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はてなキーワード: エモーショナルとは

2016-02-01

今一瞬、25歳の自分の裸体の美しさをエモーショナルに書いた増田、いたでしょ。

消したかもしれないけど、読んだよ。

まったくもって君は正しい。

あと5年は続くから今すぐ誰か抱けよとかそんなに焦る必要はない。

2015-11-17

http://anond.hatelabo.jp/20151117145857

「バブみ」については「男オタが少女キャラ母性を感じる」という用法と「女オタが少年キャラ庇護欲をそそられる」という用法が同時に存在しているので「壁ドン」を巡る混乱みたいなものだと思われる。

ちなみに「エモい」も「エモーショナル」という用法と「エロキモい」という用法が同時に存在しているのでややこしい。


追記。

後者はない」と言われましたので改めて調査いたしましたところ、

後者用法存在するもの誤用で収まる範囲であり、

決して後者用法が定着しているわけではない、

大多数の女性は「母性を持ったキャラ」に対して「バブみ」を感じておられるようだ、

との結論に達しました。

わたくし、増田観測範囲の狭さから、誤った結論を導き出し、

ブックマーカーの皆様に混乱を招いてしまったことを、

ここに謝罪いたします。

2015-05-02

なぜ革新勢力が「8.6秒バズーカー」を叩かないのか

8.6秒バズーカーというお笑いコンビ反日思想をもとに結成されている、という都市伝説は今や多くの人が知っているものだろう。

知らない人は下記リンク先を参照して欲しい。

http://akipy.sakura.ne.jp/wp/archives/100

で、ここからが私の言いたいこと。


8.6秒バズーカーというグループが、反日思想を根っこに抱えているのかどうか、正直わからない。

彼らがすべてキャラ設定し、ネタを作り、それをテレビが偶然持ち上げた……というのは考えにくい。


しかし、たとえばこういうことは考えられる。

大手広告代理店が裏にいて、意識的しかけた、とか。

今、日本ではナショナリズムが大きな「トレンド」になっているから、

それをいくつも刺激するキャラ設定をそなえたコンセプトのお笑いコンビを作り上げる。

テレビで持ち上げると同時に、裏で「彼らにはこんな都市伝説がある」という噂を流せば、「話題」になるに違いない、

といったような……。


もちろん、それが事実かどうか、誰もわからない。


ただし、私が問題とするのは以下のことだ。

国家には、国民が共有するメモリアルデーというものがあり、独特の意味を持つ数字の組み合わせがある。


数字自体意味はもちろん無いが、ある日付が国民にとって特別意味があるために、

さまざまな感情が想起される特別数字の組み合わせだ。


日本だと、最近では311がそうだし、226という数字も有名だ。

アメリカだと911だとか76や74(独立記念日)という数字がそれに当たるだろうし、

韓国だと31(独立運動)などの数字になるのだろう。


そして「8.6」

これも私達日本人絶対に忘れてはいけない日付のはずだ。

加害者被害者立場の間で揺れながらも、

唯一の被爆国として、二度と紛争解決の手段として、核兵器を使わせてはならないという決意を、

世界中に発信する義務が私達日本人にはあるのではなかったか

私が小中学校の頃には、教師からかなり熱心に、核兵器非人道性について教えられた……。


たとえば「8.6秒バズーカー」に取材をした文春記者とか、よしもとに電凸した人などは、なぜこう諭さなかったのか。

「君たちがそれを意識してコンビ名を考えたのかどうかは、わからないよ。

 でもさ、日本人だったら、誰もが原爆惨禍を忘れてはならないのは、きみたちも分かるよね?

 あの悲劇を伝えるための努力を、私達は70年間、8.6という日付とともに行ってきたんだ。


 ところが君たちは、50m走をその秒数で走ったという理由で、単なる偶然(と信じてるよ)で、

 コンビ名をつけたというが、ほとんどの日本人はその数字から原爆投下日を想起するし、

 『バズーカー』という爆発や兵器意味する言葉をそのあとに続ければ、その想起は決定的になる。

 それをお笑いに利用するのは不謹慎だとか、 多くの人を不愉快にするだろうと、君たちは考えなかったのか?」

と。


よしもとの中には誰一人、私達日本人尊重すべき、語り継ぐべき原爆投下を想起させるコンビ名をつけたグループについて、

「やめておけ」

と注意できる大人はいなかったのだろうか?


よしもとが「威力業務妨害での告訴など検討している」そうだが、

裏設定の事実はどうあれ、彼らの名前結果的に、日本人の当然共有すべき記憶嘲笑している罪があることを、

自覚していないとは言わせない。

上層部人間が、8.6という数字原爆記念日であることを知らないはずがないからだ。


本来ならば、「8.6秒バズーカー」とういお笑いコンビが取り上げられた時点で、革新勢力が、

原爆記念日を想起させ、笑いものにする極めて悪質なコンビ名だ。

 そのうえ、原爆を透過したアメリカ人象徴するサングラスをつけるなど、ナショナリズムを刺激するために、

 極めて作りこまれ意図があるようにも見受けられる」

として、よしもとに抗議の声を上げるべきじゃなかったのか。


ところが、実際に声を上げたのはむしろ保守勢力の方であり、彼らはエモーショナルに反応して、

「彼らは反日だ」

という抗議の声をネットで上げている。


裏でどういうキャラ設定があったのか、これから表に出ることは決して無いだろうが、

8.6という数字とそのあとの言葉によって、原爆投下を誰もがイメージすることは事実じゃないか。


原爆投下という事実は、

保守勢力にとっては日本国の敗北を決定づけた屈辱記憶であり、

革新勢力にとっては核兵器非人道性を浮き彫りにした悲劇記憶だ。

いずれにしても笑いものにしていいものではないのに、

なぜ、革新勢力からは、「8.6秒バズーカー」を叩く声が聞こえないのか?


それとも、70年を過ぎて、もはや私達日本人にとっては、原爆記念日はるか遠くのこととなり、

その日付とともに原爆惨禍を語り継ぐという義務さえも、忘れ去られようとしているのか?

そうだとしたらそれは悲劇だ。

ロシアウクライナ核兵器を使おうとしていたらしいが、

記憶が風化した時に、同じ過ちは繰り返される。


日本加害者責任の声が強まると同時に、日本人原爆惨禍を訴えにくい風潮が生じているのも気になる。

今では日本人の加害責任について原爆の語り部が触れないと、責め立てられるために、

原爆被害について語れなくなることもあったと聞く。

http://blog.livedoor.jp/hiroshimashimins/archives/51089543.html


ふと考えると、革新勢力原爆悲劇について以前ほど語らなくなった。

明らかに、日本人加害者責任を追求することへシフトしている。

それが、革新勢力が「8.6秒バズーカー」を叩かないことに象徴されているのかもしれない。


その結果、再び核兵器惨禍が繰り返されることに繋がるのかもしれない。

いずれ世界が再び同じ過ちを繰り返した時に、

「唯一の被爆である日本では、数十年の時がたち、核兵器惨禍記憶が薄れ、語り継ぐ情熱が失われた。

 原爆投下日と兵器名を組み合わせた名前お笑いコンビが人気を博しながら、

 被害者団体から公に抗議の声が挙げられることがなかったのは、その象徴と言える。

 結果的に、世界から核兵器惨禍記憶が薄れ、世界は再び、同じ過ちを繰り返すに至った」

と、記録されることになるのかもしれない。

2015-04-07

語学勉強に付き合ってもらったことが縁でしばらく友人づきあいをしているドイツ人がいる、かなり献身的にいろいろ手伝ってくれて最初は本当に感謝していたし良い人と友人になれたと思っていたのだけれど、だんだん合わない部分が浮き彫りになってきてどうしたものかと思っている。

話題微妙に乏しくて、何かしらんがいつ会っても他人の話しかしない。「昨日は友達の誰々とピクニックに行った、先週は誰々に会った、こんど誰々とパーティーをする」と。こっちの悩みとか課題とか話しても反応が薄いし、好きな映画とか食べ物とか本の話とかを振ってもやっぱり反応が薄い。一度かなりエモーショナル映画を一緒に観に行ったんだが、その時もほとんど無反応だったので「映画に興味ないのか? なんでついてきたんだ」と不思議に思っていたら、どうやら、とにかく人間と一緒に居られたら何でもいいらしい。もともと非コミュ体質だったのが日本への留学で一気にいろんな人と知り合ってはっちゃけたようで、とにかく常に日本人の誰かしらと遊びまわりつつ「誰々に既読無視された」「日本人ははっきりものを言わないからよくわからなくて困る」などと愚痴をこぼす。

で、その彼が最近日本人同級生に恋をしたそうで、モーション掛けてはのらりくらりとかわされてて情緒不安定になってる。前の彼女日本人だったらしいんだけど、どうも話を聞くに「ガイジンにしちゃいました☆」系の勘違い女だったようで、唐突で手ひどい振られ方をされてるんだよな。それはそれで同情するし、区切りをつけて前に進みたいんだろうなってのはわかる。が、ちょっと妙だなと思うのが、彼、今現在自分が恋してる相手についての話をほとんどしない。彼女のここが好きとか、そういう描写を聞いたことがない。彼の片思いの相手は、だいたい普段から恋愛めんどくさい」とか言ってる内向的タイプ。だから「あんまりしつこくするんじゃないよ」って彼に釘を刺す。「だいたい最近若い日本女はそんな頻繁にデートとか連絡とかしたがらないし」。がその返事が「前の彼女とは週に2~3回は会ってたよ! 彼女はあんなことも言ってくれた、こんなこともしてくれた…」…ってそっからしばらく元カノトーク。「ぼくは一生懸命彼女に優しくしている、ぼくに出来ることなら何でもしてあげてる、だから彼女も僕の気持ちを少しは考えてくれてもいいのに、なんで…」とも言っていて、正直、それ相手のことを愛してるというよりは、単に自分感情の流れに酔いまくってるだけじゃねぇのかと。友人たち一人ひとりの内面に興味を持たず「いろんな人と会ってる状況」が心地いいってだけで人と遊びまくってるようにさ。正直会うたびに暗い顔で「彼女が返事をくれない…」とか言われるのもうんざりしてきた。自分恋愛とかさっぱりしたことなからわかんないけど、人を好きになった時ってこういうもんなの?

2014-09-23

CHAGE&ASKAの"PRIDE"

 チャゲアスといえば、ダブルミリオンを達成した「SAY YES」と「YAH YAH YAH」がやはり圧倒的に有名ですが、「PRIDE」はそのどちらと並べても決して劣ることのないどころか、全J-POP史上においても比類のない、赫奕たる地位を占める壮大なバラードです。そしてPRIDE幸運なことに録音に恵まれています1989年に発表されたその曲は、何度もライヴで歌われており、様々なバージョンを聞き比べることができるのです。ASKA年代によって声質や歌唱法がかなり異なっているので、それぞれ別のしかたで楽しめます。今回はややマニアックですが、PRIDEの様々なバージョンレビューしてみようと思います

①【CONCERT TOUR 1990-1991 SEE YA!】https://www.youtube.com/watch?v=-KfOdkNFrOk

評価=8

私の知るかぎり、最も早いPRIDELIVE音源です。

CD音源にかなり近いですね。他の音源に比べて特徴となっているところは、サビの「駆け抜けていく」(1:48-50)の歌唱ですね。とくに「く」の母音の処理です。「ウ」と「ア」の中間発声することで、単に「ウ」と発声するよりもパワフルに聞こえますASKA独特の母音の処理方法です。声も若さが満ち溢れていて爽快感を覚えます

②【 夢の番人 SPECIAL EVENT1993 GUYS 】https://www.youtube.com/watch?v=FnOnAXszb3k

評価=9

のものから二年後の音源です。

声のフットワークが軽くて、とくに高音となるサビのメロディーをなめらかにすべっていく様子はあたかサーカスの軽業師のようです。曲をより「自分のもの」にできている気がします。

ちょっとマニアックというかフェティッシュなことを言うと、「涙の跡」(3:33)という部分の「だ」の発声が他のものよりも情感豊かで、素晴らしいです。この録音はもっとエモーショナルものかもしれません。

③【CONCERT TOUR 史上最大の作戦 THE LONGEST TOUR 1993-1994】https://www.youtube.com/watch?v=FepyCkAE00U

評価=9

まり時間の間隔を置いていません。最高のパフォーマンスです。②ほどの情念はありませんが、全体の均整ということで言えば一番優れているものでしょう。

④【ASIAN TOUR IN TAIPEI】https://www.youtube.com/watch?v=iGmHpIn4R2s

評価=10

1995年台北でのLIVE音源です。

ややASKAの声が太くなっていますね。じつは私が一番好きな音源はこれです。

声質が太くなり重量感を覚えさせるけれどもパワフルに突き進むさまは、重戦車が高速移動をする様子さえ思い浮かべます

この録音では「駆け抜けてく」の「く」の音が、しっかりと「ウ」で発声されていますが、私はこちらのほうが好きです。かように苦悶の表情を浮かべた「ウ」はなかなか聞けません。

⑤【MTV UNPLUGGED LIVEhttps://www.youtube.com/watch?v=BsI973Gz0MQ

評価=7

イギリスMTVでのパフォーマンスです。1996年

アンプラグドさら欧米でのパフォーマンスということもあってか、アレンジがかなり変わっています

やや大人しめですね。テンポも少し早くなってあっさりとしています。お洒落な気分でPRIDEを聞きたいという時にはよいでしょう。

⑥【千年夜一ライブ福岡ドーム 僕らがホーム〜】https://www.youtube.com/watch?v=N84lgzkN9BA

評価=6

1999年から2000年にかけての年越しライヴです。

この頃からASKAの喉の調子に翳りが見えてきますポップス歌唱法にはご存じ「ミックス」というものがありますね。地声裏声を混ぜるってやつです。

艶のある地声成分で高音が出ないのか、裏声成分多めで叫ぶ手法オペラ歌唱に近い発声)が所々で見受けられます。後半になると多くなりますね。

⑦【CHAGE&ASKA LIVE IN KOREAhttps://www.youtube.com/watch?v=3X4W5lCMOGs

評価=6

コンサート途中に感極まって歌えなくなったことで有名な韓国ライブです(なおその映像はこちらhttps://www.youtube.com/watch?v=sFi5qExw_pM)。2000年

やはり前と同じで、高音が苦しそうですが、この曲ではその苦しげな姿すら一種のパフォーマンスに転化しうるものをもっており、胸を打つものがあると思います。②とはまた違ったおもむきで情感があります

⑧【COUNTDOWN LIVE 03 04 in SAPPORO DOME】https://www.youtube.com/watch?v=CIC71g9CvcE

評価=5

2003年から2004年にかけての年越しライヴです。⑥の3年後ですね。

この頃になると、90年代と声は明らかに違ってきます。目に見えて声が太くなってきます

喉の調子が治らず、どの歌唱法がいいのか模索している感じがします。

⑨【CHAGE and ASKA Concert tour 2007 DOUBLEhttps://www.youtube.com/watch?v=laGU2JOdj8o

評価=9

声はさらに太くなっていくのですが、そうした自分の声にあった歌唱法が見つけられたのがこのLIVEだと思います2007年

90年代ASKAを軽快なトランペットだとすると、これは炸裂するトロンボーンとでもいったところでしょうか。CHAGEの超高音はさら金属質なものとなって、硬質なハーモニーを聞くことができます

しかしこのLIVEで注目しなければいけないのはASKAよりもむしろCHAGEです。大サビCHAGEの超高音のハモリはこれまでのどの録音にもなかった凄みを与えてくれています

あと、またフェティッシュなことを言いますと、3:25あたりの「傷ついて知ること」の「と」の音は、大地の奥底からやってくるような雄渾な響きで痺れます

まとめ

やっぱり90年代は黄金期で、どれを聞いても圧倒的ですが、その中でも台北ライヴワーグナー「神々の黄昏」のような、崩壊しそうなまでに過剰な絢爛さがあって、私はそれを愛してやみません。

00年代になると喉の不調が目立ちますが、それでもDOUBLEライブは全盛期を取り戻すかのような圧倒的なパフォーマンスを見せてくれますしかしそれは90年代前半の軽業とは異なり、敬虔カトリック教徒の盤石堅固な信仰の凄みにも似たものを思わせます

2014-08-31

おまえには音楽の話を自由にする権利などない。なら勝ち取れ。

https://twitter.com/sahoobb/status/505525364521570304

 彼女の嘆きに対する解答はラストコマで既に自ら出している。

 要するに、「音楽の話をせずに」、「好きなもんを好きな様に聞けば」いいのだ。

 そうやって過ごせれば、こんなに平和なことはないなんて赤ん坊でもわかる。そうやって過ごせればどんなにいいか。

 「音楽国境はない」。とても有名で、とてもすてきな言葉だ。たぶんボブ・ディラン歌詞だろう。音楽関係名言の九割はボブ・ディランの口から発しているとされおり、すごく有り難い。

 ところが現実ボブ・ディランではない。各国の土着・民族音楽に使用されている音源はおのおので笑えるくらいに異なり、「国境なんてないんだ」などとほざいて通じるように聞こえる西洋音階によるポップチャート侵略主義の結果に過ぎない。しかしだ。ここはあえてボブ・ディランに百歩譲りたい。音楽国境はない。その呑気なテーゼを容認したうえで、ボブ・ディランはこう付言する。

 「音楽の話においては万人が万人へ対する闘争状態にある」と。

 http://b.hatena.ne.jp/entry/togech.jp/2014/08/30/12027

 ここにコメントを書いているブクマカ(死語)は全員、本質を見誤っている。

 音楽の話において、人が他人を見下すのはそいつマイナージャンルを好きだからではない。過去自分を見ているからでもない。人間は見下すように生まれた動物から、というのはちょっとあるが、決定的ではない。

 女が泣くのは、音楽の話をコミュニケーションの道具に使うからだ。

 そもそも音楽の話はコミュニケーション媒介として非常に燃費が悪い。なんせ、実物がないとその曲がどういうものか、ぼんやりとすらわからない。小説漫画には筋がある、映画には役者がいる、スポーツには様式化されたアクションが、アイドル芸能人にはゴシップが、文学にもゴシップが、それぞれ素人にも言語化しやすい形で道具として可視状態にある。

 音楽には何もない。楽器に触れたこともない素人二人が互いに片方しか知らない曲の話をする場合、だいたいはエモーショナルでよくわからない表現に頼るしかない。あるいは「いいんだよ」だ。「うまく言えないけど、とにかくヤバイの」。これでは何も伝わらない。即時性を重要視するコミュニケーション現場では、音楽など、口下手な二人の間で放置され冷めたフライドポテトよりも価値がない。すくなくとも冷めたポテトは「まずい」という互いがすぐに了解しあえる話題のフックを備えている。

 とかく、音楽の話はコミュニケーションに向かない。

 なんだ、当たり前の話じゃないか、そんなことは昔からわかっているよ、とあんたは言うだろう。

 ところがあんたは昔とおなじくらいに何もわかっちゃいない。

 順序を間違えている。

 人は他人を見下す生き物であり、だから音楽の話でコミュニケーションを取ろうとすると悲劇が起こる、あんたはそう考えている。でなければ、あんた以外の誰かはそう考えている。

 違う。逆だ。

 音楽の話でコミュニケーションを取ろうとするから他人を見下す生き物としての人の顔が顕現してしまうのだ。これは理屈でも論理でもなく、真理だ。

 音楽の話が諸悪の根源なんだ。 

 音楽は門戸がビッチの(ピー)なみにガバガバに広い。食べ物と似た感覚で「うまい」と「まずい」を直感的に判断できる。その直感は、一見まじりけなく、自分本質、アーイデーンティーティがぁーー♪に直結しているように思われる。

 だが、アウトプットしようとなると、童貞のケツ穴のごとく狭窄だ。和音? コード進行? ポリフォニック? Perfumeゴリラ

 なんだそれは? なんだそれは? なんだそのわけのわからない……専門用語は?

 そして、俺を含めた素人の九割はその意味を知ろうとしない。「しろうと」だけに。これは駄洒落でも冗談でもなく、真理だ。いや、ほんとうに。

 ゆえに、聞く行為のもの直感的な好みへ直ケツし、下痢気味の短腸生物のごとく未消化でそのまま「おれのアイデンティティ」へ繋がる。

 すると、どうなる?

 コミュニケーションバトラーたちは「○○を聞いている俺=俺自身」で勝負するしかなくなる。変化球切り札も伏せカードも強欲な壺もない、各種ジュアルルール適用されない生の殴り合い。怯んではならない。ダウンしてはならない。なぜなら、その曲は「俺」の魂そのものであるからだ。

 それはかつて冷戦下で想定された最悪のシナリオ酷似している。発動されてしまった相互確証破壊戦略スクリーンを飛び出してしまったスター・ウォーズ。後には誰も残らない。灰と水曜日以外、残らない。

 20XX年、ここは音楽の話の核の炎に包まれた日本だ。モヒカンゲスの極み乙女。)が汚物(イグザイル)をルールする日本だ。

 みんなが音楽の話をしている。フェイスブックで、twitterで、日常会話で、好きなアーティストを主張しまくっている。もう手遅れだ。

 最初の女の嘆きに戻ろう。すまない。君には嘘をついた。「君一人が黙ればすむ」だなんて。

 でも、さっき言ったように、ほんとうはもう全世界的に手遅れなの、君一人が黙ってももうダメなの、ごめんね、でもほんとうです。

 しかし、本当のおわりが来る前に試みることができる解決策が二つ、ある。もちろん、択一だ。どちらかが正解のコードかもしれないし、どちらを切っても結局爆発するのかもしれない。なんであれ、やってみるだけの価値はある。

 一つ目、耳を塞いで今君のいるコミュニティフィジカルものバーチャルものも)から遁走し、誰も音楽になんてプリミティブな代物以上の興味を持たない新天地老人ホームおすすめだ)を探し出し、そこに逃げ込んで、鼓膜を破り、二度とiPhone再生ボタンを押さないことだ。

 二つ目――これはきみが臆病者でない場合プランだ、当然、保険はきかない。

 とりあえず、だれでもいい、きみの周囲のモヒカン無作為に選び出し、襟を拳で持ち上げ、殴れ。

 ボコボコしろ。そして、耳をかっぽじってよく言い聞かせるのだ。

「これから二度と私の前で、音楽の話なんてするんじゃないよ」と。

 相手は腫れ上がったクチビルで言い返すだろう。「勘弁してくれ、音楽は俺の魂なんだ」と。

 言ってやれ。「あんたは○○○かい? 音楽なんざいくらでも聞きな、あたしは『音楽の話』をするな、って言ってんだ!!」

 それから、相手の携帯を出すように命じろ。ロック解除のパスワードを聞き出したなら、フェイスブックとその他諸々のSNSアクセスしろ。まず、プロフィール欄の「好きな音楽」を抹消しろtwitterプロフィールは「わたしは卑怯ネオナチ豚野郎です」と書き換えろ。

 それからそいつ過去web上で行ったあらゆる音楽関係の発言を消してまわれ。終わったら、君はその携帯を愛をもって持ち主に返却するか、悪魔の笑みを浮かべて膝で叩き割るか、電子レンジでチンするか、そのどれかを選べる。この選択は択一ではない。

 悪を根本から断て。音楽の話を滅ぼせ。本物の音楽のために。

 君に関係する豚野郎もの携帯がすべてアルミメルトチーズと化したころ、君はようやくお気に入りのイヤフォンであるATH-CKN70を耳孔に接続できる。

 音楽聴くことができる。

 もはや君の周囲で音楽の話をする豚はいない。君に話しかける人間もいない。誰にも邪魔されない。

 本物の安寧と平和が手に入る。

 本物の安寧と平和、いい言葉だ。きっとボブ・ディランが作ったに違いない。あるいは残りの一割を司るアジカン眼鏡が。

 ピース 

 

 

 

2014-05-16

モノがあふれる時代商品開発とは

メモ内容

日経エンターテイメント編集委員品田英雄さん曰く

現代のヒット作りのヒントは3つある。

①所有から参加へ

②いつもから今だけへ

③誰にでもから私だけへ

日本企業は、ていねいな仕事や絶え間ない改善で、世界で評価されるヒット商品を生み出してきた。

しかし残念なことに、21世紀は誠実なモノ作りだけでは、人々の支持が得られない時代になってしまった。

モノがあふれる時代需要より供給が上回り、いくら市場調査しても人々のニーズは見えにくくなった。

このため企業は調査と開発に時間をかけるよりも、とにかく作って市場に出す傾向を強めている。

そうすれば市場がすぐに判断してくれるからだ。

そんな使い捨て時代のヒット作りがエンターテイメント世界にある。

AKB48インターネット音楽が手に入り時代に、CD販売の新記録を作った。

そのCDには下記3つの価値がある。

握手会へ参加できる

②今購入すると特典が付く

③買った私だけが総選挙投票できる

この新しい価値を作ったからこそAKB48は大ヒット商品に育った。ここに今後の成長事業を生み出すヒントがある。

日経BPコンシューマプロジューサー渡辺和博さん曰く

現在は景気が悪い時期に共通する「安さ」や「健康志向」、さらには倹約自粛などから脱出模索する

ちょっとプレミアム」なものや「技術機能開発」によって拓かれた新しい市場商品などが交錯するタイミングにある。

この先、どのようなものがヒットし、それをどのようにして仕掛けていけばいいのか。

新興国の拡大市場では従来からある「品質価格納期(QCD)」の追求が、まだ効果的かも知れない。

しかし、衣食足りた成熟社会においては、より顧客エモーショナル(感情的)なつながりを感じさせる商品がヒットするようになる。

商品の背後にあるストーリー共感して消費者がモノやサービスを選択し、さらソーシャル化したネットワークを通じて

互いに影響を与えあう構造が生まれている。

消費者自分ライフスタイルにあったものを選べる時代に生きている。

メーカー押し付け価値ではなく「自分のことを分かってくれているか」という共感を、モノやサービスに求めている。


ま、そういう理屈が分かっても、ヒットする商品開発は難しいんだよね。

2013-03-30

付け加えること

http://anond.hatelabo.jp/20130329203456

自分ラノベとか隣接ラノベ本(ちょっと大きいヤツとか)を出してる増田です。

かれこれ20冊くらい出せていますし、目下専業ですので食えてる方に分類されると思います

サイト見ました。あんまり付け加えることはありません。

ただ、大前提として、健康社会常識がある人向けのサイトだな、とは感じました。

というのは作家志望さんは不健康社会的常識がない人もいたりするからです。

健康だの社会常識だの、そんなの誰でもあるだろ? そんな事今更いってどうすんだよ……と思われる向きも多いかと思いますが、このふたつ、大事です。加えるなら、コミュ能力で3つですね。

健康ってまじ大事なんだぜ

肉体が不健康だと精神的にも打たれ弱くなります

肉体精神がタフであるって言うのは、これはもう、武器です。手入れの必要がある能力だって認識して、自覚的に管理すべきです。

フットワークを軽くして、病気しない程度に身体を鍛えた方が絶対によいです。

本が出れば嬉しいことも沢山ありますけれどへこむことだってやっぱり沢山あります

ぐっとこらえなければならないことだって沢山あります。心を固くして無感動になればそういった雑音はスルーで来ますが、あんまり無感動だとそもそもエモーショナル物語が書けなくなりますラノベ周辺のキャラクター小説は間違いなくエモーショナル物語の一派なので、困ります

普段肉体を健康に保つことと、一緒に騒げる友人がいるってのは、大事です。

社会人同士のおつきあい

社会的常識に関していうと、出版業界自体が一般社会に比べれば、格段に緩いトコなんで、付け届けだ歳暮だ時候の挨拶だなんてあたりまでしゃちほこばってやる必要はありません。(そこまで気の行き届いた人もいますが、周囲にもプレッシャーを与えるので、善し悪しはケースバイケースです)。

しかしその一方、Twitterで他の作家さんともめ事起こすとか、絵描きさんDisりはじめるとか、洒落にならないです。ずばっと言ってやった俺格好良いぜ! とか、面倒くさいことにしかなりません。あと同人書いてくれてるクラスタ飲み会突入して酔ってセクハラとか。まじ勘弁して下さい。近くで見てると寿命縮みます。わたしのHPはもうゼロなのよ。

学校で学んだこと、バイト先で、就職先で学んだこと「普通であること」は、作家にとっても変わらずに重要です。奇矯であったり奇人変人である作家さんはいますが、あれはごく一部の大成功をした作家さんが、結果論的に「そう」なだけであって、普通ラノベ作家がそういう「俺は変わってるんだぜアピール」をしたところで、なんの益もないばかりかデメリット満載です。

お話をする、相手を理解する

コミュニケーション能力重要です。編集さんは通常、その業務にコミュニケーションが含まれていますが、コミュ能力が高いとは限りません。

また作家側の業務にコミュニケーションが含まれていないという事実はありません。

打ち合わせを高密度で行ったり、相手のいっている意向を受け入れて試行錯誤の精度を上げるためには、コミュ能力が高いにこしたことはありません。

そもそも書いた文章というのは「読者の人との遠隔コミュニケーション」なので、気持ちを届けようとするならば、コミュ能力編集さん云々以前に最初から必須です。

打ち切りだとか、返事が来ないとか)担当編集さんを信じられなくなって疑心暗鬼になるくらいなら、はじめの頃から呑みに行ける程度の関係を成立させておくべきです。そのためには担当の人に「こいつは、ある程度売り上げやレーベル希望、読者の反応などを、ぶっちゃけても平気だな」という程度の信頼をしてもらわないとなりませんし、それは最初に述べた「精神的タフさ」も必要になります

まとめ

まとめるのならば。元増田氏が書いた「文章力いらないよね」とか「絵が描けないんでラノベ書くわ」なんてのは、(努力すれば)なんとかOKですが、一方で「他人と一緒に働くのがいやだから」「俺は社会に縛られたくないかラノベ書きになるわ」というのは、かなりNGです。

2013-02-22

壁ドン”を介した一体感連帯感――ベタ表現と、エモーショナル

http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20130212/p1


典型的印象操作で笑うなこれ。

ニコニコ弾幕言葉通りの意味を表すケースなんざ、ほとんどねぇよ。単なる「お約束」だ。

男同士でどこかにしけこむシーンで「アッー」ってコメ書いたらホモだとか、そんなこと思う奴いねぇのと同じ。

アニメだけじゃなくて、固定ファンが付きやす連続ものプレイ動画やSS動画でも見られるし、肌色に限った話でもない。

ソードアートオンラインOPの「ちいさなおっぱい弾幕で、「本当に聞き間違いを起こしてる訳じゃなく、現実の寂しさを表してる」とか言うくらい間抜けな話だ。


からシロクマ先生は、自分の論が正しくなる極端な例を持ち出して、突っ込まれると「極端な人達改善目標としてるからです」とか言っちゃう人だからな。

2012-12-19

独断偏見だけど、日本の優秀な女性は、自分価値に対して割に合わない事はやりたがらない傾向があると思う。

苦労自体は厭わないが、それに伴う待遇スキルアップが見込めなければ、より対価の多い所に行く。

から日本の最も優秀な部類の女性は、政治なんて割に合わない調整型の仕事はやりたがらんでしょう。

日本主婦の延長的なエモーショナルなおばはん政治家ばかり多くて、なかなかロジカルで求心力のある女性政治家が増えない理由の一端かなと。

2012-07-04

http://anond.hatelabo.jp/20120704130342

見いだせないなら、そもそも 好きでも嫌いでもなくどうでもいいって分類になるから、それこそどうでもいいのでは?

理由が見いだせないのに苦手ってあるの?

理由が見いだせないなら、見出すという楽しい作業に入るから、それは、素敵な時間なのでは?

理由が見いだせないのに苦手ってあるよ。

いくらでもある。

例えば、真面目で鬱になってる人とか、会社にいやなことは何もないって考えているのにどうしても会社に行けないって、あるよね。

野球の応援してて、ファンチームのピンチで打席に立った相手チームの打者がなぜか嫌だ、って思った経験はない? 数字で言えば決して分が悪くない打者なのに。

真夜中の海に行って、なぜか嫌な気持ちになったことはない?

隣のデスクの人、何も悪いことも変なこともしてないのに、隣にいられるとなぜかストレスを感じる相手、とかない?

それをどうでもいい、って分類にできるなら大した精神力だと思う。

それから、理由を見出そうといろいろ考える作業を楽しめる人は、とても人生を豊かにできると思う。

でも、全ての感情に理由を見出すことはできないよね、と俺は思う。

見いだせると思っているなら理性への過信が大きいと思うよ。

で、見出そうとして見いだせなかった。

そうか、俺はこれについてどうでもいいんだ! って無理やり納得してしまうのが俺の言う「黙殺」ね。


好き嫌いを表現するなら、ひと目で気に入った、嫌だった でいいんじゃない

これはその通りだと思うよ。

からそれが、感情で物事を判断するってことでしょ。

ひとめで気に入った、嫌だった、は感情でしょ。

エモーショナルな判断でしょ。


評価をするなら、構図や色使いを無視することは出来ないよね。

前者は趣味の話で、後者は学術の話だ。

そうね、これはその通り。

俺の例示が悪かったですね。

「評価されるべき」じゃなくて「気に入った」「とてもよい絵」とでもするべきだったかね。

いつぞやあったけど、「評価されるべき」=「気に入ってもよい絵」っていう、批判されるべき日本人姿勢がにじみ出ちゃいました。


たとえば、品評会とかで、評議員テクニカルな話をしているときに、主催者の社長がやってきて、俺はコレが気に入ったからコレを1位にしろ。理由は俺が気に入ったから。

みたいなケースが 現実に起きるよね。って話。

理解はするけど、それってどうよ?TPOはあるよねと。

ああ、そういう話だったのね。

それはすまんこ

もちろん俺も、そういう品評会的なとこでそういうことされるのは困るし腹立たしいとおもう。

それってどうよって思うよね。


で、現実にそういう事が起きたら、困ったなって思っていたけど、 現実的な対処としてはさっさとそれを1位にして、次の事をやる。事が重要って話。

悲しいけど、無難生き方なのかもねえ。

2011-10-06

アップルストア前で献花する人たち

アップルストア前で献花する人たちの写真ネットで見て、ジョブズ氏が創りだした商品の性質を改めて考えさせられた。


iPhoneiPadは形状だけでなくそれに触れた時の手触りも徹底的に計算して造られているとか。

しかに、ジョブズ氏の創りだしたものは、言語化できない部分に触れてくるエモーショナル効果を重視した商品だった。

それがハイスペックハードウェアと不即不離の状態にあった。

献花する人たちを見ていて思ったのは、そうしたエモーショナルな商品を購入し、支持する人は、それを作った人が亡くなると、きわめてエモーショナルな反応をするということだ。

こうして書いてみると、きわめて当たり前のことに思えてくるけれど、

日本銀座で、おそらく故人にあったことの一度もない人たちがあのような行動を取るのを見ると、

エモーショナルもの価値として徹底的に追求して売ることの帰結がどのようなものかを

まざまざと見せつけられたような気がして少し動揺した。

この動揺はなんなのだろう。

2011-03-18

爆発的に増えた感情的情報たち

しい判断をするには、正しい情報が必要。

しい情報は、正しい判断の礎となる。

目が泳いでる。楽観的すぎるといった直感的なもの。

科学的な根拠、論旨のつながりといった論理的なもの。

たくさんの情報はそういったフィルターによって

選別され、正しい・間違ってると振り分けられる。

人間の性質として、

信じたいものを信じる。もっともらしいと感じるものを信じる。

というのがある。と感じる。

希望に満ちたメッセージ

数字の並んだ科学的な論旨。

著名人が言ったと言われる発言のコピペ

しいと信じたい。正しいっぽい文脈が、

それを正しいと信じた人達によって広められる。

逆に信じたくない人たちが感情的に反論する。

だいたいにおいて、そういったエモーショナルな人たちというのは

行動も活発だ。発言量も多い。そして、論理的なフィルターが甘い。

感情という頼りないソースを礎にした情報

指数関数的に増えやすい傾向にある。

災害系の映画で、本当に危機的な状況にあるという情報をにぎっている人は、

周囲の人達につぶされる。

「今までそんなことが起きたことがない!」

「君は今のムードをぶちこわしにする気か!」

大きな声、爆発的に増殖した情報は、

本当に正しい情報を埋もれさせる。

そんな中、正しい判断・情報を持った人たちは

案外したたかに裏で結託して、着実に身の安全を守りつつ、

この大災害の後の、自分の身の振り方なんてのを考えてるのかもしれない。

2011-02-16

(◕‿‿◕)ラノべえ「そんなことより僕をテーマにして研究生になってよ!」

つい先日、卒業研究を終えました。この日記は後輩やこれから卒業研究を自由に決められる人のためになればいいな、程度に書きました

私は卒研テーマに「ゲームをする人」を掲げ、一年自分のやりたいことを自由にできましたので、非常に幸せしたですので、後輩にもぜひ好きなテーマ卒研をして欲しいと思っていました

私の同じ研究室には、3年生の後輩の一人に、「ライトノベル(以下ラノベ)を読む人」をテーマにして、実際発表した後輩がいましたしかし、後輩に「今の自分研究テーマをそのまま卒研にするのか?」という旨を尋ねたところ、悩んでいるという回答が帰ってきました

どうやら、発表の反応が鈍いことで二の足を踏んでいるようでした

そこで私は思い切って、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NOwikipedia考察いかに素晴らしかたか」という話をしたかったのですが、酒の席であること、他の後輩もいたこと、説得力に欠けていたこともあって、遺憾ながら場は白けて終わってしまいました

この世の果てで恋を唄う少女YU-NO - wikipedia ((http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%81%93%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%9E%9C%E3%81%A6%E3%81%A7%E6%81%8B%E3%82%92%E5%94%84%E3%81%86%E5%B0%91%E5%A5%B3YU-NO&oldid=28528480))

また、「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は「アドベンチャーゲーム」の代表例として実際に卒業研究になっているようです

CiNii 論文 -  マルチシナリオゲームにおける並列世界モデル ((http://ci.nii.ac.jp/naid/110002942865))

これらを編集、記した方々は私よりも遥かな、確かな、達成感・効力感を持っているに違い有りません。(実際、素晴らしい考察だと思いませんか?)

他にもネットを探すとユニークテーマに出くわせます。例えば「プロ野球選手結婚するための方法論に関する研究」なんて研究もあります

卒業研究は、CiNii - NII論文情報ナビゲータ ((http://ci.nii.ac.jp/))で検索しなくても大学生ならば、各々の大学の概要集を捲れば自然と笑みがこぼれるものです

しかに、「好きだからテーマしますたwwwサーセンwww」なんて動機は発表までに、必ず根本的で大きな壁とぶつかり、ツケを払うハメになるでしょう。ですが、学生の本分は研究です研究について真剣にできるならば、それが真に正しい姿だと思います。

学生のあり方について、素晴らしい文章があります

修士論文の代わりに退学願を提出してきた - As a Futurist... ((http://blog.riywo.com/2009/02/27/120733))

=====以上が、今回の日記意図です

もう一つせっかくですので、私がなぜ「ラノベを読む人」が素晴らしいテーマだと思うかについて書きたいと思います。

論文とは「問い」です。一般的に論文テーマとなる問い(リサーチクエスチョン)は根源的な、直感的なものが白眉であると知られています。

ラノベを読む人」で解釈すれば、「ラノベを読む人はなラノベが好きか」ということになるのでしょうか?

これはなかなか直感的だと思います。もちろん、大きな欠陥があることも否めません。それは、村上龍のこの箴言に集約されていると思います。

「「好き」は理性ではなエモーショナル部分依存する。だからたいていの場合、本当に「好きなこと」「好きなモノ」「好きな人」に関して、わたしたちは他人に説明できない。なぜ好きなの?どう好きなの?と聞かれても、うまく答えられないのだ。「好き」が脳の深部から涌いてくるもので、その説明を担当するのは理性なので、そこに本来的なギャップが生まれるからだが、逆に他人にわかりやすく説明できるような「好き」は、案外どうでもいい場合が多い。」

無趣味のすすめ - 情報考学 Passion For The Future ((http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/post-1021.html))

つまり、「どう好きかは聞き出せない」という点です。聞き出せないならば、研究意義はないのでしょうか?それは違うと思います。つまり、いままで『「説明でき」なかったであろう「好き」の理由』を導ければいいのです

そのためには、誰よりも人一倍考察が半ば前提的に必要になると思いますが。(私も自分の先輩に研究前にコテンパンに全否定されましたが、それがあっての卒業研究になっています。)私の後輩の考察は活き活きと良く出来ていた分、勿体無いという感情がたしかに私の中にはあるのです

さて、前提的な考察は、すなわちラノベの「定義」と、研究する「意義」とに、密接に関わっていきます。まず、ラノベの「定義ですが、混沌としているようですね。

青少年を対象にした娯楽小説

程度で良いと思います。「読む人」に焦点があるならば、よく読む人はおそらく青少年から成人男性20~30代)でしょうから。(成人男性青少年対象の小説を読んでいる点は「オタク」で考察・解説すれば重複すると思うので、日記では割愛します。)

また、文学物語といった点に対する「ラノベ」の遍歴も欠かせないでしょう。ここで、古めかしいものとの接点を設けること、考察をしてるサイト、本から概念引用することが結果を導く前から既に必要となります

例えば、物語的に観れば大塚英志提唱した物語消費」がありますね。また、ラノベではありませんがアドベンチャーゲームとの類似点があると思います。

れとろげーむまにあ: アドベンチャーゲームを振り返って思ったこと((http://nesgbgg.seesaa.net/article/185700949.html))

ライトノベルにおいてもゲーム的な世界観が必要であり、大きな影響を与えてきたということは言われていますね。

また、純文学の外に広がるキャラ萌え世界について詳しい

オタクたちのメンタリティには、教養主義文学性を引きずりながらも、シミュラークルに代表される動物的な消費社会の波に骨の髄まで浸かっているという両義性がある。という指摘をした東の「動物化するポストモダン」(1・2)も取り入れられると思います。

東浩紀動物化するポストモダン|FRAMES INTERVIEW ((http://moura.jp/frames/interview/070423/03.html))

ここで、「外部性」や「キャラ萌え」(この日記では、美少女キャラに限定します。)が「文学としてのラノベ」のキーワードカテゴリー)として浮かび上がってくるのです。言い換えれば、「外部性」は「社会性」、「キャラ萌え」は「女性性」にあるといえるでしょう。

ところで、先ほどラノベ定義は「混沌」としていると述べましたが、同じく「混沌」とした定義文学に「SF」がありますね。

サイエンスフィクションもまた、外部性の幅が限界まで拡張されることによって何十年も前から定義は揺らいでいました

ここで一つのSF批評を紹介します。

小谷真理の『女性無意識』に対する松岡批評です。なお、小谷真里は、SF研究者であり、ラディカル・フェミニストであるそうなので「文学としてみたラノベ」を知る上で意外に検討する必要があると思います。

最初ハーバード大学フェミニズム文学者アリス・ジャーディンが「ガイネシス」(女性的なるもの)という言葉を造り出した。 (中略) テクノイネシスはそれにもとづいて提案した概念で、

父権的な社会蔓延するなかで女性的な無意識の紐帯が結ばれていく可能性を示していた。

長いあいだ、文明の基準や男性覇権社会価値観のなかでは、普遍的すぎる母性、すべての他者をとりこむ包容力、あるいは基準をいちじるしく逸脱する狂気、説明のつかない無意識などは、しばしば社会の外部に押しやるべき面倒として片付けられてきた。中世魔女裁判だけでなく、近代以降も「女子供の戯言」として片付けられ、20世紀後半になってもこの傾向と対決するためのウーマンリブ運動セクハラ問題が噴出してきた。

では、そのように外部に押しやられた意識をつなげたらどうなのか。あるいは、家庭という内部(実は外部的辺境)に押し込められた意識といってもよい。男性から見れば、多くの家庭は基準社会の外部にあたっているからだ。 ジャーディンはこういう問題を引き取って、そこにはそのままこれらを連鎖させるべきメタネットワークがありうるのではないか、それは女性無意識を象徴するガイネシスになるのではないかと見た。

(中略)著者はこんな出だしで手をゆるめない。次から次へとバウンダリートランスグレッション(境界侵犯)を見せつけた。

また、女性SFに関してこういう考察もなされています。

それにしてもいつのまに、女性こそが文学可能性と限界を語るに最もふさわしい発言者だという情勢になっていたのだろうか。

まずはエレイン・ショーターが父権文学規範の修正を迫ったそうである。ついでパメラ・サージェントが『驚異の女性たち』のなかで、メアリーシェリーの『フランケンシュタイン』に始まる女性SF史がありうることを指摘した。他方、これに呼応するかのようにして、陸続とサイエンス・フィクションに挑戦する女性作家が出てきたようだ。 そこで、ヴァージニア工科大学の英文学者マーリーン・バーが「女流SFフェミニズム理論には相似的な進行があるのではないか」と指摘した

(中略) なぜこういうことがいえるかといえば、マーリーン・バーによると、多くのSFは“外部の他者”を描くわけだけれど、そこには現実を超えた出来事があまりに現れすぎて、文学的にはサブジャンルに追いやられるようになっていた。

しかし考えてみれば、そのように追いやられる宿命をもっていたのは、実は“外部の他者”の扱いを受けつづけてきた女性なのである。これではSFフェミニズムとが連関していて、まったく当然だったということなのだ。

松岡正剛の千夜千冊『女性無意識小谷真理 (( http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0783.html ))

ということで、ここでは「外部の他者」たる女性文学との密接な関連がみえてきました。これは美少女に「キャラ萌え」する「ラノベ」も他人ごとはないのではないでしょうか?

では、そもそも男性にとっての「女性」とはどういうものなのでしょうか?もはや哲学の領域に関連しているように私には思えます

そこで、デリダにとっての「女性」というものを引用します。ちなみに、「動物化するポストモダン」の著者であり、前述した東は

「【デリダとは】仏哲学者20世紀のすぐれた哲学者の常として「哲学なんていみなくね?」というのをすごく哲学的に言って、ややこしくなってしまったひと。でも基本の着想はいいので哲学呪縛から解き放たれればいい仕事できた可能性がある。」

ツイッター上で紹介しています。* ((http://twitter.com/hazuma/status/24868908779446272))

デリダは、「真理が女性であるとすれば」という『善悪彼岸』冒頭のニーチェの仮定から出発して、「女性というもの(=真理というもの)」は存在せず、したがって「性的差異というものも存在しない」という驚くべき帰結を導き出している。(「性的差異」の問題が重要はないと言っているわけではない。逆に、デリダは、ハイデガーニーチェ読解には、「存在論的差異の問題」はあっても「性的差異の問題」がないことを問題にしている。)

ニーチェは『悦ばしき智彗』の中で、「女性たちの最も強力な魅力は、それを遠方性において感じさせること」、つまり「遠隔作用」だとしている。

女性の魅惑を感じるために、「遠隔」が必要なのであり、遠隔のところに身を置くことが必要なのである

女性というものは、「遠ざけるものであり、自分自身から遠ざかるものなので、女性本質存在せず」、「女性の真理は存在しない」。

女性は、真理が存在しないことを知っているのであり、真理の存在を信じない限りにおいて、女性であり、真理であるのだ(女性本質、真理の本質は、それが存在しないということであり、自分存在しないということを知っているということである)。

実際のところ、「女性=真理」を信じているのは、「男性」なのである(この意味で、フェミニスト女性たちは「男性」なのであり、「フェミニズムとは、それによって女性男性に、独断論者の哲学者に似ようとする活動」だということになる。)

ニーチェの『善悪彼岸』の「序言」の冒頭は、次のように始まっている。

真理は女性であると想定すれば、すべての哲学者たちは、彼らが独断論者であったかぎりにおいて、女性たちをうまく理解できなかったのではないかと疑うべき理由があるのではなかろうか。

そして、これまで彼らが真理を探求してきた際の恐るべきまじめさ、不器用な無遠慮は、女の子をものにするためには、拙速で不適切なやり方だったのではないか

デリダ女性も真理も、与えることによって所有するのであって、こうして贈与=所有も非弁償法的な決定不可能性は、あらゆる存在論的、現象学的な解釈の試みを失格させてしまう、とした

つまり、贈与に先立つ固有なものの存在がないのだから女性(真理)というものはないのであり、性的差異といういものはないということになる。という帰結に至った。

(知の教科書 デリダ 著者 林好雄 廣瀬浩司

見事にややこしいこの解釈から女性の振る舞いは虚構的であるという面ががわかってきたのではないでしょうか。

ニーチェ芸術的と指摘しましたが、遊戯的、ゲーム的と捉えても過言ではないでしょう。

つまり、オタク男性)にとって、ラノベとは

女性という存在外部性とを遊戯的につなげている文学メディア媒介装置

であることがわかります。(また、女性性を獲得し、同時に女性に所有されたいという願望を解消するメディアとも解釈できます。)

十数年前に、男性オタク達は「萌える」という言葉発明した;「萌える」という言葉を使えば「セックスしたい」「愛してる」といったストレート表現を避けながら、美少女キャラクターへの思慕をオブラートに包んで表現できる

オタクが豚になった――「萌えるからブヒる」へ - シロクマの屑籠(汎適所属) ((http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20110215/p1))

という指摘もあります

例えば、オタクにとっての現実における外部性インターネットがあります

オタク男性であろうツイッターユーザーアイコンが、イラストアニメ美少女アイコンである可能性が高い点はオタクにとっての外部性無意識に象徴しているのではないでしょうか。

また、ラノベ作家は決して女性が多いというわけではないですが、その必要はなく、いわゆるユング提唱したアニマ(男性女性的側面)による手で書かれている点、それがラノベを好む多くの男性読者に受け入れられている点こそ検討すべきでしょう。これはつまり、女性を真理とするのではなくアニマこそを真理とするさらなる「遠隔作用」をもたらしているとも考えられますね。

このアニマを真理とすることによる遠隔作用の効果としての共時性

先程のツイッターイラストアニメ美少女アイコン無意識的に選択させる要因になっているかどうかを検討することは興味深い対象ではありませんか?

以上より「ラノベ読者はなラノベを好むか」という問いの考察を注意しつつ踏まえ、ラノベ読者(男性)の実際に構築しているコミュニティ家族間の関係、他の好きなメディア媒体等について研究することは簡単には説明できなかったラノベ読者の感性、つまり一つの社会的な側面を知る上で、大いに意義があると思うのです

ラノベ本質は-文学であり-女性性であり-外部性であり、それがラノベ読者の実生活と対照的にどう関わるかが重要なのではないでしょうか?

私はそのことについて考える限り、とても意義ある研究だと断言できると思っています。

2010-04-24

a

今はエレクトロニカをふんだんに取り入れた音楽がもはや主流となっている

パフュームなどの出現で日本でも広く知られるようになった

ロックでもバンド形態にそこにエモーショナルボーカルが加わってスクリーモというジャンルになっている

これが気持ちいいのだ

音楽エモーショナルであるべきだ、という概念に最も近い、分かりやすいミュージック

いも最も勢いがあるジャンルになろう

つまりエモーショナルなものを世界が求めているのだ

2009-11-03

http://anond.hatelabo.jp/20091103140427

それだと、全生物に適用されてしまうので、本心を欺くという意味です。

本心とは論理的なことではなく、エモーショナルな事柄をさしています。


と書きましたが、どうも違う気がします。

まあ、他の増田さんが書いてくださりましたが、

誤魔化しのボーダーラインというのはひどく曖昧なもので、

そこを漬け込んで、自分探しを否定するような真似を

敬愛する先生にはしてほしくなかったのです。

この気持ちが、ひどいものであるというのはわかっています。

しかし、それでも人間はやってしまう。

という言い訳で閉めたいと思います。

2009-09-06

http://anond.hatelabo.jp/20090905133820

恋愛みたいなエモーショナルな事柄が

キャンキャンだのアンアンだののくだらない論理によって

根本からたたれてしまうのは大変もったいない気がするね

増田は多分軽い鬱だと思うな、俺もそんな感じだった

今は別に良いけど、これ以上酷くなったら病院行った方がいい。

2009-07-22

http://anond.hatelabo.jp/20090317143004

俺の友人に「血を見たくないから精神科になった」ってやつが居るけど、そいつが言ってた職務上気をつけていることは「患者の話をあまり聞きすぎないこと」だそうだ。

まぁ、欝は感染すると言うし、確かにいちいち全部聞いてたら医者が欝になってしまう。


でもその話を聞いて、患者の話を華麗にスルーしつつ、結局は薬の力で治してしまうなんて、

エモーショナルがすっぽり抜けたビジネスモデルに、なんかちょっとビックリしてしまった記憶がある。


2009-05-03

死んでもかんけーね

別に死んでても生きてても関係ないんだけど。友人でもないし。聞きたけりゃCD聴けばいいし、見たけりゃYouTubeでも何でも見りゃいいし。芸能人訃報を聞いてショック受けてるのって、豚インフルエンザニュースでドキドキしてんのと何も違わない。自分の身体に関係ある分だけ、豚の方が切実なくらい。

では、なぜ清志郎の方が切実になっちゃうのか? それは俺が身体だけで出来てるわけじゃないからだ。目に見えない部分に、巨大な影響を与える奴に昨夜死なれた(らしい)。

でもなあ、それでもなあ。別に清志郎のニューアルバムを聴けないことが致命的な訳でもないし、「夢助」だって試聴しただけで買わなかったし。だからまじで、死んだって別に関係ないはずなんだけど。ライブだって、最後の奴に行けたからラッキー、みたいな感じさえするし、「全快おめでとう、キヨシロー!」「みんなサンキュー!」ばっかの、あんなユルユルライブはつまらない感じもするし。正直、また行きたいなんて思えなかった。だからもう二度とライブ見られないってのも、俺にとっては致命的じゃない。

じゃあなぜ? ショックよ?けっこう。しかも微妙に横っ面を引っ叩かれた感触もありーので。なんかちょっと自分最近の生活態度を反省しちゃうかも、ぐらいの勢いで。

気にしてたんだよな、多分、いつも。勝手に生活の指針にしてた嫌いがある。俺は「人ごみに流されて変わっていく」のが不得意な人間なので(じゃなきゃGWにこんなことグダグダ書いてない)、清志郎のように人ごみバリバリ摩擦してる奴が大好きだったのだ。しかも清志郎の目は、どんどんクシャクシャになっていく頬の皮膚とは対照的に、いつまでたってもチンパンジーのように澄み切っていた。まさに矢野顕子の言う「心の美しさが歌に表れている人」、或いは渋谷陽一の言う「凄くエモーショナルで、センチメンタルな心を持った男だったけれど、同時にハードで前向きな姿勢を常に崩さなかった」人だった。そういう奴はあまりこの世の中にいなかったのでね。つい好きになっちまった訳ですよ。

なんで会ったこともない話したこともない奴の、そんな内面みたいなことについて知ったふりをしているのか? それはもう「歌に表れている」としか言いようがない訳で。「ヒッピーに捧ぐ」でも「雨上がりの夜空に」でも「トランジスタラジオ」でも、はたまた「ワザト」でも「石井さん」でも「激しい雨」でも、とにかくなんでも、彼の心のいろんな目に見えない部分が、声になって出ていた。誰でもそうなのかは良く分からないけど、心の中をそのまま声に出す奴がいると、そいつがめちゃめちゃ愛おしくなるな。そしてそれを聴いて、俺も何かを声に出して歌いたくなったのだった。犬の遠吠え合戦みたいなもんだ。愛し合いたかったんだな。俺と清志郎はそんな関係だった。だからリアルで友人じゃなくても、死なれるとぽっかり穴があいちゃうのです。

2008-10-21

自分で体験することが一番大事

考えがまとまってないので、だらだらしちゃうと思うけど。

現代は「共通体験」を作りにくい時代

時代の空気みたいのを考えるのが好きで、ニートやら、ほかの人とうまくいかないやら、

そういう悩みがなぜ現代に多いのかをよく考える。

自分なりの結論としては、「現代人は他人との共通体験をする場が少ない」ということ。

恋愛もそうだと思ってるけど、「一緒に何かをした」記憶とか、思い出とかが人間関係の基本だと思うわけです。一緒に苦労したからチームメイトが団結する、文化祭で一緒に徹夜して仲良くなる、恋人同士がデートメール交換を繰り返してより親密になる、そういう経験の繰り返しが親密さを生むんだろうと。

ただ現代は、会社の行事も基本不参加、部署ごとの飲み会も行かない人が多い。

さらに大学サークルに入る人も減ってきていて、学校行事も当然不参加率高い。

そうやって「共通体験」が経ることで、各自の孤立した体験をすることが増えてくるわけです。1人でニコニコなんかの動画を見たり、チャットやってみたり、テレビ見たり、音楽聴いたり。で、そういう体験におけるエモーショナルな感情の動き(意味ダブってるけど)を、誰かに話せれば共通体験化できるんだけど(感想を話し合ったという体験+趣味が合う、とかね)、今は2ちゃんやら増田やら、匿名の誰かと話すことができちゃう。

匿名コミュニケーションは「使い捨て

それはそれでいいことなんだけど、匿名コミュニケーションというのは基本使い捨て継続的な付き合いではないから、「共通体験」を積み重ねることができないわけです。

本来は友達を作る過程として作用する共通体験が、つど使い捨てアイテムなっちゃってるわけ。だから現代は、「友達がうまくできない」とか「話題がない」なんて人が増えている。

他人と共通しやすい話題の手札を増やす

前後するけど、話題がない人はほかの人と共通しやすい体験というのをあまり行っていないんだと思っている。もちろん好みだから、人と共通しやすい体験を無理してする必要はないんだけど、たとえばテレビ番組の話はニコニコ動画の話よりも多くの人に通じやすい。通じにくい体験しか手持ちの札がない場合は、当然ながら他人と「共通体験」を作るのが難しくなる。だから、手持ち札に一般受けする話題が多い人は「共通体験」を作りやすくなって、結果リアル充実といわれる状態になれるのかなあと。

かといって、手持ち札がマニアックな場合は「共通体験」が作れないかといえばそうではなく、手持ち札が似ている人のところへ行き、話題を使い捨てないように気をつければいいということになる(友達が作りたい人の場合。誰でもそうしろというのではなく)。

そこでハンドルなりを付けて、同じようにハンドルなりがあるその場限りじゃない付き合いを構築していけば、どんどん「共通体験」を積み上げられるようになる。

共通体験を生み出すように意識すると、多分生きやすくなる

で、何がいいたいかといえば。

自分自身を含めて、「生きにくい」と思う人が多いと思うんだけど、できるだけ「使い捨て」ないように気をつけると、多分生きやすくなる。

匿名コミュニケーションは楽。発言に責任を持たなくてもいい、過去責任を持たなくてもいい。

でも、そういう使い捨てを行った分、積み重ならない体験が増えて、「共通体験」をすることで得られたはずの「(友達としても恋人としても)好きな人といる楽しさ」やら「困ったときに相談できる存在の頼もしさ」みたいなものを少しづつなくしているんだと思う。

「共通体験」を作ることは、ある種の面倒くささも伴う。だからといって共通体験を作ることを怠ってしまうと、一見独立した存在になれて満ち足りているつもりが、なぜか物足りなさ(人によって違うかも。さびしさとか、むなしさとかいろいろ)を感じることになってしまう。

だから「共通体験」を作りなさいと、えらそうにいうつもりはない。だって面倒だし。でも人間関係使い捨てている分、なにかを失っていることは知っておくべきかなと思う。事前に覚悟しておくべき、というか。

無自覚な人が多いから、体験を使い捨ててしまっていることに気づいてなくて、ネット使い捨ててきて、現実でなにも手札がないって人が多いんじゃないだろうか。手札がないのはその人が原因というのではなくて、誰も「体験は匿名環境使い捨てるとなくなっちゃうから注意してください!」と言わなかったのが原因じゃないのかと。

人間時間は有限だから、「体験」できることはリアルであれネットであれ限られている。「体験」を有効に使いましょうというお話

2007-07-09

http://blogs.itmedia.co.jp/kenjiro/2007/07/post_78d6.html

コンサルのシゴトは、「気付き」を与えること。そしてそれとパワポとの関係

実にいい記事に出会った。コンサルタントとしての基本を思い起こさせ、かつコンサル生業としている者を奮い立たせる内容だ。

エントリに絡むはてブのごく一部に「当たり前」という趣旨の批判がある。しかしながら、こういう批判をする者は、当たり前をいかに忠実に行うかの難しさを知らない世間知らずの学生か何かなのだろう。適当に放っておいて良さそうだ。

優秀なコンサルタントは、さらに、パワポを見てみれば判別できるという話もある。

やたらオートシェイプやアニメーションをふんだんに使うスライドプレゼンを行うコンサルの提案は、その9割方を眉唾と思ってほぼ間違いない。

対する、ウォートンやケロッグなどの著名 BS を修了したようなコンサルの作るパワポは実に美しい。

まず、ムダな虚飾がいっさいない。日本にいるあまたの外資系コンサルが、それこそ「コンサルらしい」スライド作りに腐心している姿を見るのとは雲泥の差だ。

それでもって、優秀なコンサルが作るスライドは、シンプルながらも訴える力が強く、なおかつ意思決定者に決断を迫る優れた(テキストによる)ストーリーテリングが行われている。

そして何よりも、優秀なコンサルが作るスライドは、枚数が極端に少ない。10 枚を超えることはほとんどないと言ってもよい。だいいち、30 枚も 40 枚も、あるいはそれ以上もあるプレゼンを見せられた日にはちょうどいい午睡の時間とされるのがオチだ。

あまたのコンサルたちの作るきらびやかスライドを見終わった後のクライアントたるあなたの感想は「だから何?(So what?)」であることはほぼ間違いない。それに比べ、優秀なコンサルの作ったスライドを見終わったあなたは、プレゼン会議が終わるや否や、臨時役員会のスケジューリングを始めることだろう。

エモーショナル=アトラクティブではないのである。少ない労力で最大の効果を得る、いや、これはちょっと違う。優秀なコンサルは、そのシンプルで美しいスライドを作るためにロジックを何度も練り直すのだ。

そうやって提供されるプレゼンテーションが成功しないことはむしろ少ない。皆さんのプレゼンが成功することを祈るばかりである。

2007-02-06

俺が非モテになった理由・リローデッド

http://anond.hatelabo.jp/20070205222738

高校受験大学受験が滑り止めなしの1本だったことが最大の原因。ロジカルに頑張れば必ず報われる、って思ってた。

小中高と体育会系だったし、そこそこ成績も良かったし、大学国立だった。

でも就職活動がさっぱりだったように、恋愛もさっぱりだった。面接がさっぱり通らない、デートに誘ってもさっぱり反応が返ってこない。

就職活動恋愛に似ている」という言葉があるけど、結局は相性なんだそうな。自己分析して頑張れば最後には報われるっていう価値観がここ数年でいっきにひっくり返ったよ。

就職活動みたいに20社くらい同時にエントリーシート出してみようかな。内定もらえるところが1社はあるんじゃないかな。

http://anond.hatelabo.jp/20070118180655

恋愛ロジックでするものではない。「性格が合うから」「趣味が一緒だから」そんなロジックを積み重ねても、本能的な直感の前ではそんな戯言は吹けば飛ぶようなもので、恋愛とはもっとエモーショナルなものなのだ。

「本能的に好き」そう思ってくれる女性が一人はいるんじゃないかな。

その前に、そう思われる男になれよ。ってよく言われるんだけどね。

2007-01-18

一度親友に告白して大失敗をしたことがある。

一緒に酒を飲んでいて物凄くリアクションがいいし、楽しそうだし、実際に「○○と話してると楽しい」と言ってたし、あちこちデートに誘っても一度も断られなかったし、家にも遊びに来るというので満を持して告白したら、

「○○のことは友人として好きなんだけど……」

という定型の断り文句が帰ってきた。

「話しているととても楽しいんだけど、彼氏としては見れない」

と言われた俺は、「話していると楽しい」=恋人としての最大の要素だと当時思っていたわけで、自分の何が悪いのかが全くわからずパニックになった。その後もしばらく腐れ縁のような形でたまにご飯を食べたりしていたが、もう今は交流はない。

その後女の友達と色々話すにつれて、「女性は一般的に男を自分にとって恋愛対象であるか否か、ひと目で見抜く。話していて楽しいかどうか、性格が合うか合わないかはほとんど関係ない。性格が全然合わなくても、話していてつまらなくても、相手が恋愛対象のカテゴリに入るならば恋人になれるし、逆もまた然り。一旦どちらかにカテゴライズされたら、もうカテゴリの移動は出来ない、云々」というようなことを聞き、俺は再度パニックになった。なんだそりゃ!? しかし色々な女と話していると、どうもそれが真実のようだ。俺は恋愛に対する考え方を変えた。

恋愛ロジックでするものではない。「性格が合うから」「趣味が一緒だから」そんなロジックを積み重ねても、本能的な直感の前ではそんな戯言は吹けば飛ぶようなもので、恋愛とはもっとエモーショナルなものなのだ。ドーキンスだったか誰かが「人が恋をするのは遺伝子のせいだ」という胡散臭い説を唱えていたが、確かにそうなのかもしれない。それまでの俺はロジック恋愛をしていた。「この子は可愛いとは思わないけれど、自分とこの部分が一緒だから一緒にいるべきなんだ」という思い込みを恋愛と勘違いしていた。こんなんで彼女が出来るわけはない。それ以来、恋愛に対してもっと直感を大事にすることを心がけた。自分が可愛いと思うか、セックスしたいと思うか、一緒にいたいと思うかをまず考えることにした。

そんなこんなで俺にも可愛い彼女が出来て、先月婚約をした。趣味は一緒だが、二人でそれを楽しんだことはないし、はっきり言って性格も合わない。ずぼらで楽観的な俺と、神経質で落ち込みやすい彼女。だが、一緒にいてこの上なく楽しいし、心から彼女を愛している。ロジックではない部分で我々は繋がっているのだと思うと、たまらなく彼女のことがいとおしくなる。これが恋愛なのだと、20代も半ばを過ぎてからようやく理解できた。

旅行フィンランドに行こうと思っている。これも直感だ。

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