はてなキーワード: 成就とは
遠くない未来に自然権を抑え付けている歪みが破裂し、真の自由主義が立つことは必然である。
ただ歪みを減らすことで時間稼ぎをすることはできる。
暴力機関には選択的夫婦別姓を認めない権利はそもそも存在しない。
そんなしょうもないことで歪みを作るべきではない。
何かが壊れても誰かが悲しんでも、それは自然権の成就のための仕方のない犠牲である。
選択的夫婦別姓を容認しても人は死なない。人の自由権を毀損しない。
1945 年からしか政治的連続性のないしょうもない極東の国家に伝統も糞もない。
あったとしても伝統なんてものが真に伝統であるのか、そもそもそんなものを守る必要があるのか、その必然性を我々は証明できない。
ただ、その延命のために歪みを減らすべきだと言っているに過ぎない。
結論:「CP名書くのがルール」って言ってる人がいて論争になってて一見どっちもただしいんだけど書く側になってみたらそんなルールねえよでおわった
まずCP名ってのはつっこんでる際にどっちがどっちにつっこむかを右左まちがえずに書く行為
右左を間違えると地雷(食物アレルギーにおけるアレルゲン摂取のような反応を地雷という)で死ぬ人がいるので左右誤記は完全アウト、これは常識になってきた
CP名を書かないのはどうか?現状だれもつっこんでない場合はアレルギー要素がないので問題がないはず
とはいえ、モブにつっこんだりつっこまれたり、おもちゃにつっこんだりつっこまれたり、
この場合はやはりつっこみ行為を厳密に判定してCP名を書くべきである、とはいえ後述の理由で書かない人もいるだろう
もうすこしつきつめると、
本当にくそ重感情があっても行動(地の文にあるもの)としては自慰のときに名前を呼ぶ程度だったとかはどうか?
現代社会における恋愛にはいろいろなアレンジやバリエーションがある。自慰なんか健全な発育の範囲内だろ。
手をつないでチューするかそれ以前という高校生なみの作品、自慰のときに相手を妄想しておなねたに使う、このへんはどうか?
これは本来はCP名を書かないほうが正しいのかもしれないし、将来的に恋愛成就して左右だのリバだのポジションが決まるのならその将来のためにタグをつけておくのが正しいのかもしれない。
丁寧な人は「こちらA✕Bを製造している工場で製造しておりますがつっこみ行為は一切ありません」等という注意書きをつけてくれるがこれはサービスであるし続編かいていたら急に方針変更したくなるかもしれないし正解がないので安全側としてはつっこみとつっこまれが決まるまでCP名かかない、はマナーとしてほぼ正しい
そもそもCP名を書いてタグをつける行為ってのはその雰囲気の恋愛ものを探してる人にむけて釣り針を下ろす売名行為なのである
CP名タグつけりゃ1000閲覧で30ブクマ行く作品に、あえて作品腐タグしかつけないと18閲覧の0ブクマしかない
それがCP界隈の現状なのである だからCP名つけないのは謙虚な選択
そしてつっこんでないから、未分化だからといって左右逆転CP名を両方つけるとどうなるか
「どちらか片方が好きだがもう片方が地雷でミュートやマイナス検索をしてる人」(ものすごく多い)には見えなくなる。
そしてもっとわるいことに「つっこみ関係が左右に関係なく苦手な、この作品が本来とどくべき読者層」にも届かない。自己防衛のためにミュートしてる人が多いからもうほぼ絶対にとどかないわけだ。
だからこそCPタグ着けない「作品腐」とか「A+B」とかいうマイナ―傾向をもつ読者のための固定カテゴリの創出の工夫が各作品でもとめられているのであるが?
この現状の中で「cp書くのがルール」だなんてよくいえるなってことだ
見られないという最悪のリスクをおってでも
本来とどけたい人に届くためにCP名を書かない選択をしている人の作品を
「cp名ついてないじゃないですか、ついてたらミュートできたのに」って文句をいう行為is何?
じゃあ見るなよとしか
これは「つっこんだことを匂わせられた」と訴える被害妄想であるといわざるをえない
もうね、そこまでいうなら他人を信頼しすぎるな、見に行くな、自分で好きなように書け
「好きな作家だからタグがなくても見に行った」?なら好きな作家の製作意欲なくさないために文句いうな、おのこしせず食べるかそっ閉じしろ
ただし滅多にないことだが、エグいつっこみ行為(いわゆるズコバコ)があっても「cpで売名する気はいっさいないから」だの「ネタバレになる」だのというわけのわからん理由でcp表記しない(あるいは通常とちがうcp名で表記して他人の編集をうけつけない設定にしておく)といった非常に変わった人も創作神の中には居られると伝え聞く。(自分の作品は唯一無二の至高だからタグをオリジナルでつくって自分一人で独占したいとかいうタイプのアホも聞いたことある。個人サイトでやれよ)
これはたしかに「作品をとおした交流サイトの秩序」という点では乱しているので避けるのがむずかいし「おいおいこの内容ならcp名書くのがルールだろぉ」くらいの文句はいいたくもなるかな~とは思う。
つまり必須タグを敢えてつけないことで軽度なタグ荒らし行為が発生する場合もあるだろうとは思う。
しかし実際にそういうことをする人に同ジャンルで会ったことはない、と思う。偏屈な理由で偏屈なことをする人がいるといくらいい作品を投下していても偏屈さが目に入るたびに疲れていくのでアンフォローや何ならブロックする習慣が私にはある。だから存在を忘れてるだけかもしれないのだが。
もしあるのなら、作家の雰囲気とか感想コメントで前もってつかんでおいて神回避するしかないだろうな。
あと最初に踏んだ人が親切で「cpタグつけたほうが有名になるしミュートにもつかえるんだからつけりゃいいのに」ってやってくれるのを期待するか自分でやるしかない。
結局そこまでして探し当てたものに文句いって、おまえは一体なにがみたかったんや、という話にはなるとおもうわ。
みんなでつくろうたのしい秩序
おわり
追記、
一方で「自分の作品にCP名やシチュをちゃんと表記するとネタバレになりそうでイヤだな~」と思っている書く側のド素人さんにちょっと助言。
ネタバレってあんたさ、原作よんで原作ネタバレ知ってる客だけにきてもらいたがってるくせによくいう。
そんなにネタがかくしておきたきゃ全部の設定自分でつくるオリジナルでやったほうがいいってわかってるでしょ。
筆力がいまいちでびっくり仕掛けしか売りがないとかも二次ではそんなに特別なことではない。
むしろある程度積極的にネタバレしたほうが「この二次創作者はどう楽しんでほしいのか」が把握しやすくて宣伝になる。
あと本当に救いのないエンドをしようとしてるなら知らせるのもマナーだと思う。
意外とみんな好きだし理解あるみたいだぞメリバ。
つくってどんどん開示してみれば「こういううす暗いのも好き」っていってくれる人に出会えるとおもう。
とにかくみんなでわいわいと楽しもうとしているときにへんなわけへだてを自分でつくりすぎるのはよくない。
昔の個人サイトでは、わざと入り口をわからなくしたりわかりにくい入室パスワードかけたりとかいう内輪の楽しみ方があったけど(ちなみにそれは明日高校の同級生に「ねえねえサイト読みたいからパスワードおしえてよ!」って声をかけられることでリアルで友達になれるから敢えてやっているのであって。学校でおしゃべりだらだらやってられないコロナ令和の人がやっても意味がないぞ。自分から壁をつくってるだけだ。)、
そういうのやるやつに限ってたいした作品はおいてなかったからね。俺は詳しいんだ。
今は個人サイトって時代でもないから親しみやすくおもしろい自分ってやつをどんどんむき出しにしてこうな、適切なタグつけて。
あとこれは当然のようにピっクブの仕様を下敷きにしている。
他にも二次創作交流サービスはあってpictBLandとかいいぞ。
あとR18文章にワンクッションだのパスかけたければプライベッター、R18のどぎつ絵のほうでやるときはポイピク、タイムラインに流したくないだけのネタバレ早バレ感想程度ならふせったー、匿名感想募集やおくりつけるときはましゅまろ、このくらいは適宜つかいわけていこうな
他にも頒布物の奥付にパスワードのせておまけファイルダウンロードとかいろいろやり口はあるからなんなら聞いてくれ
自分で工夫して適切に住み分けような、おじさん(蔑称ではない)とのやくそくだぞ
ルールだと騒ぎ立てるのも、それを否定しながら秩序やマナーと言葉を緩めて縛ろうとするのもやってることは大差ないように見えるけど。究極「何でも許せる人のみ」とするしか
せやで、書くがわはどうしたら自分の作品を読んでほしい人にとどくかをタグだのタイトルだのつかって自由に実験していいっつってるの(その結果読んでもらえなくても自己責任だしユーザーと作品の出会いがスムーズにすすむことが秩序だからね。別に俺が書く側を言葉で縛ろうなんていっていないよね、アドバイスはしてるけど)
無理やり合格祈願をもじった感じのお菓子とかを見かけて思ったんだけど、合格祈願のお菓子って本質は呪いの藁人形だからえげつないよね。
大学受験に限って言えば合格の枠は決まっていてその枠に収まれば合格、その枠から溢れれば不合格ってわけだ。
つまり、その人が合格を祈願し、それが成就されるってことは一定数の誰かの不合格によって成り立つ。
(定員割れなんてことも状況としてあるにはあるだろうけど、それはそもそも合格祈願に至らないと考えるよ。)
ゲン担ぎに合格祈願の商品を買うそれは、自分が合格まで収まる程度の人数の誰かの不合格が発生することを願うこととも言えるわけで。
そうすると、合格祈願のお菓子を買って合格を願うのは結果的には呪いの藁人形で誰かの不合格を願っているともいえる。
えげつねぇな・・・。
約30年間自分の無能さ、凡人さに対して、必死で目をそらす事で保ってきた自我と精神がとうとう崩壊した。
今現在どうしていいかわからない状態なので吐き出させてほしい。
俺と同じようなタイプの人がいるかわからないけど、もしいたら反面教師にしてくれれば幸いです。
俺には少し年の離れた兄がいた。
その兄は色々あって10歳ごろで不登校になり、俺は常にそんな兄を反面教師にして生きた。
両親からは賢いと言われて育ったが、ただ異常なまでに俺を褒める教育方針だっただけだ。
それは所謂普通の人生から外れてしまった兄への当て付けであり、兄の教育を失敗した反省であり、
自分の子育てが間違っていない、自分の子供は優秀なんだと信じたい感情からだったと思う。
でもその教育方針は俺自身がなんとなく、他とは違う特別な人間で、なんとなく特別な事を成し遂げ、
人より素晴らしい人生を送るのだと思い込ませるのに十分だった。
自分は勉強も運動もできる、天才で特別な人間である、勉強ができなかったり学校にいけなかったり仕事ができない奴は
人間としてダメだという考え方が、この段階で刷り込まれていったと思う。
当時はなんとなく運動部を避けただけのつもりだったが、
今思えばチーム内での競争や、大会での結果で自分の平凡さに向き合う事を知らず知らずのうちに避けていたんだと思う。
吹奏楽部でも競争はあるにはあったが、男性の身体的なアドバンテージや、
大人数での団体種目という事でそれほど劣等感には向き合わずに済んだ。
勉強は隠れて死ぬほど頑張って、まあまあのレベルをキープし、そこそこの大学に入れた。
テストの前に全然勉強してないわーっていう典型的なタイプだったし、
志望の大学を決める時も、周囲には勉強しなくても入れるとこにしたと言い張った。
ハンカチ王子やまーくんと同世代というだけでなにか運命めいた物を感じていた。
運動については、運動部の人たちには到底敵わなくなり、勉強しなくても成績がいい天才なのだと信じ込んでいた。
兄とはたまに一緒にゲームをしたりしたが、基本的に部屋でずっとパソコンをしていたのであまり関わる事はなかった。
ただ、兄のようにならないように頑張ろうという軽蔑のこもった念を持っていたと思う。
俺が何か落ち込むような事があった時は、内心でこいつよりは1万倍マシだと言い聞かせたりもした。
大学に入ってからは、受験の時に陰で勉強しまくっていた反動で遊びまくり、成績はひどかった。
高校までの自分の理想像では勉強しなくてもできる天才の筈だったが、更に妥協する事にした。
学校の勉強なんて社会で役にたたないし、もっと本当の意味での賢さが自分には備わっている。
大学の勉強よりも、もっと価値のある事に時間を使っているし、その才能がある。という路線にしたのだろう。
そこからは、友達・人脈を増やす為に頑張った。まずは先輩に媚びて、可愛がられて、それがすごいと思ってた。
交友関係を学外にもどんどん広げていき、フェイスブックは顔見知り程度ならどんどん友達申請した。
そのうちに、ストリートアートの才能がある人物と出会って、イベントをやる事になった。
結果、そのイベントはそこそこ成功し、俺は何かを作りあげるクリエーターとしての才能があるのだと思うに至った。
実際は、自分では何も作り出す事ができず、ただ誰よりも彼の作品に憧れただけだったのに。
あげく、彼とはイベントの打ち上げで大喧嘩して仲違いしたきりだ。
絵を書かないお前の方が主役みたいだ、自分では出来もしないのに口ばっかり出してくるな、
自分以外はみんな馬鹿だというような態度をやめろ。そういう事を言われた。
同じ天才の仲間だと思ってたのに、急に梯子を外された気分になった。
彼が憤慨して帰った後、とりまきと彼の悪口を言いながら記憶が無くなるまで飲んだ。
二十歳を過ぎてからは六本木に入り浸って、色んな経営者やらとも知り合いになった。
知り合いと言っても、今思えば知人の女子大生を宴席に連れていくだけの、便利な愛人斡旋係だった。
そんな社長たちすら、ランクを5段階くらいにわけて下のランクの人達は馬鹿にしてた。
でもいざ同席している間はぺこぺこへりくだって、そのギャップから、家に帰って目眩がして吐く事もあった。
今日〇〇の社長とキャバクラだから。それだけを同級生に言っている間だけは自尊心が満たされた。
その人達ですら、自分で事業を作り上げて必死に改善して、本来は尊敬すべき人だった。
あまりにも授業に出なかったので、留年しそうになり、慌てて学生ローンで借金してインドで1ヶ月ワーホリした。
俺の行動のすべては、順調な人生に見せかけるための、ハリボテのアリバイ作りのためだった。
一浪した就活では、人材系大手のRから内定を得ることができた。
面接の時は自分の経歴を何百倍にも膨らませて、嘘もふんだんに織り交ぜて通過した。
今思えば入社前のこのタイミングが軌道修正する最後のタイミングだったように思う。
入社したRでは、退社した人材が起業したり有名企業の要職を務める事が多く、元Rというブランドができていた。
自分もそこで頑張って、起業すればそういうキラキラした何者かになれると思っていた。
そもそも自分の理想に対して、人材紹介のエージェントという仕事はあまりにもつまらなかった。
転職希望者の話を聞いて、内定がでそうな企業を紹介して日程調整をする。
当然転職希望者は培った専門性を軸に、次のキャリアを考えるが、その専門的な内容がさっぱりわからない。
そりゃそうだ。こっちは他で働いた事もない新卒なんだから。職種も全然違うし。
同期たちは努力やホスピタリティーやら自分の長所を活かして成長していったが、俺にはそれができなかった。
今まで努力や反省といった所からひたすら逃げてきたのだから、当然の結果といえばその通りだ。
自分の才能について信じていた”なんとなく”というのは、試行していないが故に可能性が潰れていないだけで、
何の成長性もなく、ただただ自分の現実と向き合ってないだけだった。
みんなが色んなチャレンジをして、失敗して反省して、試行錯誤をしていた時に、
自分の限界に挑戦しないから自分の能力がわからず、低いハードルを超えるだけで失敗しないだけだった。
周囲には、人材紹介はビジネスモデルが良くないから本気になれない
より良い新たなビジネスモデルでの起業の準備が忙しいのだ、と言い訳していたが、苦しかった。
アラサーと言われる年齢に近づいた頃、仕事でとあるクリエイターに出会った。
大学時代のストリートアートの彼すらも遠く霞むような、本物の天才だった。
その人は天才故にずっと苦労していて、話を聞けば聞くほど天才のノブレス・オブリージュみたいだなと思った。
高IQゆえの他者・社会との隔絶。そこから来る生きづらさ。それこそが天才の証明だったのだ。
天才は友達が少ない。それだけ普通とは隔絶し、突出した人間だから。
自分がいつか凡人だと気づく不安なんて感じたことはない。人と違う事で、恐れ、疎まれて来たから。
話を聞けば聞くほど絶望していった。中途半端に器用に生きてきた自分とは、真逆の人生だった。
自分はコミュ力と友達の多さを誇って天才だと吹聴してた。それが真逆で本当に恥ずかしかった。
意を決して、精神科を訪ね、IQの検査を受けた。IQ120弱くらいだった。
天才とメンバー間を通訳できる、いいリーダー・つなぎ役になれるという解説がついていた。
天才じゃないという死刑宣告だった。上位10%。クラスで3、4番目。それが俺の本当の実力だった。
だけどまだそれを信じる訳にはいかなかった。
天才だ特別だと言い張っていたのに、そうでない人生を今日から歩めと言われても飲み込む事はできなかった。
IQは一つの指標。そう考えるしかなかった。そうでないと生きて行けなかった。
検査の結果を聞いてから毎日、気が狂うほどの焦燥感が常に付き纏っていた。
本当に24時間何をしていても、少しでも気を抜いた瞬間に、
何かを成し遂げなければならない、特別である事を証明しなければならないという強迫観念が絶えず襲いかかってきた。
幸い、人材系のエージェント・採用代行は独立のハードルが非常に低かった。
同業他社と比べると、有料のオプションが1つ無料になる。程度の差別化だったが、
それを新しいビジネスモデルという事にして打ち出していった。
本当にちっぽけなしょうもないアイデアだけど、それに賭けることにした。
勝ち目なんて無いに等しいのはわかっていた。でもそれに全てを賭けるしかなかった。
特別な人間であるというアイデンティティだけにすがって、他者を馬鹿にし、虚構の優越感に浸り、
生き続ける為には、この道で食っていくしか無かった。
あると思っていたコネクションは、俺ではなく会社と繋がっていたのだ。
元々ないホスピタリティーは更に枯れ果てた。
余裕の無さが更に成功を遠ざける。
うまくいくはずが無かった。
どんどん追い詰められていった。
兄は学生生活こそうまくいかなかったが、こつこつとプログラミングの勉強をして実力をつけていた。
いくつかの現場を経験していたので、人脈もあった。それを使う事にした。
子供の頃から兄を馬鹿にするのが俺のアイデンティティの一部だったのに、その兄にすがって何とか生きている。
兄は優しかった。逆境に負けず、こつこつと努力を重ねられる強い人間だった。
でもそれもだめだった。三度、天才に打ちのめされることになる。
求職者が企業と面談をすると、3万円もらえるという転職サービスが現れた。
人材業界のビジネスモデルには問題があると先述したが、それについては紛れもない本心だ。
既存の人材紹介業は、求職者が入社すると理論年収の35%程度を手数料としてエージェントに支払うのが慣例だ。
年収600万円の人材を紹介すれば、200万円以上の手数料を払う事になる。
求職者を集めて求人を紹介し、履歴書を送って日程調整をする報酬にしてはあまりに高すぎる。
人材系のエージェント・採用代行は独立のハードルが低いというのは、それが由縁だ。
中小企業や、スタートアップ・ベンチャーがおいそれと手を出せる金額ではない。
加えて、エージェントはとにかく求職者が入社すれば高額な手数料が得られるので、
「求職者が望む転職になるか」「企業に本当に必要な人材か」を無視して、
「内定が出そうな企業」に求職者を押し込む事で、売上を伸ばす事ができる。
つまり、エージェントが売上を追求すると、求職者・企業の利益を損なうケースが出てくるのだ。
3万円もらえるという転職サービスでは、企業は面談時に費用がかかる代わりに、入社時の手数料はいらないらしい。
企業がエージェントに払っていた費用の大部分を、求職者が受け取る形だ。
これは、既存の転職市場・人材業界の諸問題を一気に解決し得るポテンシャルがあると思う。
このサービスを見た瞬間、正気を保ってられなかった。ケチの付けようがないすごいサービスだった。
転職市場・人材業界のパイの全てをテーブルごとひっくり返す、この上ない破壊的イノベーション。
最初は思わずネガキャンした。悔しかったから。でもどうしようもなく憧れた。
どうして自分がこれを考えつけなかったのか、今まで何に時間を使ってきたのか。
自分を責める事しかできない。感情はもはや支離滅裂でどうしようもない。
仕事を続けられる気がしない。全て終わりにして消えたい。ネガティブな感情が無限ループしている。
一番恐ろしいのは、ここまで書いた事全て、自分は薄々気づいていたという事だ。
それでも、特別な人間でなければ、優秀な人間でなければ意味がない、
という自分自身にかけた呪いからそれを絶対に認める事はできなかった。
ここまで絶望的な状況になって、認めるしかない現実が来て、やっと認める事ができた。
自分の心の中の薄々気づいていた部分は、こうなってしまった事をホッとしている気すらする。
このままどこまでも狂って、「コロナがなければ・・・」「精神を病まなければ・・・」
という言い訳ができればいいと、ただそれだけをずっと泣きながら祈っている。
こちらこそ、このような書き込みを受け止めてくださってありがとうございました。
「坊主なんて所詮は偉そうなこと言いながら、自分は働かずに、檀家の金を巻き上げるだけ巻き上げて、後はせいぜい葬儀するしか能のない存在」
だと思っていたことがありましたので。今ではその疑い謗る眼差しと声が、自分自身に突き刺さるようになりました。
「わたしも自分の人生をちゃんと生きられるようにがんばろうと思いました」、
大変に尊いお気持ちだと思います。そういう気持ちのことを仏教では「發菩提心(ほつぼだいしん)」と言います。
それは即ち、「わたし」が「わたし」として生まれてきたこと、生きていくこと、いのち終えていくことを、心から喜びたい(納得したい)と思う気持ちのことです。そして、それが成就した方のことを「仏」といい、そのさまを「成仏する」というのです。
しかし、「がんばる」という言葉には元来「無理をする」という意味もあります。
願わくば、ご無理はできる範囲でなさってください。人生生きていれば、無理ができない時も訪れます。その目標を自分の力だけで成し遂げようとすることは、仏教では「三千大千世界を持ち上げることよりも難しい」と言われています。
あなたが「がんばろう」と思えたそのお気持ちこそが尊いのです。そう思われるだけの縁がもたらされていることが尊いのです。
雨の日も風の日も、あなたの心に光あらんことを。
合掌
読みにくいと思うけどぜひ辛抱強く読んでほしい。
自分は去年の12月頃童貞を捨てることを決意して、それ以降さまざまな技巧を駆使して大勢の女性を抱くことができたので、念願成就したこの喜びをみんなにも分け与えたいと思ってこれを書いている。
コロナ禍の中でこれを達成することは並大抵の努力ではできなかった。
リアルで暴露すれば圧倒的な罵倒にさらされてしまうし、性病のこともあるし、一生懸命がんばってもなかなかうまくいかないことだっていっぱいあると思うのでとてもキツかった。
12月にしたことと言えば、まず尋常ではない量の筋トレをやった。
腹筋100回・腕立て伏せ100回を毎日、それから週に3回ほど10km走るという目標を作ることを自分に課すのを3ヶ月続けた。
これは自分の中ではなかなかできなかったことだったので達成感に満ち溢れた。
今年の1月からは毎日のようにSNSで人を見つけては話しかけまくった。
最初は「今晩どう?」という拙いツイートから始めたがうまくいかなかった。
あまりにも直情的・直線的だと気付いたのはつい最近のことで、このごろは「こんにちは」と笑顔の絵文字をつけるように心がけることでかなりの返事をいただくことができた。
その後、ナンパ用語で面接というのだろうか、実際の女性と会うことがなかなかの回数あってはじめの頃は打率はよくなかったが、いつ頃か夜のホームラン王もめずらしくなくなった。
ときどき女性だけでなくどういうわけか男性から声がかかることもしばしばないではなく、実は1000人のうちいくらかはそういう類のものも含まれている。
まあそういうことは自分と同じような人にとってはめずらしいことではないだろう。
諸君らは1000人とやりまくったと聞いて実際どのように感じるだろうか。悔しいという気持ちだろうか、羨ましいという気持ちだろうか、
まあ多くは性病乙ぐらいの悪意を私にぶつけて来つつも心の中では妬ましいというように思うのではないか。
なので今からやり方を教えます。まず人を選ぶべきではないです。あなたは選べるような立場ではないということを自覚しなければいけません。
まずあなたの外見は特に素晴らしいわけではない。水面に映った自分の顔を見て美しいと思ったナルキッソスでさえも美しいわけではないし、美は相対的なものであるにすぎない。
逆に外見が極めて醜いというわけではないはずで、たとえばペンギンを見よ。
ペンギンはペンギンであり、もちろん美しいペンギンもあり、美しくないペンギンもありこそすれペンギンという種族を超越するような美がフリッパーから発せられるわけではないのだ。
鳥にも飛べぬ鳥、飛べる鳥があるように、人も美しい人、美しくない人がいる。そういうことを忘れずにまず外見のことは忘れるべきだ。
まず外見は忘れよう。そして内面。おまえの内面はクソだ。なぜクソなのか。
それはその反対のことを考えれば明らかである。なぜお前はクソではないのか、そんなわけはないからだ。つまりあなたは内面も外見もすべて鍛えなければいけない……!!!
これが現代の闇であると私は思う。そういうことはすべて現代の恋愛マーケティングが産んだ闇なのでしかないのです。
資本主義社会と同じようにそういうことを愛だの恋だのばからしいところでもやっているからなんかおかしくなるわけで、
そもそも人間はコドおじで生きていてもなんら問題ないわけで、でもやっぱり1000人斬りにも挑戦したいわけで、そんなわけで命をかけるべきところを間違えてはいけない。
なんといってもやはり、童貞は、童貞は最高なんだというふうに私はこう思いまして、したがって1000人とヤったというのは正確には語弊が無きにしもあらずというようなことを思って思います。
まず、この作品は未来少年と言いながら、主人公は中年の髭を生やした船長であった。
彼は歳の大きく離れた美少女に恋をしたが、現代の日本において児童婚は違法であり、またそのような恋が実るはずもない。
最終回「大円団」で彼は潔くJSを諦め、姉さん女房、肝っ玉母さん、「私はあなたのママです」な成人女性と結婚する。
古くはミイラ取りがミイラになり、現代ではゾンビハンターがゾンビになるのである。
歴史上有名なロリコンといえば、古くはナボコフのロリータ、ゲーテの晩年の失恋、少女と結婚したが金を持ち逃げされたゴーギャンが思い浮かぶ。
しかし、未来少年コナンの作者は、そんな幻想は捨てろ、目を覚ませ、成人女性を恋愛対象としろ、と作品で熱く訴えかけてくるのである。
これは作者の実体験に基づいているのではないか、そう思えるぐらいの説得力であった。
中年や老人がJSに恋をしてもJSとの恋愛が成就するはずがないのである。
JSはただ足の指の力が異常に強いDSと駆け落ちして村を出ていくだけなのである。
我々老人はJSを遠くから眺めながら、嫌々JavaScriptを書き、ゴロ寝して任天堂DSで遊ぶのである。
そう考えるだけで未来少年コナンを観るのがつらくなるのである。
未来少年コナンの代わりに名探偵コナンを観ても、非実在のロリババアに恋をするのでよろしくないのである。
フランク・フラゼッタの画集を観ながら、おっぱい!おっぱい!と悶えるべきなのである。
これからするのは非常に複雑で難しい話だ。
まず「ゲイに掘られれば」は異性愛者に同性愛を勧める発言であり、所謂「性的指向」が後天的に変更可能である事を肯定する発言である。
一方でロリコン、ペドフィリア等は「性的嗜好」と呼ばれ、主に後天的である事によって「性的指向」と区別される。
以前、ロリコンの窮状がLGBTに例えて説明された際に「ロリコンは性的嗜好であり、LGBT等の性的指向とは異なる」「一緒にするな」といった批判がフェミニズム等から上がった事が有った。
しかし先に示した非モテ男性に対する「ゲイに掘られれば」発言もまたフェミニストから上がっている場合が散見される。
どちらか片方の正当性の検討は置くとして、両方を正しいと主張することは出来ない事を示す。
非モテ男性と非モテ女性に関する議論において、非モテ男性に対し「(そんなにセックス出来ない事が辛いなら)ゲイに掘られれば」といった発言が幾つか上がった。
発言者の内一部はフェミニストであった訳だが、件の発言は非モテ男性に向けた物であり、当然そこにはヘテロ男性も含まれる。つまりヘテロ→ゲイの性的指向の変更を推奨する物だった。
性的指向と性的嗜好は主にその先天性により区別され、通常、性的指向は先天的であり、変更不可能、性的嗜好は後天的に変更可能である事によって区別される。
件の発言はヘテロ→ゲイという変更が後天的に可能であり、「ゲイになる事」を選択可能であるとする判断に基づく。
従って件の発言は、ゲイは後天的に変更可能な性的嗜好であるか、もしくは性的嗜好と性的指向は区別されないとする主張を含むものである。
(また、これはゲイ→ヘテロの後天的変更の可能性を示唆する物でもあり、だとすると別の意味で大問題である。ゲイに対する「ヘテロになればいいのに」という発言の許容にもなり得るのだ)
以前、ロリコンの辛さや差別的扱いを説明する際にロリコンの立場をLGBTに置き換えた物がネット上で幾つか主張された。
その際のロリコン攻撃者(主にフェミニストや女性)の反応は「ロリコンとLGBTは違う」「一緒にするな」という冷淡な物だった。
ロリコンは性的嗜好であり後天的に変更可能であるが、LGBTは性的指向であり後天的に変更不可能だから、違う、という事だ。
(尚、もう一つ理由として挙げられがちな「欲望を叶えることが犯罪になるか否か」については後程触れる)
しかしこれは当然前件と矛盾する。もし仮に、「ゲイに掘られれば」発言を肯定し、且つ「ロリコンとLGBTは異なる」と主張している人が居たら、どちらかは論理的に撤回しなければならない、という事だ。
ではどちらを撤回するのか、予想してみよう。
恐らく多くのフェミニストにとってより大事なのは後者だろう。また、そもそも前者は別の理由でゲイ差別的であると批判され得る危険な発言でもある。
よりリスクが少ないのは前者の撤回であるので、そちらをお勧めする。
性的指向・嗜好の違いの他に、ロリコンとLGBTを区別する理由として「欲望を叶える事が犯罪に直結する」事が上げられがちである。
しかしこれもまた今回の文脈では実は主張することが難しい。文脈とは「非モテ」である。
「ゲイに掘られれば」発言は非モテ男性による「非モテ女性は存在しない」とする主張に向けられたものだった。さて、「非モテ」が欲望を叶えることは犯罪に直結するだろうか?
その人間が非モテであり続ける限りは直結するだろう。性交に同意可能な異性がいる状態である限り「非モテ」とは言えないので、その欲望を叶える事は同意を得ない性交つまりレイプに成らざるを得ない。
(もし「性交に同意可能な異性がいる」かつ「大事にされる等の性交に依らない恋愛的承認が得られない」状態も非モテに含めるとしても、その欲望の成就は「(恋愛的承認を得られない状態における)恋愛的承認の享受」である為、実現が不可能であるか、洗脳等の非倫理的な手段を要する)
従って、「非モテ」とは「ロリコン」と同様、「欲望を叶える事が犯罪に直結する」属性である事に成る。
フェミニスト或いは女性の一部は「非モテ女性は存在する」と主張したい訳だが、そうすると、その女性は「欲望を叶える事が犯罪に直結する」存在であり、
これまで自身達がロリコンに対してしていた「その欲望自体がギルティである」「欲望を公表する事も止めるべきである」とする主張が非モテ女性にも向いてしまう事に成る。
非モテ女性が「異性にモテたい」と言う権利を奪ってしまう事を是とするか否か、恐らく多くは否とするのではないか。
(また、私は女性を「性欲の無い清純な存在である」という神聖視を悍ましいものと考えるので、女性にも性欲は存在すると考えている。その場合、非モテ女性も「セックスしてぇ~」と主張したい場合もあり得るだろう。
それもまた彼女が非モテ女性である限り「欲望を叶える事が犯罪に直結する」欲望の告白に他ならない訳だが、その権利を私は彼女に認めたいし、多くのフェミニストもそうである事を願う)
だとすれば、「非モテ女性は存在する」か「ロリコンはその欲望を公表するべきでない」のどちらかは否定できなければ、論理的な正当性を主張できない。
以上は複数の論題に渡り論理的な整合性を保つべきという規範に乗っ取った議論であり、
恐らく多くの人(フェミニストや女性を含む)にとって非常に複雑で難しい話だと思う。従って理解されない事も有り得るだろう。
例えば「こういう問題を一緒にするべきではない」とあなたは考えたくなるかもしれない。
けれどもそれは自死の道である。「複数の異なる問題の間に論理的な整合性・一貫性を求めるべきではない」という規範は、あなたの批判の大部分をも無効化してしまう。
あなた自身も「複数の異なる問題の間に論理的な整合性・一貫性を求めるべきではない」事に成ってしまい、あなたが誰かの異なる問題に対する態度の違いや一貫性の無さを批判したい時にも、その規範は適用され、批判は意味を失くしてしまうのだ。
矛盾には一つの問題内での矛盾と、複数の問題間の矛盾があるが、当然ながら後者の方が多い、それをみすみす手放し、前者のみしか批判出来ない様自分を縛ってしまっては、
あなたは多くの批判を手離してしまう事に成る。そのようなリスクに見合う程、今回の議論の否定は大きなものではない。従って、受け入れる事をお勧めする。
ここで語りつくすことは出来ないが、興味深い論点が有る為、補記として残しておく。
ロリコン或いは女性を性的に消費するコンテンツにおいて、読者や視聴者に与える後天的な変更が取り沙汰される事が有る。
例えば「ロリ漫画はロリコンを増やす」であったり、「風呂覗きの描写は男性児童に悪影響を与える」等である。
一方で先日の足立区議会での自民党議員の発言の様に、「(コンテンツや制度的な承認により)LGBTが増える」事を危ぶむ差別的発言があった際、
「そんな事でLGBTは増えない」「あなたの生活は何も変わらない」といった反論が上がる事が有る。
これ等はLGBTの先天性を根拠の一つとして主張されるわけだが(それ故、「ゲイに掘られれば」発言による後天的なヘテロ→ゲイの変更は、これらの反論に真っ向から対立してしまう非常に危うい発言である訳だが)
この時、その先天性自体を否定する言説が現れた際、その言説に求めるべきエビデンスとは何であろうか?
通常、ロリコン或いは女性を性的に消費するコンテンツの影響を論じる際、「統計等のエビデンスを挙げろ」といった反論がされるが、多くの場合は無視される。
つまり、(その状況を肯定する限り)ロリコン或いは女性を性的に消費するコンテンツによる後天的な変更の可能性にはエビデンスは必要ないという事に成る。
これと同じ規範を適用すると、「(コンテンツや制度的な承認により)LGBTが増える(後天的な変更は発生する)」という主張にもエビデンスは何ら必要ないという事に成る。
もしLGBTの先天性を事実として保護したいのであれば、LGBTへの後天的な変更が可能とする主張にはエビデンスを要求する必要があり、
そのような規範を持つ限り、ロリコン或いは女性を性的に消費するコンテンツによる後天的な変更の可能性を論ずる際にも、エビデンスは必要と考えない訳には行かないのである。
今回はここまでにしておくが、とあるコンテンツや制度による受容者への影響、またはそれらを論ずる際に必要とするべきエビデンスの問題は、
LGBT等への配慮の問題と関係するという点でこれらの論点は非常に興味深い。
これまで主にリベラル側で軽視されてきた強力効果論等のメディア強化論のエビデンスの重要性について、再度一考するインセンティブがリベラル側にも現れたという事なのだ。