はてなキーワード: 現代文とは
いろいろ書いてやろうと思ったのに、言いたいこと大体書かれてた。
政治経済・情報等、他にも鍛錬すべき科目やスキルがある中でこれらに比べて古文漢文をあえてやる意味ってなんですかね。教養というには専門性が高すぎる知識じゃないですかね。
そりゃ古文漢文できるに越したことないけど、以下の妥協案じゃダメなんでしょうかね。
・選択科目にする
ブコメ欄の指摘をみてると、高校のカリキュラムとして古文漢文へ時間を割く前にディスカッション・ディベートの時間を設けたほうがいいように思う。
http://mubou.seesaa.net/article/455988153.html
自分の経験「だけ」じゃない。自分の経験からして「も」って書いてるだろ。
ほら、現代文の授業増やさないから、「も」の意味もわからない国民が出てくるんだ。君も歪んだ国語教育の被害者だよ。だから、「だけ」と「も」の区別も付かないんだ。
理系東大院卒。君は正しい。自信もて。君が現役生なら、俺は君の2倍近い年齢だが、俺の経験からしても、古文漢文は受験科目に不要だ。
古文も漢文も、そりゃ勉強すれば役に立つが、それより現代文の授業、特にディベートや作文が日本は足りてなさすぎる。だから、他国の人間に議論でボロ負け。無駄なコミュニケーションが発生して時間を取られ、生産性はだだ下がり。どこの国も、相当な金かけて、国民がロジカルシンキングできるように公教育やってんだよ。日本だけやらなくて、商談に勝てるわけがないだろう。国語の授業比率増やす余裕がないなら、せめてその中では古文漢文より現代文をやるべきだ。
そもそも、古文漢文が役に立つという方向性で君に反論してくるやつは何も言えてない。だって、役に立つ度合いなら、漢文の代わりに中国語勉強した方が役に立つに決まってる。より役に立つ中国語が受験科目じゃないのだから、「役に立つから」という理由付けは破綻してるよ。
東大院卒。なぜ日本の国語の授業に古文・漢文が入っているか教えてやろう。理由は、簡単にいえばディベートや作文の穴埋めだよ。
欧米の国語の授業じゃ、ディベートや作文の授業がたくさんある。企業での報告書・企画書の書き方とか、日本じゃ入社してから習うけど、向こうだと中高の国語の授業で習う。
日本じゃ、ディベートや作文の授業の割合を低くして、そのかわりに現代文は文学鑑賞中心。そうすると国語の授業が文学鑑賞だけになっちゃうから、古文や漢文をやらせて穴埋めしているのさ。
なんでそんなことしてるかって?国民がディベートや作文がうまくなると、政府批判がうまくなって、政府に歯向かうようになるからさ。
今の受験生にはピンとこないだろうけど、今から40年ぐらい前、1960年代には、そうやって知恵をつけた学生が実際に政府に歯向かおうとしたことがあったんだよ。それで、日本の学生が日本政府に対して起こしたテロ事件が多発したんだよ。
今はスマホで議論できるだろうけど、当時は通信手段が新聞・ラジオのような一方向のものしかなかったから、一人、政府批判がうまいやつがいてそいつが一度、記事を書いたりラジオで話したりすれば、そいつの考えに一斉に皆が同調してしまう。
そういうのを防ぐために、論述とか作文の授業は、もちろん禁止はしないけど必修じゃないようにして、政府批判されないように制度を作ったんだよ。
あれは読解に文法の理解や単語の暗記が必要だが、ある程度数こなして一定のパターンを把握すれば、
それに比べると現代文は玉石混淆というか、そもそも内容に全然共感できない文章も多々あって、
今年ももうすぐセンター試験だ。何の罪もない高校生たちが、「古文・漢文」という暗記ゲームを強制され、不当にも人生を左右されている。
おれは実学至上主義者ではない。学問が、社会に対して有益である必要はこれっぽっちもない。そもそも「古文・漢文」という"学問"が、根本的に無意味だと立証するだけの道具はない。大学で専門的に研究している人たちにとって、古文・漢文はどこまでも「面白くて」「魅力がある」のも理解できる。「役に立つ立たない」じゃなくて「好き」で学べるのは素敵なことだと思うし、好きな人のためにそういった場を用意するのは社会の義務だと思う。多少なりとも共感能力と良心があるんだったら、文学部不要論とか言ってないで税金投入しろよ、って思う。
ようするに言いたいのは、ここでの古文・漢文不要論と、大学での文学部不要論は全くことなる議論だってこと。
「大学受験には選択科目があるのだから、嫌ならやるな」っていう反論があるだろうか。話にならない。嫌でもやらなきゃいけない構造について問題にしているんだ。
たとえば、法律に興味があって、東大を出て弁護士になりたい高校生がいたとする。彼らは必死こいて下二段活用やらレ点を覚えて、受験に挑む。受かったら数週間で綺麗さっぱり忘れて生涯思い出すこともないだろう。まぁ、百歩譲ってそれはいいよ。でも、落ちたらどうする? 他の科目は合格点に達していたのに、ただ古文・漢文ができなかったせいで、落ちたらどうする? 本当に法律が好きで、法律について学びたくて、東大に行こうとしたのに、全く関係ない「古文・漢文」のせいで行けない。一流の弁護士になって、社会に貢献したかもしれない。彼の可能性を、人生をダメにしてまで、「古文・漢文」は受験科目として”必要”だと言うのか。英語や数学で落ちたんなら、まだ分かるよ。しょうがない、浪人して一年頑張ろう、って気持ちになれるだろうよ。でもさ、「古文・漢文」なんて死んだ言語で18歳の人生を左右すんなよ。元カレが忘れられなくて新しい恋に進めない女子かよ。国家レベルで失恋引きずるな。
こういうことを言うとすぐに保守的な人たちが湧いてきて「日本文化ガー」「伝統としての教養ガー」と言い出すが、まぁ、たしかに分からなくもない。「色んな学問に触れる機会を与える」のは大切なことだ。色んな文化に触れるのは、良いことさ。おれは別に面白いとは思わなかったが、漢文に出会い興味を持った学生が古典研究者の道に進むことだってあるだろう。そういう"機会を与える場"としての中学・高校を否定するつもりはない。
そ れ を 受 験 科 目 に す る な 。
「古文・漢文」を教えるな、とは言わない。ただ、それなら道徳とか家庭科の授業と同じ括りにしろ。「古文・漢文」に学生の人生を左右させるな。
あるいは、受験の時点で就職活動が始まっているのかもしれない。どう考えても意味のないタスク、心からやりたくないようなタスクをそつなくこなせる人材を、大学側が要求しているのだ。はっきり言うが、愚直にも「古文・漢文」をせっせと暗記してきた連中は、生涯奴隷だ。
それでも、それでも、それでも、
やっぱり「古文・漢文」は必要ですか? 納得のいく理由があるなら、是非聞かせてほしい。
[追記]
「古文・漢文」という学問が根本的に無意味だって言ってるわけじゃない。受験で必須にする必要はないだろ、って話ですよ。
はっきりと書いたつもりなんだけど、伝わらないかな。もうちょっと現代文教育に力を入れたほうがいい。
→例えが悪かったかもしれないが、法律を学ぶのに必要なら大学入ってから教えればいい。大学受験という選抜の場で、有能無能を仕分ける基準にするなって話。
「反論を聞く気がなさそう」
→聞きます。
→これに関してはある程度の偏見を認めるが、少なくともおれは使っている。それはともかく、ここでは「古文・漢文」が受験科目として必要かどうかの話しかしていない。「いらないって言い出したらきりがない」だから「古文・漢文」は「いる」ってことか? 論点をすり替えるな。
→身につけたほうがいい教養なんていくらでもあるっての。ただ、全国の中学生高校生全員にやらせて、受験で競わせるほどの”必然性"があるのか、って話。何度も繰り返すが、興味ある人にやらせるぐらいでいい。教養だとしても、大学で教えればいい。おまえら、「教養はいいもの、いいものはいる!」程度としか思ってないだろ。そういう考え方が構造的、社会的に押し付けられてて、内在化していることを自覚しろ。
思考法やロジカルシンキングの本を読んでも、その場では納得できても実生活(本を読んだり説明したり)でうまく活かせない。
・具体と抽象
・対立
・並列
といったあたりを意識して読むと良いみたいなのだが、普段本を読むときにそんなところまで意識する余裕がない。
読み始めは意識できるけど、それを維持したまま読み進めるスタミナ(思考体力、思考の粘り強さというのかな)、そういうのがない。
読んでいるときに線引いたり、メモとったりして、図の形にまとめるとかした方がいいのかな。。
趣味の読書に影響があるくらいならいいんだけど(それだってちょっと困るが)、
仕事でプログラミングをやっているので、ロジカルに考える力が弱いとすぐ頭打ちになる。
どうすれば思考の粘り強さを鍛えられるかなぁ。
高校生の頃,私は古典という科目が苦手で,テストの点数も芳しくない学生であった.
それどころか,なぜ今後使うことがないであろう古代日本語を勉強する必要があるのかと不満を持っていたように思う.
その後の人生で,古典を真面目に勉強したこなかったことで,教養のなさを実感し後悔する場面も時折あった.
そもそも古典漢文に限らず,あらゆる教養は重要であり,それ自体に意義を求めるべきではないのかもしれない.
しかし,古典が必修科目である必要があるかといえば,疑問は残る.
必修科目は,歴史や物理・化学などの選択科目と違い,学ぶことを自ら選択することができない科目である.
それは,他の科目を学ぶための基礎として,特に重点的に扱う必要がある科目であるからだと推察される.
数学をないがしろにして,物理や化学に取り組むことはできないであろうし,
英語や現代文をないがしろにして高校修学以後,他の学問を修めることはまず不可能であろう.
古典が,教養という側面ではもちろん,法学や史学などを修める上で,重要な科目であるのは間違いない.
しかしながら,他の必修科目と比べた場合,必要になる場面は限定的と言えるのではないだろうか.
一方,必修科目と比べ,優先度が低く設定されている選択科目の中でも,重要となるものは存在するのではないだろうか.
現代社会で扱う,経済学の基本である需要と供給の概念や,物理で学ぶ基本的な考え方,音楽や美術や書道で学ぶ作品も,同様に教養として重要ではないだろうか.
必修科目と選択科目を分けた一つの背景に,時間の制約からくる優先度決めというのもあるのかもしれない.
あ、ここでいうpixivの小説は二次創作、主に腐向け作品だと思って読んでほしい。
pixivの小説って評価が相応じゃない。とても面白くて「人に読ませる」文章なのに、ブクマ数が極端に少ないとかザラにある。
もちろん人気ジャンルかそうでないかに差があるのは分かってる。
ブクマ数が多いなって思う基準が50なら1桁は少ない。基準が100なら20前後は少ない。
私もミーハーな人間だから、ブクマ数が多い小説に手を伸ばしがちである。しかし、冒頭数文で(あっ、この人は書くのが下手だな)だと悟って読まなくなることや最後まで読んでも(何が何だか分からなかった)とブクマせずに終わることも多い。
二次創作だから下手な人がいて良い。むしろそれを排除しようなんて思ったら二次創作という文化が健全ではなくなってしまうと思う。
文章構成が上手くできていなくても、ネタが良ければブクマしたりする。二次創作だから!商業じゃないから!
でも、下手なのに面白くないのにブクマ数が多い、過大評価されている、と感じるものが多すぎるのだ。
こんなに上手いのに何故評価されないのか。作者の宣伝が足りないのか。タグ付けの問題か。
でも、pixivでは匿名っぽく小説を上げている人も多い。タグも腐向けタグとカプ名だけの人も多いし、タグを何もつけていない人も多い。そういった人たちだけが極端に評価されていないわけではないしその人たちの作品のブクマ数はむしろ多い傾向にある気がする。
では、何が下手で大して面白くもない小説がpixivで評価させてしまうのだろうか。
私としては仮説が3つほどある。
一つ目
R-18。単純にエロがあるとブクマ数は伸びる。たとえ(なんだこれめちゃくちゃだ)と感じるような文章の構成のものから、"原稿用紙の使い方"自体から間違っているようなもの、キャラクターの解釈を大きく違えているもの、でさえもR-18というだけでブクマ数は大きく伸びる。
これは人間の三大欲求に則しているから理由としては間違っていないだろう。
ただ、それだけで評価されてしまうのは気味が悪いと思ってしまうのは私だけだろうか。そうか、私だけか。
表紙がある。
pixivでは小説に表紙が設定できる。pixivの提供しているシンプルな数種類のものはもちろん自作のイラストやら写真やらを表紙にすることが可能だ。大半の書き手たちは主にpixivの提供しているものをそのまま使用している場合が多い。
その中で自分の撮った写真や同人誌の表紙よろしくフォトショ等で自らデザインしたものを表紙にしている人たちもいる。そういった人たちは小説自体に深いこだわりが多い人が多い。故にそのような表紙を使う人のブクマが伸びるのは大いに理解することができる。
大手の絵師のイラストを表紙に使っている人だ。身内だとか交流があるだとか、それは理解できるし表紙を描いてもらうのも理解できる。けれど、イラストが表紙のものは内容に関わらず初動のブクマ数が異様に多い。イラストをブクマするかのごとくブクマ数が伸びる。
これが怖いし、気持ち悪い。これで初動のブクマ数が多いためにランキング入りしてしまうのも気持ちが悪い。
もちろん絵師のイラストを表紙に使うな、とは言わないしそういうコネクションがあるのは素敵なことだろう。
しかし、内容に関わらずブクマをつける人たちには憤りがある。内容を読んでから評価しろ。
装丁は大事だ。しかし何よりも大事なのは中身である小説だ。それを読まずして評価するのは首を傾げざるを得ない。
三つ目
一度面白い作品を書いた人はそのあとも一定以上のブクマがつく、評価がされる。もちろんファンがついたということもあるのだろうが、一回面白くて上手い作品が書けたとしても、次があるかなんて分からない。しかし、内容も見ずにブクマをしている人間がいるように感じる。
これに少しばかり関連して、ブクマ数が多いものにしかブクマしない人間がいる。ブクマする理由はただブクマ数が多いから、そう言わんばかりに読む小説に傾向なく、ブクマ数だけで小説を読んでいる人間がいる。
まあ、それで"当たり"は掴みやすいんだろうけれど気に入らない。
取り敢えず、いま思いつく3つの理由を考えてみたけれど他にも理由はあるはずだろう。SSみたいな短い話だけが良いだとか、会話文多めの方が良いだとか、ギャグの方が良いだとか。
もちろんSSが悪いなんて言ってないし、会話文多めの小説を見下してるわけじゃない。ギャグの小説をシリアスな小説の下位互換だと思ってるわけでもない。
ただ、実力よりも評価数が多かったり少なかったりするpixivの小説が謎だと思うという話だ。
あと一つ、最後にもう少しだけ私の仮説を聞いてほしい。これはいろいろなところから怒られそうだから、読み飛ばしてくれてもいい。怒られること覚悟でこの仮説を示そう。
もちろん、文学作品を親しむ人間が多いのは分かる。私も実際文学作品をよく読む人間だ。オススメはオーソドックスっていうかこんなこと書いたら逆に「お前それしか読んだことないんだろ」と言われそうだが夏目漱石だ。一番好きな話はこれまたド定番にこころだ。現代の作家なら村上春樹で、鏡という話が一番好きだ。他には山田宗樹の書く話も好きだったりする。でも、彼らの書く話は「人に読ませる」文だし面白い。
少し話は脱線したがオタクは意外にも本は読まない。読んだとしてもライトノベルやマンガ・アニメのノベライズだ。そもそもオタクに限らず本を読む人間というのは少ない。自分が読んでいるからと言っても隣の人が本を読む人間とは限らない。学生時代はそれなりに嗜んだけど、今はさっぱりだという人も多いはずだ。必ず月一冊は読んでいるというだけの人間ですら探すのは難しい。
オタクが読んでいる本は、小説は、文学ではない。実は読んでいるようで、真に本を読んでいないのだ。「ライトノベルを見下しているのか!」と怒られそうだが、怒られることを覚悟で書いている。批判もどんとこいだ。ライトノベルでも面白いものもあるし上手い文もあるが、基本的には似たり寄ったりだし、何よりラノベ独自の文章の使い方がダメだ。あれはあれで文化として存在しているのだろうけれど、小説に求められているものって本当にソレなのだろうか。
又吉直樹の火花という本がある。芥川賞を受賞したあの本だ。あれは個人的には素人に毛が生えたレベルだと思っている。でも、話題になったし売れたし何故か芥川賞も獲れてしまった。
何故だとお考えだろうか?
それは"小説を読まない"人間が手を伸ばしたからだ。普段小説を読まない人間だからこそ、なんとなく「凄い」と思わせたら書き手は勝ちなのだ。小説を読まない人間というマジョリティに話題になってしまえば書き手は勝ちなのだ。
どんなに小さなジャンルであってもマンガは投稿されてなくても小説は存在しているなんてことがある。供給に飢えているオタクはそれを読む。小説を読まない人間の勘違いの「凄さ」「萌え」によって実力不相応のブクマは増えていく。
"小説を読まない"人間に評価は難しい。小説語に慣れていない人間に評価は難しい。知識が足りない人間に評価は難しい。
絵については散々文句が言えたりするオタクたちも小説の評価に慣れていない。
私は小説に対する知識と教養が少ないオタクたちがpixivの小説に対する評価を歪めていると思う。
もちろんこれは原因理由の一部であって全てではないと思うが、確かに理由だと思う。
この意見に批判があるのは覚悟しているし仕方がないと思うが、私はこれを事実だと考えている。
もしも、これを読んで必要以上に怒りに狂った人がいるならば、考えてほしい。
あなたは小説が読めるのか、と。評論が読めるのか、と。国語ができるのか、と。
なんなら、学生時代まで遡って現代文の成績を考えてみるといい。読解はできたのかと。
まあ、私の書いている文章が読めているあなたは、自分が文章を読める力があっても周りの人間は、想像以上に読解力が無かったことを思い出せるだろう。そういうことだ。
冷静に考えた上で、この意見に批判があるなら聞かせてほしい。私は純粋に不当な評価のpixiv小説が存在することが不思議なのだ。その理由が知りたい。私の考察に至らないことは沢山あるだろうし、あると思っているから臆して匿名でこの文章を書いている。でも、できればこの文章をキッカケに理由が解明されればいいと思っている。純粋に知りたいから。
さて、最後に私は何が言いたいかと言うと、pixivで人に読ませる素敵な文章かつ面白い作品を書いている人の小説が不当に評価されているという事実が悲しい。
pixivで下手な小説かつ面白くない文章が不当に評価されているという事実に憤りを感じている。
下手な小説も上手い小説も面白い小説も面白くない小説も存在していていい。それが二次創作の良さだ。
これまでの経緯。
・中二で担任の先生に目の敵にされ学校に行く気力を無くす、内申崩壊、進学コースから外れる
・高校には入ったが完全にやる気がなく授業をサボりまくる、なぜか図書室に出入りするようになり読書の習慣が身につく。
・高校を卒業したあとは◯ックオフでバイト、緩めのシフトにして図書館と併用していろんな本を読みまくる
・いつのまにか人並み以上に世間の話が出来るようになっている、なぜお前は大学に行ってないのかとよく言われるようになる。
・結婚する、結婚したところは多少資産に余裕がある所であり、勉強させて大学に行かせようということになる。
現状
クソである。周りの100倍本を読んでいようが平気で偏差値30とか無に近い値がでる(現代文と地理Bは60程度あるから完全に無意味ではないのだが)知的好奇心だけでは学校の勉強は処理出来ず中高6年コツコツと積み重ねて来た奴には勝てないということが次々と証明されている、本当にこのまま続けていて学校の勉強に適合出来る日が来るのだろうか??なんかよく分からない野生の知識人に戻ってしまった方が楽ではないのか??
受験の世界においては私は限りなく無価値である(英語が出来ないからどこの大学にも受からない、そのうえ理転しよういう大いに無理をしている)、正直高卒だけどちゃんと本くらい読めるぜ!!って立場の方が精神衛生上ずっとよかった。
当時は全教科とも80点は取れていたと思う。
生まれた都道府県と違うけれど、そこは誤差みたいなものとして。
5択ではなく、筆記で書かせる問題が多くて、しかも登場人物の心情を書かせたりで、難しいところがあった。
現代文はセンター試験よりも難しいくらいだと思ったが、自分がセンター試験を受けたのは遠い昔なので、なんともいえない。
現代文の文法問題を解きながら、現代文の文法は古文のそれに比べて難しいように感じた。
いまいち型にはまりきってないし、解説を読んでも解釈の余地があるような気がした。
古文はとてもやさしい。
図形に補助線を入れたりして、相似の三角形を見つけて、比を取って長さや面積を求める問題が全然解けなかった。
余弦定理を使って解けないかと思ったが、やっぱり相似を見つける必要があって、結局全然無理だった。
中央値や最頻値を計算させるなど、データ処理の基礎が問題になってたりするのが、昔とカリキュラムが違うんだろうなという感じを受けた。
みたいな問題があった。
地震速報が間に合わない理由を書かせるとか、やっぱり震災の影響ってこういうところにもあるんだなと実感。
生物の細胞の絵や模式図は、解くには問題ないが、ちょっと変で、中学校の授業大丈夫か?と感じた。
地図やグラフから読み取らせる問題が多かったりして、すっかり暗記科目だった高校の社会科よりも、SPIに近い感じで面白かった。
歴史の問題は、かなり易しかったが、その反面ちょっとどうかと思ったりした。
断片的に「~の改革」みたいなキーワードだけ覚えてもつまらないと思う。
歴史はある程度のボリュームを学ばないと、そうさせたダイナミズムを学ばないと楽しくないと思う。
これはかなり易しく感じた。
これも、単純に高校の授業が中学の上位互換だったからだと思う。
英文読解が、将来の夢だとか、未来の地球にむけてとか、夢のあるテーマなのが中学生らしくて、泣きそうになった。
簡単な文章で、こんな少ない語彙で、こんなにも人を感動させられるのかと思った。
全体を通してみて、思いのほか楽しかった。
高校の授業が中学の上位互換だった科目(古文、代数、英語)は、非常に易しく感じた半面、高校で選択科目になったような幾何や、地学は久々に解くとかなり疲労した。
何事も慣れなんだなと思った。
出来ないのではなくて、難しいのではなくて、慣れていないだけ。
努力すれば、人はなんでも出来るようになる。
それから、18歳選挙権や、地震についてかなりのボリュームが割かれてたのが、とてもよかった。
大学入試だと、多少の時事ネタはあるものの、これほどは割かれない。
あの時はわからなかったことが、今だとわかることもあった。
国語の試験なんて私のように勉強を全くしてこなかった奴でも点数が取れる教科であり、そもそも国語という教科自体娯楽に近い教科だと思っています。
百人一首は授業で習うとただただ眠い呪文にしか思えませんが、娯楽として覚えると下手な恋愛少女漫画読むより面白いし、漢文は教科書に記号とともに載っていると暗号でしかないが下手な自己啓発本を読むより面白いです。
じゃぁそれは別に現代文で書けばいいよねって言われたらそれまで。
だけどいきなり
『昔の偉い人が
「春になると気持ちよく寝れるよね。
あんまりにも起きれなくて鳥の声で起きたんだけど、昨日嵐だったみたい。
綺麗な花がたくさん咲いてたんだけど、私が気持ち良く寝てる間にどれぐらい散ってしまったんだろう。
切ない。」
ってポエムを書いたんだよ』
だなんて言われるより
『春眠不覚暁 処処聞啼鳥
夜来風雨声 花落知多少』
ってなんとなくかっこいいフレーズを解読する方が興味も湧いてくるし『なんだよ、かっこよく書いてある割にはどうでもいいことしか書いてねーじゃんこれ』って思う方が印象に残るよね。
よって、試験で出る必要はないが知識として持っていると人生が楽しくなる可能性があるので学校で教える価値はある。
だと思います。
政治的心情を抜きにしても漢文廃止には賛成である。だって役に立たないじゃん漢文。
教養として必要だ!というのなら科目としては存在しているがほとんど教えられていない地学のように
同時に古文も役に立たんので選択制にしてしまえば良い。だって役に立たないじゃん古文。
俺は高校卒業以後古文漢文を使った記憶がない、それで困ったこともない。
無理やり役に立ったという点を挙げるとするならば東大入試の国語で点が取りやすかったというくらいのものだろう。
東大の現代文は本当に難解で安定して点が取れる漢文古文だけやり現代文は捨てるという戦法をとった。
この見当外れにとっては「原因Aであるとき、結果Bである」という命題に対して
本題となるところは原因Aという動かぬ前提に対して結果Bであるかどうか、というところに焦点を当てるテーマだということが理解できてない。
周りの人間が何について議論していて何が真で何が偽か突き止める優先順位が目に写らない。
そのため平気で前提を変えようとするし自分の中でそれは筋が通っていると思い込む。
この手のタイプは会議の進行をたびたび邪魔するし何か新しいアイデアを出せるのかといえば、
その原因Xという新しい前提でさえ途中で変えるため何の積み重ねも作らずに何も生み出さない。
泡のように出てきた自分の考えがさも名案のように会話にハサミ混んでくる。
徒労だ。
彼らにとって変えてはいけない前提というのがそもそもないのかもしれない。
朝起きて見知らぬ歯ブラシがコップに刺さってても、それがトイレ掃除用の歯ブラシでも平気で歯磨きするのだろう。
今日も彼らの原因Xであるべきだ、原因Yであるべきだ、水ようかんだ何だかんだという
進行妨害を受けながらもなんとか協力者と会議をまとめることができた。