はてなキーワード: 真田氏とは
800がようやくって字書きというよりつぶやきストとかツイッター詩人みたいなものではないか。
自分だとどう書いても小ネタで2000、ほんのちょっとでも肉をつけると4000超える。それ以下だとたしかにツイでばらまきやすいけど。
800字では自分の場合なに一つ書けない。6ツイート未満だなんて日常報告「今日家族と○○したんだけどね」程度でも使い切る単なるあらすじ枠、
絵描きでいうとジャンルぷちオンリーパンフ用のちょっと大きめのサークルカットみたいなもんですわ。
※真田氏の絵(コマ割りなどマンガ的演出含め画面づくりすべてこみでの画力)とか
ネタの切り出しセンス(マンガという全くのジャンル外から表現される文字書き同人のみに簡略化・モデル化した同人界)はものすごく達者だとおもいます。
いまから人生おわるまで修行しても字書きの自分にああいうのは書けません
※となると、もしかして、単に「字」書きの自分には汚いものも含めて細かい感情を字で書きつらねた長「文」腐女子が「マンガ」よりよく刺さる傾向があるだけかもしれないが、
では「絵」かき同人さんに「わたしのジャンルには神がいます」という「マンガ」がよく刺さるかというとそうでもない気がする。
私の小説が死ぬほど好きといって見事な表紙を恵んでくれた相互さん、「自分は同人女の対象外ですが垢移動の苦しみは刺さった。」っていってた。いやあなたたぶんジャン神のモデルに含まれるような立派な同人女です…私なんかよりずっと対象です…でも「同人女」である自認がないんだよね。つまり「絵かき、かつ同人女未満」という自認の人には刺さる。(n=1だが)
私は私でアレではモデル化しすぎ、枝葉をおとしすぎてて「あなたどこから見てたんですか」なリアリティは感じられないなぁ。最初から違う入り口だった。
※これでおよそ800字
あっインタビューはこっち nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2011/13/news148.html
増田長文腐女子のほうが原液だから濃くてヒドくて面白いよ(宣伝)。
2chネタを商業化されてから原文の2ch読みにきてハマる人もいたのだから、そういう意味での存在意義はあるけどね。
・本文
私は「同人女の感情」をネットで全部読んだ同人女です。「わたしのジャンルに神がいます」もコンセプトカフェの帰りにアニメイトで買いました。最近角川は腐女子ネタ頑張ってるね。たしかつづいさんもだっけ。お布施がてら、私は知ってるけど家族にもよませるために買える絶妙な立ち位置の本うまいね最近の角川。(家族に読ませない本は電書が重くなくて楽)
増田にもそれに先んじてネット掲載の最終話のアンチの話がリツイート数がもりあがらなかったって投稿 anond:20201110232328 がブクマをあつめておりました。
盛り上がらなかったのは、私の見たところ単純に、冒頭で一度綾城本人でなく取り巻きの中島のアンチ?の話をやってて、繰り返しになっちゃったからかとおもいます。理由はどうあれ、神にとってどう対処しようもないことを目障りな行動とうけとめ嫉妬してアンチになる構造は同じです。
(実際は本当に作風があわない場合、アンチというより地雷になるケースがありますし、真田氏も最終話では最初そちらを狙ったのだけれど商業化のせいでそこまで踏み込まなかったのかもしれません。し、最初から再話になってでもアンチ感情を主題として繰り返し突き詰めたかったのかもしれません。)
また、書籍化にあたり綾城がどのように中島と付き合い出したか、その同人の最初期のようすが描き下ろしで追加されています。
私からみると、あ~まぁだいたいそんな感じですよねぇ、という人物造形です。特に絵師の場合は専門学校・芸大などで一緒だったとかいうつながりも多いし、めちゃくちゃ馴れ馴れしい取り巻きがおるとおもったら家族だったり幼馴染な場合も。
だから綾城と中島の間には神も生育歴をもつタダの人間である以上どうにも他人には割って入れないんですよね。嫉妬するだけ無駄だったんだよというネタバラシ(もちろん創作に情熱を落とし込めたことは彼女の今後の人生によい影響があることでしょう)。
表紙4だったか帯だったかの実家の猫写真といい、本人はあまり神の自覚がない、ごく普通の、一分野だけセンスがちょっといいだけの女性が綾城ですし取り巻きの意識のない仲良しさんが中島です。(そういえば、この自覚がないまま神に祭り上げられる同人書きの「嫉妬や信仰を勝手に向けられる気持ち悪さ」の吐露も増田記事でなら読めるよ!宣伝)
ところで角川は「同人女のクソデカ感情」を帯の惹句に使うことにしたようですが、クソデカ感情って一体なんだろと思ってしまいました。
感情って表出しないとなかったも同然のものなのですよね。登場人物はどの人物も最終的に同人創作に手を染めるくらいなので作品へのクソデカ感情はある。そしてその創作に至るきっかけの部分で、綾城の文に出会い、それを書いた「神」へのクソデカ感情ももつわけです。作品のみならずそれを解釈する先達への感情も表出しているってのが主題なわけです。ただし綾城「神」本人以外。神は創作するのですごい感情を持っているのですがそれを全部作品に昇華した上、真田氏はその創作を直接は書かないので神がどういう感情をもっているかは読者からは徹底的に隠されています。それがまずおかしいわけです。
結局、人は、創作か行動で表すかしか感情を表出できないし、他人からみても感情サイズをクソデカと計測できる部分はない。そして創作も行動もできない人のほうが世の中は多いわけです。
同人、それも文章でクソデカ? いやいやこんなものじゃないでしょう、って思うんですよね。
鬼滅のなんとかを見てたらわかるじゃないですか。普通の善良なおとうさんおかあさんが子供を喜ばせたい感情を動機に、同人女が欲しくても手を出さないよう自制しているまがいもの商品を買ってしまったり。出版社のえらいひとも混乱してわけのわからないものを独占商標として出願しようとしてあわてて取り下げたり。
プリミティブなだけに行動は繊細さがなくドカドカジャンルを踏み荒らしていく。それをみてもともとジャンルにいた人がジャンルが売れたと喜んだり、新規ファンが粗暴だ公式が横暴だと悲しんだり、繊細に毎日毎時間ツイッターを見ながら感情をうごかしていますが、そんなもの世間ではなかったも同然なんですよね。
世間のほうが同人女なんかよりクソデカ感情によるクソデカ行動をツイッターの外でやってるんですよ。やらかしですよ。
さらにいうと、人はファンである自分を自覚し始めるとクソデカ感情(? 「私腐女子だから」「オレオタクだから」)を動機に簡単に法を踏み越えるケースがあるし、ネットと創作がからむとより簡単にやれてしまいます。そんなもん合法○○マニュアルみたいなもので商業誌に出すわけにいかないですが、2話3話あたりの垢移動先突き止め作業なんか出版会議ですれすれだったんじゃないかなとおもいます。
その暴れん坊の感情面をいい感じに抽出してここまでが合法ですよという綱渡り創作としてはお仲間からみて、さじ加減が見事で面白いってのはあります。
ただし感情を創作行為になんとか落とし込めている人たちは本当にレアケース、くそエリートです。同人やってたらねほりんぱほりんに招かれた人くらいレアでエリートです。
実際は真田さんは絵かきですよね(文章書きと兼任する人も多いですしよく調べてますがちょっと違うなと思う部分も)。
絵かきより文かきは個性が表出しづらいです。読みやすさ追求により互いに似てくる傾向があり、二次創作を追求するだけのことでも非常にこじれやすいケースがあります。というか、どうしても同じキャラ同じ性格を下敷きにするので同じシチュが流行る。再話に再話を重ねてしまう。伏線を自分が発見したのに~なんて嫉妬するのはものすごく流行ってるジャンルだと全監視できるわけないんで無理なんですよね。てか実況ツイでみんな同時に同じようなこといいだしますよ。今日もフォロイーさんが今日嬉しくなってツイした「今日発見した伏線かもしれないフカヨミ」、一応ググったら2年前の過去ツイに同案が居らしたって落ち込んでらした。ジャンル10年、ミニジャンルでも5年以上超えるとまあ誰かがどこかで同じことをお考えですね。もはやだれが考えついたのか区別がつかないくらいみんなでツイのまな板にのせてこね回した共有幻想ですから二次創作で自分の個性を出すことってものすごく難しいですよ。
そういえば増田(anond)では同人盗作騒ぎについても興味深い腐女子長文投稿がありました(宣伝)
他にも人は様々な理由で同人を始め、心をへし折られ、敗れてジャンルをさります。
そういえば一時期、増田でマキシ丈云々とかやってたのなんか単なる容姿が原因ですもんね(宣伝)
真田さんのマンガに出てくるクソデカ感情女さんはピアスの似合うセミロング美人ばかり。(いやよく見ると髪型が一時期の少年漫画みたいなお方もいらっしゃいますし、綾城は法則の外にいます)
だから物理でいえば等速直線運動くらい初歩の初歩のモデルケースなんです。「ただし弾性率は100%、摩擦は0とする」みたいな。
もっと複雑化された人間模様とクソデカ感情がみたければ増田で腐女子長文とかうんことかついてるやつ読むとめちゃくちゃおもしろいですよ。「1年前から増田にきてください、本当のクソデカ感情ってやつをお見せしますよ」とおりすがりの山岡くんもこういうはず。
はてなもね、なぜかジャンルを去る腐女子がちょくちょく長文捨て台詞を落としに来るという利点を自覚してまとめて本でも出せばいいのに。
(q.hatenaで2冊も商業出版されたことがあるじゃないですか)(知らないの? きみはもしかしてはてな初心者?)
腐女子のクソデカ感情がみたければ増田も濃くて面白いんですよというお話でした。
ついでにorangestarさんの801ちゃんコミックもよろしくね。あれもいにしえの腐女子のクソデカ感情(びたーんびたーん)が本当におもしろいしはてなブログから同人版買えるからね(宣伝)
──どうして人と人は分かり合えないのだろう。
真田氏 (twitter:@sanada_jpexit )の創作漫画に登場する、絶大なる二次小説作家『綾城』。
ここについては最早語る草もにべもないので、読者の考察に任せたい。
だが私の中でどうしても腑に落ちないものがあるのだ。
否、理解できないわけではない。私自身腐女子だ。芸歴も15年ほどで息も長いほうだと思う。
一人目の主人公は「作家:綾城」と関わりを経ち、二人目はツイッターのフォロー等少し関わりを持ち、三人目に至ってはきちんとイベント会場で顔を合わせ会話もした。
しかしこのステップアップが、実は現実の腐女子に足りていない行為ではないのだろうか。
普通に考えると感想を貰って嫌がる創作主──筆者はいないだろう。
そこで筆者が怒ったり、悲しんだりするのであればそれは読者との間に『認知の歪み』があるからなのだと思う。
感想を送る立場側が最善の言葉を選んでいたとするのであれば、筆者は何に怒ったのか擦り合わせをしないといけない。
怒ったら、怒りのまま返事はせず、「私はそうは思いませんでした。」と素直に言っていいと思う。
何故なら、二次創作だったとしても、その世界を作ったのは筆者であるのだから。
感想を送る立場側が不遜な態度を取るようであれば「そのような言い方は失礼かと思いますので、やめた方がいいと思いますよ」
と窘めればいいと思う。普通の人間なら「すみません、そういうつもりで言った訳ではなかったのです」となると思う。
色々なパターンが想定されるが「じゃあ感想を送る側ばかり損じゃないか!!」と思う人もいるだろう。
だから、私は、言いたい。『最善の言葉を選んで伝えよう』それ以外は何も考えなくていい。
思ったまま、素敵だと思ったことを並べるだけでいい。
その解釈が間違っていれば、筆者から「そいうつもりで書いたんじゃありません」という言葉が返ってくるだけだ。
それは筆者に同じで、受け取る側が誤解をするような描写が無かったか、何をどう読み間違えたのか、情報を精査する必要があるだろう。
人と人は、話し合えば分かり合えるのなら、読者と筆者、相互の言葉を重ねる事で
きっとよりよい腐界が作れると私は思いたい。
今の腐女子たちに足りないのは、コミュニケーション能力なのだ。
このSNS時代を生き抜くには、言葉を交わし、交流し、今一度『私たちは同じ二次創作を愛する人間同士』
友達と呼べるかは、それは実際に交流をしてみないと合う合わないがあるから分からないけれど
少なくとも主人公たちは、同じ作品を愛するもの同士くらいには、なれるのではないだろうか。
きっと、おけけパワー中島は、そんな主人公たちがステップアップした最終形態なのではないだろうか。
何も恐れないでいい世界が訪れることを願いたい。
私のツイッターアカウントのTLにも例によってその「おけけパワー中島」の元ネタの漫画がどんぶらこと流れてきた。読んだ。
そして、
各登場人物への感情移入よりも先に、この「おけけパワー中島」というネーミングの素晴らしさに、雷を撃たれるような衝撃を受けてしまった。
私は「綾城」や「おけけパワー中島」なんかよりもずっと、漫画の作者・真田氏に強く嫉妬しそうになった。「おけけパワー中島」が出てくる引き出しがあるのがすごい。天才だ。
おけけパワー中島は恐らく、最初からおけけパワー中島ではなかったはずである。
はじめは「中島」とか「中島〇〇」のような名前であった可能性が高いと思う。
そこから例えば「#リプもらった名前で1日過ごす」と言うツイッタータグを実施したり、
あるいは普段の言動の中で「おけけパワー」と発言する事があり、いつの間にかそれが友人間で定着してしまって、現在に至るのではないかと推測できるのだ。
作中で描かれている中島の知人・綾城は品のある大人しげな性格だったので、おけけパワーとあだ名をつけるのに悪乗りするタイプではなさそうである。
という事は、中島をおけけパワーと呼び、それを定着させるに至るに関わった人間は、綾城の他に複数存在する友人である。
これは作中で綾城が「中島さんの新刊も楽しみにしている」と言った事にも裏付けられているが、名前からも伺う事が出来る。
そもそも、おけけパワーとは何か?
おけけとは、恐らく「毛」を丁寧に呼んだ呼び方ではないだろうか。
では「毛」とはどこの毛か。パワーという単語が関わるぐらい中島にとって力強い存在であるとしたら、
仮に「おけけ=陰毛」であるとするなら、中島はR-18系の創作をしている可能性が高い。
あるいは、中島の推しが胸毛がボーボーの男性であった場合は胸毛かもしれないが、その場合もエロシーンで胸毛を喜々として描く中島の姿が目に浮かんでくる。
このように作中描写としての情報量も多いが、メタ的に考えたときにも「おけけパワー中島」の効果はすさまじい。
これは作中で中島に嫉妬する人間の視点でも、漫画を読んでいる我々の視点でも。
ふざけているのかと腹を立てたくなるフレーズであり、
寝る時にふと布団の上で字面を思い出してしまうフレーズであり、
それまで考えている事を一度忘れてしまいそうな集中を削ぐフレーズであり、
おけけパワー中島とはどのような人間なのか真剣に考えてしまいたくなるような哲学的なフレーズでもあり、
最近、おけけパワー中島(以下おパ島)という概念が新たに出来た。
初出は2020年6月7日に投稿された真田氏の漫画「秀才字書きと天才字書きの話です」に出てくる、主人公が崇拝レベルで慕う神字書きと仲のいい相互フォロワーのハンドルネームなのだが、多くの同人界隈にそれぞれのおパ島(概念)がいるようで、漫画に感銘を受けた声と、同人オタクの怨毒と悲鳴とともに一気に広まった。
どの悲鳴も新鮮かつ悲痛なものであり、お気持ち文が好きな人には是非ともツイッターで検索をかけて苦酸っぱさを味わってほしい。
私が「秀才字書きと天才字書きの話です」と続編「神字書きがジャンル移動する話」を読んで思ったのは、「七瀬の思う人間関係と綾城、おパ島の人間関係が綺麗に事故ってるなあ」だった。
おパ島ツイートでおもに悲鳴を上げているのは、ほとんどが七瀬サイドの人間である。私もその一人だ。
七瀬サイドに共通する価値観、それは(こと創作において)人間関係を対価システム(相手に対価を与えることで関係性の維持をしようとする行い。造語)で考えすぎているということだ。ここでいう対価は「持ちうる実力が等しいか、相手への献身で交流のメリットを感じてもらおうとする」こととする。神と親しくするには神に次ぐ力を手に入れるか、はたまた敬虔な信徒でないと許されないと自縄自縛してしまうのだ。
人間関係に対価システムを持ち込むこと自体は悪くないのだが、度が過ぎれば問題となる。だいたいの場合、まず真っ先にメンタルがやられてしまう。
現に七瀬は、「もっと上手くなりたい 綾城さんに興味を持ってもらえるくらいの字書きになりたい」が段々と、「フォロバされないし自分の作品へのコメントもない(興味を持ってもらえていないと判断できる)=自分の実力が足りないのだろう」と考えるようになり、最終的に「おパ島の感想はワンパターンなのに興味を持ってもらえてる=自分の実力はおパ島に負けてしまうレベルの乏しさである」と思うまでに至ってしまった(そもそも七瀬はおパ島の作品をちゃんと読んだことがあるのか疑問だが、仮に読んでいたなら感性が正反対だったか、袈裟まで憎かったのだろう)。
最終的に七瀬は綾城をブロックしようとまで決意するも、イベントで本を出すというツイートに負け、足を運び、実は認知されていたことを知って(そのうえ誉め言葉までもらって)感情が爆発……と終わる。
神に認知されていた、自分の作品が神に刺さった。これは紛れもなくハッピーエンドだろう。そのうえで最後に七瀬にひとつ言いたい。カウンセリングに行け。
七瀬サイドの人間は、まず基本的に陰キャである。そしてコミュ障気質でメンヘラだ。遠慮深く自罰的で、自分の低さを保つため、少しでも秀でたところのある人は、雲上人にしたがる。神と親しくなりたい場合、友人としての交流ではなく、相手の持ちうる才と肩を並べか献身することで距離を縮めようとする。神の作品はすべて拝み、ふぁぼりつし、匿名で感想も送る。作品を愛しているのは勿論のこと、それが対価のひとつになるからだ。
しかし綾城サイドはそうではなく、基本的に居心地の良い、話して楽しい人と交流する。才能はあればもちろん喜ぶだろうが、文才がいきなり枯渇しても、変わらず交流し続けるだろう。七瀬サイドが枯渇したらば、「相手につり合えない」という気負いから、ひっそりと疎遠の道を選ぶ。
この人間関係に対する価値観のすれ違いを解消しないと、一部のおパ島に敵意を隠し切れない人が毒マロを送ったりしてしまう。幸運にも七瀬友川はそうはしなかったが。
あくまでストイックな彼女らは、いつか綾城とグランドで対峙するため、動体視力を鍛え日々素振りをし、強打者になるまで至った。しかし不幸にも、綾城と相互になるために必要な技能はサッカーであった。
創作界隈では、作品と作者への好悪は分けて考えるべし、という戒めがある。綾城が七瀬にフォロバしないのもおそらくはこれだ。綾城が七瀬に向ける感情は嫌悪レベルまで行かないだろうが、人間としての興味が薄いのは確実である。七瀬→→→→→→→→→→→→(←←)綾城ぐらいの温度差があるだろう。
自分に厳しい人間は、他人にも厳しくなりがちである。もっと正しく言えば、他人に厳しくする免罪符として、自分を縛っている場合がある。「私は○○してあげたのに、向こうは何も返してくれない」と悲しくなるのはわかるが、そもそも向こうは○○してくれることをこちらに要求したのか? 見返りを約束したのか? と自問を忘れてはならない。
「神字書きになれば相互になれる」という考えは綾城との関係を対価第一で考えてる証拠であって、神字書きである綾城はおそらくそういうメンヘラを何人も相手してきたのだろう。対価システム持ち同士なら事故にならないが、綾城はそうではない。結果事故る。
つまり、綾城が何を書こうが肯定してくれるし特定ジャンルに縛り付けようとせず、良いものは素直にほめたたえ、地雷薄めのおパ島と仲良し続けるのは当然のことなのだ。つらい。
綾城さんをktgにはめたのは私なので感謝してもええんやでツイートは死ぬほどむかついたし、私なら確実にブロックする。陽キャがオタクの誇張した物まねしたみたいな不快感があった。あそこで怒りを飲み込み攻撃にうつらなかった友川はすごいと思う。
定期的にツイッターで「日常ツイートを控えろと要求する匿名メッセージは、アカウントを乗っ取りたい奇人の仕業である」という啓蒙がバズるが、私は半分近くは七瀬サイドの人間が送っているのだと考えている(残りの5はアンチ、1は奇人)。なぜなら七瀬サイドには、見える形での他者との交流は否が応でも気になってしまうから。
神とたたえる創作者には自分の理想から外れてほしくないという欲求は、七瀬サイドの人間が抱きがちである。神には自分が認めたと才能の持ち主とのみ交流してほしいし、自分と同程度かそれ以下(に見える)の存在は歯牙にもかけないでほしい。なぜなら、これほど恋い慕って対価を払っている私が、歯牙にもかけられていないのだから、と。
酸っぱいぶどうをするのは個人の自由だが、木登りのできる他の狐の足を引っ張ったり、ぶどうの実りを妨害するまで至っては、個人の問題では収まらない。跳躍力のない狐は、「神もおパ島も自分とは違う価値観・考え方の持ち主である」という自他の区別が付けられるまで、臍を噛み続けるしかないのだ。つらい。
幸いにもたくさんの方が見てくれていたので補足。「七瀬が本当に綾城と親しくなりたいなら、匿名をやめてメッセージを送ればいいのではないか」という感想が散見されるが、私の解釈では、七瀬→綾城はあくまで憧れであり、そこまで親しくなりたいとは思っていないだろう。信仰は遠きにありて清いものなので、自分含め普通の人間が近寄るのは解釈違いなのだ(ファンクラブの抜け駆け禁止や、百合に挟まる男を殺す男のようなものと解釈してもらってもいい)。
また、綾城が求めるのが有能なメンヘラではなく気の置けない相手というのを理解したとして、その気の置けない相手になるために七瀬が行うのはやはり、研鑽という名の献身だ。本能的におパ島になれないことはわかってるからこそ、”小説で”有能さをアピールするしかない。そしてフォローは返らない。
七瀬サイドの人間がなぜ先に実力アピールにいそしむのかというと、上にも軽く書いたが、生育環境の影響が大きいだろう。自己肯定感のない人間は、特技や相手の苦手な分野をカバーして、恩人・利用価値のある存在になろうとする。見捨てられ不安が強いための行動なのだが、出しゃばりすぎたりマウントに見えてしまい、結果距離を取られてしまいがちだ。
仮に七瀬が綾城と相互になったとして、フォロー解除されないためにひたすら小説の練習をするだろうし、おパ島のリプライには相変わらずむかつくし、おパ島と同じツイートに話しかけたとき、どうしても生まれてしまう扱いの差をリプライから敏感に感じ取って病むと思われる。七瀬の地獄はこれからだ。つらい。
■七瀬サイドの人間はなぜ対価システムに至るのか(おけけパワー中島)
https://anond.hatelabo.jp/20200704211736
対価システムについて、若干掘り下げたものである。科学的な根拠などはほぼないため、眉唾程度にとらえてもらえるとありがたい。