http://krugman.blogs.nytimes.com/2012/01/09/japan-reconsidered-2/
日本の低落が誇張されてることについて彼の言わんとしてることは正しい
(略)
ほんとうの日本問題とは,その低調な経済成長の多くが人口動態に関連してるってことだ.OECD の数字をみると,1990年には15歳から64歳の人口が8600万人いたのが,2007年には8300万人に減ってる.一方,アメリカの労働年齢人口は1億6400万人から2億200万人に増えている.
(略)
Fingleton は次の点で正しい:このデータは,広く言われてるような日本没落っていう見方と合致しない
(略)
このところぼくはよく言ってるんだけど,いろんな人が「ぼくらはこの危機に対して日本みたいにダメな対応をとってしまわないかな」と質問するとき,彼らはずいぶんと遅れたことを言ってる.実際には,まさにいまぼくらは日本よりダメな対応をとっているんだよ.
政治家やメディアは激怒している、ハリケーンカトリーナに便乗した物価の上昇に。彼らは、ガソリンスタンドや水の売人を懲らしめようとしている。
もしもあなたが卑しく貪欲な金の亡者を懲らしめ得点を稼ごうと思ったら、大変良いのは「便乗商法」禁止の法律を作る事だ。
しかし、もしもあなたがその法律で「便乗商人」から「守られる」側だとしたら、そんなに上手くいかないだろう。
次のシナリオを考えてみよう:あなたはのどが渇いている - あなたの赤ちゃんが脱水症状を起こさないか心配だ。あなたは空いている店を見つける。店主はあなたの苦境につけ込むのは不道徳だと思い、先週より一銭も高く請求しないとしよう。しかしそれでも水は買えない。売り切れだから。
あなたはさらに探求を続け、ようやくあの恐ろしい怪物、便乗商人を見つける。彼は先週1ドルだった一本の水を「法外な」値段で売りつけようとする。その額20ドル。それでもあなたは災害から生き残るため言い値を支払う。
あなたは便乗商人に憤りを感じる。しかし、もし彼が20ドルを要求していなかったら、水は売り切れだっただろう。あなたの子供を救ったのは、便乗商人による「搾取」だったのだ。
人々が自らの利益を追い求める事によって子供は救われた。あなたが店に着く前に、他の人がやって来た。ボトルが1ドルだったので、彼らは買い占めて行った。ボトルが20ドルだったら、より慎重に買うだろう。20ドルを請求する事で、便乗商人は水が本当に必要とする人に届くように出来る。
甘ちゃん政治家達が極悪人とみなす人々が最も役にたっている。ボトル入り飲料水の需要が上がって行くと考え、彼らは大量に仕入れ法外な利益で転売しようと目論んだ。もしも彼らがそうしなければ、水は最も必要としていた人々の所に届かなかっただろう。
ボランティアが水を提供していたかもしれないって?たしかに慈悲の気持ちから他人を助ける人もいる。しかし私達は慈悲に頼る事は出来ない。かつてアダムスミスはこう書いた。「私達が夕食にありつけるのは肉屋や酒屋やパン屋の慈悲のおかげでは無く、彼ら自身の私利私欲の追求からである。」
店主の視点で考えてみよう。もしも彼が大きく儲けようとしていなければ、そもそもなぜ店を開けたのだろう。被災地にとどまる事は危険であり、家族と過ごす機会を捨て見ず知らずの他人の世話をするという事だ。 なぜそこまでリスクをとるのか?
例えば屋根張り、大工、倒木の除去など、災害の後はどんなサービスにも圧倒的な需要がある。ニューオリンズが復興された時、地元の大工が不足する事は十分に予測出来た。街にいる大工の数では足りない。
もしもここが全体主義の国だったら、国は職人をひとかたまりニューオリンズに行けとただ命令するかもしれない。しかし、自由な社会では、職人たちは家や家族、従業員や客を残し、ウィスコンシンあたりからニューオリンズまで車を運転しないと行けない。もしウィスコンシンよりルイジアナの方で稼ぐ事が出来なければ、わざわざ旅に出るでしょうか?
中にはヒーローになりたいという動機の者もいるかもしれない。しかし需要を満たすほど毎週毎週十分な数のヒーローを期待する事は出来ない。多くの者はほとんどのアメリカ人と同じ理由で行くのだ。つまり、金のために。被災地に分け入る職人には彼の故郷よりも高い収入が必要だ。さもなければ行かないだろう。嵐が来る前のニューオリンズの同業者と同じだけしか彼に払わないとしたら、どんなヒーローでも「馬鹿言え」と言うだろう。
もし彼がその危険に見合った額を請求すれば、まさに助けようとしていた人々に道徳的法的に非難されてしまうかも知れない。しかしそう言う人々は経済の基本を理解していないのだ。価格を押さえつけると供給が途絶える。市場に任せて供給を増やそう、すると競争によって災害の条件が許す限り価格は下がって行く。不足していた商品が、貧しい人々でさえ手に入るようになるだろう。
水をもたらし、ガソリンを運び、屋根を直し、街を再建するのは「便乗商人」だ。「便乗商人」こそ命を救うのだ。
In praise of price gouging - John Stossel
http://townhall.com/columnists/johnstossel/2005/09/07/in_praise_of_price_gouging/page/full/
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51337693.html < こいつの元ネタを訳しておいた。
かつて、日本は金融危機への対応がどれほど大きな賭けとなるのか世界に教えてくれた。そして今、欧米諸国がその賭けをする番になっている。
「東京では新年のご祝儀相場による値上がりが予想される。」 1989年12月29日の速報ヘッドラインはこんな風に市場を熱狂的に支持していた。その日、世界史上最大規模の資産バブルはその臨界点に達していたのである。そして日本は、ちょうど20年後の今もまだ、そのバブル期のツケを払い続けている。日経225はバブルのピーク時に38,916円を記録したが、現在ではそのたった1/4超にまでしぼんでいる(新年のご祝儀相場があると言われてはいるが)。「失われた20年」の日本経済は名目値でかろうじて成長したくらいで、いまだにデフレの害を受け続けている。この国はいったんアメリカににじり寄ったものの、最近では中国の首筋に熱い吐息をかけている。皆さんは"ジャパン・アズ・ナンバーワン"というコピーを覚えているだろうか? 今日、その同じ国のご自慢は、総額でGDPの200%に達する政府債務なのである。
日本人にとってこれらはみな深刻な問題だ。ところが、この2年で'89年以降の日本が抱え込んだ問題の多く(資産価格の暴落、投げ売り同様の債券、のしかかるデフレの恐怖)と同じものに、西側諸国も直面することになってしまった。崩壊しかねない金融システムに対し、政府はどうすべきで、どうすべきでないのか、日本は有用な教訓を残してくれた。
日本という先達のおかげで、その教訓の多くは迅速に実行された。日本当局がやったよりかなり迅速に(日本国民は試行錯誤せねばならなかったという点で不運だった)、欧米の政策決定者は、国内銀行に流動性を供給して資本を積み直させ、同時に財政刺激を惜しみなく行って民間需要の激減を相殺したのである。そのおかげで、世界経済の見通しはだんだん明るくなってきている。
日本からの教訓で残っているものはあるだろうか? 日本に学ぶというやり方は、様々な点で、すでに使えなくなってしまっている。それは、部分的には、欧米諸国の現状が日本のかつての状況より悪いからだ。ギリシアのように最も不安定な国々は、かつての日本にはなかったような問題に直面している。これらの国々の市場では国の債務返済能力が信頼されなくなるだろう。一方、日本は巨額の国内貯蓄で災難をやり過ごしており、日本の投資家は海外投資よりお金を国内にとっておくほうを好んできた。世界金融危機の規模は大きく、日本の問題はかすんでしまうほどだ。彼らの問題は海外にほとんど影響せず、世界経済の成長にとっては背景のようなものだ。それより、膨大な赤字を抱えた国が多すぎて、財政の信頼性が急激に失われることのほうがもっと深刻な事態である。
しかし、欧米のほうが日本よりまともな点もある。我々のシステムは日本より柔軟なのだ。柔軟な国であればあるほど、生産性を維持するための構造改革への抵抗も少なくなる。また、欧米は日本と違い民間の不良債券処理に対する政治的障害も少ない。さらに、西洋人は日本人より決断力をもって行動し、とくに経済に流動性を供給して金融業界のバランスシートを改善させているという点で有利だ。ゾンビバンク(訳注: 経営破綻しているはずなのに政府の救済で生きながらえている銀行)が少ないほどデフレに陥る兆候は減り、成長のきざしが見えるのはずっと近づくだろう。欧米は未知の領域にいる。そして、すでに日本が踏み込んだことのない段階にあるのはおそらく間違いない。
したがって、日本の哀しい窮状から特定の教訓を導きだしつづけるのはとても難しくなっている。しかしながら、日本は、すべての経済災害に共通する一般的な教訓を残してくれている。それは、景気回復っぽい兆候に騙されてはならないということ。日本はこれを誤認し、民間需要が回復を維持できるほど力強くなってもいないのに、なんども財政引き締めを行ってきた。それがデフレを固定化したのである。また日本の国内銀行の資本も、今後のショックに対応していくには少なすぎるまま放置されている。
先進国の政策決定者は、まだ数え切れないほど多くの作業を抱えている。多くの銀行はその融資に巨額の評価損を抱え、経済には余剰設備が重荷となり、家計の借金はかさんだままだ。このような状況であわてて引き締め政策をとれば悲惨なことになりかねない。試行錯誤するしかないが、ミスをすればするほど、我々の今後10年は日本の失われた20年に似たものになっていくであろう。
日本も過去に何度かデフォルトしている。著書でそう言及したところ、ある日本政府高官から「日本はデフォルトしていない」と訂正を求められたが、データを示したら納得してくれた(たとえば、1946年、預貯金はいったん封鎖され、封鎖預金からの払い戻しは新円で、限度は世帯員1人について100円とされた)。
デフォルトというと、対外債務ばかりを想像しがちだが、対内債務のこの種のデフォルトまで含めて考えれば、大国の債務不履行はあり得ないとは断言できない。
日本国政府がどれだけ借金しても絶対に日本は倒産しないと言うことのサルでも分かる説明
赤字国債を発行して政府が借金を増やすとすぐに財政破綻、財政破綻と騒ぐ人がいますが、自国通貨による国債発行では国が倒産することは絶対にありません。
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51596567.html
クルーグマンは効率的市場仮説(EMH)を批判しているが、それを理解してないようだ。彼は「経済学者がバブル崩壊を予想できなかった」というが、誰も市場の動きを正確に予想することはできないというのがEMHの基本命題で、今回の事件はそれを証明したのだ。いっておくが、市場が「効率的」だというのは「安定している」という意味じゃないよ。
市場経済の本質はそれが完全だということじゃなく、ハイエクが言ったように、それが不完全な知識でもどうにか動くということだ。クルーグマンは政府が市場より賢明だと想定しているが、超低金利を続けて資金過剰を作り出し、ファニー・フレディーに事実上の債務保証を与えて住宅バブルを生み出した政府が、市場より賢いと信じている経済学者は彼ぐらいのものだろう。人々が不合理だという行動経済学の主張は正しいが、同様に政府も不合理なのだ。
特に支離滅裂なのは、彼が70年前のケインズ理論を擁護している部分だ。ケインズが書いたように穴を掘って埋めようともGDPさえふくらめばいいというのなら、マドフは英雄だ。彼は投資家の余剰資金を預かって、それを派手に使う人々(彼自身を含む)に与え、「有効需要」の増加に貢献した。この理論によれば、政府の財政資金がすべて盗まれるのがいちばん簡単で効果的だ。泥棒の限界消費性向はきわめて高いからだ。
経済学の現状についてのクルーグマンの理解は、30年前で止まっている。われわれはKydland-Prescottの1982年の理論を復唱しているわけではなく、現在の研究の主眼はどのような不完全性や摩擦があるかを実証的に検証することだ。クルーグマンは実証には関心がないようだが、「真水理論」は実証研究のベンチマークにすぎない。彼は「経済学は数学的に複雑になりすぎた」というが、問題は逆だ。今のマクロ経済学は、この複雑な経済を扱うには単純すぎるんだよ。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/3ede6e5d0f50b3c5138da2ce6e9e1d3b
la_causette: 地球温暖化対策と貧困対策と両方とも非常に大事だと答えて落第になる学校は滅多にない。
普通に考えれば,日本を含む全ての国において,国家予算が地球温暖化対策と貧困対策にのみ割かれているということはないのですから,他の用途に割かれている予算を削減することによって,地球温暖化対策と貧困対策の双方により多くの予算を割くことは可能です。また,必要とあらば,法人税や相続税等を増税することにより国家予算の枠自体を拡大した上で,地球温暖化対策と貧困対策の双方により多くの予算を割くことも可能です。
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2009/04/post-52c9.html
地球温暖化対策・貧困対策予算の増額と、他の用途に割かれている予算の削減
地球温暖化対策・貧困対策予算の増額と、法人税・相続税等の増税
このような関係を、トレードオフと言うんじゃまいか。
「トレードオフという概念が知られていない」とぼやく記事に対し、
こうした例をぶつけてくるあたりが、流石オグリン。
http://blog.goo.ne.jp/rakusui1598/e/c900da87a6fb6e4261869ebc456a8629
一番偉い人がお金の印刷機を持っていてお金を印刷して流通させている
みんなはこのお金を信用している
一番偉い人は、個人的に借金を背負っている
みんなからの税収で少しずつ返しているが、借金の額が大きく返しきれない
また税収でみんなのために橋を作ったりダムを作ったりしてるが、それも計画が滞ってる物がかなりあり、みんなの不満が少しづつ高まっている
何とかみんなに豊かな生活をして欲しいが、徐々に難しくなっている
自殺する人もかなり増えてきた
借金を税収で返せる額にまで減らしたいという誘惑と戦っている
実際それをやった場合どのくらい問題が起こるのか、悲惨な事になるのか、たいした事がないのか、一番偉い人には正確な予測ができなくて悩んでいる
インフレ期待の発生が財政破綻のトリガーを引くことになりかねないと考えられます。
(中略)
インフレ・スパイラルに陥る可能性が高く、安定的に穏やかなインフレ状態を続けることは難しいと思います。
(中略)
要するに、むしろデフレ期待が支配的だからこそ、GDPの2倍もの政府債務を抱えていてもいまは「平穏無事」なのです。冗談でも、リフレ派のような主張はしない方が安全です。われわれの世代は、もしかすると「逃げ切れる」かもしれないのだから...(これは、本気か冗談か!?)
実質金利とは、表面上の金利から物価上昇率を差し引くことによって求められます。
現金が目減りするかどうかの基準になるものです。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/c23d7cff98c573f4309a254a383d3a22
今はもう流動性不足じゃないんだから、これ以上通貨供給を増やすのは有害無益だ。大恐慌と今回とはまったく違うんだよ。
天国から見ていると、今回の状況はむしろ70年代のスタグフレーションに似てるね。あのときも原油価格の高騰に対して政府が右往左往し、無原則なバラマキ財政でインフレを拡大し、経済を破綻させてしまった。私が60年代に提唱した「自然失業率」の意味を人々が理解し始めたのは、こうした破局のあとだった。私が言ったのは、単純なことだ:人々はマクロ的な予想にもとづいて行動するので、それが市場で正しく調整されるためには一定のルールが必要だ。政府が場当たり的に介入すると、その予想が混乱して問題はかえって悪化するんだよ。
要するに、大恐慌と今はまったく違うが、危機管理の本質は同じなんだよ。危機を克服するのは最終的には個人の努力であり、政府やFRBの役割はそれをサポートするためにルールを決めて実行することだ。ベンは自分がどれだけ賢いと思ってるか知らないが、市場より賢くなることはできない。問題は政府の裁量じゃなくてルールなんだよ。これは私が半世紀前からずっと言ってきたことなんだが、彼はまだわかってないみたいだな。
考えても見ろ
世間というものはおまえらの命……
人生のことなど
まるで知ったことじゃない……
興味があるのはおまえらの金……
おまえらからいくら搾り取れるか……
それだけだ……!
無理からぬ……
とどのつまりこの世の正体は金の獲り合い
その争いが終わるのは
個人なら死去……
つまり存在する限り人は際限なく金を奪い合っていく……
それが…生きるということ……!
否定はできまい…
好む好まざるにかかわらず人は……
言い替えれば自分の存在……
命を削っている……!
存在そのものを「金」に替えているんだ
命懸けで金を得ている……!
気が付いてないだけだ
極端に薄まってるから
その本質を多くのものが見失ってるだけ……
金は尊い……
おまえらの認識
想像より
はるかに尊い……
http://d.hatena.ne.jp/hiroyukikojima/20090429/1241012651
新古典派はそもそも「セイの法則」を前提とし、「供給余り」など考えなかったので、貨幣の役割を非常に限定的に考えていた。そこがケインズと新古典派の発想が根本的に違うところです。私のイメージでは、新古典派の考える貨幣はモノを取引するときの単なる「約束事」です。例えば温泉に行くと、必ず「浴衣を着て、下駄を履いてください」ということを言われますよね。服を着ては浴場に入れないので、皆仕方なく浴衣を着ます。その時の浴衣を貨幣と考えればいい。つまり浴衣に意味はないし、欲しくもない。しかし浴衣がないと温泉に入れないから着ていくだけです。温泉に何回、何時間入りたいかということは事前に決まっていて、その行為を成立させるために浴衣を着るだけなのです。浴衣が二枚配られたらどうなるかというと、二枚重ね着するか、あるいは一枚は置いていくかもしれませんが、それだけの話で何の意味もないのです。浴衣は、入浴する、という経済行動には影響力を持っていない。
ところがケインズは浴衣に対する執着心というか、浴衣に魅力を感じてしまった状態を考えたわけです。そうすると、浴衣を汚したくないので置いておく、という可能性が生じる。このような人は風呂に行かず、風呂が沸いたまま使われない、という非効率が起こる。つまり、購買力が、「浴衣」という無意味なものに吸収されてしまったわけです。では浴衣に対する執着とは具体的には何でしょうか。そこでケインズが言っているのが「流動性」です。つまり、貨幣を持つことで、モノを買うことに対して、タイミングとか、何を買うとかいったことを留保することができるという効能がある。普通ならば留保などしたくないはずです。あのような紙きれを持っていてもうれしくないですからね。普通はモノが欲しいわけですから、それを手に入れるための約束事として、あたかも浴衣を着るかのように、ただ貨幣をいったんポケットに入れるだけのはずなのです。ところがやはりモノより欲しいものが出てきてしまう可能性がある。それが何なのかが実は問題なのですが、しかしとりあえずそれを流動性と呼ぶならば、それを手にいれたくなるということです。
ケインズはそれを、「月への欲望」と呼んでいます。つまり、人々は月という地球にないものを欲しがっていると言う。月に購買力が向かってしまえば、地上のモノは余ってしまいます。それが月への欲望です。だからケインズは、これも有名な言葉ですが、「中央銀行はグリーンチーズを月だと思わせなければいけない」と言うのです。つまり、貨幣を印刷して配れということです。その言い方を考えるならば月は貨幣ではないということになります。そうではなくて、流動性という名で呼ばれる抽象的な欲望なのです。そして、その代わりに貨幣を人々は持つのです。だからグリーンチーズをいっぱい作るならば、人々の月への欲望を解消してくれるだろうというのが、ケインズの言いたかったことなのでしょう。
多くの古典的ケインジアン、特に政策を提言するような人たちは、貨幣=流動性だと誤解しています。だから貨幣を大量に発行すれば、ものごとは解決すると考えている。しかし、ケインズのもともとの主張は、人々が欲しいのは、月、つまり流動性と呼ばれる抽象的なものだということです。ただそれが一般の状態では、貨幣に憑依しているわけです。ですから一般の状態では貨幣が流動性を持つと考えて問題がないのですが、それは「貨幣=流動性」ということではない。流動性と貨幣とは異なる概念です
Hey, who you callin’ neo-Wicksellian? (wonkish)
ニック・ローウェがこんなことを言っている。現代マクロ経済学のネオ・ヴィクセリアンアプローチ(つまり短期金利の選択という観点からの金融政策決定を行う傾向、ということらしい)は、経済学者がいったん金利がゼロ近辺になってしまった場合の金融政策を考えるには向いていないとか。
この点に関しては確かにそのとおりだ。でもわれわれのように日本が直面した流動性の罠のことを真剣に考えようとした面々は、この落とし穴のことはすでに気づいていたんだ。実際、僕が最初に流動性の罠のモデルを書いたとき、僕は流動性の罠なんてナンセンスだという確固たる信念からスタートしたんだ。たとえ金利がゼロになっても、マネーサプライを増やせば需要は必ず増える、と。そこでまず僕はすべてのiの分布についてtが交差するモデルに取り組んだ。マネーサプライを増やせば需要は増えるということを示すためにね。そしてわかった。ショックだったよ。このモデルはまったく逆のことを告げていたんだ。
結論はこうだ。もし短期金利がゼロになると、現金は短期債務の完全な代替物になる。そしてマネーサプライをいかに増やそうとも、債務もまったく同じだけ増加することで、すべての効果は打ち消される。まる。以上。
確かに中央銀行は別の政策もできる。たとえば長期債券やリスクのある資産を買ったりね。そしてこの対策は効果を持つ。でも、それは中央銀行が民間セクターのリスクを肩代わりしてあげることによるものだ。マネーサプライの増加とは本質的に一切無関係だ。
深尾光洋
デフレ経済の下では、金利が低くても貸し倒れリスクのない現金や政府の信用に裏打ちされた預金、国債などを保有するインセンティブ(誘因)が強まる。物価が下落している状況では、地価、株価は下がるが、現金は価値が低下しない。このため、設備投資や住宅投資が低迷し、現預金の保有が増加する。
金融政策面では、日銀がさらに量的緩和や企業債務の直接買い入れを進めることで、ある程度は景気を下支えできるが、効果は限定的である。巨額赤字を抱える財政にも景気を支える余力はあまり残っていない。為替相場の円安誘導についても、海外景気が好調だった03-04年とは異なり強い非難を浴びる可能性が高く、採用は無理だろう。
では全く打つ手がないのか。そこで今後検討が必要と思われるのが、金利をマイナスにすることの是非である。
もちろん、短に日銀がマイナス金利で銀行や企業にお金を貸し出しても、銀行貸出を拡大させる効果はあまりない。これは現金という安全資産が大量にあるからだ。銀行も日銀からマイナス2%でお金を借りられるのであれば、日銀から借りられるだけ借金をして現金で積んでおくことで、リスクなしの2%の利ざやを稼ぐだろう。
だが課税をうまく使うことで、政府は税収を得ながら景気を刺激する事が可能である。これは実質的に金利をマイナスにする政策であり、こうした「マイナス金利政策」は今後検討に値しよう。
マイナス金利は、ケインズが『一般理論』で紹介した、シルビオ・ゲゼル(ドイツ人の経済学者)の紙幣に対する印紙税構想として知られている。ゲゼルはお札の裏に印紙をはる欄を多数設け、毎週印紙をはりつけないとお札が流通できなくする事で現金に課税することを提案した。
今日では、ATMや自動販売機が普及しており、お札に印紙を貼って流通させるのは非常に不便である。また現金のほかにも、政府保証のある預金、クレジットカード、デビットカード、電子マネーなどが支払いのために広範に使用できる。このため現金だけに課税しても、支出を刺激する効果は限られている。しかし、課税方式を変えることで有効になる。
たとえば、お金に使用期限をつけるか、使用しなければ価値が下がっていくようにすればよい。どんなに物価が下がっていても、家電量販店のポイントや航空会社のマイレージは、使用期限が切れる前に使うのと同じである。
そこで、政府が価値を保証している現金、預金、国債などの金融資産に対し、デフレによる実質価値上昇分を課税すればよい。同じ金額の安全資産で購入できる財・サービスがデフレで増加する分を、税金で政府が吸収するのだ。
課税対象は日本政府が直接間接に元本を保証する円建ての金融資産であり、国債、地方債、預金、現金などである。
現金は、色を変えるなどして新券を印刷し、旧券と交換するとき手数料を取れば良い。
そうすれば、課税対象の安全資産から、株式、社債、耐久消費財、不動産などに資金がシフトし、景気は刺激される。銀行も課税される日銀当座預金を減らし貸し出しを増加させるだろう。政治的には大きな困難を伴うだろうが、税率二%で三十兆円以上の税収が見込める。これは全国民に二十万円現金を支給してもおつりが来る金額になる。
http://s03.megalodon.jp/2009-0216-2035-29/namidame.2ch.net/test/read.cgi/eco/1233583729/883
883 :金持ち名無しさん、貧乏名無しさん:2009/02/15(日) 18:51:47
ノビーやっちゃったみたいね
比較優位とは、国内における他の財との生産費の比によるものであり、「他国との差」ではない。」
って書いてるけど
ノビーの挙げてるWikipediaにもちゃんと
「これは比較優位に立つ側は、相手側よりも少ない機会費用で生産できることを示している。」
と書いてあるから、
「相手国と比較した場合」に「相手側より少ない機会費用である事」=「比較優位」
となっている
きっとWiki調べて理解しないまま書いちゃったんだろうな
しかも
「経済学の基本的な概念を理解していない人が世の中に多いことは何度も書いてきたが、
とまで書いてる
完全に自爆