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はてなキーワード: 朝鮮出兵とは

2024-10-10

小説 階伯(かいはく)つづき

百済亡命者たち――日本への道

百済滅亡の報せが朝鮮半島全土を駆け巡るとき、そこには絶望だけでなく、わずかな希望が残されていた。それは、百済の地を追われた者たちが、遥か倭の国――大和への亡命の道を選んだことだった。

百済の都泗沘(しひ)が炎に包まれ王族貴族、そして多くの百済の民が散り散りになって逃げる中、一握りの者たちは東へ、海を越えて大和へと渡ることを決断した。彼らにとって、倭はかつて同盟を結び、文化技術を共有してきた縁のある国だった。遠い異国ではあったが、そこに生き延びる希望があると信じていた。

渡海――苦難の旅

夜の海は静かだったが、波は冷たく、命の危機を感じさせた。百済から亡命者たちは、わずかな船団に身を寄せ合い、倭の地を目指した。彼らの目には、故郷を失った悲しみと、新しい土地での不安が浮かんでいた。

中でも、若き百済貴族、武珍(ムジン)は、家族と共に海を渡ることを決断した一人だった。彼はかつて百済王宮官職を務めていたが、新羅と唐の連合軍が攻め込むと、命からがら国を脱出した。彼の目の前には、父祖の地であった百済が失われ、愛した仲間や民が散り散りになっていく姿が浮かび続けていた。

「いつか…いつか、この地に戻ることができるのだろうか」と、武珍は呟いたが、その声は波音にかき消された。

やがて、彼らの船は倭の大地に辿り着いた。彼らを迎えたのは大和朝廷の役人たちだった。百済から亡命者たちが次々と上陸し、武珍もまたその一人として新たな生活を始めることとなる。だが、そこには異国の地での試練が待ち受けていた。

新天地大和

亡命者たちは大和王権に迎え入れられたものの、その生活は容易なものではなかった。彼らは、異国の地で自らの文化風習を持ち込む一方で、大和風土や習慣に馴染む必要があった。特に故郷を失った哀しみが胸に深く刻まれている者たちは、再び自らのアイデンティティを見つけるまでに長い時間がかかった。

武珍もその一人だった。彼は大阪南部に割り当てられた土地で、新しい生活を始めることとなった。この地には既に百済から移民が住み着いており、互いに助け合いながら新たなコミュニティを築いていた。大阪南部河内平野は肥沃な土地であり、農業が盛んだったが、何よりも彼らにとって特別ものは、地名の中に「百済」という故国の名を残せることだった。

「ここは、我々の新たな百済だ」と、武珍は言った。

大和王権の中での百済役割

百済から亡命者たちは、単に新天地生活を始めるだけではなかった。彼らは百済で培った高度な技術文化大和王権にもたらし、その地位を高めていった。特に天智天皇の治世において、亡命者たちは重要役割を果たすこととなる。

天智天皇大化の改新を主導した中大兄皇子)は、近江京を築いた際、百済から亡命者たちを積極的に受け入れた。天智天皇自身百済との強い同盟関係を保っていたため、亡命者たちの技術知識を利用して、近江の地を発展させることを狙っていたのである。武珍を含む百済貴族技術者たちは、天智天皇の招きに応じ、滋賀県周辺へと移住していった。

新羅に滅ぼされ、百済を失ったとしても、我々の技術文化がこの地で花を咲かせるなら、それが我々の新しい故郷となるだろう」と、武珍は自らを励ました。

百済技術者たちは、瓦や製陶技術金属加工、建築技術をもたらし、近江京の発展に寄与した。その中でも、仏教文化先進的な農業技術は、近江の人々にとって大いなる財産となった。百済から亡命者たちは、大和王権の一部として取り込まれながらも、独自文化を維持し続けた。そして、その痕跡は、現代滋賀県に残る渡来系遺伝子の多さにも反映されている。

亡命者たちの遺産

時が経つにつれて、百済から亡命者たちは日本列島に根を下ろしていった。大阪南部には「百済」や「加羅伽耶)」といった故国の名を冠する地名が残され、滋賀県には亡命者たちの末裔が多く住み着いた。彼らの遺伝子は、日本列島の中で異質な文化を生み出し、後の日本文化に大きな影響を与えた。

武珍も、かつての仲間たちと共に大阪南部で新たな百済を築き上げた。そして、彼の子孫たちは、百済の血を引き継ぎながらも大和王権に忠誠を誓い、その技術知識を後世に伝えた。

故郷は失われたが、我々の血は生き続ける。我々の文化は、この新しい土地で栄え続けるだろう」と、武珍は亡命者たちと共に夜空を見上げ、倭の地で新しい未来を夢見た。

こうして、百済亡命者たちの物語は、日本歴史の中に深く刻み込まれていった。朝鮮半島を追われた彼らは、決して故郷を忘れることなく、新しい大地でその魂と誇りを守り続けたのである

朝鮮半島奪還――日本宿命としての目標

天智天皇近江京を築いた時、百済から亡命者たちは日本の地に根を下ろし、新しい生活を始めた。しかし、彼らの胸には常に故郷である朝鮮半島への想いが宿り続けていた。日本という国がまだ形成されつつある時代、その根底には、失われた「伽耶」や「百済」を取り戻すという強い願望が隠されていた。

天智天皇は、ただ単に新しい京を築いただけではなかった。彼の統治の下で、大和王権は次第に「日本」という国としての形を整えていった。しかし、その目標の一つには、かつて倭人支配していた朝鮮半島南部――伽耶百済の地を再び日本の手中に取り戻すという、壮大な夢が秘められていた。

朝鮮半島に築かれた前方後円墳存在――それは倭人がその地を支配していたことを示す確かな証拠だ。前方後円墳日本発明された墓制であり、その巨大な墳墓が朝鮮半島南部にも点在している事実は、かつてその地が倭人にとっての故郷であったことを物語っている。

失われた故地の奪還――幾度かの挑戦

天智天皇時代を過ぎても、この「朝鮮半島奪還」という目標は、日本歴史の中で幾度となく浮上してきた。その後、豊臣秀吉時代には、それが現実のものとして動き始める。

豊臣秀吉朝鮮出兵文禄・慶長の役

秀吉は、天下統一を成し遂げた後、自らの野望を東アジア全域に広げようとした。その第一歩として選んだのが、朝鮮半島への侵攻だった。1592年、秀吉大軍を率いて朝鮮に進軍し、かつて倭人支配していた地を取り戻し、さらには中国大陸まで征服するという壮大な夢を抱いていた。

「我が倭の祖先の地、伽耶百済を取り戻す時が来た。朝鮮半島は、我々日本人の手に再び戻るべき土地である

秀吉のその言葉には、単なる領土拡張を超えた、失われた故郷を取り戻すという深い信念が込められていた。だが、朝鮮戦役は厳しい抵抗に遭い、秀吉計画は失敗に終わる。朝鮮半島の奪還は成し遂げられず、秀吉の死をもって日本軍は撤退余儀なくされた。

しかし、この「朝鮮奪還」の試みは、単なる軍事的野心の産物ではなかった。それは、古代から続く日本人の潜在的な願望――かつての倭人領土である朝鮮半島南部を再び自らの支配下に置くという、宿命的な思いの表れだったのだ。

倭寇――小規模な奪還の試み

大規模な侵攻が失敗に終わったとしても、歴史の中で日本朝鮮半島との間には、常に緊張と抗争が続いていた。その中で、倭寇(わこう)と呼ばれる海賊集団が、朝鮮半島沿岸部中国大陸沿岸を襲撃する形で、奪還の意図を示し続けていた。

倭寇の多くは、正規日本軍ではなく、小規模な武装集団だったが、彼らもまた、朝鮮半島南部をかつての倭人の地として捉え、そこに自らの足場を築こうとした。彼らの襲撃は、単なる略奪ではなく、失われた倭人故郷を再び支配するための小さな試みの一環だったと言えるだろう。

倭寇活動14世紀から16世紀にかけて活発化し、朝鮮中国を混乱に陥れた。特に朝鮮半島南部はその影響を強く受け、倭寇侵略によって多くの地域が荒廃した。これは小規模ながらも、日本朝鮮半島との長い歴史的な繋がりを象徴するものだった。

戦前日本朝鮮半島

そして、最も大規模で決定的な奪還の試みが行われたのは、20世紀初頭の戦前日本だった。明治維新を経て近代化を果たした日本は、軍事力を強化し、再び朝鮮半島に目を向けるようになった。1905年日露戦争勝利した日本は、朝鮮半島への影響力を強め、最終的には1910年朝鮮併合することに成功した。

これにより、ついに日本はその「歴史的な故地」を取り戻すかのように、朝鮮半島を自らの領土として統治することとなる。豊臣秀吉が夢見た「朝鮮半島奪還」の夢は、この時に現実のものとなったかのように思われた。

しかし、この支配もまた、長くは続かなかった。第二次世界大戦の敗北と共に、日本朝鮮半島から撤退せざるを得なくなり、再びその地は遠い存在となった。

朝鮮半島南部――倭人故郷としての歴史的意義

イスラエルユダヤ人にとって失われた故郷であったように、朝鮮半島南部倭人――すなわち日本人にとっての歴史的な故地であり、その奪還は、古代から目標であった。日本前方後円墳朝鮮半島南部に点在していることも、その歴史的なつながりを証明している。これらの墳墓は、単なる埋葬の場所ではなく、倭人がこの地に深く根を下ろしていた証拠だ。

天智天皇からまり豊臣秀吉戦前日本、そして小規模な倭寇――いずれも朝鮮半島南部を取り戻すという潜在的な思いを抱いて行動していた。この「奪還の夢」は、日本歴史の中で脈々と受け継がれてきた宿命とも言える。

現代においても、日本朝鮮半島関係は複雑でありながらも、歴史的な繋がりは消えることなく残っている。かつて倭人が歩んだ地、朝鮮半島南部――それは、日本にとって単なる隣国土地ではなく、彼らの魂が宿る場所であったのだ。

2024-07-24

大手ニュースメディアのCNNインタビューで『信長は弥助を神だと思っていた』と語った根拠は気になる

アフリカ人奴隷を使うと言う流行が始まった』と言い出したのは氏が初ではないかも知れないが、

氏が大手ニュースメディアCNNで語っていた、『信長は弥助を神だと思っていた』『日本で最も有名な外国まれ武士となった』

ヤスケの仕事一族権力を守ることでした』(信長の首を守護し息子に届ける) の根拠はそれぞれそれなりに気になる

日本人が知らない、少なくとも教科書では習わない事実なので純粋に興味があるよ

African samurai: The enduring legacy of a black warrior in feudal JapanCNN

When feudal Japan’s most powerful warlord Nobunaga Oda met Yasuke, a black slave-turned-retainer, in 1581, he believed the man was a god.

Oda had never seen an African before. And like the locals in Japan’s then-capital of Kyoto, he was awed by Yasuke’s height, build and skin tone, according to Thomas Lockley, the author of “African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan.”

“When Yasuke got to Kyoto (with Jesuit missionaries), there was a massive riot. People wanted to see him and be in his presence,” says Lockley, who spent nine years researching and writing the book, which was published last month.

Oda believed Yasuke to be either a guardian demon or “Daikokuten,” a god of prosperity usually represented by black statues in temples. He tried to rub the pigment from Yasuke’s skin, believing it was black ink. Once convinced Yasuke was real, he immediately threw a feast in his honor, says Lockley.

 

1581年、戦国時代日本の最も強力な戦国大名である織田信長が、奴隷から家臣となった黒人ヤスケに出会った時、信長ヤスケを神だと信じました。

アフリカン・サムライ戦国時代日本伝説黒人武士ヤスケの真実物語」の著者トーマスロックリーによると、信長はそれまでアフリカ人を見たことがありませんでした。そして、当時の都であった京都地元民と同様に、ヤスケの身長、体格、肌の色に畏敬の念を抱いたそうです。

ヤスケが(イエズス会宣教師とともに)京都に到着した時、大規模な騒動が起きました。人々はヤスケを見たがり、彼の存在を身近に感じたがりました」と、9年の歳月をかけて研究執筆した先月出版されたこの本について、ロックリーは語ります

信長ヤスケを守護の鬼か、通常寺院で黒い像で表される繁栄の神「大黒天」のどちらかだと信じていました。信長ヤスケの肌の色素を擦り取ろうとし、それが黒インクだと考えていました。ヤスケが本物だと確信すると、すぐに彼の名誉を称える宴を開いたとロックリーは述べています

 

https://edition.cnn.com/2019/05/19/asia/black-samurai-yasuke-africa-japan-intl/index.html

  

氏が出演したNHK番組でも下記のように"侍"と書いてるので根拠はあるのだと思う

Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助 |NHK BS

織田信長に仕えた黒人、弥助(やすけ)。イエズス会宣教師に同行していた弥助を信長が気に入り、家臣に取り立てたのだという。2人の主従関係は「本能寺の変」によりわずか1年3か月で終わったが、その前後の弥助の足取りはこれまでなぞに包まれてきた。しかし近年の研究により、アフリカからアジア日本へ到る弥助の人生が次第に明らかにハリウッド映画化も進むなど、今世界中から注目を集める、弥助の生きざまに迫る。

https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009051309_00000

 

なお、アフリカ人奴隷を使うと言う流行が始まった』という主張の根拠は、

京都国際観光大使政府成長戦略会議委員も勤め、『中小企業であること自体特権化している』

子どもがいない専業主婦脱税と同じ・社会インフラただ乗りモラルハザード』などなど

数々のありがたいお言葉を下さる、デービッド・アトキンソン氏によると、(アフリカ人奴隷流行は)資料にかなりあるけど』らしいです

日本人が知らない、少なくとも教科書では習わない事実なので純粋に興味がある

https://x.com/sessyun5021/status/1815008190398148816?s=61

 

 

ちなみ 群馬県文書館レファレンス事例紹介コーナーによると『くろほう』について下記の回答があるね

12 群馬県文書館所蔵の古文書に、黒人と思われる「くろほう」という記述があるとききました。それは事実でしょうか。

 

 栗間家文書(P00101)のNo1「年未詳加藤清正書状」(下川左衛門ほか宛)には、豊臣秀吉朝鮮出兵に関連する記述の中で「くろほう」という言葉が出てきます。そして2021年3月30日NHK BS4Kで放送された「Black Samurai 信長に仕えたアフリカン侍・弥助」の中で、日本大学准教授ロックリートーマス氏がこの文書に出てくる「くろほう」こそ、織田信長に仕えた黒人武将弥助の後身ではないかと、述べられています。まず文書館内では、この「くろほう」をこれまで全く黒人として認識しておらず、トーマス氏のご指摘に驚いています。実は、この「くろほう」が弥助かどうかはともかく、黒人推定する見解は以前からありました(中島楽章氏「16世紀九州末ー東南アジア貿易」『史学雑誌』118-8号ほか)。 ただし現時点では、この文書の1カ所にしか出てこないため、断定は難しいと思われます。例えば、『源氏物語』にも「くろほう」という言葉が出てきますが、これは「黒芳」(練り香)の意味で、日本古典で頻出しているようです。また、当館文書を読むと、人間ではなく、物を指す記述と見た方が自然ではないか、という意見も係内で出ています。以上より、現時点では「くろほう」を直ちに黒人即断するのは難しいのではないか、というのが当館古文書係の見解です。

https://www.pref.gunma.jp/site/monjyokan/130144.html

 

 

 

参考にしてください

anond:20240724185446

 

 

 

 

 

関連増田

 

 

 

 

 

 

 

2024-06-16

anond:20240615211557

秀吉に関しては江戸時代そもそもタブーだし、朝鮮出兵肯定的評価してるのが主流の時代なんてないと思うがな~

どちらかと言うと鳥取城の渇え殺しとかの批判が増えてるのが評価をおとしてる原因だと思うけど

そもそも海外含め、完璧高潔人間など存在しないから、偉人だと思われて資料を掘られると大体まずいものが出てくるってそれだけじゃないかって気もするが

2024-06-15

じゃあコロンブスみたいに評価が変わった偉人英雄って誰よ?

ぶっちゃけコロンブスがそんな批判されるような奴だなんて知らんかったわ。気になったからChatGPTに聞いた。

評価が変わった偉人英雄の例を以下に挙げ、それぞれの以前の評価現在評価、そして評価が変わった原因を説明します。

クリストファー・コロンブス (Christopher Columbus)

トーマス・ジェファーソン (Thomas Jefferson)

ウィンストン・チャーチル (Winston Churchill)

ハトマ・ガンディー (Mahatma Gandhi)

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア (Martin Luther King Jr.)

ナポレオン・ボナパルト (Napoleon Bonaparte)

これらの例からも分かるように、歴史人物評価時代背景や社会価値観の変化によって大きく変わることがあります

コロンブスだけじゃなくナポレオンダメだったのかよ。

日本人だとどんな例があるんや?

もちろん、日本人の例もあります。以下に、評価が変わった日本人偉人英雄の例を挙げます

豊臣秀吉 (Toyotomi Hideyoshi)

織田信長 (Oda Nobunaga)

昭和天皇 (Emperor Hirohito)

徳川家康 (Tokugawa Ieyasu)

福沢諭吉 (Fukuzawa Yukichi)

山本五十六 (Isoroku Yamamoto)

これらの例からもわかるように、日本歴史人物評価も、時代の変化や新たな歴史研究の成果によって変わってきています

うーん。元からそんな良い評判の良い人らでは無いような気がするが…。うっすらとセンシティブ配慮必要とされる人らやん。

もしかしてコロンブスも、昔からそういう枠内だったってコト?

2024-06-14

anond:20240614145343

秀吉朝鮮出兵は失敗して国益に損害与えて国内的に許されないってのもあるから元増田も含めて西欧的なポリコレで論じるべきなのかという部分が

2024-03-12

26年の大河「豊臣兄弟!」主人公豊臣秀長

秀長が主人公だと秀吉の嫌なところ見せずに済むからこうしたのかな?と一瞬思ったけど普通に朝鮮出兵秀次事件も起きた後に死ぬんやな秀長

普通にイカれる兄ちゃんのことを心配しながら死ぬから可哀想なだけやん

2023-10-10

anond:20231010130800

超優秀な能吏だしちゃん朝鮮出兵もしたのだけど、武士出身じゃなくて戦場に出ずに出世したのと、言い方が細かい点で嫌われた。

まり人望がなかった。

あともう一つは、歴戦のつわもの家康にしてやられた。老獪な策略で関ケ原に出てくるように仕組まれたというのが現代のおおよその見方

家康は数時間おきにラッパを飛ばして「治部は挙兵たか」と確認させていた。

2023-09-27

anond:20230806181429

秀吉農民から成り上がったから、「成り上がる」ことがすなわち人生だった。

頂点に上り詰めたらさらに成り上がることを得ないといけない。

そのために朝鮮出兵その先の清征服があった。

信長はそこまでのビジョンはなかったらしいが、秀吉の説におおむね同意はしていたらしい。

2023-09-21

anond:20230921162057

そんなん言ってたらキリなくね

朝鮮出兵で負けたのは文禄慶長世代のせい

奴らが負けなきゃ超大国の一員だったのに

2023-08-06

anond:20230806181429

周辺諸国降伏を迫り、拒否されたら攻め潰す」というのはそれまでの秀吉の基本戦略であり、朝鮮出兵もその延長線上にある自然な発想なんじゃないか

「でも無謀じゃん?」というと「そんなに難易度が高いとは思ってなかった」ということになるんだろう。

当時の日本には鍛え上げられた大軍団と優秀な装備があった。

逆に明は、暗君万暦帝のもとで退廃の道を歩んでいた。

実際の朝鮮出兵でも局地的な戦闘では明軍を圧倒していたし、秀吉が元気なら何だかんだで明まで攻め上がっていた可能性はある。

もちろん家康がやったように、一転、その優秀な軍隊を無理やり解体して、偃武鎖国路線をとることもできる。

俺たちは「260年も平和が続くんだからそっちのほうがいいじゃん」と思ってしまうが、まあそれは後知恵だよな。

2023-05-04

anond:20230504172853

結果的朝鮮出兵免れて五大老筆頭になったしな

小田原もらってたら秀吉から目をつけられてワンチャン潰されてた

2023-02-23

はてな動画を見抜く目がないな

最近モンドチャンネルっていうのがホットエントリー入りしてるけど、

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.nicovideo.jp/watch/sm41823743

あのチャンネルアカウントで「秀吉朝鮮出兵カトリック侵略に対抗するため」って与太話をばらまいてたからな。

https://www.youtube.com/watch?v=McVqWd4s7Ws

じゃあもっといい動画を紹介しろよって人がいたらブコメしてくれ。

ホットエントリー入したら紹介するわ。

ちゃん資料引用付で紹介してる動画制作者いくつか知ってる。

https://anond.hatelabo.jp/20230222194136

2023-01-01

anond:20221231152822

私は不潔耐性と貧相な食事耐性はある

戦国時代に重宝される体質じゃん

朝鮮出兵は疫病でやられたといわれている

傷病看護兵として活躍しそう

2022-10-25

anond:20221025100440

太閤秀吉統一してから領地を分けることができなくなって朝鮮出兵たからなあ

位人臣を極めるとどうしてもそうなるのだろう

まり台湾侵攻は100%ありえる

2022-10-22

リベラル的にはどれぐらい昔の出来事まで謝罪と賠償請求権が認められるの?

明治時代秀吉朝鮮出兵時代被害はまあ認められるだろうけど、もっと前の奴隷貿易時代や、コロンブスと「新大陸」の時代でも被害を訴える動きがある。

そこまで昔にさかのぼっていいなら、日本元寇の件でモンゴル国賠償請求をしてもいいの?

また、日本侵略犠牲になった韓国北朝鮮の人たちが伊藤博文安倍晋三豊臣秀吉揶揄し、批判し、従軍慰安婦に対する日本人の贖罪意識を用いて色々政治的宗教的に動いたのと同じように、モンゴル侵略犠牲になった日本でもチンギスハン名前食べ物名前に使っちゃったり、ハンの顔のイラストラクガキをしたりしても人権的に許されるの?

2022-08-07

ITの内製化への考察ポエム

昨日のITの内製化というスレを見ての感想

しっぽ切りという魔法の杖

外注流行った理由の一つとして、

企業システム担当者SEでもプログラマでもない人)が、何かあったら外注のせいにして責任を逃れられる」

って書かれてて、なるほどなあと思った。

家康負の遺産

で、これを考察すると、これって江戸時代武士支配をしていたメンタルのものなんだよな。

例えば徳川家の旗を間違えて燃やしちゃったり、雑巾にしちゃったりする。

そしたら領地減らされるとか、最悪は改易(飛ばされる)とか、遠島流刑

こういう「1%ミスを許さない」っていう精神って、徳川家康が設計したものなんだよね。

家康将軍引退してからも実権を握ってたのが13年くらいあって、

息子の秀忠が馬鹿真面目だったってこともあって、「ならぬものはならぬ」みたいな上意下達文化を作ったんだと思う。

大奥とかの文化も非常にクローズドでがんじがらめで、今の日本に近い文化だよね。

それが260年以上続いた。

ベンチャーマインド戦国時代

江戸以前の戦国時代はその逆で、「勇敢な行動の末のミスであれば武士としてあっぱである

みたいな文化だったんだよね。もちろん「勝手な行動は死罪」というのは軍においてはそうであったけど、

基本的スピードと結果が全ての世界だったから、許されることも多かった。

何より信長秀吉が好んだのは「臨機応変さ」「勇敢さ」であって、企業でいうベンチャーマインドに通じると思う。

秀吉朝鮮出兵などで自爆してしまったけど、信長がもし織田政権を長期化させていたら、

日本は非常に面白い国になっていたんじゃないかな、とも思う。

楽市楽座とか、重商主義なところも、石高社会の当時の日本としては画期的だったからね。

日本人を支配する「村八分」への恐怖

まあ、家康は偉大ではあるけれども、日本人を停滞させた側面はあっただろうね。

もちろん江戸の安定政権プラスも大きかったけど、

パーセントかは信長秀吉ベンチャーマインドが許容される国であっても良かったと思う。

とくに商業という意味においてね。

日本人の責任を取りたくない、悪い意味での臆病さが、外注という甘えを生みだして、

そこに反社的な人たちを付け込ませてしまったのではないかな。

で、その臆病さの源泉は何かっていうと、終身雇用にあるんだよね。

アメリカみたいにスキルアップして飽和したら、数年おきにステップアップ転職する、っていう文化がないからね。

一生面倒を見てもらうわけで、ちょっとミスしたら一生居心地が悪くなってしまう。

そんな気持ちが見て取れるよね。

村八分されたくないから、村の外から工事人工を雇うってことなんだろうね。

人間はたった数百年じゃマインドを変えられないってことだね。

多重下請け構造とは江戸時代である

で、話は戻るけど、多重下請けスキームにおけるエンドユーザー企業にいる、

エンジニアでもない「システム担当者」って結局なんなの?とも思う。

イメージ的には、江戸時代の城の中の座敷で座ってる人って感じ。

めっちゃ座り方が型にはまってる感じの。

殿中まかりこしま早漏」とか言ってそうな人(知らんけど)。

何ができるかっつーと何もできないけど、殿中まかりこしま早漏の言い方はうまい(笑)

そういうイメージ人材だと思う。

で、その下に鼻息の荒いヒゲ面の山賊っぽい人とか悪人がつく。

頭領「この工事には1000人必要ですな」

座敷おっさん「うむ!節々のこといっさい任せたぞ!」みたいな。

頭領は、人権とかどうでもいい荒くれものでないと務まらない。

暴力と恐怖心で躊躇なく人を殺し、操れる人材が求められる。

あとは500人で済む工事を1000人で見積もらせる、金への執着、欲望の深さも大事素養である

アメリカの強さは信長の強さ

ちなみに信長二条城の改修を驚くべき短期間と完成度で仕上げたそうだが、

その時には自分も粗末な服を着て、身分の低い人工たちと身分の差なく語り合い、

トップダウンで進めたという記録が、フロイスによって残されている。

よく考えれば城が立派に早く完成すればいいわけで、

工事計画文書、第100版を作りまかりこしもうした」って毎日やるのが目的じゃないものな。

まかりこしもうしたやってる間に城郭を強化したり街道を整備してる。

これは現代でも同じ。最終目的がわかってるのがアメリカの強さ(=信長の強さ)なんだろうな。

から日本Excelポチポチやってる間に、AWSAzureを作ってしまった。

変革の追い風はある

とはいえ公正取引委員会とかIPAデジタル庁が、問題認識して動いているから、風向きは変わっていくかと。

公取委IT業界多重下請けにメス 不当行為調査摘発

https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/mag/nc/18/020800017/072600752/

2022-07-22

anond:20220722201337

家康はその前に秀吉の耄碌があって、秀吉秀次事件朝鮮出兵の後始末で家臣団が分裂してるのみてるから

若いから自分トップで先例がないやつに跡継ぎのことを考えろというのは酷なもの

2022-07-12

anond:20220712095512

マン茶道

日本における「マン茶道」は、戦国時代誕生した「女陰流」と呼ばれる茶道の一派に端を発する。

女陰流」は室町時代の中期に誕生し、一度は豊臣秀吉朝鮮出兵によって中断を余儀なくされたものの、江戸時代に再興されて武家社会を中心に広く広まった。

この流派の特徴は、女性器の美しさと、その香りと味を鑑賞することを芸道の基本とした点にある。

女性器の香りは、尿、愛液、汗、垢などの分泌物によって構成される。そのため、女性器が発する芳香には、尿を出してから経過した時間かいた汗の量、性的興奮による愛液分泌など、様々な要素が関係している。さらに、女性性器には個性があり、その持ち主によって千差万別である

マン茶道では、その時々の女性器の状態と、その個性を活かした上で、最大限に魅力を引き出せるように女性器をよく研究することが重要とされた。

例えば、ある女性性器排卵日になるとブルーチーズのような強い臭いを放ったが、陰毛を剃って清潔にし、濃い茶と甘い菓子と共に味わうことで香りを活かして楽しむことができた。また、生理中の性器は血の味が強いが、鮮度の良い果実香草と共に茶を点てて味わうことで、臭みを抑えて味を引き立てることができた。このように、マン茶道では女性器の香りと風味を引き出すため、様々な工夫が施されてきた。

また、女性器の形状についても、陰唇や陰核の形状、鮮やかな色あいなど様々な観点から評価された。

形だけでなく、質感、割れ目の開き具合、陰毛の毛質なども重要視され、どのような女性器はどのような茶や菓子と共に供するのが望ましいのかについて議論が交わされていた。

2022-07-10

anond:20220710155524

実際は家康の天下への周到な計画と苦労は、それだけで長い物語になる

とにかく総合的に苦労を惜しまない75年だったと思う

秀吉は軍略と調略の天才スピード感がすごく、毛利を4年で落としたのはほぼ秀吉だけの手柄

内政力は朝鮮出兵などで疲弊させたり問題があった

信長は圧倒的なカリスマ恐怖政治をもった将の将であり戦国を終わらせた祖であるのは間違いない

秦の始皇帝のような役割だったとみてよい

2022-07-01

https://yururito-sengoku.com/sengoku9/bushinikushokuji.html

戦国時代武士食事!~お肉事情編~

『腹は減っては戦はできぬ』という言葉があるほど、戦国時代武士にとって食事は大切なもの

食事をとらなければ力がでない!

力がでないという事は動けない!

動けないという事は戦に勝てない!

そう、食事は戦に勝つ為のパワー!

食事を怠れば死、あるのみ!

それなのに、なぜか戦国時代武士達は肉を食べるという事をあまりしていなかった?!

なぜなのか??

戦国時代、肉を食べるという事はどういう事だったのでしょう??

今回は戦国時代の肉食文化についてゆるりと解説しております

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戦国時代以前にあったらしい『肉食禁止令』・・・

そもそもの話…、

戦国時代より昔から日本人仏教の影響で肉食文化にあまり馴染みがなかったようです。

はいってもまったく肉食文化があったわけではなく、これにいたっては身分の高い人がその傾向にあったようです。

歴代天皇は『肉食禁止令』なるものを出していたそうで、公家などの貴族なんかはこのお触れを守り肉を食べる事をしなかったそうです。

『肉食禁止令』なんかがあるくらいだから、肉食は普通に行われていたと考えられるわけですが、

武士というもの貴族文化マネしたがる傾向にあるようで、

肉なんてヤダわはしたない~時代魚介類っしょ~!

ってな感じで魚が副食の定番となっていったそうです。

ちなみに鯉や鯛なんかが高級食材だったらしい。

宣教師登場で変わる日本食事文化・・・

日本人なら魚っしょ!ってのが当たり前だった昔の武士達…。

そんな武士達の食事常識を変えたのが、キリスト教文化日本に広めに来た宣教師だといいます

日本人ってなんで肉食べないの?

肉、美味しいんだよ?

首回りのピラピラした衣装マント動物の毛皮なんかの南蛮アイテム流行に敏感な武士達に多大なる影響を及ぼしました。

南蛮文化イケてる、だぜ?

食うしかねぇだろ。肉!

戦国時代になると南蛮文化の影響を受け、肉はなんか食べちゃダメという感覚が薄れていったといいます

動物であれば猪、豚、ウサギ、狸なんかが食べられていたそうで、鳥であれば雉や鶴、小鳥なんかが食べられていたそうです。

基本的に、食べられるものは何でも食べちゃうというスタンスであったそうな。

しかし、意外にも現代では超メジャー牛肉は食べなかったそうです。

牛は農耕に使う生き物。

食べるもんじゃない。

という常識があったんですって。

食べた事ないけど絶対ウサギや狸より美味しいのに…

戦国時代の人に焼き肉の美味さを教えてあげたい。笑

ちなみに馬も食べなかったそうです。

牛同様に、

馬は交通手段や戦で使うもの

という感じだったそうな。

ちなみに猫や犬、猿なんかのペット系は現代と同じで「食べるもんじゃない!」という感覚ちゃんとあったんだって。良かった…。

豊臣秀吉、虎の肉食べてたらしいよ。

豊臣秀吉は虎の肉を好んで食べていたそうです。

戦国時代で虎といえば『加藤清正の虎退治』が有名ですが、朝鮮出兵では秀吉のご機嫌を取る為、他の武将達もこぞって虎を討ち取ったと言われております

武将達は討ち取った虎の肉を塩漬けにして日本にいる秀吉の元へ送ったそうですが、あまりの量に秀吉

もういらない…。

ウンザリしていたそうな。

ちなみに虎の肉は滋養強壮に良いとされていたそうです。

その味やいかに・・・。

絶対に美味しいチキン鶏肉が食べられなかったのはなぜ??

雉や鶴、小鳥なんかは食べられていたと言われていますが、実はこれまた意外にも鶏肉を食べていた記録はないらしいです。

鶏は昔から日本存在する鳥、手軽かつ美味しいのになぜ昔の人は鶏肉を食べなかったのか…??

それは、鶏は『神様に近い鳥』とされていたから。らしい。

白く美しい体に映える真っ赤なトサカは『日の出』を連想させ、日本の『旭日信仰』に通じるものがあるからというのと、

毎朝正確な時間に鳴いて日の出を告げるのが、当時の人々には凄く不思議神秘的に感じていたそうです。

鶏様は神の使いに違いねぇ!

鶏様を食べたら天罰がくだる!

という事ですね。

こんな感じなので、鶏の卵を食べていた記録なんかも見当たらないそうです。

戦国時代武士食事普段はどんな感じ?

肉が普及しだしたとはいえ戦国時代武士普段食事はと比べると極めて質素でありました。

戦のない時は朝と夕方1日2食がデフォだったという…。

しかし、それには…

戦が始まれば、毎日満足に食事がとれる保証なんてないからな。

長期戦になればなるほど兵糧の確保も大変なわけだし…

数日間食事がとれない状況になったとしても大丈夫なように、1日2食で体を慣らしておくのだよ。

このような理由があったと言われているようです。

とは言ってもその1日2食の食事量は凄まじく、1回の食事で2合半のお米を食べていたそうな…。

ちなみに米は米でもそこらの武士玄米を食べていたんですよぉ。

白米は当時、高価で貴重なものでしたから…

身分の高い大名毎日食べてたのかなぁ~いいなぁ~。

ちなみにおかずは、魚や大根や芋の煮物、菜物入りの味噌汁なんかがあったそう。

玄米漬物だけという質素メニューの時も多かったらしいので、その時の経済状況や食料事情、それぞれの地域結構格差がありそうですね。

世界各国から様々な食料を輸入してる現代とは事情が違うもんね。

日本国内だけじゃなかなか賄えないし、食糧難とかもあるよねぇ~。

ちなみに、いざ戦が始まると白米のほうが玄米より早く炊けて消化も良いとの理由足軽たちも白米を食べていたんだとか。

白米に味噌ネギ野菜を混ぜ、雑炊にして食べる事が多かったよ~!

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おまけ・武士定番携帯保存食

兵糧がん

そば粉に酒やはちみつ、すり胡麻を混ぜて蒸し、それにきな粉をまぶしたもの

焼きおにぎり

玄米おにぎりに赤みそを塗って焼いたもの。保存も効く。

みそ玉

味噌にすりおろし生姜や酒を混ぜ焼き、丸めもの

塩分補給に最適。お湯でとかせば味噌汁にもなる。

煮干

カルシウム満点の煮干し。多分、おやつ感覚で嚙んでたと思う。

干し飯

白米、玄米を一度蒸して乾燥させたもの。お湯や水で戻して食べていた。

インスタントライス

2022-06-23

浅野長政赤穂浪士浅野内匠頭先祖

逸話

小田原征伐において、秀吉沼津城に進軍の際、案内役の家康家臣の伊奈忠次舟橋を架けた。しか秀吉は、側近の三成の言に従い、用心して渡ろうとしなかった。そこで長政が手勢を率いて先に渡り舟橋安全性証明したという(大道寺友山の『異本落穂集』より)。

同じく小田原征伐の際、秀吉は、家康居城駿府城宿泊する予定であった。しかし同じく三成が「駿河大納言殿(家康)は北条左京(北条氏直)の岳父であり、内応している疑いがございます」と述べた。すると長吉は「大納言殿はそのようなことをされる御方ではない。そんな偽りを信じてはいけませぬ」と秀吉に直言した。秀吉長吉言葉を容れて駿府城に入城し、家康から手厚いもてなしを受けたという(『異本落穂集』より)。

秀吉文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は「直ちに殿下秀吉)のための舟を造ります」と述べたが、長吉は「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」と述べた。秀吉激怒して刀を抜いたが、長政は平然と「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したという(『常山紀談』)。

石田三成について研究している白川亨は、関ヶ原の戦いの前の長政謹慎事件は、長政や前田利長を三成らの反家康から分離させようとした家康陰謀挑発であるという説を提唱している。長政の嫡子・幸長は三成と犬猿の仲だったため、長政は両者の間で苦悩していたという。

甲州八珍果を定め、甲斐国果物栽培奨励したという説があるが、正確なところは明らかになっていない[8]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%B0%8F#%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB

名臣だなあ

ゲーム信長の野望ステータスには出ない能力があるとみられる

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