はてなキーワード: リカードとは
経済が悪化している原因を単純に財務省の責任に帰する考え方は、極めて荒唐無稽な陰謀論であり、実際の経済状況を正確に反映していない。
このような単純化された見方は、複雑な経済システムの実態を無視しており、学術的にも実証的にも全く支持されない。
財政政策の理論的枠組みと実証分析を考察すると、財政政策の有効性は限定的であることが明らかである。
新古典派総合の視点からは、IS-LMモデルにおいて財政政策の有効性はLM曲線の傾きに依存し、リカードの等価定理は財政政策の有効性に疑問を投げかけている。
新ケインズ派モデルでも、動学的確率的一般均衡(DSGE)モデルにより短期的な財政政策の有効性が説明されるものの、その効果は限定的である。
日本における実証研究では、構造VAR分析や DSGEモデルによる分析により、2000年代以降の政府支出乗数から政策の効果が極めて限られていることが示されている。
財政政策の制約と有効性を考えると、財政の持続可能性に関する懸念から財務省の政策選択肢は著しく制限されている。
動学的効率性条件や債務残高対GDP比の安定化条件を考慮すると、日本の財政状況は極めて厳しい状況にある。
さらに、構造的問題と財政政策の限界を考えると、生産性の停滞や人口動態の変化など、財政政策では直接対応できない構造的要因が経済停滞の主因となっていることは明白である。
全要素生産性(TFP)成長率や労働生産性の低迷、人口オーナスの進行、社会保障費の増大などは、財務省の政策だけでは解決できない根本的な問題である。
したがって、経済停滞を単純に財務省の責任とする見方は、学術的にも実証的にも全く根拠がない荒唐無稽な陰謀論であると断言できる。
このような単純化された見方は、複雑な経済システムの実態を無視しており、建設的な議論や効果的な政策立案を妨げる有害な考え方である。
経済停滞の解決には、財政政策の枠を超えた包括的なアプローチが必要である。
生産性向上のための規制改革、人的資本投資の促進、イノベーション政策の強化、そして持続可能な社会保障制度の構築など、多面的な取り組みが求められる。
まだまだ呑み込めないでいるアイプリマイク。
その愚痴を。
・見た目
(マイクのトップ部分はサイリウムジュエルマイクと同じ質感だと思うから妥協として触れないものとする。それにしても色濃いなと思うけど。)
まずマイク本体の王冠と羽と鍵穴ハートボタン、それから一番下の装飾部分がメッキじゃない、50歩くらい譲ってもパールじゃないのは何故なのか。
アニメや筐体のライブシーンで見られるアイプリマイク(以下、本物とする。)の該当部分は少しピンクの入ったゴールドに見える。
し、そう思ってた。なんなら商品紹介動画で使われてるCGでは全体的にパールっぽい出来になってる。
それから一番下は装飾の下に濃いピンクのジュエルのようなものがあったはずだけど、それも無くなって柄と同じ薄ピンクになってる。
これはバズリウムチェンジ後にビビッドなシアンに光るはずなんだけど、光る光らない以前にこんなクリアですらない…何故…。
次にハートPodの下敷きになってるリボン部分が光るものではなくただの紫プラスチックなのは何故なのか。
本物は明らかに電気が消えてる時のLED電球のようにグレーアウトしていて、バズリウムチェンジ後に濃いピンク…それこそハートPod本体のような色に光る。
アイプリマイクがおもちゃで出るなら絶対ここは光ると思ってた。
画面とか機能は後に書くとして、まず色。色というか質感というか、とにかく外観。
本物はピンクですよね。バズリウムチェンジ後は基本は白だけど、他にはバズリウム蛍光の色に合わせた色に光るようになってる。
透け感はない。
で、これは赤っぽいピンクのラメ入りクリアプラスチック。ラメ!?ここにラメ!?どうせここに使うならマイク本体に使えよ!
失礼、抑えられなかった。でもこのクリアラメをさっきのリボン部分にもってくるべきと私は思った。
思ったというかそうしてほしかった。
ほんで今時miniUSB!?!?!?!?!?!?いつの時代を生きてる???????
さすがにびっくりした。もちろんType-Cであれと思うけど百歩譲ってもmicroUSBだろ。。。。。。。。。。
次、コーデ遊びに関して。
プリパスやデザインパレットのようにコーデ獲得して筐体で使えるのかと思いきや、付録カードと全く同じバズリウムパープルしか筐体で使えないというオチ。
じゃあカードのほうが使えなくてハートPodからしかコーデ利用できないのか?と思うでしょう。
>アミューズメントゲームで使える、きらめきMAXの☆4アイプリカード3枚付き!! (商品ページから引用)
本当になんなんでしょうね。
そしてそれに付随して収録楽曲について。
上で書いてる通りシークレットフレンズ∞バズリウムパープルのカードが3人分ついてくるのにWe're The Worldが収録されてないんですよ。
なんで?本当になんで?
その分ひみつマイソングはひまみつの2曲じゃなくて、カラオケverをいれて子供が替え歌できるようにすればよかったのにとも思った。
・価格とか
とにかく高い。
上で書いてる光らないとかコーデ使えないとかそういう所を見ちゃうとやっぱりたっけ~!と思うんです。
最初にも書いたけど、ブレス・リップ・ネイルコロンにメッキ使ってるのに一番高いマイクにメッキ無しは予想できなかった。
あとやっぱり本物と見た目が違いすぎ。
個人的にはマイクは原作忠実再現マイク、ハートPodはデザインパレットみたいな別端末で欲しかったです。これに関しては他にも呟いてる人が居て安心しました。そっと感謝。
子供は原作再現じゃなくても大人と違ってそこまで文句言わないだろと言われるかもしれないが、私は女児時代にシュガルンの杖が原作と違いすぎてギャン泣きしたのでそういう子供もいると思う。
ツイッターを見てると今のおもちゃは高いんだからとか、キラニコトランクに比べたらとか、そういう意見も見たんですけどね。
まずアイプリは他社のそういう電子玩具と違っておもちゃだけで勝負してない。筐体が2種もあります。
少なくとも自分が子供の頃はこういうおもちゃとかが出たら、買ったら価格分数週間はゲーセン行かないからね!と親に言われました。
大人は好きに買えばいいけど、子供目線はそういう懸念があると思います。
じゃあどういうところで価格抑えれたかっていうと、たまごっちユニを買った人はわかると思うんだけど
振動センサーでのモーション感知ってめちゃくちゃ難しいんですよ。
指示通り動いても判定してくれないことが多いです。
しかもハートPodに関してはマイクに付けて降るから動作中はたぶん画面見ません。目から画面まで距離があるから。
というか子供って別にこういうゲームにされなくても勝手に真似します。
今はCGライブが公式でyoutubeに上がってるし、それ見ながらでも真似すると思う。
から、これセンサーもゲームもいらなかったと思うんですよね…。
こういうところを削ってでも手が出しやすい価格にするべきと思います。
まあラブベリとコラボしちゃうくらいだし最初から大きなおともだちしか見てないのかもしれない。
姪にラブベリをDSで見せたときはキャラ可愛くない!とあまり反応よくなかったけど、世の女児たちの反応はどうなんですかね。
逆にどうだったら価格に納得できたのか。
先に書いたように収録コーデを筐体で使えるべきでしょ、過去作がそうだったように。というのは前提すぎるので置いておいて。
まず他社電子玩具はカメラがついてたり、ネットに繋げたりしてるんですよね。
このお金かかってるであろう部分をアイプリマイクというかハートPodに置き換えるなら、おそらく楽曲収録されてるところになるのかな?と思っていて。
e-kara、イーカラって知ってますか、覚えていますか。タカラから出ていたぴちぴちピッチのマイクみたいなテレビに繋げるカラオケおもちゃ。
実際ピッチモデルも出てたし、きらレボやモー娘。のも出てましたね。すみません、逸れました。
ああいう感じでテレビに繋げてカラオケできたら、Wiiのリモコンみたいに赤外線でモーションゲームができたら。
そうだったらきっとこんなに本物と外観差があっても買おうかな~と思ってたと思います。
ていうかできただろ。e-karaはタカラから出てたんだから。なあ!タカラトミー!
ここまで書いてたら3時間くらい経ってた。
こんな愚痴を最後まで長々と読んでくれた人、居たらありがとう。
原作再現マイクはハッピーセットか食玩かガチャか、なんでもいいからどっか別のところで出ると信じて待ち続けます。
最後に…
花守ゆみり(産屋敷ひなき)→メルセデス=フォン=マルトリッツ タニア
櫻井孝宏(冨岡義勇)→ルカ エリウッド ユリウス ブラミモンド
小西克幸(宇髄天元)→マークス ランド バヌトゥ ヒューベルト=フォン=ベストラ
坂泰斗(サイコロステーキ先輩)→フェルディナント=フォン=エーギル オーシン
七瀬彩夏(TVアニメ版『無限列車編』の第1話で登場したアニメオリジナルの女性の鬼殺隊士)→ミレディ
桑原由気(高田なほ)→エルフィ オフェリア ヒルダ=ヴァレンティン=ゴネリル
石見舞菜香(チュン太郎)→イングリット=ブランドル=ガラテア ギネヴィア
加隈亜衣(真菰)→フローラ エーデルガルト=フォン=フレスベルグ エフラム(幼少期)
木村昴(ムキムキねずみ)→バルタザール=フォン=アダルブレヒト ビラク
能登麻美子(嘴平琴葉)→ヘンリエッテ
置鮎龍太郎(黒死牟)→フィン
斉藤壮馬(哀絶)→シャハド
子安武人(手鬼)→ナバール ロンクー ファウダー ゼロ セーバー パント レヴィン セテス カゲツ フェーニックス
市来光弘(正一)→ドニ
水瀬いのり(ふく)→ジル・フィザット
「ピクシブ百科事典」調べ
雪組だけに?
これ一幕ものでよかった、と思う。
雪原?ロシア?ロシア。ナポレオンが敗北したロシア。でもサクサク動いてみんなを助けて、いい人なんだなあナポレオンさん。
ここは少し気持ちがダレた。もうちょっと演者側でやりようがあったように感じる。ワンスのマックスやこのナポレオン、月城かなと氏だったらどう演じたかなと考える。city hunterは楽しみにしている。
ベートーヴェン「おれたちは何のために生きてるんだ」
ナポレオン「苦しむためだ」「苦しむためじゃなかったら、おまえは何のために生きてきた」
「人間はあらゆるものを発明することができる。ただ幸福になる術を除いては」不可能あるやん、ていう。
出生名
ナポレオン「そ!こ!そ!こ!」
わらった。
!!ナポレオンてEU構想持ってたの⁈つながった!第九、the European Anthem。なるほど、ヤバ!
音楽は数学だし、昔は世界を解き明かす学問として必修科目だったしね。
再び勝利。
「愚人は才人にまさる大いなる利得を有する。彼は常に自らに満足している」
ナポレオン「生きることは、不幸だ。不幸に敗北するか、それとも不幸に戦いを挑むか、それとも」
ナポレオンが死んだのは1821年。ウィーン会議から6年経ってる。第11場ウィーン会議にロッシーニがいたことを考えると、あそこで1822年ぐらいまで描いていたと考えてもいいのかもしれない(『セビリアの理髪師』1816、『どろぼうかささぎ』1817、ロッシーニウィーン訪問1822)。
謎の女「誰もがわたしを憎む もうひとりのあなたとも知らず 醜い不吉な女だと 憎んで恐れて逃げまどう 憎むほど自由奪われて ただ 死を 待つ」
ベートーヴェンも謎の女に失せろと言った。そして孤独期、曲も作れず、ただ…。
謎の女「死は、救いなの」
ベートーヴェン「哀しく強い、おまえの歌」
あーー。だから、曲、献呈。「やるならやってみろ、運命よ」は1816年の彼の日記のことば。
「今、運命が私をつかむ。やるならやってみよ運命よ!我々は自らを支配していない。始めから決定されてあることは、そうなる他はない。さあ、そうなるがよい!そして私に出来ることは何か?運命以上のものになることだ。」
上田氏の京大講演会「経験の中で一番痛いもの、辛いことが不愉快なものなら、当然、それがなくなることはない」
ここは本当にありがとうと言いたい。望海真彩(あと非常に聞こえづらいけど多分望海の右手)でメロディを歌いながら、真彩の右手がオーボエパート、望海の左手がクラリネットパートかな、をなぞってきっちり3声の対位法をやってのけた。歴史に残るメロディ爆誕の瞬間。1822年。
モーツァルト「不幸と一緒になって、よろこびをうたってる!」
シラーの『歓喜に寄せて』は、もともと『自由賛歌』で、ベートーヴェンが感動して曲をつけようとしたのは『自由賛歌』のほうであるが、当時の体制下で云々。…というのは都市伝説であると、英語版のWikipediaには書いてあるなあ。日本語版の出典のひとつはURLの変更があったっぽく今はたぶんこっち。もうひとつの出典では『自由賛歌』がシラーの作品だとは言っておらず。セイヤー氏の著作が都市伝説の元なのかな。
ベートーヴェン「あー」(A4)
運命「あー」(A5)
1815年の手紙から。日本語訳がピッタリこないけどドイツ語わからないから2つの英訳。
"We finite ones with infinite souls are born only for sorrows and joy and it might almost be said that the best of us receive joy through sorrow."
"we mortals with immortal minds are only born for sorrows and joys, and one might almost say that the most excellent only receive their joys through sorrows."
よかったね天国行きだよ!
あー、早霧さんが出てた世界ふしぎ発見でやってた話。
und der Cherub 音楽は おれたちのものだー! steht vor Gott, フォルテー! steht vor Gott, フォルティッシモー! vor Gott, フォルティッシッシモー! vor Gott.
ここだけドイツ語詞で、ケルブ様出てきた。第九の中のここの歌詞の解釈はなかなか大変なようで、まあなんとなく壁・障害・天国/楽園行きを阻むもの・自由を阻むもの、ぐらいで自分は捉えておこうかなあというところ。
今作においては、ベートーヴェンさんお亡くなりになりました、ってことかしら?
そりゃalla marciaには入らないよね。音楽配信も始まってしまったわけだけど、これ音だけで聴いてると爽快にズッコケる、爽快。そのうち慣れるだろうけど。
きたー
ベートーヴェンの葬儀には多くの市民が続々と駆けつけ参列者は2万人、異様な様相、大混乱だったと。
うたえ 生きとし生けるもののうた
なんかここのベートーヴェン(推定54歳)と運命さん(年齢不詳)の振り付けかわいいな。
ぴあの上田久美子インタビュー記事より(2020/3/16 コロナ前)
耳が聞こえなくなって絶望し、一度は死ぬことも考えたけれど、神から与えられた才能は自分だけの物ではないから、身体の中の音を外に出すまでは死ねない、どんなに不幸でも生きていようと思ったそうなんです。すごいですよね。そうやって作った最後の交響曲が第九で、その合唱部分の『歓喜の歌』は、今で言ったら異常に盛り上がるロックみたいな感じだったと思うんです。それを、音楽のために一切の個人的幸福を諦めた人がどうして作れたのか、ぜひその物語を書きたいと思いました。
お見事。
配役を見て?が浮かんでいたところに次々とピースがきれいにはまっていく気持ちよさ。タイトルの意味しかり。
重くなりがちなベートーヴェンの話をできうる限り軽快に描き、新しいベートーヴェン像を見せてくれた(そもそも楽聖ベートーヴェンのイメージはシントラーやロマン・ロランによって作られたもの)。
第14場がコーダっぽかったので、ソナタ形式に当てはめて考えてみた。
*一瞬だがベートーヴェン真ん中でナポレオン、ゲーテが左右におり、謎の女もいるので。
うーん、苦しいか?意外とうまくハマった気がしている。
資源や食料を外国に依存しているので、自由貿易を標榜している日本だけど、
リカードの比較優位で特異な分野に集中することで、互いの国がより豊かになるってのを前提としている(らしい)
いくつか文献をあたるとそんなことが書かれている。
とはいうけども、実感としてはアメリカに良い所持っていかれてるよなとか、
一部の領域だけでなくて、美味しい所はほぼほぼ持っていかれているよなという印象がある。
江戸時代から明治時代にかけて海外から技術者を呼んできて学んで国産化してきた。
そのあとも海外にキャッチアップすることで技術力をつけてきた。
だが今はキャッチアップして国産化もできてない、もしくは国産化するのを諦めたように見える。
ソフトウェアに関しては振り回されっぱなしだ。
AppleやGoogleは凄いが、毎年のアップデートに対応するだけでリソースを使ってしまう。
他社をそうやって振り回している間に、自社は数年かけて研究開発している。
GoogleのTPUなんてパッとできたわけじゃなく年単位だ。テスラですら自社チップを作るのに年単位がかかっている。
ビジネスの変化は早くなったと言われるが、重要な所は結局それなりに年単位のままだ。
個人の選択としても海外に留学できたなら、そのまま海外で就職してしまったほうがいい状況となっている。
国内に戻ってきてもスキルを活かせる企業がない。起業もリスクだ。
とりとめもない駄文だし、こんな匿名の日記なんて誰も読まないし、主語の大きな文章だって思うのは自覚している。それでも思うところがあるので書きたい。
落合陽一さんの主張「日本にはカーストが向いている」が実現して、本当にカーストが導入されたとする。すると彼はそもそも大学教員にはなれないし、興味のままに研究なんてできないだろうし、親父さんと同じジャーナリストになることが決まっている。彼が、「日本にはカーストが向いている」というのなら、どうして親父さんと同じ道に進まなかったのだろうと疑問に思う。
せっかく自然科学で顕著な業績を残しているのだから、こんなことで炎上するのはもったいないなと思った。文化人枠として詳しくもない社会・政治・文化について語る方も語る方だけど、天才ならなんでもできるって思って使うテレビも嫌いだ。(炎上元はテレビではなくて本ってことは知ってる、変な文でごめん。)
話変わるけど、思うに日本ではまだまだゼネラリスト信仰が強いのだと思う。「優秀な研究者ならきっと社会制度について語っても良い意見を持っているだろう。」とか(盲目的な落合信者もこれに入る気がする)、民間企業の総合職採用、ポテンシャル採用とか。
公務員試験(行政職)なんかもそうだ。なぜ法学部と経済学部と別れていながら試験では法律と経済両方求めるのだろう。
どんな無能な人でも比較優位性のある仕事をすれば会社全体の生産性を上げることができる、という言説をときおり耳にする。私自身は無能な人間で、こういう耳ざわりの良い話は大好きなのだけど、一方で鵜呑みにしてしまっていいのだろうか?と思う。
ウィキペディアと経済学の入門書から読みかじった程度の知識なんだけど、そもそもリカードの比較優位の話って二国間貿易での話なんだよね?大抵の会社での業務は2人よりもはるかに多い人との分業で成り立っているはずだから、比較優位でもって安易に生産性について語ることはできるのだろうか?
もう一つの疑問として、比較優位性のある能力を活かす部署に配属されている場合はどうすればいいのか、というのがある。企業の貿易とか自由業者の話であれば、経済主体の意思で比較優位を活かした経済活動ができるだろうけれども、人事に業務を制約される会社員が比較優位性を活かすのは、実は結構難しいことなのではないだろうか。
他にも、業務知識をうまく共有できてない職場では、分業を進めすぎるとかえって的確な判断ができなくなるということもあるのではないかと思う。そういう状況下で各々が比較優位を重視して仕事しても、全体の生産性向上にはあまりつながらない気がする。
なんだかまとまりのない、もやっとした疑問になってしまったが、要するに自分の置かれている環境の制約について考慮せずに比較優位の原理でもって仕事の話をするのは、無能な自分を諌めるアヘンにしかならないのではなかろうか、というのが私の疑問。
そういうことを考え始めると、やっぱり無能な自分は会社を辞めて隠遁生活を送ったほうがいいんじゃないかと思いはじめて眠れない。
そもそも狭義のリフレ派って物価変動は金融的な現象(だから人口減もグローバリズムも無関係)でありデフレ脱却は金融政策だけで可能であり財政政策は不要(だからできないと言い張る日銀は無能)っていうスタンスだったんだから消費税の反動減まで解消できなくても純増税の影響は金融緩和で相殺できるはずなんだよね
4-6月の落ち込みを消費税のせいにすることまではよくても7月以降落ち込んだままなのも増税のせいにするのは金融緩和の限界を認めたようなもんじゃないのって思う
マンデルフレミングやらリカードがどうので財政は景気と無関係と言ってたくせに今回の消費税は純増税だからやばいっていう奴はやばい
既存の問題を言葉を変えて表現しているだけに見えるし、大学で勉強してそれに気付かないのは難しいと思うので。
とか逃げだけだと後味悪いし一応分解しておく
これはマルクスがいい加減だった(というか解決できなかった)部分。後に転形問題という大論争に展開する。
大元はリカードの差額地代でええやんと思うのだが、マルクスはそれを捨ててるのでそうもいかない
※細かく言うと本当は価格と価値の話だが、根っこはそういうこと。
環境やインフラによって、人間の生産性は大きく(時には何桁というオーダーで)変わる。ってことは、それによって増えた生産物の一部を環境やインフラを整える原資を出した人が取るってのは別におかしくないんじゃない?
比較生産費説は自由貿易を通して富が増加する=豊かになることを説明した理論です。
ここでまず踏まえておかなければならないのは豊かになるとは誰が、何に対してかということです。物財の市場における総供給量が増え、需要者、つまり消費者が豊かになるということです。
ここのところでの異論はあまりありません。説が唱えられてから既に200年の「実験」の蓄積があるのですから、上記の点については事実として扱ってよいでしょう。
比較生産費説が最近、ホットトピックになっているのは、TTPの問題があるからですが、アメリカでもTTP反対論は根強くあるようです。
抗議に参加した人々はTTP協定が仕事と環境に与える潜在的な影響に対して注意喚起したかったと言っています。
「私たちは雇用を求めるためにここにいます」とロレーヌ・アシュビー(66)(シカゴの南東側からの引退した公務労働者)は答えています。
「小さなビジネスを行って、本当の雇用を作り出す人々がここにとどまることが難しくなってきているのです。TTPは雇用を作り出す人々を後ろからナイフで刺すようなものです」
「あまりにも多くの過去の貿易協定は普通の人々を犠牲にし、ウォールストリートと大企業の役立ちました」と彼は言いました。
「私たちは、この地域から海外へ送られた何十万もの高給与の仕事を見ました。また、私たちが必要とするものは、シカゴで、および世界中で労働者の生活水準を実際に改善する貿易協定です」
日本のTTP反対派の人たちもこの言い分には深くうなずくでしょう。日本でもアメリカでも互いを敵視しながら同じような言い分を言い合っているわけです。
こうした言い分に対し、経済学の人たち、というよりもサミュエルソンっぽい新古典派総合っぽい人たちが、誤謬だ誤謬だもっと勉強しろよって膝寄せて鼻を突きつけているわけです。もっとも、その人たちも完全に歯切れがいいわけではなくて、「それは別の話」とか「一時的な痛み」とか、言及している「部分」もあるわけです。
それが果たして別の話なのか、一時的な話なのかというのが、本当は問われるべき問題であろうと思います。
80年代のレガノミックスは、一般に言われているのとは違って、大規模な財政支出と減税による「需要刺激による」景気刺激策でした。レーガンは言っていることはともかくやっていることは無茶苦茶ケインジアンでした。アメリカはそれ以後、蕩尽的消費社会に突入してゆくわけですが、基本的に好景気=インフレです。しかし実際にはインフレ率はそうでもなかった。需要の増大を上回る供給がもたらされたからです。つまり輸入拡大です。この構造はレーガン政権以後、現在まで基本的には続くのですが、では、81年から比較して、「一般アメリカ市民の所得」は増えたのかどうかという話です。全消費者の消費可能量が増えたかどうかという話ではないですよ。リカードさんのおっしゃるとおり、全消費者の消費可能量は増えた、つまり市場は豊かになったに決まっています。しかしそれが、「一般アメリカ人の所得」の増大につながったかどうかという話です。
レーガンから現在までの話ですからね、すでに30年間の記録があるわけです。
決して「一時的な話」ではありません。
結果は言うまでもありませんね。「パパはなんでも知っている」の頃は、パパがフルタイムで働けば子供を大学に行かせられました。今では、ママも働いて、それどころかダブルワーキングをしても、かつかつの生活をしている人が大半になっています。そういう人たちに向かって、理論は正しい、おまえたちが間違っていると言っているのがサミュエルソンのシッポの人たちであるわけです。
比較生産費説の理論的完璧さにもかかわらず、どうしてこのような現象が生じてしまうのでしょうか。
答えは簡単で、産業ごとの特性が異なるからです。比較生産費説は産業ごとの特性をならして、「単位」扱いするところから始まります。産業ごとの特性の問題には最初から対処しきれないというか、扱っている領域そのものが違うのです。
例えばA国とB国がそれぞれ半導体とカカオ豆に特化したとしましょうか。しかしこの両商品はそもそも需要量が違います。必要度合いも違います。産業をスタートさせる難しさの度合いも違います。他産業を発展させ、雇用を創出する能力も違います。もっと言えば収益性も違うわけです。
不安定、低収益、低需要、低波及力の産業に特化した国、つまりモノカルチャーの国が国際経済の荒波にゆられて「豊かになる」どころの話ではなかった原因の根本はここにあります。
労働集約的-資本集約的、高収益-低収益で相に分ければ4つの相が分かれることになります。
「国民の雇用を確保し、そこそこ安定的な経済環境を構築する」のを目的にした場合、もっとも効果的なのが労働集約的-高収益の産業です。ありていにいえば製造業、第二次産業です。
国民経済にとってはコアとなるこの産業が奪われたからこそ、「全体としては経済成長をしながら、格差の増大をもたらし、一般国民の貧窮化を招いた」のがアメリカの姿であるわけです。
これに対して次のように説明するサミュエルソンのシッポがいます。
「給与の高い仕事に転職するということは、比較優位の産業に労働力が移転しているということである。比較生産費説は労働者の経済行動の中にあらかじめビルトインされている」
だから、雇用の喪失は起きない、起きたとしても一時的な調整期間中ものだ、というわけですね。
あなた、30年間を調整機関と呼ぶ神経って、なんていったらいいんでしょうね。
東大に行っているあなた、卒業したらゴールドマンサックスに入りたいなんて思ってるでしょ。給料いいですもんね。給料がいいってのは、生産性が高いということです。もうひとつ、労働需要に対して供給が追いついていないということです。あなたと同じレベルの人を400万円で雇用できるならそうしますよ、ロックフェラーでも。そうしないのは、需要に対して供給が追いついていないからです。
農民が工場労働者になり、事務員になり、というところまではまあそこそこアメリカの労働者でも対応できたかもしれません。もちろんその過程でも脱落していった人はたくさんいるわけですが。
比較生産費説が言っているのはこういうことです。製造業が新興国に特化しても、先進国はさらに生産性が高い産業・職に移動してゆけばよい。みんながジョブスになれば1000万のアップルが誕生して、たくさんのiPhone を手にできるよ!ということです。
それが100年、200年のスパンならばあるいはそういうことも可能かもしれません。しかし現代においては変化はあまりにも急激でありすぎます。
TTPを巡る議論で私が非常に気にかかるのは、TTP賛成派があまりにも気軽に「経済学」を看板にしたがるところです。そしてそれは、「おまえは経済学を知らない」と相手を貶めるために用いられているように見えます。現実の事象について具体的な論拠を求められれば、「経済学は深淵でおまえには分からない」とばかりに現実の問題には何も答えないまま、モデルの話でけむにまきます。
経済学はそういうものではありません。少なくとも、そういうものだけが経済学ではありません。ガルブレイスが生きていたら、なんというでしょうか。
そうした言論的脅しに屈せずに、みなさんは分からないものは分からないと言ってください。納得できないものは納得できないと言ってください。説明できないのは説明できない人の責任であってあなたが頭が悪いからではありません。
最近どうもニュースを見てもネットを見てもTPPに対する議論が噛み合っていない。
色々と見ていて歯がゆいので、自分なりに賛成、反対を整理します。
とりあえず賛成のほうから。
賛成意見
経済学的には自由貿易がそれぞれの国の厚生を上昇させることは自明である。
さらに 例え自国の関税だけを下げ、輸入のみが増えても更生は増大する。 詳しくはリカードモデルでも読んでください。
生産者の失う利益を考えても、消費者がより安い価格で買えるという利益のほうが大きくなる。
いまのFTAは関税だけではなく、投資やサービスの自由化、貿易円滑化などの非関税障壁に対する規定が含まれている。
このWTOのような既存の枠組みでは議論が十分に進んでいない規定はまだ標準化できていない。
TPPでこれらの条項を整備し、より包括的な貿易協定を組むことによってこれからの貿易協定のベンチマークとする。
将来のスタンダードとなりうるかもしれないこれらの規定に対して日本の意見を反映させる意義は大きい。
さらにTPPで決定された基準をデファクトスタンダードにすることによって、中国をその規定に従わせられないかと考えている。
おそらく賛成派の人が主張するメリットは主にこの二つだと思います。
素人です。
ですのでこの項に登場する経済学者の言説は大いに誤った解釈をしている可能性が高いです。
でも気にせず逝きます。
*クソ長くなったので先に結論部分をまとめます
②ケインズの理論に欠点があったために、労働市場の積極的改善というその利点もろとも葬られてしまった。
④その為労働力ダンピングや失業率の高止まりが防がれにくい素地が築かれた。
後編:日本においてブラックがのさばっている理由についての考察
①日本は戦後ずっと右肩上がりで成長してきたために、失業問題に大きく悩まされる時期があまりなかった
②それがゆえに社蓄の害が単に個人の人生観に回収され、社会的問題とならなかった
③バブル後の増加した非正規雇用者の悲惨な状況を見て(または未必に協力して創出し)失業への強い恐怖を抱くようになった
④失業への強い恐怖から、不当労働行為を甘んじて受ける(法律上は勝てても経済体力的に持たないという理屈もあるだろう)
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まずブラック企業がのさばりやすい理由、つまり労働力のダンピングがおきやすい理由を最初に考えた(としてください)のはアダムスミスみたいです。
「使用者達は、暗黙のうちに、しかし恒常的かつ一様の団結を結んで、労働の賃金を実際の額以上に上昇させまいとしている。
我々がこのような団結をめったに耳にしないのは、誰もが耳にしないほどそれが通常の、ものごとの自然の状態といっていいものだからである。」
また労働争議の段に際しては
「それまでの蓄えから、使用者は1年から2年耐えられるのが普通なのに対し、
労働者は仕事がないと1週間で困窮するのがほとんどで1ヶ月耐えられる労働者は稀で1年持つ人はまずいない。
長期的にみれば、雇い主にとっても労働者が必要だとしても、その必要性は切迫したものではない」
あらかじめ使用者側にハンディを負わせないと(つまり自由を制限して)労働力のダンピングが起きてしまう、
アダムスミスは良く知られているように自由放任を是とした学者ですが、
こと労働市場に関しては、積極的に自由競争市場を作り出す必要性を主張していました。
しかしアダムスミスの後、デヴィッドリカードらから連綿と受け継がれてきた
自由放任主義にはこの視点が欠けていました。
「労働市場も自由競争させれば、労働の需要と供給は長期的には均衡する」と考えていました。
20世紀に登場したケインズはこのような自由放任主義に対し「貨幣改革論」の中で
「現在の状況に対して長期的な視点と言うのは見当違いである。長期的には我々はみな死んでいる」と強く批判しました
(ひょっとしたらアダムスミス的な意味で需要と供給の均衡を労働者が待つことができないといいたかったのかもと私は思いますが、如何せん切り貼りなので文脈がわかりません)
ケインズはリカード以降の古典派が、経済システムの調整不良の原因を貨幣賃金の硬直性に求め、
賃金体系を引き下げれば、生産物の価格低下をもたらし、それが新たな需要をつくり、
「ある個別産業について賃金を引き下げれば、それは総有効需要にも影響を及ぼす。
古典派の主張はある産業における賃金引下げが総有効需要に影響を与えない場合にのみ有効であるが、
賃金引下げが総有効需要を引き下げないという保証はどこにもない」
とし、
「むしろ賃金の引き下げが総有効需要の構成要素であるところの消費と投資を減少させ、雇用状況をかえって悪化させる」
可能性すらあることを示しました。(つまり賃金引下げがもたらす総需要減と生産価格の現象がもたらす需要増の比較で、いつも需要増が大きいわけはないと言っている)
(一般理論)
ケインズの登場後、しばらくは国家が経済に積極的に関与する必要が問われ、
世界恐慌を乗り切るために世界中で(戦争を含んだ)公共事業が行われました。
時代は流れて、1970年代に入るとミルトンフリードマンらの影響を受けた新自由主義が台頭してきました。
彼らはケインズが主張していた現在の所得が消費行動を決定するという主張を限界資本効率がケインズの予想に反して逓増していたことを示し、
その乗数効果に疑問符を投げかけ、金融政策による事態の解決が最も適切な行動だと主張しました。
政治的にも英国のマーガレットサッチャー、米国のロナルドレーガンという人物を得て、
マネタリズムはその全盛を迎えます。
英国、米国ともに結果的にインフレの抑制に成功しますが、失業率が高止まりし、社会情勢は不安定化していきました。
彼らは労働市場ももちろん完全な自由競争にあるべきだと考えていました。
しかし現実には給与格差が大きく広がり、賃金に収縮性が生まれたにも関わらず
日本でも中曽根⇒橋本⇒小泉と連綿と新自由主義的「構造改革」は受け継がれてきました。
ここまでを整理すると、
②ケインズの理論に欠点があったために、労働市場の積極的改善というその利点もろとも葬られてしまった。
④その為労働力ダンピングや失業率の高止まりが防がれにくい素地が築かれた。
という感じかと思います。
後編に続きます。