はてなキーワード: レトルト食品とは
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(粉、500㍉ペットボトル)
◾栄養補助食品(カロリーメイトやゼリー)
◾レンチンのご飯
◾日保ちのする食品
◾塩飴や黒糖飴
◾ごみ袋
こういう募集したら、多分送りやすいカップラーメンとかゴミ袋は大量に送られると思うんだよね。
でも、それ以外はうまく届かないと思う。
足りないモノについてすぐ注文できるようになってるようなのができないなと。
Amazonとかそういうのやろうと思えばすぐできると思うんだよね。
こういう話すると、頭が良いつもりのはてなメーンは絶対にお金で送ればいいだろって言うでしょ。
いやいや、数さえきっちり揃うならもので送ってくれたほうがいいって。
事の発端は、昨年末から原因不明の下痢軟便が続き、街の消化器化にいったら「胃潰瘍ね〜」と言われたものの「いや胃は分かったんですけど、下痢軟便といったら腸では?」と思ったが、先生があんまコミニュケーション取ってくれないタイプで、じゃあいいや、ってんで自分で内視鏡検査を予約。
しかし分からんもので、思い切って予約を取ってほどなく、半年ほど続いたお腹の不調がボタンを押したかのように収まってしまい、腸なのに肩すかしですか、と思ったもの「まあ原因がはっきりしなかったのは確かなんで、一応見とくか」という事になった次第。
ストレス社会で日々う○こを漏らしている増田・はてなー諸君である。
「ひょっとしてなにかマズい事が我が腸に起きてるやも」と思うかもしれないので、そんなときに腸をチェックできる内視鏡検査とはどのような物であるか、自分の体験を書きたいと思う。
ここでは特筆すべき事はなく、お腹の調子とか、便に血が混ざってたとかそういう事をきかれたのち、検査日を予約して、診察終了となる。
検査日は2ヶ月後なのであった。
自分の場合、お腹の問題は去っており、さらに2ヶ月後であるが、決めちまったものは仕方ないんである。
この検査食であるが、キ○ーピー謹製のレトルト食品「ジャ○フ」である。
キ○ーピーってマヨネーズとドレッシングばっかり作ってる訳じゃないんすね。
時は流れて検査前日になり、この検査食で1日過ごさねばならないのであるが、これがおかゆみたいな、よく言えば優しい、有り体に言ってしまえば味も歯触りも薄い食事で、なんか食べてるとちょっとテンションが下がってくる。
こういう食事に「わー、宇宙食みたいだー」とワクワク感を発見できる人は素敵だと思います。
この検査食の目的は腸を綺麗にする事なので、3食(+間食つき)食べ終えたら、下剤を飲んで就寝となる。
変な味がするものは、後できっちり飲む事になる。
ここで、本来ならば下剤の効果により1次う○こが出ていることが望ましいのだが、お腹というのは意外という事をきいてくれないモノで、自分は結局1次はパスして病院に向かった。
診察から時は流れて、久々にくる病院も「あー、今日ここでカメラをケツに突っ込まれるんだなー」と思って見上げると、なにか狂気の化学実験場のように見えてくる。
さて、下剤をのんで1次う○こがでなかった場合はどうするのか。
子供のとき以来久々に見る白いロケット状の錠剤は、メンタルにボディーブローを食らわしてくる。
よくよく考えると、自分でこれを入れた事はないだが、トイレで中腰になりながら「おっおっ」とポジションを探りながら四苦八苦するのと、いい歳こいて看護師さんに「すんませんケツ突き出すんで突っ込んでもらっていいですか」と言うの、どちらが良いんだろうか、と迷った挙げ句、自分で入れる事にした。
ちょっと油断して浅く突っ込むとすぐに「ただいまー」と戻ってきそうになる。
しかも俺、自分のアナルに初めて指突っ込んだよ、何だこの感触とかいろいろ邪念が沸いてきてどうにも往生したが、どうにかベストポジションを得たようで、しばらくして、晴れて腸に待機していた使途が便器にファーストインパクトを起こすことに成功した。
これでカメラを突っ込めるのか。
それで済むならこんなに楽な事はない。
大腸内視鏡検査というのは、この後、半日がかりで腸のコンディションを整えてからではないと出来ないのである。
待合室のような所に通されて、そこで待っていたのは2lの整腸剤。
これを1時間ほどかけて飲んで、あとはひたすらトイレに行きまくって腸を空にするのであるが、この整腸剤が、海水を水で割って人工甘味料を混ぜたような変な味なのだ。
一口のんでも微妙なのに、これを飲みまくらないといけないとなると「早く終わってくれねーかな」という気分になってくる。
そうこうしてるうちに、いよいよ我が腸も便意を訴えてきて、トイレへのう○このピストン輸送が始まった。
はじめはまだ固形をたもっていたそれも、回数をこなすうち、どんどん水状になってくる。
普段、肛門から液状のものがでるのは不快で仕方ないものだが、5回も6回も繰り返しているうち、「え、肛門からはシャーって出るのが普通じゃないっすか?」という気持ちになるから不思議である。
それより参るのが、こんなに肛門を酷使すると、尻が痛くてたまんない。
これについては「初回から紙をつかって拭く戦術」が失敗であったと気づき、ウォシュレットをつかおうとしたのだが、時既に遅く、破損した門への水流は、強烈なアラームをわが痛覚に送りつけてきたのであった。
諸君に助言するなら、初回からウォシュレットを最大活用すべきだ。このテクノロジーの使いどころはここである。
さて、腸がきれいになったかどうかは「目視」で、何を誰が目視するのかというと、「トイレの結果を看護師さんが目視する」のである。
この微妙な羞恥プレイも来るものがあるが、自分にとって朗報であったのは、始めは事務的で怖い感じの看護師さんに「どうですか僕のう○こ」とやっていて「まだですね、整腸剤追加です」とバッサリ切られていたのであるが、あまりに繰り返していたので、人当たりのよい看護師さんに交代になり、「うーん、もう一回いきましょうか☆」という声で幾分心が軽くなった事である。
屈辱の概念が塗り替えられる1日にあって、優しい言葉と笑顔は重要だと感じたのだった。
さて検査準備も後半に差し掛かり、いよいよ検査着に着替えると、パンツのケツに穴があいている。
こんなセクシーなパンツを履く事になるとは人生というのは分からないものだ。
ここまでくると、あきらめの境地に達してくるものの、肝心の内視鏡は鎮静剤を射たれるので、ほぼ眠ったような状態で受けるに違いなく、「はじまりゃあっという間」というのが一つの心の救いはである。
点滴だ。
こんなにう○こしてると脱水症状を起こすので、点滴で水分補給をするのだ。
これで便意がきたら最悪だ。
このガラガラを引きずって、腕からのびるチューブに気を使いながら、検査着からケツを放り出すことになる。
あまり良くない事ではあるのだろうが、なんとか便意を我慢したのであった。
本郷猛が仮面ライダーに改造されるような部屋に緊張が走るが、それも一瞬だ、鎮静剤で安らかに眠れば目が覚めた頃には改造は終わってる、違った、検査は終わっているのだ。
点滴の管を利用して鎮静剤が身体に流入してきても、一向に眠くならないのだ。
助手のメガネ君は「はい、脚をくの字に曲げて右向いてくださーい。もうちょっと『くっ』とまげてくださーい」と指示してくる。
そう、鎮静剤は意識が無くならない程度の用量で射たれるのだ。
こうなっちまうと、ケツへの意識はビンビンに残っているのであり、別のところがビンビンになりゃしないかと変な心配が頭をもたげてくるのであるが、幸いなのかなんなのか、肛門性感に目覚めるには自分はまだ青かったらしく、「うーん、女の子ってこんな感じなのかなー、変な感触だけど別に気持ちよくはねーなー。そういや結構演技するって言うよなー」などと言う事を考えたりしたのだった。
あと、なぜか目をつぶっちまった訳だが、世の女の子が事に及んで目をつぶりがちである事とは別の状態であるように思う。
検査の為にお腹のなかにガスを入れられたときに「おっおっ」といってしまったのも、エロマンガで美少女が忘我の境地に達している時の嬌声とは違うものに違いない。
ややあって先生の「特になにもないですねー」という気の抜けたような声が聞こえる。
よかった、半年前のう○こ異常は胃潰瘍、せいぜいが神経性の過敏性腸症候群でファイナルアンサーだ。
ここで眠れれば楽だろうが、そんな量の鎮静剤は射たれてないので、「そうすか、良かったです」とこれまた気の抜けたような返事を返してベットを降りたのだった。
検査をする時期には半ば意義が怪しくなっていたが、心配の種の一つが否定されたのは心が軽くなったのであった。
増田諸君、はてなーたちよ、君がもしもし思い立って、大腸内視鏡検査を受けようとおもったなら、この記が参考になれば幸いである。
小学4年くらいから性欲旺盛で、高校時代は1日3回以上、たぶん1年に1000回くらいはオナニーして射精してたと思う。18歳になった誕生日、地元の小さな本屋で、リストアップしておいた欲しいエロ漫画を30冊ほど購入した。受験をつつがなくこなし、上京して、今は大学2年。エロ漫画にハマり、バイトをしながら中古で買ったりして今は400冊ほど持っている。趣味はオナニー、と言っていいほどポルノが好きで、去年は初めての一人暮らしで狂ったようにオナニーし続けた。
今年の夏にバイトを辞めて実家に帰ったとき、両親が離婚して母方の実家に帰った。離婚後にお金に困らないように母親はしっかり貯金をしていて、なにも生活は不自由しないはずだった。9月には東京に戻り、もともと憧れていた書店員のバイトをしようと思ったが、落ちてしまった。そこからは自信を無くしてバイトをする気になれず、趣味にかけられるお金は少なくなった。生活には困ってなかったが、父親からの経済的援助が無くなった以上、母親のことを考えると、バイトをしていない身で贅沢するのは良心が許さなかった。食生活は週一度の二郎系ラーメン、ほかはレトルト食品やパスタばかり食べるようになった。そのほかは毎日野菜ジュースを200ml、エビオス錠を20粒、DHCの亜鉛サプリを1粒摂っていた。
異変を感じ始めたのは10月頭だった。いつものようにdlsiteで買った同人音声でオナニーを始めるが、連続で射精を促されるようなシーンでも、2回目の勃起ができない。悲しかった。食生活のせいかもしれないし、実家とバイトに関するストレスのせいかもしれないし、ほかの理由かもしれない。そのままダラダラと1日1回しか射精せずに今に至る。憧れのバイトに落ちてからというもの、ただ大学に行って友達と遊んで帰ってきてゲームをしてオナニーして寝るだけの生活が続いていて、正直マンネリ化している。自由にお金を使うことに負い目を感じるだけでここまでストレスが溜まるとは思わなかった。今まであまり大きなストレスを感じること無く生きてきたので、自分のストレス耐性をの低さを思い知った。
中間テストの時期も過ぎ、心を入れ替えて昨日ようやく次のバイトに応募した。採用されて自分で稼いだお金を好きなように使えるようになれば、現状が変わると信じたい。また前のように働いてお給料をもらって、好きなゲームを買って、おいしいくて栄養のあるものを食べて、エロ漫画も同人誌も同人音声もオナホもたくさん買って、毎晩毎晩4,5回はドバドバ射精して楽しい毎日になるといいな。それまではきちんと1日1回、できれば2回射精して、徐々に精力を高めていきたい。
そもそも、レトルトと出来立て料理の 味の違いはどこからくるんだろう…と考えたことはあるのかね?
原材料はほぼ同じ、調理方法も量産スケールの違いこそあってもほとんど同じなのに、
なぜかレトルトがいかにもレトルト風味になってしまっているのは、
120℃で最低4分間、実際には5~10分の 加圧加熱殺菌処理をしているからなんだよ。
(※特に調理工程に加圧加熱殺菌処理を組み込んでいる場合もっと長い。某カレーは、生の食材を封入して殺菌処理の時に調理している。)
この処理で、最も耐熱性の高いボツリヌス菌が死ぬのでレトルト食品がそれなりに安全な提供手段になっているわけだが、
出来上がったレトルト食品を食べると、あまりにもオリジナルと違う。
みなそれぞれ、思うところもあるだろう。「その時」まではまだ半日くらいあるが、まあそれは置いてくれ。今回俺が書いていくのは、とても大事などうでもいいことだ。
確認しておきたい。あの当時、乾電池を大量に買い込んだ奴はいるだろうか。特に単1単2とかの、日常生活で微妙に使用頻度の低い電池を。あるいは、緊急時用の飲料水を。缶詰を。レトルト食品を。
自分の専門が家電だからとりあえずそれに絞って話をするが、買ったって奴らは、とりあえずその電池の使用推奨期限を確認しておけ。今日書きたかったことはこれだ。
乾電池には、食品で言う賞味期限みたいな指標として、使用推奨期限というのがある。実際、表示内容も目的も賞味期限とほとんど一緒で、該当期間内に使用開始すれば正常動作し、かつJISで決められた性能を満たすことを保証する限界を言う。ちなみに読み方は、一般には「03-2016」とあれば2016年の3月が期限ということになる。
で、(今もだが)あのころ販売されていた電池の中には、その期限が(普通のアルカリ乾電池の場合で)5年間のものがかなりあったはずだ。つまり、同時期に製造販売されたものであれば残り1年位になっている。デッドストック品を買ってたりすると、もっと短いかもしれない。
俺は、例の日に電気屋で働いていた。その日は設備の安全性がすぐには確認できないということで速攻閉店になったんだが、翌日の営業再開以降、乾電池はそれはもうよく売れた。トップの判断もまだ混乱していたから、当初は個数制限とかもなかったせいで、かごに満タンになるくらい単1電池を買っていった奴もいたわけだ。
だが思い出して欲しい。単1とか単2の電池って、ふだんそんなに使わないはずなんだよ。何故電池を買う羽目になっているのか、もちろん使うためだが、原因は「家になかったから」だったに違いない。
お前が今買い込んでる電池、それほんとうにそんなに必要なのか?5年しか保管できないのに使い切れないんじゃないのか?そんなことを薄らぼんやり考えていた記憶がある。
自分自身、もしもの時への備えは重要だし大切なことだと思う。だから、必要な物をあらかじめ(そう、予めだ)用意しておくのは素晴らしい発想であると考えている。だが、あの時のあれは間違いなくパニックだった。買った方も売った方も、何も考えてなかった。
とりあえずこの機会に期限を見なおしてもらって、残りがやばそうなら今からでも使っていくなり置き換える用意をするべきだ。ついでに、一緒に買い込んだ缶詰とか保存食とか水とかも見なおしとけ、あのへんもたしか保存期間5年位のがけっこうあるはずだ(もっと短いのもあったはず)。一緒に入れてあるラジオや懐中電灯や手回し発電機が正常に動くかどうかも確かめろ、使わない家電も部品は劣化するし、こういう備えは物置の奥の方とかにしまいこまれてて保存状態最悪ってのがありがちだ。
万が一への備えは、万が一の時に使えないんじゃ意味が無い。そんなこと起こらないのが一番だが、備えるならちゃんと備えておけ。
電池の期限の話だが、当時の表記が5年でも、実は現在と製造方法が全く同じで、一定の出荷時期から表記だけ10年に改められている商品が存在するそうだ。そういう電池なら、期限表記を改める前に出荷されたものでも、期限を超えたところで理論上は問題なく使えることになる。
また、仮にそうではなかったとしても、多少期限を超えたところでいきなり一切使えなくなるわけではない。JISで規定される性能を満たす保証はされなくなる、というだけである。まさに賞味期限といえよう。
だが、それでも期限は守って使うべきだと言いたい。実際に手持ちの電池がどのように製造されているか確かめるすべはないし、それでうまく使えなかったとして困るのはあんた自身だ。多少のリスクは背負うというなら別に止めはしないが。
備えとしての買いだめ全般を否定しているようにみえるという指摘があるようなので念のため追記しておくと、もちろんそんなことは書いていない。えーとなんて書けばいいかな、
「騒ぎになった時だけ買いためてそのまま忘れちまってないか?」
「買ったものは古くなって性能が落ちたり使えなくなったりするが更新してるか?」
あたりが言いたかったことだ。個人的には、普段使う量に若干の上乗せ(それがどれくらいかは人による)をする程度に買い溜めておき、古い方からローテで使うのが賢いと思う。常に最新に更新される。備蓄食糧とかは1年更新とかでいいんじゃないかな、「この日は更新日」ってきめちゃってさ。
あとブコメ見てそういえばそのこと書いてなかったなーと思うので補足すると、電池の液漏れは本当に危ないから注意だ。それこそ、緊急時に水が使えない状態でアルカリ溶液の化学やけどとか、あんまり想像したくない状況だ。
・S&B なっとくシリーズ(カレー・シチュー・中華丼etc) 78~100円程度
・キューピー パスタソース(たらこ、明太子) 2食入りで160円前後
・玉子 地域によって価格差が激しい食材、常温OK。100~200円
・マヨネーズ カロリー補充wのために多めに使う 常温OK。200円前後
・粉チーズ 輸入食材屋(やまや とか)で大容量で買って来る。常温OK
・缶詰 魚、ささみ、豆が基本か。100円以内で探す。99ショップがスーパーより安い場合あり。
・サバ缶詰
・粉末青汁
・豆乳
・おぼろ昆布
・シラス干し
・塩蔵-新巻鮭、塩豚
・乾燥(乾物)-干し椎茸、高野豆腐(凍り豆腐)、干し魚(棒鱈など)、乾麺、糒
・燻煙-燻製
・酢漬け-ピクルス、しめさば
・脱気(脱酸素剤の利用)
・缶詰
・瓶詰め
o 非常食
o 宇宙食
ありゃプログラムできるフリしたニセモノを簡単に見分けることができるっていう寓話の一種だ。
本来なら、ユークリッドの互除法か、エラトステネスのふるいか、QuickSortかその全部を面接で得意な言語で書かせるよ。
それができるやつは最低限、コンピュータってやつの根っこが解ってるし、できないやつはたとえフレームワークがいじれてもコンピュータがなんなのかわからない奴だから、いずれ行き詰まる。
そういうのは常識なんだよ。
いくら世の中に一見お手軽に見える技術やフレームワークやミドルウェアがあるからって、双方向リストもQuickSortも書けない奴は、データベースの設計をミスるんだよ。
トーシロが使い方間違えたら台無しになるんだよ。
プロなら調味料もフレームワークも自力で仕込める程度の腕前は持って、その上で、あえて枯れた既成のミドルウェアとフレームワークを使うんだよ。
今時のフレームワークもミドルウェアもオープンソースだから、自分で作れるくらいの技量がなかったら中がバグってたら対処できないだろうが
大塚食品株式会社(本社:大阪市中央区、代表取締役社長:戸部貞信)は、お米を使用しない主食『ライス・フリー』シリーズを 4 月 8 日(火)より、全国のローソンで先 行 販 売※ 1 します。
『ライス・フリー』シリーズは、精白米不使用の“マンナン雑 穀”とおかずがセットになった電 子レンジ調理専用のトレイ型レトルト食品です。“マンナン雑穀 ”は大塚食品が「マンナンヒカリ」※ 2 の技術を応用し独自に開発した製品で、これまでのように主食とおかずを別々にレトルト殺 菌する必要がなく、素材が異なるこれら 2 品を 1 プレートで同時にレトルト殺 菌することが可能になりました。また“マンナン雑穀”を使用することで、1人前200g・200kcal 以 下となり、カロリーが気になる方や食事の時間が不規則な方にもおすすめの商品です。
喰ったのでレビュー
200g。男性は絶対足りないと思う。主食はおにぎり一個分くらいの体積だが、おにぎりは握ってるのでもっと重量あるだろう。
ただし、主食のマンナン雑穀が「ごはんというより硬めのおかゆ」なので、(本来はスプーン推奨だが)箸で食べると食べにくく時間をかけて食べることになり、満腹感はけっこう増す。
普段朝ごはん食べない人が、これを朝ごはんにするならちょうどいいかな、と思います。レンチンで食べられるし。
ダイエット用にもよくあるマンナン米。ただし、ふつうのマンナン米はごはん(主)に混ぜてカロリーを減らす(従)のに対し、こちらはマンナン米がメインになっている。
硬めというか炊くのにちょっと失敗したごはんというか、米から炊いたリゾットの米みたいな食感。
以前ローソンで販売していたタニタコラボかなんかのマンナン米弁当とあんまり変わらない。
ご飯だと思って食べるとおいしくないが、硬めの雑穀粥か、米を材料にした新しい料理だと思うとおいしい。
雑穀は引き割り大豆、きび、あわ、ひえ、白ごまが入ってる。食感がアクセントになり、飽きずに食べられそうな感じ。
随時追加していく
豚肉のダシのきいたあんかけ。名前の通り野菜メインで、具としての肉はあまり入っていない。(材料には入ってるみたい)。
辛いというよりはスパイシー。そしてチャツネかすりりんごと思われるフルーティーな風味。
中華あんは野菜の食感があったが、こちらはわりとじっくり煮込まれている。
実は筆者、麻婆春雨を食べた経験が非常に少ない。あと辛いのが苦手。
そのため正確なレビューとはならないと前置きしておく。
辛さは中辛麻婆と同程度。食べている途中で水が欲しくなる。
味は普通の麻婆。豆腐やナスだったら薄まって物足りなくなるのだろうか。
野菜の食感は三種類中一番かもしれない。
http://anond.hatelabo.jp/20130715160325
品揃えは並以下。お値段普通。夕飯の材料揃えるだけなら苦労しない。(社会人としてのスキル)
品揃えは普通。たまにセールをする。チーズの種類がちょっと増える。(専攻の幅が増える)
さらに上が国立大学。大型チェーン。関東で例えるならマルエツぐらい。
品揃えは上々。比較的安い。缶詰とかレトルト食品はカンスト。PBもあったり。(大学としての平均ライン)
その上がBラン前後の大学と工業・医療系の大学。高級・専門スーパー。
品揃えが偏る。値段高い。カレーのスパイスの充実っぷり。海外勢の侵攻。(学ぶものが決まっているなら良環境)
食品だけでなく他の専門店も充実。大量入荷で大幅値下げ。ここにいけば何でも揃う。
カレーを作りたいときにカレー粉使って作るか、材料からこだわり至高のカレーを目指すかの違い。
最後に出来上がったカレーが美味しいかどうかは、その人の今までの積み重ねにもよる。
最高のカレーが出来上がったとしても一般人には理解できないモノだったり。
そんなに美味しくないカレーでも一緒に笑って食べられる仲間がいれば美味しかったり。
大学が増えすぎて偏差値の低い残念大学が人を呼ぼうと躍起になってる昨今。
Yahoo知恵袋には、本吉病院長に対する地域の冷たい仕打ちがあったような記事が出てくる。
webには、そのようなものはなかなか出回らない。 とりあえず、ちょっとメモまで。
どうなのかな? 投稿者:一患者 投稿日:2007/02/20(Tue) 19:57 No.106
この頃、本吉病院に行くことに、ちょっと抵抗を感じるようになりました。誤診なのか知識不足なのか、適切な処置をされないで手遅れになるところだった人の話を聞きました。医者も生身の人間ですから、診誤ることもあるかもしれないけれども、私たち一般の人は医者を頼りに病院に行くわけですから、しっかり診察をしてほしいものです。
森町長がこの掲示板を見るかどうか分かりませんが、できたら、もっと医師に研修なり、勉強の機会を与えて、町民の命を預かるというのは、重責かもしれないけれども、でも、本吉町で唯一の病院ですので、高い機械を入れるばかりでなく、それを使いこなす人材や医師を育ててほしいと思います。赤字で大変でしょうが、一考お願いします。
直接、病院事務長や院長に話をすればいいのでしょうが……
あとは、勉強用に。
本吉町国民健康保険病院改革プラン(平成20年12月:本吉町国民健康保険病院)
本吉町国民健康保険病院は、昭和22年8月に旧津谷町国民健康保険組合の直営で一般病床24床の病院として開設された。
翌23年には、法改正により旧津谷町に移管され直営病院となった。
昭和30年3月の町村合併により本吉町国民健康保険病院となり、この年に新病棟が建設され、一般病床52床、伝染病病床12床を有する病院となった。
昭和34年当時の診療科目は、内科、外科、小児科、産婦人科を標榜しており、地域の中核的病院として住民の健康と福祉の増進に大きく貢献してきた。
しかし、その後人口減少などの理由により、病院は多額の累積赤字を抱えるようになったため、昭和47年に病院運営委員会を設置し累積赤字の解消に努めてきた。
その後も逐次規模の縮小が図られ、昭和61年には一般病床38床で、内科、小児科を標榜する現在の病院の規模となった。
昭和47年から取組んできた累積赤字の解消は、一般会計からの繰入金の増額等により平成6年に全て解消することが出来た。
その後は単年度の損失はあるものの繰越利益剰余金により累積赤字は発生していない。
本吉町内には、かつては数軒の医科医院が開業されていたが、医師の高齢化等により廃業し、平成15年以降は診療が行われておらず、本吉病院が町内唯一の一般病院として現在に至っている。
国の医療費抑制策による近年の診療報酬改定は、小規模な病院に与える影響が大きく本吉病院においても診療収入が減少している。
特に平成16年度の診療報酬改定により薬の長期投与が可能となり、患者の通院数が月2 回から月1 回になったため外来患者数が減少したことも診療収入減少の要因の一つとなっている。
現在本吉病院では、常勤医師2名により平日の診療に当たり、土日及び祝日等は東北大学病院より臨時医師を派遣いただき診療に当たっているが、患者数による必要医師数は常勤医師3名となっており、早急に常勤医師3名体制の確立を図る必要がある。・・・
本吉町国民健康保険病院は、一般病床が38床で、診療科目は内科、小児科を標榜しているが、現在は内科医師2名により、実質的には内科単科のみの医療提供を行っている。
外来患者数は、1日平均70~80名で年間約21,000人となっているが年々減少傾向にある。入院患者は1日平均35人で病床利用率は93%となっておりここ数年は横ばいとなっている。
外来、入院診療のほかに、件数は少ないが訪問診療や訪問看護・訪問リハビリ等も行っている。
本吉病院は、町内唯一の一般病院であることから、毎週日曜日は当番医として診療を行っているとともに、救急告示医療機関にはなっていないが、内科に係る初期救急については24時間受け入れを行っている。
また、町の健康福祉課が計画している乳幼児等の各種健診や予防接種のほか、町立の幼稚園・保育所、小学校、中学校の校医も受託している。
さらに、町内企業の産業医を受託しているとともに気仙沼地域産業センター主催の健康相談への協力も行っている。
以上のように、本吉病院が地域において果たしている役割は極めて大きく、本吉町の保健医療の推進を図る上で欠くことのできない重要な医療施設となっている。
本吉病院の正職員数は、医師2名、薬剤師1名、診療放射線技師1名、臨床検査技師1名、理学療法士2名、管理栄養士1名、看護師18名、事務職員5名の計31名、ほかに臨時職員が看護補助員9名を含めて21名で、合計52名となっている。
医師については、本吉病院の患者数による常勤医師必要数は3名で、1名不足となっていることから、当直等を含めた勤務時間が過剰になるなど医師の負担が重くなっており、早急に医師の確保を図る必要がある。
宮城県気仙沼市本吉町の市立本吉病院(38床)が苦境に立たされている。津波で1階が高さ1.7メートルまで浸水した被害に加え、2人の常勤医が辞職するなどして現場を離れたからだ。被災と「常勤医ゼロ」の異常事態が重なる医療現場で、看護師や派遣医師が「住民の身近な病院を守りたい」と奮闘を続けている。
押し寄せた津波に入院患者20人や職員は避難したが、1階の診療室やエックス線室、コンピューター断層撮影(CT)などの医療機器は水に漬かり、損壊した。
3月20日には院長(59)が辞表届けを提出。もう1人の常勤医の40代男性も体調を崩し、ともに現場を離れた。病院関係者は「停電、断水、薬不足の中、外来患者は普段の2~3倍に上り、昼夜働きづめだった。誰も責められない」と語る。
現在の医療活動は、徳洲会病院グループでつくる災害医療協力隊「TMAT」が担う。入院患者は岩手県立千厩病院(一関市)に移送し、24時間態勢で外来診療に当たる。
千葉県から5泊6日の日程でやってきた医師黒岩宙司さん(54)は「避難生活の長期化で風邪や不眠を訴える人が増えている。今こそ協力隊の力を発揮しなければならない」と力を込める。
病院職員は津波によって12人が自宅損壊、2人が家族を失った。自宅が津波で流された薬剤師長の遠藤博文さん(54)は「JR気仙沼線の復旧の見通しが立たず、遠距離通院はできない。ここを守るしかない」と、泊まり込みを続ける。
TMATの支援期間は1カ月程度の見通し。市は復興作業と医師確保という難題を背負った。
看護師長の佐々木美知子さん(44)は「人口1万1000の本吉地区住民にとって、病院はここしかない」と話す。
職務に追われ、2人の子どもと会えたのは震災1週間後だった。「住民の健康を守るため、病院存続のため、みんなで力を合わせたい」。言葉に強い覚悟がにじんだ。(高橋鉄男)
◎常勤医去り職員が結束/宮城県気仙沼市立本吉病院看護師長・佐々木美知子さん(44)
入院患者19人全員を岩手県の病院に移し、人心地ついた朝だった。
3月20日。気仙沼市立本吉病院。
男性院長(59)の姿が消えた。
震災から9日間、泊まり込みで診療を続けていた。部屋に辞職願があった。同じ日にもう1人の常勤医も体調を崩し、現場を離れた。
旧本吉町で唯一の病院は常勤医がいなくなった。
看護師ら31人の職員が残された。被災で派遣された外部の医療団の応援を受けている。4月上旬。
「おばあちゃん、眠れていますか」
2階の一室で外来の患者に話し掛ける。そばで派遣医師が心音を聴いている。
院長は地元が兵庫県で阪神大震災にも遭ったという。耐えられなくなったのだろう。
「責められないよね。私も逃げ出したいぐらいだもの」
津波で1階が水没した。医療機器が壊れ、カルテが流され、ガスと電気と水が止まった。
メモ用紙に「カルテ」と書き込み、急場しのぎの診療記録を作ることから始めた。
入院患者の足元で雑魚寝し、患者のタオルを借りて寒さをしのいだ。医薬品が足りない。患者によっては点滴を半分に減らさざるを得なかった。
病院は存続するのだろうか。常勤医の不在は職員を不安にさせた。
外来患者は1日200人前後。震災前の3倍に増えた。不眠や風邪を訴える。
「病院が地域の人に求められている。病院消滅の不安は消え、存続への使命感に変わった」
4月9、10の両日、地元の住民約100人がモップと雑巾を手にやって来た。自治会長(52)が常勤医不在を知り、「地域の力で病院を守ろう」と清掃を呼び掛けた。
1階の泥をぬぐい取る。職員も一緒に精を出す。
看護師長になって12年になる。2人いる管理職の1人として職員を束ねる。
「みんなと一緒に目の前の患者に向き合うことしかできない」
職員のうち、12人が家を流された。それでもほぼ休みなく働いてくれる。家族を失った看護師も現場復帰した。
家に帰ると、長男(8)と長女(5)に抱き付かれる。「うちはどうして休みがないの」と聞かれる。ほとんど一緒にいられない。夫(42)も市の水道職員で忙しい。
医療団はいずれ去る。
「それまでに常勤の医師を確保し、以前の運営に戻れるかどうか分からない。でも、職員と地域の人は命の拠点を残したいと頑張っている」
心の中でわが子に言い聞かす。
もう少し待って。いい未来を残すから。(高橋鉄男)
東日本大震災の津波で1階が水没した宮城県気仙沼市の市立本吉病院(38床)は、大半の医療機器が流されたうえ、院長ら2人いた常勤医が病院を去るなど苦難に直面した。だが、残った看護師や職員は県外から派遣された医師とともに「被災して苦しんでいる人をわれわれが見捨てるわけにはいかない」と奮闘を続けている。【村松洋、堀江拓哉】
3月11日、2階建ての病院は大きな揺れで停電した。非常用発電機でひと息ついたのもつかの間、約35分後には津波が襲った。1階が水没したが、入院患者19人と看護師長の佐々木美知子さん(44)ら看護師、職員約20人は2階に避難して無事だった。医薬品や布団、非常用食料は2階の一室に運び込んだ。
夜には自治会から発電機を借りて、心電図などの機器をモニターした。それでも院内は真っ暗で、懐中電灯で看護を続け、患者にはレトルト食品など非常食を食べてもらった。
来院者は増えた。不眠やストレスで息苦しさを訴える被災者が多く、通常の約4倍の270人が来院する日もあった。佐々木さんは10日間、自宅にも帰らずに看護を続けた。
17日には県外から3人の医師が応援に入り、19日には入院患者の転院を終えた。だが翌日、院長(59)の姿はなかった。机上に「一身上の都合」を理由にした辞職願があった。
院長は阪神大震災で被災し、東日本大震災では津波にのまれ、病院の燃料タンクにつかまって助かった。管理課長の鈴木幸志さん(59)は「2度も被災され、院長の家族も心配していた。去ったことをとがめるわけにはいかない」と話す。体調を崩したもう一人の常勤医も病院を去った。
残った看護師や職員たちも被災者で、計29人中12人が津波で家を流された。夫や親族を亡くした看護師もいるが、全員がほとんど休まずに勤務を続ける。
4月9、10日には地区の住民ら約100人が1階の汚泥の掃き出しなど掃除をしてくれた。地震から1カ月の11日、1階での診療を再開した。
応援の医師はいずれ県外に戻る。病院は今、市や医師会を通じ、新たな常勤医を求めている。佐々木さんは、常勤医不在で病院の将来を心配しながらもこう話す。「家を流され、私たちより困っている人が大勢いる。そんな人たちを診てあげられるのは私たちしかいない。今できることを毎日続けるだけです」
宮城県気仙沼市本吉地区で唯一の医療機関、市立本吉病院では、震災後に男性医師と院長が相次いで休職・辞職し、残された看護師たちが応援の医師と休まず働き続けている。
「大丈夫? 痛くないかな」。白衣の代わりに白いエプロンをまとう看護師長の佐々木美知子さん(44)が高齢の女性から採血し、優しく語りかけた。
1階天井近くまで達した津波は白衣も医療機器も流した。人口1万1千人の本吉地区から市中央部への道は断絶。佐々木さんらは、薬を求めたり体調不良を訴える市民の応対に追われた。院長(59)は1日に最大で270人の患者を診察した。
応援の医療チームが到着した14日から、50代の男性医師が休職。20日には院長が姿を消した。院長室の荷物にまぎれて辞表が見つかった。「院長がああいう辞め方をしたことを責められない」と佐々木さん。「看護師だけになってもやるしかないと覚悟した」
応援チームは小児科や外科の医師もいて、24時間体制で患者を診られる。皮肉にも、内科だけだった震災前より多くの市民を診察できるようになった。5月までは医師2人のチームが交代で来てくれる。ただ、地元の主治医と呼べる医者がいずれ必要となる。
「ここが地域の中心になって、福祉や介護、生活すべてを守りたい」。佐々木さんは同僚の看護師と肩を寄せ、笑いあう。「早く新しい先生に来てもらえるよう、私たちが頑張らなくちゃ」 (柚木まり)
上司の挑戦状
http://d.hatena.ne.jp/Delete_All/20110322#1300804667
なんか気が向いたので作成。
部長の暗号と、その辺から拾ってきた防災マニュアルの落とし所を見つけてサクッと作成したもの。
詳細化と詰めで、この変をきちんと参考にされたほうがよいかと思います。
事業所のための「防災マニュアル」(愛知県防災局防災課防災支援チーム)
www.pref.aichi.jp/bousai/jigyousyo_manual.doc
で、ここから下が折衷案的な叩き台。見づらいのは勘弁。
地震についてのみなので、家事とかについては追記が必要。でも文章長くすると部長が読まなくなるか・・・
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1:普段の心がけ・準備
2:緊急時に実施すること
3:危機を脱してから気をつけること
4: 救急措置
1:普段の心がけ・準備
a)非常用具をあらかじめ会社・自宅に準備しておく。用意するべき品は下記6種類で、リュック等に入れて取り出しやすい場所に保管しておく。※定期的に賞味期限等を確認すること
【防災用品】・携帯ラジオ ・懐中電灯 ・ヘルメット ・防災ずきん ・ロープ ・非常用のトイレ ・手動の携帯充電器 ・紐つき笛 ・乾電池 ・ヘルメット
【貴重品・身分証明】・現金(小銭も必要) ・預金通帳や有価証券の写し ・健康保険証の写し ・認印 ・年金手帳 ・家の鍵 ・免許証
【食料品関係】・飲料水(1人最低1日3リットル) ・乾パンやクラッカー ・レトルト食品 ・ビタミン剤 ・缶詰(缶きりや栓抜きも忘れずに) ・粉ミルク、哺乳瓶(赤ちゃんがいる家庭は必需品) ・嗜好品
【衣類関係】・下着(家族分) ・衣類(長袖も忘れずに) ・雨具 ・タオル ・マスク10枚 ・メガネ(衛生不安からコンタクトは難あり)
【医療用品】・ばんそうこう ・包帯、ガーゼ ・消毒薬 ・常備薬 ・鎮痛剤、胃腸薬等 ・紙おむつ
【その他】・ティッシュペーパー ・ウエットティッシュ ・生理用品 ・軍手 ・マッチ、ライター ・洗面具 ・ローソク ・スリッパ(スニーカー) ・筆記用具とメモ用紙 ・軍手・ポリ袋
b)家や会社の中を安全に保つ
・本棚が崩れ落ちないように整理し、テレビ・箪笥・食器棚などを固定金具で固定しておく。
・ベッドの周り・上に倒れてくる・落ちてくるようなものを置かず、安眠できるようにする。
・日々の生活の中で、災害が発生した際にすぐに対応できるよう、時間や心に余裕を持った行動を行い、また事前の情報収集を心がけること。
・ワークライフバランスを保ち、イザという時に動けるように疲労やストレスをためないでくこと。睡眠や趣味や運動を十分に行うこと。
・自宅・通勤途中・仕事場・家族の勤務先・子供の学校の5箇所について、緊急時に非難する、避難所の確認を行う。
2:緊急時に実施すること
a)地震が発生した際は、丈夫なテーブルや机などの下に避難する。ビル街では、ビルの外の広い場所(看板が落ちてこない場所)に非難する。
テレビ等を押さえることは危険なので注意すること。室内の場合、ドアを開けて非常脱出口を確保する。
b)海の近くにいた場合、津波に備えて揺れが収まり次第すぐさま高台・コンクリート製の丈夫な建物の3階以上に避難すること。
3:危機を脱してから気をつけること
被災後は、電気・ガス・水道がとまり、それによって交通機関がマヒを起こす場合がある。
交通機関のマヒが食料・毛布・薬品・ガソリンなどの物資の不足を引き起こすので、皆で分け合い、節約をして過ごすこと。
冬場に暖を取る際は、ストーブ等の一酸化炭素中毒に気をつけること。
b)不安と付き合う
被災後は、被災の恐怖と共に、日常とはかけ離れた環境に身をおくことになる。肩の力を抜いて、軽く体を動かしてリラックスするよう心がける。
十分な睡眠をとれる環境を早くつくりあげ、体温・体力・気力を維持できるようにする。
他の被災者は運命共同体であるので、冷静さと思いやりを忘れずに、相互に助け合って行動すること。
被災の恐怖を克服するために、希望のあることを考えたり、今までの生活について考えてみる。震災で受けた痛みを、正しく癒す方法や気持ちを大事にする。
4: 救急措置
被災の際に、救命処置や、応急手当を行う必要になる場合がある。
あらかじめ講習等できちんとやり方を学んでおき、非常用具に必要な道具を入れておくこと。※会社での講習実施が良い
a)救命処置
・人工呼吸
・AEDの使い方
b)応急手当
・応急手当マニュアル(メルクマニュアルや、iPhoneアプリ「家庭の医学」など)の準備
・骨折
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なんかもう、普通に「自炊」って言葉使われ始めてるよね。マジコンやiPadの登場でにわかに顕著になった印象もあるけど。
そこに俺は大いに違和感を覚えるわけだ。
一応断っておくと、俺自身は「自炊」行為自体の是非そのものについてあれこれ言う気は無いし、ゲームのコピーや書籍のスキャンを「自炊」と呼ぶべきではないと他人に指図する気は無い。
なので、以下はあくまでも「トリビア」的なものだと思って欲しい。その上で、ゲームのコピーや書籍のスキャンを「自炊」と呼ぶかどうかは各自の判断に任せる。ただ俺は(少なくとも当分は)使わず、代わりに「コピー」「スキャン」などと呼ぶだろう。
「自炊」が「自ら炊くこと」に由来する事は、その言葉を使っている人なら知っていると思う。しかし、ゲームや書籍をコピー、データ化する行為と「炊く」という行為は今ひとつ馴染まないと思う人も多いんじゃないだろうか。
その疑問は当然である。そもそもこの言葉は、ゲーム基盤や書籍の電子化とは殆ど無関係な分野の生活用語だったのだから。
では本来の分野は一体何だったのか。ずばり、家事である。
三十代後半よりも上の世代であれば、「KOME」と呼ばれるジャパニーズソウルフードと、それに付け合わせる野菜のお総菜、及びそれらをやりとりするご近所コミュニティの存在は、聞いた事くらいはあるはず。
このKOMEを特殊な機械(羽釜・かまど)でKOMEからGOHANへ炊く行為こそが「自炊」の原点と言える。イメージ的には昔話のおばあさんの仕事に近い。
なので本来の意味での「自炊」とは、取れたての新米およびそれらを炊きあげる機材、炊きあげるノウハウを全て揃えた人のみが可能な行為で、およそ一般人が手軽に出来る事ではなかったのだ。
その後、家庭用炊飯器などもその対象となり、米を中心とする和食からパン、パスタなどへと食事が変化していった事や、それと同時期の白物家電の普及に合わせるかのように登場したIH炊飯ジャーによって、料理のレシピの共有と拡散は急激に進み(*1)、やがてはそれ以外の分野の食材の調理(ここでは家庭で食べられる状態にする事)にまで「自炊」という名前が付くようになっていった。
つまり、パスタをゆでたり、インスタントラーメン、インスタントカレー、その他レトルト食品を湯煎、もしくは電子レンジで暖める行為なども、一時期は十把一絡げに「自炊」と呼ばれていたわけだ。おそらく今でもそう呼んでる人はそれなりにいると思う。炊飯にこだわらない方が、より「炊事する」行為にイメージ的に近いだろうしね。
それを踏まえた上で、白米を炊きあげること「以外」を「自炊」と呼ぶ事に違和感を覚える人がそれなりにいるという事を、最近「自炊」という言葉を使い始めた人達には出来れば理解して欲しい。何十年以上日本で暮らしてる俺みたいな人間には「自炊」なんてのは「柴刈り」とか「掃除」とか「洗濯」とか「子育て」とか「介護」とかと同じレベルの言葉なわけ。
(*1) 炊飯器のレシピ 12539品 [クックパッド] http://cookpad.com/%E3%83%AC%E3%82%B7%E3%83%94/%E7%82%8A%E9%A3%AF%E5%99%A8