はてなキーワード: 伝統とは
自分は「あの時死ぬほど勉強しておいてよかった(新城さんかよ)」と思ったことはあるけど、
「子供の頃からきちんと家事やっておけばよかった」と思ったことはない。
子供を産めばそれは変わるのかもしれないけど、そんな予定がないのでわからない。
ああ、ただひとつ言えるのは家事スキルが低いと伝統的な家庭に対しての憧憬が低くなるので、結婚はできたとしても子供を産まない可能性は高いと思う。
id:chuunenh 日本では女性のほうが幸福度が高いので、労働問題を解決する必要はないという考え方。タイトルからもわかるように幼稚な考えだけど、こういう本音の人は意外と多そう。
はあ、どうやらこういう↓オヤジ共と同類に見られているらしい。
http://allabout.co.jp/gm/gc/12462/3/
社会進出する意味があって、社会進出するだけの態勢が整った女性だけ社会進出すればいいんじゃね?ってスタンスだよ。
出産する気がない人はずっと働いたらいいし、出産と正規雇用を両立させたいなら実家の親世代ヘルプを使うしかないでしょ。
正規雇用と育児の両立は無理だから、共働きの多い地域は親を活用している。 http://allabout.co.jp/gm/gc/12462/4/
託児施設などの整備は出来ないと思う。これまで通り。予算もなければ政治家にとっての利権的な旨味もあんまりないよね。
化粧品会社とか医療福祉とかアパレルとか、昔から女性が主導権を握っている特定の業界以外で
女性が既存の男性労働者よりも付加価値をつけて社会進出するには、産休育休で休んでも職場に残って欲しい人物である必要がある。
すなわち特殊な技能を持っているとか、男性よりも高学歴ハイスペックだとか、そういう人じゃないと無理じゃね?
東大京大一橋出たとか元国税庁出身の税理士だという女性に誰も専業主婦やれとは言わんでしょ。
多くの企業にとっては男性よりも女性を正規雇用しづらいのは法律諸々の事情で仕方ないことだし、
http://anond.hatelabo.jp/20140615175333 にも書いてるけど。
企業も政府も形だけ音頭は取るけど、おそらく何も変わりはしない。
女性のためじゃなくお金儲けのために企業は存在しているんだし、
ラガルドとかいうオバハンあたりからギャーギャー言われているから女性の待遇改善に政府は動いているように見えるが
そもそも総理とその取り巻き自体が何で多くの女性が出産後も正規雇用で社会進出出来ないのか仕組みすらわかっていないだろw
建前では女性の待遇を改善すりゅ!って言ってるけど、日本の偉い人の伝統「現場に投げっぱなしジャーマン」かまして終了。
現場で無茶して魔改造しまくり、上の人間は何も状況がわからないゆえに統治能力がないのが日本の様式美ってものだよ。
おそらく今のままで困っていないから変える気がない。だから男女の賃金格差は20年以上も変わらない。
アフリカの子供が飢えていると言って、助けに行く日本人は少ないでしょ?
女性が困ってようと男性は困らないし、当の女性自身も困っていないんだから。http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2473.htm
お上に女性の待遇を改善しろって言ってもおそらく変わらないから、これまで社会に進出してきた年上世代の女性のように上手く立ち回るしかないんじゃないっすか?
「大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除・ソート。出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れてしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデル、エッシャー、バッハ─
の長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記)
普通、日本語の文章で書かれた日記を見ると、普通は「日本人」という感想よりも前に、この人の日記は面白いな、この人の批評は痛烈だなと思うのが一般的な慣例だったはずである。
それなのにわざわざ「日本人として」とか「日本として」と書くのは何でだろうと思う事がある。
「日本人」という単語がそれほど大きな効力を持つとは考えにくいが、多用する事で訴えたい何かがあるのだとすれば、それは陳腐な事だろう。
実際の所、これを多用するのは自分自身に後ろめたい事実があって、それを「日本人として」という事に置き換えてるのではないか、と考える。
総じて、「日本人」が「日本人として」と書くのは実にヘンな話である。
昨今は隣国との冷えた関係から嫌韓や反中がネット上での常識となり、その国や人となりを風刺するのが常となって久しい。
されば、それがイコール「日本人」への愛着に繋がっていったのでは、というのが一般的な見方であろうと推測されるが、
筆者に言わせれば、それは虚実である。
いちいち「日本人」を多用して「日本」を祀り上げずとも海外での評判は概ね良い。
和食が無形文化遺産に指定されたのを始め、日本のありとあらゆる伝統が外国人の心の拠り所となりつつある。
それらを踏まえれば、「日本人として」と表現する人達の閉鎖的で独善的な感性は何とも言い難いものがある。
あるいは、彼らのアイデンティティーとは昔ナチスが「ゲルマン人こそこの世の最高である」と宣言してたモノに近い。
ところで最近、やたら愛国主義を謳う人が急激に増えたように感じる。
それそのものは良い傾向であろう。
しかしながら、問題は謳っている人間が一方で森林を伐採し、地球温暖化を早め、また労働者を家畜同前の扱いにし晩婚化を進めては少子化が激増する一方であり、日本人の尊厳を踏み躙る行いをしている事である。
そういった人間が一方では「日本人として」景観や自然を守ろうと言うのであるから滑稽である。
日本という国は、古来から八百万の神を信仰し、またシャマニズムを尊び、上も下も豊かであろうと心がけて来た国であるはずである。
にも拘らず、「日本人として」と謳う昨今の愛国主義者たちは、同じ愛国主義者を使役し捨石のように扱い、今度はお国のためと言って戦争に駆り出すのである。
お国のため、としながら他国を蹂躙、凌辱する事は果たしてナショナリズムに合った話なのだろうか。
また、それが謙虚を美徳としてきた「日本人」のあるべき姿だとは、とても思えないのである。
「日本人として」国を愛する心があるのならば、自然や景観を守り、他国を謗ったり、他人を誹謗中傷しない、世界が認める謙虚を美徳する民族であろうと努力すべきではないか。
やたら「日本人」を強調する人というのは、結局日本人である事の誇りを知らない非日本人であり、またそれは歴史が証明しているのだ。
第二次世界大戦で愛国主義を謳った東條英機以下当時の政治家・軍人の類は国家を疲弊し国民を疲弊させ、その文化遺産を鉛などに使うべく溶かしてきた。
その結果が、長崎や広島への原爆により日本人の尊厳や先人の歴史的遺産が消失してしまったという、愛国主義とは程遠い凄惨な事態へと発展せしめたのである。
今思う事は「日本人として」ナショナリズムを起こすのであれば、安易な誹謗中傷よりもまず国内の安寧を図るべきであり、自国を批判する事である。
キリスト教など西洋型宗教は人は神の子であると考え、また祖先を崇拝した延長線上に神がある。
一方、東洋型の神道などでは、神は人間とは別の階層に存在すると考える。
我々がID論など西洋型の宗教観を理解しようとしても、無意識のうちにこのような隔絶を前提としていると、うまく消化できない。
これらの国では国粋主義を叫ぶことが流行しているが、その旗振り役に居るのは西洋型の一神教的価値観の持ち主達である。
彼らが「伝統」を口にしてもどこか空しいのは、彼らがそもそも東洋的な宗教観や価値体系を持っていないためだ。
アフリカへの奴隷制、中東への「ぬれぎぬ侵攻」、そして東京・広島・長崎に代表される、人を人とも思わぬ、計画的で悲惨な国際法違反行為、同じ価値観を持った西洋人同士でも果たして行ったのだろうか。
彼ら西洋人の価値観が、我々の伝統を軽んじ、書き換えようとしている、これらを黙って見て、伝統を重んじる者たちは心が痛まないのだろうか。
その国の伝統をうまく把握できない者が、困難を抱えた時に国民を一致団結させることなど無理であり、統制で誤魔化すのが関の山であろう。
最近、創作物で「主人公が成長する物語」をよく見かけるようになった。
少年ジャンプみたいに、能力とかバトル物のことを言っているのではない。
主人公が偶然放り込まれた、もしくは流れで入った、都会とは違うとある特殊な環境で
そこでの人とのつきあいかた、自分が受けていた恩恵、自然の大切さ(何故かこれがある)を学んで、
恐らく創作の動機は、その特殊な環境の現状を周知啓蒙させるべくっていうのが強いのだろうけど、
主人公が総じて「ナヨナヨしたバカな若者」なのがいただけない。
そんなクソな主人公が自然豊かな特殊な環境で育った大人たちに、最初は排除され、叱られ、
心を入れ替えた若者が最終的には認められる、ってパターンはもう見飽きた。
作者からすれば「ナヨナヨバカ」は扱いやすいのかもしれないけど、
見る側が、自然とか伝統とかを後ろ盾に、「今の若者はナヨナヨバカだ」と決めつけるおそれがある。
そうだよ!今の若者はナヨナヨバカだよ!ちくしょう何でも言いたきゃ言え!
「見返したきゃ我々年配様が体験してきた苦労を味わって心身を鍛えろ」だって?
おめーらの言いなりなんかなるかボヶ!嫌だよバーカ!
「そんなだからナヨナヨバカから抜けだせねえんだろボケカスが」だって?
くそっ
「Abita」というフクシマを題材にした短編アニメ映画が国際賞を受賞しまくっているのにマスコミは一切報道しない!
という話題なのだが、その「国際賞」というのは「International Uranium Film Festival」の最優秀アニメ映画賞と、「Back-up Filmfestival」の特別賞のみ。
International Uranium Film Festival - Wikipedia, the free encyclopedia
反原発派は「いつものマスコミだったら日本人の快挙だと取り上げるのに!」と言っているが、
仮にフクシマ絡みでなかったとしても取り上げるわけないじゃん、もっと伝統と権威ある映画賞ならともかく。
せいぜい文化面で「こんな見どころのある若者がいたんですね」といった程度に触れられるくらいが関の山じゃないの。
最初は「褒められていい気持ちになってる日本人」目線だったけど、最近は「外から日本を見てる外国人」だったらどんな気持ちか、というのを考えるようになった。
なるほど日本って、外から見たらめちゃくちゃ魅力的で楽しい国だわ。
ユニークで伝統的な文化、個性的で深い歴史、最新の科学技術を持ち合わせ、優れた食文化やポップカルチャーがある。
何より清潔で安全。物静かで礼儀正しい民族で外国人を快く受け入れてくれる。
でも実際住んでみればどうか。
閉鎖的で排他的な伝統や習慣。特に労働への意識が高すぎて忙殺されてる。
そして昨今問題になっているのは男女の恋愛結婚への意欲の低さ。
二次元の彼氏彼女が溢れかえるのと反比例に、日本人はリアルで恋愛出来なくなってる。
どうりで「日本に旅行したい」という外国人が多くても「日本に住みたい」という外国人が多くならないわけだ。
前に「私は人種同一性障害で本当は日本人なの」と面白厨二病的な事を言っている10代の外国人女子の記事を見たけど、その子だって「将来は日本に移住しようと思ってる」とは言ってなかったもんなぁ。
(なんか心の中で妄想した夢の国みたいな日本で暮らしてるらしい)
江戸時代から明治時代へのような大きな転換では、革新派は皇室を尊重することで時代は進んだ。
皇室の名を出すことはそれほど大きな力となるので、極度に警戒されることではあるが。
革新派の持つ歴史観では、二次大戦・太平洋戦争中は、一部の強硬派が実質的な政治を占拠したとされるので、皇室にその責任はないとされる。
革新派が考えなければならないのは、どうやってそのような占拠が起こりにくい仕組みを作るかである。
保守派=攘夷派は一見、伝統や皇室を重んじるようで、重視しているのは実は自分たちの利益だ。
つまり、利益を正当化する道具として伝統の名を持ち出しているので、彼らにとって伝統の尊重は実際の利益にならない。
自分は在日やシナ、エセ障害者や部落が大嫌いで、ネットでもその趣向を全面に出してブサヨをおちょくって遊んでるけど、
ことピカの話になると普段TLにいる連中がことごとくモラル戦士になりやがる。
おいお前普段からようじょを犯すのは日本人の伝統で権利とか言って楽しんでるのにいちいちピカ差別につっかかるのはなんでなんだよ(笑)
在特会みたいに民衆のホンネを好きなようにぶちまける団体に俺は救われてきたしストレス解消にもなった。
なのになんでピカクソ土人を差別することだけにはどいつもこいつも風紀委員みたいになるのかね?
俺はフクシマの食べ物なんて絶対に口にしないよ(笑) それもまた日本人に認められた自由だからねw
ブクマで書き切れないのでちょろっと書く。眠くなったら途中ででも問答無用で寝る予定。
>険悪な関係を広げる中国ではあるけれど、かつては「中華」にふさわしく、東アジアのみならず、東南アジア、西アジア方面へ制度や文化を発信していた。
これは文化に優劣があるという誤解。実際には文化的に優れていたから広まったのではなく、単に国力で卓越していたから、その文化にも「力」があったように見えた、ということ。
その上で冊封体制に参加すれば強烈なボーナス付きの貿易で莫大な経済的メリットまで約束されていた、という時期があった。
もちろん、中華帝国側にしたら、遙か彼方の蛮人たちまで皇帝の威徳を慕ってやってくるんだ、とドヤ顔で言うために出費を負担していた、ということでもある。
実際には日本の諸制度は聖徳太子ぐらいのタイミングで既に何か中国とは違う物になっているし、さくっと遣唐使を廃止してしまえたことから分かるように、中国からの影響は小さい。
遠すぎて経済的なメリットが薄かったのと、なんだかんだで日本が案外豊かだった、というのが大きい。
>伝統の「漢の文化」は、いかなる異民族に侵入されようとも、異民族の文化を「漢化」した。
これも誤解。実際には三皇五帝の伝説の中身からして、すでに異民族の文化が混ざってきている。以後の中国史を見てても、外国から持ち込まれた要素と引き継がれている要素が常に混合し続け、常時アップデートされ続けている。
どっかで
「中華文明が連綿と続いているというのも、異民族文化の影響を受けすぎて原型など残っていないと言っても、どちらも正解でしょう」
と書いた通り。
ただ、現代中国人は孔子とかの時代の漢文を読めない(補助記号足したら日本の高校生でも何とか読めるようになるものが読めないってどういうことだってばよって感じだが)。その意味では一貫した中華文化が続いているというのは嘘ではある。
外来王朝が漢化したように見える現象は、単に中国大陸主要部を支配するためのツールとして漢字や儒教や科挙制度が便利だったというのが大きい。文化的な魅力が大きいからそれによって「改宗」していたと思うと足元を掬われる。
つまり、
>優れた制度を持ち、華やかな文化を持ち、数千年に渡り威光を放っていた大陸の国家は確かに存在していた。
というのは実は誤解に基づく幻想。問題はその幻想を大変多くの人たちが信じていた/いること。
>共産主義の下、さまざまな伝統が破壊され、今では巨大なマーケットか、トラブルメーカーとしてしか認識されていない。
文化大革命の時期とかは何かを破壊するのが流行ったことはあったけど、現在の共産党政権(と先代の国民党政権)が歴代王朝と何が違うかと言われると回答に窮する。
あえて言えば科挙がないことと、皇帝位の継承が血統でなく有徳者の禅譲によっていることぐらい。
共産主義に何か意味があるように誤解しているが、実際には何の意味もない。あえて言えば五斗米道とか白蓮教のような、たまに中国史に影響を与える宗教の一種、程度に過ぎない。
日本版の律令制度自体が最初から中国のとは結構違うし、律令国家は早めに見れば平安時代、どう遅く見ても武家政権によって無効化されている。
孫子読んだら分かるけど、軍制の本じゃないので、影響がどの程度あったと言われると「あんまりない」としか言えない。
要するに中国の文化が優れていた、制度が優れていた、周辺の大きな影響を与えていた、というのは誤解の要素が大きい。
地続きでもっとも影響を受けていたはずの朝鮮半島ですら15世紀にはハングル作ってるわけで、推して知るべしである。
>昔は輸送手段が乏しく、中国のあるところにいた人を実際に見る事ができなかったからこそ、書物で伝えられる聖人や君主が素晴らしく彩られていたのかもしれない。
がすべて、ということ。
日本が清にトドメを差したわけでもない。日本の行動はそれこそ劉邦を包囲して屈辱的な和平条約を強いた匈奴と大差なく、何かが変わるという類の物でもない。
列強による清の分割は既定路線で、日清戦争が与えた影響は、単にプレイヤーの一人として日本が名乗りを上げたという程度。
その後の義和団の乱によって、列強は中国大陸を直接支配するのは効率が悪いと悟り、利権だけを確保しつつ清は存続させる、という方針に切り替えている。
ロシアだけはやや違うことを考えていたが、日露戦争の結果としてそれもなくなった。
それ以後の中国史の不味い部分は、大体は中国側、特に蒋介石の無能と日本の外交下手によって引き起こされている。
>この国がやるべき事は、張り子の虎の様な振る舞いではなく、栄光ある後継国として腰を据えて国家を「再興」させていくことではないのだろうか。
これが一番大きな誤解。
歴代王朝は普通は常時勢力の拡大を指向していた。つまり今の動きの方が普通。「対等な外交関係」の存在を理解できないという致命的な欠陥を歴代王朝は持っていたが、それと同程度の話。
官の腐敗を止められないのも、村落共同体が武装していて警察力がその中に及ばないのも、私的所有権が政府によってたびたび脅かされるのも、すべて歴代王朝にも見られる特徴で、何一つ変わってない。
あえて言えば鄧小平が生きている時代に泰山に登って封禅ぐらいはやっとくべきだったかもしれない。
つまり中国政府が今本当にやるべきこととは(過去の栄光などまったく関係なく)、歴史上一度も成功したことのない難事に挑むということである。
険悪な関係を広げる中国ではあるけれど、かつては「中華」にふさわしく、東アジアのみならず、東南アジア、西アジア方面へ制度や文化を発信していた。
特に、「漢」は、同時代にある「ローマ帝国」と同じように、東ユーラシア大陸のシステムの基礎を作ったと言っても過言ではないだろう。
「ローマ帝国」が地中海地域やヨーロッパの基礎を作ったように。
伝統の「漢の文化」は、いかなる異民族に侵入されようとも、異民族の文化を「漢化」した。
優れた制度を持ち、華やかな文化を持ち、数千年に渡り威光を放っていた大陸の国家は確かに存在していた。
共産主義の下、さまざまな伝統が破壊され、今では巨大なマーケットか、トラブルメーカーとしてしか認識されていない。
(それでもなお凄みを見せるのは、共産主義でさえ、中国化(あるいは「漢化」)していることだ)
かつての存在感を取り戻すための示威行為なのか、たんなる資源獲得なのかはわからないが、まるで遅れてやってきた帝国主義の国のようだ。
―列強、帝国主義の時代こそ、中国(清国)は東ユーラシアの盟主として立ち上がらなければならなかったのにも関わらず。
たぶん、日本にとって中国、というか海の向こう側にある大陸の先進国はあこがれであったと思う。
孔子の儒教や北側経由で回ってきた「道教」の影響を受けた仏教は、日本人の生き方に影響を与え、
茶、歌などはその後、独自の文化的発展を築く礎となった。
だからこそ、大陸の後継国の中国に対して、日本人だけでなく、多くの東ユーラシアの国々の人は複雑な感情を抱いているのではないか。
確かに、昔は輸送手段が乏しく、中国のあるところにいた人を実際に見る事ができなかったからこそ、書物で伝えられる聖人や君主が素晴らしく彩られていたのかもしれない。
アヘン戦争では、あの清国が敗れたと日本で大騒ぎになり、国家としての改革が急務となった。
当時の日本の中に、清国と連携し、ヨーロッパと対峙しようとした人々がいると聞いた事があるが、
それはなされず、脱亜論に代表されるように、日本は東ユーラシアから抜け出していく。
この時、それまであった不文律の東ユーラシアのルールが変わった。
かつての超大国は列強に食い尽くされ、その輝きを失った。
アヘン戦争や列強の支配、そして日本の軍事侵攻は中国の大きな傷になった。
近年の経済発展と共に「中華」を認識し始めたこの国は、東ユーラシアの覇権を再度、力によって取り戻そうとしている。
「力」による支配はすでに時代遅れのものになっているが、大きな傷を癒すように、暴力的な行動が後を絶たない。
また、過去最大の領土を誇る事が、共産党の大きな統治理由になっているようであるが、その中で、各民族の独立の機運が高まっている。
今まで中国に投資をしてきた最大の貿易国である日本は、足場を大陸から南に移し始めており、経済成長も徐々に陰りが見えてきた。
強烈な貧富の差の拡大は、歴代の大陸の王制の崩壊要因にもなっている。
この国がやるべき事は、張り子の虎の様な振る舞いではなく、栄光ある後継国として腰を据えて国家を「再興」させていくことではないのだろうか。
駄文長文失礼
熊のゆるキャラ、マスコット化のせいでヒグマの認知度が予想の斜め上を行くようになった。
よもや大正時代最大の獣害事件を知らないとはと思うと時代を感じてならない。
三毛別村の惨劇をここ何年かに一度くらいに特集するようになって漸く誰かしらにヒグマの恐怖が伝わってきたと思う。
それでもゆるキャラ・マスコット化のせいで動物愛護に動く個人や団体も目に見えて多くなった。
人を襲うような熊はこれ以上被害が拡大しないためにも殺処分するのがわが国における慣わしなのだ。
これらは人間が思っている以上に獰猛で年間の魚類補食量も馬鹿にならない。
ましてや捕鯨反対を謳っている連中や国は過去に商用捕鯨を生業としたり鯨油を取るためだけに乱獲してきたのだ。
他の教員を悪く言うのはどうかとは思いますが、正直に言って今の職場に辟易しています。
部活指導をするために教員になったと言い放ち、授業や進路指導、学校行事などの「本務」よりも部活動優先の教員が大勢います。
例を挙げれば、進路部なのに放課後は常に部活で生徒が進路指導できない教員、部活で職員会議に出席しない教員など、当たり前のように存在します。
私は、平日放課後は部活以外の生徒指導に充てたく、平日はほとんど部活に顔を出していません。
分掌(教員の授業以外の業務分担)や教科次第では、週の半分は生徒が相談や質問に来るからで、「そういった生徒のため」を考えれば、当然のことだと思っています。教員の本業は部活指導ではないのですから。部活メインの教員は考えが違うようで、放課後は部活に行くから休み時間に来いという考えのようですが。もっとも、私も生徒が来ない放課後は職員室で業務をしています。
そして、部活は土日祝日関係なく、年末年始盆休み以外全て活動し、年間10日程度しか休みがない部の主顧問をしています。他生徒の対応をしない土日祝日は顧問として部活に顔を出すので、私自身も、年間で休みは10日程度しかありません。
私自身、できれば顧問を外れたいのですが、他の教員も活動日や内容の重さに、皆敬遠しているため、私が引き受けなければ活動が縮小する現状です。
伝統的に強豪校で、毎年この部活に入部するために入学してくる生徒がかなりの数いるため、部活の規模を縮小させるのも憚られて、やむを得ず引き受けています。
私が最も憤りを感じるのは、部活指導をするために教員になったとか、部活に命をかけていると言って本業を疎かにしている教員たちが、○○部はちょっと、などと言って顧問を敬遠している所です。
とどのつまり、彼らは自分の好きな競技を、自分のあまり負担にならない範囲で指導したいわけです。
そういった人たちが「趣味」によって「本業」を疎かにし、それがまかり通っている事態は異常だと思います。好きな競技を負担にならない範囲で指導したいならば、プライベートの時間を使ってボランティアでコーチなりをすればいいのです。部活も仕事だと言って、勤務時間内に他の仕事を後回ししてやるならば、好き嫌いせず引き受けるべきでしょう。
現任校での年数も長くなってきたので異動も考えていますが後任の目処も立たない状況で、管理職からも残るよう打診され続けています。
おそらく、私が異動した後は、私がそうだったように、「名前だけ顧問に入って」などと新任の教員に押し付けられるのでしょう。
現任校ほど極端ではありませんが、今まで赴任した学校の全てでこのような問題がありました。
そして他校の教員に聞いても、部活に力を入れている学校はどこも似たり寄ったりのようです。
中には、部活に力を入れた教員が強豪校にし、その後任の教員は部活をせざるを得ないという状況もあるようです。
端的に言うと、日本の女性は家庭内で奴隷労働するべきだと、自分達で思い込んでおり、
米国の女性はふざけんな、私達は自分の力で生きていくのだ、と戦う姿勢を見せている様子がよく分かる。
それは、挿入歌である"Let it go"の原文と和訳の違いに如実に現れている。
まず、私は和訳版を先に見て、言い知れぬ違和感を感じた。
なんでコイツは、そんな
女々しく
ひ弱で
自信満々で挑戦的な表情
で歌ってんだ?と。
思春期の子供が自分がここにいていい理由を見つけて、おめでとうと言われてるみたいな感じ。
ははん、さては翻訳の段階で何かあったなと思って原文をチェックすると、案の定。
原文の方は、徹底的に環境に虐げられ、自分を殺して公務についていたが、
もうそんなの知るか!私は私なんだ!それを認めさせてやる!立ちふさがる敵は叩き潰してやる!
特に、
The cold never bothered me anyway
風よ吹け 少しも寒くないわ
って、翻訳ふんわりしすぎだろ。
ここは、
争いよ吹き荒れろ 望むところだ蹴散らしてやる
ぐらいの感覚で言っている。
その証拠に、この言葉を言うのと同時にまとっていたマント(過去へのしがらみ)を、
まるでゴミでも捨てるかのような目で見て脱ぎ捨てている。
他にも、
Here I stand and here I'll stay
私がここに居るって言ったら 誰にも動かせないのよ
が翻訳されてなかったりする。
全体の印象として、原文が"自分の環境"という"敵"に対して、大胆不敵にも宣戦布告しているという歌なのに、
和文は問題を内包しているのは自分自身で、自分の気の持ちようを変えるだけで周囲はそれを暖かく迎え入れてくれるかのような印象を抱かせる。
確かに、日本の女性が、自分の権利のために敵と戦う、などと力強く歌いあげたら誰も共感しないであろう。
そして女性は男性に与えられる範囲の自由と権利で満足して、それ以上求めることはない。
これが今現在、日本で普通に受け入れられている文化であり伝統である。
その文化的背景にあわせて、原文の好戦的な歌詞が書き換えられたのだろうことは、容易に想像がつく。
一方米国では女性は自分で戦って、自分の立場を守るために誰かを殺す覚悟を持って、自由を勝ち取っている。
返り血に手を真っ赤にしながら、それでも自分自身の独立のために戦うのをよしとするのだ。
アメリカ人の女は、世界で最悪の妻になるというジョークがあるのも頷ける。
このように、ディズニー映画という子供達へのメッセージ性の強いメディアにおいて、
どのようなメッセージが刷り込まれていくのか、日米に違いがあるのは非常に興味深いことである。
個人的にはアメリカに生まれなくてよかったなぁと、しみじみ思うものである。
日本人の中では、遅くまで残って仕事をすることをある種の美徳とするような、
もっと俗っぽく言うと、かっこいいと感じる感性が育っているのだ。
伝統的にそういう土壌のなかで育まれていると言ってもいいのかもしれない。
こっそり努力して、あるいは/及び、身を犠牲にして、全体のために奉仕する俺マジ鬼パネェ的な。
でなければあのCMは生まれない。
誤解を恐れず大胆に言えば、あれは日本人にしか作れないし、欧米の人が見たら意図が伝わらないと思う。
追記:
そうか?アメドラとか映画見ると、何かに没頭して徹夜するシーンって多々出てくるぞ。その時に「徹夜なんて馬鹿じゃないかw」みたいなシーンなんて無い。むしろ「ヒャッホーイ!やっと出来たぜ!!!」みたいな浮かれて喜ぶシーンだ。
このヒャッホーイの類とは種類が違うと思うのだけど、多分、
これを言いたいがための導入なのでそんなことはどうでもいいのだろう。
自虐もなにも、そんなこと思ってもないし、触れてもいないのに。
本題に入る前に少しシリアスな話題があるので聞いてほしい。
男女にイメージについて聞くと面白い。男はほぼ例外なく目を閉じても真っ暗と答え、女は半数がありありとイメージできると答える。これはなぜか?
一方男性率の高い理数系の学部ではイメージを軽視する伝統的風潮が根深い。これはプラトンから来てるのだがな。本質を直観すべきでありイメージなど些末も些末、ゴミクズ同然という考え。対する女性率の高い芸術系の学校ではイメージを尊重する。『脳の右側で描け』に始まるイメ描きの連綿たる伝統があり、ナンシー関の記憶スケッチアカデミーは今や市民権を獲得した。
ここに来て先ほどの問いの答えが見えてくる。性差よりも習慣の問題なのだこれは。そして男である諸君は驚くほどイメージを軽視している。だから真っ暗なのに輪をかけて真っ暗。糅てて加えて真っ暗なのだ。
そこで世の中の男性に活、いや喝を入れようというのが本記事である。シリアスでもなんでもないくだらない前置きは終わりにしてちゃっちゃと本題に入ろう。
煮ても焼いてもまずこれをやりなさいというのがこれ。詰将棋マニアの巷間では「ブラ詰」とも呼ばれる。早い話が目隠し詰将棋である。脳内詰将棋という蔑称、いや別称もある。
こまけーこたーいいとして大切なことだけ言うと、これには2つのスタイルがあって1つがアイマスクをして符号の読み上げを聞くものでこちらが本格的なやり方。(そもそも符号ってなんだよってレベルの人はggるなりしてください)
もう1つが手軽な方法で詰将棋の盤面または印刷された紙を見て5秒で初形と持ち駒を覚えて目を閉じて脳内で解く方法である。ほとんどの人はこっちでやったほうが身のため世のため人のため。最初は詰将棋の入門書をテキトーに購入して1手詰めや3手詰めから始めるとよろしい。
先ほど理数系のイメージ軽視に賽を投げかけたが分かってる人は分かってる。暗算が得意なタイプがそれだ。私は一流大学の数学科を出て現在底辺大学の数学科にいるのでよく分かるが数学畑では手を動かすことをモットーとする物理畑とは正反対に計算が軽視される。しかし一流の世界ともなると話は別でノイマンのような暗算の達人が割といる。数学の天才には二種類いてラマヌジャンのような数覚がずば抜けたタイプは案外少数派なんだ。数論は数学の女王。岡潔も晩年は『情緒と創造』を著している。
底辺大学だと数学は論理の学問といったことを平気で言う先生もいる。論理は当たり前の大前提であり無味乾燥なつまらないものだ。そう世間で計算がつまらないと思われてるのと同じくらいに。実際、数学ではなくコンピュータサイエンスで計算理論を学べば分かるし学ばなくてもある程度想像がつくだろうが論理とは計算であってそれ以外の何者でもない。計算も論理もつまらないそのことには全く同意するが無価値というわけでもない。忘れもしない卒業の日同級生になぜ暗算をするのかと訊かれて私は暗算で扱う数学的対象に親しむためと即答し彼または彼女はもっと早く教えてよと地団駄を踏んでいた。
数学の素養がない人たちへ。最初はアイマスクを着用せずJSやJC(俗に言う小中学生)が学んでいる幾何のパズル問題(『目で解く幾何』シリーズなど)をやり次第に他分野や高校数学や大学数学科の数学や工業系の応用数学に守備を広げる。意識高い系より意識広い系で頼む。
数学科には将棋ならまだしも美術に造詣が深い先生が結構多いがそれに比べて写真芸術に関心のある人は拍子抜けするほど少ないと思う。つまり数学的美と将棋の美はクロスオーバーするが数学的美と写真芸術の美はオーバーラップしないということだということだ。つまり詰将棋と暗算の不足分を補うのにカメラはやはり大事なんだよなあ。
芸術論において言い古された表現だが音楽は音の瞬間の芸術であり写真は光の瞬間の芸術である。だからシャッターチャンスやチラリズムという言葉が端的に表しているのは瞬間性。写真家は人物や風景をとるとき手でフレームを作る。このあたり詳しく書かれた文献が少ないがこの切り取り方には必ず意味がある。単になんとなくバランスがいいからそう切り取るのではない。シャッターチャンスという言葉から誤解されがちだが確かに瞬間のおもしろさを切り取るのが写真芸術であるが決しておもしろい瞬間を切り取るのではない。この違いが大切でおもしろいものはわざわざ写真にしなくてもおもしろいのであって思い出アルバム程度の価値しかなく芸術たりえない。つまりおもしろき こともなき世を おもしろく すみなしものは 心なりけりで、おもしろさを能動的に発見しそのおもしろさを表現するには今この瞬間しかないしかもこうフレームを切り取るしかないと断言できるのである。そんな見方を学べるのはカメラくらいしかない。数学では学べないし絵画もにているようで全く違う。写実的な絵画であれそこで必要とされるのはある種の演出でありもっと乱暴に言えば捏造であるから、あるがままの良さをうまく切り取って見せる写真的な見方とは根本が違う。
そんな見方を身につけて日常の「あれ」「おや」「あら」「おっ」と思う点が増えるとそれが理解や記憶のフックになる。理解というのは必ず興味から始まるだろう?しかし興味は洪水のように訪れて過ぎ去っていく。つまりアイデアマンはメモして興味を書き留める。だからメモする時間と労力すら惜しいのでだから「これならここが気になる」とフックをつけて興味をブックマークしておくことで未来の理解や記憶のきっかけになる。そういう面白い体験をしているんだよカメラマンという種族は。
以上簡単に見てきたがどれ1つとっても始めたその日から人生を揺るがす劇的な効果があるので試してみてほしい。また6つの方法は相補的な働きをするようチョイスされており、1つでも欠かすのはもったいないので6つ全部試してもらえるともっとうれしい。
ところで論証はどこに書いてありましたでしょうか?
ここでいう論理とは、思考の形式及び法則である。これに加えて、思考のつながり、推理の仕方や論証のつながりを指す。よく言われる「論理的に話す、書く」という言葉は、つながりを明確にし、論証を過不足なく行うということである。
論理学は、伝統的には哲学の一分野である。数学的演算の導入により、数理論理学(記号論理学)という分野ができた。現在では、数理論理学は数学と論理学のどちらであるとも(時にどちらでないとも)される。現在の論理学は、(それを論理学であるとするなら)数理論理学と、数理論理学をふまえた論理学、数理論理学でない論理学に分化している。
弁証法なども、「論理」なのであるが、論理学における論理とは異なる。これらは、論理というよりむしろ理論 (Theory)である。