2013-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20131031224610

元記事読んで面白かったので乗っかる。

この教授を叩いている人は、この教授嫌悪感を抱いている。

面白い事を言うおっさんだなあ、なるほどなあ、とはならない。

これは自分の信じる宗教を否定された人の反応と同じ。

彼ら(教授を叩いてる人)がどのような宗教を信じているかというと、自分信仰教義無自覚でなければならない、っていう宗教があると思うんだけど、これって宗教的にはすごい所にいってると思う。もしかしたら宗教の本来のあるべき姿なのかも、目指すべきものなのかもしれないとか。ただ、こういった、宗教に対する無自覚性が良いのか悪いのか、っていう問題はある。意図的無自覚になったわけではなく、いつのまにか無自覚になった、言葉とその意味消失して、元記事に書いてあるように感じる雰囲気けが残った。

(個人的には、言葉が無くなった大きな理由は言葉翻弄された第二次大戦とその後だったんじゃないかと思う。)

信仰について言葉で説明したりする事にやたら嫌悪感を抱く人が居る、葬式の坊さんの説法とか、ほとんどまともに聞いていないか、後で坊さんに対して否定的な事を言う人がいて、彼らは無自覚ゆえに雰囲気宗教を信じている。言葉で説明して欲しくないのだ、雰囲気信仰を教えて、それぞれで感じて考えて下さいという感じが良い、だから儀式が超重要

お守りを切る事ができないのは、バチがあたるというより、それが儀式的な行為からだと思う。だから、何年か身につけたお守りをお焚きあげなんかで焼いたりするのはできちゃう。元記事のような学校の授業という日常の中で儀式を行ってはいけないのだ、雰囲気がぶち壊されてしまうから雰囲気の演出としてお経とか祝詞とかも超大事日常的じゃない方が良いし、意味言葉が分からなくても良いし、むしろからない方が良い、でもたまにちょっと意味が分かるぐらいが本当はベスト

この手の話で、やはり凄いなあというか、面白いなあと思うのが、無自覚自覚的かという所。自分に対して完璧自覚的になれるのか、行き着く果ては結局無自覚なんじゃないか問題とか。で、そういうのが仏教の本来で、東洋哲学とか仏教哲学なんだろうなと。

記事への反応 -

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん