はてなキーワード: 法則とは
なんで中身の構造のうちで、IFとWHILEで組み立てられているロジックという
特定の階層の構造までを知らなければならないと考えるのですかか?
なぜ高級言語を成立させている機械語の構造まで理解しないのか。
なぜ機械語を成立させているCPUの論理回路まで理解しないのか。
なぜCPUの論理回路を成立させているトランジスタ特性まで理解しないのか。
なぜトランジスタ特性を成立させている物理法則まで理解しないのか。
なぜあなたは、フレームワークの中身まで理解しなければならないと考えるのに、
物理法則の中身までは理解しなくてもよいと考えているのですか?
Twitterやブログをうろうろしていろんな素人の書いた文章を読むのが趣味で、コメント欄もちらっと見たりするんだけどその度に読解力ない人間って一定数いるな…と痛感する。小中に通ってしっかり卒業して義務教育終えてるはずなのにこれ?と思う人間がゴロゴロいるので、教育を子供に受けさせる義務が定められていなかった時代はもっと格差が酷かったんだろうと思わざるを得ない。教育制度を整えた昔の人すごい。
「A+BはCです!」という内容のツイートやブログに「Cってなんですか?」「A+Bはどうなるんですか?」とリプコメントがついてるのを初めて見た時はその場にへなへなと崩れ落ちたい気分になった。
何回読み返しても〇〇に繋がることなんて1ミリも書いてないはずなのに「なんで〇〇になるんだ?おかしくないか?」とコメントがついてるのを見た瞬間、瞬きの回数が3倍ぐらいに増えた。
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(追記)
深夜のノリでバーッと書いたということもあり、「最低限の教育」という括りは乱暴だったなと感じた。
ここでいう「教育」とは、国語や道徳の授業に限るものではないと私は考えているので、長文追記をしてみる。蛇足なので読まなくてもいいです。
たとえばジョージワシントンの桜の木の逸話がある文章に引用されたとして、求められている感想、想定されている感想は「ワシントンの正直さとその偉大さをこの話と引用者は伝えたいんだな」もしくは「正直に過ちを認めることの素晴らしさについての話だな」のような内容だと思う。このようなことをテストや宿題でだけではなく、日常生活においても行う能力こそが学校教育を通して培われるべきものであると私は考えている。強引に言い換えるならば、日常生活への応用力である。(「ワシントンすごい!えらい!」は、方向性は間違いではないだろうがもう少し踏み込んで考えたい)
しかしクソコメントクソリプ(乱暴な言い方でごめんなさい)をしてしまう人間は、義務教育を終えているのにも関わらず「ワシントンって誰?」「なんで桜の木を切ったの?切ったらダメなのに」「何が言いたいのかさっぱりわからない」というような感想を抱くのではと予想する。彼達はそもそも話の本質を理解できていないので、その考えがどれだけ的外れなのかも理解できない。だから恥という感情を覚えることなく平気でコメントやリプ欄に書き込んで送信ボタンを押してしまう。
学校の勉強ができてもクソリプマンになる人間はいるし、逆に勉強が苦手でもすぐ話の本質(話し手の意図)を理解できる人間もいる。
それから「その桜の木の話はデマだろwwwそんなことも知らねーのかmg(^O^)プギャー」で頭がいっぱいになる層、それを実際にコメントしてしまう層も一定数はいると思うのだが(この駄文を読んでくれた人の中にも一人二人はいるような気がする)、そちらはどちらかというと精神年齢や人格の問題なのでは…と思う。まあ、そういうリプがついてるのを見たら私は「クソリプだな…元ツイの人も大変だ」と感じるであろうことは間違いない。
小学校算数で簡単な四則演算の勉強をしたあと、文章題や発展問題という形で「八百屋でリンゴを三つ、モモを二つ買いました。リンゴは〇円、モモは●円です。全部で何円払えばいいですか」というような問題をやらされたと思う。
社会でも、フィールドワークを通して地元の文化や歴史について調べた経験があると思う。
理科でも何かしら実験などで日常生活との関わりを意識させられたことがあるはずだ。
小中学校は義務教育ということだけあって、教科書内の事柄や法則を現実の日常生活と対応させることを最終目標としている節がある。知識を経験に結びつけさせることで、日常生活への応用力を高めさせたいのだと思う。残念なことに、大学を出ていても、教科書と現実の生活をくっきりはっきり分けてしまっている人間は一定数いるのだ。
ざっと眺めてみるだけでも、
・英会話
・社会保障
・労働法
・投資
・ITリテラシー(これはもうやってるのかな)
とわんさか出てくる。まず、今の義務教育はすでにキャパオーバーなのを理解しようよ。というわけで、○○を教えるべき論の人はその代わりに今の義務教育から不要なものを除外してください。等価交換の法則です。
それから、落ちこぼれた人はどうするの?義務教育で教えたって理解できない人もいるし、不登校の人もいるんだけど。こういう人は今の義務教育だとそのまま卒業させちゃってるんだけど、どうするの?
あとあと、義務教育で教えたこと、全部覚えてる大人ってどんくらいいるの?ほとんど忘れてるんじゃないの?忘れてないならある程度英語できるよね?今の政治がおかしいのわかるよね?日本語ちゃんと読めるよね?どう見ても小学生以下のレベルの人が明らかに多いんですけど。理解できないくせに日経新聞しか読んでないそこのアホリーマン、お前だよ。電車で足のばしてんじゃねーよ。小学校で習わなかったのか?
ドラマツルギーというのは劇作術と言って、ドラマをよりドラマらしく仕立てるために使われる方法論であったり、信念であったり、あるいは独自の法則のことを言うのである。
例えば、有名なもので言うと「チェーホフの銃」という、「劇中に登場した銃は必ず使われなければならない」という法則がある。つまり、ドラマの中に無駄な道具立てや登場人物は存在してはならないという、ある種の劇作術における信念を表しているのがこの「チェーホフの銃」というドラマツルギーなのである。
他にも卑近な例を上げるとすれば、『とある魔術の禁書目録』にて「熱膨張って知ってるか?」とか「粉塵爆発って知ってるか?」「電圧が例え数億ボルトでも――」云々、といったように、現実の法則を切り取ってドラマの中に無理やりぶちこむことでドラマを成立させる手法も、一種のドラマツルギーであると言える。これらのことは換言すれば、ドラマの中にはドラマの法則性、そして、現実の法則性とは独立した独自の法則性がはたらいているということになる。コーヒーに浸かった銃がそのまま使用できてしまえばその時点でドラマは終わってしまうのである。ドラマと、現実は違うものだし、時にはそれは大きく食い違っていなければならないものでさえあるのだ。
で、最近見られるのはこのドラマツルギーと現実の法則とを幾分混同している人々である。
例えば某漫画における「意識混濁している少女を結婚に誘導する行為に異を唱えたい」という意見は少しズレてる、ってな話なのであって、劇を進行させるための道具立てを批判するという行為がズレていることを俺は人々に知ってほしいのである。そんなこと言ったら刀ブンブン振り回してるキャラクターは現実においては銃刀法違反だし、「味方に当たったら危ないから、もっと安全な短刀を使うべきだ」みたいなカンボジアPKOばりの意見さえ正当化されてしまう。
というか、こういう物語のキャラクターに対する善悪理非とか倫理的瑕疵を検証する姿勢は俺としてはブーイングの対象である。歌劇『カルメン』に登場するカルメンは倫理的に破綻したジプシーだから悪だ! とか言ってる人間がいたら困惑してしまうのと一緒で、「このキャラクターは倫理的に現実と乖離している」って意見全般は、基本的にナンセンスなのだということは知ってほしいんですね。いや勿論そういう意見を一切封殺するのもまた息苦しいんだけれど、某ラノベに即して言うならば「ドラマツルギーって知ってるか?」ってな話なのである。
異世界から召喚されるキャベツのヒントは変わったヒルチャールにある。
旅人の中には彼らを即座に殺めてしまっている者も多いと思うが、注意深く行動を観察してみると、びっくり箱のようなものからホムを召喚して攻撃してくる。
討伐後決まってドロップするキャベツもそのびっくり箱を通して異世界から持ってきたものと考えるのが妥当である。
その異世界とは何処なのか。ヒントはホムにある。
ホムとはこの世界の創造者miHoYoが創りしもう一つの世界、崩壊現象に蝕まれし世界におけるマスコットキャラである。
その世界におけるキャベツとは、ハイペリオン号の戦艦AIのアバター頭部のことに他ならない。
キャベツという痕跡を残していくことから、この世界はAIによる異世界干渉を受けていることが示唆されているのだ。
物理法則を無視して無限に現れるキャベツ、それを成す異方の手を持つものの正体は明らかになった。
事実を白日の下に晒すのか?それはこの世界が虚構であることを知らしめることに繋がり、破局は免れない。
はたまた、神と交渉し――あるいは君が神に成り代わるのだ。
人間力、老人力とかと同じで、ビジネス誌などで定義が曖昧な言葉で話を誤魔化そうとするオッサンが使いがちなのが嫌い
次に地頭という定義が、社会的価値観において最適な振る舞いを取れるかどうか、ということであるならば、
そんなもんに正解はない
そういう話にダニング=クルーガー云々を当てはめるのはまったく適切ではないと考える
それは、俺は人生の真理や法則を見極めた、みたいなものであって、
まあ、そういうことを言う人がダニング=クルーガーに陥っているとも言えなくもないが、
11/22、22時頃追記:こんなにも少女歌劇レヴュースタァライトに真剣な記事なのにタイトルだけ表記ブレてました。ゆるして
この文章はアニヶ咲8話と少女歌劇レヴュースタァライト全編へのネタバレを含みます。
こういうのって鮮度が命ですよね。
こんばんは、皆さんアニヶ咲見てますか?毎週女と女が感情を絡め合っていて面白いですよね。先日放送された8話もその例に漏れず、中須かすみの出どころ不明の莫大な感情によって桜坂しずくが自己肯定への一歩を踏み出す、概ね私好みの話でした。今回のお話のメインキャラクターである桜坂しずくは演劇部にも籍をおいており、アニヶ咲8話では、「荒野の雨」という桜坂しずくが主演する舞台のワンシーンが、桜坂しずくの内的心理描写として各所に挿入され、現実のシーンと劇中劇が並行して進んでいく、という構成がなされていました。 つまりアニヶ咲8話は「スタァライト」だったということですね。終わり。
お待たせしました、それでは続いて、虹ヶ咲スクールアイドル同好会8話「しずく、モノクローム」についてお話していきます。
ここまでは本編視聴中にぼんやり考えていたことを言語化したに過ぎないのですが、なんと本編終了後にツイッターにてこの説を有力に支持する新たな根拠が見つかってしまいました。それがこちらです。
『ラブライブ!虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』
第8話、演劇部部長で
出演させて頂きました!
しずくちゃんの
笑顔が大好きです☺️☺️#lovelive #虹ヶ咲 https://t.co/xkvaVXdiKC
— 小山 百代(DVD発売中) (@koyamamomoyo) 2020年11月21日
https://twitter.com/koyamamomoyo/status/1330156445292224512
劇中劇が物語を示唆していてかつその劇のことを登場人物が知っているという構成、こういう解釈でもしないと劇中劇通りに話が進むことや劇中劇と同じ帰結に自らが辿り着くことになにか疑問や違和感を感じないのか……?という気持ちになりませんか?
エディー・マーフィーやウィル・スミスもそうなのかもしれない
自分の中で最初に思いつくのはやっぱりNight of the liveing dead(ゾンビ)で、
黒人主人公が奇跡的な活躍をしたり犠牲となって劇中で死ぬことに反感を持っている人もいるわけだけど、
それでもNight of ...は好きな作品だし、
リメイクは唯一生き残った白人女性の成長(吹っ切れ?)も描けてたのが良かった
白黒のオリジナルは子供がゾンビになる過程があまり怖く描写できていなかったり、
ゾンビになった子供が何故かスコップ?で人を殺すような感じだった気がする
といっても、すべてのゾンビ作品の原点なので文句を言うのは酷であろう
昔だと黒人俳優の方が安く契約しやすかったというのもあったかも
リメイクのアホな父親を後ろに迫ってくる少女のゾンビのシーンは良かった
白黒はレイアウトもクソもないので
僕はPS5を買えませんでした。転売屋のせいです。もう、とにかくムカついて2~3日くらい眠れませんでした。そして転売屋を憎みながら考え続けました。転売とはなんなのか! そしたら、ようやく答えらしきものにたどり着きました。
モデルを作ってシミュレーションしてみます。ただし、人数とか価格は実情がわからない部分があるので、完全に仮のものにします。
まずは、転売屋のいない世界について考えます。100人の人が居て、PS5が発売されたらそれぞれが1万円~100万円未満の値段なら買いたいと思っているとします。1万円未満なら買いたいと思っている人が1人、2万円未満なら買いたいと思っている人が1人、・・・、99万円未満なら買いたいと思っている人が1人、100万円未満なら買いたいと思っている人が1人、といったような100人です。PS5が無料だったらすべての人が買います。PS5が1万円なら、99人の人が買います(1万円未満なら買いたいという人は買いません)。99万円だと1人だけ買います。100万円だと誰にも見向きもされません。100万円未満ならPS5を買いたい人は、富裕層でお金が余っているのか、お金に余裕はないが熱狂的なPS5のファンのどちらかでしょう。とにかくどちらの理由でもいいので、100万円未満ならPS5を買いたいと考えています。
そのような状況で、PS5の在庫が45個で、ソニーが10万円で販売したとします。このとき、 PS5を買いたい人は90人に対して、PS5は45個しかありません。2倍の倍率で争奪戦となります。
100人のPS5を獲得する能力が等価なら、90人のうちの45人に均等にPS5が行き渡ります。11万円未満なら買いたいと思ってる人は妥当な価格だと思って購入し、50万円未満なら買いたいと思っている人はPS5安くてソニー神!と思うことでしょう。
平和な世界でしたが、100人のうちPS5に興味がなかった10人(つまり、10万円未満じゃないとPS5を買いたくない人々)が転売屋になったとします。さらに、彼らはPS5の獲得能力が極めて高く、1人につき3台ずつPS5を購入するとします。10人の転売屋と90人のPS5を買いたい人々の間で、一体何が起こるでしょうか。
転売屋によって、45個あったはずのPS5は15個に減ってしまいます。買いたい人は90人のままなので、競争の倍率は6倍まで跳ね上がります。本来2倍の倍率で買えたものなので、転売屋のせいで本当に買いたかった人が大きな害を被っていることになります。
さて、PS5を3台ずつ買った10人の転売屋はこの後どうするでしょうか。彼らはPS5に興味がないので、これを誰かに売る必要があります。問題はいくらで売れるのかです。もっともPS5に高値をつけている人は99万円でPS5を買ってくれるので、99万円で売りたいと考えます。しかし、10人が30台のPS5を99万円で売りに出しても、買ってくれるのは1人だけで29個のPS5が余ってしまいます。PS5を買う人がちょうど30人になる価格は、70万円です(実際は市場に出回った15台のPS5を買えている人もいるので、もう少し安くなります)。よって転売屋は、最初は95万円程度の高値でPS5を売ろうとし、最終的には70万円ですべてのPS5を売り切ります。PS5の本来の価格10万円の7~9.5倍の値段で取引されていることになります。近年メルカリでよく見かけている光景ですね!
転売屋は徐々にPS5を安くしていくので、売り切るには時間がかかります。少なくとも発売日当日には、45台販売されたPS5のうち30台は箱に入ったまま眠ることになります。転売屋は早くPS5を売ろうとしますが、それでもすべてのPS5を売り切るまでに数ヶ月かかる可能性は十分にあるでしょう。ソニーは使ってもらうため(ソフト等の販売で収益を得るため)にPS5を安く販売しているので、ソニーにとっても転売屋は害悪だと言えるでしょう。
ここまでの転売屋の影響のまとめです。
最後に、転売屋から70万円以上でPS5を買った人は損をしているのか、について軽く考えておきます。シンプルに考えると、10万円で買えるPS5を70万円で買ったので、60万円損をしているように見えます。しかし、「10万円で買える」には落とし穴があります。転売屋が居ない世界でも、PS5の購入倍率は2倍でした。つまり、もともと10万円で確実に買えるわけではないのです。それを、「70万円出せば確実に買える」という事実から「10万円出せば確実に買えていた」という誤った推論に陥いらないように、注意が必要です。
PS5、安過ぎると思いませんか? どうしてこんなに安いのでしょう。「ハードウェアを赤字で販売し、ソフトウェアで利益を得るというソニーの戦略である」という答えが一つあります(任天堂も同じ戦略でファミコンを売っていたはずです)。しかし、僕らは中学校の社会の時間に「需要と供給の法則」というものを習いました。供給より需要が高ければ値段が自然と上がり、需要と供給が成り立ったところで価格が決まる、と。PS5は需要が供給の2倍という需要過多の状態なのに、なぜ価格が上がらないのでしょうか。
そこには、「希望小売価格」という暗黙の了解があります。ソニーがヨドバシカメラなどの小売店や消費者へ、PS5の価格の目安は10万円ですよと伝えているのです。法的には希望小売価格以上の値段で販売をしても構いません。むしろ、ソニーが定価以上の販売にペナルティを与えたりすると、独占禁止法違反です。
このリンクにも、『日本では、商品を製造したメーカーは、一度、その商品を卸業者や小売業者に販売するときに「この商品は、希望小売価格で売ってください」とか「値引きはしないでくださいね」といったお願いをしてはいけないことになっています。』と書いてますね。
じゃあ、なぜヨドバシなどがPS5を希望小売価格で売るのかというと、それが暗黙の了解だからです。消費者の多くは、PS5の希望小売価格10万円を定価だと思っており、それ以上の価格で売られていると悪徳業者だと考える人がほとんどでしょう。それが社会の暗黙の了解となってしまっているのです。
それでは、希望小売価格のない世界でPS5を販売するとどうなるかを考えてみましょう。転売屋はまだ居ないものとします。
この場合、小売店はなるべく利益を出すために、PS5を高値で販売します。45台のPS5をすべて売り切れる金額の上限は55万円です。よって、小売店は55万円でPS5を販売します。ここで小売店は転売屋より良心的で、経験も十分にあり、市場の適正価格で最初から販売できると仮定しています。
希望小売価格10万円が設定されていたときと違い、お金のある45人だけがPS5を手にすることができます。お金がない人はとても困ってしまう世界です。PS5の値段が高くて手が届きません。
希望小売価格のない世界で、また10人が転売屋に転向したとします。しかし、この世界では転売は簡単ではありません。
転売屋はPS5を調達することに秀でていて、各自3台のPS5を10万円で調達していましたが、この世界ではPS5は55万円で売っているため、「10万円で」という部分を実現することができません。そこで、「じゃあどのくらいの金額でPS5を買うのか」という姿勢を明確にする必要があります。一体いくらでPS5を購入すると転売して儲けることができるでしょうか?
例えば、転売屋が「40万円で買う」と言う意思決定をするとどうなるでしょうか。当たり前ですが、この場合PS5の販売価格は55万円なので、転売屋は1台もPS5を買うことができません。よってこの戦略で儲けることはできません。
では次に、「85万円で買う」と言う意思決定をするとどうなるでしょうか。直感的には、100万円未満なら出してもいいと思うほどの商品なので、これでも15万円の利益が出て十分転売が成立するように見えます。しかし、実際はそうはいきません。転売屋10人が各3台ずつ、合計30台を1台85万円で買おうとしているとします。このとき、小売店がPS5を45台売り切るための適正な価格は、85万円となります(86万円未満なら買おうと思っている15人のゲーマーと、85万円で買おうとしている10人の転売屋×3台でちょうど45台です)。という事で、マンマと転売屋は30台のPS5をせしめることができたのですが、問題はこの後です。PS5を持っていない残っている人は、85万円未満ならPS5を買いたいと思っている人々です。よって、85万円より大きい金額でメルカリへPS5を出品しても、在庫をさばくことはできません。85万円未満であれば売れますが、完全に赤字です。
結局この世界では、転売屋はどのような値段でPS5を購入しても儲けを出せないことになります。儲けを出すには、市場の適正価格より安い金額で流通しているPS5(例えば、店の広告代わりに安売りするなど)をどこからか見つけてくる必要があります。ただ、そこまで行くと転売と違って苦労や経験を伴う商品の「仕入れ」であり、転売ではなくて商いと言えるのではないでしょうか。
ここまでのまとめです。
希望小売価格の撤廃で転売屋がいなくなるのはわかりましたが、我々庶民も道連れでPS5が買えなくなります。これは本当に正しいことなのでしょうか?
今、メルカリのPS5の販売金額の実情を見てください。金持ちじゃないととてもじゃないけど買えない価格になっています。つまり、「庶民にPS5が買えない」ということは、すでに起きていることなのです。「転売屋が居なければ庶民でも買えるじゃないか」という主張は半分しかあっていません。転売屋が居なくても、庶民の全員がPS5を買えるわけではなく、買える人と買えない人が出てきます。これは運や調達能力に依存して決まります。
逆に、PS5が庶民でも買えるように安値を保つべきものだと仮定しましょう。その場合、日本には「再販売価格維持制度」というものがあります。この制度が適用されている代表的なものは書籍ですね。書籍は出版社が決めた定価で売り買いしなければなりません。理由は先に述べたとおり、書籍は文化的なもので、庶民でも誰でも平等なチャンスで購入できるべきだからです。また、電気水道などの公共料金も、同様の理由で国が介入して価格を決めています。
もし、PS5が再販売価格維持制度の対象となれば、定価で取引することが義務付けられますから、転売を撲滅することが可能です。ただ、PS5は書籍や水道、ガスと同様に国に価格を決めてもらうべきものなのでしょうか? 僕はそうは思いませんでした。
ちなみに、希望小売価格がない世界で庶民がPS5を買えないかと言うと、そうではありません。PS5は毎月供給されて着実に増えていき、それと比較して需要は必ずしも増加傾向にないため、販売価格はどんどん下がっていきます。発売日には買えなくとも、自分の手が届くようになったタイミングでいつか買うことはできます。
僕は、前者のほうが適切だと思います。ただ、大昔には化粧品などが再販売価格維持制度の対象となっていたようです。なので、もしかするとPS5やニンテンドースイッチ、希少なグッズなども再販制度の適用となる未来もあるのかもしれません。コロナ禍で転売されたマスクなどは、再販制度の適用に最も近いポジションにあったと言えるかもしれません。
ところで、転売屋から物を買っていいかですが、転売屋には腹が立ちますが(PS5欲しい)、以下の理由で買っていいんじゃないかと思います。
最後に、僕が転売屋をどう思っているかですが、適正価格より安くPS5が売られているのでバカでもできる行為で、何も知性を感じないし生産性もない行為だなあと思ってます。つまり、転売屋は嫌いです。
僕と同じ主張をしている人はこの人くらいかなーと思いました。まる。
増田長文腐女子のほうが原液だから濃くてヒドくて面白いよ(宣伝)。
2chネタを商業化されてから原文の2ch読みにきてハマる人もいたのだから、そういう意味での存在意義はあるけどね。
・本文
私は「同人女の感情」をネットで全部読んだ同人女です。「わたしのジャンルに神がいます」もコンセプトカフェの帰りにアニメイトで買いました。最近角川は腐女子ネタ頑張ってるね。たしかつづいさんもだっけ。お布施がてら、私は知ってるけど家族にもよませるために買える絶妙な立ち位置の本うまいね最近の角川。(家族に読ませない本は電書が重くなくて楽)
増田にもそれに先んじてネット掲載の最終話のアンチの話がリツイート数がもりあがらなかったって投稿 anond:20201110232328 がブクマをあつめておりました。
盛り上がらなかったのは、私の見たところ単純に、冒頭で一度綾城本人でなく取り巻きの中島のアンチ?の話をやってて、繰り返しになっちゃったからかとおもいます。理由はどうあれ、神にとってどう対処しようもないことを目障りな行動とうけとめ嫉妬してアンチになる構造は同じです。
(実際は本当に作風があわない場合、アンチというより地雷になるケースがありますし、真田氏も最終話では最初そちらを狙ったのだけれど商業化のせいでそこまで踏み込まなかったのかもしれません。し、最初から再話になってでもアンチ感情を主題として繰り返し突き詰めたかったのかもしれません。)
また、書籍化にあたり綾城がどのように中島と付き合い出したか、その同人の最初期のようすが描き下ろしで追加されています。
私からみると、あ~まぁだいたいそんな感じですよねぇ、という人物造形です。特に絵師の場合は専門学校・芸大などで一緒だったとかいうつながりも多いし、めちゃくちゃ馴れ馴れしい取り巻きがおるとおもったら家族だったり幼馴染な場合も。
だから綾城と中島の間には神も生育歴をもつタダの人間である以上どうにも他人には割って入れないんですよね。嫉妬するだけ無駄だったんだよというネタバラシ(もちろん創作に情熱を落とし込めたことは彼女の今後の人生によい影響があることでしょう)。
表紙4だったか帯だったかの実家の猫写真といい、本人はあまり神の自覚がない、ごく普通の、一分野だけセンスがちょっといいだけの女性が綾城ですし取り巻きの意識のない仲良しさんが中島です。(そういえば、この自覚がないまま神に祭り上げられる同人書きの「嫉妬や信仰を勝手に向けられる気持ち悪さ」の吐露も増田記事でなら読めるよ!宣伝)
ところで角川は「同人女のクソデカ感情」を帯の惹句に使うことにしたようですが、クソデカ感情って一体なんだろと思ってしまいました。
感情って表出しないとなかったも同然のものなのですよね。登場人物はどの人物も最終的に同人創作に手を染めるくらいなので作品へのクソデカ感情はある。そしてその創作に至るきっかけの部分で、綾城の文に出会い、それを書いた「神」へのクソデカ感情ももつわけです。作品のみならずそれを解釈する先達への感情も表出しているってのが主題なわけです。ただし綾城「神」本人以外。神は創作するのですごい感情を持っているのですがそれを全部作品に昇華した上、真田氏はその創作を直接は書かないので神がどういう感情をもっているかは読者からは徹底的に隠されています。それがまずおかしいわけです。
結局、人は、創作か行動で表すかしか感情を表出できないし、他人からみても感情サイズをクソデカと計測できる部分はない。そして創作も行動もできない人のほうが世の中は多いわけです。
同人、それも文章でクソデカ? いやいやこんなものじゃないでしょう、って思うんですよね。
鬼滅のなんとかを見てたらわかるじゃないですか。普通の善良なおとうさんおかあさんが子供を喜ばせたい感情を動機に、同人女が欲しくても手を出さないよう自制しているまがいもの商品を買ってしまったり。出版社のえらいひとも混乱してわけのわからないものを独占商標として出願しようとしてあわてて取り下げたり。
プリミティブなだけに行動は繊細さがなくドカドカジャンルを踏み荒らしていく。それをみてもともとジャンルにいた人がジャンルが売れたと喜んだり、新規ファンが粗暴だ公式が横暴だと悲しんだり、繊細に毎日毎時間ツイッターを見ながら感情をうごかしていますが、そんなもの世間ではなかったも同然なんですよね。
世間のほうが同人女なんかよりクソデカ感情によるクソデカ行動をツイッターの外でやってるんですよ。やらかしですよ。
さらにいうと、人はファンである自分を自覚し始めるとクソデカ感情(? 「私腐女子だから」「オレオタクだから」)を動機に簡単に法を踏み越えるケースがあるし、ネットと創作がからむとより簡単にやれてしまいます。そんなもん合法○○マニュアルみたいなもので商業誌に出すわけにいかないですが、2話3話あたりの垢移動先突き止め作業なんか出版会議ですれすれだったんじゃないかなとおもいます。
その暴れん坊の感情面をいい感じに抽出してここまでが合法ですよという綱渡り創作としてはお仲間からみて、さじ加減が見事で面白いってのはあります。
ただし感情を創作行為になんとか落とし込めている人たちは本当にレアケース、くそエリートです。同人やってたらねほりんぱほりんに招かれた人くらいレアでエリートです。
実際は真田さんは絵かきですよね(文章書きと兼任する人も多いですしよく調べてますがちょっと違うなと思う部分も)。
絵かきより文かきは個性が表出しづらいです。読みやすさ追求により互いに似てくる傾向があり、二次創作を追求するだけのことでも非常にこじれやすいケースがあります。というか、どうしても同じキャラ同じ性格を下敷きにするので同じシチュが流行る。再話に再話を重ねてしまう。伏線を自分が発見したのに~なんて嫉妬するのはものすごく流行ってるジャンルだと全監視できるわけないんで無理なんですよね。てか実況ツイでみんな同時に同じようなこといいだしますよ。今日もフォロイーさんが今日嬉しくなってツイした「今日発見した伏線かもしれないフカヨミ」、一応ググったら2年前の過去ツイに同案が居らしたって落ち込んでらした。ジャンル10年、ミニジャンルでも5年以上超えるとまあ誰かがどこかで同じことをお考えですね。もはやだれが考えついたのか区別がつかないくらいみんなでツイのまな板にのせてこね回した共有幻想ですから二次創作で自分の個性を出すことってものすごく難しいですよ。
そういえば増田(anond)では同人盗作騒ぎについても興味深い腐女子長文投稿がありました(宣伝)
他にも人は様々な理由で同人を始め、心をへし折られ、敗れてジャンルをさります。
そういえば一時期、増田でマキシ丈云々とかやってたのなんか単なる容姿が原因ですもんね(宣伝)
真田さんのマンガに出てくるクソデカ感情女さんはピアスの似合うセミロング美人ばかり。(いやよく見ると髪型が一時期の少年漫画みたいなお方もいらっしゃいますし、綾城は法則の外にいます)
だから物理でいえば等速直線運動くらい初歩の初歩のモデルケースなんです。「ただし弾性率は100%、摩擦は0とする」みたいな。
もっと複雑化された人間模様とクソデカ感情がみたければ増田で腐女子長文とかうんことかついてるやつ読むとめちゃくちゃおもしろいですよ。「1年前から増田にきてください、本当のクソデカ感情ってやつをお見せしますよ」とおりすがりの山岡くんもこういうはず。
はてなもね、なぜかジャンルを去る腐女子がちょくちょく長文捨て台詞を落としに来るという利点を自覚してまとめて本でも出せばいいのに。
(q.hatenaで2冊も商業出版されたことがあるじゃないですか)(知らないの? きみはもしかしてはてな初心者?)
腐女子のクソデカ感情がみたければ増田も濃くて面白いんですよというお話でした。
ついでにorangestarさんの801ちゃんコミックもよろしくね。あれもいにしえの腐女子のクソデカ感情(びたーんびたーん)が本当におもしろいしはてなブログから同人版買えるからね(宣伝)
好みの分野においては、特定の集団において、こういう数値が出やすい気がするで適当にまとめた数値が、実際には擬似相関の一種でしかないパターンってめっちゃ多いと思うんだよな。
脳の働きだとか、こういうジャンルや属性に分けられるとか、必死に理屈をつけても結局どこまで行っても疑似相関で終わってそうというか。
ただその中でもすごい決定的な要素はいくつかあって、「ガチャがある時点で絶対に無理」「人付き合いの要求は1on1のPvPまでしか無理です……」とか、そういった絶対的な執着についてだけは当たる。
でもそれらにまた理由付けしようとして「ガチャを駄目という奴は貧乏人」「ゲームで人付き合い無理と言ってる奴は友達が少ないだけ」って当てはめてくと、これまたある種の疑似相関へと再度落ち込んでいく。
結局、理由や法則は付けられないけど、特定の傾向に対して反応する要素を個々人が持っていて、それらを各個撃破するような形にするか、データの細かい分析はせず命中率の高い範囲で広範囲爆撃狙っていくかでしか無いと思うんだよね。
完全な個か、完全な群に対してのアプローチでしかなくて、それを細分化しようとしたり、無理に再現性を探し出すと滑稽なことになる。
イメージで語ってるだけなんだけどね。
ソースはないよ。