はてなキーワード: 宅浪とは
ここでは男=父(本当の父親じゃないんだけどサ)、女=母、とする。
まず女は3回離婚してる。この時点で子供のこと考えてないと思う。2年前鬱になりかけて、学校にあった家庭問題の本を読み漁った俺には、「ちゃんとした親が揃ってないと、心身共に健康な子供が育つことはない」っていう自論がある。ソースは俺。
そんで、自営業で、男も普通のリーマンだからあんまり家にいない。小学校の時から一人で夕飯食ってたと思う。何が悲しくて一人で冷えた飯食わなきゃいけないんだろう。今となっては、誰かいて欲しいのに、親が嫌いだから親とは食いたくない→結局一人で食う…っていう矛盾にも苦しんでる。
男は…なんだろう。俺の気持ちを考えてくれないというか。とりあえずいい思い出はない。思い出そうとするとイライラと悲しみが止まらなくなる。
いつも一緒にいる人達に「太っちょマン」って呼ばれて楽しく生活できるわけがない。いや太っとるかもしれんけどさ。適正体重よ。
そもそもさぁ、なんで北国の田舎に住もうと思ったの?これも正直キツいよ。東京に生まれるか田舎に生まれるかって結構違うと思う。
しかも男も女も高卒なんやな。いやそれでいてここまで育ててもらったんだから凄いんだろうけどさ。
あと辛いのは、親を信用できないってことだと思う。俺毎日よくわからんニックネームが増えてくんだけどさ、男は下ネタ好きだからうんこまんとかまあそういうやつなのよ。
「やめて」って言えよアホって思ったかもしれないけど、信用できないからこれが言えない。何も頼めない。「どうせこいつらなぁ…」っていうのがあるから何にもできない。
あと、こんなに嫌ってるのに、一応育ててもらったし、金出してもらってるから何も言えないのがとてもとてもとても苦しい。しかも俺、受験全部失敗して、多分宅浪になるアホなのね。もちろんバイトとかはするけれど、これじゃあ本当にただ飯食いのうんこ製造機になっちまう。マジでうんこまんじゃん。
そんな親と一緒にいるくらいなら、予備校もちろん行った方がいいと思ってる。でもうち金ないから。(これもクソ)奨学金借りてでもいったほうが良いんだろうか。まぁここはまだ先生と話すからなんとも…だけどさ。
ここまで書いたけどさ、別に俺殴られた性暴力受けたとかじゃないんだよ。最底辺なわけじゃないんだよ。受験無理だと思うって言った時「まぁ運とか時期とかあるからね」って言ってくれたし、浪人は全然良いって言ってたから、別に悪いどころか多分良い親なんだと思う。そしたら、やっぱり俺が悪いんかなって思っちゃうよね。
やりたいことも確立したわけじゃないし、自立出来てるわけじゃないし、こんな不満を言う俺が悪いんだろうか。ってなるよ。
一番辛いのは、こうやって自己肯定感が全くなくなるってことだよね。もしこれ見た人で親になるよ、若しくはなってるよって人いたら、子供は絶対愛してあげてね。あんまり孤独にさせないでね。じゃないと絶対どこか曲がっちゃうから。
愛、大事。
エヴァンゲリオン、四半世紀続いたこともあって、見始めたきっかけや時代もそれぞれ違うんだろうな。
ここに至るまで随分かかったな…なんて思ったり、思わなかったり。
これから続々出てくるであろう、ファンの感想、思い出話を見るのが楽しみ。
自分はファンではないけど、アニメ好きでもあり、周りが盛り上がっているのを眺める機会が多かった。
美少女キャラに目がないのと「ふしぎの海のナディア」繋がりで存在自体は知ってた。
海外から帰国後、転校先の学校放送のジングルで流れてた「残酷な天使のテーゼ」がきっかけで色々知ることになった。
流れるたびになぜか周りがノリノリで歌い出す謎現象が起こったので
不思議に思って何の曲か聞き出して、そこで作品名と合致。再放送を断片的ではあるが見ることになった。
その数年後、海外にまた引っ越したときに現地の学校で不思議な光景に遭遇することに。
放課後、パソコン室から日本語で歌う外人たちの歌声が聞こえてビビり、耳をすましたらまさかの「残酷な天使のテーゼ」。こ っ ち も か 。
ちょうどYouTubeが出始めたころだったから、OP動画を見ながら歌っていて、そばにいた先生が苦笑いしながら何の歌か聞いてた。
日本のアニメが海外でもウケていることを実感させてくれる出来事だったので特に印象に残っている。
帰国後、受験に失敗してアニメ鑑賞にさらにハマった宅浪時代、「序」が始まるということで、ここでやっと全話一気見。
同時に、綾波だけを長年描き続け、昨年引退した人の薄い本などにも何度もお世話(意味深)になった。
そんな感じで準備して映画館に見に行き、3DCGを活用しまくった映像の迫力には驚いたものの、
キャラデザの見た目の変化に違和感を感じたり、中身については焼き直しであまり楽しめず、寝そうになるのを堪えてた思い出。
でも、まさかここから完結するまで13年も経つとは想像つかなかったなぁ。
一方、「破」「Q」公開時も周りは「XX回見に行った!」「内容はわからんがおっぱいはすごかった」でめっちゃ盛り上がってた。
ちなみに、Qが公開された年は就職失敗で大学卒業直後にアルバイトを始めたときだったけど、その移動中の電車でシンジくんの中の人に遭遇。
大変な時期だったけど、前述の諸々の出来事を経て、主人公役の声優に偶然とはいえ会えたことは嬉しかったし、確実に元気をもらった(その後は無事第一志望に入った)。
そんなこんなで、庵野氏も還暦を迎えるほどの月日が経って最終章が本日公開。
今回はどうしても気になり、月曜日だけど勤務時間に間に合わせるために朝一の回で映画館に行ってきた。バルト9だとメディア取材も入ってたね。
なにを言ってもネタバレになりそうなので避けるけど、
知っている名前が多く出ているスタッフクレジットを眺めるのは楽しかった。
自分の世代を含め、各世代で有名なアニメーターが集結してたし、新旧いろんな会社が集まって作り上げた感じが分かって良き。
と同時に、物語の最後を見届けることができなかったファンも多くいたんじゃないだろうか、と思うほどに25年の月日の重さを感じた。
自分はドハマリすることはなかったけど、意識しなくてもエヴァが日常に侵食してきたり、
周りの人たちが夢中になっているのを眺めたり、長い間楽しませてくれた作品だった。
友達が1人もいなくてつらい。
小1のころからずっと吃音。暴力や嫌がらせはされなかったもののずっと腫れ物扱いで浮いてきた。プークスクスされることはしょっちゅうあったからいじめられてたといえばいじめられてたのかも知れない。
友達は
保育園1
小学校0
中学校0
高校2
大学0
保育園の友達も子供特有の正義感で遊んでもらっていただけで、向こうからしたら沢山いる遊び相手の1人でしかなかった。(その証拠に小学校に進んでからは遠ざけられるようになった)
高校の友達2人は、勇気を振り絞って入った部活で奇跡的に出来た2人。でも、3人組の中でも俺は浮いていた(道幅が狭くなると1人後ろに追いやられる役だった)。部活の引退後、クラスが違うからなかなか3人で会えないが受験が終わったら思いっきり遊ぼうと思っていた。が、俺抜きで2人は普通に仲良くしていたことを2次試験の不合格発表の後で知った。しかも2人は同じ大学に進学していた。
それから一年宅浪して大学に進んだ。サークルにも入った。高校の時の成功を活かして、人数の少ないこじんまりしたサークルを選んだ(ちなみに中学はサッカー部で3年ぼっち&ベンチだった)。
初めはなんとか仲良くしようとしていた。吃音はあったけど、自分なりに明るく振る舞えて上手くいっていると思ってた。しかし、3ヶ月ぐらいする頃にはいつのまにか同期が距離を縮めあっていて、自分の居場所はなくなっていた。
就職してからも、案の定同期に馴染めなかった(就活は集団面接で吃音を披露する地獄だった)。同期の女性で、優しい人がいてよく話しかけてくれたのだが、ある時から急に避けられるようになった。アプローチなどはしていない。同期として親切に扱ってもらえるだけで十分だったからだ。
半年ほど後に、優子さん凄く怒ってたぞと別の同期から言われた。俺は何やら無神経な発言をしたらしかった。
上司は俺のことを嫌っている。露骨には表さないがわかってしまう。すごく申し訳なく思う。後輩には見下されている。
会社以外で知り合いを作ろうと、22〜今までで社会人サークルに5つトライしたが、馴染めなかった。ネットでの交流もうまくいかない。
Twitterのアカウントは3つあるが、人の輪に入ることができない。いつのまにかやんわり距離を置かれるようになる。ネトゲはソロプレイをしばらくした後嫌になってやめてしまった。
キャバクラに行ったこともあるが、違う席の酔っ払いのグループに吃音を笑われていや思い出しかない。
家族とも上手く行っていない。
受験生各位、お疲れ様。今はなきセンター試験のことを振り返る。
とある地方の公立高校の現役受験生の当時、夢はでっかく東大合格!と張り切って受験。まずは東大の二次試験(文科三類)にたどり着くため、脚切りだけはなんとか回避すべく、85%以上を目標にした。
試験会場は近くのFラン私立大学で、親に車で送っていってもらった。毎年センター試験の日だけは雪が降るという謎のジンクスがあり、2年前に受験した姉のときも雪だったという。そしてその年もやはり雪だった。雪が年に1回か2回ほどしか振らない地域のため、母親が運転にビビりまくっていた。
現役生のため制服で受験したが、会場が暑い暑い。シャツの第2ボタンを開けて左右に体を大きく揺らしながら解いていたら試験監督に優しく注意された。
結果は、799/900点。数学は相変わらず苦手でうまく行かなかったのと、最大の得意科目である倫理でまさかの70点代を叩き出したが、それ以外の科目はほぼほぼ9割を確保。なんとか脚切りは回避できたと確信して、ホッとしたのを覚えている。
ちなみにこの年、文系では高校でトップの点数だった。いかにレベルの低い高校だったか…。
その後、満を持して東大を受験して1点以下の点差でギリギリ不合格。泣きながら一年浪人生活。
もはや過去問、各予備校の予想問題をあるだけ全部解き尽くしており、ほぼ二次試験のことしか眼中にないほど楽勝感があった。
この年の受験会場は、前年とは別の某公立大学。宅浪していたため浪人中に友達はいなかったが、センター試験の日の朝、偶然会場で高校時代の同級生に出会い、テンションが上がった。その友人は自分ともっと話したい様子だったが、自分としては乾坤一擲の勝負の日なので、予習があるからと言ってその場を辞した。ちなみにその彼は第一志望落ちたらしい。気合が違うんだよ、気合が。
結果は、827/900点。もうちょっと高めの点数が取れるかとも思ったが、ま、二次試験の足を引っ張るほどの点数でもないので良しとした。
その後、満に満を持して文科一類を受験。合格者平均点を少し上回る平凡な成績で合格。
ちなみに大学では普通に留年したし、なんとか卒業したけど就職も第一志望にはいけなかった。大学受験で燃え尽きて大学でサボるとこうなる。
俺の高校は普通に可愛い子多かった。ド田舎だが、地元では一番偏差値の高いいわゆる自称進学校。俺はそこにギリギリの成績で入り込んだわけだ。そこで思ったのが可愛い子多いなって話。俺は陰キャで高校で彼女で来たことはなかった。成績も下っ端でずっとぼっちだからクラスメートや担任からバカにされまくり、家庭関係も悪化し、普通に地獄の3年間だった。それでも何となく高校が楽しかった。それは可愛い子が多かったからだと思う。やっぱり美人って言うのはそこに居るだけで癒やしになるんだなって思う。無論、嫌なことが圧倒的に多く、もう一度やり直したいかと言われれば答えはノーだが、それでもjkたちのことは今でも覚えてるし、優しくしてくれたわけではないが、居るだけでつらさを和らげてくれてありがとうと思う。
こんなことして自分でも気持ち悪いとは思うが、高校の美人達を振り返っていきたい。
K田R
ダントツの美人。成績優秀で陸上部に所属し運動神経抜群という学園ドラマに出てきそうな少女。声も可愛かった。控え目な性格でほとんど男子と話すことのない正に高嶺の花。努力家で勉強に部活と頑張ってたから本当に凄い人だと思う。オーラも大人びててとても近寄りがたい。学園祭の時に和服着て、髪をカールにしたときは美人過ぎてビビった。
Y本K
上記のRの友人。身長170cm以上。スタイル抜群のモデル体型。前見たときに脚の細さに驚いた。Rと一緒に登校してたが、二人並ぶ姿はとても美しかった。学園祭の時にアリスのコスプレをしてたが、Rとハグしたときの光景はこの世の物とは思えないほど美しかった。明るい性格で陽キャ
T.Y
K程ではないが高身長。色白で目が大きくて鼻が高い西洋顔の美人。上品で清楚な雰囲気。親が金持ちらしく、夏休みにはオーストラリアにいったらしい。
H尾.N
色黒。やや吊り目、歯並びが少し悪かったがトータルで見れば美人。
K折.Y
色白、スタイル抜群。目が大きく、唇が厚く、鼻が高いハーフ顔。スクールカースト的には陽キャ。
T.Y
目が細いのが玉に瑕。他の人が細身なのに対し、普通の体型。性格は大人しい。
K陽.R
N川K
主席で高校に入ったエリート。自宅浪人一年で東大理系に進学した。高身長で恵体。
目が細い
N尾M
色白・小柄。明るい性格。
Y女H
名古屋大学に現役で受かったエリート。色黒細身。テニス部に所属する文武両道・才色兼備で性格も明るい。
I葉E
K井H
終戦の日は、Y君の命日です。
高校時代の同級生Y君とは、それほど親しくありませんでした。同級生とは言っても、三年間で同じクラスだったのは一年生の時だけでした。その後は、時折廊下などで会った時に軽く話をし、稀にメールをする程度の仲でした。
Y君は、予備校の友人と二人で海水浴場に行って事故に遭ったそうです。酷く天気の悪い日で、彼らの他に誰も泳いでいなかったと伝え聴いています。それ以上Y君の死の理由は誰も話しません。みな察しがついているからです。
しかし、僕は彼の死の理由と向き合う必要があります。悼むだけでは足りないほどの仕打ちを、僕は彼にしてきました。
Y君と最初に話したのは、高校入学初日です。僕らの高校は、マンモス私立高校で、大概は公立高校の受験に失敗した人間が行く学校でした。お世辞にも賢い学校とは言えません。それでも、それなりの生徒を集めて、特進クラスが二クラス編成されます。僕らのクラスはその一つでした。
入学式からしばらくは、みな口々にどこの高校に落ちてこの学校に来たのかを話していました。例によってY君も学区一番の難関公立高校に落ちたそうです。最も、僕らの高校の進学クラスの大半は、その高校か、県下トップの公立高校を落ちてきた人間でした。
はじめは出席番号の近い者同士で輪になるものです。彼と僕の出席番号は二番違いでした。ゴールデンウィークに入る頃には友情の再編成が済み、僕らは別々の交友グループに加わって行きました。
端から見ていて、グループの中のY君の地位は極めて低かったと記憶しています。彼らのグループはみなテニス部でした。Y君はいつもいじられる役回りを演じていました。自分から話を切り出しても「調子乗るなよ」という言葉を掛けられている様子をよく見かけました。
入学式が終わってすぐに、実力試験を受けさせられます。Y君の試験結果がどうであったか僕は知りません。少なくとも、僕より上ではなかったことは確かです。学年トップ十人は公表され、僕は四位でした。
第一志望でこの高校に進んだ僕は、周囲から奇異の目で見られていました。ただ一人、Y君だけは、周囲と少し違う反応をしていたのでよく覚えています。Y君の同じ中学校で、学区トップ校合格間違いなしと言われて落ちた二人を、僕は下しました。そのことをY君は自分のことのように喜んでいました。
その時の僕にはまだ、そんな理由で勉強をはじめようと思う理由を理解できませんでした。彼にとって高校はどのような意味をもった場なのかと怪訝に思いました。今になって思えば、不本意に入学した学校について、明るく思える理由を見つけられた日だったのでしょう。
とは言っても、その後Y君が試験のライバルとなることはありませんでした。二年生からは、進学クラスの文系理系とで別れてしまい、一緒になることはありませんでした。英語の授業だけは進学クラス二クラス合同で、レベルごとの三グループに別れて開かれていたが、ついに一緒になることはありませんでした。二年間、Y君は成績下位クラスから上がって来ませんでした。
交友グループが完全に別れてからも、僕はたまにY君と話す機会がありました。というのも通学に使う電車の駅が同じだったのです。そうかと言って一緒に通う約束をするような仲でもありませんでした。遭えば多少話をするといった具合でした。Y君はよく話しかけてきましたが、僕から何か話しかけたという記憶はあまりありません。
彼の家はごく近所でしたが彼の家に遊びに行ったことはありません。詳細な場所も知らず、団地の名前で知っているだけでした。僕は中学卒業後にこの街に引っ越してきたので、同じ中学校の出身というわけでもありません。彼が普段通学路にしていた道が、僕の部屋の窓から見えます。しかし、駅との直線距離上に住んでいる人と思っているだけでした。
Y君はテニス部に入部していました。中学から続けていたと聴いています。しかし、同じクラスのテニス部員から伝え聞くかぎり、部の中での実力ははじめから下位だったそうです。Y君は小柄で、先も細く、よく中学生のようだとからかわれていました。
Y君と同じグループのテニス部員は、高校二年にあがるまでに部活を辞めてしまいました。部員の層は厚くないものの、後輩にも実力で追い抜かれ、Y君は引退まで団体戦のメンバーに入ることはなかったそうです。
ときに一年生の頃にY君と同じ班だったM君は強豪のサッカー部員でした。髪を染めピアスをしていたM君は、Y君に対していつも高圧的な態度をとり、掃除当番を押し付けて、誰よりも早く部活の練習に行き、後にレギュラーの座を得ていました。少なくともY君はそのような気概を持ち合わせてはいないように見えました。
僕らの通った高校には、進学クラスを中心とした三泊四日の受験勉強合宿がありました。合宿中は山のように課題を出されました。ホテルに着いて早々、会議室に籠ってひたすらに特別授業を聴かされました。それが終われば翌日までに解いてこいとプリントを大量に渡されました。まともに取り組んで解き切れる量ではなく、教師もその事を知った上で出していた節がありました。それでも僕らは、教師の鼻を明かしてやろうと思って夜を徹して問題を解いていました。
Y君は、ちょっと問題を解いては周りに話しかけていました。「どこまで進んだ?」「この問題どう解くの?」と。そして周囲が邪魔そうな顔をすると自虐的に謝った後、「よし、俺も集中する」と宣言して問題に取り組み、三十分と保たずに振り出しに戻るのでした。
高校二年の頃、しばしば僕はY君のクラスでごく親しい友人と受験勉強のノウハウや、進行状況について情報交換をしていました。そこに、部活が休みになってY君が加わったことが何度かあります。
Y君が、自分の勉強について詳細を語ったことはありませんでした。自分より成績の良い人間の発言には同意をし、自分と「同等程度以下」と思っている人間の発言にはあまり信用していないような素振りをしていました。しかし、前者が後者の発言に賛同すると、途端に賛同し出す、風見鶏な態度で話に加わっていました。
僕らはみな自分に合わせて勉強のスタイルを組み立てていました。Y君には、そのような節はなく、彼の尊敬する誰かの勉強の仕方を真似しているだけでした。正確には、真似している「つもり」なだけでした。
僕がセンター試験模試で九割をマークした時、Y君が英語の勉強内容について尋ねてきました。その頃僕は学校で配られた基礎的な問題集で文法問題を毎日大量にこなしていました。ケアレスミスを減らしつつ長文問題に十分な時間を確保するためでした。自宅学習を英語の長文に充てられるよう、学校での細切れの時間は文法を勉強していた方が都合よかったのです。
そのような事情は告げず、学校で配られた問題集を解いているとだけ告げると、Y君は基礎的な問題集にずっと取り組んでいました。かなり後になってから知ったことですが、Y君は毎度の模試では長文問題で大量失点を繰り返していました。長文を読む訓練からはじめるべきだったのに、同じ文法の問題集に何周も取り組み続けていたのです。その後も彼は模試の度に取り組んでいる問題集を尋ねに来ましたが、僕は同じ問題集だと答え続けていました。
時を同じくして学年上位の人間が「単語力が足りない。」と言ってハイレベルな英単語帳に噛りつくと、Y君はそれを無条件に肯定し、同じ単語帳に取り組み出しました。
学年上位の彼女の場合、元から基礎的な語彙力・単語力がしっかりあり、それに支えられて文法問題を解きこなし、身に付けた語彙・文法で長文を読み解き、総合的な英語力を身に着けた後に、日々取り組む実践問題の中で単語力の不足を感じていたのでした。Y君は、そのような事情を知る由もありません。
すべての教科の勉強がこのような具合で、Y君の受験勉強は日々、一貫しないものになっていきました。誰かが「基礎をしっかりしないといけない」と言えば同意をし、しばらく基礎的な勉強を繰り返し、また誰かが「基礎ばかりで実践レベルの問題が解けない」と言えば、応用問題を解き始めました。Y君は、自分の実力を冷静にみて勉強する習慣がなかったのです。
試験が終わっても模試が終わっても、Y君はいつも「次で挽回する」とだけ言って答案用紙を二つ折りにして閉まってしまい、自分が何を間違えたのか何が不足しているのか反省をしているようには見えませんでした。僕らは答案を見せ合い、点数をひけらかし合い、同時に何を間違えたのかも見られ、ときには馬鹿にされ、それを恥じ、次には同じ過ちをしまいと心に誓ったのです。そして口々、「次の試験では負けない」と言い合うのでした。
Y君は、ただひたすらに成績上位の級友に勉強方法・勉強内容を尋ね、それを真似してみるだけでした。あるいは、それで成績の落ちた級友に反省点を尋ねてみるだけでした。自分の頭を使って、自分に必要な勉強をして成績を上げようという姿勢が見られませんでした。
高校二年の秋頃から、学年トップ十人の常連の内で、制服に細工をするのが流行りました。理科実験室から拝借してきた薬品で五円玉や五十円玉を磨き上げ、ブレザーの左胸にある校章の裏に挟むのです。すると鳥をあしらった校章が後光の差したように見えます。上位三人が五円玉を、残り七人が五十円玉をはさみ、模試のたびに奪い合うのです。
事情を知らぬ者が見れば、何のこともない遊びです。どんなにかよく言っても「お洒落」程度のことです。何も知らないでY君がそれを真似して校章に五円玉を挟んでいたのを、僕らは影でクスクスと笑いました。自分の手で掴む喜びを知らないで、努力する苦しみを知らないで、努力した者の成果にだけ憧れるY君の態度を、僕らは気づき、そして内心侮蔑の眼差しで見ていました。鈍い色の五円玉が、それを象徴しているように思えたのです。
勉強をしたからテストの結果が伴うのだという自信が、僕らの中にありました。また、勉強していないから全国模試で他校の人間に負けるのだと悔しがっていました。進学クラスの同志とともに学内順位で一喜一憂するのは全国模試で泣くほど悔しい思いをした腹癒せであり、本懐はみな志望校への合格でした。
正直に言えば、僕は心底彼を見下していました。大した進学校でもない私立高校の成績上位だけを見て、「◯◯君、勉強できるもんね」と言えてしまうY君の姿勢を、僕は内心唾棄すべき存在だと思うようになっていました。
僕は、努力の方向性を間違える人間は愚か者だと思っていました。そして努力すらしようとしない人間を軽蔑していました。他の何もかも投げ打って練習に取り組むわけでもなく実りのない部活動にただ漫然と時間を費やすY君の姿勢は、まさに軽蔑の対象でした。「三年の夏に部活を引退したら、本格的に受験勉強をする」というY君の弁に至っては、この時点でもう勝負はついていると僕は思いましたが、哀れな奴だと思うことにして黙っていました。
当時進学クラスの上位面々にしても、実際には大した学力は持ち合わせていませんでした。勉強すればするほど募る不安を振り払うべく、ビックマウスで自分を鼓舞させ、歯を食いしばって受験勉強に打ち込んでいたのです。
みな手の内を知っているから言い合えた言葉がありました。「普通クラスの連中が努力して行くような大学だから、日東駒専は滑り止め」「明青立法中はセンター利用入試で一学部二学部抑えて、あとは試験慣れ」「本命は早慶、国公立大学」
Y君が目指したのも、早慶の文系学部でした。折りに触れ志望学部を聞いた時に「受かったらいいなぁ」という言い方をしていたので、どこまで本気で受験していたのか分かりません。また彼が将来どういう職業に就きたくてその大学を目指したのかも知りません。いずれにしても、当時のY君の実力からすれば、合格は絶望的なので記念受験だったと思います。
日本で双璧をためす有名私立大学どころか、当時のY君は本気で日東駒専を第一志望にして対策を組んで然るべき成績でした。それにも関わらず、十分な対策をしていなかったのでしょう。そのレベルの大学を「滑り止め」として受験し、行き場がなく浪人が決まりました。
先にテニス部を辞めたある級友は、有名私立大学に合格しました。Y君から学業面で「同等程度以下」と思われていましたが、彼は初めからY君より成績は良く、そして努力の甲斐あって志望校に合格しました。Y君が、センター利用試験で抑えるつもりだったレベルの大学です。
高校の卒業式で、Y君は自宅浪人をするつもりだと話していました。図書館で勉強している方が集中できるからだと本人は話していました。それを聴いて、受験勉強のやり方を根本から間違えているのだから予備校に通わなければY君は同じ失敗するだろうと、僕は思っていました。
僕も浪人が決まっており、同じ境遇の友人らと、どこの予備校に行くか、予備校が始まるまでどう過ごすか情報交換をしていました。しかし、僕は、彼と同じ予備校に通うのは自分の精神衛生に悪いと思い、誘いませんでした。
僕は気心が知れた戦友二人と予備校生活を送りました。定期的に他の予備校に通っている元同級生とも食事に繰り出し、情報交換とリフレッシュをしていました。時には勉強会を開き、時には悪い遊びに繰り出し、予備校生活を満喫しました。僕はY君に対して意図的に声をかけませんでした。
Y君が亡くなった後、彼がどのような浪人生活一年目を送ったのか、聴いて回っても誰も知りませんでした。分かっているのは結果だけです。一年後の再戦にY君は敗れました。彼が受かったのは、日東駒専の文系学部一つでした。浪人してそんな大学行けないと、二浪することを決めたそうです。Y君と伴に最後までテニス部にいた普通クラス出身者が、予備校生活の後に地元国立大学の教育学部に合格したのも少なからず影響があったと思います。
Y君の二浪目については、僅かながらに噂が流れていました。僕らが通った予備校とは別の大手予備校に通ったと聴いています。そしてそれはY君の両親の望みだったという話です。しかしそれ以上のことは誰も知りませんでした。
Y君は、限りなく記念受験に近いであろう第一志望の早稲田大学に落ちました。それでも、今度は明青立法中レベルの大学に手応えを感じていたそうです。高校時代の担任教師の元には、今度は大丈夫そうだとメールが来たそうです。滑り止めに受けた日東駒専の合格は決まっていました。
しかし受かった手応えを感じていた青山学院大学は、不合格だったそうです。その結果が判明した時、既に日東駒専の手続き期日は過ぎていたそうです。二浪して予備校に通い、親に負担を掛けたくない気持ちが働いたのでしょう、Y君は日東駒専の入学一時金を払わなかったそうです。
かくしてY君は三浪目が決まりました。その頃のことは、Y君の級友何人かが打ち明けられていました。「一浪、二浪までは変換できるけど、三浪って、ケータイで変換できないんだね」Y君からある友人に宛てられた最後のメールには、そう書かれていたそうです。
苦しさは後に喜びがあると知っているから耐えられるものです。喜びのために経験する苦しさと、苦しさの後にある喜びとは、価値が全く異なります。失敗の先に成功を掴んだ人間だけが、成功を評価できます。しかし成功を掴めない人間には、そのような言葉は無力です。苦しさの中でも特に失敗は辛く、とても重ねていられるものではありません。
三浪目の夏、Y君は、予備校の友人と二人で海に行き、事故に遭ったことになっています。酷く天気の悪い日で、盆過ぎの海水浴場には彼らの他に誰もいなかったと伝え聴いています。
同行したのが同じ予備校の友人であるのかは分かりません。しかしその新聞を調べてみると、天気予報では、県内は午前曇、午後から雨となっていました。海水浴に出かける天気ではありません。実際の天気を調べてみても、前日から曇り、実際に曇のち雨だったようです。
二人は遊泳禁止柵を超えて、外へ外へと泳いでいったそうです。友人はしばらくして怖くなり引き返し、Y君のことを警察に通報したそうです。海上保安庁と警察が捜索したものの、Y君が発見されたのはそれから二日後のことでした。
沖に流されて生還した人の体験談を、折りに触れ読んでみました。だんだんと手足の感覚が無くなって行き、全身が重く感じられ、乾きと苦しさと絶望のあまりに、自ら沈もうとしても身体は死を受け入れず、数時間に渡って浮かんでいると言います。その間、Y君は何を思ったのでしょう。
暗く塩辛い海の底に引きずり込まれるまでの数時間、海に来たことを後悔するのでしょうか。自らの力の無さを恨むのでしょうか。早くから勉強しなかったことを悔やむのでしょうか。時代を恨むのでしょうか。日本社会を恨むのでしょうか。
人生の遠回りを許さない日本の空気に、Y君は命を奪われました、一体誰が仇をとってくれるのでしょうか――僕はそう思うことで、Y君の死は、自分の責任ではないと思い込もうとして来ました。そんな綺麗事では済みません。彼を死に追いやったのは僕らです。
彼の学業上の相談に乗らなかったのは、彼が気楽に、好きなことをしていたことに対する妬みです。彼が、僕の思う独善的な「努力」をしないことについて、快く思っていなかったからです。「努力」などと呼んでいいものではありません。自分の味わった苦しみを人も味わえばいいという意識は、酷い嫉妬心に過ぎません。
彼が学業面で悪循環に陥っていると知りながら、僕ら「成績上位者」を誤解していることと知りながら、僕らが手の内を明かさなかったのは不当な仕打ちです。Y君は、級友の受験勉強という、励まされる理由にも自信を持つ理由にもならないものを盲信していました。そして、僕らはそのことの具合の悪さに気づいていながら放置し、影で嘲笑っていました。僕らはY君の話を聞ける関係にあったのに、聞かずに見殺しにしました。
こうまで酷い仕打ちをして、どうして彼の死を受け止めて来られなかったのでしょう。
今なお、僕は「僕ら」でないと責任を背負えない弱い人間です。そんな僕にも毎年夏は訪れます。しかし、今に自分一人、罪の念を免れたいがために記憶を上塗りし、忘れ去ってしまうことでしょう。あるいは、もうそれは始まっているのかも知れません。
実家にある、かつての僕の部屋からは、一車線しかない県道が望めます。Y君が三年間、高校に通うために歩いた道です。なんの変哲もなく、田んぼと林に囲まれた田舎の風景です。僕が彼から奪ってしまったものの一つです。
正確に言うと3月末で契約打ち切りで寮も出ていかなければなりません。
今年1月から製造業で金属加工で契約社員で入りました、時給は1500円。
ここで数年間働いて貯金しようと思っていた矢先、コロナウイルスの流行、私の働いている会社も中国からの部品の輸入が滞り、また取引先も大幅に減産するということで契約社員と派遣を中心に人員整理が始まります。
入った当初は仕事も忙しく、慢性的に人手不足だったのでここで何年かは働けると思いましたがこの始末です。
人生設計が狂いそうです、実は消費者金融と奨学金に200万円借金があり一発発起して高時給寮付きで仕事をしようと思っていたところにこれです。
この借金は別にギャンブルとかではなく公務員試験で宅浪をしておりその間の生活費として充てていました。結局は面接落ち不合格でしたが。
実家はありますが両親とかなり仲が悪く帰れないです。貯金50万円、借金200万円、どうしてイイのかわかりません。雇用保険も受給資格がないです。
最悪ホームレスになるのかなと思うと不安です。人生こんなはずじゃなかったのに…
前から希死念慮がありましたけどここ最近自殺願望がやばいです。
そもそも新型コロナって死亡率0.7%でしょ?なんかマスコミなんかがエボラウイルス並みの死の病みたいな報道しているせいで私みたいにクビになる人が出てくるんですよ?これは報道のあり方としてどうなんですか?
ただただネガティブな報道をして視聴者を極端に不安に陥れるのは良くないと思いますがね?
コロナで死ぬ人よりそれに伴う自粛や風評被害で失業→就職難→経済苦→自殺のほうが多いと思いますよ、報道されないだけで。
今までのやり方ではダメだと思うなら、やはり勉強を教えてくれる、頼りにできる人や環境を見つけるべきだよね 予備校とか……(宅浪する人とか、予備校に通ってるけどその授業に出ないで自習する人とかもいるけど、人に教えてもらうほうがいいと思うので)
予備校に入るなら入学するまでの間は単語帳とかやっておくといいと思うよ 難しい単語からじゃなくて、基礎的な所(簡単な所という意味ではなく、落としてはならない所という意味 シス単の1章とか)から意味を着実に覚えておくとどんな試験にも対応できるよ
自分なんかダメだ……って、出来ない自分と向き合うことも大事で、向き合いすぎると辛いけど、その時点で成長への第一歩は踏み出されたのだから、あとはひたすら勉強するだけ
一年は長いようですぐ終わるけど、その一年間地道にやっていれば少しずつ成績も人間性も成長していきます かなり差し出がましいかもしれないけど、言わせてください 頑張って!
突然メールが来たり送ったりして、そこから一か月くらいめちゃくちゃ仲良くなって遊んだりして、その後しばらくフェードアウトしてまたやり取り始まって復活、みたいな状態を何年も続けてた女友達
LINEしても連絡つかなくなったなーブロックされたかーと思って普段見ないtwitterの垢見たら結構前に自殺してたの知って、整理ついたので書いた
高2の終わりに知り合った当時、こっちは進路と親との不仲でとにかく最悪な精神状態だった時期で、向こうも色々荒んでたみたいで同い年、しかも誕生日も近くて謎に意気投合した
ネットからの繋がりだから気兼ねなく言えないことを暴露して相談に乗ってもらってた。相談だけじゃなく、普通の高校生みたくゲーセンやショッピングモール、海岸で遊んだりもあって。
向こうの方が先に浪人終わらせて遠方に進学してからも泊まりに行ったりしてたんだけど、こっちが逆側の遠方に進学してからはLINEで定期的に「今どうよ」みたいな連絡とる感じ。
情緒不安定の思春期を共に戦った戦友みたいな?そんな存在だった
死んだこと知った時も悲しいとか寂しいとかより、喪失感?「あー、お前の方が先だったか」って感じだったけど、国際通りのカラオケで一緒に歌った曲聴いた時はちょっと泣きそうになった。今は無き夜の首里城とか行ったら涙腺崩壊しそう
自殺未遂がどうとか人生はクソとかも沢山愚痴ってたけど、最後に会った時は大学生活も順調そうで「メンタルも安定した!」って言ってて、当時宅浪ニートで社会不適合まっしぐらの自分と比較したらとてもキラキラして見えた。お前めっちゃ女子大生してんじゃねえか!とか煽った記憶がある。
彼女が自殺した夏は何してたっけと思って過去の写真を見たら飲み会海水浴遊園地デート、完全にキャンパスライフと夏休みを謳歌してた。
何故死んだか、首吊りか飛び降りかも知らないし正確に何月何日か、そんなことも知ることが無い希薄な関係性だった。
でも当時相談に乗ってもらったからこそ、アドバイスで背中押してもらったからこそ、今は自殺という同じ選択肢を遠ざけられていると思う。
例えば実家出た方がいいとアドバイスされた通り、北海道の学校に進学してから本当に精神が安定するようになった。
同い年なのにいつ会っても話しても常に自分の先を行かれてるような感覚で、型にはまらないような自由さは、色々な"すべき論"で凝り固まっていた自分にはとても新鮮で、憧れであり、目標でもあった。
実際その目標は達成できたかはわからないけど、昔よりはだいぶ自由になれたんじゃないかな
お礼は言いたかったのに言えずじまいだしということで一応、漫画みたいに夜の海に向かってありがとうございましたと叫んでおいた
ていうか沖縄行った時借りてた二万返したいんだけど、北洋銀行からあの世には送金できねえんだわ
大学受験に失敗した。予備校に通うお金もなく、宅浪する覚悟もなくて、後期で受かった地方国立大に通って2年目。眠れないのは隣人の騒音のせいじゃない。
第1志望の学科には合格できなかったけれど、最初のうちは長く続いた受験勉強から解放されたということもあり、自分なりに楽しもうと思っていた。でもダメだった。
周りと自分のやりたいことが全く違うのが苦痛だった。遊んでばかりいる人がやたらと目について、「本来自分はここにいるような人間じゃなかった」なんて考えるようになってしまった。
そんな態度が周りに伝わったのか、元々のコミュニケーション能力の低さが原因なのかはわからないけれど、友達もあまりできずに今は1人で講義に出ることがほとんどだし、サークルもやめた。バイトの同期は違う学科でほとんど会えない。土日は家から一歩も出ないことのほうが多い。今まで一度もできなかった彼氏は、今もできないままだ。
なんとなくフォローを返した大学の知り合いのインスタグラムのストーリーには、毎週のように飲み会の様子があがる。
予備校に通っていた高校のときの同級生は、志望の大学に合格して楽しそうに毎日を過ごしているみたいだ。
親のことは大事だけれど、奨学金を借りずに大学に行けている人のこと、留学できている人、予備校に通える余裕があった人を見ると、羨ましくてたまらなくなる。
具体的に何が辛い、というのははっきりと言えないけれど、ぬるま湯につかったような毎日に、ぼんやり死にたいなあと思っている。やりたいことがないわけではない。好きなもの、楽しみなことがないわけでもない。だけれど、それすら面倒に思えてくるほど毎日が億劫で仕方がない。
大学に入ってから顔への執着が酷くなった。周りの目線が怖くなった。
講義で当てられると泣きそうになった。
狭い講義室が怖くなった。
「大学生なのに」充実していないことをみんなに悟られるのが心底嫌だ。
夏休みに帰省するけれど、大学に行かない生活が長く続くと、もう行けなくなるのではないかと不安になる。かと言って中退する勇気もないし、今まで大学に払ってきたお金が無駄になるかと思うとこのままなんとなく通って卒業して、なんとなく就職するのだろう。
なんのために生きているのかほんとうにわからなくなってきた。
ノー勉で東大入るやつもいれば予備校通いまくってFランのやつもいるからなんとも言えんけど
私自身(いま大学4年です)は現役時は高校の授業の予習復習をがんばってマーチに合格した。翌年、宅浪+夏期講習と冬期講習で早慶に入った。何となく、状況が似てそうだなあと思うので私の意見を書いてみると
受験は学力+入試対策のノウハウなので、学校で入試対策が行われるなら不要。あるいはノウハウが不要なくらい学力が高いなら不要。それは模試や過去問を解けばわかる。
基本的には完全自習よりは大手予備校の夏期講習くらいは受けといた方が効率いいと思う。受験に対する知見の蓄積がレベル違うから。浪人のとき、去年予備校行けばよかったなあってすごく思ったよ。