに居る人達は大体皆、創業から数年〜数十年というくらいの歴史を持つ会社に勤めてるよな。
そりゃ考え方も違うよな。そもそも職場が価値あるだけの伝統を積み重ねていなければ、伝統だって前例だって若手は軽視するだろう。
そりゃそうだ。上司が押しつけてくる理不尽に、何百年っていう歴史の裏打ちが無ければ、なんだこいつ自分ひとりの考えで勝手言いやがって、って思うよな。
何百年と同じ仕事を全く同じやり方でこなしているというわけでなければ、上司の言う通りにしているのは楽だけどちゃんと自分で考えて仕事しよう、と分不相応なことを考えるのも簡単だよな。
できて数年程度の会社で、先輩から仕事に対する姿勢を一時間半に渡って説教されたら、そりゃパワハラって思うよな。
仕事に就くにあたっても、「上の言う事は絶対」とか養成機関でみっちり叩き込まれてくるわけじゃなくて、たかだか社員研修を受けて「この会社の社員教育マジキチだわ〜」とか愚痴る程度だろうしな。
1。上司でも間違いはあって、命令に疑問を持ちバックグラウンドを把握しおかしいところは指摘できるかも知れないが、既に自らの至らなさから叱責を受けている場で反論の材料として持ち出すような奴はいらない。というかそもそも反論できる立場にない。
2。立場は立場であり、ずっと前からその職場に居てその分だけ苦労してきているのであり、その部下と同レベルではない。ひとたび意見を聞き入れれば、「こいつから命令される事は理が通っていなければ従わなくていいんだ」という間違った認識を植え付ける事となり、増長を招く。また一時間半もこんこんと説教して聞かせるのは大変疲れるのに、偉そうにしたいだとか無駄だとか自分のストレス発散だとしか感想が持てない無能は職場にはいらない。
3。姿勢に対する改善は必然的に抽象的になるので、一時間半もかけて叱責できずに諦めて投げ出したり、面倒くさいからといって業務の端々の修正指示に留め一番大事な精神を説かずに済ませてしまうような無能は職場にはいらない。
4。正しいことを盾にすれば非効率な伝統に従わなくて済むという考え方そのものが、職場の伝統に対する挑戦であり驕慢。先輩や上司が従ってきたルールに従わない奴は職場にはいらないというか、いずれ異物扱いされて自浄作用で追い出される。
職場における主張やルールのダブルスタンダードは確かに理不尽で、良くないことだ。
だが先輩や上司から押しつけられる理不尽は、かつてその先輩や上司がさらに上から押しつけられた理不尽でもある。
“その辺りの事情を察した上で、おとなしく伝統に従う事のできる”奴だけが後輩と呼ばれ得る。
ボクはそんな理不尽な事、ちゃんと説明も受けてないのにできませーん、先輩達が黙って従ってきた事なんて知りませーん、なんて奴はいらない。
ダブルスタンダードにならないよう気を付けているのは好感の持てる優しさだとは思うが、時にはきっちり職場の伝統を引き継がせる事がどうしても必要な場合もあるぞ。
ジャンプには30年前から腐女子枠があるわけだが・・・。キャプ翼や聖闘士星矢とかね。30年以上前からジャンプを見ていてその変化を憂いているならわかるけど、その後からジャンプ読み始めたのに文句を言ってるなら、後から入ってきた住人が元々の住人に文句を言ってることにしかならんよ。
まあ腐女子枠じゃなくても、ジャンプの戦闘系漫画はヒロインおいてけぼりなことが珍しくない。男塾とかヒロインの存在さえないしw
あとは真逆のハーレム学園もの。あれもジャンプの伝統ではあるけど、じゃあそっちを強化すればいいのかといわれるとそれもどうかとw
田舎うんぬんよりも、友達(親しく話せる人)がいないのが最大の原因かな?
なにかの気が合うグループにさえ入れればきっと満足すると思う。
まあそこのグループで揉め事をこす可能性はあるが、それはまた別の問題だ。
完全に無趣味だとそれも難しいんだよな。
子供、っていうよりはママさんグループってのはいろんな行事で何かと話す機会も多いから
趣味がなければたしかにママさんグループにでも入れれば…とは思う。
地元自治会の行事とか手伝えば、若い人(50歳以下なら十分若い)はすぐ歓迎されることが多いけどね。
伝統の祭りじゃなくて子供祭りとかね。こればっかりはそこでないとわからんけど、たいてい独身でもそんなに阻害されないと思う。
ましてや女性だと。
マガジンやサンデーと違って、特別別格に可愛いヒロインがいるというわけではない。
それなのにごく稀に現れた別格に可愛いヒロインがいたら、腐女子が何故か騒ぎ立てて存在を抹消されるか、リナリー・リーのように没個性化される羽目になる。
そもそも少年誌なんだから、少年がヒロインのために悪と戦う構図が王道なのは当然なのに、そして、ジャンプ漫画というのは古くから伝統的に少年がヒロインの少女を守るべく立ち上がって出会った敵と闘い、仲間と切磋琢磨して成長して行く物語が主だったりするのに、昨今のジャンプ漫画の人気作品には殆どそれが見られない。
一体何に支えられているのか、不思議でならない。
ネット界隈ではやはり、というか腐女子が作者の物語をアンケートなどによって強引に捻じ曲げているのでは?と見る向きもあるが、最終判断はあくまで作者の意向に委ねられているから、それも難しいかなと思う。
いずれにせよ、天下のジャンプ漫画である以上、腐女子向けに描かれる必要性は皆無だし、そんなに腐女子向けがいいなら少女漫画とかレディコミとかでやればいいわけで、
ジャンプにそういう外道を持ち込むなと長年ジャンプを愛好している私は訴えたい。
しかしながら、アンケート至上主義の編集部がアンケートの結果如何で全ての事を決定しているとなると、今後も腐女子の意向によって外道漫画が増えるのは間違いない。
けれど、それでいいのか?
いいわけがない。
何故なら、ジャンプ漫画はあくまでボーイミーツガールを主とした少年漫画でなくてはならないからだ(懐古的な私見であるが)。
その意味では、昨今外道漫画たちは友情とかいいながら、少年漫画から逸脱した、性的な意味での男の友情物語が描かれ過ぎている。正直吐き気がする作品が多々ある。
先日起こった黒子のバスケ脅迫問題にしても、やはり外道作品だからこそ道から外れる犯罪者が生まれたんだと考える。
昔のジャンプであれば少なくとも読者が世間を騒がせる犯罪行為に走るなんてことは殆ど全くなかった。
ジャンプはいつから少年諸君に夢を与える雑誌でなくなったのだろう。
ワンピースやナルトが売れて、確かに全盛期に近い売り上げを誇ることになったが、しかし全盛期に迫るかというとそうではない。
明らかに購買層が変わったせいもある。
恐らく硬派な漫画が好きな層が、この外道な現象に失望して、あるいは幻滅して他誌に乗り換えた可能性も否定できない。
少なくとも私は購入しなくなった。殆ど立ち読みで済ませるようになった。
それは単純に漫画がつまらなくなったというより、読みたい漫画がジャンプになくなったのだ。
今、巷では売上げが伸びていると言われているが、だからどうしたというのだ。
多くの目に触れるようになる前から価格が高騰し、入手困難なCDであるため、これを引用公開することで、多くの人の目に触れることは、昨今の事情に照らし、有用だろうと思い、ここに記しておきます。じゃあ増田で書くなよ、というツッコミは効きません。たぶん期間限定。
佐村河内のスコアを詳細に眺め評価することは、近頃の劇音楽に屡々見られる基本的な技術不足や、必要以上に技を凝らそうとする過剰なテクニックの持て余し。
これらとは明かに一線を画しているという事だ。
第一楽章、邦楽の静謐な、それでいて熱いエネルギーを内に秘めた佇まいから戦いを表現する大オーケストラへの見事な転換、目の眩むような、あたかも生物の細胞分裂の様な声部の増殖の緊張は、来たるべく英雄の出現(心に強く刻み込まれる主題[テーマ])を準備しているのだ。
第二楽章では、一楽章の主要な動機[モティーフ]や主題[テーマ]を巧みに変奏発展させてゆく、限られた時間の中で超絶的展開能力。
全く隙の無い構築力と完璧なオーケストレーションには唯々感嘆するばかりだ。
これらの事が自然に在る、ということ、技術はその為にこそ使われなくてはならない事をこの奇麗なスコアは私達に示してくれている。
私がコーダ部の総譜を受け取りに氏宅に伺った日のこと。
着いてすぐ筆談で、まだ出来てないので待てとのこと。
以降氏は黙したまま延々4時間が流れた。
と突然立ち上がり、未だ見た事も無い80段はあろう巨大な五線紙を取り出し席に着くや否や、嵐の如くペンを走らせ始めた。
それは神憑り的な速さといった感じだった。
何やらスケッチでも書き写しているようだった。
10分も経った頃、「写譜なら手伝おう」と立ち上がり氏に近づいた私は思わず目を疑った。
氏が書き写している筈の五線紙の向こうには何も無かったのだ・・・・。
その恐ろしい光影に立ち尽くすばかりだった。
写し取っていたのは頭の中のスケッチだった、以降ペンは一度と止む事無く僅か20分で全ては終わった。
氏は見直しもせず「ポイ」と私に手渡した。
後に私が見直したところ、何の落度も無かった事は言う迄も無い。
注:引用者により、ルビを該当する熟語のあとに[]で読みを挿入してある。また、句点ごとに改行し、アラビア数字は半角に変更した。
遠い古からの声―長い間日本の風土の中で培われてきた都節と呼ばれる伝統的な様式―からこの曲は始まる。
この尺八の「息」が、はじめは琵琶の力強い一打や笙の開放的な響きを導き、外に開かれていく空間を形づくるが、つづく締太鼓の合いの手を橋渡しとして、今度は逆に人間の持つ陰の部分、尺八の内に籠った響き、そこに影を落とす琴の不穏な調弦や笛の虚ろな息づかいなどが、前との微妙なコントラストとして対置される―ここで提示された様々な要素(おもにコントラストという概念)がこの作品の全体を紡いでいく上での重要なポイントとなっている―。
やがて一本の竹のひびきは12本もの竹(尺八)を呼び(ff)、静かに、しかし豊かにひびき渡る和太鼓の一打が大オーケストラを迎え入れ一転としてスペクタクルな場面に突入する。
前の部分と全く別な世界の様にみえるこの部分は実は冒頭の尺八の旋律と深い関わりを持っている。
譜面を見てみよう。
(譜例1)ここでフレーズの後半にあたるAという部分にオーケストラが対応する。
(A')。
そして英雄の出現を伝えるファンファーレ(これは西洋で培われてきた伝統だ)につづいて(やはりこれも西洋の伝統的な)ハーモニーのゼクエンツ(鎖)に乗って英雄のテーマが提示され(譜例2)クライマックスを迎えた後、譜例1のBの和音の固定(オスティナート)による経過句に入る。
ここで邦楽の冒頭部分が新しい状況の上で再び現われる。
尺八がサキソフォーンに、笙がヴァイオリン群に、また12本の尺八は今度は虚ろで怪しげなハーモニーを醸し出し、三味線は乱れ(冒頭の拡大)、琴はますます不穏なアルペジュを掻き鳴らす、一瞬の閃光、地底から沸き起こったかのような轟音から出現したものは英雄のテーマのヴァリエーション、そして輝かしいマーチ(ファンファーレの変奏)―ここで西洋にハーモニーのコントラスト(長三和音と短三和音)を挙げておく。(譜例3)
そして再びスペクタキュラーなシーンが登場し、コーダ(ゼクエンツ部分の変奏、このモティースがその後の楽章で大変重要な役割を果たす)(譜例4)。
二楽章は前半の静かな部分「夜の音楽」(佐村河内談)と後半の激しいアレグロからなるが、前章であらわれた様々なモティーフによる更なるヴァリエーションである。
(一楽章をソナタ形式に於ける提示部と捉えるならば二楽章は展開部、三楽章は再現部とみなすこともできる)
三楽章は前の余韻を受けて「能楽」の囃子、コラージュ的部分を経て尺八の冒頭が再現される、ここでは笙のか代わりに弦楽器が増四度上で現れる、実に美事である。
メインテーマがアダージュで(本来の姿で)再現され圧倒的なコーダで締めくくる……
以下は若干の譜例による指摘にとどめるが、この作品は様々な要素を複雑縦横に織り込んだ大変興味深い大曲であり、聴き手は注意深く聴き込む毎に新たな発見を見いださせる至宝の逸品と言える。
引用者注:譜例3には『マーラーの交響曲第8番(第6番かも、とにかく字が小さくて読みにくい)が想起される!』と書いてあるので、もともとマーラーが好きなんだろうと思う。また、誤字と思しきものも原文ママにしてある。
www.youtube.com/watch?v=ukFtX9iZPjU
余談だが、このサウンドトラックは贅沢にもxrcd2を採用している。ネットにある音源とは比べられないぐらい素晴らしい音楽が堪能できる。
カノセさんなりオオツネさんなり。
ブコメはさぁ、記事内容が偏向してる場合にメタ視点を与えてくれるもんじゃん?
それが機能してないっていうのは、
お前ら、舐められてるよ。
コメントしてたのか。ごめん。
本当だ。気付かなかった。
ご指摘ありがとう。
名前を挙げた有名ブックマーカーはいずれもコメントなしが多いわけで。コメントありブクマの多い人の場合、必ず偏りが生じるので判断は慎重にすべきだし。
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/629099
「はてなブックマーク - はてなブックマーク - 「『反ヘイトスピーチコーナー』作りませんか」という提案に対する書店員の方の反応 - Togetterまとめ」
ただやっぱり納得行かなかったんだよ。
あんたも例示に食いつくか。あくまで例を挙げたまでだ。
というか、ブックマーク傾向は偏るのが当然だし、偏るからこそ個人としてウォッチする意味がある。みんなが話題にする記事を読みたかったらはてブTOPでも見とけハゲ
個人のブックマークが偏るのは別に良いのよ。そこは俺が問いたい論点はそこでは無かった。
普段賢そうな意見を書くんなら政治系でも嫌がらずにコメント見せろと思うのさ。
駄洒落が思いつかないんだろ
id:jt_noSke さんは別にあのままで良い。
http://b.hatena.ne.jp/otsune/ ブコメしてるブクマを探すほうが大変なんですが
たまに見るコメントに切れ味を感じるワケで。だから、政治系でもその切れ味を見せてみろよ、と思うワケ。
そして普段賢そうな意見を述べ、その意見にスターが沢山付いているのであれば、それは影響力を持つワケで。
分かるか。
そういうことだと認識した。
はてブにかくれて 生きる おれたちゃ 凡人ブックマーカーなのさ 人に姿を 見せられぬ 獣のような このはてブ 「早く有名ブックマーカーになりたい!!」
あんたも有名枠だけど、政治系にコメントすることには期待してないから別にイイ。
いつも通り生活系ゴシップ目のネタについて言及してれば、それはそれで健全だと思う。
安倍ちゃん絡みで最近はもうはてサが異常なほど暴れまわっているからね。異様に感情的で攻撃的な場になってるからあまりコメント付けたくないというのも分かる
ソレっぽいな。
たまたまだ。
はてなの一部には正義を旗印にした批判のための批判という昭和の伝統が生き残っていて、現代では貴重になりつつある。安倍氏や橋下氏には人格否定何でもありなのでリベラルというよりは、労組の拡声器が近いのかもね
つまり、自分の意見に酔うためだけにコメントする奴らが老害として残っていて、
そこにコメントで付き合うユーザーが減った結果、そいつら老害の意見が幅を聞かせて居るようにみえる、と。
誰とケンカしてるの?
はてサ。美味しんぼの作者並みに独善的なイデオロギーに酔った奴らを許せない。
立ち位置の問題もあるし、発言の都度にツッコミをどう回避するか専念せんとならん窮屈さもある。あと、kanose・otune氏以外に名物ブクマカなんて沢山居るじゃん、ほれ。
名物ブクマカでフェアな視点を持ってて普段冴えたコメントをしている人なら大体誰でも良い。
そういうことな。
コレ → http://childs.squares.net/murahatebu/village_people
他所様のとは言え、リスト提出したんだから話をブログに書いてもらおうか。
「有名ブックマーカー自体のコメントが無い!」ということをコアの問題にしているのでなく、
歴史や政治について明らかに思い込みや他人のイデオロギーに偏っているブコメ群に、
「そういう歴史もウラもまともに調べないようなやつらを、のさばらせていいのかよ」
ただし今回のブコメにより
言論を述べる重要性 < はてサの面倒クサさを相手にするコスト
ということが十分分かった。
感謝する。
似非科学呼ばわりされているけれど、私には「発達障害は生まれつきの障害なのでどうにもなりません」認定の方が似非科学に思える。
個人的にはそもそも「発達障害」なる概念そのものが疑わしく思う。
脳なんていまだにブラックボックスなのに「生まれつき脳の機能障害で一生治らない」という烙印を押して個人を差別する事が本当に科学的に正しいのか。
「発達障害」というのは本来障害でも何でもない人達を差別して排除するためのレッテルでしかないと思ってる。
あくまで作られた障害でしかないと。作られた障害だから、社会のありようによって増えたり減ったりする。だから教育で減る事だってあるはずだ。
はっきり言って「発達障害」なんていうのは肌が褐色なのが障害だとか、目が細いのが障害だとか言ってるのと変わらないと思う
必要なのは障害者として扱って特別な「支援」により周りに合わせる事ではなく、そのままの個性で素晴らしいと肯定する事ではないか。
「発達障害」教育というと、当事者を矯正して「社会」に適合させる事にばかり熱心だが、本当に必要なのはそれ以外の子に対する教育じゃないか?身体障害にしろ人種や民族にしろ、「差別はいけません」と教育するのが第一だ。「特徴を矯正して、差別者に媚びへつらって気に入られるようになりなさい」と、当事者を「支援」したりはしない。
変わってる子、空気読めない子をハブってはいけません、人は一人一人違うのだから他人の個性を認め合いましょう…そういう教育。昔の日本にあって今の日本にはない教育。
昔、少なくとも二十年くらい前までの日本では、今なら絶対発達障害認定されているような人でも職人芸などを生かしてお金を稼ぐ事が出来ていた。周りも「変わった人」として、結構好意を持って接していたと思う。少なくとも今のように障害者認定されて差別される事はなかった。
虫愛ずる姫君という古典がある。化粧もせず、流行りの衣装を好まず、他の女の子が好まない虫を愛する姫の話。当時として一般的ではなかったんだろうけれど
それでもそういう娘を美しいものとして描いた作品が千年後まで残っている訳だ。
社会人の身だしなみとして暗黙のうちに化粧を強要され、常に気配りと甲斐甲斐しさが求められる現代日本の女性には、虫愛ずる姫のように自由に生きる事は不可能だろう。
昔の全てが楽園だった、なんて言う気はないけれど
少なくとも「発達障害」と見做される特徴を持った人々にとっては昔の日本の方が生きやすかったし
生き方の幅も広かった。