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はてなキーワード: 教義とは

2014-03-12

http://anond.hatelabo.jp/20140312171400

よく分かっていて、客観的には怖がったり避ける必要が無いものでも、信条から避ける権利は誰にでもある。

たとえばイスラム教豚肉とか、ヒンズー教牛肉とか、日本人が猫や、近代ではイヌを食べないのとかね。


放射脳も基本はそれと同じで「”彼らにとって”安心できないから食べない」というのはいいの。

教義に反するから事実を学ぼうとしないのは、まあ、黒に近いグレーだろう。

ふつう宗教と一緒ね。個人の信仰の範囲。


あなたの主張どおり「安心できないから食べない」というのは確かに自由。

ただし、「それは(人間にとって)安心できないものだ」と事実ねじ曲げて主張したり、拡散するのはいけないこと。


放射脳と呼ばれる人々はカルト宗教と一緒。

ある事実に対して「(客観的な根拠がないのに)危ない」とか「事実を隠している」とか主張して

それを他人に押しつけようとしたりするから駄目なの。


しか善意で。正しい意味での確信犯ってやつです。

2014-03-08

http://anond.hatelabo.jp/20140308205635

いわゆる物知り系の深みを持つ人ということになるかな。

なので宗教だったら、教義儀式戒律についての意義や歴史的推移や解釈、他の教義戒律との関連性についての理解があったり、聖書コーランやお経みたいな書物の分析的な読み方に長けていて、それらの知識の引き出しによって、本人の信仰心が強化されている人というイメージ

手相なら、占いのものの成立と発展、それぞれの線(天紋筋とか色々あるよね)についての諸々の話とかを網羅していて、その知識に裏打ちされたノウハウで確固たる占いをする人みたいな。

2014-03-03

結婚記念日、30年です

ひな祭り結婚式なんて嫌だよ」

私がそう言ったけど、夫は、通した。

私は、そんな日にお嫁さんになるなんて恥ずかしいと思った。

でも、今は、忘れないからいいか、と思ってる。

ねえ、1行あけたいけど、できないよね。

たまにしか匿名ダイアリーを書かないから、わからない。

あとで調べよう。

結婚した年に長男が生まれたおかげで、何周年かわかる。

数字にめっぽう弱いから新年に、家族が何歳になるか調べるから

で、わ~30歳になっちゃうじゃん、わ~30周年かよ、となった。

喧嘩ばかりしてきた。

殴られたこともある。

私が家出して、ストーカー被害みたいになったこともある。

今でも、喧嘩ばかり。

許せないことも、今も色々とある

でも、それは、お互い様で、割れ鍋に綴じ蓋だって思う。

もうとっくに親と暮らしてた年数も超えてる。

生活は楽じゃない。でも、これからも、がんばっていくしかない。

離婚?したいって、よく思ってたよ。

家出だって、そのつもりで、子供の通帳を2つ作って、

意を決してだったんだ・・・

でも、失敗に終わった。思い出したくない不倫の思い出。

離婚が多いけど、友達離婚するというと止めてきた。

どうにもしようがないと神様に頼りたくなって、

イエス様がすきだったかキリスト教会に行ったことがある。

「よく我慢しましたね」

と言ってもらった。

離婚してもよかったかも」

とも。

・・・「え?教義離婚してはダメってありますよね」

という私に、

牧師先生

「でも、人間神様のように完璧じゃないから離婚してますよ」

と言った。ものすごいショックだった。

私は、聖書の言葉「男は女のかしら」を信じてきたのに。

ま、いいか。

そういうわけで、これから離婚しないで、生きていく。

読んでくれた、あなたありがとう

2014-02-23

http://anond.hatelabo.jp/20140223104457

現代の子育ては宗教から

増田の言う「何者にもなれない」しやる気もない人間が何かになれた感じを得られる人生唯一のチャンス。

少子化云々は、それが宗教であることを隠すための隠れ蓑に過ぎない。宗教信者の数がモノを言うから

既に入信している人達アイデンティティを掛けて必死に勧誘活動をする。

子育ての正しさだとかイクメンっぷりだとかで競争するのは、教団内での地位を高めようとする行為だね。

「お前のやり方は教義に反している。自分のやり方こそが正しく神(=子供)の意を汲んでいる」というわけだ。

より(教団的に)高い徳を積んだ自分こそが天国に導かれる(アイデンティティの獲得)べきなのだ、という。

2014-02-18

http://anond.hatelabo.jp/20140218062823

それを個人的な、私的な信仰定義する事はできない。

なぜならば、戒律教義が明確かつ厳密には存在せず、その代わりに、“広義における社会正義”を標榜する宗教法人群というもの存在するのであって、またそれらは、滅多にお目にかかれない珍しい存在という訳でもない。(定義が広いためにかなり曖昧表現だが)

そういった団体が何を追求するのかというと、ある種の“健全さ”、“清浄さ”を追求する。

あえて言うが、そこに所属する聖職者達はつねに不健全さというものを決して容認する事なく、そして健全さをこそ理想形・到達形として求める。例を挙げれば、それぞれの家庭における子への教育も厳しい。時代錯誤ささえ覚える程だ。

から、「自分の足で立たねばならない」「自ら歩き出さねばならない」という、何よりも自然さを追求する姿勢は、ごく個人的かつ私的な信仰である定義できるものではない。そもそもこちらに信仰心などない。一番最初に書いた事だ。

ときに、弱っている人にとって、宗教という存在特に優しく見えるものだ。神という存在に縋り救いを求める気持ちもわかる。しかし神に癒され、信仰に癒されて、元気を取り戻した後もなお宗教にべったりと寄り添ったままでいるのは、不自然なことでしかない。

それは、信仰の有無に関わらず理解できる論理的帰結であって、そしてここで今一度前述の夫婦の話に立ち返るならば、数年もの長きに渡り定期的にお参りに来る彼らに対しては、職場聖職者達全員が「いつか神恩感謝の祈願に来るといいね(※願い事が叶った御礼を申し上げる祈願のこと)」と共通した感想を抱いている。

しかし、その聖職者達はあくまでも、意思決定の結果として提示された「祈願依頼」を忠実に誠実に遂行するのみであり、意思決定に至るまでの相談を受ける事はない。そもそも相談される事もない。

それはなぜかと言えば。宗教が迷える人の道標になる事はあっても、聖職者が迷える人の手を取り導いて都合のいい未来へと連れていく事はできないからだ。

そこに自らの意思が介在しない決定は、ただの他人任せの結末にしか辿り着かない。

からこそ、一番最後自分の判断で方角を決めて、自分の足で歩いていって貰う為にこそ、良く考えてから職場へ来てもらい、祈願を受けるか否かを自分の手で決めてもらうのだ。

一見、どうでもいい手順に思えるかも知れないが、これはとても重要な事だ。

一番最初の選択を自らの手で行ったかどうかは、後々尾を引いてのしかかってくる。

弱っている人は迷いやすい。頼りやすい。自らの意志を投げ出しやすい。

祈願依頼者の意志を左右する事は分を超えた行為であるために、カウンセラーの真似事は誰もやらない。

物語最後舞台の上からゴンドラに乗って降りてきて、登場人物達の結末を一人で決めてくれる、デウス・エクス・マキナの様な存在実在したら楽だろう。心が弱ってる時、苦難に直面した時、そんなもの夢想するのもやむを得ない事だ。

だが現実にそんな都合のいい存在はなく、仮に自分の選ぶべき道を他者が全部決めてくれた事があったとしても、それはもはや自分人生とは言えないのではないだろうか。

自らの事は自らで決める事に意味があり、それが自然である。そういった社会正義全般を尊ぶような信仰を持つ人々が、世の中には大勢いる。

2014-02-17

http://anond.hatelabo.jp/20140217184228

体がピンチで横になっていたとしても、それは「涅槃でござる」って教義があったりするわけで。

フィジカルものメンタルなもんが分離してるのが宗教って奴だろ? 慮るのは体とか世間体とかそういうもんじゃなくて、

彼らの心の仲だけでいいだろ。そういう風に設計されてるもんだろ、宗教って。

からこれは丸っと賛同するってば。

2013-12-09

秘密保護法制定により分裂していたキリスト教派が合同団結

クリスチャン新聞が伝えた報道によると、特定秘密保護法の制定は、分裂していたキリスト教の教派を、結果的に団結させ共同行動の実績を作らせた。

日本ホーリネス教団と基督兄弟団は、いずれもプロテスタントキリスト教分派教会の団体であったが、双方は教義実践方法をめぐって対立し、戦前キリスト教弾圧戦争協力強制の対応をめぐって分裂していた。

しかし、ホーリネス系の両教団は、戦後戦争責任をめぐって検証と総括・反省が行われ、和解がすすめられていたところ、特定秘密保護法の制定が結果的に、両者の和解・団結を加速させ、共同行動をとらせる契機として働いた。

国家公務員の中には少ないながらもホーリネス信者がいるし、その家族の中にもホーリネス教会員存在する。彼ら・彼女らは、秘密を守ることによって多くの人の生命財産を奪うことを知っている場合秘密を守る行為自体がキリスト教義上の罪となるから秘密暴露するなどして奪われようとしている生命を守り、自らの信仰最後まで全うしようとするだろう。そして、ホーリネス系教団の人たちは、告発である信者を擁護するため、国家から弾圧に対し、これまで以上に抵抗するだろう。

その意味で、特定秘密保護法不正常な制定によって、国家秘密保全するという当初の目的は、かえって実現困難になったといえよう。

政府はおそらく、公務員思想の調査をこれまで以上に徹底して行うだろうが、だとすれば、そのことがかえって保護法に対する世論の反感を招き、思想差別に対する抵抗も大きくなり、公務員法令順守意識を低下させるという悪循環を生むことになる。政府秘密保護法対応は、確実に手詰まりに向かっている。

 

 日本ホーリネス教団教団委員会基督兄弟理事会11月26日、「特定秘密保護法」制定を危惧する共同声明安倍首相に出した。両教団は戦前日本基督教団第6部・第9部に属し、1942年治安維持法違反に問われて牧師が一斉検挙され、宗教団体法により教会が解散させられるなど、日本プロテスタント史上最大の弾圧を受けた。その経験から、「本法案が戦前治安維持法に劣らない危険性をはらんでいる」と重大な危惧を表明。戦前治安維持法同様、①「国益に反する」と見なされた思想信条が抑圧される危険、②言論・表現の自由が抑圧される情報統制危険を指摘した。

 治安維持法は25年、共産主義革命運動等の取締り目的に制定されたが、41年の全部改正で「国体の否定」という内心の思想を取り締まるものに拡大。この流れの中で、キリストが再臨し王として治めると強調したホーリネス系が同法違反に問われた。特定秘密保護法案は、防衛外交特定有害活動の防止、テロリズムの防止の4分野が対象とされるが、秘密定義や範囲があいまい政府恣意的に「特定秘密」に指定でき、第三者が検証する仕組みが欠如している。「これでは、時の権力が『国益に反する』と判断すれば、思いのままに拡大解釈することが可能であり、憲法思想良心信教の自由という基本的人権の根幹を脅かす」と危惧を示した。

 また、言論・表現の自由国策に沿った範囲に押し込められていた戦前の体制では、治安維持法不敬罪等が取材・報道出版等の言論活動や国民生活を萎縮させていた。

その結果、国民権力暴走に歯止めをかけるすべを失い、無謀な戦争遂行へ駆り立てられていった。処罰の対象や範囲が公開されず重罰が科せられる特定秘密保護法案も、

言動を自粛させてしまう恐れが強いと予想。「言論・表現の自由を無力化・無意味化させるこのような法制は、この国をもう一度、息の詰まるような情報統制国家に逆戻りさせることになりかねません」として、戦時中キリスト教会自己規制し、

偶像礼拝である神社参拝や「平和福音」を歪めて戦争遂行に加担した罪を悔い改めた立場から、二度と同じ罪を繰り返さない決意を表し、戦前情報統制に類似する危険性を持つ特定秘密保護法案に断固反対し、廃案とするよう強く求めた。

 基督兄弟団と日本ホーリネス教団の前身は、1933年に分裂。戦後50年を機に両教団が戦争責任を表明したことをきっかけに、共同で歴史検証に取り組むなど和解の実を結んできたが、共同声明を出すのは初めて。

(クリスチャン新聞 2013年12月8日)

http://jpnews.org/pc/modules/xfsection/article.php?articleid=2567

2013-11-25

ユダヤ教

親の乳で子の肉を煮てはいけない、という規律があるのは知ってる。

クリームシチューチーズバーガー食えないとも。

しかし、たとえば鳥肉鹿肉、羊肉を使ったバーガーに、牛乳から作ったチーズを乗せるのはどうなのか。

あとクリームシチュー牛肉で作る人いなくね、と思って調べてみた。

どうやら、ラビ教義拡大解釈した影響で「肉」と「ミルク」を分けなければならないらしい。

たぶん、ベーグルに卵やミルクが使われないのも、肉と合わせて食べる場合を想定してのことだろう。

ちなみに、卵と鶏肉の組み合わせは避けたほうが良いと分かったが、外の肉と卵(駄目な可能性が高い)、ミルクと卵が駄目なのかはわからなかった。

一方キリスト教カトリックプロテスタントを見て見ると、食の戒律が厳しいのは一部の宗派のみだ。

一時期馬肉食が禁じられたり(カトリック)、金曜には肉を食べずに魚を食べる、程度。

あと鯨を食べることを禁じる戒律も無いっぽい。食文化としては成立して無いけど。(たぶん牛肉輸出とかへの影響がある&ユダヤが力持ってるから抗議してるのかな)

スイスではネコとかイヌとかの伝統料理があって、どうも宗教的には禁じられてないようです。(犬猫食への抗議は倫理面が大きいね

うん、割とフリーダム

イヌって韓国はじめとしたアジア料理イメージがあって、辛いの苦手だから食べる機会無いと思ってたけど、スイス料理イヌなら食べられるかも。ソーセージとかハムにするらしい。ネコは不味そうだからいいや。


とりあえず食から見てるとまあ、キリスト教流行るのもわかるなー、と。

やっぱ食べものの制限する宗教流行りませんよ。

2013-11-09

http://anond.hatelabo.jp/20131109090508

その人の一部を削り取って食卓に上っているのだったらその人にむかって「ありがとう」と言うのでいいと思いますよ。でも実際食べるのはだれかが収穫してきた別の命なわけでしょ?

ありがとう言う気があるのは充分いいことなので言うなら食卓に上がるまでに関わった全員訪問してから食べないとね。

いただきますというのは、そのありがとうとは別物で

「頂に登ります。」というヒエラルキー下位のもの自分の足元に得て

吸収し土台と成して上に立ちますという宣言で

自分の一部とすることで死や犠牲自分の一部と扱い無駄にはしないという宣言です。

食べるために殺し奪いはするけれども、それは自分自身であり自分自身の為でもあるという自然と一体になる、また自然の一部で一体であることを意味していて

単体の動物とか植物と個人との関連性にある信仰とは別物です。

摂食される動物植物が死んでその役割を果たす意味を唱えるとともに自分委託された共生環境における相互利益と全体の豊穣を祈るものです。


現代風に言うと、

今日もご飯が食べられるのは日本国政府貨幣管理外交を行い法整備によって食料の安全供給を一律のものに安定させその政策化でさまざまな産業が食料供給を行いその供給された食料を取得することができる努力をされた方々が自分のために調理してくださり今まさに食べる事ができます。今より関係者食材名前を順不同で申し上げます。Aさん、Bさん、・・・

というのをまとめて「いただきます」と宣言して、では何の頂にあるのか、魚、野菜、それらの産地、農家、その自治体、法整備、知事政府自然、それらによって供給をされている一部を金銭などによって獲得したその小さな積み重ねの頂に登りますよ、という儀式なのです。

金銭は労働力という自分の一部を支払いその交換として得た食事であり食事は自分労働であり労働自分自身であるという循環する自然への信仰です。

あなたいただきますをしたその食事は、供給の流れ全てと自分自身へのありがとうが同梱されています

いただきますをした食事は、全部きれいに食べないと「自分の交換条件に適さない交換をすることになる」という独特の風土も持ち合わせます

汚く食べる事が礼儀とか、一部を残して祈りとするという文化とは異なるところでもありますね。


でも、テーブルの上のあなたのそのシチューに作ってくれた彼女さんの血や髪の毛が入っているのだったら、顔みながらありがとうでいいと思いますよ。





あと関係ない話を付け足してしまますが、おあがりなさい、召し上がれ、というのはまさにその上段に上りなさいという進言を返答としたものです。

また食べ終わった後の「馳走になった」はその四方八方の命を得たということで「それらの地と繋がりました(いろんな意味でいろんなものが駆け巡りました)」食べました、得ましたということです。

いまの訳では取得関係者への労いであるようですが、それであればまず最初に掛けるべき言葉なので、招かれる段階で「馳走になる」というのも習慣による変化ではないかと思います


仏教起源という話もあるようですが文化吸収は柔軟に広がりを持つ教義によくある形で、外国語に「いただきます」が無いところから宗教の関連性についてはお察しください。


ただ、今ある「お粗末様」の由縁はわかりません。

2013-11-04

[][]『人と思想 パウロ

路上の人』つながりでキリスト教関係の書を読んでいる。今回取り上げるのは『人と思想 パウロ』(八木誠一・著 asin:4389410636 )。キリスト教現在につながるものに体系化した人物であるパウロがどのような人生を歩んで、どのような思想を持つようになったのかが解説されている。

パウロを通して語られるキリスト教の「赦し」や「愛」の観念の解説が新鮮だった。キリスト教というと、同性愛の禁止といった聖書の教えを忠実に守ろうとする人びとの宗教というイメージ勝手に合ったのだけれども、そういう教えを厳格に守ることを重視するのはユダヤ教的発想で、そういう態度への批判から生まれたのがキリスト教であるとしている。

なぜ教えを守ることにこだわることが問題なのだろうか。

ユダヤ教では旧約聖書にある様々な律法を守ることで神に救われると信じる。そこでは律法を守ったか否かが重要だ。しかし、自身も厳格なユダヤ教信者であったパウロはそれを否定した。律法完璧に守ることができる人間はごく少数であり、たいていは律法を守ることができず、絶望に陥る。または律法を守り切ったことの優越感が、やがては本来の神への信仰を忘れさせてしまい、そのことを自覚した時そこでも絶望に陥る。つまるところユダヤ教律法主義は必然的絶望へと至ってしまうのだとパウロは考えた。

そこでパウロは、イエス神の子と信じる原始キリスト教に意義を見出す。すなわち、人間の罪はイエス十字架によってすべて赦された。だから人はただ神を信仰することに集中しさえすれば救われるという理屈を展開したのであるパウロユダヤ教の持つ厳格な律法踏襲しつつ、それを守りきれない人間の心も考慮に入れて、堕落絶望もしない状況に人を導くように教義設計したのだ。

以上がパウロキリスト教教義への貢献であり、それがゆえにキリスト教教義を学ぶうえで重要な人物足りうるのだという。まあキリスト教についてまともに学ぶからすれば当たり前なのだろうけれども、無学な自分にはパウロに対する自分偏見が訂正されたので面白かった。

http://anond.hatelabo.jp/20131104000421

まず、語の定義として、ゆるく

 ・ある程度の定義・教本があり教義のある固定化されたもの=「(狭義の)宗教

 ・厳密な定義、教本の類がなく、習俗・習慣的に行われるもの=「信仰

…と呼ぶ。これは、人類学かなんかにおける定義だけど、分かりやすい。で、この二つを総称した「非合理的に何かを信じること」一般を「(広義の)宗教」とする。この辺をごっちゃにすると厄介。

で、かつての日本の「神道」や「神社」というのは、まあ乱暴に言えば元増田が言うような存在であり、上の定義で言うところの「信仰」だった。「古事記とか日本書紀とか昔からあんじゃねーか」と言うかもしれないけど、読んだことあんのか?あれは歴史書だよ。別に宗教教義が書いてあるわけでもないし、拝み方やらあがめ方、生き方を規定しているもんじゃない。神話だよ神話。大体、古事記日本書紀に出てくる「神」なんて、おおよそろくなことしてねーだろ。鳥の真似してセックスして死んでゾンビになっておっかけっこしてろくでなしの子供つくって岩屋にこもって人間迷惑かけて裸で踊り狂って酒飲んで酔っ払って……なあ。どこをどうあがめろっつーんだw

しかし、そこには一定の「信仰」の姿や概念は描かれていなくもない。超越的な神のいない世界豊富な水に守られた農耕民らしい「清め/穢れ」の概念を基盤に、あらゆるものが神となり、つぎつぎと生命が生まれ継がれていく世界観……みたいな、漠然とした民間信仰世界は描かれている。たぶん、そういう世界の中で、日本人はそれこそ「餃子神様にしちゃう」勢いで、信仰生活を送っていた。

それが、明治維新により「国家神道」を作ることになった。それは「(狭義の)宗教」としての「神道」だ。そのとき、これまでいい加減な神様を祀ってたあらゆる神社は、全て「日本書紀(という教典)に基づく、神としての皇室祖先祖先神を祀る神社」にすべし、となったんだ。その後、「皇室に対して大変貢献した存在を神とする神社までは許す」ということになった。靖国神社ができたのは、その流れってわけだ。この新しい宗教国家神道」観に基づく神社の再編つーのは、明治のはじめの結構とてつもない作業で、由緒ある餃子神社のたぐいはこの時期あらかた「再編」の名の下にぶっ壊されたり、拝んでた神様を変えられたりした。それは知っておくべきだよ。

から、今ある「(明治国家神道から生まれた、宗教としての)神道」と、もともとの意味での「(日本人信仰としての)神道」とを、あまりごっちゃにしない方がいい。明治にできた国家神道観点からは「餃子神社」なんて邪教は認められないし、「(狭義の)宗教であるところの「国家神道」としての神社には、当然ちゃんと教義教典があって拝むべき対象は規定されているのさ。

2013-11-02

[][] 『路上の人』(堀田善衞・著)

 堀田善衞の小説路上の人』( asin:4198618230 ) を読んだ。

 13世紀のヨーロッパ舞台で、カタリ派と呼ばれるキリスト教異端教派の十字軍による征伐を背景に、路上放浪する中年の男ヨナがキリスト教世界放浪する物語である

 読了後に知ったのだが、最近ジブリの森美術館で、もし映画化するとしたらという前提のもと宮崎吾朗氏が作成した絵コンテポスターが展示されていたらしい。来年夏公開予定の新作がこの『路上の人』なのではという噂が流れているが、私はそれは到底できないと思う。もし映画化するとしたら、ジブリ子供向けアニメを届けるスタジオというイメージを完全に捨て去ることになるだろうなと思う。

 『路上の人』というタイトルキリスト教世界おいて安住する場所の無い東洋である堀田善衞自身を指している。堀田分身であるヨナの目線で、当時のカトリック僧院生活かいま見て、そこで当たり前のように行われている不正や腐敗を描き出す。そして、カトリック教会とは異なる教義を持ち、慎ましく暮らすカタリ派信者異端審問にかけられ、虐殺されていく様を描く。これは書籍に挟み込まれた堀田と誰かの対談において、堀田自身が述べているのだが、『路上の人』は「ヨーロッパへの異議申し立て」なのである

 ここで題材となっているカタリ派について、あまり作中では詳しく語られていないので、簡単な副読本として『カタリ派 ーー中世ヨーロッパ最大の異端』( asin:4422212206 )を読んでみた。これによると、カタリ派とは現世は悪によって生み出された地獄のものであり、この世には一切の価値がないと考え、ただただ世界の終わりに神によって救済されることだけを願って一生を生きるという教義を持つ教派であるらしい。現世に生まれることは地獄に居ることと同じなので、生殖目的とする性交を禁じている(ただしそれ以外の性交は禁じていないというところがユニーク)。カタリ派にとって死ぬことととは救済であるが、自殺は禁じられているので、信者はただ死が訪れることを希望として生きる。カトリック教会特に問題視したのはキリストの人性を否定したこと、洗礼などのサクラメント必要性を否定したことにあるようだ。

 異端という考えは正統があるからこそ生まれる。宗教正統性日本人にはピンと来ない問題だからこそ、『路上の人』で描写される凄惨異端審問の様子にやるせない気持ちが生まれる。

彼女ハムスターを生ゴミに捨てるのを嫌がる

例の宗教の話題で思い出した。

俺と彼女ガチ無神論者カップルなんだけど、飼ってるハムスターが死んだのでゴミ箱に捨てようとしたら彼女が泣いて嫌がったことがあった。

俺「え?なんでダメなの?」

彼女だって可哀想なんだもん」

俺「でも死んでるんだよ?」

彼女「死んでても生ゴミと一緒に燃やされるなんて可哀想」

俺「ハム太郎はもう死んでるんだから何も感じないよ。もしかして魂とか信じてる?」

彼女「そんなのは信じてないけどダメものダメ!」

俺「なんでダメなの?合理的に説明して」

彼女感情ダメなの。分からないの?」

俺「それって普段馬鹿にしてる宗教と同じなんじゃないの?」

彼女感情宗教は違う」

俺「何が違うの?」

彼女宗教ってのは馬鹿教義を守ってるようなことで」

俺「死んだペットゴミ箱に捨てないってのも教義でしょ」

彼女「それは教義じゃなくてマナーみたいなものでしょ!!」

俺「???」

結局近くの公園に行って埋めてきたらしい。公園に埋めるのはマナー違反だと指摘したが、それとこれとは違うとか言われた。

お守りをハサミで切れないと宗教を信じてることになるらしいが、俺にはこの件も同じに見える。

宗教の発生って、死体ゴミ同然に捨てるのが感情的に無理ってところと、キリストみたいに特異的な統合失調症患者との出会いなんじゃないか

そうすると感情がある限り宗教はなくならないんじゃないかと思った。

http://anond.hatelabo.jp/20131031224610

2013-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20131101142449

いろいろ面倒なのではっきりさせておくと、大学民俗を専攻してました。隣接分野として文人歴史&考古の教養は有ります。更に文人サブジャンルの宗教学に関しては「馴染みがある」「概説書、エッセイを読んだことが有る」程度です。

そのうえで、この増田はすごくいい疑問を持ってると思う(ウエメセ)。

そこで宗教でいえばお守りは切れないという方程式があったとしてね

宗教のなかで はさみをつかえばおまもりを切ることができる という他分野の理論崩壊させない?

これはそのとおりで、逆に言えば「宗教教義が十分に煩雑で多方面にわたっていれば、それがたとえ非論理的でも教義内で無謬となり諸々の事象教義で説明できる」っていう仮説があって。イメージとしてはユークリッド幾何学非ユークリッド幾何学みたいな(こちらは両方とも論理の枠内だけど)。

なのでその場合は「はさみをつかえばおまもりを切ることができる」に対応する屁理屈なり禁忌なりが形作られるのだと思うよ。

歴史宗教になる?

宗教政治が一緒にならないようになったりとかは宗教上の定義とほかの何かの定義が一致しないことに基づいてじゃないかなと思うんだけど

これも逆説的にそのとおりで。

言ってしまえば「政教分離」を是とする現在日本の状況は、人類全体で見ればたいへん特殊なんです。

200万年前に人類が猿から別れて、その後どこかで「宗教」が発明された。

発掘で確認されているのは10万年前くらいなので、仮に10万年とするけど、

その後、9万9千9百30年間くらいずっと宗教政治権力は同一だったわけで、

「あれ? これじゃいろいろまずいんじゃね?」と気づいたのがここ数千年(ギリシャローマとかのピンポイントの特例を含む)、

必死に血を流して実効が上がってきたのがここ数百年の話(プロテスタントとかイギリス国教会とかフランス革命とか。これも「別のより穏当な宗教」に置換しただけだけど)、

やっと成功例ができてきたのが大戦からのここ数十年(共産主義政教分離)。

といっても何百年後かの人類からは「21世紀のヤツらってまだ○○してたんだって」「やべーwww」と言われるんだろうが。

なので歴史宗教政治なのは普通で、上の「いろいろまずい」ってのは、あなたの言う「宗教上の定義とほかの何かの定義が一致しないことに基づいて」とほぼ同一なんだけど、たぶんまだ現生人類ベース宗教歴史政治パラダイムなので、色んな場面で宗教感覚は染み出してくる、というのが俺の私見。

だとすると今現在では宗教とすべてのことはつながっているというのは過去禁止されたものの昔話をしていることにはならない?

渋谷スクランブル交差点地下道入口へ登ることが禁止されてるのは? 禁止しないとやっちゃう人がいっぱいいるから。

何かが禁止された記録というのは、それをやっちゃう人が現実にわりといっぱいいたから。

というのが歴史学の基本的な考え方の一つです。

なんか読みやすい参考資料とかパッと浮かぶといいのだけど。プロ倫の解説書とかかなー。微妙か。

現役じゃなくなって久しいので、だれか現役の人頼む。

http://anond.hatelabo.jp/20131031224610

それなら「お守りを切れない人」はみんな、イベント的なものではなくちゃんとした宗教行事に参加して、寄進して、宗教教義をきちんと守って、神棚毎日お供えをするとかの儀式的なことをしているの?

そういう宗教的なことを何ひとつせず、宗教信仰というよりも迷信に近いものを信じているってだけで「信仰している」なんて片腹痛い。それはただ迷信ビビってるだけで、信仰なんていう高尚なものじゃないんだよ。「信じている」だけでは信仰宗教とは言えない。宗教的な集団に属すと自らが認め、常日頃から宗教的な行動している人のみが信仰を持つと言えるんだよ。それ以外は単に「宗教の影響を受けている」だけでしかない。

http://anond.hatelabo.jp/20131031224610

元記事読んで面白かったので乗っかる。

この教授を叩いている人は、この教授嫌悪感を抱いている。

面白い事を言うおっさんだなあ、なるほどなあ、とはならない。

これは自分の信じる宗教を否定された人の反応と同じ。

彼ら(教授を叩いてる人)がどのような宗教を信じているかというと、自分信仰教義無自覚でなければならない、っていう宗教があると思うんだけど、これって宗教的にはすごい所にいってると思う。もしかしたら宗教の本来のあるべき姿なのかも、目指すべきものなのかもしれないとか。ただ、こういった、宗教に対する無自覚性が良いのか悪いのか、っていう問題はある。意図的無自覚になったわけではなく、いつのまにか無自覚になった、言葉とその意味消失して、元記事に書いてあるように感じる雰囲気けが残った。

(個人的には、言葉が無くなった大きな理由は言葉翻弄された第二次大戦とその後だったんじゃないかと思う。)

信仰について言葉で説明したりする事にやたら嫌悪感を抱く人が居る、葬式の坊さんの説法とか、ほとんどまともに聞いていないか、後で坊さんに対して否定的な事を言う人がいて、彼らは無自覚ゆえに雰囲気宗教を信じている。言葉で説明して欲しくないのだ、雰囲気信仰を教えて、それぞれで感じて考えて下さいという感じが良い、だから儀式が超重要

お守りを切る事ができないのは、バチがあたるというより、それが儀式的な行為からだと思う。だから、何年か身につけたお守りをお焚きあげなんかで焼いたりするのはできちゃう。元記事のような学校の授業という日常の中で儀式を行ってはいけないのだ、雰囲気がぶち壊されてしまうから雰囲気の演出としてお経とか祝詞とかも超大事日常的じゃない方が良いし、意味言葉が分からなくても良いし、むしろからない方が良い、でもたまにちょっと意味が分かるぐらいが本当はベスト

この手の話で、やはり凄いなあというか、面白いなあと思うのが、無自覚自覚的かという所。自分に対して完璧自覚的になれるのか、行き着く果ては結局無自覚なんじゃないか問題とか。で、そういうのが仏教の本来で、東洋哲学とか仏教哲学なんだろうなと。

2013-10-16

http://anond.hatelabo.jp/20131016215013

教団にお布施をいっぱい落としてくれるだけじゃなく、信者同士で自分の方が位が上なんだと屁理屈こね回して格付けし合って、勝手に教団の教義もっともらしく付け加えて行ってくれるしね。

放っておくと帝王切開母親お腹を痛めてないから心の冷たい子供になる、無痛分娩をやると自閉症の子が産まれる(自閉症は先天疾患なんですけど)、などといったトンデモカルトを平気で唱え出して、そうしたお産の方法を選んだお母さん達の心を理不尽に傷つけるから一般人にとっては害悪まりない。

ホメオパシーだの放射脳だの自然なお産だのは母親の心通り越して子供の心や命まで危険晒すからなおのこと始末に置けない。

2013-09-23

この国は恐ろしい国だ 連休の間に考えるべき国の姿

スペインは恐ろしい国である」と日本総研理事長で、評論家寺島実郎さんが「世界10月号で書いていた。

どこが恐ろしいのか? 寺島氏は15世紀の異端審問を例に引く。フェルナンド2世の時代になって、モスリコ(改宗イスラム教徒)の公開火刑など、その弾圧凄惨を極め、それに震撼した民衆も隠れ異教徒告発へと変わっていった。

〈この大量殺戮集団狂気スペイン人としてどう受け止めるべきか。宗教上の権威付けと「民衆」の無知が一体となって異端排除に向かうと異様な集団狂気が爆発する傾向をスペイン歴史は何回か繰り返している。教義には融通無碍だが時代の空気には付和雷同するという意味スペインは恐ろしい国である

寺島氏はこう書いていたのだが、こうしたスペイン人の特性は今でもそこかしこに見られる。つまりお上権威付けによって、時代の空気が醸成されると、何も考えずに付和雷同してしま国民性だ。それに賛同していないものは「排除」しようという「狂気」も、だ。

くしくも、そうした国民性を改めて浮き彫りにしているのが五輪招致熱狂ではないか。猫も杓子も五輪で騒ぎ、ちょっとシラケた目で見ていると、「異端児扱い」されかねないイヤ〜なムードだ。

しかし、この五輪招致スペインの多額の債務ごまかし、「経済は順調です」と強調、不況に苦しむ国民を切り捨てた招致である

狙いはお上権威付けと商売で、マトモな人間であればマユをひそめたくなるのだが、多くの国民権力におもねり、無邪気に付和雷同し、ハッと気づくと、「こうした招致はいかがなものか」という正論異端になってしまっている。テレビを筆頭に大メディアが五輪の感動を押し付け、それに感動しないものは居場所がなくなるような窮屈さ。最先端都市を気取りながら、まさしく封建社会がいまなお、根付いているかのようだ。

http://asumaken.blog41.fc2.com/blog-entry-9879.html

確かにこういうことを書いて許されるとは思えない。

2013-09-12

日本エホバの証人が「信者が増えない国ランキング」1位になった理由 ※追記あり

統計信者が増えない国ランキング

http://www.jwstudy.com/docs/study_hours_per_baptism/

誰も興味がないだろうけれども。

簡単にいうとこの数字は切羽詰まった信者の水増し報告の現れ。

 

エホバの証人がやたら来るのは、一ヶ月にどのくらい伝道活動をしたかを報告するシステムがあるから

日本人はこの数字上げに関して世界一熱を入れている。他国信者が驚くくらい。

互いに愛し合うことより数字入れることの方がわかりやすいし、記録として張り合いやすいからかな。

 

組織は誰が何月に何時間伝道していたかという記録を過去何年分も遡って記録している。

伝道時間とは、エホバの証人じゃない人間エホバの証人教義を伝えるためにかけた時間を指す。

正規伝道者になったら最低一ヶ月1時間伝道活動を報告しないと「不活発」ということで、頭数から除外される。

どんなに熱心に聖書を読んでいようか、仲間の信者を助けるために奔走していようが、伝道してないとダメ

奉仕活動」と呼ばれているんだけど、地域ボランティア被災地支援介護なんかは含まれない。

そんなわけで現役エホバの証人として神に、そして仲間に受け入れられたかったら伝道は欠かせない。

   

この伝道時間というのは実質信者の格付けランキングになっていて、時間が多い人ほど重んじられる傾向にある。

伝道時間により伝道者、補助開拓者開拓者特別開拓者宣教者というクラスけがあるんだけど

海老名市にあるものみの塔聖書冊子教会日本支部通称海老名ベテルの精鋭に選ばれた場合

何歳から何年間開拓奉仕をして来たかで、休みの日も違えば割り当てられる部屋も違う。

 

じゃあこの伝道時間ってどうやって計算するのかと言うと

まず家を訪ねる場合伝道開始した最初の家を訪ねた時間から最後の家を訪ねた時間までを計算する。

中道ばたで喋っていたり、移動したりする時間をどの程度記録に入れるかは個人裁量に任される。

また手紙メール電話場合手紙を書き始めてから書き終えるまでを数える。

 

さて、補助開拓者から宣教者までは伝道時間ノルマがあるから1時間でも多く伝道したい。

特に月末・年度末は切羽詰まって、勢い質より量になる。

そのため伝道時間の「経費」とみなされる活動に自ずと力が入る。これを「時間を入れる」という。

 

たとえば牛歩で移動時間を稼いだり

遠くの家と遠くの家をピンポイントで訪ねてみたり、同僚に唐突聖書の話をしてみたり

エホバの証人でない親族や友人知人にご機嫌伺いの手紙を書いて、最後にちょろっと聖書の言葉を書いたり

すごい人になると、一回家に帰って小一時間くつろいで、それも「休憩時間」とみなしてしまう。

 

そんなわけでエホバの証人聖書の話を聞いてくれる・断らない相手にしがみつく。

聖書研究を始めた途端にいろんなエホバの証人が何かと話しかけてきたり、手紙を寄越したりするのもそのせい。

同じ相手に話しかけると「再訪問」という別枠のカウントも入り、これも熱心さの目安とされる。

もちろん出版物提供したり、聖書研究を司会したらそれも件数カウントされる。

 

こういう数字がいいメンバー集会大会で「模範的伝道者」として賞賛される。

どれだけ長年熱心に仲間を支援していても、信者でない人を隣人として愛してきても

数字が出ないと賞賛対象にはまずならない。

布教の成果が出て相手エホバの証人になると、そこから数字カウントされなくなる。

もちろん「時間が入らなくなる」ので、難癖つけて献身を渋るような本末転倒事態も起きる。

(そして献身した後は「奉仕が忙しいから」とアフターケアをしなくなる。)

 

ブルックリン本部出版から来た人が「聖書通読しましょう」という講演で

日本数字を出すのが好き。もしも聖書通読数字を報告することになったら、年間1000時間とかすごい人が出るだろう」

と言っていたが、その通りだと思う。

 

日本エホバの証人他国と比べてとりわけ熱心に伝道活動をしているわけではない。

ただ数字を上げることへの熱中度は群を抜いている。

ちなみにどれだけ寄付たかは発表されないので、寄付への熱意はかなり低い。

施設維持費として最低いくらかかるかは明確にされており、簡単計算できるけど、しょっちゅう赤字

個別に発表して賞賛すれば寄付額はぐっと上がると思われる。

 

 

■追記■

「あれ、この話題自分が書いた話によく似てるな…」と思ったら自分が書いたやつだった。

なにこの時間差。#metoo案件もあるのでこっちも見て。

小児性愛冤罪を阻止するエホバの証人

https://anond.hatelabo.jp/20091208213339

2013-08-25

野崎まど『know』論・前編——知ルはいかにしてブッダとなったか

野崎まど『know』を読んだ。早川SFクラスタでやたらと評判がよいのでいつか読もうと思いつつも、過去に同氏の作品を拝見した中生まれていたわだかまりと作品の底のようなもの邪魔をしていたのだが、ここにようやく機会を得たので所感をはき出しておこうと思う。

本作のジャンルは?

一言でまとめると、『know』という作品はSF的/ライトノベル想像力によって描かれた『ブッダである。つまり〝知ル〟という名の少女が正覚を得るまでの生涯およびその後の万人救済を、それに連れ添ったものの手で描いた物語の体裁を採っている。宗派技術過激派大乗仏教といったところ。福音書と呼んでもよいのだが、本書に織り込まれた示唆エピグラフクライマックス創世記引用であることなど)に反して作中で知ルらが辿った道は真言宗のそれに近いように思えたため本稿ではそちらの用語を採用する。

こう考えると『know』というタイトルも知ルという少女を指すとも解釈できる。だが最もわかりやすいのは目次に並ぶ章題だろう。〝birth〟から〝death〟までまさしく一生が記されている。

物語を振り返る

さて本作の舞台は2081年の京都情報材と電子葉という未知のテクノロジーによって情報空間現実と思考との直結を果たした世界である。一方で情報へのアクセス保護格差法律で規定されるまでに進む。そんな中、語り手を務めるのは作中トップクラス情報エリートである

〝birth〟の章では全知を定められた十四歳の少女・知ルとの出会いとともに、社会革新の原動力となった研究、そして彼女誕生が描かれる。ちなみにこの配置のために作者は作劇上結構な力業を用いている。またここではもうひとりのクラス9・問ウも登場している。彼の姓であるアリステラというのは「最上級」を意味する名前。位置づけがわかりやすい。ただ女性なのは気にかかるが……。

〝child〟では神護寺を訪ねて高僧と悟りについて問答する。ここで択ばれた真言密教とは即身成仏を極意とし、また教えを秘する——つまりオープンの逆をゆく——ことを是とする仏教の一宗派であり、つまりは作品の主題と密接に関わる教義を掲げている。物語構成上から初日にふさわしいといえよう。

〝adult〟では京都御所に匿われた古文書を通じてイザナミイザナギの二柱の行いから生きたまま黄泉路を往く手段を学び取る。これで境界を越える準備は万端、残るは実践のみである

〝aged〟において知ルは当初の目論見通り入定を果たす。その前夜、主人公と知ルは〝知恵の実をかじる〟と称して情報交換における無上の行為に達する。つまりセックスをする。

〝death〟では知ルの死後の肉体と、彼女の還りを信じる主人公の姿が描かれる。この情景は高野山奥の院空海が今でも生存しているという伝説を想起させる。

物語の外側へ

そしてエピローグでは生還した知ルによる革新が成った社会が語られ、物語は終わる。

——わけだが、この小説価値はなんと言っても計算されたフィニッシング・ストローク最後の一撃)だ。

作中では真理に至るための方法を量子葉によって脳を育て、高密度の思考による情報ブラックホール化を行うことだと説明しているが、これはあらゆる意味で知ルを育てた天才技術者の言うように「我々では無理」なのだ。彼の生誕は2014年であり、刊行年の一年先に設定されていることに留意したい。アーサー・C・クラークの名作『幼年期の終わり』は年少の読者に対して希望を残したが、この作者の意地の悪さはそれさえ許さない。

しかも知ルが死後の世界で目にし、人々に広めたものが何であるかは一切語られることなく物語は終わる。

この物語が抱える問題意識情報格差である。作者はそれを人類間のレベルから、全知の存在たる神との格差へと推し進めた。だからすべての人が全知となった瞬間、格差は消滅し、万人救済が果たされることになる。しかしそれはあくまで作品世界内の話にすぎない。読者はその外にいる。その格差を肌で感じた瞬間、初めて読者は揺さぶられ、知ることへの欲求を呼び覚まされる——格差を埋めたいという渇望によって。ただ純粋に「知ることと生きることは同じ」と断じた知ルに比べて何と浅ましいことだろう。けれどそれもまごうことなき人間本質である。語り手が中途半端情報強者に位置づけられていたことも、妙に鼻持ちならない人物であったことも計算ずく。すべてはこの一行の効果を最大化するための小道具に過ぎない。

もとよりメタフィクション指向する作家であると感じてはいたが、人工的な世界を下敷きにすることでより巧みにそれを演出できるようになったらしい。

読者への挑戦状

で。

実はここまではすべて前置きである。読者を操ることを至上とするこの作家メタフィクションへの可能性をこの程度のウェルメイドな小説に留めるはずがない。

この作品に残された最後の謎はずばり〝ただひとりに向けられた暗号である。正直な話、この解明に挑む資格があるのは野崎まどの全作品を電子化して常に携帯するような気狂いだけに違いない。

けれど非才を尽くしてその手がかりくらいは拾い集めておきたいと思う。

(後編へ続く)

2013-07-24

グダグダと落ち込む前にちゃんと伊集院ラジオを聞いたのか

暗く、後ろ向きな知人がグチグチと呟く。

自分人生は上手くいかないことばかりだ、とか。

で、伊集院光だ。

僕も彼のラジオを聞いていなければ似たような精神状態だったかも知れない。

でも、まあ、失敗も恥も自分のイタさも痛みも、基本的には笑い飛ばしていいのだ、生きていくとはそう言うことなのだと考えるようになった。

から、上手くいかない人は伊集院ラジオを聞くべきだ。

事態は打開されないが、落ち込む必要が無いことを教えてくれる。

僕にとって、彼の言葉は、熱心な宗教家教義に近い。

聖書であり、コーランであり、経であり、糞だ。

宗教は救われるためにあるのだ。そして僕は救われている。

2011-11-03

れいはきたない、きたないはきれい

Fair is foul, foul is fair

中世イギリス魔女キリスト教によって排除された原始の教義哲学的解釈翻訳問題、ともかくも多様に語られる。

この台詞マクベス冒頭の示唆であり、シェイクスピアがこの台詞意図を込めたことは間違いない。意図マクベス物語じたいによってひらかれる。

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