はてなキーワード: ポップスとは
職場でプチ話題のばずわーどITC(意識高いカフェ)について前回書いたれいむだよ。
れいむ要素がないというつっこみをうけたので、ゆっゆっと跳ねながら本日も探訪にでかけてみる。俗にいう連載第二回だね。
職場ではITCが話題なんだけどじゃあ逆はどうなんだ? IHC(意識低いカフェ)はあるのか? でも考えてみたらそもそもカフェって言葉自体がおしゃれなものだから意識低くなったりはしないんじゃないかなーすべてのカフェは意識高いんじゃないかな? でもある。あるんだなー今回はそんなIHCを紹介するよ。
れいむの住処は東京東部の23区底辺にあるよ。職場は都心部なのでITが優勢だけど、このへんはまだまだ下町なのでIHもたくさんある。そもそも人間おのずとおしゃれ度には個人差があると思うんだよ。久保帯人師匠みたいにポエミーで霊格の高いソウルはおしゃれ度の高いカフェでお茶が飲めるけど、霊格の低い下町の人間はあんまりにも霊圧の高いカフェに入ると自我が崩壊してしまう。何にせよほどほどの場所が必要なのだ。
とはいえ、23区内では下町とはいっても一応東京都内ではあるのでそこまで乱暴なカフェなどそう多くはなく、代表的なところはプロントとかBekkersとかワイアードくらいか? ドトールやら(ちょっと外れるが)ミスタードーナツなどのファーストフードチェーンなどがその任務にあたっている。みんな普通の顔をして利用しているよ、ゆっゆっ。
最近隣町に大学ができたので学生さん多め。参考書を広げる光景をよく見ることができる。参考書って見てみると不思議だなあ。大学生って色んな種類がいるので、自分が通らなかったルートの読んでる本とかちんぷんかんぷんなんだが、今の大学生って資格受験の参考書とかが多いのかな。それともあれは学校の授業じゃないんだろうか。このあいだ一心不乱にWikiをコピペしてる学生さんを見た。どうでもいいけどAirMacのタッチパッドってコピペにはむいてないデバイスだとおもうんだよなあ。マウスのほうが使いやすいよ。
さてそういう中途半端なチェーン店はいいとして、下町の本格的IHCについて。
IHCとはいえそれって別に侮辱するような意図はないのを断っておきたい。ぽいんぽいんと跳ねながられいむは主張するよ。
本格的IHCは下町的な居心地の良さを追求したカフェなんだよ。いわば、ゆるカフェだよ。いくつかの特徴を紹介するよ。
2)ラテの注文が来ると微妙に手間取る。でも380円でのめる。
3)有線放送ではAKB48がながれる。たまにセイカイノオワリとかいうのが名前の割にはちっとも終末感のないポップスを歌う。
こんな感じの特徴があってれいむのす住処の街には数件確認できたよ。実は意外に居心地が良いのでたまに利用しようと思った。意識は低いけど。顧客の年齢層が高いのもいいかんじだよ。あんまりうるさくないしね。老人多め。そういえばメニューに日本茶が数種類あったなあ。
感銘を受けたのが、ある日のランチが「シラスいり卵かけごはん」「明太子卵かけごはん」「鮭バター卵かけごはん」「ネギだく卵かけごはん」の4択だったことだよ。強い意志を感じたよ。もしかしてIHCっていうのは強い意志でIHなこことを選択したITCなのかもしれない。れいむのカフェめぐりもまだまだ修行が足りないって思ったよ。
ドームは、コンサートを見るにしては会場が大き過ぎる。マイケル・ジャクソンの東京ドームのコンサートに行ったことがあるが、もはや本人がそこにいるのかどうかも確認できない。アリーナ席にいる人間が全員がサクラをやって、影武者がステージに立っていてもばれない。
近年は工夫して、ステージをドームの中央にしたり、本人がスタンド席の近くまで来てくれるようになったけど、それでもそのときだけで、あとはずーっとカメラで映したスクリーンを見ているばかりになる。ドームみたいな巨大な会場か、でなきゃ無名の人が1000人も入らない小さな会場でやっているか、という感じになっている。ふだんからファンクラブに入ってないとチケットが取れない。テレビで見ている歌手は、最後までテレビの中のままになった。いまは不景気の時代なのに、どうしてオレみたいな、たまには歌手をナマで見たいと思うような者のために、歌手本人が確認できる距離感で、県民会館みたいな会場で、チケットを手に入れやすい感じでやってくれないのかな。クラシックのコンサートは、当日席があるのが当たり前だよ。
コンサートに持ち歩く設備機材がバブル時代のままで、トラック数台分とかになってるんじゃないの。ドームのコンサートですら、カラオケと一部ナマ楽器の組み合わせになってて、コストもかからないようになってるじゃん。県民会館でカラオケでコンサートすれば、人員も少なくなってコストも減るはずだよね。クラシックのコンサートに比べれば、圧倒的にコスト安。なのに何でいつもコンサートのチケットは品薄状態のままなんだろうな。売れなくなって昔の人になってから見てもしょうがないんだから。
ちなみに、クラシックのコンサートは、単独で黒字になるものがあまりない。経費の多くをスポンサーが出してくれている。コンサートの看板に『▲▲プレゼンツ』と企業名が書いてある。チケット代収入はコンサートの経費の半分くらいだろうか。だからチケット売り切れ状態にして、コンサートを供給不足状態にしなくてもいい。ポップス業界の興行人は、観客と演者が近くなるための仕組みづくりには取り組んでいないか、取り組んでいてもあまり成功はしていないように感じる。
コンサート見るほうが買主で、興行するほうが売主とか企業で、トラックバックやコメントのアドバイスを見ると、売主や企業の立場にそってコメントしているのも何だか変だと思うよ。服でも食べ物でもクルマでもなんでもいいが、売っている企業の立場を重んじててどうする?みたいに思うんだよね。あいつらに儲けさせてやるべきだというテイストのコメントって、なんか意味があるかな。
http://anond.hatelabo.jp/20150216002609
ジャズは好きだし、有名な盤も聴き切れてはいないが結構聴いてきたと思う。
だれだれが奏でるどうこうしたフレーズ、とかそういう小難しいことをジャズ演奏者や愛好家はよくいう。
もっと直感的に音楽を本能で楽しんでもいいのではないかとよく思うんだけど、
ジャズを知らない人がちょっと興味あるとか、ジャンルの幅広げてみたいくらいの気持ちの人にはもうちょっとキャッチーな感じのジャズをすすめられたらいいなと思う。
自分はポップス、パンクやロックなどの演奏を経てからジャズの世界にやってきたので、聴き始めた頃を思い出してみると、
やっぱりキャッチーなメロディや、分かりやすい(笑)ジャズはすごく聴きやすかった。
Horace Silverとか、Cannonball Adderleyとかね。
例えばだけど、全くジャズ聴いたことない友人にHigh Fiveすすめてみたら、聴きやすくて気に入ってくれてたよ。
相手が取り敢えず聴いてみたいのか、ど定番を聴きたいのか、求める回答によってすすめたいのは違うから、
誰々がいいとか具体的に書けないけど、
ジャズはクラシックみたいにごにゃごにゃとソロがぶわーっと続いて何やってるかよくわかんない小難しい感が
ハードル高くさせてるとなんとなく思うので、
ライトな感じで求めてる人もいるんじゃないかとずっと思っている。
○○も聞いたこと無いの?みたいなジャズミュージシャンとの会話はもう勘弁して欲しい。
現代のジャズミュージシャンも面白い人たくさんいるから、そういうのも紹介する記事とかもっと読めたら嬉しいな。
具体的に誰がどうと書けなくて本当に申し訳ないけど。
(承前)
http://anond.hatelabo.jp/20150214223556
――スティーヴ・レイシーは独立独歩のソプラノ・サックス奏者です。サックスといえばアルトかテナーだった50年代からソプラノを吹いていました。
Evidence (1961) http://youtu.be/X9SBzQw2IJY?t=5m42s
( ・3・) 面白いテーマの曲だな。真面目な顔で冗談を言っているような。
――セロニアス・モンクが書いた曲です。レイシーはモンクの曲をたくさん演奏しています。一方、ハリウッドやブロードウェイの曲はとりあげない。レパートリーに関しては人文系の古本屋の主人みたいなところがあります。
( ・3・) みすず書房とか白水社とか、そういう本ばかり並んでいるわけだ。
――白水社といえば、レイシーはサミュエル・ベケットと面識があって、ベケットのテクストに基づいた作品も発表しています。
( ・3・) 「真夜中だ。雨が窓に打ちつけている」
――「真夜中ではなかった。雨は降っていなかった」――と、ベケットごっこはともかく、演奏はどうでしょう?
( ・3・) まっすぐな音だな。あまりヴィブラートをかけない。アタックの瞬間から音程の中心を目指している。必ずしも正確な音程というわけではないけれど。ソロのとり方としては、テーマとの関連性を保って、構成を考えながら吹いているように聴こえる。言うべきことだけを言って余計なことはしゃべらない。
――そういう点では、プレイヤーの資質としてはマイルス・デイヴィスに近いのかもしれません。マイルスとも少しだけ共演したことがあるのですが、もし正式にバンドに加わっていたら歴史が変わったかも。 [6]
Reincarnation of a Lovebird (1987) http://youtu.be/FbaKNB4cIlc
――こちらは後年の録音。ギル・エヴァンスという編曲の仕事で有名な人がエレピを弾いています。この人も指だけ達者に動くのとは対極にいるタイプで、柔らかい音色で中和されていますが、ずいぶん込み入った和声です。
( ・3・) そこらじゅうで半音がぶつかってるな。
――でも美しい。
――昔、レコードを扱う仕事をしていたので確信をもって言えるのですが、日本でいちばん人気のあるジャズ・ミュージシャンはビル・エヴァンスです。マイルス・デイヴィスよりもリスナーの裾野は広いかもしれません。
( ・3・) 俺でも『ワルツ・フォー・デビー』を持ってるくらいだからな。でもどうして「とりあえずエヴァンスを聴け」みたいな風潮になってるんだ?
――まず、彼がピアニストだということ。もしベース奏者だったらここまでの人気は得られません。それから、ロマン派や印象派に慣れた耳で聴いても違和感がないこと。ジャズに関心がなくてもエヴァンスは聴く、というケースは大いにありうるでしょう。最後に、みもふたもない言い方ですが、彼が白人で、細身で、眼鏡をかけていたこと。
( ・3・) 知的で繊細に見えるのな。
――知的で繊細なジャンキーでした。もっとも、最後の要素はなかったことにされがちなのですが……。
――はい。エヴァンスやチェット・ベイカーに深く共感してしまう人は、モルヒネの代用として聴いているのではないかと思います。「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」という有名な曲をとりあげたいのですが、エヴァンスの前に、まず歌の入ったものから。フランク・シナトラのヴァージョンです。
My Funny Valentine (Sinatra, 1953) http://youtu.be/z9lXbgD01e4
( ・3・) 金の力に満ちた声だな。His voice is full of money.
――マフィアを怒らせるようなことを言わないでください。折り目の正しい編曲で、ポップスとしては非の打ちどころがありません。ボブ・ディランの新譜はシナトラのカヴァー集らしいのですが、ディランが子供のころにラジオで流れていたのはこういう音楽です。当時のアメリカ人にとっては、ほとんど無意識に刷り込まれた声と言っていいでしょう。
My Funny Valentine (Baker, 1954) http://youtu.be/jvXywhJpOKs
( ・3・) 出た、いけすかないイケメン。
――チェット・ベイカー。午前三時の音楽です。もう夜が明けることはないんじゃないかという気がしてくる。どんな曲か覚えたところで、エヴァンスを聴いてみましょう。
My Funny Valentine (Evans and Hall, 1962) http://youtu.be/ReOms_FY7EU
( ・3・) 速い。
――速い。そしてちょっと信じられないクオリティの演奏です。ジャズではいつでも誰でもこれくらいできて当然かというと、そんなことはないので安心してください。
――別のテイクではちがうことをしているので、ほとんど即興だと思います。決まっているのはコード進行だけ。
( ・3・) コードの構成音をぱらぱら弾いてもこうはならんわな。自分の頭の中にあるモチーフを発展させるのと、相手の音を聴いて反応するのと――そういう意味ではチェスに似ている。
――この演奏は一対一ですからね。集中力は同じくらい必要かもしれません。しかも持ち時間はゼロという。互いに相手の出方を読んでいるうちに一種のテレパシーが起こって、3分50秒あたりにはふたりの脳がつながっているような瞬間があります。
( ・3・) このギターを弾いてるのは?
――ああ、忘れていました。ジム・ホール。偉大なギタリストです。悪魔に魂を売って人並み外れた演奏技術を手に入れるというブルースの伝説がありますが、ジム・ホールの場合は魂ではなく頭髪を犠牲にしました。
( ・3・) また好き勝手な話をつくって……。
――いえ、本人がそう語っています。ジミー・ジューフリーのバンドにいたころ、どう演奏すればいいのか悩んで髪が薄くなったと。 [7] でも、髪なんていくらでもくれてやればいいんですよ。肉体は滅びますが芸術は永遠です。
( ・3・) ジミー・ジューフリーって、あのドラムのいない現代音楽みたいなジャズをやってた人か。そりゃ大変だったろうな。
持参したCDを一通りかけて、そろそろ日が傾いてきた。彼はライナーノーツをめくりながら「はーん」「ふーん」などとつぶやいていたが、夕食の邪魔にならないうちにおいとましたほうがよさそうだ。
「もう帰るのか?」
「そうか。わざわざ悪かったな。よし、ちーちゃん、お客様にご挨拶だ」
彼はそう言って猫を抱き上げたが、ちーちゃんは腕をまっすぐにつっぱって、できるだけ彼から離れたがっているようだった。
「きょう持ってきてくれたCDは、うちに置いていっていいからな」
「置いていっていい?」
「だってほら、いちど聴いただけじゃよく分からんだろ。そのかわりと言ってはなんだが、シュニトケの弦楽四重奏曲集を貸してやろう。何番が優れていると思うか感想を聞かせてくれ」
まだCDは返ってこない。「返してほしけりゃ取りに来い」と彼は笑うが、その目はハシビロコウのように鋭い。ただ来いというだけではなくて、また別のCDを持って来させる魂胆なのだ。わたしはどうすればいいのだろう? ただひとつの慰めは、彼の娘さん――父親との血のつながりが疑われるかわいらしさの娘さん――の耳に、エリック・ドルフィーやオーネット・コールマンが届いているかもしれないということだ。サックスを始めた彼女の頭にたくさんのはてなが浮かばんことを。
http://www.nicovideo.jp/mylist/34787975
[2] http://www.nytimes.com/2009/10/18/books/excerpt-thelonious-monk.html
[3] http://nprmusic.tumblr.com/post/80268731045/
[4] Frederick J. Spencer. Jazz and Death: Medical Profiles of Jazz Greats. University Press of Mississippi, 2002. p. 36. "A diet of honey is not recommended for anyone, and especially not for a diabetic, or prediabetic, patient."
[5] http://www.furious.com/perfect/ericdolphy2.html "'Eric Dolphy died from an overdose of honey,' arranger/band leader Gil Evans believed. 'Everybody thinks that he died from an overdose of dope but he was on a health kick. He got instant diabetes. He didn't know he had it.'"
[6] http://www.pointofdeparture.org/archives/PoD-17/PoD17WhatsNew.html
[7] http://downbeat.com/default.asp?sect=stories&subsect=story_detail&sid=1111
http://seana.hatenablog.com/entry/2015/02/05/230648
アイドルの曲は、アイドルが歌うことに意味があるということに気づけただけでも、ジャニーズを好きになってよかったなと改めて思います。
アイドルファンのみんながみんなそうというわけじゃないよ、という話も。
そもそも「音楽とはその演者の主張である」という基準自体が、常に正しいとは限らない。
何の主張も、意思も、意見も、欲求も何もなく、音楽はただ音としてあるだけでも許されるはずだ。
それは、西洋哲学の古典の文脈で、「世界には何らかの真理があるはずだ」とされてきた価値観に似ているかもしれない。
これはおそらく、人間のコミュニケーションの手段、あるいは記録・伝達の手段の発達に関係していると言えそうだ。
音楽を伝える手段は、口伝から楽譜、レコードからCD、デジタルデータへと発展してきた。
一番最初は「自分たちの音楽をいかに奏でるか」から始まったし、実際にそういう手段や発想しかなかったわけだが、
文明の発達によって「楽器を弾かなくても音楽が作れる」、「発表した数分後には世界中の誰でも聴くことができる」ようになり、
音楽のありようは大きく変わってきた。
つまりシニフィエを持たず、純粋にシニフィアンとして存在しうるものに変わってきた。
音楽を奏でる上で、その主体が自分の顔や外見を聴衆の前に晒し、
その言葉が本人の主張であると常に解釈されなければいけない時代は終わったということだ。
人間、あるいは自己の「表現」としての「音楽」には限界がある。
そもそも「音楽」と「自己」とは関係なく存在しあってもいいものであるはずだ。
「自分たちの音楽とは、自分たちの表現だ」という自己規定は、そのうちに必ず自家中毒を引き起こす。
いわゆるアイドル戦国時代と言われたところから、近年のヒットチャートをアイドルが占拠するようになったこの音楽のあり方は、
何も正当性がないただの「衰退」や「退廃」とは異なる、文化としての次のステップの意味を示している。
「音楽」と「自己」、あるいは「音楽」と「意味」の離別は、音楽そのものの純粋さをより推し進めるものともとれる。
たとえばそれは、女性キャラしか登場しなくなったアニメや、10代の若者が世界を救うジュヴナイル作品とも近いもしれない。
その「音楽」をより純粋な形で届ける上で、最適な手段を探した結果、それが「アイドルだった」としても実は不思議なことではないのだ。
ポップスという大衆音楽には、その音楽性やジャンル自体の制限はない。
あらゆる音楽性はポップスに含まれうるが、しかし外見や表現を含めてもそうだといえるだろうか?
ダンスミュージック、ディスコ、あるいはプログレ、ハードロック、メタル、
これらはそのファッション、スタイルと相まって存在していた音楽、文化だ。
ヒップホップの音楽性には、ヒップホップのファッションが必要で、ヒップホップなアティチュードが求められる。
一人の人間、あるいはバンドでこの様々な音楽性の表現は一貫して行うことができるだろうか?答えは「No」だ。
なぜなら自己の表現として音楽が存在すると仮定した場合、多種多様な音楽を奏でることはそのまま分裂症的に解釈されてしまうのがオチだからで、
純粋な音楽の表現において、多種多様な音楽をできるだけピュアな形で届けるには、アニメやアイドルといった、
何の主張も持たない、時にはフィクショナルな存在の方が向いているということは起こりうるのだ。
彼ら、彼女たちと、そこで歌われる、奏でられる音楽は、本当の意味で結びついてはいない。
しかしながら、いや、だからこそ、その音楽は純粋に存在しているし、鳴っているのだ。
ともすれば、その歌詞が支離滅裂で意味を持たなかったとしても、
ナンセンスであるほどにその身体性、サウンドとしての純度は高まるかもしれない。
ひと昔前であれば、優れた40代50代の音楽家が表現しうる音楽の手法、伝える手段は、より限られたものだったろう。
今は、アニメ、アイドル、ボーカロイド…。様々な手段によって、自己の肉体や外見とは関係なく、純粋に音楽を表現できる時代になったのだ。
チャゲアスといえば、ダブルミリオンを達成した「SAY YES」と「YAH YAH YAH」がやはり圧倒的に有名ですが、「PRIDE」はそのどちらと並べても決して劣ることのないどころか、全J-POP史上においても比類のない、赫奕たる地位を占める壮大なバラードです。そしてPRIDEは幸運なことに録音に恵まれています。1989年に発表されたその曲は、何度もライヴで歌われており、様々なバージョンを聞き比べることができるのです。ASKAは年代によって声質や歌唱法がかなり異なっているので、それぞれ別のしかたで楽しめます。今回はややマニアックですが、PRIDEの様々なバージョンをレビューしてみようと思います。
評価=8
CD音源にかなり近いですね。他の音源に比べて特徴となっているところは、サビの「駆け抜けていく」(1:48-50)の歌唱ですね。とくに「く」の母音の処理です。「ウ」と「ア」の中間で発声することで、単に「ウ」と発声するよりもパワフルに聞こえます。ASKA独特の母音の処理方法です。声も若さが満ち溢れていて爽快感を覚えます。
評価=9
声のフットワークが軽くて、とくに高音となるサビのメロディーをなめらかにすべっていく様子はあたかもサーカスの軽業師のようです。曲をより「自分のもの」にできている気がします。
ちょっとマニアックというかフェティッシュなことを言うと、「涙の跡」(3:33)という部分の「だ」の発声が他のものよりも情感豊かで、素晴らしいです。この録音はもっともエモーショナルなものかもしれません。
評価=9
あまり時間の間隔を置いていません。最高のパフォーマンスです。②ほどの情念はありませんが、全体の均整ということで言えば一番優れているものでしょう。
評価=10
ややASKAの声が太くなっていますね。じつは私が一番好きな音源はこれです。
声質が太くなり重量感を覚えさせるけれどもパワフルに突き進むさまは、重戦車が高速移動をする様子さえ思い浮かべます。
この録音では「駆け抜けてく」の「く」の音が、しっかりと「ウ」で発声されていますが、私はこちらのほうが好きです。かように苦悶の表情を浮かべた「ウ」はなかなか聞けません。
評価=7
アンプラグド、さらに欧米でのパフォーマンスということもあってか、アレンジがかなり変わっています。
やや大人しめですね。テンポも少し早くなってあっさりとしています。お洒落な気分でPRIDEを聞きたいという時にはよいでしょう。
評価=6
この頃からASKAの喉の調子に翳りが見えてきます。ポップス歌唱法にはご存じ「ミックス」というものがありますね。地声と裏声を混ぜるってやつです。
艶のある地声成分で高音が出ないのか、裏声成分多めで叫ぶ手法(オペラ歌唱に近い発声)が所々で見受けられます。後半になると多くなりますね。
評価=6
コンサート途中に感極まって歌えなくなったことで有名な韓国ライブです(なおその映像はこちらhttps://www.youtube.com/watch?v=sFi5qExw_pM)。2000年。
やはり前と同じで、高音が苦しそうですが、この曲ではその苦しげな姿すら一種のパフォーマンスに転化しうるものをもっており、胸を打つものがあると思います。②とはまた違ったおもむきで情感があります。
評価=5
2003年から2004年にかけての年越しライヴです。⑥の3年後ですね。
この頃になると、90年代と声は明らかに違ってきます。目に見えて声が太くなってきます。
喉の調子が治らず、どの歌唱法がいいのか模索している感じがします。
評価=9
声はさらに太くなっていくのですが、そうした自分の声にあった歌唱法が見つけられたのがこのLIVEだと思います。2007年。
90年代のASKAを軽快なトランペットだとすると、これは炸裂するトロンボーンとでもいったところでしょうか。CHAGEの超高音はさらに金属質なものとなって、硬質なハーモニーを聞くことができます。
しかしこのLIVEで注目しなければいけないのはASKAよりもむしろCHAGEです。大サビのCHAGEの超高音のハモリはこれまでのどの録音にもなかった凄みを与えてくれています。
あと、またフェティッシュなことを言いますと、3:25あたりの「傷ついて知ること」の「と」の音は、大地の奥底からやってくるような雄渾な響きで痺れます。
やっぱり90年代は黄金期で、どれを聞いても圧倒的ですが、その中でも台北ライヴはワーグナー「神々の黄昏」のような、崩壊しそうなまでに過剰な絢爛さがあって、私はそれを愛してやみません。
00年代になると喉の不調が目立ちますが、それでもDOUBLEのライブは全盛期を取り戻すかのような圧倒的なパフォーマンスを見せてくれます。しかしそれは90年代前半の軽業とは異なり、敬虔なカトリック教徒の盤石堅固な信仰の凄みにも似たものを思わせます。
JUDY AND MARY、90年代を騒がせた"売れ筋"バンドのひとつですね。まー売れ筋だからか、「自称音楽ファン」からの評価は異常に低いですね。曰く「あんなの中高生のワナビーが聴く音楽だろ」「ジュディwwwwwアンドwwwwwwwマリーwwwwwwww」みたいな。でも先入観なくJUDY AND MARY を聴いてみましょう。実際よくできてるんですよこれが。
例えば、Miracle Night Diving という曲を例にとってみましょう。コード進行がついたやつが http://gakufu.gakki.me/m/data/DT02121.html:ここ] にありますね。動画は https://www.youtube.com/watch?v=xpLEm-cafyw:このあたり] で見れる。はいまずコード進行が「一般的なJ-POP」からかけ離れてることがわかるでしょう。まずサビ以外のコード進行がすべてテンションコードであることが見て取れますね。この時点で「あっちょっとヒねてるなこいつら」という感じです。さらに、コード進行的にはD7一発であるのイントロのギターのフレーズを取ってみましょう。「ラードーソファ#ーラドレソファ#ーレードラードソファ#ーラドドッドー」。これはひどい、一度も根音であるレが出てこないどころか、スケールとしてはむしろミクソリディアンスケール(ラ シ ド# レ ミ フ# ァ ソ ラ)として解釈したほうがよほど自然なフレーズになっている……(ドがナチュラルなのはブルーノート)。でも、曲全体としては結構ちゃんと「ポップス」してるんですよね。
ここからわかることはなにか。JUDY AND MARY は、「音楽オタクにとっても"おもしろい"ことをやろうとしながら、その上で"ポップス"であろうとした」ってことです。これはめちゃめちゃ難しいことですよ。言うなれば、「ジャンプに連載しながらアックス読者の鑑賞に耐えうるものにしよう」という強い意思を感じるわけです。一応言っておくけど、俺はべつに「アックス」が「ジャンプ」の上だと言っているわけではないですよ。そこにあるのは「指向性の違い」だけなんですからね実際。そのくせ、なんか、アックス読者の意味わからない選民思想で「ジャンプか〜〜〜まあね〜〜〜〜実際面白いと思うけどね〜〜〜〜〜」みたいなクッソ感じ悪いやつあるじゃないですか。その癖「いやまあ富樫は認めるけど〜〜〜」みたいなこと言うやつ。お前何様だよ、みたいな。
でも、たしかに富樫ってすごいんですよね。なにがすごいかっていうと、「ジャンプ」層からも「アックス」層からも支持されてるってこと。つまり、「パッ」と読んで面白い上に、「じっくり」読んでもいくらでも語るべきことがある。これって本当にすごいことで、つまり、作品が多層的にできてるんですよ。「トイレで読んでも面白い」という層で読んでもちゃんと面白い。「書斎でじっくり読み込む」という層で読んでも発見がある。このふたつを満たすことができる作家が希有な才能を持った作家であるということに異存がある人は少ないんじゃないかな。
でも!!!!!でもだよ!!!!!!!!!!なぜか「聞き流しても聴きやすい」という層でも聴けて、「アナリーゼしても面白い」っていう層でも聴ける JUDY AND MARY は、なーんか「俺は音楽好きだぜ」みたいな人たちから馬鹿にされがちみたいなところある気がするんだよね。それってさ、つまり「音楽好き」の文化レベルが低すぎるんじゃないの?????お前ら「マウントポジション」取ることにしか興味なくて、本当は音楽に興味ないだろ。みたいに思うんだよね、俺は。
まず、あなたが大学でオーケストラをやろうと思っている理由は何ですか?
友達に誘われて?大学デビュー?新しい分野にチャレンジしたい?高校でやってた?
理由は何でも構いません。クラシックに興味を持っていただけるだけで私は嬉しいです。
そんなあなたの素晴らしいキラキラした瞳を「こんなはずじゃなかった…」と濁らせないために少し話をしようと思います。
ピアノを弾いていた方なら憂鬱な基礎練習を思い出していただければ言いたいことはわかるでしょう。
運動部だった方、自分の技能を上げるためにそのスポーツをやり続けるだけでなく、長時間の筋トレなどがあったと思います。
ただ、弾けた時の感動や舞台で浴びる拍手の音には何物にも代えられない価値があるように私は思います。
一つ一つ先輩に手ほどきを受けながら習いましょう。
大学ほどにもなると大抵経験者はいます。上手く弾けなくたって構わないのです。あなたのスピードで練習していきましょう。
焦って形にならなくて結局何だったのかわからないまま終わってしまった…と言うのが一番避けてもらいたい状況です。
大学のオーケストラは定期演奏会があると思います。自分が乗る曲の好きなフレーズを見つけ、「ここだけは弾ける」という部分を決めて…と言うのも極論としてはアリだと思います。
周りの人に流されず、音楽を練習し、勉強し、その中で楽しみを見つけられればと思います。
次に、経験者の方。貴方の主義や性格にそのオケは合っていそうですか?
あなたの入ろうとしている大学オケの過去の演目を調べてください。知らない作曲家がいますか?
意味の分からない演目があったら歓迎会などで先輩にそこはかとなくその曲が決まった経緯を聞いてみましょう。
あとこれは新入生の方にも言えますが、サークル費を調べてみましょう。
低すぎるのもどうかとは思いますが、若干高めな上その印象を抑えるために比較対象が都内私大オケになっているものには気を付けてください。
サークル費の高さはどこに流れているのか注意が必要です。ホールや指揮者・トレーナーの先生に充てていると言うのなら大丈夫でしょう。
ただ、サークル費を稼ぐためにバイトを頑張って単位を落としたり身体を壊しては元も子もないのです。
学生の本分は勉強です。自分の限界と相談をしながら楽しい大学オケ生活を楽しんでください。
言いたいことは実際はこのくらいだけです。
オーケストラは50人、100人規模の「アンサンブル」です。指揮者やコンサートマスターなどの存在はありますが、大人数で1つの音楽を作り上げる中で他では味わえない感動があります。
そして、音楽を通して様々な事を学んでほしいと思います。技術、感情、人との交流…そこには様々なものがあります。
辛いことも、嫌なこともあります。人が多くなればサークルの中でも苦手な人・嫌いな人は出てくるでしょう。
その人と何とかやっていくのか、辞めるのかは貴方次第です。
音「楽」という字面だけ見て、音楽は楽しまなければならないモノだと思い続ける必要性ははありません。
曲自体にも悲しみやジレンマを表現したものもありますし、音楽が全て楽しいものだとは私は思いません。
…
オーケストラほど「音楽」と言うもののために、これだけ多くの人と交流するは他にはないと思っています。
貴方の4年(6年)が楽しい大学生活と共にあることを祈っています。
最後に皆さんが失敗しないために私の知っている2人の学生オケ「失敗経験者」の話をしたいと思います。
後味の悪い小話ですので気分を害したくない方はここまででお帰り頂いた方が良いかと思われます。
また、これはどちらも大学以前にクラシック経験があった知り合いの話ですので初心者の方には参考にはならないかと思います。
(さらに、当人たちから聞いた話ですのでそのオケの悪い部分だけが誇張されている可能性も否定できません。)
それでは、1人目から
1人は割と厳しい高校吹奏楽の経験者で、(わかる人にはわかるかもしれませんが)吹奏楽部のようなドロドロとした中でひたすら技術と音楽理解を追い求めて行ったタイプです。
彼女が入った大学のオーケストラは割とゆるめのほんわかしたタイプのオケでした。
定期演奏会は有名作曲家を並べたもので、オケのメンバーもやる時はやるものの基本的には飲み会やおしゃべり多めといった雰囲気だったそうです。
彼女は2年目以降は(練習の鬼と言えばいいのか)練習一辺倒になり、周りから頼られつつも1歩引かれていたように感じていたそうです。
彼女は最後まで大学オケをやり切り、音楽だけは楽しかったと言っていました。
私としては個人的には仲間や先生方ともっと楽しんで欲しいかったなと思います。
2人目は逆にポップス曲や有名曲をやってきた高校オケ経験者で、入った大学オケが性に合わなかったと言っていました。
そのオケは技術メインで(技術一辺倒が悪いとは私は思いません)、各パートにトレーナーが付くほど本気な大学オケだったそうです。
彼は経験者と言うこともあり、サークルの枢軸といいますか、選曲などかなり重要な部分に関わっていたようです。
しかし、オーケストラがトレーナーや名誉顧問(?)のような人に半分牛耳られていて、定期演奏会の曲の案を出しても中々許可が下りず、毎回1,2曲不本意な曲を入れて妥協していたようです。
(夜な夜なサークルの選曲係系の幹部と一緒にヤケ酒をしていたとか。)
彼はさらに、高校オケの音楽の雰囲気と大学オケの頭でっかちな音楽のギャップにも耐えられず、役職交代のタイミングで退部届を出したそうです。
後味は悪いですが、話をこのぐらいで閉めさせていただきます。
(回避するためにインカレと言う手段もありますね。インカレはそれはそれで苦労はありますが、私は悪くない選択だとは思います。)
年寄りの妄言に最後まで耳を傾けて頂きありがとうございました。
これを見た人の中には「これは全く馬鹿げた意見だ!聞く必要もない!」と言う人もいると思います。
様々な人が音楽に、学生オケにそれぞれの思い入れ・考えを持つことは当然の事ですし、私とは真逆の事を思う人間がいることにも何ら疑問はありません。
ただ、こういう意見があると言う事を頭の片隅に入れて頂ければと思います。
私は皆さんに学生オケをするなとは言いません。むしろ積極的に参加して欲しいと思っています。
先に、海外ではどういった状況なのかといったことはあまり存じないことを謝っておく。
演奏会情報を見ると軒並み18C中期から19C初期の曲目ばかりが並んでいる。
同じ曲目ばかり演奏し続け、「この曲いいだろ?良い曲だから何度でも聴きたいよな?」とドヤ顔で言い張っているが、クラシック人口が減り続けているという事実は大きい。
オリンピックにおけるレスリングは、今まで鼻高々に自分の地位を主張していたが、変革を迫られている。
業界内だけで自己満足しているだけでは、オリンピックの様な大衆的な場所にはいられない、ということだ。
クラシック業界も、新しいかたちを取り入れていかなければ大衆に受け入れられ、生き残っていくことは出来ない。
絵画の世界では、大家の作品の展覧会と並んで新鋭作家の展覧会がおこなわれている。現代美術の美術館も多く存在する。
映画の世界では、先に目に入るのは最近の作品ばかりである。古典の作品は名画座など手軽に鑑賞できる施設がある。
著作権の問題も大きいのかも知れない。
最近では、2004年に著作権が切れたラフマニノフなどは、ここ数年で一気に人気を増した。
Yes 肯定。 大衆性ということはそういうことだし、大衆は沢山いるからビジネスになる。
ただ、古い手法ばかりにこだわっていてはいずれ、枯死してしまう。 ポップスにおける大衆ビジネスにおける新規性とは何か?ポストポップスとはなにか?というのが、このスレのテーマ。
知恵を貸してくれるとありがたい。
公私ともにアイデアマンと認めるこの俺が創造力を発揮する秘訣はというと何と言ってもある1つの心構えにあると思う。
だいたい創造性開発といえば好きを貫けってことと、インプットとアウトプットを増やせってこと、それからKJ法に始まる発想法を身につけろと、そういうことしか言わない。これでは本当の創造力はつかない。
『スーパーIT高校生"Tehu"と考える 創造力のつくり方』も何か新しいことが書かれているかなと思ったけど特に書かれてなかった。ってか創造力について記述がほとんど無いだろこの本。
その心構えとは、これ「新鮮さを貫け」である。
だいたい気付かないといけないよ。好きを貫くことによる視野の拡大ってのは実はその裏で視野の固定化も孕んでいることに。
俺は世の中で素晴らしいとされているあらゆることが好きになれなかった。好きを貫けとか糞くらえと思っていた。だからこそ「新しさに目を向ける」ことに気付けたのだろう。
新しさに目を向ける、という発想こそが創造力開発の妙薬なのだ。
暮らしのなかで積極的に新しさを見つけようとする。そのためには予想を立てることが不可欠である。予想を立てて現実と照合する結果、違いに気づき驚きが生まれる。
君は新しさに驚く日々を過ごしていますか?新しさは心の栄養ですよ。予想を立てないから違いに気付けずありきたりの日常に見えてしまう。
それから好きを貫いたり1つの目的や目標のために身を粉にしたりすると一気に新しさが見えなくなってしまう。もっと柔軟にならないといけない。
音楽を聴く時もみんな「イイ曲」を探そうとするんだよ。それが駄目。イイ曲ってのは自分の既存のモノサシでイイ曲ってこと。それでは視野が広がらない。
そうじゃなく「新しい曲」を探そう。本当に「イイ曲」なんて1000曲に一曲で、そのためにせっせとCD買いまくるのはご苦労なこったとしか言いようがない。馬鹿である。一種のギャンブル中毒、スロット馬鹿と同じ。
そうじゃなく「新しい曲」を探そう。「新しい曲」であれば50曲に一曲はそういう曲が見つかる。新しさが無いかなと注意深く聴いていれば5曲に一曲はそういう曲が見つかる。
そうやってどんどん新しい感覚を心に取り込んで味わっている人と、固定したモノサシで「イイ曲」ばかり追い求めているとでは、心の豊かさに雲泥の差が生まれるのは言うまでもねえことだ。
facebookにも「イイネ!」ボタンがあるがあれは「新しい」の意味で用いるべきなんだ。「良い」の意味で使うと心が狭くなる。評論家気取りで良い悪いを判定しているとまたたく間に心が死んでしまう。
少しでも新しい部分がないか耳を澄ませて生活しないと。パクリって言葉を多用する人間も危ない。あいつらは新しいものまでパクリ認定してる。
あれもパクリこれもパクリと連呼してる人間がさあ自分が作り手側に回ったとき何も出来なくなる。自分の首を絞めちゃってる。だから新しさに鈍感なヤローは何も作れないんだ。
これまで話を聞いてこう思った人もいるだろう。新しさだって1つのモノサシに過ぎないからそれに拘るのは視野を狭くするんじゃない?現代アートも新しさに拘って珍妙な方向へと迷走してるように見えると。
それはある意味正しいように見えるが現実には新しさを追及していけば1つの新しさだけでなく色んな新しさを求めるようになるから狭い視野に陥ることはない。
現代アートと言ってもいろいろあるが理屈に拘って迷走してる人もいるのは事実である。だがそれは新しさに拘っているからではない。新しさに拘ることで珍妙なアートが出来るとすれば
それは新しさがマジョリティに理解されないからであって、それは視野が狭いのとは別問題である。発想法みたいに機械的に理屈でひねり出した新しさではなく、
ちゃんと本人の感性が新しいと感じたのであれば、それは同じ感性の持ち主には感動として伝わるはずである。珍妙に見えても一部の人には価値あるアートなのである。
好きを貫くデメリットをもう1つ書いておこう。それは好きには限度があるということ。例えば作曲家が「イイ曲」ばかり作ろうとしていたら必ず壁にぶつかる。
作曲のセンスや技術が成長してどんどん「イイ曲」が出来ているうちは良いが必ずどこかで壁にぶちあたる。芸術家の苦悩と言えば聞こえは良いがはっきり言って自業自得の馬鹿である。
「イイ曲」ではなく「新しい音を追い求める」というスタンスでいけば一気に視野が広がる。「イイもの」以外は全部捨ててしまうのではなく、その中にも面白い音がたくさんあることに気付く。
「新しさ」を追い求めると興味が特定分野に限定されない効用もある。例えば、ポップスばかり作曲しててジャズに全く興味のない人が新しさを求めはじめるとどうなるか。
最初はポップスの中から色んな新しさを見つけようとする。だけどよくよく聴いてみるとジャズ要素の入ったポップスに新しさが見いだせるかもしれない。あるいはポップスの中に新しさが見いだせなくなって
他のジャンルも聴こうとしてジャズにたどりつくかもしれない。そうして自分の興味分野がどんどん広がっていくのが新鮮さを貫くメソッドの大きな効用である。
そしてジャズの新しさを一通り取り込んだ心でまたポップスを色々聞き直してみると面白いことにこれまでとは違った聞こえ方がしてさまざまな新しい新しさを発見できるようになる。
そうやってどんどん新しさが見つかって心が広がって楽しみが尽きることがない。新しいもの探しをしない作曲家は駄目なんだよ。「イイ曲」ばかり作ろうとしてる作曲家は感性が窒息死してしまう。
【けじめをつける】間違いや過ちなどについて、責任を取ること、または、区別をはっきりさせること。「けじめ」は、区別や差別や違いなどを幅広く指す表現。
【処分】規則・規約などを破った者に罰を加えること。
米エンタメブロガー、ペレズ・ヒルトンの運営する"PelezHilton.com"に史上2つめのAKB48の記事があがった。
「度を越して不気味」という文からはじまる記事の締め括りはこうだ「アメリカやヨーロッパのポップスターが同じことをするのを想像できる?全員ハゲになるよ(爆笑)」
今回、峯岸みなみがとった行動について日本人でさえも「大げさ」「不可解」と感じた人は多いだろう。
峯岸みなみは何故あのようなケジメをつけたのか。それは彼女の"責任"がいままでスキャンダルを起こしたメンバーよりも重かったからだ。「1期生」にどのような重みがあるのか、AKBをあまり知らない人はわからないかもしれない。
1期生は会社でいう「会社設立から関わっている役員クラス」みたいなものだ。
「まさか会社を誰よりも大事に思っている役員が規約違反を犯すとは思わなかった」。このくらいの"事件"なのだ。たかがアイドルグループの一員、たかが二十歳の女の子。でも彼女には組織の中心としての"責任"があった。
下った"処分"は「研究生に降格」。それとは別に彼女はケジメをつけた。「平気な顔をしていちゃいけない」「罰を受けなきゃいけない」。こういう意識が働いたのは組織の責任者としての重圧故だろう(じゃあルール破るな、という話はおいといて)。
ルールは完全ではない。しかし社会や人間は完全ではないからルールが要る。
AKBをそういう風にみていたつもりでいたけれど、今回ばかりはヤクザや武士にも通ずるような(あまりにも日本人的な)組織・責任に対する思想に、一種の嫌悪も感じた。"重い責任"を背負わなければいけない存在は必要なのだろうか。組織には必要だろう。アイドルには必要なのか。あんなの見せられたら、「AKBには長居するもんじゃない」と後輩は感じてしまいそうだ(今後は責任を感じなければいけない存在がいなくなるかもしれないし、責任者もファン投票で決まる、なんてこともあるかもしれない)。
株主の希望をきく。ルールを破れば降格になる、地方に飛ばされる。ストレートな出世が望めなければ、起死回生をかけて海外支部への転勤を希望する。役員がルールを破ったら、処分だけでなく、自らケジメをつけて、社員や顧客にしめしをつける。
あまりにも夢のない世界だ。アイドルなのに、夢が無い。しかし夢を追うからそこに居るのもまた事実だ。AKBは不思議なアイドルだ。