センター国語をプロの作家が解いても満点取れないとか、そういうことになにか意味があるのだろうか。
まず、入試の科目なんてのはその道のプロを選抜するものではない。
国語に限らず数学でも理科でも社会でも、プロの学者がすべての問題をミスなくこなすなんて無理だろうし、外国語だって場合によってはネイティブもミスをするだろう。
入試は、特にセンター試験は努力の成果を見るものなのだから、才能があるからと言ってできてしまっては意味がない。ちゃんと"お約束"を知っておくことは、当然要求される。
それに、プロというのは一芸があればいい。例えばプロスポーツ選手だって、アマチュア向けのテストではあらゆる能力が要求されるが、真の一流選手はいくつかの項目が欠けていても活躍できる。メッシが誰よりも足が速く体力があるわけではない。そういう意味でもあらゆる要素が満遍なく問われる試験というのは、アマチュア向けなのだ。
そしてそもそも、文学というのは書き手と読み手の認識が一致しないものだ。書き手の意図が何の誤解もなく読み手に伝わるならば、文学なんてものは芸術でも何でも無くなってしまう。だから、プロの書き手が読み手の立場のセンター試験を解けないのは当然と言えば当然だ。
強調しておくと、読み手の立場のセンター試験、という認識が大切なのだ。試験を出題するのは筆者ではない。出題者は、読み手なのだ。試験の度に読む題材は異なるが、出題者の姿勢は一貫している。だから、受験者に求められるのは、作品の筆者を直接理解することでは決してなく、むしろ読み手でもある出題者を理解することなのだ。
そして読み手である出題者の中には、作品の筆者に対する批判の意識も当然あるだろうから、筆者の意図は正解とは関わらない。しかしその出題には連綿と引き継がれている傾向、理論があり、だからこそ受験者も一人の読み手としてでなく、問題の解答者として試験に臨むことができるのだ。
最後に、「文学の読み方に正解はない」という国語の試験を批判する大義名分は、人間の知的営みの根本的な前提を確認しているに過ぎないことに言及しておく。そもそも、どの学問を取っても、普遍の真理には程遠く、最新の理論などと言っても一つの解釈でしかない。皮肉なことに、科学も歴史も恣意的なものだという議論は入試の現代文に繰り返し登場しているありきたりな話なのだが。
結局のところ、センター試験が呈示する「読み方」を疑問視するなら、数学の、自然の、人間の、「読み方」である他の科目も―本当の正解とは限らない。逆に、センター国語の出題の背後にある理論は、他のすべての科目の理論と同様、絶対普遍のものではなくとも一つの体系を成している。その事が未だに十分に認識されていないことは、センター試験の失敗でもあり、今後試験の形が変わっても国語教育の課題であり続けるだろう。