はてなキーワード: 類推とは
一部では「ミーはミーがどああああああああああああああ~~~~~いい好きデーーーーース!!!!」と10回叫べという話もあるようですが、自己肯定感が低い状態でこれをやるとあまりの嘘くささに自分の中から次々反論が来るのであまり効果がないです。自分の存在を自分が認め、今日を生きる許可を自分自身が出していることを再確認するだけでいいです。
認知療法ってやつですね。メモ帳とか付箋紙とか増田の画面とかでいいので「事実」と「認識」を書き出したあと、何故その認識になったかの間を埋めていきましょう。
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何故死ななければいけないのか
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一度注意を受けたのに同じ失敗を繰り返したので「学習能力が皆無であることは明白であり人間として存在価値が皆無もしくはマイナスなので死ななければいけない」
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「同じ失敗をしたら学習能力皆無」→一度で全てを覚えるだけの記憶力は普通の人にはありません。出来る人は超人です。超人ではないことが無価値であるとはなりません。
「存在価値が皆無」→特定の分野が苦手であることが存在価値皆無とはなりませんし、もしもそうであるならとっくにクビになっています。
「死ななければいけない」→もし万が一存在価値がマイナスであってもそうそう死ぬべきとはなりません。もしもそうならとっくに死んでいないとおかしい輩がテレビカメラの前に日々映り続けているではないですか。
こんな感じで。まあここまでやらずとも「あれ?途中から俺の類推でしか無くね?」と気づく所でも十分です。
あなたは「インターネットに書かれた3行以上の文章が読める」という非常に価値のある能力の持ち主です。
それを一部の人は「非合理的」「真面目なんだねwww」「時間の無駄」「私もう生徒会室についたよ」と笑うかも知れませんが、気にする必要はありません。
二ノ国の方は映画を見たわけではないのでキレてる人がどのあたりにキレてるのか感想を見た結果の判断にはなるけど
面白い、つまらないはおいといて腹を立ててる、怒ってる人の話ね
ユア・ストーリーはキレてる人はおおむねラスト10分にキレてるし、二ノ国でキレてる人は障害者(車椅子)の人の扱いとそれに付随したもろもろあたりが大きな怒りポイントなんだと思う
そもそも顧客が本当に必要だったものではないってところでキレる人を増やしてる。客が何が見たいかを考えずにギミックだけ仕込むのがもうその時点で雑
ドラクエVの映画を見に行ったらそうではない何かを見せられた、って時点で楽しい楽しくないとかじゃなくてもう裏切られた感があるのよ
今日の晩御飯はカレーね!って言われて楽しみにしてたらハヤシライスが出てきたらさ、そのハヤシライスがおいしいかおいしくないかじゃなくて「カレーだって言ったじゃん!」ってなるじゃん
うまけりゃいいとかそういう話じゃないんですよ。今カレーの口なの。あんたがカレーの口にしたの。ハヤシライス出すならそう言えよ。百歩譲って驚かせたいならごちそうってぼかせばよかったんだよ
まあ広告詐欺な面については監督だけの問題じゃないからそこは百歩譲るとしてもまだ雑が残ってるんだよね
ラスト10分までの伏線ってか必然性がないんだよね。確かに主人公がやけにヘタレだったり唐突な現代用語?とかあったりはしたけど、それがあるから何?
そうじゃなくて「なんでラスボスがどっかの天才ハカー()が作ったウイルス」である必要があったわけ?
うんうん、ラストで主人公にゲームを肯定させたかったのね、ふーん。
でもさ、感情移入もできない自分とはかけ離れたチャラいどっかのニーサンに「ゲームは素晴らしいんだぞぅ!」って言われても心にひびかないの。おわかりですかね
そういうのはちゃんと感情移入できてまともなヒーローが言うから心に響くんであってやることやってないヘタレに言われても薄っぺらいっていうか
そもそも別にそんなクソみたいな奴らに囲まれて育ったわけでもない普通の若者からするとずれた肯定されたってはぁ?ってなるだけなんだよなあ
「そうだそうだ!」って気持ちになるためのキャラの作りこみができてない。感情移入できない、記号みたいな主人公になっちゃってんの
CGばっかり綺麗でキャラの作りこみがほんとできてない、そういう雑さがラストで突き放されっぱなしになって怒る人が増えた原因じゃないっすかね
要はメインキャラに障害を与えておきながらそこの意味がないってことみたいなんだよね
別に車椅子の少年じゃなくても話が成立するよね?コンプレックス作るなら典型的なスポーツ型と頭脳型にしておけばよかっただけで、運動音痴にすりゃいいだけで、障害とか天涯孤独の意味ある?っていう
しかもそんな障害を抱えた少年が序盤で辛い思いをしつつ、最後はそういうの全部なくなって健康体になれる二ノ国に残りました、現実からはさよならだ!ってことらしく
さらに二ノ国と現実世界の一ノ国とを行き来するには自殺、というか命の危機に陥る必要があると
子供向けの映画に「死んだら(死ぬような思いをしたら)二ノ国に行って障害がなくなるよ!幸せになれるよ!」って意味を持たせてしまったと
心の機微がまだ理解できない小さな子供が障害者に向かって無邪気に「死ねば(二ノ国に行って)幸せになれるかもよ!」と言わせてしまう可能性を作ったと
それに対して考えすぎだろと思うかそりゃヤバイと思うかは人それぞれかもしれないけどさ
実際主人公に対して羨ましいわーみたいな感想言ってる人もいたらしいし(伝聞だから確定じゃないけど)
そういうの最初から変な障害つけずに普通の体動かすの苦手なモヤシ少年にしときゃそんな批判は生まれなかったとか
あっちとこっちを行き来する方法を死にかけることにしなきゃそんな批判は生まれなかったとか
そういうほんの些細な配慮で誰もが幸せになれたのにそれをしてないんだからそりゃ雑と言わざるを得ない
車椅子の少年である意味があったのならまだ表現として議論の余地があっただろうけどみた人が「いや、車椅子じゃなくていいわこれ」って言ってるんだよね
あるいは単なる端役だったらそこまで言われなかったかもしれないけどこれ主人公なんだよ
メインのキャラのはずなのに抱えた障害に対して特に向き合ってなくてただ損だけして投げっぱなしジャーマンされてしかも最後は「異世界行きゃ幸せになれるよ」て
監督自身が元から雑だっていうのもあるかもしれないけど、ユア・ストーリーはアルキメデスの対戦と平行で作ったりとか、二ノ国は脚本を一度最初から書き直したとか
そうやってカッツカツにするから細かいところが雑になるんじゃないのかって感じはする
キレられポイントって別に内容に影響を与えずに修正できる部分もあるはずで
一言でIQテスト、というが信頼性の高いきちんとしたものならWAISを受けているはず。なのでこれを前提に進める。
数字で170、とか最終的な結果が出るのでそれに踊らされがちだが、そこは重要ではない。
IQは言語性と動作性に分けられ、さらにそれぞれの中で細分化して評価される。
動作性の下位項目として絵画完成・行列推理・積木模様・符号・・・など
これらの結果を因子分析することで言語理解・処理速度・知覚統合・作業記憶の4因子が得られる。
この各項目や因子もそれぞれIQと同じように100を平均とする正規分布に則った数字で結果が得られるのだが、
各項目間や各因子間の高いものと低いものの差が20以上あると基本的に信頼性が無い。
つまり、「あなたは得意な苦手なものの出来具合の差が一般人レベルじゃないですよ」ということになる。
類推能力が凄まじいけども、赤信号を見て止まれ、とか危険とかイメージがピンとこない人だとか、
耳で聞いたことを覚える能力はすごく高いけども、数と数の関係がピン読み取れない人だとか、そういうバランスの悪い人だということになる。
そして、社会生活に不便さを感じて精神科や心療内科、カウンセラーなどの受診をしている人がこの検査を受けた時、各項目や因子間の差が30以上だったとき
IQ120以上の人のかなり多くは項目間や因子間に差がある。
元増田の170という数値も、各項目で見れば180のものと、130のものがあるかもしれない。
一般的な平均から見ると130も素晴らしいんだけど、社会生活に不便さを感じて受診する人であれば発達障害とされることがある数値なんだ。
https://president.jp/articles/-/29264
この記事ね、だいたい金ない人ほど麺とか豚肉とかマヨネーズとか食ってて、魚・果物は食わないっていう。
で、単純に魚や野菜や牛肉は価格高いのもあるけど、魚なんかは調理スキルが無いとキツいんで、買わないんじゃないかって類推がブコメでも出てるのよ。
そうなると栄養偏ると。
まあ調理にスキルや初期投資が必要なのはわかるし、手間がかかるのもそうなのよ。
調理器具とかもねえ、鍋、フライパン、包丁、お玉、フライ返し、さいばし、まな板、ボウル、食器類、カトラリー、などなど。
炊飯器や冷蔵庫などの大物抜かしても、小物でも諸々揃えたら3〜5万くらい行くかねぇ。
で、調味料とかの基礎食材費もかかって、初期投資はかなりかかんのよ。
その上、やりはじめって失敗するんだよね。
でもそれでもよ、本気で手取り10万とか初期投資すら払えない危機的状況でない限り、
健康になるしさ、1年もすりゃ数少なくても必勝メニューの5個は身に付くしさ。
大体だれもが日常生活で学習できるスキルの中で、確実に元が取れる数少ないスキルだと思う、調理って。
それは否定しない
偏見・レッテル張りにほかならないので公言すると反論を食らうし、実際100%正しい事はないが
おおよそ危機を回避できれば御の字だろうし、誰しも少しくらいは偏見を心の中で使っていると思う
こういう偏見は正しい理屈よりは、大体ふわっとした理屈と経験則で語られる
・まともな学校出てない者
・親元にずっといる者
・まともな職に就いてない者
・性別
・出身
・着てるもの
・金遣い、貯金
「結婚していない奴はおかしい」というのは昔は一理あったかもしれない
これは今の中卒くらいの率なので、「結婚してない奴」という偏見は「高校行ってない奴」くらいの偏見くらいには機能したと思う
今は生涯未婚率が男性の場合25%あたりだ、あと20年で40%に達する推計もある
こうなると「結婚してない奴はおかしい」と言ったときに、かなりの割合がそこに該当してしまう
偏見にしても精度が低すぎる
「男は女は」くらいの非常に雑なカテゴライズで、むしろ「そこにこだわってる奴はおかしい」と言われかねない物になった
何かしら確信でもなければ使うべきではないだろうし、公言なんてもっての外だ
ただ、この変化は非常に速く起きているため、1960年代生まれくらいまでにはまだ通用するかもしれない
自分の場合は周りにその年代の人が居ないからよくわからないけど
(それと生涯における離婚率は30%程度なので、「現在伴侶がいない」だけでは雑な偏見だ)
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今は「結婚してないやつがおかしいかどうか」については論じていないつもり
「マイノリティはおかしいかどうか」についても論じていないつもり
「マイノリティな人は、マジョリティになれなかった理由が何かしらあるんだろう。だからおかしい」といった主張に対して、「未婚は既にマイノリティではないのでその主張はムリ」と言ってる
ちなみにこの私の主張には穴があって、「結婚していないやつはマイノリティかどうかに関わらずおかしい」と言われたら、その主張を論理的にはは反論できない
「マイノリティAはおかしい」という主張には「Aはマイノリティだからおかしい」というのと「AはXだからおかしい」という別の理由があるから厄介なんだけど
大多数の消極的支持者は「普通=マジョリティ」がどっちかで判断しがちだから、マイノリティじゃなくなった時点で主張は通じなくなると思う
そのような状況下では「そういう時代じゃない」と一蹴されるか、「お前がそう思うならそうなんだろう。お前の中ではな」という扱いになる
(ところで私は「偏見してる人はおかしい奴」というポリシーなんだが、このポリシーは自己言及っぽくておもしろくない?自分自身をおかしい奴だと認定しなければならなくなる。 クソどうでもいいな)
夫は料理が得意で、番組を見てはチラシの裏にメモしてバインダーに挟み、おいしい料理を作ってくれた。近くの息子たちに分けるのも楽しみで、詳しい作り方は「企業秘密」と笑っていた。
国語的に言えば、
「料理が得意」「料理番組をメモする」「息子たちに分ける」といった記述は
すべて「夫がいかに料理が好きだったか」を説明する記述であって、
「バインダーがいかに大切なものだったか」という記述ではないぞ。
無論、そこから「夫にとってメモを挟んだバインダーは大切だったろうな」と類推することは容易だが、
「類推できる」は「バインダーの大切さを切々と語った」とイコールではない。
この冒頭の記述はあくまで「妻視点で夫は料理が大好きだったと語っている」にすぎず、
かつての私は、黄色い声援と共に男性アイドルに目を輝かせていた同級生が嫌いだった。
見た目もたいしてカッコよくもない(と思っていた)し、当時聴いていたマイケル・ジャクソンやクイーンをはじめとした洋楽のように、私にワクワクを与えないと思っていた。当時の記憶から類推するに、彼らの容姿や歌が嫌悪とともに目に映っていたのは、"色恋を絡めた男性性をアイドルに求めるファン"というフィルターがあったからだったように思う。
要するに「男性アイドルに恋愛性を持った夢を抱くファンが大多数を占めるコンテンツ、キモっ」ということである。
そんな私が、ファンが気持ち悪いという理由から嫌煙していた男性アイドルというコンテンツに目覚めたのは、ごくごく最近のことである。
YouTubeプロモーションの一環として、某大手事務所のデビュー前のグループが豪華なPVを引っさげて鮮烈に登場したのである。煌びやかで美しい楽曲とPV、プロモーションCM中に見せる溌剌とした笑顔とは対照的な凛としたパフォーマンス、デビュー前にも関わらず華のあるそのグループに興味を持ってから、その"沼"に沈むまで、さほど時間はかからなかったように思う。
2018年3月からYouTubeチャンネルを開設し、ネットでの活動を解禁した5つのグループはそれぞれに素晴らしさも放つ輝きも異なり、企画の多くは彼らアイドルを身近なキャラクターとして認識させ、その一喜一憂に私は心踊らせた。どのグループも個性的で面白く、日々更新される動画は心の癒しとなっていった。
その中でも、一際私の心を掴んで離さなかったのは5つのグループの中で最も平均年齢の高い、所謂お兄さんグループであった。
落ち着いたビジュアルながら、歌、ダンス、アクロバット、舞台と様々なジャンルで高いレベルを維持し、キレのあるパフォーマンスは数多の先輩からも高い評価を得ているという職人のような6人グループ。キャラも濃く、個人でも多方面で活躍し、YouTube企画内でもほぼ全員がMCなどをそつなくこなす安定感ある彼ら。すぐさま過去の動画を含め、すべての動画を視聴した。
すべてのパフォーマンスは、5グループの中で最も長い結成期間が培った強い絆と固い結束に基づいた"6人だからこそ"の唯一無二の輝きがあった。
6人で掴み取る夢のデビューはもちろんの事ながら、メディア露出、ライブ、舞台など、彼らの活躍に期待し、また、気付けば様々な形で応援をしていた矢先。
突然の増員が発表されたのである。
"6人だからこそ"の夢は一瞬にして崩れ去ったように思えた。増員発表以降、気持ちの整理がつけられず、YouTubeを見るのをやめた。Twitterやニュースサイトなどで集めていた最新情報も見なくなった。本人達からの、本心でのコメントが欲しくて、渇きで死んでしまうのではないかと思うほど、心が枯渇した。増員メンバーは3名おり、みな年下で、最年少は15歳という事も、私が胸ときめかせた"6人だからこそ"のパフォーマンスに影響するのでは...と不安になった。何日経っても「彼らの気持ちは?」「彼らが望んだのか?」「あの6人の作り上げる世界はもう見れないの?」「強みであったアクロバットのクオリティはどうなるの?」「なんで?なんでなの?」といった焦りに似た混乱がこびりついて離れなかった。
それほどまでに、"6人"が作り出す世界は私を魅了していた。
単独ライブ、映画、舞台の情報も増員とともに解禁され、日に日に露出が増える彼らが恋しくて堪らないけれど、急激な変化に心がついていけない日々が続いた。
幾つかある彼らのオリジナル曲の中でも、特に好きな曲があった。以前に行われた単独ライブのパフォーマンス映像で心惹かれた楽曲であった。迫力あるアクロバット、キレと安定感のあるダンス、男前な歌声、振り付けに込められた7人目の意味...魅力をあげればキリがないパフォーマンスの素晴らしさ。何度見ても飽きない彼らのイキイキとした姿がフラッシュバックし始めるようになった。
そして、彼らの輝きを拝めない日々に、ついに私は根を上げた。この飢えは辛すぎる。6人が頑張ってきた積み重ねの先にある今を見逃し続けることは出来なかった。
9人体制になってからの未視聴動画や購入したものの読めていなかった雑誌、ファンクラブ限定のブログ、地上波出演の録画映像を貪るように摂取した。新しく加わった3人の過去の活躍や魅力も調べ、出来うる限りの手段で"9人になった彼ら"を受け止めようとした。
この時になって、『6人だった時点で彼らは完成していた』と思い込んでいた事に気がついた。長い下積みを経験し、後輩のデビューを幾度となく見送ってきた6人は、高いスキルとパワー、その愚直なまでの努力で彼らの世界を完成させたのだと信じていた。完成したパッケージで、満を持して世に出るものだと信じて止まなかった。増員メンバーはその世界を壊す存在で、元々いた6人は今まで作り上げてきた世界を壊されてしまったのだと思っていた。
増員メンバー3人は強い個性と6人が持っていなかった輝きを持っていた。あるメンバーはメリハリあるトーク、圧倒的な親しみやすさ、メンバーみんなに対する熱烈な愛情を感じる言動でグループの見せ場を増大させていた。また別のメンバーはモデル経験も豊富なスマート高身長イケメンながら、可愛げのある天然炸裂のキャラクター、クールに見えて笑いも作り、今までのグループには無い独特の雰囲気を醸し出している。弱冠15歳の最年少メンバーは子供っぽい溌剌さがあり、落ち着いた雰囲気だったグループに新たな風邪を吹き込んだ。年上のお兄ちゃんに寵愛される息子のようなキャラながら、グループのレベルを僕のために下げさせないとまで言っていた。
そして、私自身が何より驚いたのは、増員によって元々いた6人がより魅力的に映るようになったことだった。
底抜けに明るい彼は濃いキャラクターを引っさげた切り込み隊長としてパワーアップし、知的な彼は年下が増えたことで賢いお兄さんポジションを確立し、顔が良いリードボーカルの彼は人数が増えたことで美しい歌声がより目立ち魅力的に見えるようになり、ロイヤルな彼はメンバーのトークスキルが拡充されたことでセクシーボイスで繰り出すお茶目な一面をより見せるようになり、一見すると無骨なエースの彼はグループのレベルの指標となる存在として圧倒的な存在感を見せるようになり、元々の可愛らしい性格とのギャップを強く引き立たせ、3枚目キャラで最年長の彼はMCなどのまとめ役での優しさ溢れる進行が目立つようになり、時折見せる恥ずかしさを微塵も感じさせずにやり切る突き抜けたリアクションも他の追随を許していない。
こんなに魅力に溢れた6人だったのか、と増員後に気付かされたのであった。
9人体制では初めての単独ライブや、その後のアイドル番組で行ったパフォーマンスも勿論チェックした。語彙が吹き飛ぶほど心が震えた。とにかく最高だった。"あんなに好きだった6人"を軽く飛び越えて"9人だからこそ"の世界が色鮮やかに広がった。元々いた6人をもっともっと好きになった。増員メンバー3人も大好きになった。こんな化学反応が起きるとは想像もできなかった。
この時になってやっと、増員発表後の『凄まじい不安感』について思い返すことが出来た。
あの不安感は、『大切な思い出を無かったことにされてしまうんじゃないか』という気持ちだったように思う。それは、増員によって"変わってしまった存在"が今までと同じグループ名を冠して、これまで6人が築き上げてきた歴史を上塗りしてしまうのではないか、これまでの6人の努力をなかったことにしないで!という気持ちからくる不安や悲しみだった。
だが、事実は想像と大きく異なり、6人の歴史も努力も尊重された上で、「9人で乗り越えてみろ、君たちならできるだろう?」と言わんばかりの高いハードルが用意された"だけ"であった。過去からの延長線上の現在に用意されたそのハードルは、今まで数多くの高いハードルや立ち塞がる障害を乗り越えてきた6人と新たに加わったパワフルな3人に対する絶大な期待の表れであり、『立ち止まるな』という激励なのだろうと思った。
そして、私の抱いていた『綺麗な思い出のまま壊れないで存在し続けて欲しい』という思いは、大好きな6人に立ち止まることを求め、進化や飛躍を拒絶し、彼らの成長を信用してない姿勢だったのだと気付かされた。
増員発表から3ヶ月が過ぎた。
高いハードルに臆すること無く、凄まじいスピードで走り続けている彼らからは、想像もできない世界の広がりを日々与えられている。
今はまだ荒削りのチームワークやパフォーマンスは、見る度にその精度を高めている。
結成8年目を迎えようとしているグループが、新鮮な感動を生み出し続けている。
彼らはこんなに強かったのか、と都度驚かされる。
未来の活躍に期待は膨らむ。もっと色とりどりの世界を彼らなら見せてくれるはずだと、心から信じられる。
彼らに出会えて、本当によかった。
まず、いくつかきた再投稿ニキのうち、日記表題に[再投稿は甘え]のタグを入れず投稿されたものが発見された。
一度ならつけ忘れも考えるが複数記事で確認されたため、複数人いることが類推される。
次に、表題を変更して中身は同一の記事を投稿したところ、それに対する指摘は来なかった(n=7)。
彼らの指摘、特に削除ページに対する言及を見るにタイトル検索しているためであると考えられる。
またブコメも言及もされていない記事についても飛んでくることが判明した(n=10,そのうち指摘数2)。
ただしその確率は非常に低いため、補足にはある程度のブコメが必要だと考えられる。
この知見が役に立つかといえば役に立たないけれども、データとしてここに記しておきたいと思う。
デレステのガチャが1月31日に更新され、新たにSSR「想いプレゼント」佐久間まゆが実装された。
これについて、一部のまゆPが不満を表明している。
要するに、「佐久間まゆの左手首が露出している」ということが受け入れがたいということらしい。
その理由として、主に以下の2点を挙げている。
・佐久間まゆはキャラクターとして右手首を他人に見せない設定がある。
・佐久間まゆの左手首は、これまで必ずリボンや手袋で隠されていた。
なるほど、確かにこれが事実であれば、キャラクターの根幹にかかわる設定が
しかし、事実はどうなのだろうか。まゆPの主張する「設定」は、正しいのだろうか。
まゆに左手首を他人に見せない設定などはないし、まゆの左手首はこれまで複数回にわたって露わとなっている。
一部まゆPの批判は、シンプルに「思い込み」が原因なのであって、またその批判を安易に鵜呑みした周りの人間は
もちろん、事実を把握した上で、どう意見を表明するかは自由である。が、その前提となる事実が誤って伝わることは好ましくない。
したがって、今回の投稿は議論の前提となるトピックについて、それぞれ誤解を解く目的で作成したものである。
■実際の佐久間まゆについて
佐久間まゆは2012年6月に、モバゲー版デレマスの広島エリア追加時の新規アイドルとして登場した。
いわゆるヤンデレとしての特徴を強く持ったキャラクターであり、初カードであるR佐久間まゆのフレーバーテキストを見ると
Pへの強烈な愛情、女性に対するライバル心、Pからの好意の渇望など、闇を感じさせる部分が多い。
「まゆを置いてかないで下さいね」
「このリボンが○○さんに繋がってればいいのに…」
両腕に赤いリボンが巻き付けられ、手首は露出していない。同じく特訓後は左手首にのみ手袋がつけられており、
やはり手首はうかがい知れない。
これらのイラストとテキスト描写から、典型的なヤンデレキャラの特徴としてありがちな手首への自傷行為痕を隠している、
といった推測がされることもあった。おそらく、「左手首を見せない設定」というのはそのあたりから類推され、広まったものであろう。
だが、その後の登場においてまゆが手首や手袋について言及したことは――各カードのフレーバーテキストだけでなく、
アニメやシンデレラマスターのCDまで引っ張り出してきて確認したが――ただの一言も存在しない。
唯一関係すると思われるのは、シンデレラガールズ劇場 第343話における、以下の会話である。
まゆ「この…リボンですか? 意識して取り入れるようになったのアイドルを始めてから…なんですよ」
美嘉「いや~それは乙女っぽい★なんだよ~」
まゆ「知りたい…ですか?」
「きつく結ばれて…『絶対ほどけませんように』…って」
これを読めばわかるように、まゆがキャラクターとして重視しているのは「リボン」である。
実際、フレーバーテキストには「リボン」についての言及が数多くある。
※「恋愛シンドローム」佐久間まゆ+ 「ふたりを繋ぐ…運命の赤いリボン」
「深紅の絆」佐久間まゆ+ 「まゆの物語は◯◯さんと出会って始まったの…だから運命の赤いリボンは貴方に繋がってるって信じてるんです。
このリリボンが絡みついて…貴方と私を強く結びつけてくれるって…」
ぷちエピソード ステップアップ2「それに、もしトップアイドルになったとしても、まゆとプロデューサーさんのこの運命の赤いリボンは切れませんからね♪
まゆのココロとカラダを縛るリボンですけど……プロデューサーさんとずっと繋がったまま。ずっと、ずっと、永遠に……うふふふふ♪」
要するに、まゆというキャラクターを尊重するのであれば重視するべきなのはリボンの有無であり、その結ぶ場所がどこかは問題でない。
実際、「ハロウィンパーティ」特訓後は左手首でなく首に、「バレンタインパーティー」特訓後は右腕から首にかけて、リボンを結んでいる。
ましてや、左手首の露出云々についてはキャラクターの本質と全く無関係だ。
そもそも、「左手首が露出しているイラストがない」というのも事実でない。
例えば「深紅の絆」では両腕とも全く何も身に着けていない姿で登場し、まゆは何の忌憚もなくそれをPに見せつけている。
また、仮にこれが温泉という特殊な状況だからと除外したにしても、「CDデビュー」では、特訓前は左腕にシースルーと思われる手袋をつけ
容易に手首が確認できる状態であるし、特訓後に至ってはリボンの巻き付けが非常に緩く、完全に左手首が視認できるイラストとなっている。
(肝心な部分はマイクで隠されているようにも見えるが、右手の位置と比較する限り、隠れているのは手のひらであり手首ではない)
また、CD「恋が咲く季節」のジャケットにおいて、まゆは左手首に何もつけていない。
速水奏の「愛くるしい」SR特訓前映り込みでも、左手首は無防備である。