はてなキーワード: 試聴とは
「本来なら、脚本家がインスタで原作者の著作者人格権を毀損する投稿をした直後に小学館が抗議し、日テレが弊社の見解ではないと遺憾の意を表明し、脚本家が頭を下げて終わりなはずだったのに。未だに小学館は抗議しないし日テレは黙ってるし脚本家は逃げ出すし、原作者はもういないし。なんなんだこれ。」
https://x.com/sorachiakira/status/1755550581429805466?s=20
漫画家の芦原妃名子さんの死去をめぐり、X民、ツイッター民は働いたことがないのだろうかと思えるほど、1つひとつのありえないロジックをもとに積み上げれた意見が、幅広く共感されているという正義感の迷走状態にうんざりしている。
脚本家の相沢友子さんに日テレが、真実を伝えたら仕事を引き受けてもらえなさそうな面倒くさそうな契約だったら、詳細を伝えると思うのだろうか?これからモチベーションを上げていい仕事をしてもらわなければいけない相手に。脚本家は、芦原さんの条件を知らずに、脚本を書き進めたのだろうと思われる。
そして、脚本家の動きをめぐり、小学館が日テレに苦言を言うと思うのだろうか?
ドラマ化するのは年に50ということで、その原作を勝ち取れるかどうかは、苦境すぎる紙媒体の版元はノドから手が出てもほしがっている。それがあるかないかで経営の明暗が分かれるだろう。
今回の最大の問題は、紙媒体だけでは坂を転がり落ちている経営状況の出版社は、試聴者に向かって発信力のあるテレビ局の動向に左右されてしまうという不況構造と、テレビ局のもつ権力性にある。
日テレ側は、原作として使うことで、むしろ原作料を支払ってまで出版社の宣伝に協力をしたのに迷惑をかけられたというスタンスがあるだろうし、小学館側はそれを否定できない、漫画家と原作者の足並みをうまく揃えさせられなかったことをむしろ詫びねばならないような力関係と想像される。
1年ぐらい前だろうか、この記事が色々と物議を醸してた
これが丸ごと全部正解だとは思わないが、自分の正直な感想を述べてみたいと思う。結論から言うと
「コミケで壁サー以外が必ず厳しいわけではないが、雑な計算式から考えると苦戦を強いられるだろう」
ということだ。
まず、自分のことについて触れておきたい。
45歳男、参加ジャンルは同人音楽(オリジナルボカロ)、主にM3とコミケに参加してる。歴は10年ぐらい。
M3春2019 | 2019年4月 |
C96 | 2019年8月 |
M3秋2019 | 2019年10月 |
M3秋2020 | 2020年10月 |
M3春2021 | 2021年4月 |
M3秋2021 | 2021年10月 |
M3春2022 | 2022年4月 |
M3秋2022 | 2022年10月 |
M3春2023 | 2023年4月 |
C102 | 2023年8月 |
M3秋2023 | 2023年10月 |
こんな感じ。M3では3曲500円の新譜を出して、20枚前後売れるぐらい。
コミケ合わせの新譜は最近作っていなかったこともあってか、大体10枚ちょっとぐらい。
C96に関しては、それがなぜか18枚売れた。これは予想外だった。新設されたばかりの南館だったからか、とりあえず見てみようかと言う雰囲気の参加者が結構流れてきてたイメージ。
このときは久しぶりに参加したコミケだと言うのもあって、閉会までいたが、閉会ギリギリまで試聴してみようという人がちらほら来てた。
大手サークルからしたら鼻で笑ってしまうような数字かもしれないが、自分としてはコミケというお祭りの「熱量」のようなものを再実感したイベントだったので印象的だったのを覚えている。
M3春2020は日程が変更になったこともあり参加を見送り、それ以降はコロナ禍になってしまったこともあり、制作枚数を絞って早めに撤収していた。2022年末までの各回の売れ行き枚数を書いておくと、こんな感じ。
M3春2019 | 2019年4月 | 23枚 |
C96 | 2019年8月 | 18枚 |
M3秋2019 | 2019年10月 | 22枚 |
M3秋2020 | 2020年10月 | 14枚 |
M3春2021 | 2021年4月 | 13枚 |
M3秋2021 | 2021年10月 | 14枚 |
M3春2022 | 2022年4月 | 13枚 |
M3秋2022 | 2022年10月 | 12枚 |
数は新譜・旧譜合わせた総数。
2023年に入り、海外ではコロナは収束したような雰囲気になり、日本でもGW明けにはコロナは5類に移行するなど報じられ、同人界においてもコミケが入場チケットつき・2日間開催という異例の形とはいえ復活し、盛り上がりを見せ始めた。
自分もそれに乗って久しぶりにコミケに参加してみようと思い、久しぶりにC102にも申し込んでみた。
その結果の枚数が、このような感じだった。
M3春2023 | 2023年4月 | 20枚 |
C102 | 2023年8月 | 6枚← |
M3秋2023 | 2023年10月 | 21枚 |
C102のところに注目してほしい。誤記ではない。新譜4枚、旧譜2枚で全部で6枚しか売れなかった。自分としては爆死も爆死である。
久しぶりのコミケに参加できて嬉しかった・楽しかったというのもあるが、こみあげてくる悔しさと、何より「なぜ??」の気持ちが大きかった。
前後のM3の売れ行きを見ていると、別に自分のサークルが見向きされなくなったというわけでもないようだ。
(余談だが、コミケのショックからM3秋はどうなるのかと若干緊張した。幸い売れ行きはいつも通りで安心したが)
無論お金のために同人イベントに参加しているわけではない。が、何故C102ではそんなに枚数が落ち込んだのか。
コミケは久しぶりの参加のボカロサークルには手厳しい?そうとは思えない。
当日の設営があまり目を引く感じではなかった?
コミケではレイヤーの売り子でもいないと誰も見向きもしてくれない?
考えられる理由はいくつもあるにはあったが、考えても答えはでない。答えは出ないが、C96では18枚売れたのが何故1/3にまで減ってしまったのか。気になった。
その一方で、SNSでは神絵師などのいわゆる壁サーを中心に「コミケの勢い完全に戻りましたね!」という言説がちらほらみられた。
本当にコミケの勢いが戻ったのであれば、何故自分のところは1/3にまで減ってしまったのか。
気になったのは、当日は売れ行きが悪かっただけではなく、試聴のために足を止めてくれるような人も少なかったことだ。この日も閉会まで粘ってみたが、参加者の方はと言うと終日足早に目の前を通り過ぎていくばかりで、こちらのスペースを見ようともしない人がほとんどだった。C96の時に感じた「熱量」みたいなものはどこに行ってしまったのだろうか。
こんな問題に答えが出るはずもないのだが、ふと気がついたことがあった。C96の前、C92に参加したときは13枚だった。これと比べても半分に落ち込んでいる。
コミケでの売り上げを抜き出すとこんな感じ。
C90 | 2016年8月 | 13枚 |
C92 | 2017年8月 | 13枚 |
C96 | 2019年8月 | 18枚 |
C102 | 2023年8月 | 6枚 |
そこではたと気がついた。
C102だけがおかしいのではなく、C96もおかしかったのでは?
C102とC96が通常のコミケと違った点にもしかしたら原因があるのかもしれない、そう考えてみると不思議と合点がいった。
そして違うことといえばそう、開催日数である。
準備会のサイトにはご丁寧にも開催実績が全部載っており、そこに参加人数の情報もある。
C96は4日間開催だったが、一般参加者はバラけたわけではなく開催日数が増えた分だけ参加者も増えたことが見て取れる。
C90 | 53万人 |
C92 | 50万人 |
C96 | 73万人 |
C102 | 26万人 |
動きも枚数と似た動きをしている。ここら辺にヒントがありそうだ。
ここで、自分は仮説を立ててみた。
1. コミケに参加する人間はその日の予算の上限があり、これはコロナ前・コロナ後でも変わらない(コロナ中のことは分からない)。
2. 参加者は、ある開催日に自分の目的のサークルがたくさん参加していればその日に参加する可能性が高まり、少なければ参加する可能性が低くなる。
3. サークルはたくさんあれど、一般参加者は壁サーを優先的に回る。
どれも反論が来そうなものではあるが、大外れしていない、、、と思いたい。
1.についてはそのままである。年に2回のお祭りに軍資金を持って参加するときに、その金額に糸目をつけないのがオタクというものではなかろうか。コロナ後の経済事情が厳しい人もいるとは思うが、そこまで変動していない気がする。
2.については、いわゆる「女性向けの日・男性向けの日」という概念を拡大解釈したものだが、当然自分の目当てのサークルがたくさん参加していれば来たくなるというものである。
3.については、最初は通販が出なさそうな島中が初手として正しいと言う言説もあるが、結局のところ壁サーに行列ができることを考えるとやはり壁サーを優先して回るという考え方が一般的であると考えるのが自然だろう。
2.については、どのぐらい参加の可能性が変わるかと言うデータはなかったが、ジャンルごとの参加サークル数の情報ならあった。
ジャンルコード別サークル数一覧(C90〜C96)と夏コミ告知
自分が参加しているデジタル(その他)のジャンルだけを抜き出すと、以下のような感じ。
C90 | 1018 ☆ |
C91 | 1020 |
C92 | 948 ☆ |
C93 | 939 |
C94 | 1146 |
C95 | 1346 |
C96 | 1328 ☆ |
C97 | 1804 |
C98 | 864 |
C99 | 570 |
C100 | 488 |
C101 | 488 |
C102 | 472 ☆ |
そして自分が参加した回だけを抜き出すとこんな感じになる。
C90 | 1018 |
C92 | 948 |
C96 | 1328 |
C102 | 472 |
C90 | 17.7万人 |
C92 | 16.7人 |
C96 | 18.3万人 |
C102 | 13万人 |
また、各回の1日あたりの参加サークル数を計算すると、こんな感じ。
(本当はきちんと調べれば自分の参加した日の厳密なサークル数も分かるのだろうが、ここでは割愛)
C90 | 11,300サークル(3日間で34,000) |
C92 | 10,600サークル(3日間で32,000) |
C96 | 10,600サークル(3日間で32,000) |
C102 | 10.500サークル(2日間で21,000) |
ここから先は推測でしかないが、例えばC96の18万人とC102の13万人では、見た目の数字以上に目的に違いがあるのではないかと思う。
雑な計算式であるが、参加サークルの割合に応じて一般参加者の目当ても違うとすれば、デジタル(その他)目当ての参加者は以下のようになる。
C90 | 15946 |
C92 | 14935 |
C96 | 22927 |
C102 | 5844 |
だからどうだと言われれば本当にそれまでなのだが、雑な計算式でこれだけ差が出るのであれば、これが影響したと考えても不自然ではないだろうと個人的には思う。
特に、思った以上にC96にデジタル(その他)目当ての参加者が多そうだということ、つまりC96にはいわば「バフ」がかかっていたと言うことが言えそうだ。それと比べてしまうと、C102は苦戦を強いられるのも無理はない。
冒頭で紹介した記事でも「三分の一くらいになった」という記述があるが、むしろ1/3は健闘した方と言えるのかもしれない。
一方で、なぜ壁サーは全然その影響を受けずに、むしろ「コミケの勢い完全に戻った」などという話が出るのであろうか。
ここから先は雑な計算式すらないのだが、コミケはもともとコミックマーケット、つまり参加者は同人誌を買いに来ている人が多いと言うことを考えると、参加者は仮説3. の、「何はともあれまずは壁サー、そのあとに自分の好みのジャンル」という傾向が強まったのではないだろうか。
これが正しいかどうかは根拠は全くないが、仮にこれが正しいとするならば、あの96で感じられた「熱量」のようなものがC102では全く感じられなかったのも少しうなづける。
少し乱暴な結論になってしまうが、やはりコミケは「日本最大の同人誌イベント」である点に強みがあり、2日間開催が続く限りは自分のような弱小サークルは売り上げとしては厳しい状況が続くのだと言えそうだ。
もちろん最初にも書いた通り、多くのサークル参加者同様自分もお金稼ぎのためにコミケに参加しているわけではない。とはいえ丸一日参加して誰にも手に取ってもらえない、参加者の熱量が感じ取れないイベントに毎回出続けるのもそれはそれで疲弊するものがある。
自分としては今後もM3には参加するつもりだが、コミケはまた数年はいいかなという気になっている。売り上げのこともあるが、それ以上にM3の方が参加者の「熱量」が感じられるからだ。閉会間際にどんなもんかなと試聴のために足を止めてくれる人、一度通り過ぎた後でしばらくしてからやっぱり気になるので戻ってきた人、とりあえず足を止めてどんな曲なのか質問してくる人。そういった場面が、M3では多く見受けられる、そう言う気がするからだ。
今後コミケがいつ3日間開催に戻るのか、あるいは南館もフル活用した4日間開催という狂乱のお祭りが実現するのか、同人歴の浅い自分には全くもって何も分からないが、もしそんな4日間開催が本当に実現した時には、是非ともまた参加したい、そう思っている。
一方で、島中のサークルでも「今回自分史上最高の売り上げを記録しました!」みたいな話をちらほら聞くこともある。今回の仮説が全く当てはまらないわけであるが、そういうサークルさんには是非ともどんなポイントが功を奏したのかを分析してそれを教えていただきたいところである。真面目な話、そのポイント、喉から手が出るほど知りたい人も多い気がする。
猫飼いの人には是非読んで欲しい。特に、猫とのお別れを経験した人や、ペットロスになった人には響く内容になってるので。
まずはDavidという曲がどんなものなのか、先入観を持たずに聴いて欲しい。
この曲は1986年「やっぱり猫が好き」という深夜のドラマ(?)のオープニング曲だった。
やっぱり猫が好き(やぱ猫)は、恩田三姉妹(長女かや乃:もたいまさこ、次女レイ子:室井滋、三女きみ恵:小林聡美)が繰り広げる、ドラマのようなアドリブトークのような、時にはドタバタを含む深夜番組。
日本を代表するコメディエンヌが3人だけで毎週様々に起こる日常の小さな事件(主にレイ子が事件を持ってくる)をゆるゆると乗りこなす、そんな「日常系」の深夜ドラマ。事件と言っても些細なことで、寝苦しい夜に一緒に寝ようとか、すき焼き食べてたらハエが出たから外に追い出してたら、ベランダのロックがかかって閉め出されたとか、ドタバタとユルユルが融合した、本当に面白い番組だった。三谷幸喜脚本も多々あり、三谷幸喜の出世作とも言われている。この番組きっかけで小林聡美と結婚した、という伝説の深夜番組なのである。
まぁ、それはおいといて。猫が好き、というタイトルのわりに「サチコ」という猫が、たまーに出てくるだけのドラマなんだけど、このタイトルとDavidの結びつきが、試聴してた頃はなんとも思わなかったんだが、最近になって、この歌詞の意味がスーッと理解でき、このDavidの歌詞を深く理解するに至り、この曲を思い出すだけで泣いてしまう状態になってしまった(ノ∀`)
これは、解釈としての一部であり、本当のところはどういう意味で矢野顕子が歌詞を書いたのかはわからない。
でも、この曲は「やっぱり猫が好き」な人でない限り書けない曲だと思ってる。
矢野顕子いわく「Davidって誰?」と聞かれるけど、誰でもない。と答えている。ダビデだ、という説もある。
しかし、この「誰でもない」はこの歌詞を読み解くひとつのヒントとなる。
果てしなく広がる街から ひとり離れて
ここへ置いていって
静かな微笑みを 遠い日々の歌を
どんなにか つらかった日々を
あなたは 見つめた
よく笑い よく泣くあなたの 話を聞かせて
こんなに近い 同じ思いで
ここで待っているよ
聴こえるでしょメロディ みんなで待ってるよ
私のともだち Oh David
歌詞を書いただけで、もう涙が止まらなくなってるんだけど、頑張ってひとつずつ解説したい。
この曲は、亡くなった猫が飼い主を思って歌ってる歌なんだ、と。
つまり、Davidは飼い主であり、私は天国にいる猫だ、と解釈すると、この曲の意味がわかってくる。
果てしなく広がる街、というのは、猫の視点からすれば、ただの街ではなく、そこは果てのない大きな大きな街に見える。
ひとり離れて、というのは、亡くなって離れていった。
あなたの手紙、というのは、たぶん火葬する時にDavidは手紙を書いて、その猫とともに天国に持たせたものなんだろう、と。
だから、読み返すうちに思い出が蘇ってきた、と。
こんなに遠い ということに対して「時間も場所も」というのは、やはり猫の時は止まっているけど、Davidの時間は進む。だから時間も、という表現になる。
ここへ置いていって欲しいのは、静かな微笑みや楽しげに歌ってた日々。つまり、Davidにはペットロスを乗り越えて、日々を進んでいって欲しい、という猫からの願い。
どんなにか辛かった日々を というのは、多分闘病していた猫の辛い日々や、ペットロスになったDavidの日常を空の上から見つめていたんだと思う。
そして、泣いて笑って、そんな日々を思い出して「ここで待っているよ」って、天国で再会することを待ち望んでいる。
みんな、というのは、きっとこの猫より前に飼っていた猫たちのことだろう。会いたいという気持ちは、飼い主だけでなく私たちも同じだよ、と。
最後に「わたしのともだち」というのは、飼い主のことを友達のように思っていた、ということなのかな、と。
パパやママという感覚ではなく、猫としては飼い主を友達のように思ってた、っていう。
この解釈でDavidを聴くと、涙が止まらなくなる呪いがかかるでしょうw
「やっぱり猫が好き」というタイトルだけ聞いて曲を書いた矢野顕子さんが「失ってもまだ猫の心と私の心は繋がっている。寂しいけれど、やっぱり猫が好き」という気持ちでこの曲を書き上げたのではないかな、という推測が成り立った。実際はコメディ番組だから、ここまでの深い考察をするまでは、まったくそんなこと、思いもよらなかった。
自分も先代の猫たちに会いたくて、今でも泣いてしまうけど、この曲の意味をこう解釈することで、亡くなった猫への思いを整理つけてペットロスから抜け出せるような気がしている。
まず言っておきたいのは、俺はドクターストーンが嫌いではないということ。
むしろ好き。というか大好きだ!
ドクターストーンはアニメ勢で、1期の頃から欠かさず全話を試聴している。
初期の頃は「この後どうなるんだ!?」というワクワクが止まらなかった。
その後の展開にも驚いたし、科学の力ってすごいなぁと素直に思える描写には何度も感心した。
で、今三期目を放送している。
もちろん試聴してるんだけど「あれ?」と思うような場面が多くなってきた。
例えば何かを作るとき。
それこそドクターストーンの醍醐味で、身近にあるものってそうやって出来てたんだ!と勉強にもなる。
でも今やってるドクターストーンは無駄に現代性を求め過ぎというか、ドローン要る?ってなる。
一番の問題は部品の調達方法で、精密機械もないのにどうやって部品を作るの?となったとき「チートおじいちゃんが一人で作ってくれました」という展開が多い。マジで多い。
序盤は科学知識の応用で世界を立て直す!みたいな展開だったのに、最近は物理的なチート任せてで済ませる展開ばかり。
別にドクターストーンをこき下ろしたいとか、批判したってわけじゃないんだ。
でも「科学」っていうのを売りにしながら、チート能力ばかりで解決していくのって、それって科学なのか!?
その辺りが三期では特に雑になっているような気がして、なんだか残念。
バラバラになった石化像をパズルみたいに組み立てる。それも時間をかけず、寸分違わずに。
これなんかもチートだし、チート、チートの連続で、ああもぉおおお違うだろうっ!!ってつい思ってしまう。
心理戦だって、心理戦してるぜ!っていう描写を混ぜることで大抵は仕掛けた側の思い通りに事が進む。
敵も部族の癖にリアクションは現代的だし、行動も現代人の予想通りに動く。
そうじゃないよね?何千年のブランクがあるんだ。それでも変わらないものがある。
それって裏を返せば人の在り方は変わるってことだ。
なのに変わってない。おかしいよね?
何度も言うけど批判したいわけじゃない。でも不満なんだ。不安でもある。
ああぁああああああああああああ!!もおおおぉおおおおおお!!!
違うんだ。違うんだよ!
今の若い子は知らないだろうけれど、昔は個人経営のおもちゃ屋やゲームショップも多かったんだ。
今はもう遠く地元を離れてしまったが、実家の近所には個人経営のゲームショップがあった。
当時のゲームショップはモニター…いや、テレビがとかく多かった。
レジの向こうにテレビが置いてあって、延々とゲームのOPを流し続ける。
人気作や話題作を、お試しで遊ぶこともできたんだ。
俺は延々と流れ続けるゲームのOPを延々と眺めるのが好きなガキだった。
鼻水垂らしながらぼーっとOPを見続けていた。
何故だろうか。でも今ならなんとなくわかる気がする。
当時ゲームは最先端の娯楽で、そこには夢や希望が詰まっていた。
見知らぬ世界が広がっていた。
この後、このゲームの展開はこうなって、こうして、ああなって……
それだけでも十分に楽しかった。
人間の娯楽性は想像力にある。そんなことを教えてくれたのがゲームショップだった。
ただ、その華やかさも好きだった。
大人になった俺は一人暮らしを始め、閑散とした静寂に音を欲した。
白い息を吐きながら帰ってくると真っ暗な家の中。
それから俺は四六時中ダンサー・イン・ザ・ダークを流し続けた。
寝るときには音を小さくするだけで、停止はしない。
そのうち俺は帰宅するときに流れている場面も予測できるようになった。
夕飯を食べるとき、たいてい床が抜ける。
一人暮らしを始めてWIFIを引き入れてから、毎晩エロ動画を観るのが日課になり20年になるが、計算するとざっと20万人の絡みを観た計算になる。
自分の試聴スタイルは、女優やジャンルに嵌まらず毎晩30人くらいあらゆるジャンルを飛ばし飛ばしで観るスタイル。美人だったりスタイルが良かったりすると繰り返し観ることもあるが、飽きて次を探している。
それはもう日課なので、彼女ができたり結婚しても続けてきた。いわゆるヌくためで、現実のSEXとは別腹といった具合。
ピーク時の30代は連日2回ヌくこともあった性欲も最近ようやく落ち着いてきた。振り返ってみたら積もり積もって20万人の絡みを観た計算になる。
今はもうヌくためというより鑑賞自体が目的となり、ヌいて賢者化するのがもったいなく思うくらいだ。
そして遂に、良いバランスの性欲がそうさせるのか絡みを見る目も、性と生と聖が同じ位置にあるように見えてきた。人間がSEXをしている姿はなんて素晴らしいんだ、生きてる、美しく神々しい。
人類の歴史を思えばこれだけの絡みを観た人間はそうそういないだろうから、ある種の到達点とも言えるのだ。
追記:なお副産物として、現実のどんな女性も服の上から裸を捉えることができるし、なんならどんな顔で喘ぐのかも想像できてしまう。
最近のリストラ騒動で「高い技術があるのにもったいない」みたいなブクマもちらほら見るんだけど
本筋は決まってるから刺激的で新しいものをバンバン作ってるって感じでもないわけじゃん
ーーー追加ーーー
自分はdevopsガン無視してきたんでインフラをゼロから作ったことはないんで、たぶんすごいんだろうと思う
タグ統合に関しては発想が良いよねって感じかな? 技術に時間を投資してくれる企業だからできることかな
で、インフラに関してだけど、ニコニコとかはてなが褒められてるのは見たことないわけよ
ニコニコなんか国内発の大規模動画投稿・試聴サイトで一時期はものすごーい勢いだったわけで
それが褒められてるのは見ないわけ
アホみたいに画像も多いのによくやってると思うけど、褒められてるの見ない
でもクックパッドだとなんかすごいらしいじゃん
はてなについては”サーバーインフラを支える技術”を書いてくれて、みんなそれなりにお世話になったはずだし、もっと褒めていいでしょ
一年ほど前、友人が推していたとある大手のVの動画を試聴して、「声と絵のイメージの合わなさ」を感じてしまったから。
声質というか、見た目はイラストなのに声が素すぎて、中の人を強く感じて違和感しかなかった。
大手でこれならきっと他も無理だなと思い、それ以来手を出していない。
どうやら、元々アニメを見るオタクあるあるとして、Vtuberの演技をしない部分に最初違和感を覚えるというものがあるらしい(友人から聞いただけなので真偽不明)。
某掲示板やら某知恵袋やらにも自分と同じような書き込みをしている人がいた。
なんとなく興味が湧いて、恐らくVtuberが好きな人たちの反応もいくつか読んでみた。
「ガワはアバターのようなもの。一般人が話しているのを聴いているだけ」
なるほど。たしかに。
自分もゲーム実況はよく見ていたし、歌ってみたも聴いてた。昔はニコ生主の雑談生放送も聴くことだってあった。
その人たちも、YouTubeやTwitterのアイコンは大概自分の特徴を表したイラストだ。
それと似たような存在だと考えれば納得がいく。
…すると「おおよそ人間や一般人ではあり得ないキャラとして生きるVtuber(大富豪とか鬼とか魔法使いとか)」の存在がよくわからなくなる。
・設定がファンタジーで声も演技調←これもう一般人が話してるだけじゃないよね?
・設定がファンタジーで声が素←この場合はキャラが好きなの?中の人が好きなの?
というか、Vtuberを好きな人って、どこを好きなの?声?見た目?性格?全て?中の人のことはどう思ってるの?
考えてみればVRAVには女性向けもあるだろうと思ってググってみたら海外サイトが引っかかってサンプルを見ることができた。
当たり前だけど海外サイトだから出てるのは外国人なんだけど、そこはまあそんなものかなと思った。
女性向けVRだから当然自分の体は女優なんだけど、お相手さんは男が1人だったり2人だったり女が1人だったり2人だったり男女1人ずつだったり男2女1だったり。
私は男にチンコを入れられたことは無いし今後もごめんだと思っているから女がお相手さんのものを試聴。
なんだけど、なんかピンとこない。
サイトにあったのはだいたい自分は仰向けに寝て軽く上体を起こした姿勢。
お相手さんがこっちの股間をまさぐったり股間を舐めたり股間同士を擦り付けたりするものだった。
ちがうんだそうじゃないんだよ。
私は女の子の柔らかいおっぱいが私のおっぱいを押しつぶす感覚とそうしてデコルテより下が見えないのに腰のくびれや内ももやその間が撫で回され目に見えないところでトロトロに溶かされるのが良いんだよ。
VRコンテンツとして映像的には映えないかもしれないけど視界がお相手さんの首筋と髪で埋まる中で耳元で荒い息づかいで私に興奮していることを伝えてほしい。
成人式の会場に到着するや否や DQN のような集団を見掛けたが、よく見ると出身中学の人々だった。
我々は足早に会場を去り、ドミノピザに向かった。ドミノピザは新成人にMサイズピザを無償で提供する太っ腹なキャンペーンを実施していたので、お昼代が浮いて大変助かった。雲ひとつない青空の下、多摩川の河川敷で食べたピザは格別の美味しさであった。
YouTube のアーカイブを見て後で知ったのだが、成人式ではねずっちが謎掛けを披露していたようだった。
謎に沖縄の基地問題を題材に謎掛けをしており、センシティブな問題を扱う姿勢に感銘を受けた。ネタは滑っていた。
その後、同窓会を欠席してぼざろ一気観試聴会をした。日を回る頃には散解したが、微妙にアルコールも回って気分が良かったので、そのまま天一に行った。更に気分が良くなったので、その後もう一本飲んだ。駅前の商店街は治安が終わっており、日常の再来を感じさせた。