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「エロ本ではない、一般向けの本だ」と言うのは無理筋でむしろ危険
https://anond.hatelabo.jp/20171122203401
コンビニエロ本はグレーゾーンで好き放題やってるみたいな内容の増田だけど、全然ちがう。コンビニ雑誌がズルして実質エロ本を売っているような、凄まじく偏った印象論に落としこんでいる。
まず、コンビニ雑誌のエロがそんなに好き放題やってるなら、全国の自治体が黙っていない。青少年保護育成条例が制定されているからだ。みんなここを疑問に思わないのだろうか?
成人マークなしで成人向けの内容を扱う書籍(つまり子供でも買える)があれば、自治体は不健全図書に指定し、書店の一般売り場やコンビニでの販売を止めさせることが出来る。(ちなみに各自治体による差はあるとはいえ、青年漫画のアイアムアヒーローや多重人格探偵サイコが不健全図書に指定されている県もある)
さらに、自治体から不健全指定のペナルティを食らうと、出版社には多大なデメリットがある。3回連続、または年5回不健全指定されると雑誌は休刊するしかなくなってしまうのだ。さらに年6回の不健全指定を食らった出版社は、都から不健全な出版社扱いされてしまう。そして自主規制団体からマークされ、内容にとやかく言われ出版社として自由な裁量がやりにくくなる。
ちなみに、出版社が自主的に成人マークを付けた場合、これらのペナルティは一切ないのだ。だからそもそも限界ギリギリを目指したチキンレースをしてるという認識が間違い。
こういう外部からの監督やチキンレースのデメリットを語らず、コンビニ雑誌の暴走を喧伝するのはおかしい。これだけ話題になっているコンビニ雑誌が自治体から不健全指定されていない、という事実を無視するべきではない。
表紙で全裸を描けない、修正がきつい、過激な描写は出来ない、不道徳な内容を描けない、、、これらの違いはエロが嫌いな人たちからすれば言い訳にしか見えないだろうが、実際はこういうものが区別の基準になっている。これが事実だ。日本は法治国家なので、法というルールに基づいて運営される。コンビニ雑誌の区分けに文句があるなら大元である自治体に言うべきなのだ。出版社だけの問題ではない。
これらのルールや監督体制を一切無視して、あくまで印象論で成人向けと並べた話をする増田は極めて不誠実な印象操作と言うしかない。
そして、コンビニ雑誌の内容が一般扱いされることに不満を覚える人たちは、一旦深呼吸して、自分が好きな漫画などがこうした無知な世間の目からどう見えるかも考えてみるべきだ。
成人向け以上に修正をしてもセックス描写が不健全指定されるなら、自分が読んでいる漫画はどうなるのか。
セックスそのものを目的にした漫画でなくとも、それを不健全だと指摘する連中は増えないだろうか。同性愛のセックス描写が全年齢で買えることに文句を言ってくる連中はいないだろうか。BLはそもそも成人向け販路が発達していなかったので、最近では有害図書指定される数が急増している。東京都の不健全指定では、今や6割がBLである。BLそのものを有害とバッシングしてくる連中が出てこないといえるだろうか。
それらが書店で隔離されることになる未来を、少しでも想像して欲しい。自分の好きな表現を守るためには、嫌いな表現を守る必要もあるのだ。
イオングループの件は、(元々取扱量もシェアも少ないとはいえ)雑誌販売の販路縮小からの売上減少に繋がるため、
個人的には売って欲しいという思いがある一方、
anond:20171122003439 『ミニストップの件の重大さがわかってる?』
トラバした匿名ダイアリー内で言及されているように、コンビニで売られている雑誌は成年向けマーク(成人向けマーク)がついておわず、
そもそもコンビニで成年向けマーク付きの雑誌は(原則)売れません。
そうしたことから、「成年向けマークがついてないから一般向けである=エロ本でない、だから規制するのはおかしい」のようなことを言う人が、
こうした問題のように、各小売店やネット通販サイトなどの販路で、販売がとりやめられた時にも現れてきました。
しかしそれは、世論の理解を得にくい上に、我々が表現活動を続ける上で、自らの首を絞めかねない無理筋な論です。
そもそも成年向けマークは、国家や国務大臣や法などが、基準をもって認定し、
このマークをもって、成年向けだ、このマークがないものは一般向けだ、としたものではないのです。
(そういうマークを国家が直接認定するのはディストピア感満載なので、まともな民主主義社会では絶対やるべきではありませんから)
これらのマークは、国家権力等による介入を最小限に防ぐという点でも、
あくまで決めるのは出版社・発行者であり、出版社・発行者等の自己申告による自主規制マークとなっています。
同人活動などがわかりやすいですが、同人誌につく成年向けマークも、作者が自主判断したり、
印刷所がこの表現なら成年向けマーク入れてないと印刷してあげれないよ、などとしているに過ぎませんよね?
さて、こうした自主規制の成年向けマークですが、仮に、エロ満載ではあるけどれど、その本の出版社(印刷所)や作者が成年向けマークをつけなかったら、
小売店やネット販売サイトは、それを必ずエロ本じゃない一般向けとして扱わないといけないのでしょうか?
もう少し具体的な話をしていきましょう。
先に書いたように、成年向けマークがあるものは区分陳列するように促され、コンビニでは原則売れないことになりました。
この時、雑誌の売上の中で大きな位置を占めるコンビニでの販売を継続させようと、
出版社側などは、事実上エロ本なのに、「成年向けマークをつけない=これは成年向けエロ雑誌でないですよ、一般向けですよ」として、
この「成年マークがある本」と、「コンビニの成人向けコーナーに売られている成年マークなしの本」に、
エロ本であるかないかという大きな差異、たとえばいわゆる「エロ本」と青年誌くらいのたいへん大きな差異があるとまだマシだったのですが、
「成年マークがある本」と、「コンビニの成人向けコーナーに売られている成年マークなしの本」とでは、一般人が思い描く「エロ本」としては、大差はありません。
じゃあこの成年向けマークをつけるつけないの差がどこにあるかと言うと、(血縁関係のある)近親相姦はNGとか、そういう曖昧な面もある基準だったりします。
女子高生との直接の表現とか、近親相姦とか、獣姦や強姦みたいな過激に映りがちな表現、
そういう(各社によって微妙に違いがある)ある種の設定やシチュが、
成年マークをつけてないだけのエロ本にはない(あるいは控えめにしたりしている)のです。
つまり、中身は社会で普通に思い描かれるガッツリとした「エロ本」となっています。
少年誌、あるいは青年誌あたりで時折プチ炎上する、一部に乳首がちらっと出てる、パンツ見えすぎだ、エロいコマがある、とかのレベルでなく、
エロこそが本編であり、大部分のページをエロシーンが占め、ズッコンバッコン、グッチュグチュ、フェラも結合も成人向けマークがあるものと同様、思いっきりやってるような雑誌です。
みなさんも試しに成年向けマーク(成人向け雑誌と書かれた黄色いマークや、18という数字に斜線が入ったりしているマーク)がついてるマンガ雑誌と、
「成年向けマークがついてないがコンビニの成人向けコーナーに置かれている雑誌等」を買って読み比べて見てください。
例えば、快楽天と、コミックホットミルクと、コミックメガストアアルファと、コミックLOというマンガ雑誌がありますが、
快楽天とコミックホットミルクは成年向けマークをつけず、コンビニでも売られてもいます。
一方、コミックメガストアアルファとLOは成年向けマークをつけており、今は基本的に大手コンビニなどでは売られていません。
さて、これらを読み比べて、コミックメガストアアルファとLOはエロ本だけど、
快楽天とコミックホットミルクはエロ本じゃないよね、一般向け雑誌だよね、子どもさんにどんどん売ってもいいよね、って言えるでしょうか?
快楽天に掲載されたマンガが、まとまって単行本になったときに「成年向けマーク」をつけて売られることからも、
こうした自主規制の運用が、エロ雑誌をコンビニで売りたいがためだけの抜け道に利用されていることもわかるでしょう。
実のところ、近年、都条例などで度々やり玉にあげられているのも(非実在で盛り上がったときも)、
こうした成人向けマークをつけていない雑誌・単行本だったりしており、
「自主規制してます、配慮してます」「ちゃんとレーティングしてます」と言いつつ、こうした、成年マークを付けずに全編エロみたいなものが売られている実態なので、
我々描き手や出版社が「配慮してますよ」と言っても、その説得力を自ら弱めてしまっいる現状があり、
表現規制派がつけこんでくる格好の材料を与え、世論や社会の理解を得にくい原因にもなっているのです。
実際、東京都の場合は、成年向けマークをつけている本はそもそも不健全図書の審査対象に原則としてなっていません。
不健全図書審査されているのは、成年マークをつけず「一般向けですよ」との体裁なのに中身が成年向けじゃないか…と、東京都の委員らが判断した本が、毎年20から30冊程度、不健全図書に認定されています。
猥褻を警察が恣意的に判断しているように、僕達の業界も、ガバガバの成年マーク運用で、エロ本かエロ本じゃないかを恣意的に判断している面があるのです。
中堅、中には大手の出版社などが、自主規制を形骸化し、売らんがために成年向けマークもつけずにがっつりエロエロの本を大手の販路に載せて、
そうした度に問題が起こって、規制への動きが芽吹いてしまう…、
このことは、エロ本をエロ本として成年向けマークをつけ、社会で住み分けて売ろうとしている零細な身としては非常に悔しいのです。
表現規制でまず真っ先に割を食うのは、大手よりも僕らのような零細のほうですから。
ところで、勘違いしないで頂きたいのですが、
僕は、青少年健全育成条例等、各種表現規制の糞っぷりや、そもそも成年向け商品なのに性器が修正されているという先進国にあるまじき日本の糞っぷり自体は、昔から間違ってると思っています。
だからこそ僕は、これは「エロ本です、成年向けです、だからコンビニでも売りませんし、未成年にも売りません」として、
成年向けマークをつけ、社会の成員としてそれぞれ住み分けをした上で、
自由な表現活動と、現行の法令を守った上で、よりよい法や条例の運用に向けた改正活動をしたいと思っているのです。
それなのに、成年向けマークをつけて「エロ本はちゃんと自主規制してますから」という体裁を取りつつ、
一方で成年向けマークをつけない事実上のエロ本を作って売上欲しさにチキンレースを繰り広げ、
「これはエロ本でなく一般向けだから。小売店の撤去はおかしいから。」という成年マークの運用と主張をやっていれば、
「出版社らに自主規制させても意味ないね、自己申告・自主規制でなく、国家や自治体が成年向けマーク認定基準団体作って取り締まるしかないね」などのように、さらなる規制を招き、表現の自由を弱めかねません。
トラバ先の増田さんは、盛んに恣意的という言葉を使っていますが、
雑誌の内容が成年向けマーク付きの雑誌とほとんど変わらず、単行本化されると成年向けマークがつく「コンビニ売りの成年向けマークなしの雑誌」があるという事実、
この成年向けマークの恣意的な運用の問題については一切触れておりません。
こうした成年向けマークの恣意的な運用は、青少年健全育成条例の恣意的な運用と不健全図書の指定にも、ますますお墨付きを与えてしまうでしょう。
ラジカルな、すべての表現物が完全に自由で、公共性の高い場だろうがなんだろうが、どんなものでも陳列し売っていい世界というのは、
現実の社会では、0か100かでなく、理想論は実現し難く、どこかで妥協し折り合いを付け、社会の成員として現行の法令の中で生きていかなければなりません。
出版社さんはちゃんと成年向けマーク(しかも自己申告でいいですよ)を付けてくださいね、ということでなんとかなった両者の妥協点を、
成年向けマークがないからエロ本じゃないし、みたいな欺瞞に満ちた出版社同士のチキンレースを続けていれば、
頑なな規制派と穏健な規制派を切り離し、穏健な規制派だった人を徐々に味方にしたり好意的中立に引き込むことは困難になっていくでしょうし、
規制派と規制反対派のどちらにも強く立場を置かない中間に属する大多数の人らの理解を得にくくなるでしょう。
その結果、そうした有権者をバックにした政治や行政も動かしてしまいます。
なお、この問題は、こうした何がエロ本か、というような問題と、
小売店などの事業者が自らの裁量でどういう商品を扱うかという観点も大きいことには留意すべきです。
任天堂はエロゲー出すのを許さないし、Steamにも独自基準はあるし、ある書店がうちはエロ本おかないんだ、というポリシーもあるでしょうね。
子ども向け、ファミリー向け、高齢者向け、どこに軸足を置くかという企業イメージもあるでしょう。
出版社や作家が成年向けじゃないと決めたら、それを売る小売店や各事業者は、必ず成年向けじゃなく一般向けとして扱わないとならない、
売り場を確保してずっと売り続けないとならない、それに反したら、表現の自由を侵害しているのだ!と思うのならば、
んで店長は診断書を出せと言い客が出したらうちの商品が原因だと断言できるのかと徹底抗戦して炎上するのが誰にでも想像できる
「ミリシタ」こと『アイドルマスター ミリオンライブ! シアターデイズ』のイベントの問題点と改善案です。
「イベントポイント」を貯めることで報酬が手に入る。通常ライブやお仕事をすると「イベントポイント」と「イベント楽曲をプレイするためのポイント」が手に入る。イベント楽曲をプレイすると更に多く「イベントポイントが入手できる。
「イベントポイント」を貯めることで報酬が手に入る。通常ライブやお仕事をすると「イベントポイント」と同時に「進捗」が貯まる。進捗を5つ貯めると「イベント楽曲をプレイするアイテム」を入手することができる。イベント楽曲をプレイするとランダムで最大5倍の「イベントポイント」が手に入る。
最初こそどのような行動が効率的か考える楽しさがあるが、一度分かってしまえば、ユーザが選べる選択肢は少なく(音ゲー自体の楽しさはあるものの)答えの分かってるパズルを延々解かされてるかのような作業となってしまう。
敢えて音ゲーや(お仕事の選択)を失敗することで、得られる「集中力」を減らしMAX超えを回避可能にすると、ユーザーの裁量が増えてより楽しくなると思います。
以上です。
あの事件の後は深夜残業はするなと会社から言われてるけど、今となってはみんなしてて日付変わっても沢山人がいる
「わざわざちゃんと申請してるの?馬鹿じゃないの?」と上司に言われたこともある
さすがに働かされすぎなので、すぐ上の上司に言うと「もっと上の人に言ってくれ」
その人に言うと「同じ担当内でなんとかしてくれ」
右側のチームの人は休職して帰ってこない
こんなのばっかり
明日プレゼン、となるといつもぎりぎりまで資料なんてできなくて、毎日深夜まで働いて毎日のようにタクシーで帰ってこんな時間
こんなにやってても朝早く来ないと怒られる
こういうところで怒ったり愚痴ったりする気力があるうちに休んだり転職したりなんとかしたい
もう既に戦う気力はない
結局は人が死ぬまでなにも変わらないんだなぁ
そういうなかから、行動化を防衛機制の一つとする見方も出てきています。
本来の防衛というのは、そういう「不適応行動」をしないための手段であって、その主たる目的は「自分の内面を平穏にする」「自分の中で葛藤が起こらないようにする」「自分の内面に葛藤を抑えてもっていられる」ということなのです。
もっていられる能力は人によってかなり違いますけれども、もっていられないものをなんとか始末してしまう方法というのが防衛機制であるわけです。
(中略)
つまり、行動で発散してしまうので自分の中で葛藤を溜め込んでもっていないで済む。
防衛的な観点から言えば、そのやり方によって自分の内面の葛藤状態を予防している、または解消しているといえるわけで、
現代において、精神医学もしくは臨床心理学の対象が「葛藤を抱えていられない」になりつつあることは諸家が指摘する通りだと思う
社会的に「自由」というものが認められず、人々が単一の規律や常識などに従わなければ生きられなかった時代においては
治療者の対象は「自分を抑えてしまう」ことが成因になるような病理が対象であった
利便性と選択肢の増加は、欲求や葛藤の解消をインスタントなものへと変化させた
「辛くなればやめても良い」「苦労しなくても退屈は紛れる」「ネット越しなら誰かを批判しても、見なければ反論は来ないし直接的な被害はない」「自分の歪んだ欲望も受け入れ、肯定し、賛同・共感してくれる場所がすぐにみつかる」
しかしその一方で、いざ職場に行けば規律を守ることを要求され、規定時間以上の労働に駆り立てられ、下手をすれば休日も返上して出勤する
私生活における幼児的万能感の世界と一転して、社会生活で要求される自己への規制は非常に強いものとなっている
このアンバランスさは、時として人を分裂させる
「私生活としての私」と「社会に生きる者としての私」は、かつてないほどに乖離し始める
もはや、「社会人としての私」は「本来の自分」から離れ、自我親和的とはいえない
48時間チャレンジの記事を見て、「これ、ボーダーの子の試し行為じゃん」と思った人もいるだろうか
素直に甘えを表現することへの葛藤も処理できず、かといって甘えたい欲求を別の形で処理することも出来ず
明らかに不適応な形で自らの親密・依存欲求を満たす行為のように見える
自立と依存の葛藤を維持し、家族ではなく他者に親密さと依存の対象を広げていく過程にある青年期において
家族へ依存欲求を失踪という試し行為の形で達成するのは、どこか歪んでいるようにみえる
満員電車というのは、名前も勤め先も知らない人々が密着した状態で、強制的に一定の時間を過ごします。辛いから何も感じないように、大抵は自分の感情のスイッチをオフにした無の状態になる。そんな異常な空間の中で、ふいに女性に触れてしまうと、それが予想もしないくらいの衝撃的な体験になってしまう。
私はこれまで200人以上の痴漢常習者をヒアリングしてきましたが、彼らの多くはその最初の感覚を『身体に電撃が走った』と言います。本人が意図せずに触ってしまって、そこから『あ、こんな柔らかい感触があるんだ』と衝撃を覚えてしまう。少し言葉は悪いですが、痴漢の始まり方はこの“ビギナーズラック”のパターンが一番多いんです
公私での混同を許さなくなった社会では、時として人格の解離が状態化する
「辛いから何も感じないように、大抵は自分の感情のスイッチをオフにした“無”の状態になる」という一文は示唆に富む
私では過剰に発散し、公ではひたすらに抑圧し何も感じないようにする
自我自体は脆弱なままなのに、その空間に他者の柔らかい感触が侵入してくる
そうすると、脆弱な自我はもはや「触りたいけど触ってはいけない」という葛藤を維持できず、行動化に移る
現代においては、そうした前エディプス的な段階での病理が多いように思える
物質的に富、自由と自立が個人の裁量で賄われるこの時代においては
社会的な規律によって自我機能が助けられていた時代より、葛藤処理が個人の自助努力にのみ任ぜられるために、かえってバランスを欠いた人間性が生じやすいのかもしれない
この話は尋常じゃないぐらい面倒くさい話になるんだけど、一例を示すと、そもそも同性愛者の一部が求める「同性婚」って何なんですかって話になる。
別に婚姻関係を結ぶだけなら、同性愛者であっても、契約書を作って婚姻関係を送れば良い。これも立派な”同性婚”でしょう、ということになる。
じゃあ「同性婚」ってのは何なのかというと、何となく皆がイメージするのは役所に届け出を出して婚姻を認めてもらう、というもの。
すると”同性婚”と「同性婚」とで何が違うの?ということになるが、平たく言えば法律上の効果や機能が違う。「同性婚」には大量の効果や機能が付属しているが、”同性婚”にはこれがない(一部類推されたりするが)。
そして、大量の効果や機能の中には異性愛者のカップルを前提に設計されたものも多数ある。
じゃあそれも全部同性愛者のカップルに認めていいのか?みたいな話になるとかなり難しいことになる。
(元増田の挙げた事件も、要するに「結婚していれば強制退去の裁量判断においてそれが考慮される」っていう結婚機能の1つが問題になったということになる)
結局効果や機能を1個1個検証していくしかないわけだが、これを裁判所がやれるかっていうと絶対無理。訴訟を起こせば全部解決、ということには到底ならない。
他にも、司法で争うとしてもそもそもどういう事例でどう争うのかとか、立法不作為を争うんだったら要件がクソ厳しいよとか、同性愛者は同性婚をどれだけ望んでるのかとか、問題が山積み。
ドクターストレンジに「日本に行けば200万ドルで再生医療が受けられる!」と言うくだりがあるんだけど、これは2つの観点で面白い。
1つ目は、200万ドルと言う数字が日本で今承認されてる再生医療と大体同じ価格と言う事。
2つ目は、日本に行けば最新治療が受けられると言うのが海外富裕層の間で認識されているということ。ただし、現実の日本ではちゃんと承認されてるものと怪しいアレが混在している。何故なら、医師の裁量の名の下にそれを認めているから。
ドクターストレンジに出てきた再生医療が日本企業による承認済みのものか怪しいマッドな闇医者がやってるアレか、200万ドルと言う価格が保険償還価格か外国人向けのものなのか、妄想が膨らむ訳で。
結局、映画の中ではお金が無いから日本には行かなかったんだけど、もし日本に再生医療を受けに行って腹黒い日本企業かマッドな闇医者と対立とか喧嘩とかするエピソードがあっても面白かったんじゃ無いかなーと。
今の仕事は面白い。裁量もある程度自分にあって、プライベートの調整もできるし、日々が楽しい。入社前より貧血とか頭痛とかも減ってきた。
問題ないようにも思えるんだけど、最近になってある症状が出るようになった。
リリースが近くて少し頑張ったりすると、てきめんに頭に靄がかかっているような気持ち悪い状況に陥る。
症状があんまりうまく説明できないんだけど、なんか脳みそがむず痒い感じ。
でも、身体が『これ以上は無理です』っていう拒否反応っぽい気もする。
だるいわけではない。やりたくないわけでもない。その時点でやる気もある。体力が追い付かないわけでもなく、やめなければ続けられるような気もする。
でも続けると何か怖いこと(発狂する・暴れる・倒れる)が起こるのかもしれないのと、あとそんなに仕事も切羽詰まる状況ではないのもあって、その先に向かったことはない。
ちなみに働いた後とか疲れている夜だから、というわけではなく、寝て起きた朝とかにもその症状は出る。
こういうのってみんなにも普通にあること?
身体壊したときは、明らかに自律神経失調の症状だったから納得だったんだけど、それ引きずってるのかな?全然症状違うけど。。
あと、転職して職種がだいぶん変わったので、もしかしたらこれまで使っていた脳の箇所が変わって、疲れやすく感じるのかな?と思ったりもした。でもどうなんだろう…
もし、これっていうのが思い浮かんだらなんでもいいので教えてください。
1/3ずつに紙を折るということは、一回紙を折った時点で1/2になります。
1:1:1の1:1が重なるのだから当然だよね。
こういう状況で「〜(が)いいよ」という言葉は、「こうしないといけない」「このやり方に従え」と基準やルールを示すのではなく、
コレコレをやる上で、各自が効率よく円滑に進めるために「やったらいいよ」って意味で使う。
つまり、四つ折りにするか、三つ折りにするかの判断は後輩の裁量に任せているのだ。
で、この後輩は手間の掛かり失敗(折り直し)のある三つ折りより四つ折りの方が早いと判断し、
「わたし三つ折りできない人なんですよ。」
と、その事を申告しているのが見落とされている。
この増田が「四つ折りにすると封筒が膨らむので、三つ折りにすること」と指示し、それに対して「わたし三つ折りできない人なんですよ。」と後輩に返された時に、
「コレコレこうやって三つ折りにすればいいよ」と提示する際に使うのが適切。
https://anond.hatelabo.jp/20170925153054
のトラバとかがそういう感じなのかなと思う。
子供ができた、家を買った、車を買ったなどときくとそれはそれはもう
うちの会社は年功序列の昇進や昇格もなければ、扶養家族手当や家族手当、住宅補助、退職金など一切でない。
定性的な評価や定量的(売り上げ)評価がクリアできなければ、一生年収450万前後だ(都内でだから結構厳しい)
定時で帰れるぬるい仕事なわけではなく裁量労働制という形で毎月60〜80時間は平気で残業があるし(もちろん残業代は出ない)、月末の売り上げ追い込みもそれなりに詰められる
そんな職場で未来を作るためには、実績を上げ、できる仕事を増やし、給与を上げたり、他社との連携で業界内で顔を広げるなど、自社内か業界内で顔を広げる
…もしくは自社でとにかく営業としてスキルを上げてもっと待遇のいい会社に行く
しかし、新しい市場や顧客を開拓することもなく、かといってマネジメントや組織づくりに携わることもなく評価が上がらず10年前からずっと同じ仕事、同じ顧客をおそらく同じ年収で担当して、転職をするわけでもなく自己鍛錬をするわけでもなく同僚と愚痴を言いあう飲み会で憂さ晴らしをしてだらだらと10年過ごしている
このままだったら今後も年収や裁量やできる仕事が増えることもなく、車内で重宝されることもなく、ずっと変わらぬ給料で、いつかは転職できない年齢になり、組織にぶら下がることになるけど、いらなくなったらポイされてしまう可能性も大きい
家では威厳がある旦那様、パパなんだろうなという人であればあるほど、社会や会社での威厳のなさや、家族を守れない、希望を叶えてあげられない可能性のあるリスクが高いことに対して、どうやって家庭を守っていこうと考えているのか、気になる
5月の連休明けから仕事のストレスがひどくて、7月の頭にはあちこち体調を崩してしまった。今まで経験したことない質のストレスとはいえ、毎月100時間残業を半年以上やってた頃と比べると、体力落ちたのを実感してヘコむ。おかげで7月8月と病院通いしながら出勤し、変な肉体症状におびえながら仕事をしていた。
そしてようやく休みがきた。休み前にはご多聞に漏れず、スケジュールに遅れないため残業して深夜まで必死に働くハメになってしまった。何やってんだろうという気持ちと、自分の生産性の低さに絶望しつつ休みに入り、何もする気が起きずとにかく寝ていた。
あれこれ数字で縛って裁量を与えてくれないうるさい上司と顔を合わせなくて済むのは大幅なストレス軽減になるはずだ。休みの間に、荒れ気味の部屋の掃除とか、溜めている本やゲームを進めようとか、今後のことだってゆっくり考えなきゃと、休み前には思っていたのに、何もできていない。そもそも何かやりたいという気持ちが湧いてこない。
やりたいことに期限を設けてタスク化しようにも、期限自体が怖くなってしまった。タスクを進めているうちに事前の見積り時間からはみ出してしまうのが面倒くさくてたまらない。リカバリの必要はあるのかないのか、リカバリプランの実現性はとか、検討することが増えるじゃないか。
人間どうせいつかは死ぬのに、なんでこんなに悩みを増やしながら生きていかなきゃいけないんだろう。生きていくの自体が面倒だよ。
やる気スイッチどこいった。
というより鬱のはしりなんだろうか。
そうでもないのに、自由になれるから〜とかそういう感じないですか〜?的なサムシングで翼をくださいって言われても
お前今まで翼使ってた訳じゃねえだろうがって
お前の人生で翼があった瞬間ねえだろうが、鳥人間コンテストでも動かしてるの手と足じゃん。
背中の方、肩甲骨の方、更にはその先でグイーンって翼広げるようなことしたことないじゃん。
だのにお前翼を下さいってなんだよ、遠回しな自殺志願かよ。だったら「私はアホなので今からビルの上から飛び降ります。」とかでいいじゃねえか。
この大空も「あ、じゃあ今日はウチ来ないのね」って言って納得してくれるよ。だって飛ぶつもりもない、あわよくば飛べたらいいぐらいの飛行初心者が哀れにも空の藻屑と化すのを見ないで済むんだからね。
いやもうなんだこれ、空の藻屑ってなんだ。喋る大空とかこえーな。
いやでもホントそんな突拍子もないこと言って自由を勝ち取れるとか思ってるお前がおかしいんだからね?
いや、逆に何?以前は飛んでたの?以前は羽根があって、何かやらかしちゃって、それで羽根が捥がれたの?堕天使なの?わー堕天使カッコイイ、違うわ。
イヤイヤ、何かやらかしてる奴にもう一回チャンスくれって言われてもこえーよ!絶対またやらかすじゃん!無理無理!
というかお前が主体となって飛び方を教える団体でも作ってそれが社会的に認められるようになって、ある程度社会的地位を取り戻してからじゃないと翼をあげられないからね?!
いや、あげられる訳じゃないけれども一度やらかしたのならそれくらいしないと無理だよー無理無理。だってもー無理だもん。
なーにが自由だよー、お前なんかとっくの昔から自由だったのにお前が自分で自分を縛り付けたり自由になる場所を間違えたせいで生きづらくなってるだけだろうがー。
いいか?賢いやつはもう飛んでるの!誰かに貰わないの!上手いことやってるの!
え?何?空を飛ぶ許可が欲しかった?ウチに来る前に国に許可取ってこいよー!お前は国の許す範囲でなら自由なんだからそこらへんの裁量って奴を考えなさいよー!
自分名義でオリジナル作品を発表するとか、周りが合わせてくれる超大御所のプレイ、あるいはフリージャズという仕切りの中ではもちろん自由にやれる。
そういう特異な場合でなくて、以下は件の中学生のような一般人が普通のジャズをやるときの話ね。
アドリブの音楽というイメージから、ジャズは何でも自由にやれると思われがちだけど、そんなことはない。
尺もかなり厳密に決まっている。構成もいくつかパターンがあり(慣れないとややこしい)、カウントし間違えたり、どの部分を演奏しているかわからなくなったりすると顰蹙を買う。
音自体も出していい音というのが細かく決まっていて、まずはそれを覚えた上で弾けるように気が遠くなるような準備をしておかなければならない。
なまじ他のジャンルより弾いていい音の種類が多いだけに、覚えるべきことも多く難しい。
というか、そもそもジャズはアンサンブルという限界を先人がチキンレースばりにじわりじわりと押し広げてきたものなのだろう。
そして、それが許されるのは「守破離」の「守」を極めたごく一握りの天才だけなのだろう。
でも実際ジャズ系のジャムセッションなんかで「逸脱」すれば、さすがに引っ叩かれはしないが後で文字通り無視されたりする。ラーメン屋等で常連だけが知っている注文方法等の不文律を知らずにうっかり入ってしまったイチゲンを白眼視する店主と客みたいなものだ。
むしろジャズの人達は逸脱に対して非常に厳しい。ジャズ警察と揶揄される所以である。件の中学生がやっていたビッグバンドなら尚のこと裁量の余地は少ないだろう。
物理的な暴力というのは論外だが、精神的暴力なら普通にある話。
自由だなんだと一見敷居を下げて見せながら、その実いろんな意味で敷居が高い。
どれほどはみ出す初心者や素人を受け容れてきたか、ジャズやっている人達はその胸に問うてほしい。
ファンクはいいぞ!ワンコードかツーコード。尺も特に決まってない。
盛り上がればよしというコンセプトだから逸脱に対してもみんな寛容だぞ。
まあ自由過ぎると逆に難しくなるのだが…