はてなキーワード: 失業問題とは
ラッダイト運動の教訓は、技術革新と社会変革のバランスを取る重要性に尽きると思う。
この運動は、19世紀初頭のイギリスの織工たちが機械化に反対し、労働条件の悪化や失業問題に抗議して機械を破壊したことから始まった。
教訓の一つは、技術進歩が労働者に与える影響を無視してはいけないということ。
技術革新がもたらす効率化や生産性向上は企業にとっては利益だが、それが労働者の失業や賃金低下につながる場合がある。
このような影響をしっかりとモニターし、適切な対策を取る必要がある。
また、労働者の声を無視せず、彼らとの対話を重視することも重要。
ラッダイト運動は、労働者が自分たちの生活を守るために最後の手段として過激な行動に出た結果だ。
現代では、労使間の対話や労働条件の改善が早期に行われることで、同様の衝突を防ぐことができる。
さらに、経済の変化に対応できるスキルを労働者に提供する教育や研修も重要。
技術革新が避けられない現代において、スキルアップや再教育の機会を広げることで、労働者が新しい環境に適応できるよう支援することが求められる。
『公助は削って、福祉は家族による相互扶助を基本とする』に対して、そんなことしたら社会が貧困化するよという主張が感想レベルだからダメですかそうですか。そもそも自助や互助で貧困は防ぎきれず、その貧困への対策が共助、公助なわけなんだけども。こんなことは常識の範疇と思っていたよ。
この自助・共助・公助という3分論は、自民党の綱領(平成22(2010)年)で政策の基本的な考え方として採用されている。「自助自立する個人を尊重し、その条件を整えるとともに、共助・公助する仕組みを充実する」とある。菅氏の発言は自民党員として、党の綱領に忠実であったともいえる。また、社会保障制度改革推進法の第2条には、「社会保障制度改革は、次に掲げる事項を基本として行われるものとする。一 自助、共助及び公助が最も適切に組み合わされるよう留意しつつ、国民が自立した生活を営むことができるよう、家族相互及び国民相互の助け合いの仕組みを通じてその実現を支援していくこと。」とあり、法律の文言にもなっている。
総理大臣になった菅氏が、この社会像としての3分論を具体的な政策の中でどのように生かしていくのかは分からないが、これまで、介護保険制度の創設と運用にかかわり、自助・互助・共助・公助という4分論を唱えてきた筆者としては、共助の主体に地域とともに家族が含まれていることと、地域以外に共助の主体が想定されていないことに若干のコメントをしておきたい。
われわれは、人生の途中で、老化に伴う日常生活上の困難や思いがけない病気、事故、災害など、さまざまなリスクに直面する。このように何か問題が生じて解決を迫られたときに、まず、本人が自助努力で対処する。しかし、それでは無理なときは、本人の身近にいる家族・友人・隣人などが手を差し伸べる。これがインフォーマルな支援、すなわち互助である。自助と互助ではカバーしきれない場合にはシステム化された地域・職域の自治組織が支援する(共助)。この共助システムではなお解決しえない場合に行政が支援する(公助)。この4分論も、いわゆる補完性の原則に基づく社会形成の考え方であるが、自助と共助の間に互助を考え、共助としては地域以外にも社会保険を想定している。
個人が直面するリスクを、その本人の自助努力だけで克服せよというのは無理な話で、社会は、何らかの形で共同してリスクを分担する仕組みを備えていなければならない。自助から出発するにしても、自助の次に互助を想定せず、家族の支えを「共助」に包摂してしまうと、例えば、いつまでたっても家族を老親介護の責任から解放できないのではないか。家族は大事だが、それに頼りすぎては家族が参ってしまう。
互助は、自発性とゆとりと思いやりに基づく支え合い活動であって、その活動範囲も支援能力も限定的である。それは、家族・友人・隣人が無償で行う支援活動であるからである。しかし、自助のすぐそばに、この互助が息づいていることが自助の励みになるのである。老いて心身が弱っても、自分の生活に関することは自分で判断し、できるだけ自分で行おうとする個人の自助努力を尊重し励まし支援する、それが互助の意義である。自然災害のときにも、真っ先に頼りになるのは自助と互助の結びつきである。新型コロナ禍の困難の中でも自助に寄り添う家族・友人・隣人の親身な支援こそが大事である。
わが国にはシステム化された地域の自治組織として、自治会・町内会があり、近年は地域運営組織が台頭し、これらは市区町村行政と相互関係をもって活動している。この地域が共助の主体として期待されている。ただし、同じ共助のなかに、リスクを共有するもの同士で助け合う社会保険制度が存在し、国と自治体の行政(公助)が関わっているから、共助の主体は地域だけではない。共助システムである医療や介護の社会保険制度は、経費の約半分を国と自治体の公費(租税)で賄っているし、介護保険では保険者を市区町村にしているから、この共助システムは共助と公助の混合型といえる。それだけに、公費負担をしている国から、システム運用を通ずる効率化圧力が絶えず加えられる結果、公助から共助へ、共助から自助へとリスク負担を逆流させようとする動きが出てきやすい。要注意である。
共助、公助の成り立ちと役割については、このリンク先の厚生労働省白書に良くまとまっている。https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/dl/1-01.pdf
(工業化に伴う人々の労働者化により、血縁や地縁の機能は希薄化した)
産業資本主義の社会では、企業が潰れたり、解雇されれば失業してしまい、また、けがや病気などで働けなくなった場合、労働者は所得を得られなくなる。その一方で、労働者が血縁や地縁の関係から一定程度独立した結果、それら血縁や地縁で結ばれた人間関係を基礎とする支え合いの機能は、近代以前の社会と比べて希薄化しているため、個人にとって、生活が立ちゆかなくなってしまうリスクは大きなものとなる面があった。また、産業資本主義の社会では、労働力の商品化の結果、モノやサービスの生産が「使用者-労働者」の関係を軸に展開するようになる。近代以前の社会と異なり、労働者は自己の労働力以外に機械や原材料などの生産手段を持たない。生産手段は使用者(資本)によって所有され、労働者はそれを借用しながら自己の労働力を提供する。この関係の下では、自ずと労使の力の差が生じる。使用者に比べて力の弱い労働者は、低賃金、長時間労働という劣悪な労働条件を強いられ、解雇のリスクにさらされるようになる。過酷で貧困な生活を送る労働者は増え、労働問題が大きな社会問題になっていった。労働者たちは、同業者の間で相互扶助的組織を設けるなどして生活上のリスクに対応してきたが、これらの組織に加入できたのは、経済的に多少の余裕のある熟練労働者などに限られ、多数の非熟練労働者などは、それらの組織に加入することができなかった。
(近代的な社会保障制度の創設はドイツから始まり、欧州各国に広がっていった)
近代的な社会保障制度が世界で最初に創設されたのは、大陸ヨーロッパのドイツであった。ドイツでは、19世紀終盤に、帝国宰相の地位にあったビスマルク(Otto von
Bismarck, 1815-98)により、法律上の制度として世界で始めての社会保険制度(疾病保険法(1883年)、労災保険法(1884年)、老齢・障害保険法(1889年))が制定された*3。社会保険制度は、事業主の負担と併せて被保険者(労働者等)自ら保険料を負担(拠出)することにより給付の権利を獲得するという関係があるため市場整合的であるとして、多くの工業国で社会保障の手法として第一義的に選好される傾向が強いものとなっていった。そして社会保険による給付は、市場経済的な権利関係の裏付けを欠くために、社会の負担、あるいは自助能力を欠く者との差別や偏見から逃れられず、受給にスティグマ(汚名)が伴っていた恩恵的・救済的福祉の給付とは異なっていた*4。また、あらかじめ生活リスクに備える点で、それまでヨーロッパ各国で主流であった事後的な「救貧」施策から事前の「防貧」施策への第一歩を踏み出した点でも大きく評価された。
(略)
(社会保障は、個人の生活上のリスクに社会的に対応する仕組みとして求められるようになり、産業資本主義の社会と国民国家の発展を支えていった)
このように、産業資本主義が発展する中で、血縁、地縁がそれまで果たしてきた人々の生活を保障する機能は限定的なものとなっていった。それらの機能を代替するため、傷病、老齢、失業などのリスクに公助又は共助という形で社会的に対応する仕組みが必要となり、現在に通じるような社会保障制度が求められるようになったといえる。
そして、社会保障が血縁や地縁の機能を代替*8することにより、人々は経済活動に注力することができるようになったという意味で、社会保障は産業資本主義の社会、国民国家の発展を支えていったともいえる。
(世界恐慌から第二次世界大戦までの間に、戦後社会保障の構想が練られていった)
1929年には、アメリカのニューヨーク証券取引所での株価の大暴落をきっかけに世界恐慌が発生した。その影響は大変大きなもので、1930年代には各国で多くの企業が倒産し、街は大量の失業者で溢れ、社会不安はますます増大した。
(略)
ケインズの理論によって完全雇用に近づければ、失業給付を激減させ、なお残る失業者に手厚い給付ができ、また、社会保障によって全国民に最低限度の生活を保障すれば、有効需要が増え、さらに失業者が減る。このように、ベヴァリッジとケインズの考えは互いに補強しあう関係にあった。これは「ケインズ・ベヴァリッジ主義(体制)」、「福祉国家の合意」などと呼ばれる。その後、ベヴァリッジは、第2次世界大戦中の1942年に、いわゆるベヴァリッジ報告(『社会保険および関連サービス』)を英国政府に提出し、「ゆりかごから墓場まで(Fromthe Cradle to the Grave)」のスローガンの下、新しい生活保障の体系*10を打ち立てた。このベヴァリッジ報告の影響を大きく受け、第二次世界大戦後には世界の多くの資本主義諸国で、経済の安定成長と完全雇用*11、国民福祉の充実を目指す「福祉国家」の潮流が広がっていった*12。
(戦後、どの先進諸国にとっても社会保障は不可欠なものになった)
(1970年代―オイルショック後の経済成長の鈍化等により、社会保障・福祉国家批判は大きな潮流になった)
(1980年代―新自由主義的な政策が採用され、社会保障・福祉国家の「見直し」が行われた)
(新自由主義的な政策は、経済のグローバル化の趨勢とも親和的だった)
(社会保障・福祉国家の「見直し」がもたらした弊害は大きなものだった)
(当初の「見直し」という目的が実際に達成されたかについても、見方は分かれる)
(1990年代以降、社会保障の重要性が再認識され、過去に指摘された問題点に応える努力をしながら、社会保障・福祉国家を再編成する時期に入っている)
(今日では、社会保障は様々な機能を持っており、私たちの経済社会に欠かせない重要な仕組みである)
今日では社会保障は、個人の視点からみれば、傷病、失業、高齢など自活するための前提が損なわれたときに生活の安定を図り、安心をもたらすことを目的とした「社会的セーフティネット(社会的安全装置)」という機能を果たしている。また、それを社会全体としてみれば、所得を個人や世帯の間で移転させることにより貧富の格差を縮小したり、低所得者の生活の安定を図る「所得再分配」や、「自立した個人」の力のみでは対応できない事態に社会全体で備える「リスク分散」という機能を果たしているといえる。
さらに社会保障は、必ずしも恵まれない人たちにも社会の一員としての帰属意識を共有してもらうことで社会的な統合を促進させる。また、消費性向が高い低所得の人たちに所得移転し購買力を高めることで個人消費を促進したり、医療、介護、保育などの社会保障関連産業における雇用の創出を通じて経済成長にも寄与する。こうした「社会の安定及び経済の安定と成長」といった機能も果たしている*20。
このように、社会保障は私たちの経済社会にとって欠かせない重要な仕組みとなっている。だからこそ、支え手である現役世代(働く世代)の人口が減る少子高齢社会において、どのようにして持続可能な制度を構築していくか、若年者等の失業問題や社会的弱者が孤立を深める状況(社会的排除)を改善するためにどのように社会保障制度を機能させていくべきか、経済のグローバル化に伴う国際競争の激化が雇用の柔軟性や流動性を要求する状況など社会保障が前提としてきた雇用基盤の変化や経済の低成長が続く中で、どのような所得再分配や雇用政策が適切なのかといった点は、先進諸国にとって、重要な政策課題となっている。
社会は貧困化するの件が感想でしかないので、感想に対する反論などありません残念でした
人生に遅いということはないよ
http://anond.hatelabo.jp/20131203122311
海は陸地よりも大きいのでは?という心配だが、本当の海と陸地ならそのとおりだが、富と貧困に関して言えば、富が過去数千年の間に増え続けているのに対し、貧困は減り続けており、現在もこの傾向はますます顕著になっているので、ほぼ心配はないといっていいと思う。
あなたは富める者の自己犠牲によってい貧しい者を救うというイメージを持っているよね。自己犠牲の結果富が薄まって薄まりすぎてみんなが不幸になるじゃん?みたいな。
もちろん自己犠牲行為も寄付、ボランティア、ODA、各種NGOやNPOという形で存在するんだけど、それは貧困撲滅のごく一部の手段に過ぎず、大部分は「投資」という手段でもって世界の貧困は減少しつづけている。
貧困フロンティアは農業、医療、産業、社会の発展により有史以来一貫して後退を続けているが、特に産業革命以降の欧米で貨幣経済が発達したことによりそのスピードが飛躍的にアップした。多額の投資マネーは瞬く間に欧米から貧困を駆逐し、中産階級が形成された。
途中、投資活動の副作用として帝国主義による二度の大戦という悲劇を経験したがそれでも勢いは衰えず、欧米と同じことが続けて日本で起こり、さらには日本以外の東アジア、インド、ロシア、南米、東南アジア・・・・と、かなり乱暴かつ駆け足でまとめではあるが、おおむねこんな感じの順番で、貧困フロンティアが後退した。
貧困フロンティアが後退するところというのは例外なく猛烈な勢いで多額の投資マネーが流れ込んでいるところだね。
あなたもそうかもしれないが、自己犠牲による弱者救済こそ是とする風潮というのは少なからず世の中には存在していて、そのような人からみるとこのような話は面白くないかもしれない。
投資を媒介とした貧困の減少というのは「富める者が自分の富をもっと増やしたい」といういわば我欲がモチベーションになってるからね。
ともすれば汚いとか真の貧困層は救われないとか批判を受けがちだ。
でもそんなことはない。
もちろん、途上国の人間がすべて同時に貧困を脱出できるわけじゃなく、特権階級だったり、有能だったり、ずるかったりする奴らが先に豊かになることは避けられない。プロセスは決して平等でもないし人道的でもないんだが、それでもその先には必ず貧困層が中産階級へとランクアップするという現象が待っている。
なぜなら中産階級が分厚くなったほうが金持ちにとっても都合がいいからだ。中産階級が増えることは、自分の会社の商品を買える人間が増える(市場が拡大する)ということだし、金を持てばそれを失いたくないので犯罪は減り治安がよくなる。差別もマイノリティの問題も富めるものにとってはリスク要因でしかないので、差別に反対しマイノリティの人権を保護する社会を志向するようになる。我欲といってしまえばそれまでだが、豊かになった結果心に余裕がうまれ「みんなで仲良くやろーぜ」という気持ちがうまれた思えば悪いことではない。
親にとっても子どもは稼ぎ手ではなくなるので少子化が進むが、子の幸せな将来のために教育に金をかけるのでそこにも市場が生まれるし、そうやって教育を施された子どもたちがその国をさらに豊かにしていき、やがては次の貧困フロンティアに投資するようになる(念の為に言っておくと給料を銀行に預金するだけでも間接的に投資していることになるからね)。
今、目下の貧困フロンティアはアジアからアフリカへ移っている最中で、中国がアフリカに積極的に投資しているのも、上の話があるとすんなり腑に落ちるんじゃないかと思う。ただし中東は宗教とオイルマネーの問題、アフリカはそもそも投資を受け入れるだけの社会制度が整っておらず部族や宗教の対立も激しくて苦戦している。日本で売買できる投資信託でも中東、アフリカに関するものは限られている。まだまだ一般には投資不適格というわけだね。アフリカが貨幣経済ベースに乗るまでは、ボランティアベースの支援活動が大きな役割を果たさざるを得ないだろう(余談だが俺はそのような考えから国境なき医師団に毎月自動寄付をしている)。
それに先進国だって、少子化とか労働需要の海外移転による失業問題とか格差とか高齢化による社会保障費の増大とか問題がないわけではない。
このような問題はあれど、長期的かつ全般的にみれば世界は「みんなが幸せ」の方向に向かって進んでいるよ。今の日本に住んでいるととてもそうは思えないが(笑)これは間違いのないことだ。
大事なのは世界の富の総量は一定でもゼロサムでもなく増え続けてるってこと。貨幣経済が破綻してしまうとこの限りではないかもしれないが、少なくともあなたが心配するように「豊かなものが貧しい物へ分配することでみんなが不幸になる」なんてことはないから安心していい。
彼らは君みたいに、地方DQNの地位向上のために努力してる人間をこれでもかというくらいたたくから。
彼らは国の公共事業を叩いて、地方公務員の給料を下げろと言う。
地元の商店街は使わずに、IEONやワタミなど、全国の格安店を使う。
お前の店の商品は高いうえにダサイ!
自分たちの一番の収入源、一番のお客さまとなるはずの人たちを叩いて、
結果、昔ながらの商店街はつぶれ、人口は少しずつ減って地域は衰退し、巨大資本は逃げていく。
これは今まで日本で何度も起きてきたことだし、これからもなくなることはないよ。
こうした問題の解決はもはや民間セクターではどうしようもないところまで来ている。
たとえば、君が、市役所の職員で、
「地方の活性化のために、街づくりを!地産地消を!」なんて言って地方のDQNの失業率解決のために動いたとしよう。
おそらく真っ先にケチをつけるのは彼らだ。
彼らは割高なものが嫌いだし、そういうところに群がる金を持っている人間が嫌いだからだ。
そして、事業がとん挫したら、得意げに
「公共事業なんて、結局うまくいかない、税金の無駄遣いだ。」なんてことを言う、テレビがそう言っているからだ。
寝る間もないくらいぼろぼろになって働く君に向って言うんだ、
「お前らは、ちんたら働いてるのに給料もらいすぎだ、税金泥棒。」、これもテレビがそう言っているからだ。
こうして言いたいことを言い終わった彼は、居酒屋(もちろん全国チェーンの格安店だ)で
国に対する不満とか、パチンコの話とかをし始める。これは彼らが割高なものが嫌いで、テレビがそうしたところを使うのを進めているからだ。
その結果一人のやる気にあふれた地方の職員はやる気をうしない、(最悪精神を病んで)
そして気がつけばその市では誰も新しいことをしようとする人間がいなくなり、
まあ、長くなってしまったが、僕が言いたいことはこうだ。
「DQN」は金を持っていない。
そして彼らはそれに永遠に気付かない。
君がもし、彼らの失業問題をどうにかしたいと思っているなら、
まずこの現実をに気付かなければならない。
きみは覚悟しなければならない。
本来一番恩恵を受けるはずやつらに
唾を吐きかけられながら、さげすまれながら、それを推し進めていかなけれればならない。
そんな、不毛なことだということに。
僕には、それができなかった。
次は君の番だ。
697 ソーゾー君 [] 2012/01/13(金) 22:04:49 ID:ggxcvtUwO Be:
それは同意する。
実際に働きすぎだぜ?
で…やっと食っていける…
だが労働は義務化する。
時間は出来るが金が無くなる…「ワークシェアリングをしても良いよ?給与維持ならなw」
「今もカツカツなのに出来るかー」と俺の周りでは非難されてたぜ?
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/business/9191/1333369457/
私は怠けたい。
なまけてなまけてなまけ倒したい。
必要のない物を作るために働きたくはないし、他人の財布のために働きたくもない。
人類が中世を抜けだして以来、技術は進歩し生産性は向上し続けてきた。過去に比べて「生きるために必要な労働」は減っているはずだ。なのに労働が一向に減る気配がないのは何故か。
それは世の中に蔓延する無駄な労働が、われわれの足を引っ張っているからだ。それら無駄労働の蔓延を招いたのは、「経済成長」を至上のものとする価値観と、それを信奉する人々である。
彼らは「労働は増え続けなければならない」という謎の理屈を振りかざし、我々怠け者たちを虐げ続けてきた。
タイダニアとは、怠け者の、怠け者による、怠け者のための国家であり、怠惰な社会についての提言である。
「全ての国民は、ただ何もせずにだらだらとしていても良い」というのがタイダニアの崇高な理想であり、最終目的である。あらゆる社会制度は、その目的を果たすために設計される。
怠惰な社会を実現し、それを持続可能なものにするためには、いかに労働を最小限に抑えるかが鍵になる。「最小労働社会」を目指す、と言い換えても良い。
そのために必要なのは、経済をサイズダウンさせ、効率的な社会を作ることだ。
自由経済は本来、その経済規模を縮小して労働を削減する仕組みを備えている。
過去に起きてきた様々な”経済不況”がその証拠である。自由競争によって需要の無い事業は潰れ、労働の効率化は進み、経済は縮小してゆく。この働きがなければ、我々は文字通り寝る間もない労働を強いられることになるだろう。
だが、政治家や経済学者たちは、その働きを阻害する政策を次から次へと考え出し、実行し続けてきた。経済の縮小を否定して成長と言う名の肥大化を続けた結果、今や経済は巨大な雪だるまと化し、その自重で潰れる日を待つばかりになっている。
彼らを狂っているのだと断ずるのはたやすい。実際、「持続可能な成長を目指す」(実現不可能なことは明白だ)だの、「雇用の創出のために財政出動をするべき」(金を出してまで労働を増やす???)という彼らの意味不明な言動の数々を見れば、狂っていると考えるしかないように思える。しかし、彼らがなぜ狂ってしまったのか、彼らを狂わせたものは何なのかという事も考えなければならない。
経済成長論者たちがのさばり、経済の縮小が許されないものとされてきたのは、それが失業を発生させるからだ。
失業者の増加は不満の増大を生み、社会の不安定化をもたらす。様々な革命や動乱の背景に失業問題があったことは良く指摘されている。
失業はタイダニアにおいても深刻な問題だ。善良なタイダニア国民にとって失業者とは羨望と嫉妬の対象であり、理由もなくそれを手に入れる人間が増えることは、社会に著しい不公平感を蔓延させることになりかねない。
ではどうすれば良いか。
失業問題を解決させるために消費を増やすなどという狂った解決策は、タイダニアではもちろん採用しない。
結論を言うと、失業問題は一人あたりの労働時間を減らすことによって解決されるべきだ。これによって労働者の余暇は増え、労働力を失った企業は新たな求人を行うことになるだろう。
労働時間をどれだけ減らすべきかについては、その分野の失業率や有効求人倍率によって決定すれば良い。労働時間を減らす方策については、単純に長時間労働を禁止するのも悪くないが、ペナルティとして税金を課すなどした方が、弾力性のある運用が可能になる。
また、労働時間を減らせば当然収入は低下する。それによって生活が不可能になる人たちが出ないように、経済弱者を保護するための施策も同時に行なってゆくべきだ。
タイダニアにおいては、貧富の差はできるだけ抑えられるべきである。過大な富の行使は無駄な労働を生んでしまうからだ。
富を持つということは、労働を強いる権利を持っているということだ。
貧富の差について、「3割の人間が7割の富を持ち、7割の人間が残り3割の富を分け合っている」という言葉がある。
貧富の差が縮小し、3割の金持ちが残りの大多数と同じ水準の生活を送るようになったと仮定する。大雑把に計算すると『0.7−0.3×(0.3/0.7)≒0.57』となり、5割以上の労働が削減できることになる。あなたが今、週5日にも及ぶ長時間労働を強いられているとすれば、それは週2日半の労働で済むようになるということだ。
もちろん、これは乱暴すぎる計算だ。経済格差をそこまで縮小させることも容易ではない。ただ、貧富の差を縮小することが怠惰な社会にとって非常に重要だということは理解してもらえるだろう。
行政に付きものだったムダな公共事業と非効率な役所仕事、これらを削減できる事はタイダニアの大きなメリットの一つだ。
まず、タイダニアでは経済の拡大を目指さないのだから、景気浮揚のために行われていた公共事業は全て削減できる。国の大型事業はもちろん、「地域の活性化を目指し」だの「経済効果を期待して」などの理由で行われていた自治体の事業も同様だ。
その他の公共事業や行政サービスについては、「余暇を増やすこと」という基準を設ける。つまり、「その事業を行うことで削減できる労働時間」と「その事業にかかる労働時間」を比較して、削減できる時間の方が長い事業だけを存続させる。
この基準の導入によって削減できる事業と、経済の活性化のために行われてきた事業。これらを廃止することで、相当な規模の行政コストを削減できるはずだ。税金は減り、我々はその分労働を行わなくても良いようになる。
また、成長論者たちが言っている「乗数効果」が本当に正しいのであれば、削減したコストの何倍もの労働を社会から追放できるはずだ。
成長を前提とした社会は、決して人を幸福にはしない。持続可能なものでさえ無い。
すべての資源を取り尽くし、消費し尽くした後で、自分たちの築いてきたものがガラクタの山に過ぎなかったことに気づくのでは遅すぎる。
消費は適正な程度に抑えられなければならない。過剰な消費と労働を礼賛し、怠惰の価値を認めない社会は、早晩行き詰まる事になるだろう。今すぐに完全なタイダニアを作るとまで言わずとも、その一部を取り入れることはできるはずだ。
過労死や自殺、平均寿命の低下、精神疾患、家庭崩壊。過剰な労働は我々の人生を奪い続けている。それらを取り戻すために、そして何よりも子供たちの生きる未来が喰らい尽くされないために、我々は勇気を持って主張するべきなのだ。
「怠けたい」と。
経済的に追い込まれた国は戦争起こしたり、暴動、革命起きてパラダイムシフトを図ろうとするけど、
原発は他の発電方法と比べたとき有用だが、今回の震災であらたには立てられないだろう。
そうすると、ほかの発電手段+節電に。
節電の影響で今までコンピュータで行ってきたことを人力で行うようになる。
人力なので、画一的な製品ではなく多様な価値観に合わせた個性豊かな製品ができてくる。
そもそも復興のための仕事が東北、関東にできるので、失業問題が軽減。
もちろん今の生産効率は保てなくなるから、生活レベルは下がる。
でも今いらないけど、みんな持ってるからって持ってるものたくさんあるよね。
貧しさをシェアする時代の到来。
問題はどのていど、経済的に貧しくなるか。
経済面で死ぬようなことが発生しうるのか。
金融日記なんかが注目してるのは潜在成長率(=最大供給力=労働力×生産性)で、リフレ派が注目してるのが需給ギャップ(=供給-需要)。
この2つと現実の成長率の関係は「現実の成長率=潜在成長率-需給ギャップ」みたいな感じになってる。
ここで需給ギャップが正(供給>需要でデフレ)の場合、需要を増やして需給ギャップを0に近づければ失業者が減って現実の成長率も上がるけど、潜在成長率(最大供給力)を大きくしても、供給が増えた分だけ需給ギャップも一緒に大きくなるから、現実の成長率はあまり変化しないし、失業問題も解決できないことになる。
こうして考えると今の日本には、リフレ政策のほうが方向性としてあってると思う。
ちなみに需要>供給でインフレの時に潜在成長率を大きくすると、現実の成長率を下げずにインフレ抑制ができるので、インフレの時には潜在成長率が重要になると思う。
ざっと書いてみたけど変なところあるかな?
ベーシックインカムが導入されれば日本の諸問題は一気に解決する
いいことずくめだけど、ほとんどまともに議論されてないんだよな。こないだの衆院選でも新党日本が言ってただけで争点になってない。
なんでかねえ。
財源?それはやると決まってからの問題だろ。
金がなくったって今まで景気対策とかなんとか理由つけてダムとか道路とか空港とか新幹線とかハコモノとか外郭団体とか作ってきたじゃん。大企業に公的資金注入してたじゃん。
財源がないなんてのは「やらない理由」なんだよ。やりたくないから財源財源ってバカの一つ覚えみたいに騒ぐんだよ。
日本、大人になる
先週、民主党が、半世紀近くもずっと政権を握っていた自民党を政権から追いやったとき、一部報道機関は革命であると評した。
古い人たちはいなくなり、新鮮な風が吹き込んだ。
でもどうして人々は嬉しそうに見えないのか?
どんな政府あっても彼らの問題を解決してくれないことを、日本人は認識しつつあるからだ。
しかし、これはいいことである。日本はついに成長しているのだ。
メディアは街頭にレポーターを派遣して、新しい政権に何を期待するか聞いている。
人々はマイクに近づき、「景気をよくしてほしい」「社会保障を充実させてほしい」「失業問題を解決して欲しい」などと率直に述べる。
しかし彼らの表情は憂鬱そうで、これらの意見にどこか偽りがあるような感じがする。
昔は、政府が私たちの問題を解決することができた。戦後、日本の成長の大部分は政府主導であった。
国民は、政府が道路や病院を作り、商売を守り雇用を保障することを期待した。
今は、高齢化と年金問題が原因の一端となり、政府には物事を良くするだけの金がない。
自民党内の大勢は、民主党が勝ったわけでないと結論付けた。自民党が負けたのである。
これはレッドソックスがヤンキースに負けたときに、レッドソックスのファンがするひいきと同じである。
自民党が国民に幸福を届けられないことを、未だに理解していない人々がいる。
自民党は、農家、建設会社、中小企業に金をつぎ込むことで、地方有権者の支持を買ってきた。
戦後間もない頃、政治家の主な関心ごとは、コネと水面下の交渉によって企業を自身の選挙区に誘致することのようであった。
彼らは政治家というよりもロビー活動家として機能していたのである。
こんな楽な仕事は他にないだろう。だから彼らは自分の子供に継がせたがるのだ。
豊かなる日々はいつか過去のものとなったが、政府の大盤振る舞いを求める競争は続けられた。
ある選挙区で、政府に高速道路建設の補助金を欲しがる人々がいる一方で、別の人々は病院の建て直しを望む。
悪化する景気動向の中での、ここでの重大な問題は、病院は財政危機にあるということだ。
だが民主党が圧勝したからといって、道路の建設と病院の助成の両方をする金はない。
このような状況で政権が変わって歓喜するほど日本人はうぶではない。
もしくは生活がこれから向上すると信じるほど馬鹿ではない。
日本社会の一つの層が政権交代によって利益を得ると、他の層が損をする。
大企業は減税で救われるかもしれないが、労働者の給料は低迷したままかもしれない。
全てが夢のようにうまくいき、生活水準が上がり続けた時代はもう終わった。もうずっと前に。
今となってはもう金がないのだから、日本国民は厳しい選択をしなければいけない。
心の底では、私たちは皆このことを知っているのである。
だから街頭の人々の憂鬱そうな表情は変わっていないのだ。
しかし、だからといって低迷や衰退の危機にあるわけではない。
私たちはただ、子供が大人になっていくときの憂鬱さを経験しているだけなのだ。
http://www.nytimes.com/2009/09/08/opinion/08murakami.html
はてなブックマーク - 「日本は大人になる憂鬱を味わっているのだ」 村上龍氏が政権交代で米紙に寄稿 - MSN産経ニュース
http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/politics/election/090909/elc0909090830000-n1.htm
さて、このような閉塞的な状況を打開する方法はあるのか、ということですが、
よく最近はてなで話題の「解雇規制の撤廃」で果たして問題は解決するのでしょうか?
この労働力の流動性を高めることで雇用の維持を図っている国にスウェーデンがあります。
スウェーデンではイェスタレーンとルドルフメイドナーという二人の「ブルーカラー」の労働組合の理論的支柱が作り上げた
要点は賃金交渉を中央集権的に行うことで、儲かっている産業がむやみに賃上げするのを抑えつつ、
非効率な産業をつぶし、その労働力を儲かっている産業に雇用させる、というスタイルなのです。
コレだけを聞くと労働力の流動性が高まれば、失業問題は解決するように思われますが、
このスタイルが実現しているのは、スウェーデンが小国で高負担に裏打ちされた
非常に強力な失業給付、生活保護と職業訓練機能を持っているからです。
現在の日本が、その薄弱な生活保護(GDP比でOECD中ブービー)ですらも
「自己責任論」の元に断ち切ろうとしている姿を見ると
とても実現するものとは思えませんし、
そもそも数千万の労働人口を調整することは不可能に近いのではないでしょうか?
安易な解雇規制の撤廃は社会不安を増し、景気の悪化を促進することはこの20年の日本の低迷を見れば
容易に想像ができる気がします。
私がスウェーデンから学ぶべきだと思うのは
「労働者の理論的支柱」が政治にコミットしている、という点だと思います。
やはり労働者は団結すべきなのです、お互いに憎みあうべきではない。
嫌な例ですが、今の橋下徹のように、政策提言をしながら政治に選択を迫ることもできるはずです。
その為には連合は支持政党をあらかじめ決定するのではなく、自分たちに有利なように説得し、
また組合員に対し、そのメリットを説得する努力をすべきでしょう。
私が個人的に労働者として要求すべきだと思っているのは
労働市場の監視の強化、具体的には労働基準監督局の権限、及び、人員の強化。
といったような政策を連合が要求し、政権に擦り寄らせる、というのが有効な方法だと思います。
長々と長文失礼しました。