はてなキーワード: 療育とは
いろいろ育児漫画を読んでみて、一口に「育児漫画」と言っても様々なジャンルがあることがわかった。
子供が面白いことした、育児のココが大変、でも子供かわいいよねーという普通の内容。漫画やエッセイが上手な人の育児記録は面白いが大して面白くない人のは面白くない。子供のニックネームで気合いが入っているものよりそうでないほうが面白い場合が多い。例えば「コマチちゃん、ホシくん」より「いちえ、じろう」くらいの気の抜けたニックネームが力が抜けててエピソードがわかりやすい。
主に発達障害と診断されるまでという内容が多い。行政の手続きや療育関係、発達支援のノウハウなど専門的な話が多い。よく下記の愚痴漫画と自己嫌悪漫画を併発する。
子供かわいいよねを主体にしながら裏に夫や社会への恨みが隠しきれてない漫画。最近は「夫も付き合いで疲れてるのよね」というカウンター的な内容も見られなくもないが、「私が大変なのは基本的に世の中が悪い!」という風潮。子供主体ではなく母親視点が多いとこのジャンルになりがち。
普通の育児漫画のフリをして「自信のなかった私だけど育児をして視野が広がりました!」という自己啓発に近い内容のもの。いわゆる白ハゲ的な話題になりがち。そのまま毒親体験記にシフトチェンジしてもおかしくない内容。常に昔の自分がいかにダメな人間か語るところから始まりがち。
家事は分担、合理化しましょうという愚痴漫画と自己嫌悪漫画の昇華タイプ。やたらと「うちはホワイトボードでタスクを確認」「消耗品の管理もお互いに」「苦手なことはしない、得意な人がやる」などキラキラした家事育児内容が展開されるが、上手に書かないと「意識高い系(笑)」と紙一重なのでかなりの技量が必要なジャンル。「ズボラ」という言葉が大好き。ここでのズボラは大抵謙遜の意味で使われがち。冷凍食品やベビーフードの宣伝をしがち。
元々漫画家だった人が育児漫画を書くもの。書く人が漫画家なので大体面白い。
架空の人物が子育てをしながら社会に立ち向かう漫画。義両親などの胸糞展開をスカっとさせる系の話になりがち。子育てメディアで連載しがち。
普通の育児漫画を装い、過度にネタを放り込んだり子供のキャラを過度に作っていたりと育児エッセイと言うよりアクセス数のために子供のエピソードを使っている感じがぷんぷんするブログ。ブログ周りがやたらとごちゃごちゃしがち。絵に力は入っているのにあまり面白くないことが多い。
ザ・コンサルタントっていうアメリカで発達障害が主人公の映画あったけど
医者がこの子は発達障害なんで療育と投薬治療で何とか普通の生活をできるようにしましょうとか言ってるのに
オヤジが息子の主人公と医者に向かって「発達障害なんていう障害者であるこの子が普通の人生を歩めると思ってるんですか」とか言ってて
結果的に、無茶苦茶戦闘技術とか諜報技術や会計士としてマネロンスキルとか仕込んで、殺し屋とか職業犯罪者して生計立てられるようにしてたって内容の映画なんだけど
発達障害みたいなのを使い物にするための研究が世界一進んでるアメリカですら、ネットでここ数年いっぱいいる自己意識が毒虫のように肥大化した発達障害の望む願望をかなえる程度に生きるキャリアを考えたらこういう仕事させるしかないって結論なのが見ててなんか引っかかるものがあった
まぁ、発達障害めっちゃ多いはてなでさえ、動くものすべてを攻撃し始めて最後は無関係なオッサンを包丁持って刺し殺しにいって捕まったジョジョのノトーリアスBIGみたいな思考回路の低能先生とか、
発達障害のくせに思いあがって、富裕層でもそんなの手に入れられてるの中々いねーよっていうクラスの金や異性や社会的地位とかを欲しがって「こうなればテロや暴力しかない」とか煮詰まった増田とか見てたら
アメリカはまだこういう特殊工作員でも仕事あるからいいよなーって思うよね、だって日本じゃ発達障害は職業的犯罪者以外生きる特性がありませんとか言われたら、そんなん実質死刑宣告やん
まだ昭和なら、ソ連から雇ってもらって日本赤軍みたいなテロリスト路線で食えてただろうに今そんな時代でもないし、ホント発達障害には生きづらい時代だよね
2歳を過ぎてから子供が落ち着きが無い感じがあり、自治体の子育て相談みたいなところでポロッとそんな話をしたところ「療育というものがあるので行ってみては」とめっちゃ勧められた。
当時は療育というのを全く知らなかったのでちょっとネットで調べてみたところ「発達に問題がある子どもが自立した生活を送れるようにするための支援」とかいう記述を発見しひっくり返ってしまった。
自分も子供の頃にとても落ち着きが無い方だったので「この程度は個人差なのでは…」と思っていたので、そのときは療育というものをスルーしていた。
で、しばらくして保育園の健康診断時に小児科の先生から「保育相談の上、療育を検討しては」という旨の紙が届いて再びひっくり返ってしまった。
どうやら保育園の先生方から小児科の先生にいろいろな「ご相談」が行っており、そのような診断(という程のものではないが)が下ったようだった。
最初は前回と同じく「いやいや、個人差でしょう…」と思っていたのだけれど、保育園の先生と面談をした結果「理由もなく常に走り回っている」「物音に敏感すぎて昼寝が出来ない」という、冷や汗ダラダラな状況を伝えられてしまった。
親の欲目で「走るのが好きな子だなー」「なんか夜トイレ行くだけでガバッと起きるのすごくない?」と思っていたけれども、数多くの子供を見ている保育士が昼間の行動の大部分を見て「育てにくし」と太鼓判を押しているのだから、療育とやらを受けてみたほうが良いのかもしれない、と夫婦で決意。
もっとも聞くところによると、最近では療育はかなりカジュアルに勧められているとのことだった。
曰く「親が育てにくいと感じたり、集団行動に馴染めないまま放おって置くと、怒られが多くなり、自己評価が低くなってしまう。その結果問題行動が増え、発達に問題が生じてしまうこともある。ちょっと育てにくいとか集団行動に馴染みにくいという段階で早めに療育を行うことで、問題行動を防ぎ健やかな発達を促す」とかなんとかそういう感じらしい。※厚生労働省の「児童発達支援ガイドライン」なるものにも「障害の有無に限らず発達の盛んな時期に発達を支援するのはめっちゃ大事」という事が記入してあるらしい。
自治体によって条件などは違うらしいが、最近はちょっとでも「育てにくし?」と思ったら療育という選択肢が発生するらしい。
前置きが長くなったが、そんな感じで療育を受けさせたのだがめっちゃ良かったのでちょっとでも「育てにくしかも?」と思ったらガンガン相談して受けてみてほしい。
以下良かった点を挙げる。
保育園で一人の保育士さんが見る園児数は、1〜2才児で6名、3歳で20名。←今調べた
が、療育に見学に行ってまずビビったのが園児に対する職員の多さ。
施設によって差はあると思うが、僕らの行った施設では未就学児のクラスは1人の職員で1〜2名の子供を見ていた。
保育園は見る児童数が多いので、落ち着きがない子などは結構大声で怒られている(こどもも自分を叱る言葉を覚えて帰ってくるw)。
一方療育施設では基本大声を上げる先生はおらず、本当にだめなことをしたときにそっと部屋の隅へ連れて行って諭していた。
うちの子が通っている施設は全員が保育士で無いっぽいんだけど、見る人数が多いことでこのような余裕のある指導が出来るんだなーと感心した。
これは施設の方針によって違うかもしれないけど、基本的に子供の行動が全承認されていてぶったまげた。
上にもある通り、本当にだめなことや、少しづつ改善していくべきことは穏やかに少しづつ諭している。
で、何かちょっと出来たらスタッフ全員でめちゃくちゃ褒めてる。
お家だとどうしても触っちゃだめなものが多かったりするのでついついあれだめこれダメになってしまうのだけど、こういう場があるだけで本人の自己評価めちゃくちゃ上がるだろうなと感心した。
保育園でも一応絵を描いたりとか色々やっているんだけど、療育だとセラピーと称した様々な体験が出来るらしい。
ここは施設によって結構特色が出るところらしいので、色々見てみると面白そう。
うちのところはペットセラピーとかミュージックセラピーとかボルダリングっぽいのもあるらしい。
保育園ではなかなか行われないプログラムを体験できるのは子供にとってめっちゃいい刺激になるなーと思っている(小並感)。
おそらく早期療育の肝はここなのでは?と個人的に思っているポイント。
うちは結構親バカな方だとは思っているんだけど、それでも保育園から「お困りごと」を聞く機会が増えると「うちの子そんなに大変なの…」とシュンとしてしまう。
ところが療育に行くと、めちゃくちゃ子供褒められる。
「もう〇〇出来るようになりましたよ!すごいですね〜!」とかは当たり前。
落ち着いて一つのおもちゃで遊べずいろいろなものに興味が移ってしまうという話をしたところ「いろいろなものに興味が持てるんですね〜すごいです!」…いやいや全肯定かよ!
本当に褒められてばかりなので、親のテンションもめっっっっちゃ上がってしまう。
というわけで、さほど期待せずに利用したところ子供どころか親がめっちゃ自己評価上がって良かったので、ちょっとでも育てにくし?と思ったら療育を検討してみて欲しい。
一応自治体によって利用できるラインには違いがあるらしく、うちの自治体は医師の診断などなくても利用が出来た。※自治体によっては必要な所があるらしい
保育園や自宅に送迎してくれる施設も多いらしい。
突然下品な話になるけれども、保育園を経営している知り合いの社長が、近々児童発達支援施設にも手を出すらしい。
どうも企業主導型保育園に引き続き、こういった児童発達支援施設にも政府からお金が落ちているらしく、まあまあ儲かるとのこと。
確かにこういった施設はうちの自治体でもここ1〜2年で増加している。
資本のあるところはプログラムや職員にチカラを入れて質が上がっていくと思うので、時間をかけてより良い施設を探してみるのも良いと思う。
夫はよくやってくれている
私の方は圧倒的に体力が足りない
仕事もフルタイム(時短勤務だけど残業で実質フル稼働)とはいえフルリモートなのに
そういう特性
なので寝込んでも夫は舌打ちしながらため息をつくし、子供たちは起きろと頬を思い切り叩いてくる
家族全員叩きながら大好き愛してるなど本気でいう
そういう特性
療育はもちろん行っている
だいぶマシになってきた
眠れないのが良くない
運が良ければ朝5〜7時まで眠れるかな
眠りたくても一度起きれば脳がフル稼働する
病気かもしれない
辞めるなら
の順番で
でもきっと仕事をやめれば夫は私を無能扱いするし生活費を貰ってないのにどうやって生きていけばいいのか
家事 もう殆どロボットと惣菜だよりなんだから辞めてるようなものだろう
やっぱり全部やるしかない
でも体力がない
時間がない
どうしたらいい
金?
時短勤務の年収300切ってて生活費貰ってない私にお手伝いさんなんて無理だろ
親?居ない
もう疲れた
何もかも捨てたい
でもお母さんがんばるわ
夫に「そんなに疲労感むき出しにされるくらいなら仕事辞めてほしいんだけど(とてつもなく迷惑そうな顔)」って言われたけど
お母さんがんばるわ
お母さんがんばるわ
うん、がんばるしかない
生きる
明日生きてみて、大丈夫で、また明日も頑張ってみて、を繰り返せばいつかは落ち着くかもしれないじゃないか
だから生きる がんばる
お母さんがんばる
もうすぐ3歳半になる甥っ子はまだ言葉が出ていない。
息子がその甥っ子と遊ぶ(というか世話を焼いている?)のが好きなようで、時々義実家で会っている。
悩んでいるのは、甥っ子のママ(同い年の義姉)との会話。
基本的に私から質問することはないけれど、向こうから「どんな幼稚園に行ったら良いか」「キライなものを食べさせるにはどうしたら良いか」といった世間話の流れから色々な悩みを聞くことがある。
専門家でもない私がアドバイス出来ることなんてないので基本はそうなんだ、それは大変ですね、とか他愛のない相槌しか打てない。
息子も1歳半検診で言葉が出ていなくて悩んだので、3歳を過ぎても言葉が出ないことに悩む気持ちは……想像しか出来ないけど。
「早く話せるようになると良いんだけど…」と涙ぐんでたのを見るとすぐに言葉が出なかった。「甥っ子くん毎日頑張ってますもんね。最近私にも笑いかけてくれて嬉しいです。」と言ったが傷つけなかっただろうか。
療育にも通っているようなので本当に私からは言うことがないし、言うつもりもないんだけど、どんなスタンスでいてほしいのだろう?
親戚だから長い付き合いになるだろうし、悩む。
「いつも息子が甥っ子くんに会うのを楽しみにしてるんです」と言うと喜んでくれたし、息子も喜んでいるので息子が望む限り今の関係を続けようと思っているけど、合ってる?
義姉とは別に義母から時々「甥っ子くん座ってられなくて教室から出ていっちゃうらしいのよ」とか「幼稚園辞めるんだって」とか聞くんだけど、そっちにもどう反応して良いのやら…
anond:20210506234730を読んで、書いておこうと思った。
弱者女性を名乗る人々が精神障害持ち男を「でも理解のある彼女さんが」と、積極的に叩いて来たことは忘れないし、いくら弱者女性が辛そうにしていても「所詮弱者女性は自分の不幸を理由に人の不幸(精神障害)を軽んじ、嘲笑する人間性だからな」と思い続けるだろう。
そして今現在の心境としては、弱者女性がいくら辛そうにしていても絶対に手を差し伸べたくないと思っている。
思っている、というよりは
わたしは普段の生活において、「人に親切にしよう、人に気を配ろう、(いくらかの定型発達の人々が無自覚にするような)人を追い込むような真似はやめよう」と積極的に気をつけて生きているつもりだ。別に、不幸な人々を負け組と嘲笑し生きるような人柄ではない。しかし、弱者女性を名乗る人々の言動を見るうちに、「弱者女性は、こんな言動をしていたんじゃ差し伸べられる手も差し伸べられないだろうな」という感情が「誰が手を差し伸べるか」という気持ちに変化していた。
正直なところ、わたしは手を差し伸べられると、差し伸べるほどの余裕や能力があるとは言い切れない。だから、わたしがどう思おうと関係のない話かもしれない。
弱者女性には弱者女性なりの辛さがあるのだろう。それは、男性であるわたしには男性なりの辛さがあって、発達障害であるわたしには発達障害なりのつらさがあるのと同じだろう。わたしの辛さが弱者女性に完全に理解できるものだとは思わないし、わたしもまた弱者女性の辛さは理解できない。
弱者男性たるわたしと、弱者女性どちらが辛いかはわからない。測り、比べられるものだとも思えない。
しかし、弱者女性たるあなたがが辛いのだと主張すれば、辛いのだろうなと思うことぐらいはできる。「そうなんですね」程度の相槌は打てるだろう(それがわたしのコミュニケーショ能力の限界だ)。
これがわたしの線引きだ。これ以上はもう手を差し伸べたくない。
わたしが男だからか、は知らぬが「理解のある彼女さん」を作ろうと思えば作れるだけの性的価値とやらはあったかもしれない。
だがアセクシャル、アロマンテイックの自分にとって、理解のある彼女さんは不要だった。欲しいと思えなかった。
高校時代に鬱で心療内科にかかり、(ずっと怖くて診断を避けていた)発達障害の診断を受け、障害を受容し、社会で人並み程度に働けるようになるまでには多大な苦しみと努力があった。
わたしは普通には働けないのではないか、障害者雇用を選ぶべきではないか、そもそも、社会に出るべきではないのではないか、周囲が言うようにわたしは女性に養われるべきなのか、そのために好きになれない異性相手に理解し難い恋愛感情を偽装し結婚するべきなのだろうか……
人からすれば大したことのない悩みかもしれないが、わたしにとっては生涯を通して付き纏うだろう悩みだ。
「結婚という逃げの選択肢があるだけマシ」と言われるかもしれないが、その選択肢を負わねばならない人間にもそれなりの辛さがある。
結婚したくもないのに、結婚しなければ嘲笑される。養われたくもないのに、養われれば良い、養われるべきだ、養われないなんて、選べるのにこれを選ばないなんてバカだ、選べたのに選ばなかったなんて大バカだ、と謗られる。その風当たりは歳を取れば取るほどきつくなるのかもしれない。
辛いことだ。
弱者女性の「でも男は理解のある彼女さんが」は、大変不愉快で腹立たしく、そして不安な気持ちにさせるものだった。誰に対して言ったわけでもない、自嘲混じりの嘆きだったのかもしれないが、実在個人に当たる弾だったのだ。
わたしのようにアセクシャルでない障害者男性にとっても、失礼な言葉だと思う。
女性からの恋愛対象に該当するような男性になることは、フリをすることは努力が必要だ。金も、服装も、正しい話題選びも、普通の男性らしいふるまいをすることも、普通の男性らしいコミュニケーション能力を身につけることも、とても困難な男性達はいる。普通の男性に、普通に「価値がある」男性に、擬態する努力は何も異性から好かれるためではない。人並みに扱われるために不可欠な努力だ。「理解のある彼女さん」も「性的価値」も男ならば必ず初めから手に入るものではない。努力あってのものだ。
理解のある彼女さん、に好かれ、関係を維持している障害持ち男性は、自分の努力を語るにも周囲への感謝を欠かさない素晴らしい人だろう。
(正直な話、わたしだってアセクシャルとして、恋愛脳の異性愛者は結局「彼女さん」か、とうんざりしていたし、理解のある彼女さんに頼る甘えたバカ男のせいで自分の辛さが矮小化されるわけで恨みしかないわけだが、)理解のある彼女さん持ちの障害者男にとっても「お前らは理解のある彼女さんがいるからいいよな」は不快な言葉だったろう。
さまざまな精神障害が認知され、発達障害を持っていても療育によって働ける男性は増えていくだろう。異性に頼らずに生きる障害者だって、この世にいるのだ。
あなたがたは、ーーーあなたではないかもしれないが例えそうだとしても、弱者女性の名で、精神障害持ちの男性にたいして発してきた言動は、無かったことにはできない。
弱者女性の辛さを、弱い立場の男性を叩く正当化の材料にしたこと。自分の辛さを人への加害の理由にする、品位の無さ。
弱者女性は、弱者女性を名乗る幾人かの言う通り、ごく一部の自称・弱者女性がそうした言葉を発しているだけなのかもしれない。
弱者女性に寄り添う顔をして、(※フェミの反対の概念がない)叩き男叩きに興じる悪がいるだけなのかもしれない。
しかし弱者女性が、はっきりと、それを否定・批判しているは見たことがない。
例えたった1人でも、過去の(あなたもしくは弱者女性を名乗る他人の)発言を批判するならばわたしも考えを変える努力をしようと思う。
anond:20210509075626に追記を書きしました。
anond:20210506123407を読んで、書いておこうと思った。
弱者男性を名乗る人々が精神障害持ち女を「でも理解のある彼氏くんが」と、積極的に叩いて来たことは忘れないし、いくら弱者男性が辛そうにしていても「所詮弱者男性は自分の不幸を理由に人の不幸(精神障害)を軽んじ、嘲笑する人間性だからな」と思い続けるだろう。
そして今現在の心境としては、弱者男性がいくら辛そうにしていても絶対に手を差し伸べたくないと思っている。
思っている、というよりは
わたしは普段の生活において、「人に親切にしよう、人に気を配ろう、(いくらかの定型発達の人々が無自覚にするような)人を追い込むような真似はやめよう」と積極的に気をつけて生きているつもりだ。別に、不幸な人々を負け組と嘲笑し生きるような人柄ではない。しかし、弱者男性を名乗る人々の言動を見るうちに、「弱者男性は、こんな言動をしていたんじゃ差し伸べられる手も差し伸べられないだろうな」という感情が「誰が手を差し伸べるか」という気持ちに変化していた。
正直なところ、わたしは手を差し伸べられると、差し伸べるほどの余裕や能力があるとは言い切れない。だから、わたしがどう思おうと関係のない話かもしれない。
弱者男性には弱者男性なりの辛さがあるのだろう。それは、女性であるわたしには女性なりの辛さがあって、発達障害であるわたしには発達障害なりのつらさがあるのと同じだろう。わたしの辛さが弱者男性に完全に理解できるものだとは思わないし、わたしもまた弱者男性の辛さは理解できない。
弱者女性たるわたしと、弱者男性どちらが辛いかはわからない。測り、比べられるものだとも思えない。
しかし、弱者男性たるあなたがが辛いのだと主張すれば、辛いのだろうなと思うことぐらいはできる。「そうなんですね」程度の相槌は打てるだろう(それがわたしのコミュニケーショ能力の限界だ)。
これがわたしの線引きだ。これ以上はもう手を差し伸べたくない。
わたしが女だからか、は知らぬが「理解のある彼くん」を作ろうと思えば作れるだけの性的価値とやらはあったかもしれない。
だがアセクシャル、アロマンテイックの自分にとって、理解のある彼くんは不要だった。欲しいと思えなかった。
高校時代に鬱で心療内科にかかり、(ずっと怖くて診断を避けていた)発達障害の診断を受け、障害を受容し、社会で人並み程度に働けるようになるまでには多大な苦しみと努力があった。
わたしは普通には働けないのではないか、障害者雇用を選ぶべきではないか、そもそも、社会に出るべきではないのではないか、周囲が言うようにわたしは男性に養われるべきなのか、そのために好きになれない異性相手に理解し難い恋愛感情を偽装し結婚するべきなのだろうか……
人からすれば大したことのない悩みかもしれないが、わたしにとっては生涯を通して付き纏うだろう悩みだ。
「結婚という逃げの選択肢があるだけマシ」と言われるかもしれないが、その選択肢を負わねばならない人間にもそれなりの辛さがある。
結婚したくもないのに、結婚しなければ嘲笑される。養われたくもないのに、養われれば良い、養われるべきだ、養われないなんて、選べるのにこれを選ばないなんてバカだ、選べたのに選ばなかったなんて大バカだ、と謗られる。その風当たりは歳を取れば取るほどきつくなるのかもしれない。
辛いことだ。
弱者男性の「でも女は理解のある彼氏くんが」は、大変不愉快で腹立たしく、そして不安な気持ちにさせるものだった。誰に対して言ったわけでもない、自嘲混じりの嘆きだったのかもしれないが、実在個人に当たる弾だったのだ。
わたしのようにアセクシャルでない障害者女性にとっても、失礼な言葉だと思う。
男性からの恋愛対象に該当するような女性になることは、フリをすることは努力が必要だ。メイクも、服装も、正しい話題選びも、普通の女性らしいふるまいをすることも、普通の女性らしいコミュニケーション能力を身につけることも、とても困難な女性達はいる。普通の女性に、普通に「価値がある」女性に、擬態する努力は何も異性から好かれるためではない。人並みに扱われるために不可欠な努力だ。「理解のある彼くん」も「性的価値」も女ならば必ず初めから手に入るものではない。努力あってのものだ。
理解のある彼くん、に好かれ、関係を維持している障害持ち女性は、自分の努力を語るにも周囲への感謝を欠かさない素晴らしい人だろう。
(正直な話、わたしだってアセクシャルとして、恋愛脳の異性愛者は結局「彼くん」か、とうんざりしていたし、理解のある彼くんに頼る甘えたバカ女のせいで自分の辛さが矮小化されるわけで恨みしかないわけだが、)理解のある彼くん持ちの障害者女にとっても「お前らは理解のある彼くんがいるからいいよな」は不快な言葉だったろう。
さまざまな精神障害が認知され、発達障害を持っていても療育によって働ける女性は増えていくだろう。異性に頼らずに生きる障害者だって、この世にいるのだ。
あなたがたは、ーーーあなたではないかもしれないが例えそうだとしても、弱者男性の名で、精神障害持ちの女性にたいして発してきた言動は、無かったことにはできない。
弱者男性の辛さを、弱い立場の女性を叩く正当化の材料にしたこと。自分の辛さを人への加害の理由にする、品位の無さ。
弱者男性論を歪めてきたのは誰か、よく考えて欲しい。
弱者男性は、弱者男性を名乗る幾人かの言う通り、ごく一部の自称・弱者男性がそうした言葉を発しているだけなのかもしれない。
弱者男性に寄り添う顔をして、フェミ叩き女叩きに興じる悪がいるだけなのかもしれない。
しかし弱者男性が、はっきりと、それを否定・批判しているは見たことがない。
例えたった1人でも、過去の(あなたもしくは弱者男性を名乗る他人の)発言を批判するならばわたしも考えを変える努力をしようと思う。
ただ、それ以降は上手く行ったかって言えば、制度上は進んだかもしれないけれども、国民の意識上では上っ面の話なんだよねえ。
なんせ、障害者権利条約の批准にえらーく時間がかかったからねえ。中国が2008年4月3日までに批准して、EUも2010年12月23日に組織として批准した人権条約なのに、日本は2014年1月20日まで批准に時間がかかったからねえ。それでも、国民に問題視はされない。本質はなーんにも変わってないんだよねえ。
しかも、外圧と障害当事者の抗議によってようやくもたらされた人権意識に対して、「日本って優しいしすぐれてるなあと思ったよ」なんて日本国民の手柄にしちゃう人も現れちゃうからねえ。そんな厚顔無恥な人どこにいるか知らないけれど?
あと、なんかウイグル民族への弾圧について鼻息荒くしてるけど、俺はただ「民族浄化や侵略と同レベルのジェノサイド的行為が日本の障害者に対して行われていた」と言っているだけだけど? 別に目的が同じとは言ってないけど? なんで興奮してんの? つーか府中療育センターの映像資料見た? 手塚治虫の漫画で満足してないで、見てないなら見たほうがいいよ?
他増田の言うとおり、昭和から平成初期の日本は、まんま施設主義だったんだよ(まあ欧米もそうだが)。
「府中療育センター闘争」とかご存じない? 入所者は今のウイグル民族ばりに虐待されてたよ? 映像資料もあるけど? ま、十年後には歴史の闇に消えてるかもね。
で、その虐待はどうやって救われたと思う? 利用者自身がハンガーストライキをする事で問題視されたんだよね。つまり障害者自身で立ち上がったわけ。日本って優しいしすぐれてるなあ。
しかも、府中療育センターなんて氷山の一角、昭和以前は障害者虐待の時代だった。施設だけじゃないよ。精神障害者ってだけで爆弾の振る監視穴?にぶっこまれたり(NHKで見た)。視覚障害ってだけで子供の頃から納屋に隔離されて毎日木製バットで殴られたり(知り合いのおじいに聞いた。おじいは成長して東京に出た。工場で務めて何とか生き抜く事ができた)。日本って優しいしすぐれてるなあ。
で、脱施設の流れになったのは、別に日本が優しいからだけじゃない。すぐれてはいるのかもね、身の保身に。
まずは外圧。1975年に障害者の権利宣言があったから、それに乗らないといけなかった。我が代表堂々退場す意味も度胸もないからね。その上、アメリカ様もADA法とか作って、ますます脱施設の流れになったわけ。乗るしかないでしょこのムーブメントに。
それに、脱施設は国民ひいては霞が関にとって悪い事ばかりではない。
なんせ施設はコストがかかりすぎる。障害者であれば支援もせずに、施設にぶち込むとなれば。今自立出来ている人もまとめてぶち込まないと行けないわけである。まあ、すごい量の施設が必要になるよね。
そしたら、次は殺すにはどうすればいいかって考えるよね。でも、そんな事ナチスぐらいしかやってないからね(T4作戦)。中国が表立ってやらないぐらいなんだから。まあ、優しいすぐれてる日本ならやってもおかしくないけど。
というわけで、障害者サイドの自立運動が盛んにはなっていたものの、カネの問題で霞が関が自立を推奨してるって事情もあるわけ。
その割に、障害者嫌いの日本人が伊是名さんを叩いている現状はウケるね。
伊是名さんはバリアフリーの為に店舗異動しろとかアホみたいな事を言ってる過去もあるけど、障害者が自立して生きるためにバリアフリーを充実してほしいと言ってるのが主な主張なわけ。しかも、鉄道全部エレベーターつけろとかじゃなくて、JRは事前に行けない駅の情報提供しろってのがメイン(J-CASTの記事)。それを寄ってたかって叩いてるんだから、障害者には自立して欲しくないって事だよな。じゃあどうして欲しいんだろうな彼らは。
でも、一番ヤバいのは伊是名さんみたいな裕福な障害者と、今伊是名さんを叩いてるような奴らがタッグを組んだ時だな。そこで、自立できない障害者は死ね、という流れになった時だ。
重度障害者や静かに社会的に殺されかねないな。障害者だけじゃねえ、超無能の俺も殺されるかもしれん。昭和の日本のことを考えれば、いや最近でも国連の「障害者の権利に関する条約」の批准を先進国で最も拒み続けた日本なら、十分ありうる未来や。なんせ優しいすぐれてる日本やからなあ。間違いないわあ。
数年前に兄が発達障害(ADHD強めでASDもある)だと診断されてから
母親に「お兄ちゃんは発達障害だから今までみたいに多少嫌なことされても強く怒らないであげて」と言われた。
それまで兄の今思えば発達障害っぽい言動が許せなくてよく大喧嘩をしていたので
ここ最近は喧嘩にならないように、気に入らないことがあってもあんまり怒らないようにしてた。
でも最近兄が調子に乗ってるというか俺が強く怒らないから舐めてかかるようになってきた。
あれしろこれしろと命令してきたり、煽り芸やってるユーチューバーの真似して俺を煽ってきたりするようになった。
兄だから弟に威張りたいっていうのもあるんだろうけど不快だからやめてほしい。
私は26歳にして発達障害の診断を受けた。
ちなみにグレーゾーンなどではなく、群指数の差が45も離れている。
私のようなタイプが一番行き辛く、最も不幸なタイプなのだろう。なまじ抽象的思考は多少出来て、処理速度も劣ってはいないから普通に学校の勉強は出来る方。そして他人に迷惑をかけるタイプではないから誰からも発達障害を疑われたことがない。せめて多動性が酷かったり、テストで0点ばかり取るタイプなら人生の初期段階で検査に漕ぎ着けられたものを。
そして、アイデアを実行したり、自分の手を使って形にするには知覚推理の能力がないとできない。これが低いとロクに趣味なども楽しめない、仕事も出来ない。何も有益な実体を生み出せない。
「ケーキの切れない非行少年たち」のおかげで、軽度知的障害や境界知能を見過ごされ、適切な療育や支援を受けられず罪を犯す子供達の実態がようやく世間に浸透した。
私は犯罪行為をしたことはないし、知能には問題はないが、本質的にはこの非行少年たちと一緒だと思っている。
障害者なのにずっと健常者と同じレベルのことを要求され、お前が出来ないのは甘えだと刷り込まれ、自尊心を失う。
幼少時代に障害が発覚し、適切な療育を早い内から始めれば知覚推理のIQが伸びた可能性はいくらでもあるのに。今となっては全て手遅れ。
そして、障害者雇用の給与のみでは生活は苦しいことが多いため、明確な救済措置は今のところないということになる。
私達は社会から抹殺され、被害を受け続けている。そしてこれからも踏みつけられ、命が尽きるのを待ち焦がれるだけの人生を送らされる。
転職したら上司が積極奇異型アスペルガーだった。本人にカミングアウトされたわけではないけど、わかりやすい積極奇異型アスペルガーの特徴を持っていることを自他共に認めていた。本人は「時間を守れない、セクハラと取られる行動をする、公の場で飲んで失礼なことをする」あたりは何度も失敗してきたらしくツールを使ったり細かく管理して対応しようとしていた。僕は発達障害を大学で学び療育のボランティアもしていたのである程度理解しているつもりだったけど、無理だった。最終的に適応障害(軽度鬱)と診断されて別の部署に映ることになった。以来3年間投薬治療をしている。
積極奇異型アスペルガーが上司になった際につらかったこととして、「定期的に部下と上司が話をする場が設定されていたが、人の話を聞かずに遮って自分の話を始めてしまうので対話にならない」「あまりにもプライベートな話に突っ込んでくる、普通の人が聞きたくないようなプライベートの話を公の場で開陳する(性生活や軽犯罪を犯した話など)」「好き嫌いやバイアスで評価が決定され、注意されても本人は客観的なつもりなので噛み合わない」など仕事上も経済的にも困ることが多かった。もう二度と積極奇異型アスペルガーの下で働きたいとは思わない。同僚や後輩の場合は対処できるが、上司としては受け入れられなかった。
有色人種+50点、女性+100点、LGBT+200点という風に、弱者の中で誰を優先すべきかの基準となる数字「弱者力」を社会学者に算出して欲しい。
昨今なにかとネットで叩かれがちの社会学者だけど、複雑化する一方の差別問題へのソリューションになる「弱者力」計算ツールを開発して政府機関や企業がこぞって使うようになれば、社会学が役立つ学問であることを世間の多くの人々が認めるようになり、社会学者の研究費とポストも増えるはずだ。
理系「社会学つーか文系は客観的な数字を出せない馬鹿だから学問ではなくお気持ちでしょ?」
社会科学の中では経済学がもっとも洗練された計量化のツールを揃えていると思うけど、ある人がどの程度「弱者」であるかを測るのは幅広い社会現象が関わるので、これこそ社会学の出番だと思う。
政府は大企業に対して「総従業員の弱者力、合計1万点以上」を義務付けることで弱者のエンパワーメントを促進する。
企業は「当社はゲイ(LGBT+200点)を100人雇うことで法的義務の2倍となる合計2万点を達成しました」とCSR報告書に誇らしく記載できる。
また「弱者力」を使えば弱者同士の利害が衝突した時にも明快なジャッジを下せる。
例えば、トランス女性(男体持ち)が女子トイレを使いたいと主張しているが、シス女性(生まれつきの女体持ち)は女子トイレにペニス持ちが入ってくると性犯罪が増えて安心できなくなるので嫌だと主張している、どちらの利益を優先すべきか?
トランス女性の弱者力:「女性+100点」+「LGBT(トランスジェンダー)+200点」=合計300点
以上より、シス女性よりも3倍も弱いトランス女性の利益を優先すべきことは明白であるので、女子トイレはトランス女性(男体持ち)に開放するものとする。
ここまでネタに見えるかもしれないけど、アメリカの大学入試や就職でのアファーマティブ・アクションでは「弱者力」計算をしているはずだ。
例えば、試験で同じ点数の貧乏白人と中所得黒人の受験生がいたとして、
という風に。
蛇足だが、こういう「弱者」とタイトルに付けた記事を書くと、増田に常駐しているKKOが
「でもキモくて金のないおっさんが弱者力0点に計算されて救済の対象にしてもらえないのは特に問題ないんですよねわかります」
「KKO VS 資産家令嬢Ph.D.持ちGAFA勤務年収三千万女性」
資産家令嬢Ph.D.持ちGAFA勤務年収三千万女性:弱者力 合計100点
内訳
女性+100点(女性は、いかに裕福な家庭で生まれ育ち、高い教育を受け、高所得になろうとも、女体である限り、性犯罪・暴力犯罪の被害者になりやすく、月経による体調不良と妊娠出産を負担させられるという強い弱者性を持つ。地上から性犯罪が根絶され、人口子宮が実用化し、サイボーグ化により男女の身体の差が無くなるまでは、無条件で+100点)
内訳
低所得+10点(万人に平等に与えられた24時間を所得を増やすためのハードワークに費やすも、娯楽に使うのも個人の自由であり、所得はそのような個人の選択の積み重ねの結果である。とはいえ環境による有利不利も無いことはないので+10点)
中卒+5点(所得と同じく、自分の人生の時間を将来の所得を増やすための学習に使うのも、遊んで浪費するのも個人の自由であり、学歴は個人の選択の結果である)
診断済み発達障害+5点(発達障害は外見からわかる障害ではないので弱者度は低め。投薬や療育により改善もできる。もちろん治療を拒否するのも個人の自由。なお一目でわかる身体障害なら+50点)
2型糖尿病+5点(2型は生活習慣病であり不摂生な生活をする個人の自由を行使した結果だから自己責任度が高い。1型なら遺伝性が強いので+20点)
高齢独身+0点(言うまでもなく婚姻は個人の自由。人には家族を持たず孤独に死ぬ自由がある)
以上、KKOが弱者力たった25のただの雑魚、いやただのマジョリティの強者であることが客観的に論証された。社会に救済を求めるなら最低でも女性平均の100を超えてからから物を言って欲しいものだ。
もちろん私は謙虚な素人なので、本職の社会学者の方々の目には、上述の計量化は噴飯ものの稚拙な計算に見えていることは自覚している。
だからこそ、社会現象の分析の専門家である社会学者に、より客観的な「弱者力」計算の仕事に取り組んでいただき成果を社会に還元して欲しい。
アキバや池袋がシャッター街になってバタバタ潰れてんのんのが象徴的だわな
歌舞伎町とか六本木は法律ガン無視でも大してそう取り締まられはしないからなんやかんやで生き残ってる
法律でがんじがらめにした上に利益は上げろなんて物理的にできるわけねーだろ
国がクソほど税金を株価に投入してる企業くらいしか絶対に成立不可能なわけで
そもそもGDPマイナス成長の日本で未知の手付かずの療育なんかあるわけがない
結果、秘密工作員みたいな働き方プラス諜報機関のフロント企業経営みたいな感じでしか空手で起業を軌道に乗せることができない
飲酒や風俗なんかのソフト産業しかない、こんなもん何も生み出さない筆頭だわ
現実は利権団体に振り回されて意味不明な矛盾だらけの法律作りまくる始末
端的に言えば終わってるわこの国、そりゃ金持ちになって上流の仲間入りした瞬間に海外志向で逃げようとするやつ多発するに決まってんだろと
大体引き籠りのニートとか発達障害で不摂生でデブや底辺になったような奴が
いくらプログラミングスキルを磨こうと、速攻で同じデブニートになって役立たずで職場から叩き出されるわ
我慢が出来ない幼稚さと自己中だから発達障害のまま療育もせずそこまできたんだからな
記憶も人格もそのままでIT技術一つで即変われるわけねーだろって話
そいつの仕事論や愚痴聞いてても仕事では善い事してるつもりだろうがただ押し付けて自己満足に浸ってるだけで周りの負担になってるだけだしな
自分がニートこどおじや発達の療育中の時は飯食わしてくれる父親には感謝もせず
作ってくれる母親には置いとけとか
挙句一緒に病院で治療しようとか働き口探そうとか言われたらキレだすのは負い目を感じてたクセにな
一般的に、発達障害者を支える親がいるってことは(発達男子、女子どちらに対しても)明らかなことで、ここでは論点ではないんだよね。僕が疑問に思ってるのは、発達女子はどうして親に支えられることを周囲にアピールしないのかってこと。
まあ「理解ある彼くん」はなかばミームかしてるから、目につきやすいだけかもしれないんだけど。
追記終わり
「理解ある彼くん」が話題だ。これは発達障害の女性の自分語りに登場する、女性の生きづらさに理解を示し経済的にも支える彼氏や夫のことだ。
それはいいのだが、発達障害の女性を支える「理解のある親」が話題にならないのはなぜだろう。絶対数から言って、「彼くん」に支えられる発達女性より、親に支えられる発達女性の方が多いはずなのに。なぜ自分語りをする発達女性は自分の親のことをありがたがって書かないのだろう。
考えられる理由は、
1.親に支えてもらうことは当たり前で特記することではない
2.発達女子の親はその生きづらさに理解を示してくれないので書きたくない(理解があれば人生が詰む前に適切な療育を受けさせている)
4.理解ある彼くんが与えてくれる専業主婦という肩書きが、親が与えてくれる家事手伝い、ニートという肩書きよりもずっと価値があるから
4かな。
40過ぎて妊娠したのでもちろん心配だったし、羊水検査もするつもりだったけど、流産の危険性もあるし染色体異常しか分からないしで受けるのをやめた。何より、あの検査は安定期に入ってからじゃないとできなくて、数ヶ月お腹で育てた子供を染色体異常だからといっておろせるとは思えなかった。ちなみに、羊水検査では、療育が最も進んでいるであろうダウン症と、そもそも数年も生きられない13トリソミーだっけ?の染色体異常くらいしかない。
いま3歳で身体は丈夫だけど、発達が遅れていて療育手帳はもらってる。定型だったとしても怪我なり病気なりでこの先どうなるかはわからない。
ただ、生まれて1年くらい経った時点でもう他に替えが効かない存在になり、今後どうなってもこの子しかいないと逆に腹を括れた。「我が子だから頑張ろう」みたいな綺麗事とはちょっと違うんだけどね。他に選択肢がないからこれでやっていくしかないっていう感じ。幼なじみがかなり障害の重い子供の親だけど、同じようなことを言ってた。
いまは療育もかなり充実してるし、親がどうしようもなく疲れてしまったなら、乳児院や児童保護施設がある。どちらも虐待被害児の駆け込み寺のようなイメージがあるけど、親の傷病とかで養育できなくなった時に短期間預けるというのがメインの使われ方。まあ実際預けるのには抵抗あるかもしれないけど。そこまで行く前の支援もいろいろあるよ。一度調べてみると安心できるかもしれない。地元の子育て支援センターとか社会福祉協議会とか、電話したらいろいろ教えてくれると思う。
本当に狭義の医学的な先天性の脳器質からして障害のある発達障害なんて、それこそほっとんどいなくて
大半は単に、家庭が毒親だったり、親が教育下手である一定を境に人間関係やコミュニケーション能力の鍛錬が止まってしまって
その年の割にそんな能力では障害だってレベルになってから、単に認定を受けた「ニセ発達障害」みたいなのばっかりで、大半は後天的で実質普通の健常者であることが多いよね
そもそも脳器質からして生まれついての発達障害なんて、マジで生まれ落ちた瞬間から療育しないと死ぬクラスだもの
え?定型ガー?定型社会で生きづらい?何言ってんの、アンタら単にコミュ障なだけでしょ、親がいかにもな現代日本型式機能不全家庭なだけでしょ、呪縛から逃れられてないだけでしょ
本当に生まれつき脳に障害があるクラスの人間を発達障害っていうの、なんでもかんでも発達障害を免罪符にすんじゃないよ、単にブサイクだったり性格悪いから相手にされてないだけでしょ?って話