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はてなキーワード: 価値判断とは

2018-09-19

anond:20180919015157

うん、だからわたしはその恰好をすることも差別だと主張する方、

すべては差別なのだ、と主張する人に、

「うん、全部差別だね、でも良い差別、悪い差別があって、それは社会合意形成によって価値判断されるんだ」

と説いているところなんだ。

2018-09-18

anond:20180918103156

俺が価値判断してこういう結論になったということだが?

anond:20180918102829

から価値判断基準にある思い上がりを指摘してるんであって各々が価値判断することには何もいってねーっつの

そして気に入らないから本人認定か。お前ってとことんまで自分無謬性を疑わないのな。ちがうっつーの。

anond:20180918102614

から価値判断は各々がするもんだが?

お前下方婚増田だろ。

各々が各々の価値判断して、有意義であれば話すなり、色恋をするという前提すっぽ抜けてるのわかるから

2018-09-17

anond:20180917151421

元増田ですが、

そんなこともないですよ。

有象無象はどこにもいるので無視するとして、

あの表紙とサドなどの表現の違いは、性規範を強化することと、性規範を攪乱することだ。

ただそれにわたし価値判断できない、と言っているフェミニストもいますよ。

ポストフェミニストの人とかは、性同一性障害視点から語っていたりして、面白いですよ。

anond:20180917144426

お前はずっと「そもそも被害を主張する側が認知が歪んでて論理破綻してる」ことを無視して、

元増田です。

根本的にあなた

人間誰しもオギャーと生まれときから、おのれの役に立つ人(両親)、笑顔などの表情、さまざまな状況の変化

などに対して、価値判断を行い、認知形成されているということがわかってないようです。

あなたあなた基準にして他人認知が歪んでいると言っているが、

他人から見るとあなた認知も歪んでいるんですよ。もちろんわたしもね。

なぜなら、育ってきた環境が違うからね。

それをお互いに説明して、共存するのが、社会なんですよ。

あとわたしが言っているのは、論理破綻するもくそも、相手理解する気がないか

議論対話も成立してないだろって話なんですが。論理の枝葉で破綻認定して、幹ぜんぜん見ていないという話なんですが。

2018-09-09

anond:20180908145558

過去を今の価値判断で裁く事は出来ない。

そういう時代だったのだ。哀れとも思うし、悔しいのだろうが、

我々の一部として心に留めるのみで、言葉狩に付き合う必要

あるまい。

元寇殺戮を忘れないが賠償しろと言わないのと同じだ。

2018-09-01

me tooに代表されるある種の「正義」と、その恣意性が孕む課題について

岡田斗司夫朝日新聞で連載している悩み相談を読んだ。

https://digital.asahi.com/articles/ASL8R4S75L8RUCFI00B.html

回答としてとても全うで、納得のいくものだった。だったのだが、当然回答者岡田斗司夫である以上、「朝日新聞岡田斗司夫指導者という立場を利用したりして精神不安定女性数十人と異性関係を持ったことが判明したあとも、彼を切らなかった。metooと程遠い人権感覚会社だと思ってる。 」というブコメがついている。

ブコメをつけた人を非難したいわけじゃなくて、これは正にme tooにおけるある種の「正義」の本質を表している。つまり、「言動のものや、その人が作り出したものの是非ではなく、その人の社会的状況に応じてその人の言動判断する」。

これは、不正義の是正を誰かに任せるのではなく、評価自身判断不正義を是正するものだ、ということになる。一面の真理はあると思う。社会完璧ではないので社会公的機関が必ずしも正しい在り方をしているわけじゃなく、それを正すのは社会に生きる人間であるべきだ。そのような仕組みが市民社会であり、社会的不正義に対して暴動や大規模なデモが起きるのはある種「健全」なこととは言えて、そういう事例が散見されるアメリカフランスと違ってどうして日本は……という話題は、本筋からズレるので閑話休題(こういったある種の国ごとの政治態度や市民感覚の違いをまとめてる研究書どっかにないですかね。真面目に読むので割と本気で募集している)。

そういった考えの裏には、実のところかつてのモヒカン族とは全く逆の価値観がある。評価するかしないか、という価値判断だ。

上記の例で言えば、岡田斗司夫評価されていい人間かどうかである。とりあえず自分評価差し控える。その全く真逆の例で言えば、〈ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーシリーズ監督を務めていたジェームズ・ガンが、過去不適切ツイート理由シリーズ監督から降板させられた事件だ。その二つの違いはなんなのか。違いはいくらでも挙げられる。実際に問題になっているのが実在女性との実際の関係に関する話題か、不特定多数に対する言及だけか。日本国内で活躍する批評家か、全世界的にヒットした作品を生み出した監督か。社会的評価の違い。味方についた人がどの程度いたか、それが大きく報じられたかどうか。「不正義」とされるものは白か黒かではなく様々なグラデーション存在し、「灰色は白である」=推定無罪価値観あくま刑事事件公的権力市民を罰する際に発生するものであり、このような違いが発生するのは当然である。だが一方で、ジェームズ・ガン擁護されるのに、『二度目の人生を異世界で』の原作者「まいん」氏が炎上した挙げ句アニメ化が中止になるのは当然であるとされる。問題発言が日本における大きな政治的争点かどうか、という違いはあるが、それ以上に大きな違いは、2人がどんな作品を書いていたか、と言ってしまっても差し支えないのではないか、と個人的には思っている。一方で、慰安婦揶揄していた「月曜日のたわわ」の比村奇石はさほど炎上せずに未だに活動を続けている。比村奇石炎上しないのは不思議だなと思っているが、とはいえ自分自身、「うっわー気持ち悪いことしかやってねーなこの人、でもめっちゃエロい作品書くな。もっとやれ」って思いながら毎週月曜日を楽しみにしている。しかし本当に邪悪

雑多になってしまったが、何が言いたいかというと、me tooというのは「何が正しいか」ではなく「どんなかたちの正義を指示するか」というある種の価値観、雑な表現であるところの「政治的態度」を求められている。正義に対するコミットメントである。だが正義一枚岩ではなく、黒と白の間には無限グラデーション存在し、結果me tooのような価値観はある種のダブルスタンダードを許容する。

社会において「理性的判断」というのは存在せず、人間社会のなかでしか行動ができず、社会のなかで行動するなら結果的社会コミットしなければならない。あたか村上春樹デタッチメントからコミットメントへの転換をした(「せざるを得なかった」と言っていいのかは、正直わからない)ように、これはある種当たり前のことなのだが、その事実を前に困惑するひとは少なからずいるのではないか、と思っている。自分比較的その変化を受け入れている側の人間ではあると思うが、困惑する人間がいるのはよくわかる。人間矛盾する生き物だからね。

だがはあちゅうてめーは駄目だ。

2018-08-08

anond:20180808202104

https://kotobank.jp/word/低開発国-573961 

発展途上国という言葉が生まれたのは1960年代に入ってのことである。それ以前は,〈後進国backward countries〉〈低開発国under‐developed countries,less‐developed countries〉という言葉がおもに〈先進国developed countries,advanced countries〉では通常用いられていた。しかし,旧植民地保護領独立増大とともに,これら新興国後進国,低開発国など価値判断内包した言葉をきらい,1962年非同盟諸国の首唱の下に〈発展途上国経済開発会議〉をカイロで開き,それ以降,発展途上国もしくは開発途上国呼名が定着することになった。…

2018-08-04

〇〇を批判するなら××も批判しろ

〇〇を批判するなら××も批判しろ、という言い方・論法には、いくつかの問題があるように思っている。

まず、一つ目。

この言い方は、おそらく「(ほぼ)同一のものA、Bがあった場合に、Aを批判する者はBも批判しなければならない」ことを前提としている。

しかし、その前提にそもそも疑問がある。

これはもう価値判断の話かもしれないが、私は、この前提には同意しない。

仮にこれが国家による取り扱いの話だとしたら、国家が不平等な取り扱いをするのは問題だろう。

これに対し、個人場合、同一のもののうち、一方を批判して他方を批判しない、というのは自由ではないか

自由とか言い出したら矛盾や誤りを含めて何を言おうが自由なんだけど、論理的な誤りがないということ。)

一方を否定し、他方を肯定するのはダブスタとの批判を免れないだろうが、他方に対して言及しないのはそう問題がないように思える。

私の立場からすると、AとBがほぼ同一なことを前提に、「Aを批判するなら、Bは肯定しないんだよね?」という問いかけなら許容できる。

逆に上記の前提を肯定するとすると、例えば、ある殺人者批判した人は、およそあらゆる殺人者を逐一批判しなければならない、ということになるような気がするが、それで良いのだろうか?

殺人者一般批判するだけではおそらくダメである



二つ目問題は、AとBについて、批判されるべき事情が(ほぼ)同一か、という問題である

これは個別のA、Bごとの判断になるが、「Aを批判するならBも批判しろ」といわれているとき、この同一性あやしいように感じることが多い。

そうすると、AとBがどのように違うのか、という点に議論シフトしていき、本題である「Aは批判されるべきか」という話がどっかに行ってしまうことが多いように思える。

例えば、三億円事件犯人批判してる人がいたとして、「じゃあジャンバルジャン批判するんだな?」とか「カリオストロルパン3世批判するんだな?」と言うような。

場合によっては、AとBの違いが議論されることで、隠れた前提や差別意識が明らかになったりすることもあるのかもしれないが、ほとんどみたことはない。


自分でもあまり考えがまとまってないんだけど、どうですかね。

2018-07-19

anond:20180719215930

まあ同じだろ。ただ、本筋から逸れたポイントが気になった、、、

「若くて有望な若者」と「老人」の話では、二つの価値判断が混在している。

能力:有能か無能

・年齢:若い老いいるか

仮に「若くても無能若者」と「成果を生み出し続けるノーベル賞受賞老人」であれば、後者を尊ぶ者も多いことだろう。

2018-07-07

anond:20180707150628

演歌は創られた伝統」というのは要するに、「演歌はニセモノの日本の伝統だ」ということですよね。

「ニセモノ」というのは、「ホンモノ」があるから成り立つわけです。ホンモノが明確ではないのであれば、ニセモノも明確ではないということになる。

だとすると、

演歌はニセモノの日本の伝統だ」という主張をするためには、

「これがホンモノの日本の伝統だ」という主張が必要不可欠なはずです。

これは正しい。

まずそもそも日本」という単位自体ナショナリズムのものといっていい。

ゲルナーは『民族ナショナリズム』において"政治的単位民族単位を一致させようとする政治的原理"をナショナリズムと捉えた。

日本の伝統と言ってしまうと必然的にそうなる。

肯定する場合でも否定する場合でも主語日本にしてしまうとそうなる。

国家及び民族主語にして語る時点でナショナリズム的と言っていい。

演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」

ということを自明であるかのように語る人がいっぱいいるけど、全然自明じゃないです。

もし仮に、日本は古来から文化的排他的海外のものを寄せ付けなかった、とかい歴史的事実存在するのであれば、

演歌はもともと西洋音楽から日本の伝統ではない」というのは正しいと思います

でも実際には、そんな歴史的事実存在しないんですよ。

箏も三味線も、もともとは海外ナウい楽器だったし、雅楽ももともとは海外ナウい音楽ジャンルだったわけす。

仏教インド発祥だということはだれでも知ってることのはずです。

ようするに、もともと海外のもの伝統になる、ということは日本では古来から普通のことだったわけです。

というか世界的に見てもそれが普通なんですよ。


この段落は非常に雑だし、前提がおかしい。

当該社会集団が何を選択的に残し、何を排除たか。何をナウいと考え、何をダサい判断たか

その価値判断は誰によるものか。どういう思想によるものか。

そういった当該社会集団による意図的選択連続としての受容史を単なる伝播、自然淘汰と読み違えている。

インド仏教日本仏教は全く違いますよね。

また、楽器で例えるなら韓国伽耶琴と日本の琴は全く違いますよね。

ダルシマーヤンチンは全く違いますよね。

文化は伝播してもそのまま伝わるわけではなく、ある種の選択判断が生じている。

雅楽だって日本韓国昔ながらのスタイルのままだと主張しているが、実際には微妙な違いがある。

その価値判断伝統の名の下にくだすのがナショナリズム的言説でしょ。

たとえばですよ、

正月によくかかる「春の海」という曲はたいてい「伝統音楽」の棚においてあります。この曲は洋楽邦楽ハイブリッドです。形式的には完全に西洋音楽です。

から

「春の海は形式的には洋楽から日本の伝統じゃないよ」

という意見もあります。でも同時に、

作曲者バリバリ邦楽演奏家なんだから日本の伝統じゃん」

という意見もあるわけです。

で、このふたつのどちらが客観的に正しいかということを実証することは不可能です。人それぞれ価値観が違う、としか言いようがない。

いやそもそも音楽学者で《春の海》をそういった視点分析する奴は今日びいないです。

伝統かどうかというのはもはや何の問題提起にすらならないんですよ。

なぜならその枠組み自体幻想だという前提で読むからね、まともな音楽学者は。

伝統」とはなんなのか、「日本」とはなんなのか、「音楽」とはなんなのか、

とういうような哲学的な問いにきっちり答えないといけないはずなんですよ、もし演歌はニセモノだと言いたいのであれば。

「創られた伝統」という概念と「創られたわけではない伝統」という概念は、どこがどういうふうに違うのか、

ということを哲学問題として、きっちり論理的説明しなきゃいけないはずなんですよ。でも、そんな作業してる音楽学者なんていないですよね。いたら教えてください。


とっくに議論されています伝統の創出についてはホブズボウムがまず前提。

ヘルダー、ダールハウスタラスキン、ヴィオラリーマン、リッサ、アドラーも読んでどうぞ。

特に19世紀ヨーロッパナショナリズム芸術関係が盛んに論じられていたので、

この分野の先行研究として学びがある。ロシアスペインフィンランドハンガリーなどなど。

繰り返すけど伝統って自然に生じるものではなくて、外と相対化されて初めて気づくものだし

伝統自体共同体による幻想なんだよね。

割と最近テレビラジオ地方地方性を駆逐したのではという話もあって面白い

北海道沖縄も、東京の発信する音楽文化に染まってしまったという話で、

それが国家音楽民族音楽だと大衆勝手に読み替えられているという話ね。

音楽って人間社会性そのものだよねってのはブラッキングの『人間音楽性』の指摘だが、

そういう純粋なる民族性の罠にはまってないですか。増田

あれ、演歌の話どこいった。

2018-07-06

死刑廃止派の一法曹としての意見

松本智津夫オウム真理教事件の確定死刑囚死刑執行された。

 私は死刑制度自体に反対の立場ですが、なぜそう思っているのかについて簡単に書いておきたい。およそ日本の今の状況で、松本らの死刑執行タイミングほど、死刑制度についての関心が高まることはないと考えるからです。

有罪であるという確証が持てない時に、多くの裁判官はどういう行動を取るのだろうか

 司法制度では疑わしきは罰せず、という原則があるのは、ほとんどの人が知っていることだと思いますしか現実裁判官がそのように行動しているかというと、そういうわけでもないようです。先日twitterである弁護士が、下級審簡裁だったかな)の判決書きで、若干の疑いがあるからちょっと罪を軽くしとくね、というような文面を書いてしまったため、控訴審でそれが棄却された、というものが流れてきました。これは判決書きに書いてしまったおバカな事例ですが、上級審であっても同じような運用がされていないわけではないようです。元裁判官で、刑法学者植松正は「無期懲役誤判の吹き溜まりである」と言いました。事実認定に若干の疑いがあるが、情状は極めて悪く、真に犯人であるのならば、死刑にするしかないというような場合無期懲役にすることが多い、というのです。これは裁判原則に反しています。実際には、情状に関わらず、事実認定合理的な疑いが残るのであれば、無罪とせねばなりません。なぜそれができないのでしょうか。裁判官人間ですから世論はまちがいなく気にしています世間を騒がせた大きな犯罪である場合裁判官のうち一人に合理的な疑いが残っていたとしても、合議の中で、簡単無罪判決を出せるものではないでしょう。つまり裏を返せば、合理的な疑いが残っていたとしても、死刑をいう選択をされてしま可能性は0ではないということです。死刑という刑罰存在する以上、確実に、100%、全くの疑いの余地なく、死刑に値する、と考えられない場合にも死刑選択してしまう例が存在するということです。

死刑制度問題は究極的には被疑者被告人人権問題に帰する

 死刑に値する犯罪を、まさか自分が行うはずはない、とほとんどの人は思っていると思います。ゆえに、とんでもない罪を犯した人間は、死刑でも仕方ないし、死刑が速やかに実行されるべきだ、という考えを持っている人が多いのではないでしょうか。被疑者被告人人権よりも、被害者の応報感情の充足が優先されるべきだ、と考える人も多いでしょう。しか100人死刑囚の中には、1人の無辜人間がいるとしたらどうでしょうか。その人を国家権力が殺す、という不正義をあなたは許容できるでしょうか。99人の”真実犯罪者”の被害者の応報感情社会要請としての死刑制度は、そのリスクを甘受するべきだと考えるでしょうか。

 では自分痴漢として裁判にかけられるかもしれない、と思う人はどれほどいるでしょうか。自分痴漢をやっていないことは天地神明に誓えるけれども、なんの証拠もない。被害者は、あなた痴漢されたと言っている。裁判所はあなたの訴えを合理的な疑いが残るとして認めてくれるでしょうか。捜査機関は、被害者の主張を、合理的な疑いが残らないように、矛盾をなくした形で、調書を作成するプロです。また裁判所は一応独立機関であるとされていますが、かつては判検交流と呼ばれる制度もあり、基本的裁判官検察官親和性の高い人たちですし、基本的検察提示証拠を信用して事実認定をすることが多い組織です。あなたの主張は認められず、あなた有罪判決を受けるかもしれない。あなたはそのリスクを甘受するでしょうか。疑いがかけられた以上は、痴漢という、卑劣犯罪行為に対して、その犯行を認めようとしない犯人であるあなたには、何の反省も見られない、と言われるかもしれません。

 裁判人間が行うものである以上、無謬ではありえません。痴漢冤罪場合、たとえ有罪であっても、人権上の制約は小さいと言えますし(むしろ冤罪であったとしても認めてしまった方が人権は制約をされないという残念な状況にある)、もし防犯カメラなどから無罪証明できた場合名誉回復され、損害賠償請求できる場合もある。しか死刑場合においては、それは究極の人権制約なのです。

団藤重光は以下のように論じています

例えば懲役刑などにしても、長いこと刑務所に入って、後で無実だということがわかって出されても、失われた時間、失われた青春は再び戻ってこないという意味では、これも確かに取り返しのつかないものです。しかし、そういう利益はいくら重要な、しか人格的、その意味主体的利益であろうとも、人間自分の持ち物として持っている利益ですが、生命はすべての利益帰属する主体存在のものです。もちろんこのことと、前述の人間尊厳が人命の上位にあるということとを混同してはなりません。死刑はすべての利益帰属主体のもの存在を滅却するものですから、同じ取り返しがつかないと言っても、本質的に全く違うのであります

 痴漢冤罪による被害を最小化するために、真犯人を含む、すべての被疑者被告人人権を守りましょう、被疑者実名報道はやめましょう、無意味身体拘束をやめましょう、という主張に対して賛成できる人は、死刑存置を考える人よりも多いのではないかと思いますいかがでしょうか。

 本質的には、これは死刑冤罪による被害をなくすために、真犯人を含む、すべての被疑者被告人に対する、究極の人権侵害である死刑廃止しましょう、という主張は私には同じものに思えるのです。しか死刑廃止するべきだ、という人はずっとずっと少ないのです。

被害者(周辺を含む)の応報感情を軽く考えるべきではない

 痴漢で捕まった人が、周囲に実は自分自白させられただけで、無罪なんだ、と主張することはよくあると思いますが、特に妻子持ちの人に多いのですが、私の経験上、やってないと強く主張していた人であっても、ここで認めても家族に知らされることはない、ということを教えると、スルッと実はやったんだ、という人が結構ます。ですから冤罪を主張する人たちの中に、罪を逃れるためにそう主張している人が多くいることも事実でしょう。しかし実際に痴漢冤罪によって人生が狂ってしまった、という人は確実に存在します。死刑においても同様のことが起きていないとは、誰にも言えないのではないでしょうか。

 しかし多くの人は、死刑に値するような重大な犯罪で、自分冤罪当事者になることな想像もしないでしょう。それに比べれば、自分たちの周りの大切な人たちが傷つけられたということへの怒りはとても身近で、応報感情に流されてしまいがちです。これは非難されるようなことでありません。前述の団藤は、父ブッシュとデュカキスとの討論で、妻を強姦され、殺害されても、死刑に反対するのか、という質問に、淡々と「それでも死刑には反対だ」と主張したデュカキスに対し、世論は非常に強く反発したと書いています。これがデュカキスの敗因ではないと思いますが、死刑廃止を訴える人に対し、「お前の家族を殺されても、死刑に反対だと言えるのか」という主張はよく向けられます殺害される、などという、およそ通常経験しないことを経験した人たちが、犯人を自ら殺してやりたい、あるいは国家によって同じような目に合わせて欲しい、という感情自然ものであると思いますしかし、当事者でない我々が、そう思うのは当然だ、とその応報感情正当化をする必要は必ずしもないとも思うし、死刑廃止論者であった人が、実際にそのような目にあったときに考えを変えたとしても、それはごく自然な話であると思うのです。その感情否定はできませんが、団藤が述べているように法の論理は、もう一段上の次元で考えるべきはないかと思うのです。

自分は無実なのだと内心で叫びながら絞首台に向かう人の存在を許容できるか

 私は貝になりたい、の主人公床屋は無実ではありませんが、死刑に値する罪を犯しているか、と考えるとそうではないと思います。あの絶望を持って、死刑にされる人間がいる、という不正義を許容できるかどうか、結局はその価値判断なのだと私は思います

 私はその価値判断において、死刑廃止して欲しいと考えていますが、それゆえに、死刑の存置を訴える人の価値判断尊重したいと考えていますしかしその上で問いたいのです。あなたは、たとえわずかな確率であっても、あなたあなたの大切な人が、冤罪死刑になってしまうことを許容できますか、と。

2018-06-28

anond:20180628013148

話の全体を通して著者に金額を支払う自分感情と金額の価値判断で売買について考えてるのだと思うのですが、

モノが実用上役に立つものであれば、お金を払う際に生じる感情など無視して、

実用上の価値、買うまでわからないのであればその期待値と金額の判断で決めるのが最も御自身感覚に沿うのではないでしょうか?

2018-06-27

ネットリンチ批判妥当

Hagex氏の死に際して、まるでその死が自業自得であるかのような意見を数多く目にする。

今まではてなーHagex氏に従って様々な人を叩いてきたが、正当化するのは

いじめっ子論理で、それはできないという。


まず重大な問題として、知ってか知らずか、何をもって正当化されるか、何が善なのかという基準増田が示していないので議論が成立しようがない。

おそらく元増田価値観判断基準にしているのだろうがそれはもう私には判断しようがない。

というか、このネット社会において「普通」という言葉を多用して自分価値判断社会全体での価値判断と一致すると判断しているのだろうか。

まあそこはわからないが、もし見聞を広めようと思っているのならネットウォッチお勧めする。

まずは外部の基準として刑法をもとに考えてみる。まず、「いじめ」は刑法での暴行強要などに加えて言われているような名誉毀損に該当する行為などを含んでいるため、完全な犯罪行為である

しかし、元増田が例として掲げている「ゆとり後輩」は文面のみからではそれが誰か特定できないので名誉毀損には問えない。

かにHagex氏のブログ対象になった人に対する侮辱罪に該当しうる内容があるのかもしれないが、

それについていちいちHagex氏の行為を調べて論ずることはできないので措く(具体的な内容があるなら教えてほしい)。

これらを顧みると「いじめ」と「ネットリンチ」は同列に語られるのが適当とは言えず、喩えとしては良くない。

そして、私の価値観に依った話をする。

これを見たHagex氏の家族のことを考えているのだろうか。

なくなった氏に対してネットリンチ親玉だの、自業自得だの。

いろんな増田があってしかもそれにたくさんブコメがついて色々いってこれまた報いとか。

亡くなった人に対して何をいってもいいとか思っているのかもしれないが、

これが残された遺族に対する侮辱じゃないなら何なんだ。

彼らにとって殺されていい理由などあるわけがない。

結局批判しているつもりでも、自分自身が批判対象にしている行為をして、恥ずかしくないのか。

どのように正当化するつもりなのか。

まあHagex氏はブログをしている強き者だったのかもしれないが、その周りの人たちには目のいかない余りの視野の狭さには辟易する。

anond:20180626141122

anond:20180625054635

2018-06-24

anond:20180624101941

読んだ。

からないではない。ありのままでいいってのもそれはそうだし、それで評価されるようになれば一番いい。

ただ、それなら『美』という概念にしがみつくのは尚更よく分からない。

知識量の多寡競技の強弱の様に明確なモノサシはないと言うが、そうは思わない。傾向としてだが『美形』『ブサイク』の共通認識存在すると思うし。

ミスコンになどによって美の価値観固定化されると言うが、それは多分人々の内にある『美の価値観』が現出してるだけだろう。卵が先か鶏が先かみたいな話だが。

から本当に美の価値観から解き放たれたいと思うなら、もっと踏み込むべきだろう。つまり「美という概念を捨てよう」って主張すべきだと思う。

勿論過激な主張なので丁寧に説明すべきだけど。

小手先で美の価値判断を潰していっても、美の価値観はさほど変わらんと思うのだよなあ。

anond:20180624124557

???

勝手にひとりで意味不明な話を展開しているのはキミでしょ

こちらはずーっと元増田

本当に容姿だけで選んでるなら

モデルみたいなのしか優勝しない

これに対して

 

  1. 容姿のみで評価するなら、評価結果は評価者に依存する
  2. その評価結果に価値があるかどうかは、価値判断をする人物依存する

 

否定しているだけだから

そもそも価値かい概念を持ち出してきたのもキミだよね?

話を"展開"しているのは常にキミだよ

キミが大学生評価価値はあるの? と無関係な話を"展開"してきたから「その価値って誰の価値?」と聞き返しただけ

anond:20180624122454

誰もそんな話はしていないよ

  1. 容姿のみで評価するなら、評価結果は評価者に依存する
  2. その評価結果に価値があるかどうかは、価値判断をする人物依存する

というだけ

2018-06-02

ポケモンコマスターのすヽめ

増田における記事の総数はかのポケモンGOより多い疑惑がある、ポケモンコマスターの紹介記事です。

ポケモンコマスタープレイしたことがない、配信初期に少しプレイしたけど辞めた、某特定ブックマーカーハイク匿名日記増田とは? タグの付けどころですよ、付けどころ)で一人で遊んでいる様がかわいそうだから付き合ってあげたい、などのまだポケモンコマスターを知らない人に向けた内容になっています

また、昨今の基本無料ゲームは、無料というより、上限が見えない不透明ゲームという印象を持たれる方も多いと思うので、その辺りの話も書いています

(当然ですが、私の主観であり私のプレイタイルによるものなので、反論異論等あると思います

ポケモンコマスターってなんのハードで遊べるの? いくら?」

iOSAndroidで遊べるスマートフォンアプリです。

3DSスイッチでは遊べません。

基本無料アプリなので、まずはポケモンコマスター検索して、ダウンロードしてみよう!

ポケモンコマスターって何をするゲーム?」

プレイヤーは、ポケモンを6匹と、ポケモンサポートするプレートを最大6枚までで組んだ、デッキを使い対戦します。

1ターンに1匹のポケモンを動かし、自分ポケモン相手のゴールに到達させる、思考ゲームです。

コマになったポケモンを動かす様は、将棋チェス、ゴールを到達する仕組みはガイスターなんかと似ています

しかし、それら純粋思考ゲームと違い、ポケモンコマスターは多分に「運の要素」が絡んでいます

マスを進めるには、相手ポケモンをバトルで倒す必要があるのですが、このバトル部分がルーレットによって出す技が決定され、その結果で如何が決まります

まあ、チュートリアルやってみてください、タダだし。

「で、何が面白いの?」

魅力その一「フィギュアになったポケモンが格好良い」

コマスター世界では、ポケモンフィギュアになっています

ライブラリモードで、自分が所有するフィギュアは180度回転させて眺めることができるのですが、このフィギュアが超絶格好良いのです。

特にレアリティEX以上のものは、背景の演出エフェクトや土台の形などが相まって、唯一無二、ポケモンコマスターでこそ生えるポケモンの魅力を演出していると思います

他のゲーム比較してしまますが、

本編ゲームモデリングも当然良いのですが、さすがに800匹近いポケモンの全ての待機モーションを凝れるわけではないですし、技モーションなどもあるため、図鑑などで眺められるモデリングは「決めポーズ」ではないですよね。

その点、コマスターフィギュアは「決めポーズ」で固定されているため、悪く言えば技などの演出がなくて寂しいですが、よく言えば常に格好良いそれぞれに会った格好良い一瞬を切り取っているのです。

この「切り取られた決めポーズ」という概念は、一種ポケモンカードの絵柄やガオレーディスクの絵柄にも通ずる部分がありますね。

そういうのをコレクションするのが好きな人は、是非コマスタープレイしてみましょう。

所有していないフィギュアも、対戦相手CPUが使っているのを見ると、回転はさせられないものライブラリモードで閲覧できるので是非見てください。

ちなみに、僕のオススメは「ゲッコウガ」「ゾロアーク」「ドンカラス」です!

魅力その二「デッキ構築とプレイングで、運を手繰り寄せるバランス

まず、自分はレート3100〜2900を行ったり来たりしているレベルで、これは決してトッププレイヤーというわけではありません。(むしろ、まだまだようやく初心者卒業あたりでしょうか?)

そのため、コマスターというゲームの浅瀬でぱちゃぱちゃ遊んでいる程度の浅い理解で、よりコマスター理解している人に言わせれば違う見解があると思います

ということを踏まえた上で聞いて欲しいのですが、

このゲーム醍醐味ルーレットバトルの確率を把握した上で、その勝敗での「定量しづらいリターン」を求める部分にあります

たんに相手を殴っていれば勝てるというゲームではなく、局所的なバトルの勝ち負けでどのようなリターンがあるかを考えた上で戦うってのが楽しいんです。

このバトルは負けて良いバトルなのか、勝ったときのリターンはどれほどなのか? それを考えながらプレイするというのは、なかなかにオリジナリティがあるゲーム性になっていると思います

僕の好きなコマニャヒートがいるのですが、このポケモンは紫星3で相手自分位置を入れ替える技を持っています

このコマの何が良いって、絶体絶命のピンチで次のターンに詰むようなシチュエーションでも、相手ゴールキーパーと入れ替われば勝てる状況なら、一発逆転が狙えるところなんですよ。

局所的なバトルの勝ち負けよりも、ゲーム勝敗というあまりにも大きなリターンをもたらす最高に大好きなコマなのです!

(まあ、一般的採用率はしったこっちゃないですけど)

局所的なルーレットによる勝ち負け」だけが全てじゃなく、それによって得られる、相手の陣地を攻めるというリターンをどう自分の中で価値判断するのか? というゲームバランスは、個人的には割と成立していて、楽しいように思えています


基本無料とか言いながら、お金かかるんでしょ? ご理解ください?」

そうですね。

このゲームも数多くの基本無料ゲームと同じように、強くなろうと、上を目指そうとすると、パッケージゲームソフト何本分ものお金必要になります

つのデッキを組んだとしても、一年も経てばインフレの波に飲まれて消えていきます

一年ぐらい前に猛威を振るったデオキシスデッキは、いくた下方修正がされたとはいえ、今やもう…… です。

スピードフォルムは圧迫デッキの要として環境にいますけどね)

また、ガチャの目玉として大々的に宣伝されるも、特に結果を残すことなく消えていったコマもたくさんいます

そんな割と厳しい感じではありますが「月額1500円」と割り切ると、そこそこ楽しめます

というのも、だいたい月中ぐらいに、課金石80%オフセールをやるんですよ。

そこで1500円分課金すると、1200個分ぐらいの課金石が買えます

これで10連を二回分の1000個と、プレートの購入や倉庫拡張イベント時のスタミナ回復ルートボックス破りに残りの200個を当てるって感じでも、そこそこ楽しめます

10連では、EXという主力級のレアリティが確定で引けます

さらにその上の、メガシンカフォルムチェンジといった切り札級のレアリティUXを引くのは中々難しいのですが、

UXは、UXばかりのポケモンを揃えないと意味がないウルトラビーストデッキや、進化元やフォルムチェンジ元のEX必須メガシンカポケモンなどが多いため、最初コマが揃わないうちはあまり気にしなくていいです。

UXを集めたウルトラビーストデッキはさすがに強いのですが、正直自分がいるレート帯だと滅多にマッチングしないため、未だに強さがピンときてないんですよね、テッカグヤフェローチェ発射するやつとか、ほんとに先週初めて食らって「初見殺しされた!」となったぐらいで)

このゲームガチャ副産物であるマテリアルを貯めると、好きなコマを入手することができます

EXなら4000個、UXなら5000個です。(EXは一部例外がありますシェイムレシラムゼクロムデオキシスカビゴンは3000個)

ログインボーナスデイリーボーナスでもらえる単発ガチャチケ課金石で引いても貰えるため、割とハイペースでたまります

さらに、日々リーグマッチをすると、ポケモンコマが入ったタイムトレボやキートレボといったルートボックスをもらえます

こちからも、高レアリティコマは入手できる可能性があるため、割と重宝します。













嘘です。

ぜーんぶ嘘です。

なんやこのルーレットの引き具合は……

はああああああ、もういいわ

攻撃力で競い合うスタンパなんかを組むのが失敗だわ

圧迫最高!

圧迫で対話拒否や!

まあ、デオSもコケコも入ってない似非圧迫やけどな!!!

ロトムゾロアークゾロアニャヒートコソクムシメガゲンガー

かいう、似非似非圧迫やで!

はいはいわかってますよ、デオSがいない圧迫とかコンセプトからして意味がないっていうんでしょ?

わかってるわかってる。

わかってるけど、俺の目標あくタイプポケモンコマを眺めることにあるから、好きじゃないポケモンガチャを回す気力もマテリアル交換する気概もないんだよ。

まあ、それで、チームマッチで勝てなくて色違いブラッキーが手に入らないんじゃ意味ねえけどな!!!

つうか、耀トレボ自体がでねえんだよ!

トレボわるのにダイヤ使うのやだよお……

このダイヤは大好きなあくポケたちガチャるためのお金なんだよお……

はあああああああああああああああああああ

ほんま、いやなるわ、金金金金金金金金。

世の中銭や! わいは銭や! プロゴルファー銭や!

はい! じゃんがじゃんがじゃんがじゃんがじゃんがじゃんがじゃんがじゃんがじゃんがー

2018-06-01

迷惑をかけたから辞任」と誰かが辞任したらしいけど、迷惑掛けなかったらそれが人として許し難いことであっても辞任しないのかよ。「気に触ったのなら謝ります」→相手が気に触わらななければ、お前は自分価値判断基準に照らして道義に反することをしても謝罪しないのかよってのと似てる。

2018-05-27

tさんのこと

低能先生はAはBだよねに対してAがBとはかぎらないだろ、なぜならこうだからだぞ、低能など割とまともに返してくるのにこっちではAはBだとおまえは思わないのかに対してみんなに聞け「おまえの基準ではな」と主張も理由もないお返事しか来ない

そうだね。もちろん意図的にやってるけど。

なぜそうなるかと言うと、自分で答え書いちゃってる。「AはBだよね」じゃなくて「AはBだとおまえは思わないのか」って聞き方をしてくるから

tさんは「あなた価値判断」を「私に同意を求める」ように質問をしてるんだよ。なんだ自覚有るんじゃん。

そんなんこちらとしては、最初からtさん結論が固まっててそっちに誘導しようという意図が透けて見えすぎてるから相手にしないよって対処するに決まってるわけでね。

なんかその意図がバレてないと思ってしつこく同じこと言って自分が望む言葉を言わせよう言わせようと絡んでくるのが見ててアホらしかったです。

ある意味低能先生は優しいというかとても素直というか優しい人なんでしょう。でも私は悪意があるやつにまで親切にはできない。

必死にこっちから言質取ろうとしてるのがミエミエの人に真面目に付き合うわけ無い。

から私序盤からあなたに対しては不誠実に接するよって言ってたのに……何のことを言われてるのか全然わかってなかったんですね。


というか、このつぶやきでほぼ確信したけどtさん普段増田に生息してる人よね。

やたら唐突に「誠実」って言葉にこだわってた当たりからしても、今までも私にちょっかい出してた増田可能性すらある。

増田で何回かやたらとこの言葉に突っかかってる増田たから。

途中から自己完結激しいなと思って無視してたけど陸に上がってきたのかな。

もちろん追求してもしらばっくれるだけだし対して興味ないからそれはいいや。

結局最後までブログやる勇気が出なかったみたいだから、また増田に潜って文句かくんでしょ。

というか、増田でやってるのに、一度も目立ってはてブを取れず、自分がやってもはてブお気に入られをもらえないというのは尋常じゃない。

本人はさぞ自分が賢いと思ってるのだろうけど実際は周りと感覚がずれてて周りから変なやつ扱いされてるってことを理解したほうがいいよ。

2018-05-11

anond:20180511093114

増田のに似た、アドバイス罪という、某イラストレーターが言ってる概念があります

俺はその概念めっちゃ共感していて、別に押し付けられたとは思っていない

から、主張すること自体自由なのだと思う

それを相手に向かって言うベクトルが含まれると(求められてない限り)あかんでいいのでしょう

自分価値判断としてそれを着々と実行する分には何ら問題ないのでは

2018-04-09

トロッコ問題解決

たまに自動運転がらみで「トロッコ問題解決できないのに自動運転なんてまだ早い」っていう人がいるんだけど、「トロッコ問題解決」って何なんだ?

あれは人間価値判断ジレンマあぶりだす問題設定なわけで、解決できたらジレンマとして成立してないんだから問題設定のほうが間違っていることになるのだが。

2018-04-04

上野千鶴子へのバッシングちょい気持ち悪い

上野千鶴子の少し前の本なのにもかかわらず今さらちょっと炎上しているやつ、なんか見ていて辛い。

ツイッター発言をそのまま引用するけど、

古市くん、社会学を学び直しなさい!という新書を読んでるんだけど、上野千鶴子が「自分に不利なエビデンスはもちろん隠す。それが悪いことだと思ったことはありません。」と述べていてマジ仰天。

これね。

この発言に対して当然のごとくやれ「研究者の風上にもおけん」とかやれ「こんなの活動家じゃねえか」みたいな発言散見されるし、それを持ってフェミニズム全体をバカにする発言もなされている。まあ、いつもの光景だ。

いやまあ当然その誹りを上野は引き受けなくちゃいけないとは思うんだけどさ、それでも、なんていうかあまりにも学校先生的に現代の「アカデミック」というのを価値観の頂点においた一方的マウンティングなんじゃないかと思えて、ちょっと気持ち悪い。

そりゃ学校先生は「学校に登校するべきだ」と言うわけだけれども、それは学校という規範の中でしか通用しないわけで、その「学校行くべき」というお叱りは学校の中でしか通用しない。

白河の 清きに魚も 住みかねて」じゃないけど、社会科学として事実と向き合って誠実に着実に知見を出して行くなんていうのは一個の価値観しかなくて、社会と向き合うっていう側面を大事にして価値判断微妙に結びついたり結びつかなかったりしながら語って行くっていう人がいてもいいんじゃないの(*)?

フェミニズム及びジェンダータディが社会運動の側面を持って入るのも紛れもない事実だし、現代社会はその社会運動の成果によって支えられて入る部分もあるんじゃないのかなと。社会科学が、その性質上その側面を切り捨てることの方が欺瞞だと思うけれど。

偶々今のアカデミックが「エビデンス」とやらを重視するという機運が高まっているだけで、上野活躍した時代に「エビデンスがー」とか言っていていても「目の前の不正義を看過するんですか?」って言われておしまいでしょう。

「こんなの学問じゃない!!」ってムキにならなくてもいいんじゃないのかね。

* もちろんその場合、「この価値判断は正しいか?」というのが学問的な精査の対象になる

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