はてなキーワード: 類推とは
日本のフェミニズムが抱えている問題は複数あって、煎じ詰めれば「思想の善悪如何はともかく、その行動が全く効果的ではない」という一事に尽きる。
女性の地位向上。大いに結構。その、地位向上のためにある種攻撃的な手段を用いること、これまた結構。
しかし、攻撃的な手段を用いている割には、その効果が殆ど出ていないことに問題があるのである。
むしろ、結果的にそのような手段が、フェミニズムに対する周囲からの評価を下げてさえいるのが問題なのだ。
古来より女性は男性による抑圧を受けてきた。この事実を頭から否定することはできない。
例えば、近代イギリスの小説家サマセット・モームは、作品『月と六ペンス』の中でこう書いている。「女性は自分を殴る男性を好んでいる。むしろ、自分を殴ることのできない男性のことを見下しているのだ」と。
このような記述は、文脈的に言えば主人公のチャールズ・ストリックランドがタヒチを訪れた際に語られているものである。ここからは、モームがどのような立場で女性を一般化しようとしていたのかが読み取られ得る。
また、自然主義(人間の本質を虚飾なく描くことを目的とした主義思想)作家の大家である、近代フランスのエミール・ゾラが書いた『居酒屋』では、登場人物の男らが、まるで息をするように女性達を殴りつける描写が、散りばめられている。貧民層の現実を標榜した彼の作品においてもまた、女性に対する暴力が大いにクローズアップされている。
このように、国の内外を問わず、女性に対する男性からの暴力というものは散見される。流石に、このような状況は現代において相対的に改善されているものの、未だどこかしらに不満を残す女性がいることに不思議はない。その女性らが、自らの権利を向上するための運動を行ったとして、何の不思議があろうかとも思う。
問題は、それらの行動が評価を得にくいこと、あるいは、フェミニズムの評価を落としていることである。それらの行動の多くが、効果がないどころか逆効果であるという点である。
具体的に、何故そのような問題が発生しているのか?
以下に論点を纏めていく。
古代ギリシャの劇作家アリストファネスは、自身の著した喜劇『女の平和』にて、女性らのセックスストライキを描き出している。
女性達が、「そんなに戦争が好きなら、私達を抱かなくとも大丈夫なんだね?」
と、戦争反対のため断固セックスを拒否する痛快さ。このような鮮やかさは、現代人にさえ快い衝撃をもたらすものである。
女性の最大の魅力は何か? それは性である、とアリストファネスは言う。
このような言説は当時のギリシャ男性においてのみならず、近代のフェミニストらにも見られる。
女性が短いスカートを履くこと、自身の魅力を以て大いに社会に地位を占めること――その権利を回復せねばならないということ。それを目的として、20世紀のフェミニストらが声を張り上げていたことは言うに及ぶまい。
イランのごとき保守的な国家においては、女性が人前に出る際には目元を除き身体をベールで覆う必要がある。そのような規則が女性の利益を担保しているのか、損なっているのか、議論の難しい点には違いないが、現代においてはそのような保守的傾向の多くが拒否されている。女性らは、身体をベールで覆うことを一般的によしとしない。
女性が獲得した権利はそこに見られる。つまり、性の発露である。
性はそれまで女性の自由にはならなかった。構造主義の先駆者とされるレヴィ・ストロースは、「女性は男性らの所有物であり、婚姻という形で交換が行われた」という意味の主張を行っている。彼に対する当時のフェミニストらの批判は推して知るべしだが、女性の婚姻が父権的立場にある人間によって執り行われることは多く存在していた。そういう意味で、女性にとって婚姻も性も自由とは言い難かった時代が存在していたのである。
自身の性を管理し行使する権利が、婚姻の不自由によって制限されていた時代があったことは、間違いない。この文脈に沿って言うならば、間違いなく女性の権利は現代において拡張されたのである。
とは言え、問題はこの延長線上にある。
女性が自身の身体的魅力を大いに利用すること、それはアリストファネスの喜劇に見られるように、女性の自由を支えている。そこには、フェミニズムと密接に関係する女性の権利の実現が確認できる。
しかし、昨今、この身体的な魅力を大いに活用することは、「性的搾取」に繋がることが指摘されている。
相対的な性の解放が、性的搾取に繋がること、これは表裏一体の問題と言える。
当然、女性が社会進出をする上で、女性が自身の性を政治の手段として用いることには、危うさが秘められている。
そのような危うさをして、現代のフェミニストらは「性的搾取」の大号令を行う。
これらの分野における女性の露出が性的搾取の危険を秘めている、と現代のフェミニストらは声を揃える。そこには危険があり、権力の影がある、と。
女性がスキームとして用いる性が、危機的な結果に繋がっている。ここでどうするべきなのか?
政治家の大多数が男性であるこの社会において、支配者と被支配者の対照は、男性と女性という対照を類推させる。
男性は狡猾である――多くの女性の思う以上に――男性は狡猾である。男性は暴力を行使することができる。端的に言って、男性の筋力は女性に勝り、悪しき意志が備わりさえすれば、女性の尊厳を根本から損なうことを可能とする。恐らく、文明以前の原始時代においては、男性はこれらの暴力を非常に効果的に用いてきた。そこには、ある種暴力の弁証法とも呼ぶべき歴史があった。例えば、あるコミュニティとコミュニティが衝突する――。一方が敗北すれば、その敗者側のコミュニティに属していた女性は、勝者側に所有されることとなる。多くの場合、そこにおいて女性の尊厳が考慮されることはない。
昆虫や動物らに見られる、コミュニティとコミュニティの争いや、イスラム国による女学校の襲撃を思い出して頂ければ、上記の言説の正しさは容易に担保されると思う。
男性は狡猾であり、暴力性を有史以来、あるいは以前において大いに活用してきた。
勿論、現代においても男性による暴力が根絶されたわけではない――とはいえ、その状況は改善されている。暴力には法が対応する。無論、適切な対応が成されない場合は存在するが、少なくとも有史以前に比べれば状況は好転している。
その進歩の影には、恐らく全ての心ある女性と心ある男性の尽力があったことだろう(思うに、倫理を生み出すのは常に狂気じみた努力である)。
人類は持てる限りの理性を用い、公私において倫理を整備してきた。
我々は持てる限りの能力を用いてきた。そこに、女性の尽力が関わっているのは間違いあるまい。
それは、女性が何かを望む際に、その実現を助ける能力になり得る。例えば、意中の人と結ばれる際にその能力は大いに役立つ。
性的魅力は疑いなく女性の能力である。女性が自身の尊厳を担保し、増進させるために、その能力は用いられ得る。
しかし、その能力を女性自身らの尊厳の為に活かすことと――それと、男性(や女性)によって、その能力が利用されること――とは二律背反となっている。
近代において、女性の魅力や能力が、適切に用いられることをフェミニストは願ってきた。しかし、ここに来てその努力は一つの壁にぶち当たることとなる。
例えば、大きな胸を強調したポスター。女性の魅力が強調されてはいるが、不適切な方法で強調されているのではないか――そういう議論が起っている。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である、と人は言う。
この命題は決して間違っていない。「女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取である」。決して、この命題は間違っていない。
とは言え、ここが言わばロドスである。
女性の魅力をみだりに利用することは、女性に対する搾取となり得る。
勿論それはそうだ。とは言え、そこには議論の錯綜するポイントがある。
まず第一に言えるのは、女性の魅力の発露=性的搾取といった、シンプルかつ誤謬を招く等式が発生し得ることだ。
女性が何らかの能力を――この場合には性的魅力を――社会において発揮すること。その能力を発揮することにおいて、何らかの報酬を得ようとすること。それ自体は悪ではない。
自分の能力への対価として報酬を貰うことは、多くの場合善悪とは関係ない行為である。
例えば、女性の高く伸びやかな声、時に力強い声。歌手はそれを披露する。
例えば、ダンサーは時に挑発的に、曲線的なラインで身体を躍らせる。挑発的に、攻撃的に。
絵画において、裸婦は笑う。裸婦は草原に寝そべり、微笑んでいる。
これらは全て、(努力などによって獲得された)肉体的魅力を発揮する行為に他ならない。とは言え、それらの魅力や能力の発揮が、「搾取」に繋がると人は言うのである。つまり、その行為は翻って女性の地位を貶め、最終的には女性全体に対する不利益を導くものだ、と叫ぶのである。
例えば、女性歌手が楽曲を作り、歌う。彼女は、男性への恋心を叫ぶ歌謡曲を作り、歌う。その曲を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。
「媚び」はこの場合、不自然に女性の立場を貶める行為であり、最終的な女性の不利益を招く行為を指している。端的に、それは搾取の対象であると、誰かが指摘する。
例えば、写真家が女性の写真を撮る。彼女は、頬杖を付きながら、気だるげに微笑む。その写真を批判して、「媚びている」と誰かが叫ぶ。その「誰か」は、最終的に女性の不利益を招くと指摘する。
例えば、
例えば、例えば、例えば――
女性が魅力を発露すること、それが搾取の対象になり得るということ――それは必ずしも同じではない。しかし、そこには矛盾がある。女性の尊厳を担保し、増進するために、魅力が用いられること。そのような魅力が搾取の対象とされてしまうこと――。
女性が能力を発揮すれば、それは女性全体の利益を貶め得ると誰かが叫ぶ。
能力を発揮すれば、誰かがそれを利用し搾取すると、その誰かは叫ぶ。最終的には、女性全体の立場は貶められ不利益に帰着すると、その誰かは指摘する。
これが、フェミニズムがソフィスティケートされた結果なのである。それは、端的に矛盾である。
カメラに向かって微笑みかける誰かの存在を、「性的搾取」であるとし、それがゆくゆくは女性全体の利益を損なうと指摘する――。
このような言説には致命的な混乱が含まれていると言って差し支えないだろう。近代のフェミニズムによって獲得された、女性が自身の能力や魅力を自身の権限によって行使する自由は、ここにおいて壁にぶち当たっている。
能力を発揮することは搾取に繋がる。能力を発揮してはいけない。
このような論理は、一般的な男女を納得させるに足る論理であろうか?
勿論それは不可能である。フェミニズムは矛盾にぶち当たっている。
そして、その矛盾を解消し得る論理が未だに発見されていない現在――少なくとも、フェミニズムの論理が一般的な男女を――あるいは当事者であるフェミニスト自身らさえ――説得できる状況にない現在。思想としてのフェミニズムは大きな困難に直面していると言わざるを得ない。
結局、フェミニズムが直面している矛盾を、フェミニスト自身らが解決できていない状況において、その混乱を抑えられていないのが現状と言えよう。
その混乱のさなかでは、到底周囲の人々を納得させ得る行動など、示せるわけがないのである。
昨今のフェミニズム運動の空虚さ、反感のみを招く徒労さはそこに根を置いている。これまでに獲得してきたものと、これから獲得しようとするものとの間に生じる矛盾――その矛盾を解決することなくして、現代のフェミニズムは正しい舵取りを行うことなどできない。結論としては以上となる。
田舎が嫌いだ。いじめたこともいじめられたこともなかったが、学生の頃から地元の人間の馴れ馴れしさが、図々しさが気持ち悪かった。高校から逃げ出して県外に通ったけど、出身地を聞かれると適当に濁してしまう。転勤族で、とか。本当は引っ越しなんかしたことないのにね。たまに嘘もつく。できるだけ方言を使わずに過ごしてきたから、言葉もさほど汚れてはいないだろう。少なくとも、出身地を類推できるほどには。
大学も都内、就職も都内。田舎とは無縁の暮らしをしていたはずだった。それなのに、彼女に言われてしまった。都内生まれの彼女。「子供ができたら、あなたの出身地で育ててもいいよね」流石に彼女には出身を教えているが、嫌っていることも知っているはず。なのに、適度に田舎な方が育てやすいように思えるんだそうだ。要らねえ。子供も田舎に住みたがる女も要らない。話せばわかってくれそうな人だと思うが、そういうふうに思う女だってことが無理だった。果てしなく要らねえ。はあ、未だに出身の呪縛に囚われている自分が嫌だよ。
持論なんだけど、人間ってついつい自分がダメージくらう悪口を、相手に言ってしまうんだよね。
というのも、相手にダメージが大きい悪口を本来言いたいわけだが、相手の属性が判らない状態では、自分の主観から相手の状態を類推するしかないからだ。
主観から相手の状態を類推する傾向は、別にネットでの悪口に限ったわけではない。例えば昔の文通文化の研究では、顔もしらない文通相手のことを自然と自分とよく似た人間だと考えてしまう傾向があるのが知られている。会話相手の「顔」が客観的に存在しない場合、人間は顔のない存在と会話するのではなく、そこに想像上の顔を当てはめて会話する。そして想像材料には、自分の主観と経験を用いるというわけ。
だから、この無職め! 就職しろ!といきなり言う増田がいた場合は、そいつは過去または現時点で致命的な無職だった経験があり、そのことを負い目に思っている……ということがわかる。
ネトウヨは自分で考えていない馬鹿だからな、とかいつも言っているネトサがいた場合は、そいつは「お前こそ自分で考えていないだろ」と言われるのを誰より恐れている。
文字しか知らない増田女さんにブスじゃんとか言う男さんは、おそらく本人がイケメンからは程遠いことがわかる。
このように、悪口を言うことは、すなわち自分の弱点をさらす事と同じなのだ。
レスバトル的に反論ときも、それを踏まえて相手の悪口に似たことを言ってやれば、顔が真っ赤になる確率がかなり高いぞ。
今日はこいつを見て、やっぱ俺は正しいな、と思った。anond:20200114180104)
もうとっくに放送終了したアニメ化作品にハマり、Twitterで落書きアカウントをやっていた。
同ジャンル内で友達を作らずずっとぼっちで、誰にも相談できずずーーーーーっとモヤモヤしてたので吐き出させてください。
同ジャンルのオタクのお局みたいな人(古参)のAさんにおそらく目をつけられていた。
私の何かが気に食わなかったんだろうけど 私が何か絵をUPしたり呟いたりするたびに毎回エアリプの嵐。
「(推しキャラ)くんかわいい〜」みたいなどうでもいい呟きをしたら
だいたい5分以内に
「(推しキャラ)をかわいいキャラとしてしか見てないオタクマジでウケるw」
みたいなエアリプが来る。
「第○話のあのシーンはこういう意味だったのかな…」とでも呟こうものなら
「第○話は昔作者が雑誌(今は手に入らない)のインタビューでこうこうこう答えててこういう意図で描かれたシーンなのににわかは都合よく浅い解釈しがちで受けるw」みたいな訂正と公開処刑がセット。
同じような呟きは、他のオタクもたくさんしているのだが、わたしだけ何を呟いても重箱の隅をつつくような間違いを指摘され、古参お局の餌食にされる。
それをいつもいいねしている信者が7人ぐらいいて、私のことをみんなで馬鹿にして裏で盛り上がってるのかな?と被害妄想さえ湧いてくる。
冷笑系オタクたちが、オタク同士でオタクを馬鹿にするのが面白いと思ってコンテンツとして楽しんでたんじゃないかな。
最初は自分の自意識過剰なのかと思ったけどあまりにピンポイントでニッチな話をしても即エアリプが来る。
人がほとんど起きてなさそうな深夜にそっと呟くようにしても、朝には必ずエアリプが来る。
お互いフォローはしていない。同じ作品が好きなオタクというだけの全くの他人。
向こうから私の垢は見えてないはずなのに、サブの鍵垢でフォローしてずっと監視してるのだと思う。
あまりにしつこいのだが、私のことを言ってるという証拠はないし、いつもたまたま話題が噛み合っただけというように言い逃れできるラインをこえない陰湿さ。
というか、ブロックしない、完全無視をし続けることで「お前のエアリプはノーダメージ」という顔をし続けることが私の唯一の反抗だった。
ただ、私とAさんを両方フォローしてる人も多いので、あまりに話題がピンポイントで同時に噛み合いすぎてて、相互フォローの人同士がエアリプで言い合ってるようにも見えるだろう。
というか、いつもいつもAさんに突っ掛かられている私を見て、両方フォローしている人たちはこの異様な状態をどう思っているのだろう。
二次創作をしている人の中で、私の絵が好きだと言ってくれる人もそれなりにはいたし、そんなに浮いた存在でもなかったと思う。
毒にも薬にもならないらくがきアカウントだ。
あえて言うなら、その凡庸で陳腐なオタクであることこそ、Aさんにとって格好の見下せるオモシロコンテンツだったのだろう。
Aさんの仲の良い人たちは尖った目線で何かを馬鹿にしてることで自分たちが上位のオタクなんだと確認しあってるようだった。
誰かに相談しようにも、友達もいないし、何を描こうと呟こうと、Aさんにどこか粗探しされては「私のことだろうな」と類推できる嫌味を言われたり馬鹿にしてネタにされるのでやがて何も呟けなくなった。
最後はもうどうでも良くなって垢ごと消したのだけど、今になってもなんで見知らぬ人にあそこまでしつこく嫌がらせされ続けなきゃいけなかったのか、
それをさらに肯定する人たちで盛り上がってたのか、私はただ黙って逃げるしかなかったのか、と時々腹が立って仕方なくなる。
あのジャンル続けてる人まだいるのかな?
次はまた新しい標的がいたりするのだろうか。
公取委が個人情報保護委員会とは別にオンラインサービス規制を提案して、「サービスの対価として自らに関連するデータを提供する消費者」とか言い出してるけど、EUでも似たようなことが起きてたらしい。
欧州委員会がオンラインサービス規制のための新しい指令を起草して、そこで「消費者がサービスの対価を個人データで支払う……」とか書いてしまった。これに対し、欧州データ保護監督機関が「何すんじゃワレェ!」したのが以下の見解である。
https://edps.europa.eu/sites/edp/files/publication/17-03-14_opinion_digital_content_en.pdf
EDPSはデータ駆動経済について、EUの成長のために重要であること、デジタル単一市場戦略として唱道されるデジタル環境において抜きんでていることを認めております。消費者法とデータ保護法とが共同し相補しあう関係にあることは私たちが一貫して論じてきたところであります。ですから、「デジタル商品」の提供を受ける条件としてデータを差し出すことを要求される消費者の保護を強化するために、デジタルコンテンツの供給にかかる契約に関する特有の側面にかかる2015年12月の委員会指令プロポーザルの意図しているところを、私たちは支持しております。
しかしながら、この指令のある側面は問題をはらむものです。というのも、これが適用可能なのは、デジタルコンテンツのために価額が支払われる場合だけではなく、デジタルコンテンツが金銭以外の個人データその他何らかのデータの形での反対給付と引き換えに供給される場合にも適用可能だからです。EDPSは、人々が金銭を支払うのと同じように自分達のデータを支払えるという考え方を導入するような規定を新たに定めることのないよう警告いたします。個人データの保護を受ける権利のような基本権は、単なる消費者利益に縮められるものではありませんし、単なるお値打ち品のように個人データを捉えることはできません。
最近採択されたデータ保護フレームワーク(以下「GDPR」といいます)は、未だ完全には適用可能でなく、新しい e-Privacy 制度は今も審議中でございます。ですから、EUとしては、立法者が協議されている入念なバランスをひっくり返すようなプロポーザルは、何であれ避けるべきものです。イニシアティブの重複は、デジタル単一市場の統一性を意図せずとも損ない、規制の断片化と法的不確実性をもたらすことになりかねません。デジタル経済における個人データの使用を規制する措置として、EUがGDPRを適用することをEDPSは推奨いたします。
「反対給付としてのデータ」という概念……このプロポーザルでは未定義のままです……は、所与のトランザクションにおけるデータの正しい機能について混乱を引き起こす恐れがございます。この点で供給者から明瞭な情報がないため、さらに難しいことになるでしょう。それゆえ私たちは、この問題を解決する一助として、EU競争法におけるサービスの定義を一考することをお勧めしますが、その地域範囲を定義するうえでGDPRの用いている規定が役立つかもしれません。
本見解では、このプロポーザルがGDPRとどのように影響し合うことになりうるかを検証いたします。
第一に、データ保護制度に基づく「個人データ」の定義が広範であるため、その効果により、この提案指令の対象となるデータが全て GDPRに基づく「個人データ」とみなされることは十分にありえます。
第二に、(個人データの)取扱いが発生する厳密な条件はGDPRで指定済みであり、この提案指令に基づく修正や追加を必要としておりません。このプロポーザルは反対給付としてデータを用いることを正当とみなしているようですが、GDPRでは、例えば、(本人の)同意の有効性を検査し、デジタル取引の文脈において(同意が)自由意思に基づくとみなしうるか決定するための、新たな条件を一式用意してございます。
最後に、消費者に与えるものとして提案されている契約終了時に供給者からデータを取得する権利と供給者がデータ使用を控える義務は、GDPRに基づくアクセス及びポータビリティ権やデータコントローラのデータ使用を控える義務とオーバーラップしている可能性があります。このことで、適用する制度について意図しない混乱をもたらすことになりえます。
https://edps.europa.eu/sites/edp/files/publication/18-10-05_opinion_consumer_law_en.pdf
本見解は、EU消費者保護規則のより良い執行と近代化に関する指令のプロポーザルと、消費者の集団的利益の保護のための代表訴訟に関する指令のプロポーザルからなる「消費者のための新しい取引」と題する立法パッケージに関するEDPSの立ち位置を概説しています。
EDPSは、目標において最近近代化されたデータ保護フレームワークと密接した領域で、既存の規則を近代化しようという同委員会の意図を歓迎します。EDPSは、個人データの大規模な収集と収益化、およびターゲットコンテンツを介した人々の注意の操作に依存するデジタルサービスの主要なビジネスモデルが提す課題に対応するために、現在の消費者法におけるギャップを埋める必要性を認識しています。 これは、消費者法を改善して、個人とデジタル市場の強力な企業との間で拡大している不均衡と不公平を是正する、またとない機会です。
特にEDPSは、指令2011/83 / EUの範囲を拡大して、金銭的な価格にて提供されないサービスを受ける消費者が、同指令が提供する保護フレームワークの恩恵を受けることができるようにする意図を支持いたしますが、それはこのようなサービスが今日の経済的な現実とニーズを反映しているからです。
このプロポーザルでは、EDPS Opinion 4/2017の推奨事項を考慮して、「反対給付」という用語の使用や、消費者によるデジタルコンテンツのサプライヤーへのデータ提供が「積極的」か「受動的」か区別することを控えています。ただしEDPSは、プロポーザルで想定されている新しい定義により、消費者がお金で支払うのではなく、個人データで「支払う」ことができるデジタルコンテンツまたはデジタルサービスの提供に関する契約の概念が導入されることに懸念を示しています。この新しいアプローチは、「反対給付」という用語を使用したり、個人データの提供と価格の支払いを類推したりすることで生ずる問題を解決していません。特に、このアプローチは、個人データを単なる経済的資産とみなしているために、データ保護の基本権としての性格を十分に考慮していないものとなっています。
GDPRでは既に、デジタル環境にて個人データの処理が行われ得る状況に関するバランスを既に定めています。 このプロポーザルで、GDPRで定める個人データを完全に保護するとのEUのコミットメントと矛盾するやり方で解釈される可能性のあるアプローチを促すようなことは避けるべきです。データ保護法の原則を損なう危険を冒すことなく幅広い消費者保護を提供するために、電子商取引指令における「サービス」の広範な定義や、GDPRの地域範囲を定義する規定、もしくデジタルコンテンツ・プロポーザルに関する理事会一般アプローチの第3条(1)などに基づくアプローチで代替することが考えられます。
したがいまして、EDPSは、「有形媒体では提供されないデジタルコンテンツの供給に関する契約」や「デジタルサービス契約」の定義にて個人データを参照することを何であれ控えていただくことを推奨し、その代わりとして、次のような契約の考え方に依拠することを提案します。 それは、「消費者への支払いが必要かどうかに関係なく」特定のデジタルコンテンツまたはデジタルサービスを売り手が消費者に提供または提供することを約束するというものです。
きちんと追えていないが、「EU消費者保護規則のより良い執行と近代化に関する指令」は、昨月末に採択されたようで、前文に「digital services provided in exchange for personal data」という表現が残ったものの、個人データについては「GDPRに従う」とのことで落ち着いた様である。
①立場が強い者の個人的な満足感のために、②弱者に反論の余地すら与えず、③無理やりやりたくもないことをやらせて、④精神的苦痛を味合わせる行為
これどうみてもパワハラですよね?
①教師は生徒よりも明らかに力が強いです。権力、腕力、発言力、全てにおいて。
②教師の言うことは絶対です。絶対である部分とない部分の境界が生徒に示されておらず、絶対ではないと思って絶対である境界を越えるとボコられるので、生徒からすれば全てが絶対です。情報非対称性が生まれているからです。
③やりたいと思っているかどうかを判断するのは提案した教師に一任されます。つまりは教師側の推察、類推、悪い言い方をすれば妄想の域すら出ていません。
④かくし芸を持っていない人がかくし芸をやらされれば劣等感を味わうのは間違いないでしょう。クラスで仲の悪い子供同士なのにグループを組んで談笑しろと言われても愛想笑いを浮かべるか喧嘩をするかそれぐらいです。
運動会や文化祭は仕方ないにしても、それ以上のイベントを教員の独断で増やす行為は紛うことなきパワハラですからね。
教育委員会が教師側に命じる場合でも、それは間接的にパワハラをさせているということですし、教師側はその状況に対して命令に屈してパワハラを行っていると自覚すべきです。
1年ほど前、ハッと気づいたんだが、俺は英語ができる。聞き取れるし、ある程度喋れる。
旅行に行ったら特に困ることはないし、現地の人間と雑談もできる。
しかし、別に英語学校には通っていないし、留学もしていない。教材を買って勉強したこともない。
現在は32歳だが、勉強せずにいつのまにか出来るようになっていた。しかし、振り返ったらあれがよかったな?と思うことはあるので書いてみる。
①単語をとにかく覚える
受験生のころだが、単語だけはとにかく暗記した。今でもこれが効いている気がする。使ったのは単語王っていう、当時一番単語が収録しているのが売りの参考書だった。
これを4周はしたかな?とにかく丸暗記した。
今でも、「あ、単語王で覚えた単語だ」って思い出すからかなり効いていると思う。
②映画をとにかく見る
自分は映画が大好きで、劇場で年に50本、それ以外で年に100本は見ている。
そのとき、吹き替えじゃなくて字幕で見て、とにかく英語で何を言ってるかを聞き取ろうとしている。
日本語字幕から英文を類推して、発音を確認していく、というのをやっていた。
今では字幕なしである程度わかる。ちゃんとストーリーを追いたいから字幕で見るけど。
旅行に行ったら現地人が溜まってそうなバーに行って、そこで現地人と話す。
ヨーロッパだと日本人が珍しいのか、向こうから話しかけてきたりする。
おれは哲学の大学院を中退して今はワイナリーで働いてるんだー、とかそういう話を聞く。
俺はちゃんと勉強してないんで、英語はできないとずっと思っていた。でも、数年前ぐらいから「あれ?意外とできるんじゃね?」と思い始めて、最近は「できるなー」と思ってる。
この理路のバカバカしさ
そもそも、コラボで人を釣る企画であり、「自発性」を問題にするならコラボ自体がNGってことになる
ここについて、クリアファイルで釣るというコラボ行為を許容範囲とした場合
ポスター文言にイチャモンつける空々しさがお分かり頂けるだろうか
あのポスターは、広告効果として「コラボやってます」以上の価値を持たない
しらん人が見て不快になる事がある可能性が沢山の批判()から類推できるが
批判()してる人の何人が、知らずに献血に行って不快になったのだろう?
んで、バカが見つけて、アホが炎上させて、サルがいろんな屁理屈を並べだした
サルの中にはマチアソビで使われた「鬼滅の刃」のコラボポスターには女性への配慮があるとか抜かしてるが
Vol23で話をしてて、Vol22の竹咥えさせられた禰豆子のポスターを見てないんだと思うんだよな
その程度の後付の批判なんだよ
世間の子育てに対するイメージが変わらない限りそれはないんじゃない?
夫が育児してくれるから云々のtwitterを見て、「なんだこいつの夫普段は育児しないんだな」という評価は出てきた?
押しなべて言うってことは、珍しい現象という類推が働く可能性がある。その類推が働いても、男性は許されるが、女性は許されないという空気がある。
ゆえに、夫がそういうことを書いていたら、妻は「やめろ」と言うだろうなと思う。
あと、あくまでもトロフィーなので、トロフィーに興味がない人にtwitterは刺さらないと思う。そんなハイリスクなトロフィーを投げつけられるより、面前でお礼を言うほうが刺さる人もいると思うんだけどな。
...と書きながら思い出したが、 一語文くらいしか話せないような子供にママって呼ばれている男性はかなり子育てしていると思うけど、たぶんほとんどの男性はわかっていないと思う。乳児が最初に発音できる音はどの言語でもmaだと聞いたことがある。だから、世話してくれる人はみんなmaで呼ばれる。
[追記あり]
日本語の母音は昔からアイウエオ5段だったわけではなく、時代によって変遷があった
50音図やいろは歌が広まった平安時代以降は概ねアイウエオ5段だったんだけど
万葉仮名の分類を行った結果、かつては
(ア)(イ甲)(イ乙)(ウ)(エ甲)(エ乙)(オ甲)(オ乙)という8段の母音があった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BB%A3%E7%89%B9%E6%AE%8A%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3
という話を前提として。
この8音はどの音も平均して使われていたわけではなく、出現頻度の高い音と低い音があることを大野晋という学者が発見した
https://www.dai3gen.net/boin.htm
なぜこのような分布の差ができたかという理由について、大野晋は
出現頻度の低い4つの母音は本来の日本語の母音ではなく、他の2つの母音が融合してできたものだという説を出し、現在概ね受け入れられている
(被覆形・露出形/動詞活用の期限 などで調べるともっと詳しい話がわかると思う)
http://shouyouki.web.fc2.com/sakaya.htm
このなかで、エ段音だけは甲も乙も本来の音ではないので、日本語では連続して出てこない
特に擬声語・擬態語では「デレデレ」など新しく作られた言葉くらいしか現れない
[追記]
これは概ね賛成。露出形・被覆形についてはhttp://nobinyanmikeko.hatenadiary.jp/entry/2019/02/23/011616
この法則は複合名詞の時に一部の母音が交替する現象を説明したものなんだけど
例)
酒 サケ乙 : 酒蔵 サカグラ
爪 ツメ乙 : 爪先 ツマサキ甲
木 キ乙 : 木陰 コカゲ乙
身 ミ乙 : 躯 ムクロ甲
この他にも上二段・下二段活用の未然や連用形で出てくるイ段・エ段音は乙類であるって法則があり、
その場合関連する自動詞・他動詞ペアでは上記被覆-露出の交替と同じような母音が現れることが知られている
ちょっと説明が複雑になったんでこれも例で説明すると(わかりやすく現代の上下一段動詞を前に//でつけて説明)
例)
詰める//詰め ツメ乙 : 詰まる//詰ま ツマ
起きる//起き オキ乙 : 起こす//起こ オコ乙
こんな風に、エ乙とアが、イ乙とオ・ウが密接な関係にあることがわかると思う
これがなぜア・オ・ウにイ甲がついたものだと言われているかと言うと
嘆き ナゲ乙キ甲 が 長息 ナガ + イ甲キ甲 が縮まってできたものだったり
日本語の 神 カミ乙 が アイヌ語に kamuy という単語で借用されてたりなどの
"エ段音だけは甲も乙も本来の音ではないので、日本語では連続して出てこない"ってエ段の母音の発生が遅かったから少ないという意味?平安時代には存在して1000年たっててもまだ足りないのだろうか
1000年は結構な時間な気がするけどそれでも足りないみたいだね
例えば撥音「ん」は50音図やいろは歌成立時点では存在せず、今の漢字音が定着した時代に広まった(平安時代末期くらい?)んだけど
それでも「ん」が頭に来る単語はほとんど作られてなくて、それゆえにしりとりのルールが成立する
なお日本語と2000年ほど前に分岐したと言われている琉球方言では「ん」が頭に来る単語がたくさんある
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%93
宮古島「んみゃーち」など
ら抜きをすることでエ段音の連続になって言いづらいのにら抜きを強行してる人を見ると、なんでそこまでらを言いたくないのか疑問に思ってる(続ける、見せる、食べるなど
やや話がずれるけど、ら抜き言葉は自発と可能を言い分けるために可能動詞からの類推で派生したといわれていて
発音の制約より意味の使い分けの方が重要だとみんなが思い始めたから広く使われるようになったんだろう
ちなみに「続ける」「見せる」「食べる」自体は特にら抜き言葉でもないんだけど
「続けれる」「見せれる」「食べれる」と言いたかったんだよね?(100文字の制約下で正確にものを言うのは難しいと思うんで)
ただ大野晋自身は後にこの説を放棄し、タミル語の母音に合せて、日本語は初めからa,i,u,e,oの5母音だったと修正している
タミル語説には近づくな
ラ行とパ行も新しいってなんか大学で習ったような習ってないような
ラ行音は特に新しい音でもない。が、日本固有の単語では頭は出てこない
これまたしりとりしたらわかると思うけど、ラ行で始まる音で返そうと思ったら
林檎みたいに漢語由来の言葉を使うかラッパのような外来語を使うか
この原因は色々推測されてるけど、朝鮮~北東アジア一帯に似たような性質を持つ言語がいっぱいあるので
古くはこうした地域に特有の発音方法だったんじゃないかって言われている
(※もっと踏み込んで、直接祖先が一緒だったんじゃないかという説もあるんだけどアルタイ語説には近づくな)
パ行は発音の変化の結果分離した。古くはハ行がパ行の発音だった
北京が「ペキン」なのはホクという読みが昔は「ポク」に近かったことを示してるし
上海が「シャンハイ」なのは昔「ハイ」という音がなく、海の読みに近い音である「カイ」を使っていた証拠
ハ行転呼音で調べると詳しく出てくる
会社のそんなに親しくない同僚(Aとします)がパソコンを立ち上げたまま帰った。
LINEの通知がピコピコうるさいのでスリープをかけようとディスプレイを見た瞬間にLINEのポップアップが出て、条件反射で見てしまった。悪口だ。気になり過ぎてチャットルームを開いてしまった。同僚Aが友達のように付き合っている同僚Bとで共通の上司の悪口大会中だった。
慌ててウインドウを閉じたものの、些細な身体的特徴まで持ち出して悪口大会はヒートアップ。次々出てくる新着発言のポップアップをしばし茫然と眺めてからスリープさせた。
上司はまあ欠点もあるが美点もあり私は割とやりやすいと思っている。同僚A・Bは上司とはそりが合わず、上司とそりが合っている私とも当然そりが合わない。業務上はお互いさまで協力しつつ取り組めていると思っていたが、AとBはおしゃべり好きのタイプで、私と上司は無口。2人で私と上司の文句を言い合って楽しんでいるだろうことも想像していた。
想像してはいたし、内容もイメージを越えたひどさではなかった。それでもものすごくショックで、この時間まで何も手につかず、まんじりともせず、寝返りばかりうっている。
この衝撃はいくつかの段階に整理できると思う。
①自分はほとんど人の陰口を言ったことも聞いたこともないと思っている。喋り好きでもないし、臆病なので陰口をきくと震えが来るほどだ。そういう人間に陰口を共有しても楽しくないから周りの人も言わない。だからそもそも陰口をたたき合って楽しむさまを見るのがほぼ初めてだという衝撃。
②2人が特別悪い人間にも見えない(むしろいい人)のだから、みんな陰では悪口を言い合っている、そういう2面性があるのが普通なのではないかという推測。
③自分も自覚していないだけで、実は陰口を言っているのではないかという類推。
④その場にいない誰かの特徴を誇張して共有するのが面白く、エスカレートしてしまっているときは自覚としてもある。
⑤ということは、2人もそこまで悪意があるわけではなく、2人で罵り合うのが楽しくて言っているだけかもしれないという期待。
⑥ただ日常の行動に照らし合わせてみるに、2人は上司の上司に告げ口するような行動を取ることが往々にしてあり、悪意は本物。
⑦彼らは不平等を感じており、その埋め合わせをはかっていると感じる。2人に正義があるとしても、まず不平等を主張して是正をはからないのはなぜなのか。
⑧また②に戻るが、本当はみんなそうやって不満を抱えて発言はせず他人を悪く言っているのか?
⑨不満の発生源も悪いが、是正しようとしないほうも悪いのでは?陰口を言い合うにしても建設的な意見を出そうと思わないのか?
⑩そういう風に考える自分が心底いやだしこれも陰口じゃね?
こうやって書き出してみると小学生みたいな悩みだが、吐き出せば楽になるものだ。まあこれくらいの効果を期待して陰口を言い合うというのは世の中にはよくあることで、そこまで気にすることでもないし、まして建設的意見をとかいう口出しは無用なのだろう。と頭では考えられるが、すべての人を見る目が少し変わってしまったような気がする。
とにかくもう死ぬまで金輪際、人の携帯電話をチェックしたりするような真似はするまい。たいした関係でもない相手の、想像がついていた出来事、しかも別に誰も悪くない些細な事を確認しただけでもこれほどショックで、抱えていなければならなくなるのだ。まして家族や恋人の携帯から何か嫌な証拠でも見つけようものなら。でもこうやって事実を知る体験をしてしまったことで、チェックへの欲求はむしろ高まるのだろう。ああー、生きていくって大変。