その人の一部を削り取って食卓に上っているのだったらその人にむかって「ありがとう」と言うのでいいと思いますよ。でも実際食べるのはだれかが収穫してきた別の命なわけでしょ?
ありがとう言う気があるのは充分いいことなので言うなら食卓に上がるまでに関わった全員訪問してから食べないとね。
「頂に登ります。」というヒエラルキー下位のものを自分の足元に得て
吸収し土台と成して上に立ちますという宣言で
自分の一部とすることで死や犠牲も自分の一部と扱い無駄にはしないという宣言です。
食べるために殺し奪いはするけれども、それは自分自身であり自分自身の為でもあるという自然と一体になる、また自然の一部で一体であることを意味していて
摂食される動物や植物が死んでその役割を果たす意味を唱えるとともに自分に委託された共生環境における相互利益と全体の豊穣を祈るものです。
現代風に言うと、
今日もご飯が食べられるのは日本国政府が貨幣管理し外交を行い法整備によって食料の安全と供給を一律のものに安定させその政策化でさまざまな産業が食料供給を行いその供給された食料を取得することができる努力をされた方々が自分のために調理してくださり今まさに食べる事ができます。今より関係者と食材の名前を順不同で申し上げます。Aさん、Bさん、・・・。
というのをまとめて「いただきます」と宣言して、では何の頂にあるのか、魚、野菜、それらの産地、農家、その自治体、法整備、知事、政府、自然、それらによって供給をされている一部を金銭などによって獲得したその小さな積み重ねの頂に登りますよ、という儀式なのです。
金銭は労働力という自分の一部を支払いその交換として得た食事であり食事は自分の労働であり労働は自分自身であるという循環する自然への信仰です。
あなたがいただきますをしたその食事は、供給の流れ全てと自分自身へのありがとうが同梱されています。
いただきますをした食事は、全部きれいに食べないと「自分の交換条件に適さない交換をすることになる」という独特の風土も持ち合わせます。
汚く食べる事が礼儀とか、一部を残して祈りとするという文化とは異なるところでもありますね。
でも、テーブルの上のあなたのそのシチューに作ってくれた彼女さんの血や髪の毛が入っているのだったら、顔みながらありがとうでいいと思いますよ。
あと関係ない話を付け足してしまいますが、おあがりなさい、召し上がれ、というのはまさにその上段に上りなさいという進言を返答としたものです。
また食べ終わった後の「馳走になった」はその四方八方の命を得たということで「それらの地と繋がりました(いろんな意味でいろんなものが駆け巡りました)」食べました、得ましたということです。
いまの訳では取得関係者への労いであるようですが、それであればまず最初に掛けるべき言葉なので、招かれる段階で「馳走になる」というのも習慣による変化ではないかと思います。
仏教が起源という話もあるようですが文化吸収は柔軟に広がりを持つ教義によくある形で、外国語に「いただきます」が無いところから宗教の関連性についてはお察しください。
ただ、今ある「お粗末様」の由縁はわかりません。