はてなキーワード: アフリカとは
性善説側に立つ人たちの考えてる事は凄く浅い。
人は最初から善い事を知っている。だから法で縛るべきではない。
という考え方だけれども、善い事も悪い事も今ある社会が決める事なので誰も善し悪しなんて知り得ない。
事実、そうであるならばアフリカは何なのか。アフリカの人たちは民族間ではあるが殺し合って奪い合っている。
あれは「善い事」に対する概念が違うからだろう。普遍的な善い事は生きる事だけである。彼らは生きるための手段に殺したり奪ったりしているのだ。
ならば悪は貧しさなのか。
教育をしていれば道徳観念や、何をしたら善くなるか、悪くなった原因はなんなのかが明確になり、そこに明を見いだした人間が複数集まれば現状の悪を覆す事ができるようになる。
つまりは性悪説である。教育こそ行っていくべきで、教育が行き届かない人間んは法でしばるしか無いのである。
一方、性善説に立つ側は事実が見えず、自らの作り出した幻想に取り付かれている。
彼らは「ぼくのかんがえるすばらしきせかい」であって欲しいと世界に対して強く想っている。
だから美しき幻想が否定される事は、自分の世界が否定されることにつながり、それが嫌でしかたなくて性悪説を否定するのだ。
今、日本にはびこっている左翼や改憲反対派は得てしてこれで、自分の知っている狭い範囲から抽象化した美しき世界に性善説を見いだしている。
自らの知っている範囲の延長でしか考えられないのは右も左もだいたい一緒なのだが、最悪を想定できなかったり現実として存在する悪い方から目を背けて、教育を否定するのはやめてほしい。
左翼の君たちがいる世界には君らが言う程美しい人間達で構成されていないし、右翼の君たちが言っている世の中は悪い人間ばかりではない。
「アフリカ人はみんな人肉を食う!」って書いたり、「黒人はみんな白人の奴隷になりたがっている」って書いたりしたら差別だろ。
それは、アフリカの人間が野蛮人扱いをされたり、白人の奴隷になっていたりした現実があったからだよ。
女性差別がよく取り沙汰されて男性差別が言われないのは(男性は「逆差別だ」って言うけど)、これまで女性が男性の下に位置づけられてきた過去があるからだよ。
現実社会でたとえば巨乳の女性を「ナイスバディ」だと言ったり、
貧乳に悩んで豊胸手術に踏み切る女性が大勢いるような現状を踏まえて、
「そういった風潮を助長するような表現は望ましくない」と指摘されたら、
そりゃもっともだと俺も思うよ。
おとといだったか、テレ東の番組で、アフリカの僻地の無医村で自腹で巡回医療をやってる女性医師を紹介してた。
立派な人だなぁ、と素直に思って関連するTweetとか見てたら、「頭が下がる思い」「マジ尊敬!」みたいな意見がたくさんあって、 うんうん、そうだよなー、と思ってたんだけど。
ところが、単に誉めたり感動してたりするだけじゃなくて、「それに比べて日本の政治家は!」とか「大企業!お前らが搾取した汚い金でこういう人を援助しろ!」みたいなことを言ってる人がチラホラいるの。
みんな一様に命令口調で、それでプロフィール見ると、間違いなく「脱原発!」って書いてある。
何かが違う気がするんだけど。
以前、自分は海外の会社に勤めていた。ネット経由で仕事するという、最近良くあるスタイルの会社で、今まで二社経験がある(クラウドソーシングとかじゃなくて、れっきとした専属の社員です)。
その二社目にいる時に、日本人の別のソフトウェア技術者が入社したのだけど、その人は半年でクビになってしまった。自分はマーケティング系職務だったので、クビになった技術者が何をしていたのかは知らなかったが、その一ヶ月後に日本の大手IT系企業に入って、その後長くやっているので、技術に問題があった訳じゃないだろう。
自分は二社とも日本人一人の状態で参加していて、そもそも語学は大して上手くない人間なので、「うかうかしてると振り落とされる!」という強迫観念もあり、言われないことでも積極的に提案したりモデルを作ったりして、それなりに評価されていた。なので、会社との合意でない限りやめることはなかった。じゃあ、クビになった人は何が出来なかったか。
ひとつは、先に日本人がいたことで、甘えがあっただろう。要するに、仲良くしていれば自分の立場を守ってくれるという認識がどこかにあったんじゃないだろうか。実際に接していてそう言う印象は受けた。でも、ネット経由で仕事する限りは、そんなものは通じない。ましてや、相手は異国人。そういう人に、期待しても仕方ない。
もう一つは、(結局同じことだけど)自分から積極的に成果をプッシュすることが出来なかったのだろう。別段優れた成果である必要はなくて、ソフトウェアの簡単なバグを直したり、速度の遅い所を改善したり、そんなものでまずは良かったはずだ。だけど彼は、浮かれていてふわふわした印象も受けた。だから、最低限の成果を出すことが出来ず、結局クビになってしまったのだろう。
最近はグローバル人材とかいって海外とコミュニケーション出来る人材がもてはやされるし、ネット経由での仕事も多くなってきた。一方で昔ながらの「外国でビジネスしても上手くいかない」「外国人が思った通り動いてくれない」という嘆きも耐えない。だけど、そんな話を聞くたびに「日本人とコミュニケーションするのと同じルールで接していても上手くいく訳ないじゃん」と感じている。逆に日本人と接していると、「なんでコミュニケーションがそんなに適当なんだ」と思ったりもする。
仕事上で外国人と接する際のポイントは(自分の場合は、いわゆるアメリカ型で、アジア、アフリカ方面は知らないけど)
まあ、要するに、日本人同士なら「それは言い過ぎ」「きっとわかっているはず」と思っていることもしっかり表現しましょうということだ。ただ、これって、普段使わない思考能力を使うために、結構大変。予想よりも訓練が必要。自分の意識下に眠っているものを一生懸命掘り出していく必要がある。例えば、ソフトウェアを作成する際に「この仕様書通り作成して」と伝えると、その仕様書に書いてないことは、ほぼ達成されない。「数字は通常通り桁を合わせる」とか「エラーの出力は普段通り」と思っていても、はっきり書かないと応じてくれない。子供と接するくらいの気持ちの方が却って良いです。日本人だとバカにされてると感じるくらい。
日本人だとNoというと非協力的だと思われがちだけど、海外のきちんとした会社であれば、適切なエビデンスとともにNoということは、「問題を改善する積極性がある」と評価される。
その上で、
http://ayato.hateblo.jp/entry/20140129/1391004860
を読むと、「まあ、相手も悪いけど、この人も説得力のない資料を作ったんだろうな」と思っちゃう。伝えきれなかった方が負けって感じで。さすがにそれは言い過ぎかもしれないけど。
こないだ、アフリカのマンデラ元大統領が死んだ時。マンデラが偉大なる人物であることに疑問の余地はないが、その時の左翼の言動が気にかかった。
「日本は南アフリカと国交を持ち、アパルトヘイトを助長した腐った国」という言い方であったと思う。
ならば、チベット人やウイグル人を虐殺している中国とは、「断交すべき」と語る右翼こそが人権活動家であり、「友好を推進すべき」と語る左翼こそアパルトヘイト支持派に近いということになるのでは?
私の現実観察からの感想だから異論があることもどうせ想像つくけれど
それが真実でしょう
そもそも近代日本において東アジアに対するいわゆる「帝国主義」が広まったのも、「東アジア共栄圏」という主張が出てきたのも、欧米列強の脅威への対抗のためです。例えば吉田松陰が東アジアを征服しまくるべきだと書いたのも、欧米列強に対抗するためです。それどころかもっとさかのぼって徳川家康がキリスト教を禁止して保護貿易をしいて外交相手を限ったのも、西洋の侵略を阻止するためです。
つまり、そもそもの目的は、欧米に呑まれないことと、東アジア地域を発展させることです。この目的から逸れてはなりません。
現在は、欧米列強が帝国主義的に日本に攻めこむことはおよそなくなりました。強いて言えば、米国が産業・経済的に東アジアを侵略してくるおそれがあるという主張はありえますが(例えば反TPPという話)、それならば、米国と対等にわたりあいつつ、韓国や中国との関係を緊密にして欧米に経済的に対抗すべきでしょう。アメリカやEUに呑まれないように産業・経済の底力を蓄えるべきです。
いまの政治や社会風潮の実態は、いまのわざわざ韓国・中国との友好関係を壊して、米国に擦り寄って、それでむしろ米国に嫌がられることをしています。なにがしたいのか、私には納得いたしかねます。
「国益」という語はその中味が不明瞭であるためにいささか卑怯ではありますがしかし、隣国はじめアジア諸国の外交関係を最優先せずにむしろ嫌われて、それでアフリカや中東の資源を目当てに中国と買収合戦をして被買収諸国にチヤホヤされるという自慰的行為をみていますと、資源を確保するという意味では国益に一致しているとはいえ、総合的にみれば国益に反していると、私には思えます。
例えばアフリカに多額のODAをぶちまければ、そこの政府権力者は日本になびくようにはなるかもしれない。それで、資源や利権を買い取るわけだ。札束でほっぺたしばきに行ったということだ。
当該国の政府権力者からすれば、開発が進み、また現地の産業が進んで、支配体制を正当化するかっこうの口実になる。
だが、それではたして、当該国の格差は縮まるのだろうか。民主化は進むのだろうか。むしろ、ODAをぶちまけることは、当該国の格差を容認することを意味するのではなかろうか。
プラントを建てるのにしても、紅茶やコーヒーをプラントするのと同じように、権力者が多額の収益を得て、労働者は搾取される。その構造は中東の産油国を見てもわかるだろう。
実際にいままでも日本は多額のODAをばらまいてきた。だが、それで例えばアフリカは豊かになったのだろうか。
むしろ、ODAは費用対効果が低く、日本企業が居て道路でも敷いている間はいいが、いなくなった途端にボコボコになってムダになる。例えばソーラーパネルを設置しても、壊れたら放置される。
端的に言ってしまえば、多額のODAをつぎこんで道路を敷いたりプラントを建てたりするのは、ゼネコンなどの日本企業に対する公共事業を海外に輸出するということだ。国内で費用対効果の低い公共事業をやると「ムダだ」といって速攻非難されるのに。
いわゆる「バラマキ」の典型で、しかも一般庶民に対してゆきとどかない、格差是認型のバラマキだ。ばらまいたカネは、一部の者たちにしか還流しない。当該国の権力者は、カネをくれるスポンサーになびいて、自国の市民をかえりみなくなる。
それでも、札束で外国をしばいて、いいカッコして、そりゃあさぞかし気分のよいことでしょう、自己肯定感の足りない卑屈な「愛国心」が満たされることなのでしょう。
このところ、英米の大手マスコミのウェブサイトのニュースを私はまた読んでいるのだが、日本国内のマスコミとの世界観の相違が激しいことを再認識させられる。
話題のずれ、例えば中東やアフリカの話題への関心の高さというのもある。
だがそれだけではなくて、日本のマスコミでは言ってはいけないことがどうやら多いようで、情報操作された、「よく洗脳がゆきとどいた国ですね」と皮肉られてもしかたないような社会だなと思う。
先日やしきたかじん氏が亡くなったが、彼が生前に大阪の地元テレビ番組でほとんど言いたい放題でやっていたのに対して、東京のマスコミ(全国ネットも多いだろう)における「自主規制」(という無言の圧力、「空気」のたぐい)は、やはりびっくりだ。
役者で現参議院議員の山本太郎氏が、以前に原発反対を言ったときに仕事を干されたという話もあるが、なかば被害妄想もありなん。だが、タレントの立場でファストフード反対だとか酒反対だとかパチンコは違法ですだとか言い出したら、おそらくマスコミや広告代理店のブラックリストに載る、広告塔としての価値はほとんど無くなってしまうだろう。藤原紀香氏だったかが先日にしんぶん赤旗(日本共産党の機関紙)の日曜版に登場した際にもいささか揉めたらしいというのも、話に聞く。
私とて、せいぜい英米の大手マスコミしか目にする機会がないのだが(関心はあるのだが、ドイツやフランスすらも日常的には読んでいないし、ましてや世界各国のを確認してまわれない)。しかし、The Times(英国)のウェブサイトをこのところ見ていたら、砂糖の依存性の話題で議論が巻き起こっていたり、「ADHDの診断名が付けられる小児は多いが、そんな疾患は本当は存在しないと書いてある専門書もある。診断名を付けることで気休めになり、そこで投薬に移り云々。診断名を付けたがる症候群なのだろう」と大要そんなことを書いているオピニオンがあったりする。日本の大新聞やテレビ局ではおそらくそんな記事はそうそう出せないだろう。
在京一般紙でも、サンケイと読売が似たようなもので、日経はもろに資本主義バンザイで、朝日はこのところ元気がなくて、毎日はまあまあ活躍していて、それらが超えられない壁の先に東京新聞(名古屋中日系の東京地方紙)がある気がする。さらに言えば、大新聞と比べて、宮城や福島地域の地方紙や、沖縄県の地方紙なんかは、世界観がまったく異なっているように思う。
どの世界線もなにもSHARPが中国企業に買われようとしてたり、アフリカ系では中国資本が活躍してたり
確かに領土問題という日本近郊という狭い地域では中国と戦ってるけど、世界の中では、日本ってあまりもう相手にされてないだろ。
つか、中国で地震予報とか外れて、問責とかいう記事を読んで、予報が何かも知らない人がいると思っていたら
後日、日本の政治家も地震予報とかで同じことを言い始めて・・・日本の政治家は、中国の政治家が国民に叩かれたというニュースも読まずに同じような発言をする。
言い方を変えると中国よりも遅れてるんだなぁと。
今は、アフリカでアメリカと中国の覇権争いというニュースが流れているし、ようするに、アメリカと中国が経済戦争する中
日本は鎖国してんだよね。むしろ、日本は韓国と戦ってる。中国はアメリカと戦ってる。なんかさ、日本、小さくなったな。
弱いやつ探して叩くのは小物がすることだ。
『超権威主義的世界文学百選』http://togetter.com/li/138734というランキングを見て、面白いと思いながらも疑問に思ったことがあって、「20世紀の小説ばっかりじゃん!!」ということで19世紀の小説を重視したランキングを作成してみました。具体的には近代文学の始まり「ドン・キホーテ」(1605,1615)からモダニズムの始まりである「ユリシーズ」(1922)までです。つまり近代文学のモダニズム以前、ということになります。小説を選ぶうえで参考になればと。あと、あくまで個人的な基準に過ぎないことを留意してもらえればと。
1.「ドン・キホーテ」(1605,1615) ミゲル・デ・セルバンテス
2.「ガリヴァー旅行記」(1726) ジョナサン・スウィフト
3.「トム・ジョーンズ」(1749) ヘンリー・フィールディング
4.「紅楼夢」(18世紀中頃) 曹雪芹
5.「トリストラム・シャンディ」(1759~1767) ローレンス・スターン
7.「高慢と偏見」(1813) ジェーン・オースティン
8.「黄金の壺」(1814) E.T.A.ホフマン
10.「いいなづけ」(1825) アレッサンドロ・マンゾーニ
11.「赤と黒」(1830) スタンダール
13.「アッシャー家の崩壊」(1839) エドガー・アラン・ポー
15.「虚栄の市」(1848) ウィリアム・メイクピース・サッカレー
16.「緋文字」(1850) ナサニエル・ホーソーン
17.「デイビッド・コパフィールド」(1850) チャールズ・ディケンズ
18.「白鯨」(1851) ハーマン・メルヴィル
19.「死せる魂」(1855) ニコライ・ゴーゴリ
20.「オーレリア」(1855) ジェラール・ド・ネルヴァル
21.「ボヴァリー夫人」(1857) ギュスターブ・フロベール
22.「晩夏」(1857) アーダルベルト・シュティフター
25.「ミドルマーチ」(1872) ジョージ・エリオット
29.「ブラス・クーバスの死後の回想」(1881) マシャード・デ・アシス
30.「さかしま」(1884) ジョリス=カルル・ユイスマンス
31.「ハックルベリー・フィンの冒険」(1885) マーク・トウェイン
32.「飢え」(1890) クヌート・ハムスン
33.「クォ・ヴァディス」(1895) ヘンリク・シェンキェヴィッチ
36.「シスター・キャリー」(1900) セオドラ・ドライサー
37.「ロード・ジム」(1900) ジョゼフ・コンラッド
38.「ブッデンブロークス家の人々」(1901) トーマス・マン
39.「超男性」(1901) アルフレッド・ジャリ
40.「チャンドス卿の手紙」(1902) フーゴ・フォン・ホーフマンスタール
41.「鳩の翼」(1903) ヘンリー・ジェイムズ
42.「一万一千本の鞭」(1907) ギヨーム・アポリネーム
44.「ハワーズ・エンド」(1910) E.M.フォースター
45.「ペテルブルク」(1913) アンドレイ・ベールイ
46.「変身」(1915) フランツ・カフカ
47.「明暗」(1916) 夏目漱石
48.「ワインズバーグ・オハイオ」(1919) シャーウッド・アンダーソン
49.「われら」(1921) エヴゲーニイ・ザミャーチン
だーかーらー。
全員が差別されてないって言ったらそれでいいじゃん、ってね?
でさ、もし差別意識を感じてる人がいたら、その人に
そうじゃなきゃわかんないじゃん何も。
一体何が差別でなんでその差別されるものにわざわざなったのか?
ネタ元のtwitterの人が黒人が。。。とか言ってたけど、黒人に関しては、明らかに強制されてたわけで、もともとアフリカで暮らしてたりしてる時はそんなことしてなかったのに無理やり連れられてきてやってたし、
アメリカで生まれた人も生まれた時からそうだから、それ以外に選択肢がなかった、ということがはっきりしてる。
だけど、今の日本で女が専業主婦を選ぶのは義務?そうならざるを得ない?
もし、ホントに、女の人が働けないとか、そういう事情があるならそっちを解決しよう、って方向に動くのは正しいと思うけど、
専業主婦の人たちはホントに働けないから仕方なく専業主婦なのか?強制されたのか?
それとも自ら望んでそうなったのか?
その辺、はっきりさせないと、あんたみたいな、男だか女だか知らんけど、部外者が勝手に差別だ差別だ騒いでも仕方ないだろ?
そもそもどうしたいんだ?専業主婦みたいのを無くしたいのか?そうでなければどう意識を変えれば良いというんだ?専業主婦そのものは存在するのに?
専業主夫をたくさん作って女と同様の量になって家政婦も家政夫にして、世の中の職業や立場すべてが女男同様の数になるまで許されないのか?
お前は一体どういう世の中になったら「差別がない」と言えると思ってるんだ?
そうそう。飢え死にの心配が減り、獣に襲われる心配が減り、暴力に搾取される危険が減り、雨風や寒さ暑さをしのげる家と衣服がある。先進国ならば貧困層でもここまではおおむね達成できてるよね。
例えアフリカの貧困地域でも、数千年前に比べれば餓死の心配は確実に減り、衣服などというものを持っており、
また、獣に襲われる心配も随分減った。というか、余程の地域でない限りこれはない。
発展途上国でもおおむね達成出来てるよね?そして、その基準すら数千年前には無い基準だよね?
「ぼくがかんがえるとみとひんこん」はお前の現代での勝手な基準であって、今のお前の暮らしが千年後にはどうしようもない、可哀想でみてられない様なものかもしれない、と言うことを言ってるんだけど、理解できないかな?