Twitterやブログをうろうろしていろんな素人の書いた文章を読むのが趣味で、コメント欄もちらっと見たりするんだけどその度に読解力ない人間って一定数いるな…と痛感する。小中に通ってしっかり卒業して義務教育終えてるはずなのにこれ?と思う人間がゴロゴロいるので、教育を子供に受けさせる義務が定められていなかった時代はもっと格差が酷かったんだろうと思わざるを得ない。教育制度を整えた昔の人すごい。
「A+BはCです!」という内容のツイートやブログに「Cってなんですか?」「A+Bはどうなるんですか?」とリプコメントがついてるのを初めて見た時はその場にへなへなと崩れ落ちたい気分になった。
何回読み返しても〇〇に繋がることなんて1ミリも書いてないはずなのに「なんで〇〇になるんだ?おかしくないか?」とコメントがついてるのを見た瞬間、瞬きの回数が3倍ぐらいに増えた。
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(追記)
深夜のノリでバーッと書いたということもあり、「最低限の教育」という括りは乱暴だったなと感じた。
ここでいう「教育」とは、国語や道徳の授業に限るものではないと私は考えているので、長文追記をしてみる。蛇足なので読まなくてもいいです。
たとえばジョージワシントンの桜の木の逸話がある文章に引用されたとして、求められている感想、想定されている感想は「ワシントンの正直さとその偉大さをこの話と引用者は伝えたいんだな」もしくは「正直に過ちを認めることの素晴らしさについての話だな」のような内容だと思う。このようなことをテストや宿題でだけではなく、日常生活においても行う能力こそが学校教育を通して培われるべきものであると私は考えている。強引に言い換えるならば、日常生活への応用力である。(「ワシントンすごい!えらい!」は、方向性は間違いではないだろうがもう少し踏み込んで考えたい)
しかしクソコメントクソリプ(乱暴な言い方でごめんなさい)をしてしまう人間は、義務教育を終えているのにも関わらず「ワシントンって誰?」「なんで桜の木を切ったの?切ったらダメなのに」「何が言いたいのかさっぱりわからない」というような感想を抱くのではと予想する。彼達はそもそも話の本質を理解できていないので、その考えがどれだけ的外れなのかも理解できない。だから恥という感情を覚えることなく平気でコメントやリプ欄に書き込んで送信ボタンを押してしまう。
学校の勉強ができてもクソリプマンになる人間はいるし、逆に勉強が苦手でもすぐ話の本質(話し手の意図)を理解できる人間もいる。
それから「その桜の木の話はデマだろwwwそんなことも知らねーのかmg(^O^)プギャー」で頭がいっぱいになる層、それを実際にコメントしてしまう層も一定数はいると思うのだが(この駄文を読んでくれた人の中にも一人二人はいるような気がする)、そちらはどちらかというと精神年齢や人格の問題なのでは…と思う。まあ、そういうリプがついてるのを見たら私は「クソリプだな…元ツイの人も大変だ」と感じるであろうことは間違いない。
小学校算数で簡単な四則演算の勉強をしたあと、文章題や発展問題という形で「八百屋でリンゴを三つ、モモを二つ買いました。リンゴは〇円、モモは●円です。全部で何円払えばいいですか」というような問題をやらされたと思う。
社会でも、フィールドワークを通して地元の文化や歴史について調べた経験があると思う。
理科でも何かしら実験などで日常生活との関わりを意識させられたことがあるはずだ。
小中学校は義務教育ということだけあって、教科書内の事柄や法則を現実の日常生活と対応させることを最終目標としている節がある。知識を経験に結びつけさせることで、日常生活への応用力を高めさせたいのだと思う。残念なことに、大学を出ていても、教科書と現実の生活をくっきりはっきり分けてしまっている人間は一定数いるのだ。
国語は、あのときのタカシくんの気持ちを想像させるより、文が意図する内容を正しく理解できるかって部分を強化した方がいいよな
これさー 気持ちを想像させる授業やテストなんて一回も受けたことないんだが
自分が小学生のときはあったけど、なくなったのか😞 今、国語では文の意図を理解するを重視してるのかな、知らんけど
勉強でどうにかならないグレーゾーンだと思う。
にしても多すぎん?