はてなキーワード: 現代文とは
私は晩婚家庭の子で、上に兄が一人いる。母は出身が海外で日本語が覚束ないところがあるため、まあまあ高齢なのもあって働き口がほとんどない。父は数年前に定年退職し、しばらくは非正規雇用で食い繋いできたが、とうとうその仕事もやめた。両親共々就業していない、年金生活である。私はまだ、未成年で高校生だ。
別に今が不幸だとも思っていない。生まれてこなければよかったとかぜんぜん思ってない。というか、幸せなのだ。生まれてよかったー!
家族仲はいいし、何回か病気や怪我で死にかけても見捨てられていない程度には愛されてはいるし、まあ貧しいほうではあるだろうけれど貧乏すぎて食べるものに困るとかもない。
学校だってまあまあ楽しい。アルバイト先の従業員同士も仲がいいし、業務内容も自分に合っていると思う。
趣味はとても充実してるし、将来やりたいことだってはっきりしている。たどり着けるかは別だけれど。
けれど。それにしたって思うのだ。生まれてこなければどうだったろうか。
進路がどうだとか、就職がどうだとかのことに不安にならずに済んだ。バイト先に来るセクハラ客にイライラしなくてもよかった、とか。小学校の授業で"親が子供の頃に流行った遊びを調べて発表しよう"という課題が与えられたとき、周りのみんながファミコンとかのゲーム機を挙げる中で一人だけ"メンコ"だなんて言って笑われることもなかった。父と歩いていて、「今日はおじいちゃんとお出かけ?」なんて声を掛けられて哀しくなることだって。病気とか怪我で何回も死にかけて、怖い思いをする必要もなかったんだろう。
両親も、兄も、貧しさに喘ぐことがなかったのではないだろうか。
両親のエゴで生を望まれ産み落とされた私が、自分のエゴで自らの生を否定する考え方をしているのが悲しい。
生まれなければ無でいられたのだ。何かになることを求められずに済んだろう。
私にはゆっくり考える時間が用意されていない。一刻も早く、一人で生きていくことを迫られている。学校だって卒業が着々と近づいているし、両親はもしかしたら5年くらいで死んでしまうかもしれない。やりたいことはあるけれど、そこに向かってのんびり歩いて進んでいる場合ではない。最短距離で辿り着く方法を見つけ出し実行するまでを、一年半以内くらいにはしないといけない。それを、5年も前からずっと急かされている。そういう環境にあるものだから、まだ華の10代なのに、なんか疲れてしまった。楽に、なりたいなあ。
生きていたくないんだよなあ。今すぐ死にたいとか思わないけど、50歳くらいで死にてえ。
とか、50歳になったときにはきっと覚えていないけどさあ、でもさあ……。
やりきれないんだよなあ。
現代文の先生に「相手に伝えたいことを明確にして文章を作りましょう」だとかよく言われるけど、これを読んでいる人に伝えたい事なんて特にない。ただの愚痴を長々と書いて、最後まで読んでくれたあなたの時間を無駄にすることで少しでもすっきりしたかったのだ。ここまで読んだそこのおまえ、ざまあみろ。ありがとう。
けれどせっかくなので覚えておいてほしい。
結婚・妊娠・出産は権利であるが義務ではない。子供を作るか作らないか、最後にどうするかを決めるのはあなたで、どちらを選んでもあなたのエゴだ。産めば少なからず子供に恨まれるだろう。産まなければ少子高齢化がどうたらこうたらとか、孫の顔を親に見せないなんてどうたらこうたらとかを言われるんだろう。
迷ったなら、特に迷う理由がお金なら、きっと産まない方がいい。産むな。産まないでくれ。産むとしても、金を用意できないことの責任を子供に押し付けないでほしい。「お金がない」を言い訳に使わないでほしいのだ。
「お金がないから大学進学を諦めてくれ」と呪いのように毎日言われ続ける子供なんて、私だけで十分だ。幸せだと思い込んでいないと一人で立っていることすらできないのだって、私だけがいい。
(私だって、一人で立っていられるようになりたいけれど。可哀想とか言われるの、嫌なんだけれども。)
まず発達障害者と一括りにするのは不適切です。人によってはむしろ言語外情報のやりとりも要求される通常のコミュニケーションよりも、言語に集中できる文章読解の方がやりやすいというケースもあります。結局のところ得意不得意は個人的なもので、大学も欲しい学生を採る権利があるはずですから、そこまでの配慮は不可能でしょう。
また、小説の心情読解の問題にもある程度システマティックな解法は存在しますから、感性的なものに頼らずともある程度対策可能です。
そもそも感情というものは、感覚とは異なり、文化的な要素が強いものです。顕著な例として、「恥」と言う感情が挙げられます。日本人とその他の文化の人々の間で、恥という概念は共有されますが、どういう場面でどういうことが起こった時に恥という感情が生じるかは、文化によって異なります。つまり、恥という感情には、後天的に身に付けなければならない、文化の中で定義されるある種の知識・技能の側面もあるということです。
この事の裏を返せば、国語の試験で問われる心情問題というものを、文章として描かれている登場人物の置かれた状況に対し、上述のような定義に基づいて感情を当てはめることができるかを問う、一種の語彙問題と捉えることもできるということです。例えば、主人公と敵対関係にあった人物が、悲惨な状況に陥った主人公に対して一瞬敵意を収め、微かに気遣いを見せた場面があり、そこでその人物の心情を問われたとすると、解答の最大の焦点となるのは「同情」「憐れみ」と言った語彙が出せるかどうか、ということなります。その際基本となるのは、それらの感情表現の辞書的な定義を理解・運用できるかという理知的な言語能力であるはずで、それを要求・評価するのは国語の試験として至極正当であると言えるでしょう。
もちろん普遍的に通用する系統だった解法が存在するわけではありませんし、非論理的な設問も存在しますが、小説の問題と言えど考え方は全くのブラックボックスではないことを理解して、どの科目の試験にも相性のような要素はあることも踏まえれば、多少の向き不向きがあるとしても適切な指導次第で対策可能であると考えます。
余談ですが、昨今入試問題に対する意見を多く見かけます。これを機に、そもそも試験というのは出題者から一方的に与えられるものではなく、受験者やその指導者それぞれが関わって成り立たせてゆくものだということに立ち戻って、出題する側もそれを解く側も、より良い問題を作り、より良い考え方で解く、という意識が共有されるようになることを期待しています。
昨日、バイト先の教え子がある国立大学の赤本で、国語の問題(小説)をやりたいというので付き合った。
江國香織「さくらんぼパイ」が題材だった。シングルマザーと娘の母子家庭で、母親がさくらんぼパイを手作りしたのだが、娘は甘いものが好きじゃないとかでそれを食べなかった。すると母親は泣き出して部屋から出てこなくなった。というところで、傍線が引かれ、母親がこんな状態になってしまったのはなぜか?という記述問題が出ていた。ちなみに、母親の心情はどこにも書かれていない。娘視点で、お母さんが泣いちゃった。と書かれてるだけ。
つまり受験生は、「母親としての自分を否定されたような気持ちになったから」とかそういう心情を、この状況から推察して書かなければならない。これは人の感情を読み取ることがムズカシイ、発達障害の生徒には難しいだろうなあと思ってさ……センターだったら小説でも本文中に説明があるイメージなんだけどね。この大学はここら地元で唯一の普通の国公立大学だから(もう一個は医学単科大)、ここは入れないと高額な私立しかなくなっちゃう。こういう大学で発達障害児締め出しはやっていいことなのかなとか。いったい読解力とは何なのか、って考えてしまった。
センター国語をプロの作家が解いても満点取れないとか、そういうことになにか意味があるのだろうか。
まず、入試の科目なんてのはその道のプロを選抜するものではない。
国語に限らず数学でも理科でも社会でも、プロの学者がすべての問題をミスなくこなすなんて無理だろうし、外国語だって場合によってはネイティブもミスをするだろう。
入試は、特にセンター試験は努力の成果を見るものなのだから、才能があるからと言ってできてしまっては意味がない。ちゃんと"お約束"を知っておくことは、当然要求される。
それに、プロというのは一芸があればいい。例えばプロスポーツ選手だって、アマチュア向けのテストではあらゆる能力が要求されるが、真の一流選手はいくつかの項目が欠けていても活躍できる。メッシが誰よりも足が速く体力があるわけではない。そういう意味でもあらゆる要素が満遍なく問われる試験というのは、アマチュア向けなのだ。
そしてそもそも、文学というのは書き手と読み手の認識が一致しないものだ。書き手の意図が何の誤解もなく読み手に伝わるならば、文学なんてものは芸術でも何でも無くなってしまう。だから、プロの書き手が読み手の立場のセンター試験を解けないのは当然と言えば当然だ。
強調しておくと、読み手の立場のセンター試験、という認識が大切なのだ。試験を出題するのは筆者ではない。出題者は、読み手なのだ。試験の度に読む題材は異なるが、出題者の姿勢は一貫している。だから、受験者に求められるのは、作品の筆者を直接理解することでは決してなく、むしろ読み手でもある出題者を理解することなのだ。
そして読み手である出題者の中には、作品の筆者に対する批判の意識も当然あるだろうから、筆者の意図は正解とは関わらない。しかしその出題には連綿と引き継がれている傾向、理論があり、だからこそ受験者も一人の読み手としてでなく、問題の解答者として試験に臨むことができるのだ。
最後に、「文学の読み方に正解はない」という国語の試験を批判する大義名分は、人間の知的営みの根本的な前提を確認しているに過ぎないことに言及しておく。そもそも、どの学問を取っても、普遍の真理には程遠く、最新の理論などと言っても一つの解釈でしかない。皮肉なことに、科学も歴史も恣意的なものだという議論は入試の現代文に繰り返し登場しているありきたりな話なのだが。
結局のところ、センター試験が呈示する「読み方」を疑問視するなら、数学の、自然の、人間の、「読み方」である他の科目も―本当の正解とは限らない。逆に、センター国語の出題の背後にある理論は、他のすべての科目の理論と同様、絶対普遍のものではなくとも一つの体系を成している。その事が未だに十分に認識されていないことは、センター試験の失敗でもあり、今後試験の形が変わっても国語教育の課題であり続けるだろう。
現代文の授業で山椒魚を初めて読んだとき、この捻くれ者は、私によく似ていると思った。だが決定的に違うところがある。それは山椒魚は世界の神であったが、私は神にはなれなかったという点においてだ。その違いとは些細なようであって、とても重大なことであると私は思う。それは、私が誰かの神に、世界になりたいのに、なれない不完全な出来の人間であるからだ。
まず前提として、この文章はすべて、井伏鱒二氏の短編小説である「山椒魚」を借り、私が私について語るだけの、極めて主観的でくだらないものであるということを示しておく。恐らく十八の人間が書く文章なんてたかが知れていると思うが、それでも私は山椒魚にとてつもない親近感を抱いているのである。それについて少しばかり、私が今まで思ってきたことを書けたらいいと思う。
まず「山椒魚」とは一体何かということを明確にしておく必要がある。山椒魚とは前述したように、井伏鱒二氏による短編小説である。山椒魚は自身の身体が成長しすぎてしまったことによって、住処である岩屋から出られなくなってしまう。外に出ようと幾度となく繰り返す山椒魚だが、それが叶うことはついになかった。外の世界を自由に生きる生物たちに嫉妬を抑えきれない山椒魚は、ついに悪党となり、山椒魚は岩屋に入ってきた蛙を閉じ込め、自身と同じ状況に追いやることで、自身の精神の安定を保とうとしたのである。蛙は屈することなく二匹は岩屋の中で激しい口論を二年にも及んで繰り広げるが、空腹で動けなくなり、死しか望めない蛙に対して、ようやく山椒魚は友情を感じるのだ。山椒魚は聞く。「お前は今、何を考えているようなのだろうか?」と。それに対し蛙は、「別に今でも、お前のことを怒ってはいないんだ」と答えるのだった。
この山椒魚を初めて読んだ時の感想は、「二年も口論を繰り返していたのか」とそれに尽きる。だが数回これを読み深めていくうち、山椒魚とは、ただ友達が欲しかっただけの、普通の人間なのではないかと思うに至ったのだ。山椒魚には寓意が込められており、簡単に例えを出すならば「うさぎとかめ」のように、ほかの生物やもので真意や本質を遠回しに伝えるというものだ。私の中で山椒魚は普通の人間であるし、出られなくなった岩屋は肥大した自意識であり、蛙はそれらをすべてわかっていた人間なのだ。これらも前提に、本題へ入ろうと思う。
何故この文章の題名を「山椒魚は世界の神であるか?」にしたかは至極単純である。私にとって山椒魚は、世界の神であるからだ。もっと突き詰めて言えば、岩屋の中に閉じ込められた蛙の世界であり神であるということだ。まず先程書いたように、岩屋は肥大した自意識であると私は思っている。山椒魚はその自意識に閉じ込められた、或いはそこから出ることを拒んだ所謂可哀想な人間に過ぎない。蛙はその山椒魚の自意識を満たすため利用された、こちらも可哀想な人間であるという認識をしている。山椒魚は蛙を利用し監禁することによって、死の間際に、世界となり神となることに成功したである。
人間が人間の神になるために必要なことは、その標的からすべてを奪うこと以外に存在しない。山椒魚は蛙を自分の住処に閉じ込め取り入れることによって、蛙からありとあらゆる自由を奪うことに成功している。それがなければ山椒魚は神になれなかったし、もしかしたら山椒魚は図らずも神になっただけかもしれない。だがそれだけ、人間が人間の神になるということは難しいことなのだ。それが善悪のどちらに所属するかはまず置いておくとして、私はそれをやってのけた山椒魚を素直に尊敬する。山椒魚は悪党となることで蛙を閉じ込めたが、この時の山椒魚の心境を鑑みるに、標的が蛙であった必要はなかったのだと思う。よくニュースで聞くような、無差別殺人犯の言う「誰でもよかった」と同じように。ただこの「山椒魚」にとって、この蛙が蛙でなかった場合、二年間口論が繰り広げられることも、最後にようやく友情が芽生えることもあり得なかったのではないだろうか。
しかし、だからといって山椒魚が神であるということに相違はない。閉じ込められた蛙にとっては、憎むべき対象も、愛すべき対象も、結局は山椒魚しかいなかったのである。蛙は最後に「今でも別に、お前のことを怒ってはないんだ」と言った。それはおそらく、蛙自身も、山椒魚を神とすることで救われた一人の人間だったからだと思う。山椒魚が蛙を閉じ込めたとき、蛙は、閉じ込められた岩屋の中で堂々と「俺は平気だ」と宣言する。それは山椒魚を見くびってのことだったのか、それとも逆に、山椒魚ならば…という、敬愛の証だったのかもしれない。ただ私が思うのは、おそらく蛙も、もしかしたら山椒魚と同じような立場になっていた可能性があるということだ。メタフィクションのような話になってしまうが、蛙は山椒魚よりも体が小さいので、少なくとも岩屋から出られなくなってしまうということは考えにくい。なので、自由に飛び回ることのできる外の世界―要するに「山椒魚」の世界観で「社会」で、同じ立場になっていたかもわからないのだ。山椒魚は肥大した自意識から出られなったが、それはあくまでも人間の内側で起こっている出来事に過ぎない。自身の激しいナルシズムが引き起こす極端な自己評価と他者評価のギャップに悩み、それを見栄で隠そうとしたために発生した、ある種一時的な反抗期のような、よくよく考えてみれば、我々も通ったことのあるような道でしかないのだ。だが蛙は人間の内側でそれを発生させてはいない。人間と人間が大量に入り混じる、失敗の許されない、いわば監獄のような世界でそういった問題に悩まされていたとしたら、それはきっと山椒魚よりも可哀想で哀れな姿になっていたに違いない。山椒魚は蛙を閉じ込めることで、自身と同じ状況の人間を作成し、その結果精神の安定を保とうとしたが、それは蛙も同じだったかもしれないということだ。蛙は山椒魚に「わざと閉じ込められる」ことによって、可哀想な人間に捕らえられ逃げられない自分を作り出し、自分の社会に対する折り合いのつかない問題から逃げ出そうとしたと考えれば、最後の「今でも別に、お前のことを怒ってはいないんだ」というセリフにも納得がいく。
この文章を書くにあたって、自分の「山椒魚」に対して抱いた如何ともし難い薄気味悪さというのは、蛙によってもたらされた山椒魚への許しが生み出したものだと気付いた。小説であると一言言ってしまえば確かに終わりなのだけれども、例えば自分が身勝手な理由で他人に監禁され、しかもそこで死を迎えなければならないとなった場合、最期に相手を許すことが出来るものだろうか。それが愛する人や家族ならいざ知らず、どこの誰ともわからない人間にいきなり監禁された時点で、普通に考えて怒りなんて言葉では済まない。それこそ二年間によって繰り広げられた喧嘩でさえ、この最期によればおつりがくるほどだと思う。最初こそ「二年間も口論していたのか」なんて暢気な感想を抱いたけれど、少し考えてみたら、最期の蛙の言葉は、私にとっては最早呪いだ。もしも私が山椒魚だったとして、自分が閉じ込めた相手が死の間際に自分を許す旨の発言をしたら、嬉しさも喜びも何も感じることは出来ない。むしろ、「この人は今まで何を考えて自分の思い通りになってくれたのだろう」という不信感すら残ってしまうだろう。自分という一人の人間を殺したという事実から逃げるなよという、怨念のようなものさえ感じさせる。それを考えると、山椒魚が蛙を閉じ込めたというよりも、蛙のほうが、山椒魚を好きに操っていたようにしか考えられないのだ。蛙は山椒魚のことを、自分と似た人間だと思い、自身が社会に出たことで削られてしまった自尊心や自意識を回復するために、「わざと山椒魚と一緒にいた」ようにしか思えない。物理的にそこから出られなかったとしても、こころだけでも自由になることは出来たはずなのだ、山椒魚と違って自由に泳ぎ回ることが出来ていた人間ならば。だがそうではなかった。ということは、蛙は自由に泳ぎ回っているように見えて、その実、社会という檻から逃げられず、自分を肯定するために必死だった、ただの哀れな、普通の人間でしかなかったのだ。
最後にもう一度、これは私が井伏鱒二氏によって描かれた短編小説「山椒魚」を借りて書き殴っただけの、主観的で陳腐な文章であることを明記しておきたい。ここに書かれていることはすべて、私が勝手に作り上げた妄想であって、おそらく山椒魚には、これよりももっとポジティブなメッセージ(寓意)が込められていることだろうと思う。しかし私にとって「山椒魚」は、どうにもポジティブなものとは受け取れなかった。可哀想な人間が寄り添って、互いの削れた部分を埋めるために、互いの世界になろうとする。そんな常人には理解出来ない、孤独で閉鎖的でどこまでも自分本位な人間の本質を描いているように見えたのだ。
私は山椒魚に似ている。けれど私は誰かの世界にはなれなかった。私にとっての「蛙」がこれから現れることはあるのだろうか。山椒魚が蛙を操っていたのか、蛙が山椒魚を操っていたのか。本当のことは、誰も知らない。
了
来年受験のリアル17歳が増田を読んでるとは思えないが、ムーミンがどうとか下らないことで盛りあがってたので一応。
試験が終った教科についてあの問題がどうだったとか友達とお喋りしたり参考書をチェックしなおすのは完全に意味が無いから、さっさと切り変えて次の教科の参考書なり教科書なりを読んでいた方がいい。
私は事情があって今年センター試験受けに行ったけれど、無駄な感想戦をしないというのを徹底してたのはまあ1割くらいだったな。たまたま隣に座ってた子がそのあたり徹底していて、1日目の試験が終って退室するまでの待ち時間に次の日の理科の知識チェックをしてたからこっちも身が引きしまった(まあ結果としてはあまり奮わなかったが)
もし試験から帰ったあとtwitterやらなんやらでムーミンがどうとか言ってたりした受験生はちょっと危機感が足りないと思う(まあ文系センター利用の子は1日目だけで済むからそういうのも居たかもしれないけど)
地理Bを本当に受けた感想からすると第5問はかなり難しかった。ムーミン(4問目)より前の北欧三国の各地の気候(1問)とエネルギーバランス(2問)を両方落したし、産業と貿易について(3問)も自信を持って答えられなかった、税負担率と公的社会支出(5問)は簡単だったけど。
ムーミンはあれ作者はスウェーデン語話者のフィンランド人じゃなかったっけというところで手が止ったけど、正直北欧3国の母語がどうとか宗教がどうとかいう問題を出されるよりはよかったじゃないかな。ここで失点したから89点とか言う良いんだけど微妙な点数(あと1問で9割台)になってしまった。
あと個人的にはセンター英語第5問が宇宙に行ってた方がびっくりしたぞ、あそこは近年はメール文読解から物語文読解になってたから充分ありえることだったけど(ちなみに英語第5問の解き方は普通に読んで普通に解くのかコツらしい。第6問みたいにパラグラフ毎に分解して解くとかテクニックは使えない)
自分の感想戦をやってたら長くなってしまったので繰り返すけど、こういう感想戦は試験中に絶対にやるな、自己採点まで終ってからにしろ。あと毎年センター現代文伝説みたいなのがネットにあがってくるけどあれはワンセンテンスだけ抜きだして笑い話にしてるだけで読解問題の得点UPには1mmも役にたたないから素直に本文を読んだ方がいいぞ。
長い文章が読めないクソザコナメクジが多いので、高校時代に現代文偏差値80オーバーだった俺が要約してやる。
ある程度長く、主題がはっきりしているものに限る。一行じゃない? 環境依存だ。知らん。
せめて違法サイトが勝ってる所は「無料」の一点だけであってくれよ。
結局は一番弱い末端の人間が真っ先に切られる
新成人の方々に喜んで貰えるのが良い成人式の条件だ。成人式に関わる全ての大人はそのことを念頭におき、責任を持ってあたるべきだ
リスクや損害があることは人の自由を奪っていい理由にはならない。リスクや損害には個別に対処すれば良い。
以上。他にも要約してほしいものあったら要約する。
はてな記法慣れないからもっと見やすくなる方法あったら教えてほしい。
この記事を書いたきっかけは違法アップロードサイトが人気なのは「無料だから」だけではないをまともに読めないスカボンタンが多数存在するという追記を見て絶望したからです。
増田本人に要約間違ってるって言われたらウケる。あえて言おう。それは書いた奴が悪い。
でも一番上の記事だけはヒャクパーあってる。命をかけるよ。
要するに、
「受験ゲームのルールがそうなってるんだからしょうがないでしょ」
という話だな。
俺も、今の古文漢文教育は無駄だと言われても仕方がないと思っている。
ただ実は現代の文法は、古文漢文を知らないと理解できないものがあることを知ってほしい。
「は」と「が」の使い分けの説明や
「浅い」「浅ましい」などの形容詞のいわいる「シ(浅し)」「シク(浅ましく)」は
状況→「シ」と情感→「シク」で分類されていると『万葉集』『源氏物語』などの古典を引用しながら説明している。
是非、一度読んでみてほしい。
俺が、学習指導要領を改定できる立場で、古文漢文教育に対して一言申せるならば
現代文と古文漢文の枠組みを外して、まず国語文法を教育することを提案したい
(正直、現国の読解なんてマークシートなら、出題者の意図読めば、問題文と選択肢を読めば解けるし、良く批判される「筆者の気持ち」は今も問題にされるのか?)。
高校教育や大学入試における古文漢文の要不要論が盛り上がってる。
・生身の人間が古文漢文を自力で読み書きする必要のある職業人口などごく限られている。私の本音を言えば、そんな能力であれば大学か専門学校が専門教育として施せば十分だろうということである。
・高校教育の古文漢文は授業にせよ大学入試科目にせよ選択科目として設置すればいい。古文漢文が既習でないと教育が成り立たないと大学側が思うなら、受験生に古文漢文を課せば良いのだ。
・我が国の言語には古文や漢文というものがありますよ、という触り程度の授業なら中学で国語の授業の一環として少々やれば充分。
・古文や漢文で書かれた文章の中身を深く学ぶのが有意義なのだとしたら、それは現代語訳を使って学ぶことにして、その授業時間は、現代文の授業、あるいは歴史、政経、倫理の授業など、内容に応じて他科目に振り分ければいい。
・国民が自国語の古語を読み書きできなくなるのは良くないみたいな漠然とした主張をする人もいるが、古文漢文などあと10年もすればAIがきれいに現代文に翻訳するようになるだろう。古文も漢文も現代文と地続きの言語である。そういうのを解析して翻訳するのはAIの得意分野だろう。技術的な難易度だけで考えたら、漢文⇔古文や、古文⇔現代文の完全な自動翻訳は、日⇔英の完全な自動翻訳が実現するより早く実現する可能性すらあると思う。
まず、古文漢文が暗記ゲームと言っている時点で元増田の学力は大したものではない。古文漢文は語学だ。英語学習を暗記ゲームだという人間がいるか?もちろん語学に語彙の習得は必要不可欠だが、それ以上に実際の文章を繰り返し読みこむことが重要だ。
元増田はレベルの低い受験生なのだから、自分のレベルに見合った古文を受験に必要としない大学に入ればいいのだし、職業訓練が受けたいのなら大学にこだわらず専門学校に入ればいい。
そもそも、なぜ古文漢文だけを目の敵にするのかがよくわからない。よく槍玉に挙げられる現代文の読解問題はいいのか?漢字の書き取りは?三角関数は?歴代徳川将軍の名前は?各地の気候の名称は?歴代ローマ皇帝の名前は?各種金属の炎色反応の色は?気体の状態方程式は?三単現のsなんて気にしなくても会話は通じるのではないか?
ごまんとある大部分の人間には必要ないであろう学習内容の中から古文漢文を選ぶそのセンスが嘆かわしい。古文漢文は語学だ。語学である以上、これは知識を得るための手段、言文一致以前のすべての文章を読み解くための手段なのだ。雑学の集積を知性と呼びたがる最近のクイズ番組に影響されたのか知らないが、雑多な知識を頭に詰め込む時間を作るために古文漢文を廃止せよというのはナンセンスだ。知識という魚を獲るための釣り竿を魚と交換するのは愚か者のすることだ。
しかし、頭の悪い受験生が古文漢文の存在に不平を言いたがるのは理解できなくもない。足りない頭で分不相応な大学に受かるため何段にも積み重ねたゲタを履き続けるのは苦痛だろう。最悪なのはそれに同調する中年はてなユーザーたちだ。大学で何も学ばず三角関数も古文も英語も必要ない仕事をしている、もしくは仕事すらしていない者が大半だろうから無理もないが、どうか古文漢文を減らしてエクセルの使い方や株の買い方を学ぶ時間にあてるべきだなどという低レベルな妄言を垂れ流すのはやめてほしい。あなたが高校や大学で学んだことをきれいさっぱり忘れて知性を必要としない日常を送っているのはあなたが自分の教育に失敗したからだ。お願いだから頭の悪い人間が考えた高等教育のあるべき姿なんてものには何の価値もないことに気づいてくれ。
なんか最近はてなでは「古文・漢文は不要か論争」とやらが流行ってるらしい。
https://anond.hatelabo.jp/20180104132743
http://mubou.seesaa.net/article/455988153.html
これらの記事、およびそれに対するはてブのコメント等を読んだ感想をまず一言にまとめる。
「ぐだぐだ言ってないで、まずデータを元にして提言してくれませんか?」
はてなは割りとプログラマーとかそういう人が多いんだよね?だったら「推測するな計測しろ」とかの言葉も知ってるよね? なーんで教育関連の話題になるとみんなそれを忘れて馬鹿になるのかなぁ。
もし私たちに無限の時間と、人的・物的資源があるのなら、そりゃどんな学問だって、いつかは自分のためになるかもしれないのだから、勉強すべきである。
しかし当たり前だけど、私達が教育にかけられる時間・資源は有限だ。だから、その中で取捨選択をしなければいけない、その中で、古文・漢文は他の学問に比べて、価値が低いから捨てるべきではないか。これが増田の主張だろう。
つまり、これは比較の問題なのだ。だったら、賛成にしろ反対にしろ、まずすべきは、比較可能な形、つまり数量で、それぞれの教科の価値を示すことなはずだ。
いや、もしかしたら数量で示そうにも、そういうことを調査した研究とかがないのかもしれない。僕は最初そう思った。それなら話はわかる。
ところが、探してみると、研究はきちんとあるのだ。ちょっとインターネットを検索しただけでこんなに見つかった。
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2017/12/post-9108.php
http://mathsoc.jp/publication/tushin/1804/1804nishimura.pdf
http://eic.obunsha.co.jp/viewpoint/201112viewpoint/
この中から「「数学・物理」得意な理系出身者は、“高所得”!」というレポートを読んでみよう。
> 英語、国語、数学、理科、社会の5教科、及び「(得意教科)特になし」において、3世代ともに、“数学の得意者が最も高所得”となっている。「数学」得意者の平均所得(3世代の高年代順。以下、同)は、724万円 → 561万円 → 414万円である。
> 数学に次いで、理科=708万円 → 545万円 → 398万円/社会=690万円 → 540万円 → 372万円/英語=652万円 → 477万円 → 341万円/国語=519万円 → 410万円 → 313万円と、各教科の得意者の平均所得が続く。なお、「(得意教科)特になし」とする者は国語の得意者よりも高所得(549万円 → 426万円 → 356万円)を示している。(図1参照)
つまり、もっとも教育において所得を向上させる、つまり「価値がある」のは数学であり、ついで理科、社会、英語。国語はむしろ所得を下げる負の効果しか持たない。だから国語教育につぎ込む時間・資源があるのならば、その分数学・社会・英語に時間・資源をつぎ込むべき。やっぱり古文・漢文は不要だったんや!
……とは、あたり前のことだがならない。この調査には多くの難点がある。列挙すれば
など色々ある。
すまんな。
「とともに」はそこを区切りとしているので、古典Bの目標の理解に誤りがある。そこは解説で明確に「二つの部分で構成」とされているので確認するとよい。古典Bは態度を育てるだけでなく、能力を養うことを目標としている。
まあね。それは見逃してくれよ。
なんで見逃してくれっていうかって言うと、その目標のウチ前半にあたる
「古典としての古文と漢文を読む能力を養う(とともに,)」の部分って、何も言ってないに等しいからだよ。
たぶんちゃんと高等学校学習指導要領の原点にあたってくれたんだろ。
ここでは、「近代以降の様々な文章を的確に理解し,適切に表現する能力を高める」と「人生を豊かにする態度を育てる」となっていて、
現代文Bを学ぶのは、「近代以降の様々な文章を的確に理解する」「適切に表現する能力を高める」「態度を育てる」と明確に目標が定まっている。
で、翻って古典の古文と漢文は「読めるようになる」「態度を育てる」としか書いてない。
読んでどうすんねん、というところがスッポリ抜けてんだよ。
本来はここに、「近代以前の文献調査を行うことが出来るように、基礎知識を身につける」みたいな目的が入って無きゃイカンのよ。
それを試験で確認するなら判る。それが必要だと考える大学がね。
現状の、国語の一部として古文漢文をやった上に、そりゃ教養で必須みたいに言われんの変じゃねって話な。
また古典Aと古典Bを挙げているが、試験科目としては必ずしもこれらを網羅する必要はない。違いを気にする人は少ないが、
各大学で国語の試験範囲として設定されている科目名は異なる。例えば、東大文科は古典Aではなく古典Bを出題科目としている。最近のセンター試験国語は国語総合が出題科目のはず。
それは、最近では古典(古文・漢文)の比重が減ってきてるってのでフォローしてるのでどうかひとつ。
まあ、ソレを網羅する必要はないっていうのは、(東大文科が古典Bを出題科目としているってのも)
「古文漢文を国語の一部として試験に課す大学が多くある現状ってオカシクね?」って元増田に対する回答にはなってないし、
オレの「教養は学力とは別枠にしておくのが良いのでは」ってのとも無関係よね。
蛇足ながら追記すると、上記の話とは全く別に、東大なら教養を求めるのは判らんでもない。
古文漢文がなくなったら、30年くらいで極端な日本語右翼と左翼がウザくなってくると思うんだよね。
別に100%読解できなくたっていい。現代文と全然違うけど、何となく現代文と似ている、そう実感するだけで十分教育の価値はある。
多分、コレ読んでいる人が無意識にやってるし、普通の人間ならできると思っている当たり前のことの土台に古文漢文がある。
それがなくなる。
テラワロスwが公用語になったら嫌だろ?それは会社や公共機関でそういうの使っている奴を叩いていればいいってもんじゃないんだ。
https://togetter.com/li/1107013 「現代科学の敗北リスト」が笑えるようで笑えないレベル みなさんも気をつけて
昨日と今日が同じなら正しいというのは安直だけどリスクが少ない。
日本語にはコレという型がありそこから絶対に逸脱してはならないという教条主義。
ら抜きことばは「可能」「敬意」を区別する合理的な進化だと認められない人々。
これから先、
・もっと極端な話をすれば顎の骨格の変化が及ぼす音への影響
そういった様々な要因で我々が使う口語まで変化して、それが合理的だと見なされて標準化するかもしれない。
そういうときに「これでいいんだ!」と日本人が受け入れる器の大きさ、それは古文漢文教育にかかっている。
「みんなバラバラでいい、何なら日本語から正式文法、正書法なんて概念を廃止してしまえ。一人ひとりの言葉は違っても全て公文書的に認める」
なんて主張がまかり通り
もしくは、絶大な人気を獲得した芸能人のそれや、インターネットスラング
社会が「過去から現代への日本語の進化には、これこれこういう理由があって、この用法はあくまで乱れた日本語の域を出ない」と線を引く力。
これ以上文法が乱れたら、言った言わない・どういうつもりで言った論争が終わらなくなる。
基本的には老若男女問わず貧乏人向けで、それ+子連れがターゲットだろう
なんかサイゼリヤを思い出した
昔オレがやらされたんだから、オマエもやれよ。
努力が足りないっていう精神論の土台になってる意味で現代では「積極的に廃止すべき」だとも思う。
ただ、オレの「要らない」ってのは、元増田の主張とは立ち位置が違う。
元増田の「人生を左右する受験に必須とするな」という主張には反論できるんだよね。聞いて欲しい。
高等学校学習指導要領をスタートにするのは同意してもらえると思う。
そうすると、古文漢文って「国語」の以下の6つの科目のうち2つにあたる。
だから、ブコメの「漢文には○○という効能がある」と言うのは全部ダメで、
それを言うなら「漢文」を「スプラトゥーン」に置き換えても同じ論立て出来るよな?ってなる。
その論立てだと反論になってないってのは良く分かる。
だって、スプラトゥーンも短期間でPDCAサイクルを学べ、さらに非言語コミュニケーションを通じて素早くチームでの立ち位置を明確にして、彼我の戦力差からどのように地形を利用するまでを、なんとゲームとして楽しく学ぶことが出来て現代社会を生き抜く必須技法が学べる、とも言えるわけであって。
オレが思うに、元増田は、「スプラトゥーンが受験科目に入っている世界で、それの意義に反発している」と同じなんだよね。
スプラトゥーンに意義があるのは判る。効能も確かにあるだろう、だがそれは受験科目に必須とすべきなのか?と言う。
とは言え、ゼロベースで積み上げ式で受験科目を考え直そう!という提言でも無かったわけだし、判り難いとも思う。
だから、何故に「漢文には○○という効能がある」というのがダメなのかを説明する必要がある。
高等学校学習指導要領における、国語の中の古典で謳われている効能で説得する必要がある。
そこを無視すると「歴史はイケメンを口説くのに必須」とかと同じになっちゃうんだもの。
そんなん教師は知ったこっちゃないし、オマエだけだろソレ、みたいなね。
その観点で学習指導要領を読むと、もうブコメの効能とか的外れも良いトコだよね。
古典Aは古典に親しむ態度さえ育てば、一部法律の古文っぽいのを読めるようになれなくても問題ないし、
古典Bは人生を豊かにする態度さえ育てば、読解能力が全くつかなかろうが関係ないんだよね。
本来問題にすべき古文漢文の話は、この学習指導要領における目標の部分であって
「態度育てるだけじゃダメじゃね」とか「態度こそが重要だ」みたいにならんとイカンわけよ。
そして、「古典に親しむ態度を育てるとか人生を豊かにする態度を、現代日本で人生を左右しかねない受験科目に加える意義とは?」みたいな話になって無きゃ全く話しにならんワケですよ。
オレは要らないと思ってるからそれは後述する。
ただなあ、元増田の「古文漢文が人生を左右しかねない学力試験に必須か?」には、オレは反論できる。
元増田も言っちゃってるじゃん。「"機会を与える場"としての中学・高校を否定するつもりはない」って。
大学受験における入学試験、学力試験な。アレは何を計測しているの?
基本的には「高校卒業程度の学力があり、さらに追加で一定の学力があり、出来の良い方から入れたい」ってことだろ。
要は「高校で学んだはずのことを、より多く吸収できてれば良い」ってことだな。
大学本来の学力試験の意義から考えれば、高校でキチンと学んで基礎を身につけてきたかね?
知識人として育てる/育つに値する人物かね?って問われているわけだ。
「機会を与えられたら、余さず吸収できる人間か?」と問う学力試験において、高校で学んだはずの漢文が身について無きゃ、ほかも推して知るべし、と言われても仕方がない。
だから、高校の学習指導要領に定めがあり、高等学校卒業程度認定試験でも問われる学力を、大学の学力試験で確認するのは、合理性がある。
さて、高等学校学習指導要領に定まっている科目の全てが大学入試に要るわけじゃない。
保健体育、芸術、家庭とかね。チョロっと書いたけど、高等学校卒業程度認定試験をベースに軽重付けてるのが現状ってところだろう。
正直に言えば、ワリと古文漢文って入試では軽視されてるから、まあ比率としては現代では既にして小さくなってるとも言える。
古典に親しむとか人生を豊かにとか、いわゆる武家公家の伝統から来た明治の文化人みたいな教養を求めるのは、ちっと早いんじゃないかな、と。
「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トス」の頃からの残滓に見える、とも言える。
高い学識と深い教養を持った官僚と学者を生み出すために、高等教育を施す場所という意義は、既に失われてはいまいか、と。
だから、高等学校卒業程度認定試験から外すべきだと、オレは思う。
高等学校卒業認定試験が学習指導要領に定めのある全科目を試験していない以上、試験している科目は学力として重視していると考えるのが自然だ。
(大学入学資格検定の時にはあった家庭科が廃止されたのも、趣旨としては同じだろうし)
高校では親しみ、それは高校で学ぶ学力とは別だ、と明確にすべきだろう。
元増田の主張は、「古典(古文・漢文)を受験科目に加えるな」だった。
増田への反論は、『大学として「高校で学んだ学力を試験する」のであれば、国語から古典を除くのは不合理だ』になる。
オレの主張は、「古典を学力の一部と看做すのは現代ではそぐわないので、まずは高等学校卒業程度認定試験から外すべき」だ。
学習指導要領の古典の目標をみても(保健体育や芸術の目標に意味合いとして近いのに)学力に含めるのは、現代の高等教育の意義からするとズレがあると思う。
最終的には、芸術や地理歴史の科目として古典を分類し直すのが、筋論としては適切なように思う。
(論語を読むのは芸術だろう。漢文(訓読)を使ってきた長い歴史を理解するなら地理歴史だろう)
「法律文を読み下すため」とか「読解能力を上げるため」とか言うなら、まずは学習指導要領を改定するところからだろうと。
そうじゃない実務的な面でだ!現実を見ろ!というのであれば、
入試程度の古典の知識でその判定してるってマジで主張するつもりなの?とは思うなあ。
漢文の問題で法律文を読む適性を試験してますって真顔で言われたらその大学はお取り潰しで良いのではないでしょうか。
もちろん、古典に親しみ、人生を豊かにする態度すら持てないものが高等教育を受ける資格はない、という反論はありうる。
現代日本におけるトップクラスの実務家たる弁護士が、現代語の基礎たる古典程度追加で勉強して試験を突破できないのであれば、その学力には疑問符がつくので日本でしか通用しない教養であっても歴史的な意義から残すべきである、という主張もありうる。(科挙末期みたいになりそうだけど)
ただなあ、「漢文には○○っていう効能があるよ無知乙」みたいな主張は「スプラトゥーンには○○という効能があるので受験科目にすべき」ってのと同じだと思うよ?
じゃあお前が何を主張したかったのが古文ではなく現代文で書いてくれない?
他人の読解力を求める前に反省して書き直すとか注釈追加するとかできると思うんだけどお前アホだから気が付かなかった?
少なくとも再三、マクドナルドは安かろう悪かろうじゃ駄目、プレミアム路線は駄目、唯一の回答は普通のバーガーって伝えてきたつもりだけど
俺は自分のことを伝える労力はできるだけ惜しまずに伝えてきたつもりでお前も分かってるようだけど
お前に限っては全然伝える努力もしたくないし誤解するなをこれから連呼していくのかな?それなんか説明の足しになってます~?
100回誤解ちゅるな~ってお前が言えば俺はハッとしてお前の意図を汲み取れるんだろうか、それは漢文?古文?あなただけの言語?
こんな記事を読みました。
『日本よ、この期に及んで「もじぴったん」が必要だというのか』
えーと、この人の言いたいことを簡単にまとめると、
・もじぴったんというのはことばのパズルであって、単語が一気に複数出来ると嬉しい以上の実学的な意味はない
ということだと思います。
これは多分、「もじぴったんって何の役に立つの?」という、よくある疑問に還元出来るのだろうなーと考えます。
ということでこの記事では、「何故もじぴったんが必要なのか」ということを書ければと思います。
「文字を並べるついでに、2〜4文字くらいのマイナーな語彙がめっちゃ覚えれるという超お得科目」
です。
文字を並べるというものはそれ自体確かに楽しくて、しかも1文字足すだけで3単語作れたりするととてもとても楽しいです。もじぴったんは、それ自体「たのしいゲーム」であり得ます。
けどですね、もじぴったんって決して楽しいだけのゲームではなくて、実際にドすげえ教育効果を持っているんですよ。
それは、「極めて短いスパンで、物凄い効率的に「多くの言葉を作れる文字」を探す練習を積めること」。一種の「語彙力ドーピングツール」なんです。この点についてだけ言えば、もじぴったんは明らかに現代文よりも効率がいいと思います。
しゆうはすう
すげえシンプルな単語ですよね。波が単位時間あたりに繰り返される回数のことなんですけど。
これだけでも、このたった6文字だけでも、「邑」「数」「週」「端数」「秋波」をすごーくちゃんと読まないと見つけられない、ってこと、分かって頂けるでしょうか?
といった疑問から日経新聞がやたら使う表現であることがわかったりします。
これですね、もじぴったんってすごい情報の密度が高くって、いちいちきちんと「どマイナーな語彙」を覚えてないと、ぜーーったい高難易度のステージをクリアできないようになっているんです。手持ちの文字でどれだけの言葉が作れるのか、細かいレベルまで全部必要になる。