「「悪」」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 「悪」とは

2022-10-31

anond:20221031234101

ほらなこういうの。

完全にSNSアイドルかに絡むキモオタの口調じゃん。

女にするのも「悪」ではあるが、おっさん同士で純粋嫌がらせのためにやってくるってのが真面目に壊れ過ぎてて理解できない。

人類史上にもないタイプセクハラだろこれ。

2022-10-26

anond:20221026171933

トヨタ「悪」って言ってる時点でなんというか憎いの隠せてないなあと

2022-10-22

anond:20221022015905

ところで、増田も「自分正義だと信じているバカ」を「悪」として、その「悪」さえいなくなれば世の中は良くなる、とか思ってませんか?

2022-10-03

anond:20221003121053

太田みたいな論法が許されないんだったら、結局青木理みたいな論法しか生き残れなくなるだけだよ、と言っているの。そして、実際左派の間では蔓延していると思う。とくに第二次安倍政権以降。

そもそも太田がわかりやす権力「悪」批判することを嫌っているのは、「太田総理」の頃からそうで何も変わっていないのに、今になってこんなに炎上しているのも、何だかなあという感じ。

2022-09-27

anond:20220926233613

個人自然感情による選択の積み重ねが差別になりうるなんて当たり前のこと言わなきゃダメですか?

ではこっちから逆に聞かせてもらいんだけど、あなたはどういう状況になれば満足なの?

個人自然感情による選択「悪」だというのであれば、自由恋愛恋愛結婚のもの禁止するという話になってくるよ。

マッチング原理原則は互いの合意によるものなので、マッチング自体も間違っていると?

あなたがそれを望んでいるなら、それで整合性は取れていると思うけど、あなた覚悟は持っているの?

2022-09-26

anond:20220926122403

そのノリがもう、信者も含めて統一協会差別しようとしてるという様なものなんだよね

信者でいる事を「悪」としてる

から保護し説得することは何の人権侵害しないし、違法行為でもないとか言えてしま

統一教会組織裁判所「悪」認定するのは、凄く難しい=宗教

理由

みんなが論拠にしている「強制的説得」による「財産略取」だけど、裁判所はこれまで一度も「マインドコントロール強制的説得)を法の立場で一度も審判していない」んだよね。


例:

裁かれなかったマインドコントロール オウム公判終結: 日本経済新聞

https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1804S_Y1A111C1000000/

マインド・コントロール」論争と裁判 : 「強制的説得」と「不法行為責任」をめぐって

https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34042/1/109_PL59-175.pdf



裁判所(法)の理屈

特に障害を持たない成年が、他者の説得を受け入れて、財産生活破綻するまで差し出すような自体は想定し得ない、ってことなのよ。

何でかって? レイプ裁判を見なさい「抵抗可能だった」。

まり裁判所理屈としては「抵抗できるのにしなかった」「説得(マインドコントロール)は言葉だけで、そこに直接の危害(散々出てくるでしょ、障害関連事件でも)は認められない」。

よって「お布施自発的寄付として行われているので、何ら違法性は“無い”」ってことよ。

霊感商法は「詐欺商品を売った!」「売った後もしつこく金を請求した!」から裁かれたわけ。無価値商品を買わせ、無意味理由で更に金銭要求たからね)



で。前例主義裁判所が、これまでマインドコントロールに関して一切の法的な判断を下していないのは、これまでの「個人自分防衛するために発せられる抵抗は必ずある」っていう前提な。

また裁判所の「自我喪失」は「気絶」と「死を確実視した状況」以外承認していないわけ(※ここはフカシてます。他に判例あるかも※)。



逆にここを「みんなが望んでいる」ような形で「承認」したら、これまでの全判例反旗を翻すことになるよ。

オウムもそう。一家惨殺事件もそう。コンクリ殺人も。

様々な詐欺暴力事件で「抵抗不能精神状態が、気絶と死を確実視した状況」以外を承認したら、容疑者罪状ドンと跳ね上がるね。



今までの判例という積み重ねを否定することになる。それは裁判所法務省絶対承認しない。

法改正」は別よ。彼らも喜んで「時代に応じた法律」に準拠する。でも、これまでの判断価値観を変えることは絶対にない。

それが法務一貫性って奴だからね。



まぁ、筋悪だけど「組織犯罪」で攻めるしか無いが、既に霊感商法はやっていない。

お布施を裁くのはさっきの通り「障害をもたない成年が、強制的説得程度で、家族生活当人生活破綻するような行為に及ぶとは考え難い」になる。

まりお布施自覚して払ったものであり、生活破綻したのは個人資質価値観の問題であって、旧統一教会組織違法性を問うものではない」って結論になるわけよ。



なので。粛々と、延々と、「旧統一教会は悪!」とメディア連呼し続けたり、被害者を登場させたり、し続ける以外はないと思うよ。



裁判になるし、多分国が負けるだろうけど、ガラポン必殺・与党が「旧統一教会の全組織反社!」って認定して、国策強制捜査とかすれば別。

違法なので国と警察なので絶対裁判には負ける。

だが、確実に旧統一教会組織は弱体化し、瓦解する。

でも、それは法治国家の在り方じゃないよね。



とまぁ、法律素人のワイでもここぐらいまでは想定できているので、政府法務関連は「なんとかできんのか!」と法務省をぶん殴ってるだろうけど……。

あるのかねぇ、合法的に旧統一教会組織全てを「反社会的な詐欺集団、と認定した上、他宗教法人に一切影響を及ぼさない」ウルトラCって。

2022-09-21

anond:20220921072157

理想的ではない」と「悪」混同してしまいがちな、人類の脳のバグ。 

 

元増田バグではなく、人類バグだこれは。

anond:20220921095407

イミフだな

ある世界設定で「奴隷制」が肯定されていた場合

奴隷の主人を殺して勝手奴隷を開放する方が「悪」なんだよ

今の価値観だと、奴隷など許されないとなるかもしれんけどな

大丈夫か?

価値観についての区別ついてるか?

anond:20220921092720

別に概念壊されてないんだよなぁ

カオスでなれるのがテラナイトなんだから

システム的には「悪」となってる

2022-09-17

学生運動が未だに叩かれ続ける理由って

お上に逆らうガキが気に入らないから、というのは数ある理由の中の一面でしかない。

一番の理由は「あれだけ騒動になっても社会を変えることが出来なかったから」だと思う。

要するに、敗戦たから。

大日本帝国軍は当時の世界では有数の強さの軍隊だったけど、戦争に負けたという一点だけで今でも叩かれ続けているのと一緒。

当時は負けたけど、後の歴史評価してくれるという意見もあるだろう。

しかし約20年後の1990年代初頭にソ連崩壊して共産主義全否定されたので、それも無理。

なので学生運動永遠「悪」として歴史に残り続ける。

2022-09-04

anond:20220903165646

この

ほぼイコールだしね」

にどれだけのゆがみがつまってるかよーーーーく自分で考えてほしいんよ

「悪ではなく自己管理」てのはすでに大人にとっては事実でしょ

なんで子供だけ「悪」とおもわされる(と元増田が思い込むことになった)のか

子供自身には管理能力がない場合が多いからです。

いじめ管理能力の欠如だし遅刻も8月31日の宿題ラッシュもそうです。

でもそれが子供ですから大人が「進捗?大丈夫ですよ」と嘘を報告すればおそらく悪ですが、子供なら子供であるがゆえに善であり単なる貴重な経験です。

うっかりエロネタ披露などの女性差別をしてしまってクラス女子あいつやな男ちかよらんとこエロが移ると差別しかえされるのも子供ゆえの特権ですし、少年法もあります

子供子供でいさせてさしあげろよ。子供子供権をやれ。無知権をやれ。

それでも最低限生存権を侵襲されそうな場合はある。性犯罪を犯したりおかされたりしないよう、ただただ最低限の科学事実だけを教えろ。

これに合うとしたらたぶん焼け跡のマリア手塚治虫)、生理ちゃん

など医者の監修のもとに性教育目的として書かれた漫画がいくつかあるけれど、生理ちゃん最初から18禁などではない。全年齢だよ。

子供によませたければいつよませてもいい漫画だ。たぶん読みたがらないけど。

普通の」魅力的なエロコンテンツはつっこむまえにコンドームまき下ろすどころか、相手に今生理かどうか聞くことさえしてないよ。論外だ。

 

おまえは地獄を出ようとしてロケットをつくろうとしているのかもしれないがおまえがいるそこは地獄ではなく単なる地球だしおまえの考えてるロケットこそ地獄だよ

2022-09-03

anond:20220902112636

言ってることは理論的には正しいと思うけど

結局そもそも「悪」だったとしたら駄目なのかどうかって言う意味増田がどの立場なのかがよくわからんと感じた。

悪ではあるんだろうし、その理由についてはちゃん説明されているんだろうけど、

まあそんなこといったら車を運転したらどうしても道交法違反ちゃうよね程度の話になりかねないと思う、この説明だけだと。

anond:20220903165646

緊張したり不安になると陰部を触ってしま性質を持った人というのは一定存在するんだけど

(どっかの芸能人もそうだったはず)

彼ら彼女らはだいたい親に「そんなところ触っちゃいけません」って怒られるのね

まり社会的に「自分の陰部を触る」ということ自体「悪」だと認識されているわけ

18禁コンテンツに触れる触れない関わらず「性に関わること全般」が「悪」として捉えられる実情がある

※実際には「公衆面前性的なことを行うことを悪としているのだが子供には判別がつきづらい」

もう20年前になるが、うちの家庭はドラマキスシーンが映るだけでチャンネルを変えられていた

子供たちは「性的なことは悪である」という英才教育を受けて育った「性的なことは悪であるエリートであり、

それは18禁コンテンツがどうこうということではなく

社会が「性的なこと」をどう受け止め、どう教育していくかというもっと大きな問題だと思うのね

 

これは子供たちが「自慰は悪である」という思い込みを受けてしまうことのみならず

自分身体性的な形に変化していくことが受け入れられない女子」のような

性の悩み全般につながる問題なんじゃないだろうか

母親の仲にも「自分の子供が勃起していることにショックを受け嫌悪感を抱いてしまった」という人がいるのね

ぶっちゃけ18禁15禁とかそういうことではなくて

もっと社会として性に対して成熟していく必要があるんじゃねーのと感じる

2022-09-01

anond:20220831122034

違うでしょ。

自分所属する団体「悪」の部分を自浄できなかったにすぎない。

その結果を引き出したのは山上でもあるが何より更生出来なかった教団と増田も含む、信者「も」共犯って認識でしょ。

結局自分達がやらかしてきた事に対してしっかりと直そうって考えには至らなかったなら結局、増田加害者側の一人でしょうに。

疑義を唱えたり、それはマズイと思いますよって組織に更生を促していたらスマンとはなるけど、そうじゃないなら教団と一緒の加害者だよ。

2022-08-25

『ただしさに殺されないために』という詭弁

饅頭の言う、『ただしさに殺されないために』ってやつ、あまりにも酷い詭弁だよな

何かさ、「昔は今なら発達障害と見なされるような弱い人間無能人間市民権を得られていた」って話題になると

「でも昔は今より喫煙し放題だったしセクハラパワハラも酷かった」という反論をよく聞く。

「そういったものを認めない潔癖で不寛容社会から、弱い人間無能人間排除するようになった」とも。

この理屈にどうも違和感あるんだよな。

そりゃ昔がパラダイスじゃないのは分かっているし、でも別に弱さを許す事と悪を許す事って不可分ではないでしょ?

弱い事や無能な事はそれ自体別に悪ではない。無能な人が、ミス遅刻忘れ物をするのはわざとではない。

寧ろ喫煙セクハラパワハラなんてのは『弱さ』とは真逆の、力を持つ権力者からこそ出来る事なのに。

社会が『正しさ』を求めた結果として弱い人間無能人間排除されるという理屈には何の論理的整合性もないし、もっともらしく見せ掛けているだけの詭弁だと思う。

本当に社会が『正しさ』を求めているのなら、寧ろ無能弱者に対しては寛容になってくる筈だよ。

故意犯罪セクハラ喫煙には断固として厳しい態度をとり、故意ではないミスの多さやコミュ障といった無能には寛容になるという社会理論的に十分成り立つ筈だ。まあ現実はどっちかっていうとその反対方向に向かっているが、どっちにしろ「悪」と「弱さ」は全くの別物であって「悪を許す事」と「弱さを許す事」もまた別物だ。

まあ、弱い人間がそれゆえに追い詰められて悪事を働く事だって勿論あるが、それはそれとして切り分けるべき。そういう人に対して必要なのは適切な更正や教育であり、悪事を許す事ではないと思う。

アンパンマンの作者やなせたかしが言ったように、正しさとはお腹が空いた相手食べ物を分け与える事だ。つまり正しさは人を生かすものなんだよ。

なのに『正しさ』が人を殺すなんていうのは明らかに詭弁。この世の中において不本意に殺されていく人が大勢いるのなら、それはこの社会が『正しく』なくて、弱者に対して不寛容からだと思う。

2022-08-11

anond:20220811134111

これは、『天気の子』や『リコリコ』のテーマに直接的につながる主張であることのように思えます


 また、SF作家のアーシェラ・K・ル・グィンはこのエピソードを踏まえた上で(彼女によれば書いているとき意識していなかったということですが)、「オメラスから歩み去る人々」という寓話的な短編を書いています(『風の十二方位』収録)。


 これは、あらゆることが完璧に成立した理想都市オメラスの物語なのですが、じつはオメラスには恐ろしい欺瞞があって、ある小さな穴倉にひとりの子供が精霊への生け贄として閉じ込められているのです。


 この子供はその暗い牢獄のなかであらゆる権利剥奪され、虐待され、自分自身の糞尿の上に寝そべって暮らしているのですが、オメラスの住人のだれひとりとしてこの子供に優しい言葉ひとつかけてやろうとはしません。


 というのは、精霊との契約により、もしこの子供を救ったらオメラスそのもの崩壊することになっているからです。オメラスの大半の住人はこの事実を知ったときショックを受けますが、そのうち忘れてしまます


 ただ、ごく少数の人々はそのことを忘れられず、ただオメラスを壊してしまうこともできなくて、ただ、ひとり静かにオメラスを歩み去るのです。


 『天気の子』を観た人なら、この作品がこの「イワンテーマ」、あるいは「オメラスのテーマ」に対してひとつの答えを出していることがわかるでしょう。この映画はまさに「欺瞞理想都市オメラスから歩み去るのではなく、それを崩壊させる」物語なのです。


 そしてまた、オメラスが崩れても、それでも人は生きていくという物語でもある。これは少なくとも公開当時としては決定的に新しい決断だった。


 たったひとりの子供を犠牲にして成り立つ平和繁栄があるとしたら、その子供ひとりを救うためにでもその平和繁栄は亡んでしまってかまわない。そういう倫理的判断がその背景にあるように思えます


 一方の『リコリコ』では、リコリスたちの犠牲を背景にして成り立つ「オメラス」としての東京、あるいは日本社会は必ずしも否定的に描かれてはいません。そのことを批判的に告発することはできるでしょう。


 しかし、ぼくはあきらかにリコリコ』はその批判をも織り込み済みで、意図して「現在日本社会現実」を描出していると考えます。したがって、単になぞの組織DA」や「アラン機関」の悪を批判告発するだけではこの作品を正しく批評したことにはならない。


 『リコリコ』が語っているのは、ぼくたちが依拠しているこの「平和日本社会」そのものひとつ欺瞞理想社会オメラスなのであり、少数の人間たち(それも子供たち)の犠牲の上で成り立っているという現実なのです。


 いい換えるなら、『リコリコ』はぼくたちに対して「ほんとうにわずかな子供たちを救うためにこの平和を崩しますか? 理想平和崩壊させますか?」と問いかけて来ているといっても良い。


 『カラマーゾフの兄弟』のイワンル・グィンの描く「オメラスから歩み去る人々」のように、ただ欺瞞ユートピアを拒絶するだけならためらわない人も多いでしょう。しかし、『天気の子』のようにそれを崩壊させてしま選択を選ぶことがほんとうに「絶対正義」でしょうか?


 リコリスたちは、だまされ、利用され、搾取されているかもしれないとはいえ、一面では誇りをもって戦っているというのに?


 まだ物語は途中で、放送は続いているので確定的なことは書けませんが、ぼくは『リコリコ』は『天気の子』のように欺瞞告発し、欺瞞ユートピアとしての「日本社会≒オメラス」を崩壊させて終わるような結末にはならないと思う。


 DAリコリスによって維持される日本平和醜悪なまでに欺瞞的ですが、それでも平和には違いないのであって、一概に否定して終わることができるものではないのです。


 ここら辺の「必要悪としてのディストピアユートピア」の描写アニメPSYCHO-PASS』に通じるものがあるといって良いでしょう。


 『PSYCHO-PASS』の世界でも、欺瞞的な平和が続いているわけですが、それは必ずしも「悪」として告発すれば良いというものではなく、それを倫理的に乗り越えるためには「より良い社会モデル」を提示するしかないわけなのです。


 そして『PSYCHO-PASS』はそういうSF的にマクロテーマを扱う方向に進んでいるけれど、『リコリコ』はたぶんそういう物語にはならないんじゃないか


 ここまで書いて来たことを踏まえた上で、『リコリコ』が決定的に新しいといえるのは、その欺瞞、その偽善、その矛盾にもかかわらず、作品トーンが非常にあかるいことでしょう。前出のインタビューを読む限り、このあかるさも意図して選択されたものであることがわかります


 しかし、それはただ「暗いとウケないからあかるくしてみた」といった次元の話ではない。『リコリコ』は表面的なあかるさと裏面の深刻な暗さが奇跡的なほどのバランスで成立していて、それがおそらくは人気のもとになっている。


 匿名ダイアリー批判されているように、ただ百合百合女の子たちにガンアクションやらせれば人気が出るなんてことは、じっさいにはありません。エンターテインメントはそんな甘いものじゃない。


 『リコリコ』の人気は、この「天国ユートピア)のようでもあり地獄ディストピア)のようでもある過酷欺瞞社会」を「当然の前提」として受け入れつつ、なおかつ「突き抜けたあかるさ」で描くその斬新さの帰結です。


 べつの見方をすれば、『リコリコ』は日本アニメ歴史のなかで延々と語られてきた『新世紀エヴァンゲリオン』、『輪るピングドラム』、『進撃の巨人』、『BANANA FISH』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』といった「孤児たちのサバイバル」を描く物語の最新バージョンともいえる。


 いいかげん長くなったのでこれらの作品の内実については触れませんが、つまりはこれらの凄愴な物語ではごくシリアスに語られていたことが、『リコリコ』では一見ライトコミカルに語られている。


 しかし、それは搾取問題が消えてなくなったことを意味していない。そうではなく、その残酷な(新自由主義的な?)構造を生まれながらにある所与の前提として受け止めている新世代が出て来ているということ。


 それが『リコリコ』の「新しさ」であり「面白さ」だというのがこの記事結論です。『リコリコ』と最も同時代的な作品は、いま「ジャンプ+」で連載されている『チェンソーマン』の第二部とかじゃないかな。


 以上! こういったことを批判的に踏まえてより高次な議論ができれば良いと思っています。でわでわ。

anond:20220811134111

これは、『天気の子』や『リコリコ』のテーマに直接的につながる主張であることのように思えます


 また、SF作家のアーシェラ・K・ル・グィンはこのエピソードを踏まえた上で(彼女によれば書いているとき意識していなかったということですが)、「オメラスから歩み去る人々」という寓話的な短編を書いています(『風の十二方位』収録)。


 これは、あらゆることが完璧に成立した理想都市オメラスの物語なのですが、じつはオメラスには恐ろしい欺瞞があって、ある小さな穴倉にひとりの子供が精霊への生け贄として閉じ込められているのです。


 この子供はその暗い牢獄のなかであらゆる権利剥奪され、虐待され、自分自身の糞尿の上に寝そべって暮らしているのですが、オメラスの住人のだれひとりとしてこの子供に優しい言葉ひとつかけてやろうとはしません。


 というのは、精霊との契約により、もしこの子供を救ったらオメラスそのもの崩壊することになっているからです。オメラスの大半の住人はこの事実を知ったときショックを受けますが、そのうち忘れてしまます


 ただ、ごく少数の人々はそのことを忘れられず、ただオメラスを壊してしまうこともできなくて、ただ、ひとり静かにオメラスを歩み去るのです。


 『天気の子』を観た人なら、この作品がこの「イワンテーマ」、あるいは「オメラスのテーマ」に対してひとつの答えを出していることがわかるでしょう。この映画はまさに「欺瞞理想都市オメラスから歩み去るのではなく、それを崩壊させる」物語なのです。


 そしてまた、オメラスが崩れても、それでも人は生きていくという物語でもある。これは少なくとも公開当時としては決定的に新しい決断だった。


 たったひとりの子供を犠牲にして成り立つ平和繁栄があるとしたら、その子供ひとりを救うためにでもその平和繁栄は亡んでしまってかまわない。そういう倫理的判断がその背景にあるように思えます


 一方の『リコリコ』では、リコリスたちの犠牲を背景にして成り立つ「オメラス」としての東京、あるいは日本社会は必ずしも否定的に描かれてはいません。そのことを批判的に告発することはできるでしょう。


 しかし、ぼくはあきらかにリコリコ』はその批判をも織り込み済みで、意図して「現在日本社会現実」を描出していると考えます。したがって、単になぞの組織DA」や「アラン機関」の悪を批判告発するだけではこの作品を正しく批評したことにはならない。


 『リコリコ』が語っているのは、ぼくたちが依拠しているこの「平和日本社会」そのものひとつ欺瞞理想社会オメラスなのであり、少数の人間たち(それも子供たち)の犠牲の上で成り立っているという現実なのです。


 いい換えるなら、『リコリコ』はぼくたちに対して「ほんとうにわずかな子供たちを救うためにこの平和を崩しますか? 理想平和崩壊させますか?」と問いかけて来ているといっても良い。


 『カラマーゾフの兄弟』のイワンル・グィンの描く「オメラスから歩み去る人々」のように、ただ欺瞞ユートピアを拒絶するだけならためらわない人も多いでしょう。しかし、『天気の子』のようにそれを崩壊させてしま選択を選ぶことがほんとうに「絶対正義」でしょうか?


 リコリスたちは、だまされ、利用され、搾取されているかもしれないとはいえ、一面では誇りをもって戦っているというのに?


 まだ物語は途中で、放送は続いているので確定的なことは書けませんが、ぼくは『リコリコ』は『天気の子』のように欺瞞告発し、欺瞞ユートピアとしての「日本社会≒オメラス」を崩壊させて終わるような結末にはならないと思う。


 DAリコリスによって維持される日本平和醜悪なまでに欺瞞的ですが、それでも平和には違いないのであって、一概に否定して終わることができるものではないのです。


 ここら辺の「必要悪としてのディストピアユートピア」の描写アニメPSYCHO-PASS』に通じるものがあるといって良いでしょう。


 『PSYCHO-PASS』の世界でも、欺瞞的な平和が続いているわけですが、それは必ずしも「悪」として告発すれば良いというものではなく、それを倫理的に乗り越えるためには「より良い社会モデル」を提示するしかないわけなのです。


 そして『PSYCHO-PASS』はそういうSF的にマクロテーマを扱う方向に進んでいるけれど、『リコリコ』はたぶんそういう物語にはならないんじゃないか


 ここまで書いて来たことを踏まえた上で、『リコリコ』が決定的に新しいといえるのは、その欺瞞、その偽善、その矛盾にもかかわらず、作品トーンが非常にあかるいことでしょう。前出のインタビューを読む限り、このあかるさも意図して選択されたものであることがわかります


 しかし、それはただ「暗いとウケないからあかるくしてみた」といった次元の話ではない。『リコリコ』は表面的なあかるさと裏面の深刻な暗さが奇跡的なほどのバランスで成立していて、それがおそらくは人気のもとになっている。


 匿名ダイアリー批判されているように、ただ百合百合女の子たちにガンアクションやらせれば人気が出るなんてことは、じっさいにはありません。エンターテインメントはそんな甘いものじゃない。


 『リコリコ』の人気は、この「天国ユートピア)のようでもあり地獄ディストピア)のようでもある過酷欺瞞社会」を「当然の前提」として受け入れつつ、なおかつ「突き抜けたあかるさ」で描くその斬新さの帰結です。


 べつの見方をすれば、『リコリコ』は日本アニメ歴史のなかで延々と語られてきた『新世紀エヴァンゲリオン』、『輪るピングドラム』、『進撃の巨人』、『BANANA FISH』、『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』といった「孤児たちのサバイバル」を描く物語の最新バージョンともいえる。


 いいかげん長くなったのでこれらの作品の内実については触れませんが、つまりはこれらの凄愴な物語ではごくシリアスに語られていたことが、『リコリコ』では一見ライトコミカルに語られている。


 しかし、それは搾取問題が消えてなくなったことを意味していない。そうではなく、その残酷な(新自由主義的な?)構造を生まれながらにある所与の前提として受け止めている新世代が出て来ているということ。


 それが『リコリコ』の「新しさ」であり「面白さ」だというのがこの記事結論です。『リコリコ』と最も同時代的な作品は、いま「ジャンプ+」で連載されている『チェンソーマン』の第二部とかじゃないかな。


 以上! こういったことを踏まえてより高次な議論ができれば良いと思っています。でわでわ。

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じるメタアイドルサバイバルアニメの傑作だ!

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。これは、『天気の子

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じる

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


https://www.amazon.co.jp/dp/478727449X/


 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。これは、『天気の子

リコリス・リコイル』はドストエフスキー児童搾取テーマに通じる

 ども、皆さん、アニメリコリス・リコイル』観ています? めちゃくちゃ面白いですね! 後世に残る名作かといったら必ずしもそうとはいえないと思うのだけれど、少なくとも「いま」、このときリアルタイムで見る作品としては破格に面白い


 一方でいったいこの面白さの正体は何なのだろうと考えてみてもうまく言語化できないわけで、何かこう、隔靴掻痒のもどかしさを感じないでもない。第一話を観た時点で直観的に「これは新しい!」と思ったのだけれど、その「新しさ」を言葉にしようとするとうまくいかない。


 そこで、以下ではなるべくていねいに『リコリコ』の「面白さ」と「新しさ」を的確な言葉に置き換えていきたいと思う。読んでね。


 さて、まず、いま人気絶頂の『リコリコ』についていえることは、これが何か非常に「不穏」なものを秘めた作品だということです。


 一見すると現代日本と同じように平和社会舞台にしているようで、そこでは「リコリス」と呼ばれる高校生くらいの女の子たちがその平和を守るために命がけで戦っている。そして、じっさいにどんどん死んでいる。


 このグロテスクともいえる構造が、第一話の冒頭の時点であっさりと、あたりまえのことであるかのようにライトかつスムーズ説明されている。


 しかし、もちろんこれはまったく「あたりまえのこと」ではありません。年端もいかない少女たちが銃を持って戦う。戦わされている。そこにはあからさまに倫理的問題がある。この「少女と銃」というコンセプトについて、原案アサウラさんはインタビューでこのように述べています


アサウラ:柏田さんが読んでくれていたのが僕の「デスニードラウンド」という小説で、これが最初から最後まで銃を撃ち続けるような作品なんです。それを読んで僕を呼んでくれたので、銃が出てくることは決まっていました。女の子と銃で何かをやってくれという感じだったと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656464389


 最初の時点から少女と銃」がメインコンセプトだったわけですね。すでに指摘されているとおり、この「少女と銃」というコンセプトには先行作品系譜があります虚淵玄最初期の作品として知られる『Phantom of Infelno』がそうだし、『NOIR /ノワール』などのアニメもある。


 現在アニメ業界ではもはや「美少女ガンアクションもの」はひとつジャンルといっても良いかもしれません。


 ちょっと現実的に考えればかぼそい体格の女の子がそうそう的確に銃を操れるわけがないと思えるわけですが、そこの違和感ねじ伏せてでも少女と銃を組み合わせることにはある種のフェティッシュな魅力があるのだと思います


 それらの先行作品のなかで、おそらく最も重要で、しかも『リコリコ』に近いのは相田裕の『Gunslinger girl』です。


 これは洗脳されてテロリストと戦う少女たちと、彼女たちとコンビを組んで戦う男性たちを描いた物語で、「平和社会を維持するため少女たちが陰で戦っている」というところが『リコリコ』と共通していますね。このタイトルは『リコリコ』の監督インタビューで直接的に言及されています


――足立さんが入って、物語が明るい空気になったそうですね。


足立アニメを見て暗い気分になったりするのは、今はあんまり求められていない気がするかなって…。自分DVD買うくらい『GUNSLINGER GIRL』が好きなだけに、そのフィールドでは勝てないと思いましたし、ポイントをずらしたほうがいいんじゃないですかねっていう話は初日にしたと思います


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 この言及を見ると、『リコリコ』と『Gunslinger girl』の設定上の共通項は意識的ものであることがわかります。ただ、その一方で「ポイントをずらした」と語られているとおり、『リコリコ』と『Gunslinger girl』には決定的な差異がある。


 ひとつパートナー役の大人がいないことで、もうひとつ少女たちが洗脳されておらず、自分意思戦闘に参加していることです。


 前者に関しては原案アサウラさんの作風かもしれません。アサウラさんは過去にも少女たちが「百合」的にコンビを組んで戦う作品を書いているようですから(筆者は未読)。


 しかし、決定的に重要なのは後者でしょう。『Gunslinger girl』の洗脳されて戦う少女たちに対して、『リコリコ』のリコリスたちは(少なくとも表面的には)自発的意思で戦っているわけです。


 もちろん、「自発的意思なのだから問題ない」ということにはならない。リコリスたちはみな孤児であり、「戦うことしか選択肢がない」状況に置かれているともいえる。リコリスたちが「大人」たちに搾取され、かりそめの平和のための犠牲として利用されていることは間違いないでしょう。


 きわめていびつかつ不自然かつ欺瞞的な構造です。このディストピア的ともいえる構造をどう見るかが『リコリコ』を批評的に判定するときひとつのカギとなる。この点に関して批判的に触れた記事はてな匿名ダイアリー投稿されています


前線少女と銃後の大人という構造からガンスリ(とかエヴァとかあのへん)の亜種として良いと思うが、それら先行作品と比べたときリコリス少女のみで構成される理由(※)や、少女前線に立たせる搾取構造に対する大人側の自覚とか罪悪感がすっぽり抜け落ちていてさすがに気味が悪い。


アサウラバニラのころからこういうところがあって、物語少女大人社会)という対比ではなく少女少女という2者間の関係性で回収することで、俎上に載せたはずの搾取構造をうやむやにしようとする。要するに百合を出せば他がザルでもオタクブヒブヒ鳴くんだろという作り手の舐めた態度がアニメから透けて見えてキモいという話なんだが、増上慢になるだけのウェルメイドな仕上がりになっていてそれもまたなんか鼻につく。


まあしかしこういうザ・老害みたいな感想を書くと自分老いを感じて嫌になるね。たぶん若い世代はああいうのなんの疑問も持たずスッと面白がれるんだろうな。


https://anond.hatelabo.jp/20220806182309


 しかし、これはぼくにはやはり表面的な批判に過ぎないように思える。「うやむやにしようとする」も何も、全然うやむやになっていないよね?と。


 「社会正義平和を守る組織」としてのDA欺瞞はあまりにもあきらかであり、ごく平凡な視聴者でも確実に気づくことではないでしょうか。じっさい、監督インタビューでもその点は触れられている。


――完成した作品を見ても、2人の関係性は大きな軸としてありました。ただ、DAという謎の組織が、犯罪を力で抑止しているというのも軸として描かれていますよね。


足立子供が銃を持って仕事をしているってことは、誰か大人に強いられているということになるでしょ?きっと悪い大人が、騙してるんだろう。「君たちは良いことをしてるんだぞっ」ってね。DAがしていることの是非は視聴者に考えてもらいたいところですね。


――それが第1話の冒頭で紹介されているわけですが、この世界の仕組み的なところは、とても面白い発想だと思いました。


足立:確かな事実として、日本世界の中でも極めて治安が良く平和で、その自認もありますよね。でもそれを支えているのが、全然知られていない闇の組織で、社会性の無い人を何千年も前から秘密裏に殺してきたから、規範意識の高い人しか子孫を残せなかった。だから日本人全体がだんだんそうなっていったんだ、みたいな設定はどうだろうかという提案をしたんです。監視社会に対するアイロニーあるかな


要するに、みんなが知っている事実を、大きな“ウソ”が支えていたという構造にしようと思って、DAがどんな組織なのかをアサウラさんに考えてもらったという感じですね。


https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1656605844


 ようは「大人たちが子供たちをだまして搾取している欺瞞構造」は制作者側により作品の一部として自覚的に提示されているのであって、単にその点を指摘するだけでは作品批評したことにはならないのです。


 そして、個人的感覚としては、まず大半の視聴者はその提示を正確に受け止めることができていると感じます。つまり、この欺瞞的なディストピアユートピア構造はこの作品を語る上で、気付かなくては話にならない「当然の前提」であり、そしてじっさいに大半の視聴者は気付いている。


 とすれば、この認識の上にさら議論を重ねていくべきでしょう。ちなみに、上記匿名ダイアリーでは「リアリティライン」が「ガバガバであるという指摘もなされていますが、これもあきらかに意図的ものでしょう。


 「現代日本では女子高生が最も警戒されないか子供たちに銃を持たせて戦わせることには合理性があるのだ!」という設定は控えめにいっても荒唐無稽というしかなく、通常の意味でのリアリティはまったくありません。


 さらにその女の子たちのうちのふたり喫茶店に勤めながら殺人が絡む仕事をしているって、いや、ふつうに考えればありえないとしかいいようがないでしょ。しかし、だからダメなのかといえばそうではない。


 このあからさまにめちゃくちゃな設定は『リコリコ』がリアルアクションストーリーというよりは一種寓話志向していると見るべきです。この作品はおそらく意図的ウソくさく、うさん臭い印象を与えるように設定が練り上げられている。


 そして、そのウソくささ、うさん臭さがひとつの魅力にまで昇華されている。だから、「リアリティがないじゃないか!」と指摘することには意味がない。まずはそこに込められた皮肉寓意を見て取るべきなのです。


 それでは、その欺瞞的かつ偽善的かつ人工的な、「まるでリアリティがない」設定と物語を通して『リコリコ』が描こうとしているものは何か。それは「子供犠牲にして成立している社会」の欺瞞だと考えます


 まさに上記匿名ダイアリー批判されている、子供たちを「消費」することで成立している日本アニメ産業欺瞞でもある。


 評論家杉田俊介は、新海誠監督映画『天気の子』について、このように書いています


ひとまず重要なのは、『天気の子』は、日本アニメ批判するアニメ、「アニメ化する日本現実」を批判するアニメである、ということだ。「アニメ化する日本現実」とは、少女人柱アイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである物語最初の方に、風俗店求人宣伝を行う「バニラトラック」が印象的に登場すること、陽菜チンピラに騙されて新宿性風俗的な店で働きかけることなどは、意図的演出だろう)。


https://gendai.media/articles/-/78976


 ぼくは杉田の『天気の子』論にはまったく賛同しませんが、ひとまずこの「見立て」は面白いと思う。


 杉田の指摘をこのようにいい換えてもまったく違和感がないのではないでしょうか。「「アニメ化する日本現実」とは、少女リコリスアイドル犠牲搾取によって多数派幸福となり、現実を見まいとし、責任回避するような現実のことである」。


 つまり、『天気の子』は、そして『リコリコ』もまた、日本アニメと、日本アニメに似た構造になりつつある(なってしまっている?)日本社会構造のもの批評的に設定に抱え込んだ「メタ日本アニメであるわけです。


 『リコリコ』の設定はあまりにも「リアリティがない」かたちで矛盾欺瞞偽善を抱え込んでいますが、それは視聴者に対する問題提起なのです。これは杉田が挙げている「アイドル」の問題とも一脈通じるものがあると思います


 その意味で、『リコリコ』は、じつは一種アイドルアニメなんですよ! な、なんだってー。まあ、それはひとつの「見立て」に過ぎませんが、じっさい、アイドル界隈のほうでもこの「ファンによるアイドルの抑圧」問題はしばしば議論されているようです。


 たとえば、『アイドルについて葛藤しながら考えてみた』というアイドル現象批評の本では、このような問題が取り上げられています


今日アイドルは広く普遍的な人気を獲得し、多様なスタイル可能性をもつジャンルとしても注目されている。しかし、同時に多くの難点を抱え込んでいることも見過ごせない。

暗黙の「恋愛禁止ルールとその背景にある異性愛主義、「年齢いじり」や一定の年齢での「卒業」という慣習に表れるエイジズム、あからさまに可視化されるルッキズムSNSを通じて四六時中切り売りされるパーソナリティ……。アイドルというジャンルは、現実アイドルとして生きる人に抑圧を強いる構造的な問題を抱え続けている。スキャンダルトラブルが発生して、旧態依然ともいえるアイドル界の「常識」のあり方が浮き彫りになるたび、ファンの間では答えが出ない議論が繰り返されている。


その一方で、自らの表現模索しながら主体的ステージに立ち、とき演者同士で連帯して目標を達成しようとするアイドルたちの実践は、人々をエンパワーメントするものでもある。そして、ファンのなかでも、アイドル本人に身勝手欲望規範押し付けることと裏表でもある「推す」(≒消費する)ことに対して、後ろめたさを抱く人が増えている。


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 アニメ場合美少女キャラクターたちは実在しないのでアイドル業界ほど問題は先鋭化しないようにも思えますが、そのキャラクターを支持しているはずのファンキャラクターに「身勝手欲望規範押し付け」て「消費」している構造は同じです。


 そして、その「大人たちが子供たちをだまして食い物にしている」欺瞞構造現在日本社会全体を象徴するものでもある。『リコリコ』や『天気の子』は(そして『Gunslinger girl』も)この問題テーマとして作品内にメタ的に胚胎しているといえます


 もっとも、この児童搾取問題は、文学的に見れば遥か昔の作品にも見て取れるものであり、きわめて普遍性の高いテーマであるということもできます


 この問題に関して文芸作品を振り返るとき、だれもが即座に思い浮かべるのがドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟であることは論を待たないでしょう。


 この小説のなかで、イワンカラマーゾフは、弟のアリョーシャに向かって、神話的な過去原罪を犯した人間たちは「神の国」へ迎え入れられるために苦しみを耐えなければならないというキリスト教論理を踏まえ、そんなことは子供たちには何の関係もないじゃないかと語ります


 そして、たったひとりの子供の苦しみを理由にでも、自分は「最高の調和」を拒絶するというのです。


 俺は一般的人類の苦悩について話すつもりだったんだが、むしろ子供たちの苦悩にだけ話をしぼるほうがいいだろう。俺の論証の規模は十分の一に縮められてしまうけど、それでも子供だけに話をしぼったほうがよさそうだ。もちろん、俺にとってはそれだけ有利じゃなくなるがね。しかし、しかし、第一相手子供なら、身近な場合でさえ愛することができるし、汚ならしい子でも、顔の醜い子でも愛することができる(もっとも俺には、子供というのは決して顔が醜いなんてことはないように思えるがね)。第二に、俺がまだ大人について語ろうとしないのでは、大人はいやらしくて愛に値しないという以外に、大人には神罰もあるからなんだ。彼らは知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、≪神のごとく≫になった。今でも食べつづけているよ。ところが子供たちは何も食べなかったから、今のところまだ何の罪もないのだ。


(中略)


 まだ時間のあるうちに、俺は急いで自己防衛しておいて、そんな最高の調和なんぞ全面的拒否するんだ。そんな調和は、小さなあの痛めつけられた子供一人の涙にさえ値しないよ!


 つまりイワンはここで子供犠牲にして成り立つユートピア欺瞞告発している。これは、『天気の子

2022-08-08

日本戦前戦時中に色々な宗教弾圧して来た歴史的経緯がある

治安維持法共産党を潰すために作られたとよく言われているが、同時に神道以外の宗教を潰すことにも発揮されてきた。

そのこと自体の是非には触れないが、その後に日本戦争に負けて戦前戦時中に行われたことすべてが「悪」という価値観になった。

戦後日本では、信教の自由新興宗教を潰すこと自体タブー社会になってしまった。

その結果、50人の死者と6000人の重軽傷者を出したオウム破防法で潰すことは出来なかった。

流石に教団幹部は全員捕まえて全員死刑にはしたけれど。

統一教会問題に手をつけられなかったのも、戦前宗教弾圧反動タブーなんだろうね。

そもそも統一教会自体が、日本統治時代の朝鮮半島にいた日本人(朝鮮人)が作った団体であり、そっち方面タブーでもある。

日本戦後レジームを清算するということは、統一教会問題解決することと同意義だ。

2022-07-18

anond:20220717231541

また親ガチャの話するけど、ここで増田のこと「親ガチャ失敗だね」って言っちゃうと「運が悪かったから苦労しても仕方ないね」って突き放すような気がしてやっぱり嫌だなと思った。

なんだろうな。そういうことじゃないんだよな。

俺の親が俺に対して「まともな親」でなかった理由は、親の親(つまり俺の祖父母)がやはりまともではなかったからなんだよな。それは「運が悪かった」としか言いようがないんだよ。増田が「運が悪かった」という言葉にどういう含意を感じ取ってるのかは知らないが、事実として運が悪かったんだよ。生まれた瞬間に決まっていて当人の力ではどうしようもなかったことだからな。

「今が幸せでありますように」というのも、純粋本心で言っているのだろうということは分かるが、無責任言葉に聞こえるね。こちらの事情を一切見ようとせずに「大変だったけどあの人は幸せになったんだ。よかったなあ」と増田自身勝手安心して自分世界から「運が悪い」ことを切り離して見ないで済むようにするための言葉に見える。

ちなみに、ここには書いてない明らかに「運が悪かった」としか言いようがない境遇もあと2,3抱えてるが。

自分の心を楽にするために、「弁当唐揚げが入ってなかったことを親ガチャ失敗と言う人間」みたいな本当に存在するのかも分からない完全に安心して叩き潰せる分かりやすくて弱い「悪」勝手仮想敵に設定して溜飲を下げているだけではないのか?

まともな親の下に育ったのならその程度の想像力は持って欲しいものだ。

2022-07-13

昭和的な清濁併せ吞みは、もはや存在が許されない

同意

IT化とスマホの普及で情報オープンになったことが大きいと思う。

いわゆる料亭政治のような密室談合が、忌避される時代になった。

それと同時に、正義とはなにか、民主主義とはなにか、を、親兄弟から言葉ではなく自分の目とインターネット確認できるようになったので、

とくに若者にとってはもう昭和方法は受け付けられないと思う。

2022-07-13

昭和の完全終了としての安倍氏の死

安倍氏の痛ましい死によって、彼個人の死を超える、何か非常に大きなものが失われたような感覚に襲われた。もちろん、元首相の選挙演説中の銃撃である以上、単なる殺人事件ではなく「民主主義危機」でもあるのだが、そんな表現さえ生易しく感じられた。その喪失感は何とも言えないもので、ふんわりとした不安とでも形容せざるを得ないものだった。

以下の記事自民党統一教会歴史的関係を知り、この正体が分かったような気がした。

勝共連合から続く歴史自民党は今すぐ旧統一教会(家庭連合)と手を切れ

この喪失感昭和の完全終了によるものだ。昭和的ないかがわしさ、清濁併せ吞むというあの狡さが完全に終わったのだ。

上記記事を読むと、何というか、次のような情景が浮かぶ戦後共産党勢力暴力に対抗するために、岸信介氏など自民党右派反共実力行使の手駒として統一教会支援したのだろう。旧ソ連崩壊中国資本主義化、近年ではベネズエラ惨状を見るにつけ、反共政策」は確かにしかったように思える。しかしそれは同時にカルト被害者をも産むものであった。まさに清濁併せ吞む昭和の一コマである

時代下り安倍氏の代でも関係は続いた。安倍氏はそれほど積極的には統一教会と関わっているようには見えないが、しかしそれでもビデオ演説を送るなどしていた。

銃撃事件本質逆恨みである。これは種々の報道が出た後も揺るがない。安倍氏統一教会に行ったことは、民事上も刑事上も何ら責任が問われるものではないからだ。

しかし一方で、安倍氏の振る舞いは国会議員としては無責任に極まりない。例えば彼が統一教会演説ビデオを送ったことで、少なくとも信者には、統一教会には社会的信用があるという印象を与えてしまった。あまつさえ上記記事によると安倍氏に近い議員の中には統一教会選挙支援を受けていた者もいるという。件の容疑者がこの状況を見て、どう考えるか。

正直、逆恨みする気持ちも分かる。こんなことは言いたくないが、どうしても因果応報という言葉が頭をよぎる。

繰り返すが安倍氏と彼に近い人たちの振る舞いには全く違法性がなく、今回の銃撃事件裁判情状酌量余地としても一切考慮されないだろう(左派系の弁護士達がアベンジャーズみたな弁護団を結成し、安倍氏統一教会との関係執拗に指摘して死刑回避に全身全霊を傾けると思うが)。しか安倍氏政治的業績は、統一教会との関わりによって大きく割り引かれることは避けられまい。

昭和的な清濁併せ吞みは、もはや存在が許されない。振り返ってみるとここ十数年の種々の動きは、昭和を完全にお役御免にしようとしていたのではないか。例えば暴排条例による暴力団の無差別排除憲法9条改正による自衛隊明記。暴力団は古くは警察が使い、高度経済成長後は企業民間人が使っていた「濁」であった。それは、治安維持民事問題の迅速な解決という「清」のための必要悪であった。憲法9条第2項の文言普通に解釈すれば自衛隊違憲という「濁」になるのに、安全保障という「清」のためにスルーされた。

でもそれはおかしいでしょう。暴力団という「濁」は単に「悪」でしょ。東日本大震災で命を張っていた自衛隊を「濁」扱いするのは流石に申し訳なく、正々堂々と「清」の側に立たせるべきでしょ。そのような感覚が暴排条例自衛隊憲法明記、そして今回の事件につながったのではないか

昭和が完全に終わる。今後、昭和的な清濁併せ吞みに実は支えられていたアレやコレやが、突然崩壊するのを我々は目撃することになるだろう。

anond:20220713225148

昭和の完全終了としての安倍氏の死

安倍氏の痛ましい死によって、彼個人の死を超える、何か非常に大きなものが失われたような感覚に襲われた。もちろん、元首相の選挙演説中の銃撃である以上、単なる殺人事件ではなく「民主主義危機」でもあるのだが、そんな表現さえ生易しく感じられた。その喪失感は何とも言えないもので、ふんわりとした不安とでも形容せざるを得ないものだった。

以下の記事自民党統一教会歴史的関係を知り、この正体が分かったような気がした。

「勝共連合」から続く歴史、自民党は今すぐ旧統一教会(家庭連合)と手を切れ

この喪失感昭和の完全終了によるものだ。昭和的ないかがわしさ、清濁併せ吞むというあの狡さが完全に終わったのだ。

上記記事を読むと、何というか、次のような情景が浮かぶ戦後共産党勢力暴力に対抗するために、岸信介氏など自民党右派反共実力行使の手駒として統一教会支援したのだろう。旧ソ連崩壊中国資本主義化、近年ではベネズエラ惨状を見るにつけ、反共政策」は確かにしかったように思える。しかしそれは同時にカルト被害者をも産むものであった。まさに清濁併せ吞む昭和の一コマである

時代下り安倍氏の代でも関係は続いた。安倍氏はそれほど積極的には統一教会と関わっているようには見えないが、しかしそれでもビデオ演説を送るなどしていた。

銃撃事件本質逆恨みである。これは種々の報道が出た後も揺るがない。安倍氏統一教会に行ったことは、民事上も刑事上も何ら責任が問われるものではないからだ。

しかし一方で、安倍氏の振る舞いは国会議員としては無責任に極まりない。例えば彼が統一教会演説ビデオを送ったことで、少なくとも信者には、統一教会には社会的信用があるという印象を与えてしまった。あまつさえ上記記事によると安倍氏に近い議員の中には統一教会選挙支援を受けていた者もいるという。件の容疑者がこの状況を見て、どう考えるか。

正直、逆恨みする気持ちも分かる。こんなことは言いたくないが、どうしても因果応報という言葉が頭をよぎる。

繰り返すが安倍氏と彼に近い人たちの振る舞いには全く違法性がなく、今回の銃撃事件裁判情状酌量余地としても一切考慮されないだろう(左派系の弁護士達がアベンジャーズみたな弁護団を結成し、安倍氏統一教会との関係執拗に指摘して死刑回避に全身全霊を傾けると思うが)。しか安倍氏政治的業績は、統一教会との関わりによって大きく割り引かれることは避けられまい。

昭和的な清濁併せ吞みは、もはや存在が許されない。振り返ってみるとここ十数年の種々の動きは、昭和を完全にお役御免にしようとしていたのではないか。例えば暴排条例による暴力団の無差別排除憲法9条改正による自衛隊明記。暴力団は古くは警察が使い、高度経済成長後は企業民間人が使っていた「濁」であった。それは、治安維持民事問題の迅速な解決という「清」のための必要悪であった。憲法9条第2項の文言普通に解釈すれば自衛隊違憲という「濁」になるのに、安全保障という「清」のためにスルーされた。

でもそれはおかしいでしょう。暴力団という「濁」は単に「悪」でしょ。東日本大震災で命を張っていた自衛隊を「濁」扱いするのは流石に申し訳なく、正々堂々と「清」の側に立たせるべきでしょ。そのような感覚が暴排条例自衛隊憲法明記、そして今回の事件につながったのではないか

昭和が完全に終わる。今後、昭和的な清濁併せ吞みに実は支えられていたアレやコレやが、突然崩壊するのを我々は目撃することになるだろう。

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