「価値判断」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 価値判断とは

2018-11-25

anond:20181125090912

オッカムさんの論理飛躍もわりとヤバない?

コメのようなものを寒冷な北海道で作ることがそもそも合理的だったのだろうか

ジャポニカ米は耐冷性で、寒い地方での栽培がさかん。

てか秋田北海道気候的にそんな変わらんと思うけど。

彼女は「農学部の人には頭があがらない、あなたのような口舌の徒は文句言うだけで何もしない」と言った。

しかし僕はすでに違う考え方を持っていた。

こんなに美味い北海道米を作るにはどれだけの資源が投入されたのだろうか、本当はもっと別なことに資源を投入すべきだったのではないかと。

文句言うだけで何もしない」と「本当はもっと別なことに資源を投入すべきだったのではないかと。」が、しかしという接続詞でつながってるけど、

結論的に文句言うだけで何もしてへんやん。

なーにが「しかし」やねん。そこは順接やろ。

コメ信仰は疑うべきではないか

まぁ、一理ある。

信仰政策世論の中身を疑うことなく、よりそれに適合的な技術を追求する知性は危険なのではないか、それなら「ああい属性人種は滅ぼすべきだ」となったら「はい分かりました」と効率的殺戮する技術を生み出す知性が奨励されるようになるのではないかと。

ええー?!?!?

コメ信仰からめっちゃ話飛んだな!!

父は「それは重要な指摘だ、考えてみれば持参金が少ないという理由で嫁さんを焼き殺すインド人原子力潜水艦を動かしている。技術と知性は違うのかもしれない。」

父ちゃんよく話しについてけたなぁ!

すげえ!

この父にしてこの息子あり!

でも輪にかけて何言ってるかわかんねぇ。

北海道米の品種改良と、持参金が少ないという理由で嫁さんを殺すインド人との関係もっと詳しくオナシャスしないとわかんねぇ。

ブコメの読解力のある人たちはわかってんの?

すげえな。

すなわち価値判断だ!

ふえぇ><

母は「もうあなたには何も言わない」と。母は「この家は昔からそうだ!」と吐き捨てた。

これはすげぇよく解る。

オッサムさんの子時代はこんな環境で、

執念深く、母にまともなコメを食わせろと言い、これ見よがしにコメ味噌汁といい時には番茶さえぶっかけて、「こんなもの流し込まなければ食えたもんじゃない」とやり続けた

お父さんの給料でそんなものは食べられない

大人になっても夫と息子が隣ですげぇ意味不明論理展開してるわけですよ。

コレ読んで、かーちゃんが可哀相って結論に落ち着くのはわりと妥当

北海道米読解

僕が子供の頃の北海道米は本当に酷かった。でも僕は子供だったので分からなかった。ただただ喉を通らない不味いガム、よくて最悪のモチを食べている感じだった。しかし米とはそういうものだと思っていた。ところがある日の弁当で衝撃を受けた。身も蕩けるほど美味い。帰って母にどういうことか聞いた。

導入。

何かの景品で「あきたこまち」が当たったのだと。それを使ったと。僕はこの時、初めて自分がこれまで食べていたのが「キタヒカリ」という北海道米で、世界には「あきたこまち」や「コシヒカリ」というもの存在していることを知った。僕は今後、「あきたこまち」を使ってくれと頼んだ。

すると母は「お父さんの給料でそんなものは食べられない」と取り合わない。しかし一度、上位規範を知ってしまった僕は、もうキタヒカリに耐えられなかった。思えば、父はいつも白米に味噌汁ぶっかけていた。そういうことだったのか。汁物をかけないと食えないものだったのかと。それから戦争だった。

から聞き分けがなく母親意見が合わなかったことを強調。「納得のいかないことにとことん立ち向かう俺」的なアピールちょっとあり。そして父親はどっちかと言うと息子寄り。

僕はそれ以来執念深く、母にまともなコメを食わせろと言い、これ見よがしにコメ味噌汁といい時には番茶さえぶっかけて、「こんなもの流し込まなければ食えたもんじゃない」とやり続けたところ、ある日、母がキレて泣き出した。父は沈黙した。それ以来、僕は憑き物が落ちたように大人しくなった。

いくら正論でもそれで殴るのは暴力なんだよね」と反省した。ように見せかけて。

ある日、「きらら397」がすべての光景一新させた。品種改良北海道米に革命が起こった。これ以降の北海道米はあきたこまちコシヒカリよりも美味いと思う。大学生の頃母と電話で話した時、彼女は「農学部の人には頭があがらない、あなたのような口舌の徒は文句言うだけで何もしない」と言った。

息子が意気揚々と戦いを仕掛ける→母親が泣いて息子は意気消沈→米が美味しくなって母親カウンター。という立場の変遷。

しかし僕はすでに違う考え方を持っていた。コメのようなものを寒冷な北海道で作ることがそもそも合理的だったのだろうかと。こんなに美味い北海道米を作るにはどれだけの資源が投入されたのだろうか、本当はもっと別なことに資源を投入すべきだったのではないかと。コメ信仰は疑うべきではないかと。

あー、息子さん、反省してないですね。

信仰政策世論の中身を疑うことなく、よりそれに適合的な技術を追求する知性は危険なのではないか、それなら「ああい属性人種は滅ぼすべきだ」となったら「はい分かりました」と効率的殺戮する技術を生み出す知性が奨励されるようになるのではないかと。「僕は北海道米の美味さが怖い」と。

時が経ち、かつて争いの原因となった北海道米の不味さが解決されても、やっぱり息子と母の意見は合わないし、息子は理屈っぽくてウザい。

母は「もうあなたには何も言わない」と。父は「それは重要な指摘だ、考えてみれば持参金が少ないという理由で嫁さんを焼き殺すインド人原子力潜水艦を動かしている。技術と知性は違うのかもしれない。すなわち価値判断だ!」とか調子を合わせた。母は「この家は昔からそうだ!」と吐き捨てた。

理屈っぽい変人の父・息子」と「普通母親」という対立構造は変わらない。迷惑かけるけど仕方ないよね。という感じのインテリの自慢&自虐ネタ

そして北海道米は美味い。

冗談めかして終わり。

anond:20181125183728

アスペの人がTwitterしたり、文章を書くことは否定しません。プロフィールアメリカ建国研究をしてるって書かれていても、知力が高いのかもしれません。、文章を書く技術と人の気持ちをおもんばかる知性とは別物であり、価値判断ですから

母は「もうあなたには何も言わない」と。父は「それは重要な指摘だ、考えてみれば持参金が少ないという理由で嫁さんを焼き殺すインド人原子力潜水艦を動かしている。技術と知性は違うのかもしれない。すなわち価値判断だ!」とか調子を合わせた。母は「この家は昔からそうだ!」と吐き捨てた。

https://twitter.com/oxomckoe/status/1066301395920252928

anond:20181125090912

母は「もうあなたには何も言わない」と。父は「それは重要な指摘だ、考えてみれば持参金が少ないという理由で嫁さんを焼き殺すインド人原子力潜水艦を動かしている。技術と知性は違うのかもしれない。すなわち価値判断だ!」とか調子を合わせた。母は「この家は昔からそうだ!」と吐き捨てた。

続いてるツリー読んだけど、父親大分おかしい。

息子と父親コミュニケーションが成り立たず、その間に立たされてる母親という構図が悲惨さを生んでいるのでは。

2018-11-15

これは本物のリベラルではないって切断処理されてるけど

http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/chounamoul/status/1062863763831844864

韓国人達被害感情に寄り添ったらシュナムルさんのように答えるしかないんじゃないの?

韓国人達、めちゃくちゃ怒ってるよ?

被爆者韓国の方もリベラルが守るべき対象だけど、同時に守れるわけないでしょう?

シュナムルさんは、今回は被爆者よりも韓国の方をリベラル価値判断で優先しようって苦肉の策でこう言ってるだけ。

しろほかのリベラル派も、ちゃんとシュナムルさんを守らないと。

一度坂道を転がり始めたら、なかなか止まれないよ?

どんどん切断処理させられる羽目になるよ。

2018-11-14

anond:20181113215044

言いたいことは大体理解したけど

読者が納得できる範囲でならキャラ世界観崩壊してても良い。面白ければ許される。

この部分はちょっと都合良いなあ、と思った。万人が納得する範囲というのが示されていれば良いけど、そんなものは実質存在しない以上結局『俺(個人)が面白いと思うか』が価値判断基準なっちゃうじゃん?

それなら『嫌いなスピンオフ』とされたぷち系や学園系であっても、絶妙塩梅を見極めた良作は存在しうるんではないかな、と。

2018-11-10

BTSTシャツ事件について

 朝鮮半島独立を祝うメッセージの書かれたTシャツ原爆投下によるキノコ雲の写真プリントされていたことを巡って色々と燃えているみたいだが、あれに対して日本人として嫌悪感を感じるという人たちが多数いること自体理解できる。そういう風に教育されてきたのだから

 しかし、そのことをもってしてあのTシャツを着ること自体が許されないだとかヘイトであるという人たちは全く理解できない。

 そもそもあのTシャツを見る限り別に原爆投下自体を茶化していてたり被害者侮辱するようなメッセージは見られない。

 朝鮮半島の人たちにとって独立とはあくまで「日本からの」独立であり、解放とは「日本植民地支配から解放である以上、日本敗戦とそれを決定づけた原爆記憶が不可分であるのは当然であって、日本人国民感情一方的断罪するのは全く不当であると言わざるを得ない。

 異なるコンテクストで用いられてる表象自分たちコンテクスト一方的適用して正邪の価値判断を下すのは文明国人間のやることとしてはあまりナイーブだし野蛮すぎるのではありませんか。

 日本人が彼らに正当性を持って要求できるのはせいぜい「あれを着て日本には来ないでね」くらいのものでしょう。

2018-11-08

anond:20181108195616

大学というのはそういう奴が一定数いる所だよん

不思議中学高校ではお見かけしない

性格や頭の善し悪しでなく、善悪とか価値判断が生まれつき変なのよ

ADHDとかそういうやつやろな

自称IT詳しい人が認めたがらない表現

エーアイとか自動運転とか介護とかの意識高い話題だと「ハードに強い日本可能性」とか「ハード進化した今なら行ける」とか「低賃金でも単純な/複雑な仕事ならエーアイ導入の余地がある」とか平気で言うオジサンがいるんだよな

追記:

初めに書いたように、これは自称IT詳しい人が理解できない表現ではない。認めたがらない表現なのだ

自動化やすい高度に精神的なタスクAが自動化されました。次に自動化されるのは自動化やすい高度に精神的なタスクBと、単純な肉体労働タスクCのどちらですか」という質問を投げかけると、詳しいオジサンAは「高度に精神的なタスクBである」と正しく回答する。

これは人が理解できない表現ではない。認めたがらない表現なのだ

そして「容易なタスク自動化されるのは、困難と考えられている故である機械は困難に挑戦するが、容易はいつでも攻略できるのだ」というストーリーに逃げる。逃げ込む。「われわれが容易と考えている日常タスクは、実は高度である」という認識を持つことは、非常に多くの人にとっておそらくは苦痛なのだ

からどうした。われわれに残されるのは安い肉体労働である。われわれの価値判断基準と、機械にとっての高度さの基準が全く直行だか逆行だかしていることがいくら不快であろうと、事実が変わることはないのだ。

ばーか

2018-11-07

anond:20181107183359

比較による価値判断が 無理 と言われるほどにみっともないことだとも当時は思わなかった

今は分かる

誰かを攻撃し嗤うような話題

比べて安心したい人達なのだ

自分はマシだ、こいつらに比べたら幸せなんだと

でもブラック労働従事過労死させられているキモくて金のないおっさんを見ると安心するんですよねわかります

この話でどうして「でも」になるんだよ馬鹿

昔、同じ現場に配属になった女の子が言ったこ

「人の不幸を物差しにして自分の幸不幸を計るような考え方、ちょっと自分は無理」

その時はプロジェクト状況が大変厳しかった

自分のいる客先側での維持開発チームも忙しかったのだが、請負の自社チームは連日のホテル泊だった

大変だけど自社チームに比べたらマシ、みたいなことを雑談で話した時に彼女はそう言ったのだった

私は自分含め彼女を元気付けようと思っての発言だったし、

人格否定するような彼女言葉心外でいやな気分にはなった

比較による価値判断が 無理 と言われるほどにみっともないことだとも当時は思わなかった

今は分かる

誰かを攻撃し嗤うような話題

比べて安心したい人達なのだ

自分はマシだ、こいつらに比べたら幸せなんだと

2018-11-02

anond:20181102093851

は?

「伝わらなければデザインじゃない」んだぞ?

そもそも購買、つまり価値判断素人がするんだよ

素人すら納得させる説明orクオリティが示せないプロってww

2018-11-01

anond:20181031153141

千本記事見出しに目を通して、瞬時に一つ一つ価値判断して、PV予測して、13.5文字見出しを付けて

すげーAIでできそう

アイデアありがとうございます

2018-10-31

ヤフトピ2万本に見出しを付けた編集者ヤフー株式会社退職しま

ヤフトピ編集を辞めてド競合の某社に転職するので、憧れの退職エントリってやつを書いてみます。実は最後半年はヤフトピ編集じゃなかったんだけど、許してください。タイトルは読まれナンボです。

2007年地方新聞からヤフー転職して、11年間、ヤフトピ編集担当しました。2万本以上の見出しを付けて、日本で一番、総PVを稼いだと思っています自称ですが。

11年前っていうとまだまだネットニュース牧歌的時代プレスマホ時代と今では隔世の感があります。当時は数時間に一度Yahoo!トップが変わっていればよかったのに、今じゃリアルタイム更新の上、プッシュ通知を競合より1秒でも早く!って感じで常に判断を求められてヒリヒリします。

今のヤフトピは24時間体制で、平日、休日わず10人以上の編集者が1日5千本配信ニュースに目を光らせていますが、自分ヤフー入社した頃は、休日に出社している編集者はたったの1人(!)で、何が大事ニュースなのか、何が読まれニュースなのか、何をYahoo!トップに出すか、すべて1人で判断していました。今思えばこの頃の経験が一番勉強になったなあ。

だって政治経済事件事故スポーツエンタメITサイエンス森羅万象すべてのニュース価値がわかる、って人います

一人で全部わかるって人なんて、いないんですよ実際は。多分日本中探してもいない。でもそれを求められる。否応無しに毎日勉強の日々でした。何が読まれてるニュースかはリアルタイムに把握してるし、何が大事ニュースだったかの正解は翌日の新聞紙面を見ればわかります自分が思ってた扱いと違ったら負け。

田舎新聞出身で当初ITニュース価値がさっぱりだった自分は、全く興味ないけど週刊アスキーを毎週買って勉強しました。不思議なもんで、半年くらい自分お金払うと、だんだんITニュースもわかるようになってきたもんです。わからないことをわからないままにしないってすごく大事

11年間、ドッグイヤーネット業界で、しかニュース最前線仕事できて、ほんっっっとうに楽しかったです。天職だったと今でも思ってます

千本記事見出しに目を通して、瞬時に一つ一つ価値判断して、PV予測して、13.5文字見出しを付けて、いま何を伝えるべきかを考えて、いま何を伝えられていないのかを考えて。365日ニュースのことだけ考える。こんな刺激的な仕事、ほかにないですよ。

自分判断一つで世間が動いたり、大ニュースの芽に気付けず、特オチして眠れないほど悔しい思いをしたり。もう11年間あっという間でした。

失敗もたくさんしました。

浜崎あゆみ俳優結婚

って見出し付けたらオーストラリアじゃなくてオーストリア俳優だったこととか、

コンクリートパネル崩落っていうニュースコンクリ板崩落って見出しを付けたら、コンクリートパネルベニヤ板のことでコンクリではない、ってコメント欄で怒られたこととか。知らないよそんなの。でも間違った情報を全国のユーザーに届けちゃったわけで、本当にごめんなさい。

いわゆるヤフトピ以外でもファイナンスとか政治とか、今は亡きYahoo!スポーツとかYahoo!ニュース Businessとか、編集者が関わるサービスをいろいろ経験させてもらいました。

最後半年Yahoo!ニュース個人担当でしたが、もっと色々やりたいことがあったし、こんな短い付き合いになってしまって、書き手の人たちには本当に申し訳ないです。

あん意識高いこというの嫌いなんですが、ものすごく成長させてもらって、会社には感謝言葉しかありません。マジで

本当に働きやす会社だったし、上司や同僚にも恵まれました。ありがてえありがてえ。

それなのに辞めちゃう理由はまあいろいろあるんですが、ココには書かないでおきます。なんか不満とかトラブルとか、Yahoo!を見限った、とかではないです。チャレンジ舞台を変えるってだけで。いつかまた戻ってきて働きたいと思ってるくらい。

今後はド競合の某社で打倒ヤフトピを目指して頑張ります。ヤフトピなんてもうピークアウトしてんじゃねえの?って声もありますが、なんのまだまだ、自分が長年支えきたYahoo!ニュースは敵に回すとまだまだ勝てる気がしません。

編集者やエンジニア調達部隊やらなんやらの人材の層

PVだけでなく、公共性を重視した記事の選球眼

ネットニュース歴史のものの蓄積からくる信頼

このあたりはそうそう揺らぎません。

でも、だからこそヤフーを辞めて、過去自分が作ってきたものと戦います。いやー燃えますねえ。ぜってえ負けねえからな!

それではkkasai先生次回作にご期待ください。

anond:20181031095618

嫌かどうか、隠すべきかどうかの価値判断個人に依りけりだけどな。

例えば増田は常日頃、腰に抱えた44マグナム(客観的にはコリブリに見える)を人に見せつけたいと思うておる訳だろ?

2018-10-29

anond:20181029131955

そういうのはコンテクストにおける価値判断基準併記しとかないと意味不明問題しかならんだろ。

常識」で答えさせるのは悪問。

2018-10-28

anond:20181028143231

何も悪くない

ただ魅力に乏しい

人間社会的動物なので、魅力に欠けているということは生活デメリットになる

「なんとなくいやだ」という社会通念は、善悪価値判断と結びついて「悪い」と認識する人も出てくるかもしれない

(その判断論理的とは思わないが)

2018-10-19

横山由季子「ブロックバスター展は善か、悪か」を批判する

 美術手帖で連載中の「シリーズ:これから美術館を考える」の第6回、横山由季子(金沢21世紀美術館学芸員)による「シリーズ:これからの美術館を考える(6) ブロックバスター展は善か、悪か|MAGAZINE | 美術手帖」。一読して何が言いたいのか理解し難かったが、それもそのはず、書いている本人が考えがまとまらないと言っているのだった。

まとまらない考え、逡巡をそのまま書いてしまいましたが、現状を共有することで、今後の共催展、ブロックバスター展について考えるきっかけになれば幸いです。

https://twitter.com/blanche1002/status/1051094298815430659

 「考えまとめてから話せ、バカ」で済む話ではあるけど、一部好意的に受け止められている様子もあり、少しこだわってみたい。

 まず、かなり気に食わないことの一つに、ブロックバスター展について「善か、悪か」と問うている点がある。「善悪」というのは倫理道徳的価値判断であり、展覧会評価をするにあたってはなじまない言葉である。「是非」でよかったはずだ。にもかかわらず、横山は敢えて「善悪」という強い言葉を用いた。その理由は推測することも可能だが、不要から止めておく。ただ、私自身は「善か、悪か」という問いに答える気にはならないし、また応じて「ブロックバスター展は悪だ」と言っている人がいたら異様だと思う。些末な問題ではある。しかし、筆者の立ち位置や考え方が無意識に出ているように見受けられる所、注意を要する点である

 次。筆者はタイトルで「ブロックバスター展は」と議論対象提示する。そして文中で「ブロックバスター展」の定義を明確に行う。ここまではまったく素晴らしい。だが、なぜか横山は文中でブロックバスター展以外についても語り出してしまう。こんなわずか短い文章にもかかわらず、その対象を固定することすらできない。大丈夫なのか、この人?

 実際に対象になっているのはブロックバスター展と共催展である。前者も後者の一部だが、このうち60~70万人ほどを動員したものを指すと定義している。もちろんそれ以上動員した場合も含まれるのだろう。また、共催展以外でこの規模の動員は不可能と考えられる。すなわち、60万人以上の動員を記録した展覧会ブロックバスター展だと言っていい。明確だ。

共催展のなかでも、とりわけ規模が大きく大量動員が見込まれものは「ブロックバスター展」と呼ばれる。ブロックバスター展の基準について100万人以上の動員としている記述もあるが、近年ではさすがにそこまでの来場者を集めた例はないので、ここでは60〜70万人規模の展覧会ととらえることにしたい。広報会議メディア担当者と話していても、60万人あたりがひとつ分水嶺になっているような感覚がある。

 共催展一般共通するものであるならば、わざわざ分ける必要はない。だが、60万を越える規模になると、単に量の違いではなく、質の差が出るようだ。「60万人あたりがひとつ分水嶺になっているような感覚」というのはそういうことだろう。ならば、「ブロックバスター展」と呼び分けることに意味が出るわけだ。

 しかし、結局筆者が俎上に乗せるのは共催展一般であって、ブロックバスター特有問題についての指摘はわずしかない。筆者は読者にブロックバスター展のみに絞って考えて欲しいのか、それを含めた共催展一般について考えて欲しいのか不明である。というよりも、筆者自身の中で、その程度のことすら整理できていないのではないかと思われる。

 そんな筆者横山が共催展やブロックバスター展の「現状」についてどのように認識しているか批判的に捉えているか文章引用しつつ細かく見ていこう。

ブロックバスター展はその華やかな話題性によって、普段美術館に足を運ばないような人が展覧会を訪れるきっかけをつくり、美術裾野を広げているという側面もある。そのいっぽうで、やはり集客のために打ち出される広報の数々は「イベント」としての側面を強調するものであり、一過性の消費で終わってしまうのではないかという危惧がつきまとう。

 一過性の消費の何が悪いのかさっぱり分からん人生は短い割に、世界はあまりにも豊かだ。誰しもが、美術とがっぷり四つに組んでいる暇があるわけではない。すべてのことに入れ込むことはできないわけだ。学芸員成るほど美術真剣に取り組んでる横山も、例えば音楽とか、芝居とか、映画とか、ほかのジャンルに関しては一過性の消費で済ませていたりするわけでしょ? 美術に対してそういう態度をとる人たちを批判する権利なんかないわな。

そして現場学芸員は、採算性と学術性を両立させるという大きな矛盾に直面することになる。

 ブロックバスター展やそれに準ずる共催展に足を運ぶ人の多くは、作品を見に来ているのね。有名作に心踊り、傑作に胸を打たれに来てる。学術性とか、正直無くても構わないとすら思っている。

最近ではメディア側も展覧会事業にこれまでになく採算性を求める傾向にあり、10万人を動員する小規模の企画を年に何本も実施するよりも、大量動員が見込めるブロックバスター展を1本開いたほうが、労力的にも資金的にも報われるという事情もあるだろう。

 共催展の数を減らして、ブロックバスター展に集約していると読めるけど、事実なのか?

あくまでも組織としては採算性が優先されることになる

 当たり前なのでは。

ここで、そこまでの費用をかけてまで、海外作品を借りてくる必要があるのかという問いが生じるだろう。国内美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ。実際に、近年では国内の所蔵品を中心に見ごたえのある展覧会が多く企画されている。

 ブロックバスター展や美術館展など、学術性の低い展覧会批判する人って、だいたい欧米によく行っていて、そこで十分に作品を見ている人なんだよね。だから、そういった展覧会が名作や有名作を持ってきているということ自体意味を見いだせないわけだ。でも例えば、今後10年間、海外所蔵の作品を見ることを一切禁じるって言われたら、我慢できるの? できないでしょ。できないなら「国内美術館にも豊かなコレクションがあり」とか言って欲しくないよね。子供仕事で忙しい人、貧乏人、障害者、老人。誰しもが気軽に海外に行けるわけではない。そういうところにブロックバスター展の意味の一つがあると思うんだよな。弱者に優しいという点を鑑みれば、筆者の問いかけに「ブロックバスター展は善である」と答えることも可能かもしれない。

共催展の広報において差し迫った課題は、いかにして若者展覧会に足を運んでもらうかということである。とりわけブロックバスター展を支えているのは、バブル期以降の大型展に足を運んできた50代以上の世代であり、メディア側も確実な集客を見込んで、この年齢層に的を絞った広報戦略を立てることが多い。しかしながら、このような目先の集客ばかりを求める広報が続くようであれば、美術館展覧会未来はそう長くはないであろう。

 若者じゃないから分からないけど、どっちかというとやはりブロックバスター展の方が若者リーチしていて、それより規模の小さい共催展に問題がある気がするけどなあ。今なら例えばフェルメール展とルーベンス展。

近代美術の延長線上に現代美術位置づけ、両者を結びつける作業は、やはり美術館が担うべきものである。そして、村上隆草間彌生などの知名度と人気を誇るごく一部の作家を除いて、メディア現代美術展に出資することは考えにくい。美術館が主導して近代美術現代美術をつなぐ展覧会企画したり、現代美術一般へと浸透させる持続的なプログラムを行うための体制づくりや予算が求められる。

 これはブロックバスター展や共催展の問題じゃないよね。美術館学芸員が怠けていたからこういう状況になったんじゃないの? 「国内美術館にも豊かなコレクションがあり、それだけでも十分に展覧会は成り立つ」んでしょ。美術館主催粛々とやってればいいのでは。

数十万人の来場者を想定したブロックバスター展の場合、あまり大胆な切り口を提示することは難しく、個展であれば年代主題ごとに画業をたどるようなオーソドックス構成となりがちだ。先行研究調査をふまえた新たな視点を、カタログ論文作品解説のなかで示すことはできても、展覧会構成全体に反映するにはいくつものハードルがある。とりわけオルセー美術館ルーヴル美術館からまとめて作品を借りる場合は、これらの美術館学芸員が監修を務めることが多く、そのことによって企画自由度が低くなるという側面もあるだろう。

 そういう学術性は不要なんだって。単にいい作品を持ってくればいいの。学術性を発揮したいのであれば美術館主催の展示でやればいい。それでは自分能力が十分に生かされないと感じるなら本場の美術館就職してください。あと、日本学芸員よりオルセーやルーヴルの学芸員の方が信用できるから、その場合は口出さなくていいよ。

オルセー美術館には各所蔵作家の膨大な資料が集められており(ルノワールだけでざっと50箱以上はあり、フランス語だけでなく、英語イタリア語ドイツ語スペイン語、そして日本語や中国語韓国語資料網羅されている)、それを日々リアルタイム更新していくドキュメンタリストたちがいる。学芸員は彼らの協力を得て調査研究に勤しみ、その成果が展覧会に反映される。この蓄積こそが、オルセー美術館の、さらには今日における世界的なフランス近代美術の人気の礎なのである。これは一朝一夕に実現されるものではなく、長期的な視点に基づいた、たゆまぬ歴史化の作業の賜物といえよう。

 日本フランス絵画についてオルセーと張り合う必要なんかないよ。自国美術研究環境が貧弱なこと(いろいろ話を聞くに相応の事実だろう)については悲しむべきことだけど、西洋美術基本的に横のものを縦にしてればいい。もちろん立派な研究をなしとげれば敬意を表するが、俺達のブロックバスター展を研究発表の場として利用してくれるな。

 私はブロックバスター展やそれに準ずる規模の共催展を楽しんでいるのだ。それを学芸員風情の浅薄な考えや安っぽい使命感によってぶち壊さないで欲しい。日本に居ながらにして傑作や有名作を鑑賞することができる。これだけでブロックバスター展は素晴らしいものなんだ。ということを学芸員玄人気取りに理解してもらいたいのだが、なかなか難しいのかもしれない。

2018-10-11

https://anond.hatelabo.jp/20181011083926

>「女性が持つバイアス思考リソースにする」という流れ

文字をかみ砕いていうと:「『女性わがまま』を、何の前提条件もなく『正しい思考である』と価値判断し、理論や考え方の基礎にする」という流れ

2018-10-10

社会学教授必要なこと

https://togetter.com/li/1274838

社会学スタートって「物理学」や「生物学」の「科学手法」を手本にして、社会科学的に考えようって話だったと思う。

それが今では社会学者の論文客観性担保されてない、お気持ち学問査読論文なんてありませんし、ありえませんってことに。

日本における文系理系の分断は大きいね

社会学学部レベルでもカリキュラムで一番大事にされるのが「統計学」。

社会客観的に調べましょう、知りましょうってのが、社会学の基本なので調査のない社会学なんてない。

でも、統計学って数学使うでしょ。数学の基礎の基礎だけど。でもド文系社会学徒は理解できないんですよ。

そーするとカルチュラル・スタディーズとか「質的調査」に逃げるんですよ。誰でもそれっぽい話が書けるんで。お金もかからないし。

それで書けて「なんか上手いこと書けた」とか思ったアホが修士行ってゴミを量産するんです。そしてそのまま就職できずに博論も出せずに置物になるんです。

運良く博論が出せて人づきあいが良かったりボスが良い人だったり上がいきなり人生ドロップアウトしたりすると大学教授になれたりします。

社会学系のキャリアは、研究内容が奇抜で変だからこそのおもしろ枠もあるし、地域枠で地域密着研究者ってのもあるし、単純な学問的な業績よりは「社会的な業績」が加味されます

から、まぁ、社会学教授査読付き英語論文必要かと言えば、別にいらないかな。

社会学基本的手続き学問で、ちゃん調査しましょう、ちゃんと開かれた議論が出来るように論文を書きましょうっていう学問です。

自分研究フィールドがしっかりしていて、調査研究継続して予算もしっかり取れて横着せずに最新の理論研究内容をフォローしてるなら大学教授やってて問題なしでしょ。

手癖で良く知らない分野のレポート書いたり価値判断が先行して調査研究を疎かにしてたらダメかもしれないけど。

理系文系がいう科学的とか客観性ってのは、だいぶ遠いよね。

理系が言う科学的はメートル法だけど文系が言う科学的は尺貫法とかヤードポンド法って感じかもしれない。

2018-09-29

企業化する人間 市場を生きるパーソナリティ」を受講した

講師京都沖縄東京カウンセリングを行ってきた博士(教育学)・臨床心理士の東畑開人氏。

「感じのいいエリート」が、鬱を排除するための躁的防衛慢性的な虚しさ疲労感、神経症症状、親密な関係の難しさなどを抱えているケースについての話だった。

貧困層カウンセリングでは「今すぐに治して」等の無茶を言われることがあったが、新自由主義適応したエリートのクライエントは行儀が良い。治療者のことを専門職として丁寧に扱う。自主的認知行動療法実践しておりエクセルにまとめて報告してきたりする。カウンセリングを利用するという依存的なシーンですら、相手迷惑をかけないことを重視する。こうした様子に、パーソナリティ自分自身CEOジャックされ、たゆまぬPDCAを励行している印象、あらゆるところに透明性・公平性を求める監査が入りアカウンタビリティ要求されている印象がある。こうしたタイプのクライエントの治療過程について、クライエントが行儀の良い状態→小さな依存が徐々に形成される→治療者に対する不信感・怒りが生まれる(希望があるから怒る)→治療者に対して軽視・軽蔑したり身勝手な振る舞いをする→気持ちの良くない関係を生き残る・やり抜く→クライエントの子供の部分が動けるようになっていく→自己他者の不純(リスクマネジメント不能な部分)に耐えられるようになる、というものらしい。この内容について書籍が出たりしないだろうか。東畑氏本人がまとめるのが一番正確で良いだろうけれども、私はこんな風に受け取り、要約した。

エリートのクライエントは社会的成功出来ているが自分の中の子供の部分が死んでいることによる問題が出ている。それを治療者との依存関係構築によって治療する。依存心が強すぎて社会的に失敗するタイプには認知行動療法効果的かもしれない。「認知行動療法は効かない、精神分析が優れている」という話ではなく、クライアントの状況に合わせた治療法を提案すると、質疑応答で東畑氏は言っていた。

 

福祉国家から新自由主義へ、自意識から市場へ、消費から投資へ、自己実現からサバイブ

これらの時代認識には共感しかなかった。これ自体解決したい人は政治運動に向かうのだろうか。私は政治運動をしたくない(政治が悪いというより産業構造の変化・人口動態によるものなので根本的な無力を感じる)ので、新自由主義への適応を選んでいるんだと思う。社会は助けてくれないので、自意識過剰でいられる・自己実現を求めていられるゆとりがなくなっており、望むこと自体が身の丈に合わない贅沢に感じている。消費と投資についても、弱者からこそ将来の資産価値を考えて不動産の購入を検討しなければならず、強者なら純粋好き嫌いだけの消費的感覚で住む家を建てたり買うことができる。弱いからこそ投資、余剰たっぷり強者からこそ消費する余裕がある、そういう世界観

 

自由で自立した個人自由にやりとりするのが市場市場ロジック内面化されている。

その外側に依存を引き受ける人たちがいるが、不可視化される。

仕事に繋がりやすいのは自立した個人同士の弱いつながり

深いつながりは依存ケアを引き受けるので重たくてお金にならない=経営者にとって正社員が重たい

経営者にとっては正社員よりフリーランス相手のほうが楽だろう。自立しているし、解雇規制もない。そうして誰も依存先を引き受けなくなった結果、ケア依存先の供給が不足する。というよりケア供給者、依存供給者の価値がこれまで不当に軽く扱われていたのではないかと思う。依存先の供給が無くなり、精神的な問題が噴出したことにより、今やっと価値発見されている。

 

市場ロジック適応して経済的にうまくいっている人間価値評価しない、妬むだけで苦労への関心を持たない、ねぎらわないこと。深い重いつながり、ケア依存先の供給を行っている人間価値評価しない、使おうとするだけで苦労への関心を持たない、ねぎらわないこと。自分の苦労にだけ関心があって、自分とは環境能力も全く違う他者の苦労への関心が根本的に無いこと。

そういった、人間の素のわがままさに対して、子供的に・動物的に・自動的他者を軽んじる態度に対して、私は割と狭量で、嫌って憎んでしまう。私がある価値に気づいておらず軽んじていたことに気づいたときも私は私自身に対して狭量になり嫌って憎んでしまう。業務人生経営必要価値判断は、感情面では不幸を産む姿勢ではあるんだけど。

「商取引の脱価値化」言説は私を疲弊させてしまう。家庭において稼ぐ役割を担わされており稼がなければならない立場の人はいる。感情的な極論は対立する勢力の持ち物・貢献の価値を無いものとする。東畑氏は市場ロジックを取り入れたり自分経営する目線が無さすぎると収入面で上手くいかないことや、自分支配するCEO市場適応的で強力だと勝てる、鬱を排除するための躁的防衛が人をバリバリ働かせるので勝てる、という本人の利益にも言及していた。ケア依存だけに肩入れする治療者とは違うバランス感覚が感じられて、そのバランスになんだか救われた。既婚男性一家大黒柱として稼ぐ義務家族に負わされていることが多いし、未婚女性である私も稼いで自分を養う義務から逃れられるとは思えない。

2018-09-21

anond:20180921213837

いずれにせよ消費行動が補足されて不利益を被るからクレカを使わないというのは非合理的価値判断しかないけどね。

2018-09-19

anond:20180919125714

LGBTだけ優位に立つ社会なんて誰も目指してなくて、

LGBTも、LGBTであるだけで差別されるのではなく、LGBTであっても他のマジョリティと同じように

生活できる社会を目指してるという話なんだけど

「他のマジョリティと同じように」はい嘘。ならなぜ健常者の娯楽や趣味を奪うんですかね?

優遇を求めてる証拠だろ。

そもそも異質な存在であるLGBTが「健常者と同じように」とか思い上がんなよ。

表現の自由」は、制限されるし、さまざまな価値判断に基づき批評もされるということをよくわかっておらず

どうも話が被害妄想じみてきて、ネオナチみたいなこと言い出したから、ここで切り上げるね。

「さまざまな価値判断」=「LGBT様のお気持ち

そんな者で健常者の思想を縛ろうとは、ネオナチはどっちだよ被害妄想はそっちだよ

ちなみに、ラノベ表紙に対する表現規制わたし反対で、

LGBTラノベ表紙を語るような言説は、本当に「表現規制反対派」にとって悪手だから

そこは切り分けようねと言いたいのよ。

嘘こけ。

LGBTの側に立って健常者の表現の自由を侵すことに賛同する輩が表現規制反対派とは笑わせる。


あなた問題を生きるか死ぬかの二者択一みたいに、「LGBT」と「表現の自由」を考えてるなら、

LGBTがそういう二者択一にしてしまった。

LGBTが健常者の娯楽を奪い仕事を奪い自爆訴訟を吹っかけるような集団である以上、共に天を戴けない。

それはもろもろ短絡的思考に陥ってるから注意してね。そうじゃなければ、わたし勝手お節介だよ。ごめんね。

短絡的思考?すべて事実ベースLGBT攻撃に反発してるだけですが。

anond:20180919120625

LGBTだけ優位に立つ社会なんて誰も目指してなくて、

LGBTも、LGBTであるだけで差別されるのではなく、LGBTであっても他のマジョリティと同じように

生活できる社会を目指してるという話なんだけど

表現の自由」は、制限されるし、さまざまな価値判断に基づき批評もされるということをよくわかっておらず

どうも話が被害妄想じみてきて、ネオナチみたいなこと言い出したから、ここで切り上げるね。

ちなみに、ラノベ表紙に対する表現規制わたし反対で、

LGBTラノベ表紙を語るような言説は、本当に「表現規制反対派」にとって悪手だから

そこは切り分けようねと言いたいのよ。

あなた問題を生きるか死ぬかの二者択一みたいに、「LGBT」と「表現の自由」を考えてるなら、

それはもろもろ短絡的思考に陥ってるから注意してね。そうじゃなければ、わたし勝手お節介だよ。ごめんね。

anond:20180919021456

悪とか善とかの価値判断

現状資本主義社会論理かいうクソみたいな合意形成で秩序づけられていて、

その中で踏みつけられすぎて何も感じなくなって行動する気力もなくなったので、ニュートラルですかね。

人間の本性が悪と思えるだけ、他人を憎む価値判断ができるだけ、前に進む原動力になって良いなと思います

あなたが羨ましいです。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん