はてなキーワード: ヒッピーとは
嗜好品としてキチガイ水をがぶ飲みしている人への悪印象<<嗜好品として意図的に依存作用を起こす市販の薬物を摂取してる人への悪印象<<医者から正式に処方されている向精神作用のお薬を飲んでいる人に対する悪印象
おかしくない?
絶対逆になるはずでしょ?
いやまあメンタルの薬飲んでるやつが引かれるのは薬を飲んでいることじゃなくて、薬を飲んでいるやつ自体の気持ち悪さによるものだっていうなら分からなくもないけど、それを差し引いて行為単体への態度だけで考えてもこの不等号じゃん。
おかしいやろ。
なんで遊び半分で脳の神経は酩酊させてニタニタしている奴らが普通の人間扱いされているの?
どう考えてもパッパラパーだよ。
ヒッピーと何ら変わらんと思うよ。
映画「We are little zombies」を8/31にウェブでの無料公開で見た。今も劇場で上映されているにも関わらず、という点は素直にすごいな、と思う。海外で賞を取ったとも聞く。Filmarksを見れば、割と高評価を付けている人が多い……ように見受けられる。だけどあれ、そんなに良かったか?
両親を亡くした4人の少年少女(ヒカリ、イクコ、タケムラ、イシ)が火葬場で出会い、バンドを結成し、社会現象となる。しかし、主人公(ヒカリ)の両親が亡くなる原因となったバス運転手がネットで特定され、運転手は自殺。バンドは解散し、主人公は親戚に引き取られることに。イクコ、タケムラ、イシらはヒカリを連れ出し、ヒカリの両親が事故で行けなかった草原へと目指す。道中で事故に合い、4人の乗った車が水没する。頭の中で走馬灯が駆け巡るヒカリ。突然「Continue?」という文字が浮かぶも、一度は拒否。しかし仲間たちの声もあり「Yes」を選ぶ。するとヒカリの出生シーンが浮かび、気づいたころにはヒカリは事故現場にいた。その後草原へ4人で向かい、平凡な人生がいいねとかなんとか言う。念仏が聞こえ、鯨幕の白からズームアウトして終わり。
大筋だけ抜き出すとそれなりに理解は出来る。というかこういう、理解のない大人や嫌な現実に反抗し、自由を勝ち取るというストーリーは青春モノの定石なので、悪くなりようがないのだ。それから、映像が斬新というのも分からなくはない。短いカットの連続に鮮やかな色彩、独特なショット。
自分が何を思ってどう動いたか、バンドがどうなっただとか、最初から最後まで説明のセリフだらけ!映画は、カメラを通じて作り手が見せたいものだけを見せられるメディアだ。だからこそ、言葉で全部喋っちゃ興ざめなんだよ。表情や仕草、寄って撮るか引いて撮るか、背景に美術、何を画面に入れて何を排除するか、言葉だけに頼らず表現しなきゃ「映画」の意味がないんじゃないの。主人公が一人称でナレーションをたっぷり入れることが効果的に作用する場合もあるだろうが、主人公たちは感情が無く、両親の葬式なのに泣けない(だから「ゾンビ」)という設定のはず。それなのに(一応「ゾンビ」だから棒読みで!)べらべらしゃべるものだから、「俺、中学生だけど正直感情が無くて全てが滑稽に思える」のコピペを思い出す仕上がりである。
「さあゲームの始まりです」は流石になかったが、感電して骨が見える、ネットの特定シーンでは画面上に書き込みと思しき文字がずらずら表示される、などの古臭い表現がそこかしこに見られる。走馬灯も「Continue?」も差し込まれる出生シーンも……4人が逃げ込んだ先はラブホテル、了解です!ちなみに、主人公がゲームボーイを持っている理由は一応明かされてはいるが、イクコ役の中島セナに(iPhoneでもデジカメでもなく)フィルムカメラを持たせているところから見るに、ちょっとレトロな感じよくない?ぐらいじゃないかと疑ってしまう。街中で若者がスケートボードをやっている場面も、有り体に言やPOPEYE感を演出するだけ。こういうのを削除したら90分ぐらいのソリッドなものに仕上がると思うのですが。本筋には関係ないものの、正直かなり冷める。
ここがかなり嫌だった。主人公ヒカリはおそらく東京生まれ、東京在住(東京タワーらしきものが見えることから分かる)の中流家庭であるのに対し、がめつく、金をむしり取る親戚は関西弁である。これをステレオタイプと言わずしてなんと呼ぼうか。他にも、葬式の場で主人公に「感情が無いの?」と泣くよう迫る親戚の女性は福島在住だし、主人公の両親が巻き込まれた事故の原因であるバス運転手は広島?出身であるという描写がある。それだけではない。タケムラの父親は、工場を経営しており、貧困で、母子に対し暴力をふるう。そして母親を巻き込んで自殺する。イシの両親は中華料理屋を営んでおり、イシは太っている。そして実家は火災で全焼する。イクコの両親は、イクコに心酔するピアノ教師によって殺害される。そういう設定だと言われればそれまでだ。気にならない人もいるだろう。だが、私はなんだかなあという気がするのだ。ついでに言うと、主人公ヒカリの父親は広告会社に勤めており、社内では人気者だそうだ。監督は電通の長久允氏であることを鑑みるに、強い電通力(ぢから)を感じる。
主人公たちにバンドを組むよう勧めたホームレスたちの音楽が、見た目通りのヒッピー感溢れるものだったことには思わず笑ってしまったが、それは好みの問題だろうから置いておく。問題は主人公たちのバンドだ。エクスペリメンタルビットポップをやるのは、それも好みの問題だろうから(あと一応「ゾンビ」的設定を生かしたのだろうし)置いておく。それの凄さを語る方法が酷い。CHAIや菊地成孔を出して、彼らがいかに凄いかを喋らせるのだ。鑑賞中、思わず叫びそうになった。嘘だろ?!観客はそれぞれ好みが違うから、楽曲の凄さを表現するのはとても難しいということは分かるが、実在するアーティストに言葉で説明させるのは一番ダメでしょう。先ほども述べたが、それなら「映画」でやる意味がないのではと感じる。
「エモいって古い」にはエクスキューズを付けるいやらしさを感じる。さらに、一種の夢オチとも取れる結末で〆ているところもあまり好きではない。別に、全て主人公ヒカリの内面の旅であっても悪くはないが、それにしてはこの(法要中の)短い間によくそこまで考えたな!となり、オモシロさが増す。また、自己弁護ではないが、「絶望ダッサ」にはどうも乗り切れない。「僕は感情がないから悲しみなんて感じないんだ平気なんだ(自己防衛)→いや本当は絶望して悲しんでいるんだ(自覚)→でもそんなのダサいから乗り越えていくんだ(そして未来へ……)」なのかな、と好意的に解釈するとしても、それは「ダサい」という言葉で乗り越えていくべきものなのか、疑問である。抑うつ状態はダサい/ダサくない、という問題じゃないと思うのだが……。
疲れた。映像が斬新と述べたが、中島哲也に似ているんじゃないかとも思う。他にも色々言いたいことはあったが、もう止める。だいたい夢オチの可能性がある時点で、全ての指摘は負けなのだ。楽しんでいる人をけなしたいわけではない。良かったという人はそのまま、堂々としていればいいと思う。ただ、私には合わなかった。
男性への差別や抑圧をやめましょうって話で、身近な抑圧の例としてよく上がるのが「非モテや童貞を馬鹿にする」ことだ。
そういうのをなくしていく方向だと、男性もジェンダーロールからの解放をイメージしやすいだろう、みたいな論調になる。
ぼくは35歳童貞ひきこもり精神障害二級男性だが、あれにどうも納得できない。
そりゃまあ童貞の一人として、童貞であることを馬鹿にされることはない方がいい。そこはそう。
でも、ぼくの/男の/童貞の/人間の生きづらさは、そこが核心じゃねえだろ。
童貞であることが馬鹿にされない社会がいいよね、と語られる時、ぼくはいつもそこに「童貞であることを馬鹿にしないから、君みたいなやつは童貞のまま一生寂しくいてね」という意識を感じてしまう。
ぼくが真に望んでいるのは、童貞であることを馬鹿にされない世の中より、簡単に童貞じゃなくなれる世の中なんだよ!
より正確に言えばセックスそれ自体じゃない、セックスできる人間関係が、恋愛関係が欲しいんだ! 孤独から救われたい! だから性風俗でのセックスは解決にならない! まあセックスもしたいが!
孤独への救済がないことが、ぼくの/男の/童貞の/人間の生きづらさの核心だろ。その寂しさは、孤独を馬鹿にされなくなったからって楽になるもんじゃない。
なのに馬鹿にされなくなるのが旗印になるのは、ズレているし、むしろ目くらましされているように思えてならない。
たとえば、毎日ご飯をトイレで食べている中学生くらいの子を想像してみてくれ。男でも女でもいい。
もしもぼっちが馬鹿にされなくなったら、便所メシしていたその子は教室で一人で堂々と食べれるようになるかもしれないよ。
その子が、モノを食べる時は誰にも邪魔されず自由で独りで静かで豊かで、孤独のグルメをするのが好きなタイプだったらハッピーエンドで文句なしだ。
でも、本当は人とおしゃべりしながら食べたい子については全然解決してない。
「堂々と気兼ねなく一人飯していいですよ! おめでとう!」そう言われて、曖昧な笑いを浮かべた後、窓から二列目最後尾の席で一人食べているその子が、背筋を伸ばしていそうか? 馬鹿にされるわけじゃないのに、背中を丸めていないか?(猫背が悪いわけじゃないけどね)
こういう話をすれば、「結局いつもの女をあてがえ、女を所有したいって主張か」と言われるのが予想できる。
なあ、深刻にぼくが苦しんでいる抑圧の一つは、そういう黙らせ方のほうだぞ?
実のところ童貞を馬鹿にされることなんか大した悩みじゃないんだ。というかそもそも、童貞を馬鹿にされていることなんかそんなに遭遇しないぞ。はっきりと煽られることも多くない。社会全体のうっすらした空気みたいのはあるかもしれないが、グサッとくることは滅多にない。
ぼくが苦しんでいるのは、男が寂しいし他人と繋がりたいし女性と繋がりたいという嘆きや欲求を、罪深く、知能が低く、暴力的で、非倫理的だと断罪する抑圧の方だ。
こいつは効くぜ、ネットを巡っていれば三日に一回は、明確な攻撃性を持って刺してくる言葉に出会える。
昔から、さびしい女が男を求めることは、はしたなくふしだらだと抑圧されてきた。今も続いているだろうし、そういう圧をかけてくる奴はマジでファッキューだ。だが現在、「ふしだらだと言う奴こそが抑圧者だ」という反論も耳を傾けられるようになってきた。
一方さびしい男が女を求めることは、過去には男の甲斐性などと過剰に称揚されてきたが、現在は暴力的だ支配的だと断罪され、抑圧されるようになってきた。そして、「関係欲求の暴力性を強調する奴こそが抑圧者だ」という反論は、ほぼ聞く耳を持たれていない。
ぼくが苦しいのはこっちの方なんだよ!
「女に手を出さないヒョロ男は男性失格」から解放されそうだと思ったら、「女に手を出すキモ男は人間失格」になってるじゃん! 極端から極端かよ!
だいたい、女を所有するとか女に手を出すとかって言われやすいのがおかしいよな。現代において人間関係は相互の結びつきなんだから、互いに手を伸ばし合って握り合うもんじゃん。
ぼくはその相互関係を求めてるのに、一方的な所有をしたがってるのだと言われるのは心外だ。
それに男から手を伸ばす行為はちょっとでも不手際があると怖いとか暴力的だとかイタいとかキモいとか言われる。
真面目で丁寧なメールのつもりが長すぎてキモいロミオメールになったり、4℃をプレゼントしたりサイゼで食事したり、気さくなやりとりのつもりがおじさんLINEと言われたり、タイミングの変な告白が告ハラと責められたり、鼻の下を伸ばしたり、胸やお尻を見ちゃったり、英字Tシャツ着てたり、OKな下ネタとNGな下ネタのラインを見誤ったり……それくらいの失敗するだろ。もちろん殴ったり怒鳴ったり痴漢したら通報されるべきだけど、恋愛慣れしてない色気づいた男の不手際レベルのものをそこまで揶揄して、恐怖感を与える迷惑行為とまで断罪してたら、ただでさえ自信なくやってんのに萎縮して手を伸ばせなくなる。
そして動けなくなったぼくに言うんだ、「待ってるだけだからダメなんだ」「施してもらえると思ってるんだね」「受身で奉仕してもらう関係を望んでるみたいだけど、それが相手を所有したいってことだよ」。
こう論じていけばわかるかもしれないが、揶揄されて本当に辛いのは、童貞への揶揄じゃなく、臭くて常識がなくて外見や服装が悪くて無神経で会話が下手で不快でキモいことへの揶揄と抑圧だ。
それによって自尊心が削られ、動けなくなり、人と関われなくなる。童貞維持はその関われなくなった結果に過ぎない。
たとえばオタクは臭いと言われるけど、あれはオタクへの抑圧というより、臭い人間への抑圧だと思うし、それがキツい。
自臭症患者が増えるのも納得ですよ。
毎日風呂に入れ、デオドラントコントロールしろ、小奇麗な服を着ろ、美容室に行け眉を整えろ、ちゃんと人と会話しろ、常識を持て、思いやりを持て、価値観をアップデートしろ、老害になるな。
そういうのができない奴は、馬鹿にされても抑圧されても当然だ、キモくて不快なんだよ、迷惑だから人と関わるな一生孤独でいろ。
おいおいおい、おいおいおいおいマジかよ。そんな残酷なこと言っちゃうかよ。
この手の毎日マメに心身を整える営みがクソ苦手な人間が少なからずいるってのにな。
童貞は人と関わるななんて言われたことはないが、こっちは毎日のように目にするぞ。男に対しても女に対しても言われる。男からも女からも言われる。
さらにヤバいのは、この不快な人間への抑圧というのは、「君みたいなやつは童貞のまま一生寂しくいてね」に簡単に繋がるってことだ。
「増田君、クサくてブサくてキモくて会話通じないよね。君みたいな人って不快なんだよね。不快だから人と関わらないでほしいんだよね。人と関わらないでほしいからもちろん女の人とも関わるべきじゃなくて、非モテで童貞のままだろうね。童貞って要素を馬鹿にするのは止めるから、その孤独は受け入れてお行儀よく独りで対処してね。これはみんなの幸福のためだから抑圧じゃないよ」
だがその叫びは、きっと迷惑だと怒られ、耳を傾けてくれる人は少ない気がしている。
私も毎日マメに心身を整える営みがクソ苦手なんですけど、スネ毛も脇毛も剃らずに髪ボサボサのまま話しかけてもいいですか? たぶん嫌だと思うんだけど。
こういうブコメがついた。
いいですか? という問いに対しては、いいですよ、と答える。
いきなり体験談を語るが、ぼくは以前、髪がほつれ気味で70年代みたいな花柄の模様の目立つ、くたびれたヒッピーみたいな女の人に話しかけられたことがある。
いきなりでびっくりしたけれど、何やかんや世間話をして、実はバス代がなくて貸してほしいと言われた。
なんとなく雰囲気が変わっていて話すのが楽しかったので、もちろんいいですよ、と400円を渡した。
あとでこれを他人に言ったら、典型的な寸借詐欺じゃんと言われたので多少ショックだった。
でもぼくはあの女の人をあの時気に入っていたのだ。
話が長くなったが、ぼくは好意のない相手とは手袋越しの握手すら嫌だが、好意を持つ相手であれば三日ほど風呂にも入らず作業してる最中に居眠りして口から垂れそうな涎を素手で受け止めることもできる。
あなたがオシャレかどうかとか、清潔か否かは、気に入るかどうかを左右する一要素でしかないので、ネット越しでもリアルでも実際に交流しないと気に入るかはわからない。
そのためにはぼくがここで連絡先を公開するべきだが、申し訳ないが、それをする勇気はない。
なぜならこんな、世の中から怒られるだろう記事を書いた上で名を明かすのはあまりにリスキーだからだ。
そもそもこの記事を匿名ダイアリーに書いたのは、記名でこういう話をしたら面倒で厄介でキモくてクサくて女をあてがわれたがってる奴、と思われて、しょっちゅうネットで議論してるような人たち以外の普通のネットユーザーとは関係がブツブツ切れると容易に予想できるからだ。
記名でするのが躊躇われるくらい、こういう訴えや吐露は、すべきでないものとして扱われている。
「その悩みは君自身がそれを『悩むべき欠点である』『~でなければならない』として自分を縛ってるからだよ」式のカウンター、最強カードの割に言われた側にプラスになることがほぼないから禁止にしたほうよくない?
将来の夢も、性的対象が同性だったり異性だったりも、孤独も、生活水準も、作業能力も、社会からの評価も、全部気の持ちようで自分を解放すれば現状に満足できるんだよ~みたいなの、そんなん言われましても大体の人は深い疲労感と共に黙るしかできませんぜ。
特に「性的愛情のある関係が欲しいが同性愛は無理」に「それはホモフォビア。同性同士で支え合えばいいじゃん」っていうの、ビアンやゲイに「異性愛でいいじゃん」っていうようなもんだよ。
2019/8/13 朝 追記
またモテない女がいないことにされてる、という反応もあった。
ぼくが童貞だから、処女について踏み込んだことを言うのは腰が引けて、積極的には語れなかった。
ただ、「孤独への救済がないことが、ぼくの/男の/童貞の/人間の生きづらさの核心だろ」と書いたことや、便所飯をする子供のたとえで性別を限定しなかった辺りが、一応、モテない女への目配せであった。
伝わりづらかったようなので、男でも女でもいい、など多少加筆しといた。
童貞の男ではなく、孤独な人間が苦しいのだ、というのがこの記事の要点である。
その上で、実感を持って語れる、男性である故に孤独から脱出しづらくなっている具体例について多めに書いたけど、そこはまあ許してほしい。
でもぼくの/男の/童貞の/人間の、の辺りに主語がデカすぎるとも言われてるので、どうしろってのよ~って感じ。
実は、以前にも孤独と童貞について書いてブクマが集まったことがあるのだが、それぞれ書いたのが2014~5年(再投稿2017)と、2017年だった。
そして、二年後にまた報告してくれというコメに星がついていた。
この記事はそれをすっかり忘れて書いたものだが、不意に思い出した上に時期的に合っているのでトラバしておく。
ただ、今では考え方の違う部分もあるので、この記事の意図が過去と同じだと読解するのはやめてほしい。
それにしてもぼくは二年毎に孤独に耐え兼ね吐き出したくなるのだろうか? いや、静かに埋もれた記事もあるので、そういうわけでもないな。
空気読んでまわりに合わせるのがつらくなって彼氏にも肉便器発言されてぽっきり折れた女が仕事やめてドロップアウトしていろいろする話
既刊5巻
1,2巻は鬱屈した日々からの脱出と新しい日々、人間関係、環境との出会いから自分を取り戻していく系のポジティブマンガ
3巻からはヒッピーゆるふわパリピの隣人とのズブズブドロドロメンヘラ恋愛マンガ
4,5巻はそこからのさらなる脱却と、結局働くなら空気読まなきゃ系に後戻りして説教臭くなるプラス、クズなはずの元彼が真人間扱いで元サヤになるべきっぽい路線になりつつあるマンガ
amazonレビューはのきなみ高いけど、5巻のトップレビューで一番「役に立った」を集めてるレビューとほぼ同じ感想
1,2巻の作風を求めてた人間からしたら3巻以降の展開はコレジャナイ感が強い
どんどん読むのがつらくなってくる
偏見あって申し訳ないけど女作者の書くマンガってどうしてこうなるんだろう、あるいは女性誌のマンガってなんでこうドロドロが好きなんだろうっていう残念・がっかり感
単純にマンガとしてもどんどん絵とセリフがゴチャゴチャして読みづらくなってきたし
ドラマ化もしてるって知って驚き
まったく見ようとは思わない
空気を読んで周りに合わせてランチいったり仕事押し付けられたりしてた
でも唯一の自分の取り柄と思ってた彼氏が、自分のいないところで「あいつのとりえは下の世話くらいw節約好きとか引くww」って言ってるのを見てしまって過呼吸起こして仕事やめる
都内2LDKからギリギリ都内のやっすいアパートに引っ越してSNSも全部やめて断捨離しまくる
隣人はうるさいけどヒッピーっぽいゆるいパリピで、距離感が近くて恋してしまう
でもそこに断捨離したはずの元彼がきて、ヘアスタイルをいじってブスだの言ってずかずか部屋にも上がり込んでくる
なんとか撃退
うーん仕事やめるくらいまではよかったんだけど、隣人がイケメンパリピで都合よく新しい恋愛が始まる感じで、
2巻以降で元彼とパリピとの三角関係になる!?みたいな広告が1巻の最後にあって、
うーんそういうのは求めてなかったんだけどなあと若干残念感が出てきてしまってる
結局そっち系にもってくんかーいみたいな
とりあえず続きは読むけど
あ、そっち系には進まないのね
これで安心して読める
今日、代々木公園にて行われていた、靴ブランドが主催している音楽フェスに行ってきた。
途中から大声で泣き出してしまった幼稚園生ぐらいの女の子を見かけた。
女の子が泣き出したら、そのヒッピー風の女性は立ち去るかと思いきや、
お母さんは苦々しい表情でその子を連れてその会場から出ていくこととなってしまった。
赤と白のきのこのような帽子をかぶっているし、ふわふわ動いているし、
なんだか嫌な予感がするな・・・と気にして見ていたら、そういう結末になった。
で、ここからが本題なんですが、
まずタイトルはこの是非を問うものではない、というのはまず書いておきたい。
そしてはてなをやっている皆さんに聞きたいのだけど、
ということを、いろんな角度から聞いてみたいと思って書いた次第です。
「小さい頃から親に連れられていろんなライブに行っていてその現場で特殊な人を見ていて、大人になった今思うところがある」
という人でもいいですし、
保育の仕事に携わっている人や児童心理学を勉強した人なんかが見てくれたなら、
意見をしてもらえるとうれしいです。
今子育て中&子育て卒業した方のこういう場面でのエピソードなんかも、
もしなにかあったら教えてください。
今後はどうするかな・・・と考え中です。
しむけんのコントに出ていた柄本明と金のおっぱいをつけていた沢田研二です。
すごく怖くて、しばらく夢に見て泣きました。
露出控えろって話聞くけど単純にそれで自衛になるなら制服スカート長い大阪の女子中高生の被害率低くなるはずじゃない???
駅員に突き出しそうなギャルより何も言えない様な大人しい控えめな子が狙われるとも聞くし逆効果の可能性もあるんじゃないかなーって思う
そもそも単純に顔や髪で選んでる人もいるだろうし性的嗜好なんて星の数ほどなのに露出1点賭けで自衛って言うのは無理がある気がする
私も中二的に頭おかしい時に迷走して変な細長い赤いサングラスかけてヒッピーみたいな格好してる時にあったし
ていうか煽りとかじゃなくてほんとに聞きたいんだけど自衛できる派の男の人は電車で痴女痴漢にあうとしてその人が男性のどこに性的に惹かれて選ぶかの予想ってつくものなの???
すごい難しくない???
有名なのってスーツ姿とか制服とかメガネとか筋肉とかだけど代表的なの除けるだけでも生活に支障ある場合どういう自衛が効果的かの持論とかってあったりするのかな
女の子と一緒で制服人気ありそうだけど通学じゃ服装はどうしようもないし若いってそれだけでいいって人もいるからやっぱ難しいなーって思う
責任の話もで外国でスリとか置き引きとか夜一人で出歩く事とかで注意されて無視したり何もしなかったとして、犯罪への責任や被害にあった責任はないし悪いのは100%犯罪者なんだけど何もしなかった事で被害にあった自分がそこにいる、そういう類の責任は何となく分かるんだけど
痴漢て起こす人側のスイッチが色々すぎて女の子側の対策が確実性あるものが出てなさすぎだと思うから(あっても現実的じゃないのだし)しない、じゃなくて出来ない事には選択もしようないから責任もないんじゃないかなーって思う
ルパンが近くにいても何狙ってるかわかんないなら銭形だって当てるの難しいのに、いるかも分からない知りもしない痴漢の好みの予測の結果に専門家でもない女の子に責任求めるのはやっぱ酷だよーって思う
ルパンでも1つに狙いを絞る時と金目のものなら何でもって時があるんだから、色んな痴漢の気分で変わるかもしれない相手にならないようにする方法なんてやっぱないと思う!!!
ルパンが気が変わっても他の誰かが来るかもしれなくて痴漢も1人だけとは限らないからそんな想定なんて難しすぎるよ!!!!って思う!!!!
あとわたしも不二子のバイカースーツのジッパーゆっくりめにさげたいって思うけど実際不意をついてできてもバレないかもしれなくても勝手になんてありえないから、やっぱりそういう事したいって気持ちとそう思わせるエッチな魅力に痴漢に走る責任はないと思う!!!!!!!
ルパンを例に出すのはルパンが好きで今ずっと延々と昨日の夜からルパン見てて不二子のバイカースーツのジッパーさげたいけど出来てもそういう関係じゃないのに許可無くは普通やらないよなって思ってそっからこれ書いたから!!!!!!!!
ジョーブログの動画が面白くて(特に、【危険】走る電車に飛び乗ったら大惨事【アメリカ0円横断#18】はヒッピーが路上でギターを弾くラフな感じとか、トレインホッピングで限界を攻める感じとか、見たことのない世界を見せてくれて楽しい)2時間ぐらい見てた。USA!な部分が見れたので、PRONTOから出た時は久しぶりにDisturbedを聞いてテンションを上げた。最近はFM-84とかMitch Murderなどの80's風ハウスミュージックを聞くことが多く、凄く新鮮な気持ち。「あー俺も旅したい、仕事で気持ちが死んでたけど思い出してきた…!」的なことを考えてた。
そして今、突如湧き上がる死にたくなる感情。なんだろうなこれは。ルールからはみ出るとこんなにも不安になるものなのか(いや、俺はただ動画を見ただけなんだけど)。自分が貯金を使ってヒッチハイク旅に出る場面を想像すると、「俺はこんな凄いことをしてるんだ」って自慢したくなると思うんだけど、あとから凄く虚しくなると思うんだよね。じゃあ、その後の展開とか考えてるのかなとか、受け容れてくれる人間とかいるのかなとか。一過性でテンションは上がるんだけど、ふと現実に目を戻すと直視したくないものがそこにあって、途端に不安に襲われる。きっと孤独が嫌なんだろうな。その場のノリで自分を取り巻く常識からはみ出すということは、現状に対して目を背けるということでしょう。結局何もしてない状態って居心地が良いんだよね。そしてその居心地の良い環境を失ってしまうのが怖い。
以前、ぶらりと夜の川崎を一人で散歩した時にも遭遇した感覚だよ。ちょっとはみ出して人の行かない場所に行こう、廃れた場所に行こうとか考えてノリで行ってみる。最初はアドレナリンが出て刺激的で楽しいって感じるんだけど、あれ、だからなんなんだ、何をしているんだ俺はという気分になる。そして死にたくなる。一人ではみ出した先には底なしの暗闇が広がってる。その暗闇を見たくないから、集団のルールに迎合しがち。そりゃそうですよ。怖いもの。
仲間がいれば多少は和らぐんでしょうけどね。ちょっと人と違うことをしようかなと思うと途端に闇が見える。そして後悔する。その繰り返し。
でもそういう消費豚がオタクを自称することはなかったのよ。その主な理由はオタクが賤民であって自称する魅力も利益もなかったからなんだけどね。
そもそも中世から昭和に続く日本社会において、未成年は家の従属物(ソフトな表現)だったし、成人女性は家事労働提供者(ソフトな表現)だったし、成人男性は会社の奉公人(ソフトな表現)だった。この社会において自由の幅ってのは現代に比べて極めて少なく、特にそれは趣味分野において顕著だった。庶民が嗜んで白眼視されないものなんてのは、男性において飲む打つ買うとその後継だけだったし、パチンコなんてのはその最たるものだった。女性においては男性にもましてきつきつであり、かろうじて数種の習い事が芸として社会認知されてたかどうかくらい。書物を購入してそれを読み漁るなんてのは、金持ちの道楽であり、庶民の間ではむしろ唾棄すべき軟弱さの現れとみなされていたふしがある。まあ、だからこそ与謝野晶子あたりの明星派などによる「既存の価値観への抵抗」としてのそれがあったわけだけど。
高度成長期を経て70年代から急速に文物が発展して、今現在趣味と呼ばれる文化が爆発的に多様化した。多様化した以上に「余暇に個々人が己の興味のあることをして過ごすのは当然の自由であり権利である」という認識が一般化した。テレビ文化がひろまって、ヒッピームーブメントの余波から洋楽ブームが来て、ニューエイジ思想からオカルトブーム、UFO!心霊写真! そしてフジテレビとホイチョイが結婚してユーミンがウィンタースポーツブームを生んで、広瀬香美とチューチュートレインが若者を苗場に連れ出した。
の、だけど、そんなに主体的に生きてる人間ばっかじゃないのよな。増田の言うとおり。結局現在、「ソシャゲと深夜のアニメとネットの炎上案件に対するコメントで時間を潰している、オタクを自称している(下手したら自分自身ですらそう信じ込んでいる)人々」ってのは、昭和中後期で言えば「パチンコやって飲み屋で愚痴言ってる箸にも棒にも引っかからないおっさんたち」だったわけよ。別段彼らはそれが好きでやってるわけではなく、「受け身で流されて適度に脳内麻薬がチョロチョロ出る余暇の消費」としてそこに流れ着いただけで、最初から徹頭徹尾ただの消費者であって、オタクでも何でもなかった。多分当時であったとしたって、パチンコや博打や酒が本当にそこまで好きだったかどうか疑わしい。そういうふわっとした人々が社会の大多数だったってのは、当時も今も変わらない。
どちらかというと「社会人は全員そういうもん(休日はパチンコするくらいしかない消費者)だろ」っていう同調圧力がなくなり「余暇は自由選択」になっちゃった結果、それが可視化されただけにすぎない。そのうえ「社会人は全員そういうもんだろ」っていうのは同調圧力である以上に、大多数にとっては劣等感を刺激しないカバーストーリーでもあったっていうのが問題で、いまのこの日本の現代社会は「余暇の過ごし方」でさえも階級があるってのが、多分きつい。
あまりはっきりとは指摘されないけれど、「何ら主体的な趣味を持たない人間」ってのはやはりいまの社会では軽んじられる。一回級下の存在だと現在みなされるんだよ。それこそ「オタクであるほうがまだマシ」と考えるほどに。
だから「(絵が好きなわけでも今まで描いてきたわけでも強い動機がなんにもないにも関わらず)絵が掛けるようにな(って賞賛を受けるようにな)りたいな」なんてボヤキがWebにあふれる。
べつに「何ら主体的な趣味を持たない」って罪でもなんでもないのにね。前述の戦後から高度成長期にかけて、そんな人々は、社会に出て飲む打つ買うを一巡経験したら、すぐさま「どうやったら異性に興味を持ってもらえるかレース」に回収されて、あまり悩む間もなく半強制的に結婚させられ、身体に異常でもない限り速やかに子供ができて、子育てに忙殺されるというスケジュールに打ち込まれていた。そうすれば「主体的に趣味を持ってない」なんてことは遥か彼方にぶっ飛ばされて、問題意識すら持たないで済んだのにね(その後は、後輩や年少者に対して「結婚は社会人の義務だ」とか「子育てはいいぞ」ってマウンティングして余生をすごせた)。
社会の多くの人にとって、「個人のアイデンティティと紐付けられた強固な趣味に邁進する」人生の強要は苦痛だし、でもそれを拒否するにせよ趣味する余暇なく仕事を詰め込まれるのはもっと苦痛だ。多くの人にとっては自由が毒にしかなってない。そういう価値観の変遷に、オタクは巻き込まれちゃっただけなんだよね。