はてなキーワード: アフリカとは
http://anond.hatelabo.jp/20131203122311
海は陸地よりも大きいのでは?という心配だが、本当の海と陸地ならそのとおりだが、富と貧困に関して言えば、富が過去数千年の間に増え続けているのに対し、貧困は減り続けており、現在もこの傾向はますます顕著になっているので、ほぼ心配はないといっていいと思う。
あなたは富める者の自己犠牲によってい貧しい者を救うというイメージを持っているよね。自己犠牲の結果富が薄まって薄まりすぎてみんなが不幸になるじゃん?みたいな。
もちろん自己犠牲行為も寄付、ボランティア、ODA、各種NGOやNPOという形で存在するんだけど、それは貧困撲滅のごく一部の手段に過ぎず、大部分は「投資」という手段でもって世界の貧困は減少しつづけている。
貧困フロンティアは農業、医療、産業、社会の発展により有史以来一貫して後退を続けているが、特に産業革命以降の欧米で貨幣経済が発達したことによりそのスピードが飛躍的にアップした。多額の投資マネーは瞬く間に欧米から貧困を駆逐し、中産階級が形成された。
途中、投資活動の副作用として帝国主義による二度の大戦という悲劇を経験したがそれでも勢いは衰えず、欧米と同じことが続けて日本で起こり、さらには日本以外の東アジア、インド、ロシア、南米、東南アジア・・・・と、かなり乱暴かつ駆け足でまとめではあるが、おおむねこんな感じの順番で、貧困フロンティアが後退した。
貧困フロンティアが後退するところというのは例外なく猛烈な勢いで多額の投資マネーが流れ込んでいるところだね。
あなたもそうかもしれないが、自己犠牲による弱者救済こそ是とする風潮というのは少なからず世の中には存在していて、そのような人からみるとこのような話は面白くないかもしれない。
投資を媒介とした貧困の減少というのは「富める者が自分の富をもっと増やしたい」といういわば我欲がモチベーションになってるからね。
ともすれば汚いとか真の貧困層は救われないとか批判を受けがちだ。
でもそんなことはない。
もちろん、途上国の人間がすべて同時に貧困を脱出できるわけじゃなく、特権階級だったり、有能だったり、ずるかったりする奴らが先に豊かになることは避けられない。プロセスは決して平等でもないし人道的でもないんだが、それでもその先には必ず貧困層が中産階級へとランクアップするという現象が待っている。
なぜなら中産階級が分厚くなったほうが金持ちにとっても都合がいいからだ。中産階級が増えることは、自分の会社の商品を買える人間が増える(市場が拡大する)ということだし、金を持てばそれを失いたくないので犯罪は減り治安がよくなる。差別もマイノリティの問題も富めるものにとってはリスク要因でしかないので、差別に反対しマイノリティの人権を保護する社会を志向するようになる。我欲といってしまえばそれまでだが、豊かになった結果心に余裕がうまれ「みんなで仲良くやろーぜ」という気持ちがうまれた思えば悪いことではない。
親にとっても子どもは稼ぎ手ではなくなるので少子化が進むが、子の幸せな将来のために教育に金をかけるのでそこにも市場が生まれるし、そうやって教育を施された子どもたちがその国をさらに豊かにしていき、やがては次の貧困フロンティアに投資するようになる(念の為に言っておくと給料を銀行に預金するだけでも間接的に投資していることになるからね)。
今、目下の貧困フロンティアはアジアからアフリカへ移っている最中で、中国がアフリカに積極的に投資しているのも、上の話があるとすんなり腑に落ちるんじゃないかと思う。ただし中東は宗教とオイルマネーの問題、アフリカはそもそも投資を受け入れるだけの社会制度が整っておらず部族や宗教の対立も激しくて苦戦している。日本で売買できる投資信託でも中東、アフリカに関するものは限られている。まだまだ一般には投資不適格というわけだね。アフリカが貨幣経済ベースに乗るまでは、ボランティアベースの支援活動が大きな役割を果たさざるを得ないだろう(余談だが俺はそのような考えから国境なき医師団に毎月自動寄付をしている)。
それに先進国だって、少子化とか労働需要の海外移転による失業問題とか格差とか高齢化による社会保障費の増大とか問題がないわけではない。
このような問題はあれど、長期的かつ全般的にみれば世界は「みんなが幸せ」の方向に向かって進んでいるよ。今の日本に住んでいるととてもそうは思えないが(笑)これは間違いのないことだ。
大事なのは世界の富の総量は一定でもゼロサムでもなく増え続けてるってこと。貨幣経済が破綻してしまうとこの限りではないかもしれないが、少なくともあなたが心配するように「豊かなものが貧しい物へ分配することでみんなが不幸になる」なんてことはないから安心していい。
アフリカの子ども達より自分の家族や子どもが大事なのは人間の本能。
人間の本能に反することをやろうとしても、どうせ長続きしない。
無理しない範囲で募金とかしてればいい、と思ってる。
地球上のすべての土地を削り取って海に投げ込むと陸地は無くなって海だけになるという。つまり山の総量よりも海の深さの総計(海の容量)の方が大きいということだ。
一つの例え話なのでこれが事実であるかはどちらでもいい(たぶん事実だけど)。
もしくは以下のような仮定をしてみる。。
予算に限りのあるNPO、例えば貧しい人に食料を配布するNPOだとしよう。そのNPOが一部の人だけに支援をするのは不適切だからと支援の対象者を世界の全員に広げたら支援は一食分にも満たずに結局は一人も救えないことになる。一人ひとりには取るに足りない金額でもかき集めれば何かを成し得るという募金の考え方の真逆になってしまう。
世界は少しずつ改善されており、建前と現実に食い違いはあるものの着実に民族や宗教、性別やジェンダーでの差別を減らす方向に向かっている。
奴隷はいなくなり、軍人ですらも拷問されない権利があり、病気や障害などで働けない人、そもそも働く気のないような人ですらも生きることは保障されていたりもする。
今では子供向けギャグマンガでうっかり男の子同士がキスしちゃったりしたときに「オエー!気持ち悪い!」なんて言っている描写を見ると、同性愛者の人は気分を害していないだろうか?なんて余計な心配をしてしまうぐらいに世界は「配慮」に満ち溢れている。
もちろん国や地域や社会階層などで進行・浸透の度合いは違うけれど、少なくとも日本の属する西側先進国の間ではあらゆるマイノリティに対しての配慮を進め、平等な社会を実現することを目標としているように見える。
貧困や差別は無い方がいいに決まってる。貧困にまつわる問題を解決するためには貧困層以外の全員がなんらかの負担をしなければならない。それはある程度は税金と言う形で実現されている。
差別をなくすためにも何らかの負担は必要だ。上に挙げた例のようにゲイやオカマ、デブ、ハゲ、チビに嫌な思いをさせないためには程度の低いジョークを止める程度の負担で済む。もっと根深い差別に対しても同様で、差別される側が深く傷つく代わりに、差別していた側が広く浅く少しだけ何かの負担をすればいい。それは金銭的、精神的な負担だったりもしくは歴史的背景を学ぶことだったりといろいろな事が必要だとは思うけれどつまりはマイノリティが抱え込まされている負の財産を大勢でちょっとずつ負担するという募金のような考え方になるんじゃないかと思っている。
2012年ごろに月刊アフタヌーンで連載していた「勇者ヴォグ・ランバ」という漫画で以下のようなセリフがあった。正確には覚えてないので印象に残った部分の要約みたいになってしまうがこんな感じだ。
「世界から奴隷がいなくなったので今まで奴隷がやっていたような労働を一般の人が少しずつやるようになった。世界から戦争を無くしたいならば一般の人を含めた全員が今まで軍人がやっていたような作業をやらなければならない。」
続きで語られる具体的な部分は覚えていないが、つまりは戦争を無くすという大きな変革を成し遂げるためには全員がそれなりの負担をする(主人公は為政者側なので「負担をさせる」が正しいが)覚悟が必要。覚悟も無しにきれいごとを言っても意味が無い。という会話だったと思う。
誤解の無いように書いておくと、ここで言う「軍人がやっていたような作業」とは人を殺して回ることなどではなく、もっと精神的な部分だったと思う。この辺で揚げ足を取られるのは本意ではないので意図を汲んでいただけると幸いです。
現実に話を戻すと、少人数の重病の人の治療費をみんなの保険でカバーすることは可能だと思う。日本の人口の2%程度に生活保護を支給するのもまだ大丈夫だろう。でもこれは日本と言う裕福度の平均値が高い閉じた社会だから可能なだけであって、先の二例だけであってもこれを世界中に広げることは不可能だ。
全ての先進国が食事の選択肢を減らし、贅沢をしないように、残飯が出ないように、とがんばればアフリカで飢えてる人を全員救ってもまだ余るらしい。じゃあやりますか?「それ(アフリカ)とこれ(先進国)は別」というのが現在出ている答え。これについては特にコメントしない。
食料やお金なら多少は分けてあげてもいいという人もいるかもしれない。じゃあ平和を少し分けてあげることはできますか?過度な貧困地域や犯罪多発地域を無くすために世界で広く貧困と犯罪を引き受けてあげますか?
(貧困が減れば犯罪も減るかも知れないので、それらの総量は常に一定ではないかもしれないけどここでは無視する)
今は世界の都会でもいわゆる危険なエリアに行かなければそこそこ安全だけれども、広く薄く貧困と犯罪を引き受けるというのは、全員が常にそこそこの犯罪リスクにさらされながら生きるという事になるのではないかと思ってしまう。全員が「負担」として十分な警戒心と自己防衛の知識と技術を持たなければならなくなるのではないだろうか。
先進国の豊かな暮らしは、貧困や犯罪や差別や不衛生やその他の負の財産を途上国やマイノリティに負担してもらう事でなりたっている。
みんなの理解や努力で負の財産自体を減らしたり消滅させたりすることが可能な部分もあるとは思う。
全ての人を救おうとした結果に待っているのはすべての人の不幸なんじゃないだろうか。
おれの考え方がおかしいのかもしれない。みんなこの辺にどう整合性を付けているか気になる。
トラバにあるように、まずは自分の生活が大事。遠くの誰かより身近なペットが心配。というのは理解できるし自分もたぶんそういう人間だと思う。
しかし目が届きにくいからと言って遠くの問題から目をそらすのは人間としてあまり程度の高くない行いにも思える。100年前ならいざ知らず今はインターネットやマスメディアなどで多くの情報を得られ、一般人でもその気になれば世界のほぼどこにでも行ける時代だ。なのに「遠くの事は知りません」という態度が(個人としてではなく社会として)正しいのかはわからない。
じゃあ何をどこまですればいい?そもそも今のまま差別や不公平をなくして行けば良くなるのか?もしかして良くしてるつもりがみんなで袋小路に突き進んでるのではないのか?と疑問がつきない。というのが現状。
トラバもブコメもあんまりついてないのに追記ばかりしてもしょうがないのだけれど、どうも意図がうまく伝えられてないようなので書き足す。
身近 VS 遠く という軸も気になる部分の一つではあるのだけどそれが主題ではないのです。
社会は確実に「遠くの知らない誰か」や「昔なら無視していいと考えられていたマイノリティ」に配慮する方向に向かっています。だからと言って身近な人やマジョリティに死ねとかは誰も言っていない。全員が幸せになるために、現状不幸せな人が幸せラインに立てる方策を模索しているわけですよね。
だけど「全員が幸せ」っていうのは実現可能なのか?それは「全員が少し不幸せ」になるのではないか?と言っているのです。
10の人、5の人、マイナス10の人、いろいろいると思います。(誰がどういう基準で判断するのかは置いといてください。定量化が目的ではなく、ただの表現ですから)
全員の幸せを目指した時にせめて3とか4で落ち着けばいいけれど、結局全員がマイナス7とかになるんだとしたら悲しい結末ですよね。会社で言うならば使えない社員やアルバイトにも平均的正社員と同じ待遇を与え、障害者雇用も推し進めてたら潰れてしまったということになるんじゃないの?差別や不平等は無くした方がいいとは思いながらも、差別や不平等があるからこそ今の生活があるのだとしたら、差別や不平等を無くさない方がいいんじゃないのか?でもそれは被差別者の人権を考えるともうありえない選択肢になっている。つまり社会は沈没に向かっているということになるのではないか?
というのがメインテーマです。
いろいろ意見をいただけてうれしいです。今後も考える材料にしたいと思います。より有益な意見をもらえるように以下に気になったコメント等に返事します。これ以降、コメント等への返事については「追記」とか区切らずに追記しちゃいます。
そもそも幸せかどうかって以前に命が保証されてない生活を送っている層もあるわけで、食料や医療の問題と、差別やマイノリティの問題を同じステージで考えるのは無理があると思うよ
だけども、基本的には同じだと思っています。
命が保障されていない人たちを救うために自分たちの命の保証度を引き下げる事をどう考えるか?
差別されている人を差別から自由にするために自分たちの自由が減ることをどう考えるか?
一個一個を見ると「やるべき」に思えるけど、それらをすべて推し進めた先には暗い未来が待ってる気がする。結局は誰かを犠牲にしないと生きていけないのか?という疑問です。
歴史上、農耕社会成立以降に被搾取者や非差別者がいなかった事はありません。彼らの犠牲なしに人間は社会を維持できるのか?犠牲のない社会とはどんな社会なのか?そこに自分は暮したいのか?今の暮らしを維持するために誰かを犠牲にし続けるのか?結局は「遠くの被差別者よりも身の回りが大事だから」と言って物質的精神的搾取を続けるのか?わからないことだらけで困っています。
わかりやすい説明をありがとうございます。
富の問題に関しては少なくとも良い方向に向かってるんですね。なんか安心。
たしかに院卒であることが必須だったりするような世界では、趣味とはいえないかもね。医者になるには医学部必須みたいに、好き嫌いに関わらず、その方面に進むためには通らざるを得ない道という意味では。
でも、その他の世界、つまり院卒であることが必須ではない世界の方が圧倒的に多数派でしょ。院なんかだと、わざわざアフリカみたいな辺境に行ってフィールドワークとかしたりするけど、ただ単にそういうのが面白そうだからやるだけで、別にそれが将来の職能のために必須だからやってるわけじゃない。だとすると趣味っていってもいいんじゃない?
別に趣味だからといって悪いっていってるわけじゃないし、修論書きあげたってだけで、がんばったんだな~って思うよ。でも結局趣味系の「○○検定」の1級もってます!ってのと同じようなもんじゃないかってのはいつも思うね。
「空気」から外れた行動をすると、その行動はおろか、人格や経歴、それまでの人生や所属する団体まで貶められる。
どうしてそんなに堅苦しい考えを持っているのか、不思議に思ってきた。
そして、今回、その正体をつかんだ。
具体的には幼年期から思春期にかけて「空気を読むために自分を殺す」という虐待を受けた形跡がみられる。
これはれっきとした虐待で、性的な虐待や家庭内暴力と同じものである。
親から虐待を受けた子供が、やがて大人になり親になると、自分の子供を虐待してしまう現象が知られている。
同じように、自分が理不尽に「空気」に押しつぶされた記憶が、「空気を読まない人」に嫉妬と羨望を持って、攻撃性をかきたてるのだ。
日本社会全体に蔓延するために見逃されているが、これはアフリカの女性器切除のようにグロテスクな風習だ。
女性器を切除して一人前、「空気」が読めるようになって一人前。
本人は至って誇らしげで、それをしない人を半人前と見なしさえするが、
その宗教に属さない人から見て、顔を背けたくなるようなグロテスクな風習だ。
日向清人さんという英語教師がいます。NHKビジネス英会話の講師も勤め、著書もあり、慶応大学で英語を教えているという経歴的には申し分ない御仁です。
その彼がしきりに主張するのがワイングラスの持ち方。
日本では柄の部分を持つべきだという風潮が強いが、国際的にはボウルの部分を持つ人々が多いし、それがマナーだというのが骨子。
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2013/06/post_55.html
http://web.archive.org/web/20091117060438/http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2009/11/post_55.html
オバマ、ブッシュ、ベルルスコーニなどセレブの写真を引っ張りだしてきて説得力を与えています。
感化された記事も多数
http://matome.naver.jp/odai/2137486003334108301
http://www.nomooo.jp/blog/?p=16119
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1237071067
ウィキペディアまで
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%B9
アサヒビールに至っては記事を修正している
http://web.archive.org/web/20090710001236/http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/wine/know/manner/09.html
http://www.asahibeer.co.jp/enjoy/wine/know/manner/09.html
しかし英語で"how to hold a wine glass(ワイングラスの持ち方)"とググれば明らかなように
https://www.google.com/webhp?hl=en#hl=en&q=how+to+hold+a+wine+glass&safe=off
正式には柄の部分を持つという主張が英語圏では普通に見られます。
日向センセーの記事に紹介された人物たちの中にも、「不適当に」ワイングラスを持っている例はたやすく見つかります。
ジョージ・クルーニー: http://jp.reuters.com/article/idJPTYE87R01020120828
エリザベス女王: http://www.telegraph.co.uk/news/features/3637378/State-Banquet-a-feast-for-all-of-the-senses.html
バチェレ(元?)チリ大統領: http://www.thepresidency.tt/events_and_ceremonies.php?mid=179&eid=585
ミシェル・オバマ: http://www.michellesmirror.com/2013_06_16_archive.html#.UpFmjCfRLHs
キャサリン英王妃: http://www.businessinsider.com/royal-baby-kate-middleton-and-prince-william-photos-2013-7
フアン・カルロススペイン国王: http://www.que.es/mejor/2009/fotos/rey-juan-carlos-cumple-anos/20100105/55445-juan-carlos-inauguracion-ciudad-del.html
ここで普通の知性ある人間だったらどのような結論を導き出すべきなのでしょうか?
「柄の部分を握るのがワイングラスの正式な持ち方だけどボウルで保持するのはマナー違反じゃないし楽しく飲もうよ」
ぐらいな論調に落ち着くんじゃないでしょうか。
「シャンパングラスであれワイングラスであれ、立っていようと座っていようと、ともかく、グラスはカップ状の本体部分を持つのが当たり前です」
「国賓を招いての晩餐会という、外交儀礼上、最も格式の高い場での元首たちの振る舞いからわかるとおり、カップ状の本体部分を自然に持つのが実は正統派であり、ステムを持ったりする方が逆に異端なのです」
などという独自研究を振りまき、それを真に受けてしまったワナビー国際人が自説を披露する事によって恥をかき、日本人の国際化はちっとも進まず、グローバルでエクセレントな英語教師のメシのタネは尽きないという一連のサイクルが展開されるのは誠に香ばしい限りであります。
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2013/06/post_55.html
安部首相・金正日・ガーナのクフォー大統領を「ステム持ち」として欧米セレブの「カップ持ち」に対比させているのは味わい深いです。
「ステムホルダーが主流というわが国はアフリカの流れを汲んでいるのかも」
などというコメントは未開人の暗喩に富んでおり、「バナナ」たる帰国子女の面目躍如といえましょう。
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2010/11/post_764.html
「呪文を日に5回の祈祷の度に唱えるとなれば,一種洗脳されることでしょう。神には絶対服従だと。事実、islamのアラビア語の原義はsubmissionと説かれますし、Karen Armstrong というこの分野の権威に言わせると、islam = surrender だそうです。そこに宗教指導者たちが神はアメリカが悪いと言っているなどと刷り込めば、こりゃ自爆テロでも何でもやるだろうなと感じます」
という事になるそうですが、ここで日向先生が引き合いに出しているカレン・アームストロングは専門が比較宗教学であり、
「どうして爆弾テロやハイジャックといった無垢の市民の殺戮が(起こるのか)?イスラムの是認するところとは大きく異なり、こうした殺人はイスラムの最も神聖な教えに反しています」
http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,175987,00.html
と断言しています。イスラム=降伏なんていうのは彼女の自説でもなんでもないし、かの宗教と暴力の結びつきを強調したいのなら山ほどネタは見つかるはずですが、日向先生ともなれば独創的な読解力の持ち主なのでしょう。英語話者に通じるかどうかは私も存じませんが・・・。
shall と will の使い分けなんてのも日向先生は得意なようです。
「契約書の場合は、本当ならSHALLはhave a duty toという意味のときだけ使うべきなのでしょうが、実際は細かく使い分けずに終わっています。例えば、私が法律事務所で翻訳をやっていた時代は、契約書の英訳はひとまずすべてSHALLを使ってしあげたものです(従って実に楽です)。その次のステップで、弁護士の中には自分のクライエントが関わる義務規定についてはSHALLをWILLに直したりする人もいましたが、たいていはそのまますべてがSHALLという形で使われていたとおぼえています。なおWILLを使ったからと言って規範的な意味合い、つまり「何々すべし」という意味あいは変わらず、単に語感として相対的に弱い感じがするという程度の話でしょう」
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2005/05/shallwill.html
"Did you know that "shall" is the most misused word in all of legal language?"
"Some suggest that lawyers are incapable of using "shall" correctly, so we ought to banish it entirely"
http://www.utexas.edu/law/faculty/wschiess/legalwriting/2005/05/shall-vs-will.html
などとほざいてますが、栄えある慶応義塾大学のスーパー講師である日向先生の言うことに耳を傾けた方が吉かもしれませんね(棒読み)
おまけ レディガガ(笑)
http://greatwinenews.com/lady-gagas-favorite-wines-revealed/
まず最初に断わっておくと自分は、どうでしょうの大ファンです。
多くの人の目に触れるように、タイトルは少し大げさに付けました。
タイトルを観ただけで気分を悪くした人がいれば、本当に申し訳ないです。
また、地方によって放送開始日にバラつきがありますが、最新作のネタバレが文中に
入っていることも予めお断りしておきます。(私は現在第7夜まで視聴済)
× × ×
現在、最新作の『アフリカ』が全国で順次放映中ですが、観ていても
「この4人が揃って旅をしているのが見られるだけで充分嬉しいんだけど、やっぱりなんか違うんだよなあ」
と、私は思ってしまうわけです。この違和感は、前作『原付日本列島制覇』から続いているものです。
その違和感の正体を自分なりに考え、予測を交えいくつかの項目にまとめてみました。
× × ×
①【企画を引き延ばし過ぎている】
最も大きな原因はコレかな?
前回の『原付日本列島制覇』から顕著になっている傾向ですが、番組の人気(加えて大泉洋の人気)が
飛躍的に高まったおかげでしょうか、一つの企画の放送回数が大幅に増え、ファンとしては長い時間
どうでしょう班の活躍が見られることは嬉しい一方で、結果的には一回一回の放送の中身が
レギュラー放映終了後の企画を順に追っていくと
2005『西表』全8回
2007『ヨーロッパ完全制覇』全9回
2013『アフリカ』全14回予定
となります。
レギュラー放映時に長丁場とされていた『対決列島』が全10回。
レギュラー最後の企画『原付ラストラン』が全8回(放映回数は全7回だが最終回が1時間枠)
と考えると、前作と新作が、いわゆる「取れ高」を引き延ばして作っている企画であることが伺えます。
逆に考えれば、例えば今回の企画の回数が半分の全7回であれば、これまで放送したシーンの内の
半分はカットされ、もっと笑いが凝縮された作りになっているはずなのです。
大泉さんのエッセイネタの繰り返しも、冗長なサバンナの動物のカットも、半分ぐらいの時間でちょうど良いのでは?
②【出演者が無茶をしなくなった】
二つ目の原因はこれでしょう。
テレビの業界事情に私は全く詳しくありませんが、全国区の俳優となり、過密スケジュールの大泉さんが
万が一どうでしょうのロケで怪我をし、仕事を休業せざるを得なくなった場合。あるいはそれ以上の
大怪我を負った場合に関係者に与える影響がとてつもなく大きい、と言うことは想像に難くありません。
そんな中での今回の『アフリカ』です。
最初、旅の行先がアフリカだと知った時、多くのどうでしょうファンは色めきたったことでしょう。
「ついにどうでしょう班が長年、未開の地として挙げていたアフリカに!」
「これはブンブンやベトナムを越える危険が降りかかるかもしれない!」
私も思いました。
しかし、実際今のところの放送内容を見ている限り、番組史上最高レベルと言っても良いほど
サバンナの動物たちを、安全な車の中から見渡すだけの旅。食うものにも何一つ困らない旅。
次々と映し出されるサバンナの動物たちは確かに生で見れば見応えがあるのかもしれません。
どうでしょう班が興奮する姿には実感が籠っていることは理解出来ます。
しかし、その映像って視聴者が本当に水曜どうでしょうに求めている大事な要素なのでしょうか?
キー局でお笑いタレントや人気俳優が出演する、ありきたりな○○アフリカ紀行と何が違うのでしょうか?
『ジャングルリベンジ』で剝き出しの軽トラの荷台に乗って野生のヒョウを観に行ったこと。
『ユーコン』で、いつクマに襲われてもおかしくない状況でテントに毎晩寝泊りしていたこと
『ラストラン』で異常な数のカブ渋滞を潜り抜け、事故車が横たわる悪路を走っていること。
それらを知った上で最新作を観ているのです。
パワーダウンした感は否めません。
また、これは身体的な危険に限った話ではありません。
なども含む、「出演者が嫌がっているのに企画に抗えないシーン」の欠如が前作・最新作には著しいのです。
もしも、人が苦しんでいる姿を見て笑うなんて、と言う否定をする人がいるならば、それは過去の
どうでしょうの企画の大半、この番組の根幹の部分を否定することになるでしょう。
③【旅の目的が無い】
例えば、過去の海外企画でも『中南米コスタリカ』は、身体への危険が起こる可能性はほとんど無い
企画でしたが、そこには「幻の鳥、ケツァールを写真に収める」と言う実際に高難度の目的があり、
そのゲーム性のおかげで、視聴者は最後まで緊張感を持って楽しむことが出来たのではないでしょうか?
(とは言え、この企画の一番の楽しさは制作陣が予期していなかったであろうバズーカの功績が
大きかったことは言うまでもありませんが)
では、今回の旅の目的は何でしょうか?
それともどうでしょう班が初めてアフリカに行く、と言う事ですでに目的は達成されるているのでしょうか?
アフリカと言うセンセーショナルなイメージを与える場をロケ地に選んでおいて
冒頭で藤村Dが言っていた
「アフリカに着いてからの流れはムゼーにすべて任せている」と言う趣旨の言葉は恐らく真実でしょう。
そのノープラン至上主義のスタンスはどうでしょうらしいのですが、いかんせん企画の骨子の部分すら無く
それを14週持たせるのは、いくらなんでも無謀すぎたんじゃないかなあと感じてしまいます。
④【その他】
偶然的要素が強い部分ですが。
思いつくままに箇条書きで
→西表のロビンソン、ベトナムのニャンさん、アラスカのジム、ユーコンのピート。
・アクシデントが起こらない
ただこればっかりは狙って出来るものでは無いのでしょうがないですね。
・名言が出ない
→不作かなと個人的には思っている前作でも「文久三年!」などは印象に残っているのですが
最新作では、今のところ名調子が無いなあ。死の危険が迫っているとかじゃなくっても
暑いとか寒いとか眠いとか腹が減ったとか、そう言う時に大体名言が出るんですけどねえ。
× × ×
などなど、次から次へと文句ばかり書きましたが、それでもやっぱり私はどうでしょうが好きですし
一生どうでしょうするつもりです。
冒頭にも書きましたが、出演者の高齢化も進み、いつまで全員の元気な姿が見られるかも分からない中で
あの四人が揃って旅をしているだけで嬉しくて仕方が無いのです。だからこそ、昔の放送の方が良かったなんて
懐古主義には陥りたくないとも思うのです。
であれば、企画の方向性の見直しは必要なんじゃないかなあとは。
・長期の放送スケジュールに耐える企画の創出。あるいは、スケジュールの短縮。
これらを踏まえた上で、カントリーサインとかサイコロの海外版とかって駄目でしょうかね?
それか試験に出るどうでしょうの世界史版とか(安田さんのスケジュール抑えるのも大変だ)
あまりに熱狂的なファンの前では、どうでしょうって否定しずらい雰囲気があるし、頭ごなしに否定する
一部の自称お笑い好きにも辟易しているのだけど、同じように感じてくれる人がいたら嬉しいです。
「今ちょうどテレビで新しいのやってるから観て!」って、どうでしょうを知らない周りの友人に
自信を持って勧めたいんですよ。
「昨日見た!?」って周りのどうでしょう好きと言い合いたいんですよ。
ほんとそれだけです。
まかり間違って、制作陣の目にこの駄文が触れることで、何かを考えてもらえるキッカケになれば
最高なんですけどね。そりゃ無いか。
ジャニーズ山下智久とダウンタウン松本の筋トレ前と筋トレ後を見れば分かるとおり、筋トレをすると鼻が太くなる
また、顔の骨格が肥大化する為パーツが真ん中に寄る
筋トレ前は山下智久は白人にしか見えなかったのに今はただのアフリカのマサイ族にしか見えない
これは筋肉を落としても一生治らない
.
.
また筋肉はムダ毛の増加や頭髪の抜け毛、ニキビ、毛穴の広がり肌のきめの粗さ、皮脂の増加、体臭の増加を引き起こし寿命も7年縮める
筋肉の恐怖↓
イギリスの大衆紙「The Sun」に「筋トレが脱毛を促進する」という記事が出た。
「45分間の筋トレを週三回、2年以上続けると男女ともに若ハゲになる」のだとか。
記事ではテストステロンの影響にも言及しており、女性でも筋トレをすると抜け毛を引き起こすことがあるとしている。
.
↓記事はこちら(英語です)
http://www.thesun.co.uk/sol/homepage/news/article1092628.ece
これで今まで保守系学者が「筋肉はテストステロンだけが増えるのでDHTにしなければ大丈夫」とうそぶいていたものが完全に崩された
.
http://anond.hatelabo.jp/20131114111136
社会人になって金を稼ぐようになってから毎月定額を寄付している。
金額は少ないし、寄付とか社会貢献とかNGOとかの仕組みは正直よくわからない。
元増田のようなしっかりとした理論も思想も持ち合わせていない。
アフリカで病気の子どもを救ったり衛生の概念を啓蒙してる人とか
それを見て「あぁ、すごいな。立派な人がいるんだな。かっこいいな。」とずっと思っていた。
でも自分にはそれができない。技術も特技も気持ちも勇気も無いし。
そのかわりに寄付することにした。
最初は、TVで観た恵まれない子どもや、困っている人達にお金を送っていると思ってた。
思っていたというより、それ以外の考え方をしたことがなかった。
寄付するというのは、直接お金を渡したり食べ物や医療品を買って渡すことだと考えてた。
でも長く続けていくうちに考え方が変わった。
自分の寄付したお金はTVで観たボランティアの人に渡って欲しいと思っている。
ボランティアを終えて日本に返ってきたときに生活に困らないように
そんなことにめいっぱい使ってもらいたい。
※ 個人でやってる @fukuyuki とかそれに反応して募金してる馬鹿限定。国やら機関はまた別の話。
前提。
・フィリピンに腐敗していない組織などない。ぐぐれ。正義?なにそれおいしいの?
結論、募金しても
・募金なんぞしても復興に使われることは100%無い。0になるまで偉いやつから順番に抜いていくだけ。
・困っても誰か助けてくれるからフィリピンの乞食根性は変わらない。働こうとしない。
・金なくなる→たかるの無限ループから永遠に抜け出せない。悪いのは甘やかすお前らだよ。
・お前ら自己満足して完結、俺みたいにフィリピンと直接関わる人間だったり会社だったりが延々たかられる。
主です。ご教授ありがとうございます。私もそれなりに色々見聞きしたり調べたりしたのですが、出自以外の広まりについては結局のところ「よくわからない」が結論となっています。ヨーロッパでもやったりやらなかったり、アメリカのものだという認識だったりで、それがプロテスタントとカトリックの違いなのでしょうか、とにかくアングロサクソン社会でもまちまちという感じのようです。しかし日本においてはヨーロッパ、アフリカ、インドネシアからの影響では無くほぼアメリカからであると思っています。
ただ、私の主張したいのはそこではなく、だったら日本人にはもっと関係の無い行事だろう、という事。もちろん日本人にもキリスト教信者はおられますが、本当のキリスト者にしてみたら寛容に見ても目にあまる光景ではないでしょうか。いい大人が奇異な格好やもはやハロウィンに関係の無い格好、更には裸同然の格好で電車に乗って騒ぐ。クリスマスでも同じく何かと託つけて騒いでますが、もうウンザリです。無宗教だから楽しければいい、モノが売れればいい、そんな空気に耐えられません。
地元での行事が廃れた、とのことですが、それならそれでいいじゃないのでしょうか。自然淘汰されたということです。しかしだからと言ってその換わりにそれこそ「縁もゆかりも無い」ハロウィンでなんとかしよう、という発想になるのだけは避けたいと思いませんか。やる意味がありませんよ。やがて新たに地元に根付いたお祭りが作るか、何もしない。それでいいじゃないですか。それでその地元が生きるか死ぬかは地域に住むその人たち次第です。
非常に情熱的な文章だと思いました。
ハロウィンはカトリックにある「死者の月(11月に死者のための祈りを捧げるミサが行われる・日本で言えばお盆にあたるだろう)」の習慣に飲み込まれた、
宣教の時に接触した他宗教での「人ならざるオバケ」の解釈です。
アタマの堅くないところではただの教会で集まりを楽しむための「お祭りイベント」として扱われる。
そこではもう宗教的意味合いは無くなっている。しかも、宗教改革記念日であって、そっちの方がメインに予定が組まれている教会もある。
アメリカの保守的なプロテスタントもハロウィンをあまり好んでいない。
アメリカじゃなくてヨーロッパ、アフリカ、インドネシアと書けばよかったのに、とキリスト教徒が突っ込んでみました。
私もプロテスタントのうち古いところのキリスト教徒ながら神社のイベントに参加して文化維持に協力していたけど
結局そこの元締めが「やる気が無くて」「本腰入れてなくて」「協力すると口で言いながら実行しない人が多かったため」消えました。
ひとつ消えたのを見届けて以来、もう私は協力することをやめました。
日本の古くから続いてきた文化を大事にしてくれって言いながら、自分で負担したくない人が多いんじゃないですかねえ。
金銭的負担だけじゃなくて、実際に運営する負担の役は全然やろうとしないじゃないですか。
それが結論だと思いますよ。
「世界でグローバルに活躍する弊社に内定された皆様、おめでとうございます。いや、ご愁傷様でございます。
我々は、なぜ世界へ羽ばたくのか。なぜ世界へ出る必要があるのか。その答えは非常に簡単です。
日本国内には、もう、我々の仕事がないから、我々は日本国内から逃げ出さざるを得なかったのです。
日本を拠点に世界中で活躍している、そう言うと聞こえはいいでしょう。
しかし、日本で仕事がなくなった負け犬が、発展途上国の都市部に出稼ぎに出ている。それが実態なのです。
そして、その出稼ぎも、いつまで続くかは分かりません。
今、我々が仕事を受注している都市は、急速に発展し、急速に日本に近づいています。
すなわち、再び我々の仕事がなくなる日は、急速に迫って来ているのです。
たとえその国や都市で仕事がなくなっても、次は他の国、他の都市が発展し、そこでまた活躍できる。
東アジアの次は、東南アジアや南アジア、その次はアフリカと推測できます。
だんだんと、距離が遠くなっていることに。
残念ながら、民間交通用の航空機が革新的に速くなる兆候は全くありませんし、
Eメールより革新的に、時差を越えてコミュニケーションを取る方法は現れる見込みはありません。
我々が日本にいながら、アフリカで仕事ができるなんて、考えるべきではありません。
そして、世界で仕事をするにあたり、ひとつ、考えなければならないことがあります。
なぜその仕事を、日本で、日本人が、日本の給与水準で、しなければならないのか、ということです。
日本には優れた技術がたくさんあり、優れた技術者がたくさんいるから。それは、ひとつの答えでしょう。
我々のような高度な技術を持った中国企業はなく、我々のような高度な技術を持った中国人もいない。
だから、日本で、日本人が、日本の給与水準で、その仕事をしなければならない。
ところが、考えてみてください。
技術は、日本人にも中国人にも、等しく、教えることができます。
そして、本日、内定されたみなさんは、そこらへんの中国人と同じく、我々のような高度な技術を持っていません。
既に何年も実務経験を積み、技術を身につけた我々には、我々にしかできない仕事ができますが、
皆様は、日本にしかない技術を持っておらず、中国人と比べ、これといったアドバンテージはありません。
あなたたちのライバルは、日本人でも、優秀な中国人でもありません。
あなたたちの給料よりもずっと安い給料で働く、並の中国人です。
あなたたちは、並の中国人が数人かかってやっとできる仕事を、一人でしなければならないのです。
だって、あなたたちの給料は、並の中国人の給料の数倍なのですから。
これまでにも労働者たちは、機械やコンピュータに仕事を奪われてきました。
機械やコンピュータでもできる仕事をしていた人たちは、職を失ったのです。
それでも、機械やコンピュータには苦手なことをしていた人たちは、職を失わずに済みました。
中国人にできなくて、日本人にできること。そんなものがあるのでしょうか。
どちらも同じ人間同士です。体の構造、脳の構造、どちらも同じです。
これが僕の場合、
直近のTargetは
NPOかものはし、NGOPLAS、クロスフィールズやコペルニクを超すあたり。
海外勢だとKivaやRoom to Read。規模感の意で。
好きな仕事をして
そして何より「デカいことを成し遂げる」
これだけ人生長いから5か国語くらいは喋れるようになって人生謳歌する。
まぁ80で死ぬとして
で単純に逆算してった時
70代―アジアかアフリカで隠居しつつデッカいプロジェクトする。
60代―アジアかアフリカで隠居しつつデッカいプロジェクトする。
50代―社会に1番影響力与えられるタイミングin Japan.
※このNPOをずっと続けて拡大していく。
とか思うと
割とスタンダードだけど
日本じゃ厳しい。
みんな貯金どれくらいあるのかね…
子育てどうにかなるのかね。
ソーゾー君 [] 2013/09/15(日) 12:15:53 ID:3A4c9ZmE Be:
欧州の銀行家に対する借金を返済する為に大航海時代が始まったんだろ?
軍艦と軍隊派遣の為にまた借金してアフリカ、アジアの金山も銀山も結局は手放した・・
俺が何度も貼っている先人の警告を何故読まないんだ?
だから必死に土地を売りゴールドやシルバーをかき集めてたんだぜ?」
国内に売り払うものが無くなったから大航海時代が始まったわけだ・・
儲けたのは勝者は銀行家で国=国民には莫大な借金だけが残った。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/movie/10043/1365862741/l50
九州国立博物館の展示名が「盗作」と訴えられている件について http://mainichi.jp/select/news/20130917k0000e040212000c.html
はてぶコメントを読む限りでは、ロンドン大の教授がやり過ぎではというコメントが多い。イギリスの大学で勉強をしている身としては、何を「盗作」とするのかについて、日本とイギリスで感覚にずれがあるように感じる。
イギリスのアカデミアでは「剽窃」についてとても厳しい。これは大学教育の最初の段階でとても厳しく教えられる。レポートや論文を書く際、「他の人の文献」を引用をしたら必ず出典を明記する、というのは当然だが、「他の人の考え」を引用した場合にも必ず引用元を明記しなければならない。学会や授業の講義で得られたアイデアはもちろん、親しい友人のアイデアであっても、原則として引用元を記せ、と私の大学では教えられた。そして、自分のアイデアが盗まれないように、誰に何を話したかはメモを取っておくように、と。
今回の一件について、ロンドン大学のスクリーチ教授が所属するアジア・アフリカ研究学院(SOAS)にももちろん剽窃について決まりがあり、「他者の考えや言葉を自分のもののように表現する事は避けなければいけない」と記載されている。http://www.soas.ac.uk/languagecultures/studentinfo/plagiarism/
日本人の感覚からすると、「視覚革命」と「江戸絵画」が一緒に使われる事ぐらいあるでしょ、と思うかもしれない。しかしイギリスにいる感覚では、あまり一般的でない言葉をくっつけて(「視覚革命」なんて日常生活で使わないでしょ)、しかも本と同じような内容の展示のタイトルとして使っちゃったら、剽窃を疑われても仕方ない。