まず発達障害者と一括りにするのは不適切です。人によってはむしろ言語外情報のやりとりも要求される通常のコミュニケーションよりも、言語に集中できる文章読解の方がやりやすいというケースもあります。結局のところ得意不得意は個人的なもので、大学も欲しい学生を採る権利があるはずですから、そこまでの配慮は不可能でしょう。
また、小説の心情読解の問題にもある程度システマティックな解法は存在しますから、感性的なものに頼らずともある程度対策可能です。
そもそも感情というものは、感覚とは異なり、文化的な要素が強いものです。顕著な例として、「恥」と言う感情が挙げられます。日本人とその他の文化の人々の間で、恥という概念は共有されますが、どういう場面でどういうことが起こった時に恥という感情が生じるかは、文化によって異なります。つまり、恥という感情には、後天的に身に付けなければならない、文化の中で定義されるある種の知識・技能の側面もあるということです。
この事の裏を返せば、国語の試験で問われる心情問題というものを、文章として描かれている登場人物の置かれた状況に対し、上述のような定義に基づいて感情を当てはめることができるかを問う、一種の語彙問題と捉えることもできるということです。例えば、主人公と敵対関係にあった人物が、悲惨な状況に陥った主人公に対して一瞬敵意を収め、微かに気遣いを見せた場面があり、そこでその人物の心情を問われたとすると、解答の最大の焦点となるのは「同情」「憐れみ」と言った語彙が出せるかどうか、ということなります。その際基本となるのは、それらの感情表現の辞書的な定義を理解・運用できるかという理知的な言語能力であるはずで、それを要求・評価するのは国語の試験として至極正当であると言えるでしょう。
もちろん普遍的に通用する系統だった解法が存在するわけではありませんし、非論理的な設問も存在しますが、小説の問題と言えど考え方は全くのブラックボックスではないことを理解して、どの科目の試験にも相性のような要素はあることも踏まえれば、多少の向き不向きがあるとしても適切な指導次第で対策可能であると考えます。
余談ですが、昨今入試問題に対する意見を多く見かけます。これを機に、そもそも試験というのは出題者から一方的に与えられるものではなく、受験者やその指導者それぞれが関わって成り立たせてゆくものだということに立ち戻って、出題する側もそれを解く側も、より良い問題を作り、より良い考え方で解く、という意識が共有されるようになることを期待しています。