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2015-07-01

悩ましかった平泳ぎ

自分運動音痴ではあるが、水泳だけは人並にできる。ただしクロール背泳ぎ限定

これは、小学生の頃スイミングスクールクロール背泳ぎまではマスターできたものの、平泳ぎが壁となり、そのままタイムアップとなってしまたからだ。

というわけで、頑張って頑張ってマスターできなかった平泳ぎだが、平泳ぎが出来ないというのは即ち、キックが出来ないと同義である

当時はどのようにキックを習ったかというと、

  • 足は常に外股をキー
  • 頭を水面上に出したまま練習

実にこれを2年位やった記憶があるが、とにかく前に進まない。キックしまくっても進まないうちに身体が沈んでしまって更に消耗すると。

一般に平泳ぎは「最も楽な泳ぎ方」と言われているけど、絶対嘘だと思った。一番疲れる泳ぎの間違いじゃね?みたいな。

そもそも足の裏でキックとかどうやっても無理というか。

でも他の人はどんどん上達する。

彼らとの違いは多分脚の形で、自分は当時からO脚・偏平足・内反小指と三拍子揃った、相当悪い脚だった。

大学の知り合いもやはりO脚で平泳ぎが出来なかったと言っていたので、O脚に平泳ぎは無理なのだと思っていた。


それから四半世紀。

アラフォーになって基礎代謝を上げる必要が出てきて、でも最近ジム通いが飽きてきたタイミングで、知人から地元プールの大人向けスイミング教室の話を聞き、しか格安だったので気分転換に行ってみた。

平泳ぎバタフライのコースだけど、まあ初回はキックが出来ないことの再確認で終わるだろうと予想していた。


ところが、である

なんと初回のレッスンで、あれだけ苦労した平泳ぎが、難なく習得できてしまったのだ。

その時コーチから受けたアドバイスはたったの3つ。

  • 足は常に内股をキー
  • 頭を水面上に出さない。二の腕を必ず耳の後ろにくっつけて、頭をプールの底に突っ込ませる感じで泳ぐ
  • 一度キックしたらひたすら伸びて、身体が浮いてきたタイミングで、手で左右に水を押し広げると自然に頭が水面上に持ち上がるので、そこで息継ぎし、その後で再度キック

これだけで泳げるようになるなんて、一体昔の苦労は何だったのだろう。意味がわからない。

昔と今で何が違うんだ?という感じ。

しかも泳げてみたら分かったが、確かに楽な泳ぎ方なのだ


そして泳げて嬉しいは嬉しいが、もっと早く泳げるようになりたかったというのが正直な感想である

というのも、個人メドレーっぽいことをしてみたい自分としては、ゆくゆくはバタフライという、全く未知の泳ぎを一から習うことになる。

そんなのアラフォーの手習いで習得できるのだろうか。もし習得できるにしても物凄く時間がかかるのでは?と不安で仕方がない。

間違っても小学生よりも短期間で習得できるとは思えないし、どうしたものか。

2015-06-30

母親が泣き叫ぶ子供の涙を収集した結果

その涙でプールができた。そこでスイミングスクールをはじめたのが「習い事」の起源である

2015-06-29

リハビリ文章を書く。

文章を書くことがリハビリにいいと言ったので、ひとつ書いてみることにした。

土曜の平日は、スイミングスクールに通うのが私の日課だった。

スクールから家までの道のりは近くもなく遠くもなく、徒歩で10分、自転車だと10分といったところだ。

だが、ゴールまで半分といったところで、落とし物にしていることに気がついた。

どうやら機内に置いたままだったらしく、それに今ごろ気づく自分も優しいものだ。

腹いせにそこらへんを走っている車を念力で爆破しようとするのが、私の処世術だ。

なぁに、別に水着がなくても泳げる。

ここの講師は融通が利いて頼りになる。

きっと分かってもらえる。

滞りなく授業は終わった。

その中に私はいなかったが、泳げないものは仕方がない。

では、少し早いが次の用事を済ませよう。

次の用事は妻の頼みごとで、地図コンパスを買ってくるよう言われた。

コンビニに置いてあるような陳腐ものではなく、百貨店にあるような高級なものが欲しいとのことだった。

「何の地図か」という肝心の部分を聞き忘れたが、とりあえず世界地図を買ってくれば文句は言われないだろう。コンパスも同じだ。

では電車に乗って百貨店に……、財布は水着の中に入れていたのだ。

仕方なく徒歩で百貨店を目指すことにした。

トホホ

わず出てしまった言葉だったが、その短絡さに自ら呆れ、咄嗟に口を両手両足で覆った。

途中、妻の幻影に「あと3時間はかかる」と言われて辟易したが、どこか私の足は軽やかだった。

結局、3時間かけて百貨店に到着し、地図を無事手に入れた。

さすがに徒歩で帰る力は今の私には残っておらず、電車ダメなのでバスで帰ることにした。

こういうときのために、免許を取っておいてよかった。

しか今日の私はどうも間が悪いようで、途中で尿意に目覚めた。

自分ロボットならこんなことにはならないのに。

……いや、バッテリー必要からそれはそれで不都合か。

オムツをしているので最悪漏らしても大丈夫だが、できれば尊厳を保ちたい。

何とか漏らさず家路に着いた。

妻にコンパスを買い忘れたことを責められた。

今の私はそれどころではなく、「コンパスなら君がいるじゃないか」と嗜め、急いでトイレに駆け込んだ。

一息ついたところで、妻に詰め寄られて「申し訳がないか」と聞かれた。

あるかないかでいえばあるのだが、私がコンパスを買い忘れたことは事実だし、思いつく限りの案で妻を納得させる自信がないのも確かだ。

「ない」というしかなかった。

妻はそれを聞いて数分の沈黙の後、「そうか」とだけ漏らして去っていった。

明らかに彼女は不機嫌で、妻はこういうときひたすら寝て過ごす。

こうなったら、私がどうしようと明日になるまで妻は起きない。

実のところ内心では安堵していた。

なにせ今日の夕飯はカレーで、妻の作るモノはお世辞にも美味しくないからだ。

だが、カレーを食べたかったのも確かで、一人で食べたくないのも確かだ。

私は暇な友達を誘って、夕飯を済ませることにした。

友人のカワチは、不健全健康体だった。

私の愚痴を聞き流してくれる気さくな友達だ。

私はカワチと落ち合うと、さっそく吉野家カレーを食べようと持ちかけた。

彼もカレーを食べることには賛成してくれたが、カレー松屋で食べようと言って来たのだ。

「あのほっといてくれる雰囲気が好きなんだ」

彼らしい意見だ。

私としては、カレーを食べることができれば場所は問わない。

のだが、カワチは吉野家へ行こうといった私の言葉を予想以上に重く受け止めていたらしい。

「それでいい」といった私に遠慮し、そこからは「どうぞ」合戦だ。

数分後、埒があかないと感じてココイチで食べることに決まったが、カワチも私もこういうことにはどうも不器用だ。

カワチはサラダ、私はカレーを食べながら、お互いの身内の話を始めた。

「お前んところの奥さん。どうだよ」

「まあ、相変わらず。でも、ありがたくもある。喧嘩をしてもすぐ仲直りできる子供同士みたいな関係で」

「俺のところは、最近ちょっと不気味にさえ思ってきた。絶対に思うところはあるだろうに、やたらといい夫として扱ってくれるしさ」

「実際そうなんだろう」

「どうかね。あいつが好きだったタバコを吸わなくなったのは俺と結婚してからだ。いや、妊娠が発覚してからだったか?」

「私に聞かないでくれはははははははは」

こうして、何気ない会話をして別れ、家路に着く。

いつもとさして変わらない休日

妻の機嫌は思いのほか早く直っていた。

どうやらコンパスは、隣のナカガワさんに余りものを貰っていたようだ。

しかし、一通り書いてみたが、これでリハビリになるのだろうか。

2015-01-15

http://anond.hatelabo.jp/20150115034606

おれも運動神経はひどいほうだった。水泳だって、小5のとき幼稚園児に混じって1年間スイミングスクール通いしてなんとか息継ぎできるようになったし(この屈辱感ったらないよ。増田みたいに息継ぎできないままのほうがずっとマシとすら思う)。自転車死ぬほど練習したからなんとか乗れるようにはなったけど、逆上がりは当然できないし(あんなんできる方がおかしい)、球技とかもはや意味不明

それでも中学バスケ部に入ってからは、運動神経は人よりだいぶ下手ぐらいにはなった。

文を読む限りだと、そもそも身体を動かすための基礎的な筋肉が不足している感じがする。

で、一般人普通生活するだけでその種の筋肉がつくらしいんだけど、俺らみたいにつかない人もやっぱり居るんだよ。

そういう人は他のことで補うしかないと思う。散歩とかどうだろう。一眼レフでも買ってさ。一眼レフ重いし、腕力もつくんじゃないかな。

2014-11-29

痩せないと別れるって言われたので、ジョギングスイミングに通って食事制限もして、どうにか痩せた。

だけど、食べたら吐く癖ついちゃったのと、会った時に停滞期で痩せてなくても「痩せたね。かわいくなったよ。」って言われて、

少しリバウンドした時も同じこと言われて、「この人私のこと見てないのかなー」って思って少しずつ冷めていった。

付き合う前からデブだったので、付き合い出してから

「お前は服のセンスがない」とか

「痩せろ」とか言われるのいみわかんなかったけど、

まぁ付きたいたいから頑張ったよね。

服のセンスは少し良くなったけど、私の着たい服ではなかったし、

いわゆる「男ウケする服」でもやっとしてた。

人と付き合うときに、意見のすり合わせが大切なのはわかってるけど、

「ダサし、太ってるから横歩きたくない」

って言う人は意見のすり合わせ以前の問題だと思ってる。

2014-08-12

スイミングスクール子供を通わせている親が、本当に望んでいることは「水泳の上達」じゃない

http://www.ex-ma.com/blog/archives/1124

ブクマで↓の通り突っ込まれまくっていて、

http://b.hatena.ne.jp/entry/www.ex-ma.com/blog/archives/1124

これスクールの近くにおいしいカフェとかショッピングセンターができたとかだったら味わい深いんだけどなー

親向けなのこれ。どっちかというと子どもがチラシを見て惹かれて「そうだ太郎君や花子ちゃんも誘って一緒に行こう!」とかなってねずみ算式に予約が埋まった気がする。

という辺りが真実なんだろうけど。

ブクマ見ても「いや、親はチラシの通り考えるんだ!」と言い張ってる人達は何なんだろうか。

突っ込んでる人達、どう見ても「親」側の人でしょ。

2014-06-13

最近プールに通っている

近くの市営プールは一回360円。

温水じゃない7、8月は200円。

私は11綴りの回数券(3600円)を使っている。

スポーツジムより安上がりだ。

25mプールで、7レーン。

その内の1レーンは歩行者専用になっている。

来ている人はおじさんが多い。

歩行者レーンには小太りのおじさん、

泳ぐ人のレーンには、元水泳部みたいなむっちりしたおじさん。

この時期だと、大体1レーンに1,2人いる。

わたしは「ゆっくり泳ぐ人」のレーンで泳ぐ。

ゆっくりレーンが混んでいるときは歩いている。

プールに通うと良いことがたくさんある。

辛くない割にいい運動ができる

プールで歩いたり泳いだりするのは、

普通に歩いたり走ったりするより何倍もカロリーを消費する。

その割に、汗もかかないし、あまり息切れもしない。しんどさを感じにくい。

しかも、関節に負担がかけずに筋力を鍛えられる。

プールが混んでいた夏の時期にランニングもするが、

スイミングの何倍も辛い。

ぐっすり眠れる

学校プールの授業のあと、ぐっすり居眠りした経験を持つ人は多いだろう。

プールでの運動はキツくは感じないが、全身に水圧がかかるので、実際は体力を使う。

その日の夜は引き込まれるようにぐっすり眠れる。

やせる

食べてもあまり太らなくなる。

だって引き締まる。

水で冷える体の体温を保とうとするために、カロリーをより消費しやすい。

プールのあとお風呂に入って汗をかくと、

冷えた体が温まり、疲労物質が溜まりにくくなってより良い。

癒される

水の中の浮遊感に癒されて、ストレス解消になる。

浮力に支えられるのは心地よい。

泳ぐと肩こりもよくなる。

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夜9時までやっているので、

私は大体仕事帰りに行って

家に帰ってお風呂に入って寝る。

みんなやれば良いのにと思うけど

知ってる人に会ったらいやだから

知り合いには勧めない。

2013-08-12

http://anond.hatelabo.jp/20130812165214

郊外とか、田舎とか、ネットとかテレビで見る風景しか知らない。

そこまで金持ちなら避暑地の1つや2つ行ってそうだが?海外でも田舎度が高い所に行ってそうだが?

スイミングスクールはほぼ全員行ってたと思うし、家庭教師がついている子もたくさんいた。

スイミングスクール高収入ステータスではない。むしろ収入から幅広く行かせることのある習い事の1つ。

いじめもあったけど、たいしたいじめじゃなかった。不幸の手紙レベルだった。

学習院であれ陰湿いじめはある。

会社から1時間半のところに住むとかも信じられない。

会社と自宅による。別に収入それ程関係ない。

美容院半年に一度とかも信じられない。

極端すぎ、そんなの滅多に居ない。それ程高層だけで生きてるのになんでそんなのに出会うのか?



釣りたいならもうちょい勉強してこいよ。

こういった反応を求めてたなら、おめでとう、よく釣れたね。

高学歴世界しか、私は知らない

最近低学歴高学歴だって話が多く、

低学歴世界の記事をよく見るんだけど逆に高学歴世界(?)の話をしたい。

高学歴というか、高収入?かも)

生まれも育ちも都内。

郊外とか、田舎とか、ネットとかテレビで見る風景しか知らない。

新幹線乗った時に見るぐらいしかからない

行っていた幼稚園は、超絶金持ち幼稚園で、幼稚園まで基本、車で送り迎えだった。

車のドアは、専用の人があけてくれた。

それが「普通」だった。

小学校も都内の私立に通った。休みはどこの家庭も海外旅行に行っていた。

しかビジネスとかファーストで。

片親の子は、ほぼ居なかった。(死別が時々いたかも?ぐらい)

スイミングスクールはほぼ全員行ってたと思うし、家庭教師がついている子もたくさんいた。

中学高校で「悪いこと」といえば、ルーズソックスをはくことぐらいだった。

たまに頭悪い子がいたけど、犯罪を犯すような子はいなかった。

いじめもあったけど、たいしたいじめじゃなかった。不幸の手紙レベルだった。

さすがに18ぐらいになると、自分がとても贅沢な生活をしていることに気づいた。

でも、自分より贅沢な生活をしている子はいっぱいいた。

大学で「普通」の人とふれあい始めた。

と思った。

だが、それは「普通」なんじゃなくて「上の層」だって知ったのは社会人になってからだった。

海外旅行行ったこと無いとか信じられないし、

会社から1時間半のところに住むとかも信じられない。

月の小遣い5000円とかありえないし、

美容院半年に一度とかも信じられない。

世間知らず!といわれるかもしれないが、本当に信じられない。

数年前に結婚し、夫婦2人もはたらいている。税金高いな。とは思ってる。

なんでネット高収入って叩かれるんだろ。

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※追記初めてはてな匿名ブログに書いてみたけど、

使いかた難しいですね。

アンサーはどう書くのがマナーなんでしょうか・・。

ちなみに釣りではないです。

  郊外とか、田舎とか、ネットとかテレビで見る風景しか知らない。

   そこまで金持ちなら避暑地の1つや2つ行ってそうだが?海外でも田舎度が高い所に行ってそうだが?

軽井沢に別荘はありますが、

あれは田舎ではない気がしています

  会社から1時間半のところに住むとかも信じられない。

   会社と自宅による。別に収入それ程関係ない。

年収400万で暮らしていけない、のようなブログに対して

もっと郊外に住めば家賃減らせる!」的なコメントが多かったので、

年収結構関係するのかと思ってます

  美容院半年に一度とかも信じられない。

   極端すぎ、そんなの滅多に居ない。それ程高層だけで生きてるのになんでそんなのに出会うのか?

発言小町で、美容院に2ヶ月に一度行く人が

叩かれていて、そうなのか!と鵜呑みしました。

2013-08-11

平泳ぎ危険なのか?

アメリカ留学中の日本人アメリカ平泳ぎしたところ体に悪いからやめろと怒られたって記事が一部で話題になったので、

本当にアメリカでそう思われているかググって見た。

アメリカ平泳ぎした結果wwwwwwwwwwwwwwww, http://bipblog.com/archives/4549449.html


結論から言うと、

1. 平泳ぎはポピュラーな泳法として認知されていること

2. 一方で泳法の中では特段、膝に負担をかけるであろう泳法として認知されていること

が分かった。


1については、競技人口を示す資料が見つからなかったため、あまり深くはいえないのだけれども、例えば

アメリカにはほぼすべてのスイミングスクールが遵守する赤十字社が定めた水泳レベルというのがあって、

http://www.gonashua.com/LinkClick.aspx?fileticket=gG3o_RpGNuU%3D&tabid=793

これによると、平泳ぎクロール背泳ぎの次に覚える泳法として位置づけられている。

具体的に言うとクロールで25ヤード(23m)泳げて、ビート板で平泳ぎできる等すると昇級、

クロール50ヤード背泳ぎ25ヤード平泳ぎ10ヤード泳げると昇級、次の級ではバタフライ10ヤード…という構成になっている。

まり、少なくとも泳いじゃいけない扱いはされていない。つか、日本と同じ。


一方で、第17国際水泳連盟世界スポーツメディスン会議で発表された報告の内、水泳競技における膝問題を扱ったもの

特に取り上げられているのが平泳ぎであり、平泳ぎ泳手の86%が膝の痛みを感じたことがあり、47.2%が一週間に一度以上の痛みを

感じていることが報告されるなど、いわゆる平泳ぎ膝が平泳ぎ泳手に付き物の問題であることが実証されていることが分かる。

http://www.fina.org/H2O/index.php?option=com_content&view=article&id=2917:knee-problems-in-aquatics&Itemid=974

これがどの程度アメリカ認知されているのかは分からないが、swimming worldという水泳専門雑誌では2012年平泳ぎ膝の特集を行い

その際コラムニストは、出来るだけ平泳ぎトレーニング時間を少なくするようにという提言を行っている。

http://www.swimmingworldmagazine.com/lane9/news/Commentary/30270.asp


こう考えると、確かに留学先のコーチの反応は過剰なものしか言いようがないのだけれど、平泳ぎ膝についての危険性は

日本以上に認知されている可能性があるととれる。まぁ、アメリカ水泳やってた人とかは割といそうなのでこの辺のことについては

肌身で知っている人が情報提供してくれるのが一番ありがたいのだけれども。あと、黒人水泳しねーよみたいな意見ありますけど、

確かにその傾向はありますし問題になってますが、アメリカ黒人の内68.9%が泳げないかまりうまく泳げないというデータがあり、

逆に言えば、少数ながら泳げる人もいます(ちなみに白人は41.8%)。

http://www.bbc.co.uk/news/world-us-canada-11172054

2013-05-06

市民社会行動・リテラシーは、40年前比で2極化している】

5月3日の日経に「日本人金融行動は2極化しているのでは?」という問題提起があった。

「極端なリスク回避嗜好者(現預金嗜好者)と、FXとかにバンバン投資して、極端にリスクテイクする人と、

 2極化していて、中間層(ほどほどにリスクを取る人)が希薄」という趣旨

これって、金融行動以外の、市民社会行動、あるいは各種リテラシーについても、言えるのでは?

30年前、40年前とかと比べて、中庸に山が来る正規分布から、「リテラシーが凄い人」と「リテラシーが全く駄目な人」に

2極化が進行している気がする。

例えば、行政が、医療費増大を抑えるために、市民に「健康啓発・運動啓発」をしているが、

運動する市民」と「運動しない市民」の2極化が、30年前・40年前より、一層分化していたりする。

運動する市民の側は、より一層運動に励むが、運動嫌いな市民は、より一層運動時間が減少してしまったりする。

で、問題なのは行政が「健康啓発セミナー」を開催しても、集まるのは

「もともと健康運動好きな、健康オタク」ばかり来場してしまって、行政としてはもっとも来場して欲しい

運動嫌い、殆ど運動しない人は、全く来ない」ということ。

運動好きな人ますます運動啓蒙したら、活性酸素却って体を痛めてしまうのだが・・・

厚生労働省とかが「市民運動時間調査」しても、平均を見て論議するのは、全くの見当外れになる。

例えば「運動時間合計が1週間で1時間未満の人の比率が、30年前比でどう推移したか?」を可視化して、

そこにピンポイントした啓蒙作戦を練らないといけない。

運動とかの場合だと、例えば40年前とかは、職場で「大運動会」「ソフトボール大会」なんかがあって、

運動嫌いな人でも半強制的に運動に参加させられる「仕掛け」があったが、それが廃れて、

運動と向き合わなくても生活していける時代」になった、という面が大きい。

・・・あらゆる場面で「嫌いなジャンル、苦手なジャンルがあっても、別に向き合わなくても構わない時代」になり、

リテラシーボトム層は、ますますボトムダウンする、という構図になっている。

一方、運動好きな人サークルは益々盛んになり、より上手い人は上手くなり、運動量が増える。

なので、市民の間の「運動量の断絶」は、40年前比では相当酷くなっている。

成人じゃなく子供時代でも2極化していて、水泳などは、

スイミングスクールに通っていて、割と泳げる子」と、

「そういうスクールにも行かず、親が夏に海・プールに連れて行くこともない家庭の子」とでは、

水泳技量に相当な断絶が発生してしまい、体育教育現場では相当問題化しているらしい。

趣味世界は、もっと二極化が進んでいると思う。

40年前とかなら、芸能に疎い人でも、それなりに「山口百恵がどうした」「石原裕次郎がどうした」ということを知っていた。

おそらく世間話でそれなりに芸能の話題が出ていたので、あまり芸能に関心がなくても、必要に迫られて

芸能情報摂取せざるを得なかった、という側面もあろう。

しかし、今では別にAKBがどうした、EXILEがどうした、ということに全く無関心でも、まあ生きていける。

40年前と比べると、芸能情報に一切無頓着という「芸能オンチ」は、より一層深刻になっているのでは?

一方、ネットの深化で、芸能オタク層の芸能知識の深度は、40年前比でも相当深まっていると思う。

以前は芸能偏差値40~60に満遍なく分布してたのが、今は芸能偏差値80のオタクがいる一方で、

芸能偏差値20の「世間知らず」もそれなりに存在して、芸能偏差値40~60の中庸層は薄くなった気がする。

他にも「料理の腕」とか「日曜大工の腕」とか、さまざまなリテラシーライフハックで「2極化」が進行しているのでは?

あと、先日麻生副総理が、「1年間病院に行かない高齢者に、10万円あげることで、過度の病院通いを抑制できる」

とのアイデアを披露していたが、「病院通い」も2極化している気がする。

「用もないのに、病院にやたらと行きたがる、薬を貰いたがる人」と、

医者嫌いで、手遅れになるまで病院に行かない人」の2極化。

麻生氏は「用もないのに病院に行きたがる人」の抑制として「1年間行かなければ10万円のご褒美」というアイデアだったんだろうが、

これで「用もないのに・・・」という層が、果たして行動変化させるか?

結局、「医者嫌い」な人に10万円を交付するだけで、「用もないのに・・・」という人はなんら行動を変えない気がする。

→「医者嫌い」な人に10万円を交付して、「交付実績が上がった、政策効果が出た」と総括するようじゃ、単なるアホである

この場合は「医師嫌いな人に、もっと病院に行ってもらうように啓蒙」しながら、一方で

「過度に病院通いする人に、あまり病院通いしないように抑制啓蒙する」という両面作戦が必要になるので、極めて難しい啓蒙戦略必要になる。

2013-02-23

70年代ピアノ教室ブームが90年代のJ‐POPの基礎を作った。だがもうそのような時代は来ない。

今後の21世紀、さらに22世紀にかけ、音楽業界、J‐POP

「黄金の1980年代・90年代」の遺産を食いつなぐだけの業界になっていく気がする。

まり、新作の曲もアーチストもあまり輩出されず、1980年代・90年代ナンバー

2050年も2100年も聞いている、そういう状況。

なぜそう思うのか?という理由の一つは「20代人口の長期的減少」というのがあり、

まりアーチストを輩出する若年人口のものが減少するので、有能なアーチストの数も減る、という

身も蓋もない人口理論が理由であるのだが、それ以上の理由としては

習い事としてのピアノの地位低下」がある。

1970年代、高度成長がひと段落した日本の各世帯では、

子供に習いこどをさせよう、ということで、高いピアノを購入して、子供ピアノ教室に通わせた。

70年代に、幼少の時分に音楽イロハマスターした世代が、成長して80年代90年代音楽シーンを支えたのである

その意味では、J‐POPは「70年代ピアノ教室の申し子」と言えよう。

翻って現代では、確かに習い事に行く子供は以前にもまして多いが、

その内容は、より即物的に「塾」とか「英会話」とかである

あとはせいぜい、体力増強を目的としたスイミング程度。

「役に立たない、手に職つかない」とみなされるピアノは、習い事としての地位を急速に落としている。

衝撃的なデータとして、国内ピアノ販売台数のデータがある。

2010年の販売台数は、1992年の、わずか7分の1。

2011年になって、震災の影響で、ようやっと急減傾向に歯止めが掛かったそうだが、焼け石に水。

ピアノ習い事として不利な理由はほかにもあり、カネが掛かる、という以外に

「そもそも家が狭い」

マンションで近所に騒音迷惑かけてしまう」という点で敬遠されてしまう。

じゃあ70年代大丈夫だったのか?という疑問もあるが、

70年代は戸建住まいがマソション住まいよりも多かった、70年代郊外の広い家住まい

首都圏外の地方住まいがまだまだ多かった、ということだろう。

結局、70年代80年代の、日本リッチだった時代に、「子供に付けさせた教養」が、

10年後20年後にJ‐POPとして花開いた、ということで、

日本からリッチさがなくなり、子供教養つけさせる余裕がなくなった」時代からは、

うそのような文化の開花は期待薄だろう。

しかしつくづく思うに、なぜ70年代80年代に、一見役に立たないピアノがブームになったのか?

一つには「花嫁修業」「娘をピアノ弾けるようにしておくと、将来いい男を捕まえられる」という

親の打算もあったと思う。

果たして、どれだけ花嫁修業になり得たのか、いささか疑問ではあるが)

もう一つには、「豊かさのアイコン」の役目を、ピアノ果たしていたんじゃないか?と思う。

いわば「成功の象徴、ステイタス消費、記号消費」のようなもの

そういえば、この頃(70年代)の少しリッチな家庭は、百科事典を揃えているケースもあったそうだ。

百科事典って、年に1回も使うか使わないかだし、そもそも場所を取って仕方ないが、

そういうのを購入することが、一種のステイタス消費だったんだろう。

記号消費と言えば、「課長マークⅡ、部長クラウン」的なところがあって、

「役職についたから、クルマをワンランク上に買い換える」のがお約束だった時代でもあった。

ピアノの購入というのも、「マイホームを建てた人のお約束」的ムードが、あったんだと思う。

結果的に、それが10~20年後にJ‐POPの隆盛につながったんだろうなあ。

2013-01-05

孫に無関心?な親

正月に、子供連れて帰省した。

自分場合自分実家と妻の実家は、割と近い(電車で30分程度)ので、

毎年妻の実家に行った後に自分実家に行っている。

妻の親は、孫が「幼稚園クリスマス会」だ、「運動会」だ、とイベントがあれば、

結構上京して駆けつけるのだが、自分の親は、そういうことで駆けつけない。

それはまあ、「嫁に遠慮して、むやみに行くのを控えよう」という判断があるのかもしれない。

が、今回帰省した際に、

「上の子小学3年生)が漢検6級(小学5年終了相当)に合格したよ」

「上の子公文算数がG過程中学相当)に進級したよ」

「下の子クリスマス会で長いセリフを演じたよ」

「下の子スイミング幼児の中で一番上級クラスになったよ」

と言っても、なんか親の反応が弱いのである

「ふーん、そうなの」という感じで、「すごいね」とか「頑張ったわね」という言葉の一つもない。

・・・いくらなんでも、それって、祖父母として、どうなのよ?

30年後に自分が「じい」になったら、孫の活躍は、我が事のように喜ぶと思うのだが。

以前妻から、「あなた実家って、結構クールなのね」と言われたことがある。

その時は「そんなことない」と思っていたが、今回のやり取りを見ていると、

「やっぱり、クールだったのか」と思わざるを得ない。

こんな対応だと、じきに子供達も寄り付かなくなると思うのだが・・・

の子なんか、なんか、猫がぶった感じで、ちょっと窮屈そうだったし、

の子丁寧語で親に挨拶しているし・・・

妻の親の前との態度と、全然違っているのである

自分には姉がいて、姉に2人子供がいる。

考えたくないが、姉の子供の方が、可愛いのか?

(実際、姉の子の世話は良くしているようだ)

・・・なんか大手小町みたいなネタ増田で披露してしまって、ゴメン。

2012-12-10

勘違いしてませんか?現在のひろぶろはまったく別の人が運営してます

2011年6月まで、長きに渡り運営され、多くの人々に愛されていた超人ブログ「ひろぶろ」が突然閉鎖となりました。ひろぶろはnejire氏が一人で運営していた個人ブログであり、閉鎖の理由に関しては未だ不透明なままです。

ところが、今年7月になり、同一ドメイン・同一名称・同一デザインの「ひろぶろ」の運営がはじまりました。

nejire氏が更新を再開したのかと勘違いしている方も多いようですが、こちらは当初「ひろぶろ3代目」と名乗っていたhineri氏が運営しているブログで、名称ドメインは同一でも管理人は別人になります

hineri氏のブログによると、初代ひろぶろであるnejire氏の許可はとっていないそうです。

この記事は3代目ひろぶろに関しての考察です。

ひろぶろのドメインhiroburo.comが、初代から3代目に移るまでの経緯

hiroburo.comの有効期限切れを狙って取得を試みたものドメイン転売業者に先を越される

さて、遡ること半年上前、「2代目ひろぶろ」が事実上の閉鎖状態になりました。

これで本当に寂しくなるなあと思ったわけですが、それと同時に3代目を自分がやったらどうだろうか…?

ということについても考えるようになりました。

ちょうどその頃、私はドメイン重要性について勉強していたものですから

初代ひろぶろのドメインが取れないのならどんなにがんばってもアクセスなど望めず

それではひろぶろの復活にも成り得ないし、やってもしょうがないだろうと思い

実際には、欲しいドメインを狙って取得するというのはなかなか難しいものなので、

「ひろぶろ」のドメインhiroburo.comが、2011年12月14日で期限が切れることをWHOIS情報で把握していた

ドメイン転売業者に向けて交渉の手紙を出す
交渉がまとまり「3代目ひろぶろ」に初代ひろぶろのドメイン適用する

2012年7月25日、長き交渉の末、初代ひろぶろのドメインをhineriが取得し、これをブログに設定し、ブログタイトルを「ひろぶろ」に戻す。

現在管理人と思われる人のサイト

根拠1 : AmazonアフィリエイトトラッキングIDが同じ
根拠2 : サイドメニューから3代目ひろぶろにリンクされてる
根拠3 : ひろぶろ閉鎖についての考察記事が大量に発掘される

ひろぶろが閉鎖された事により、「辞めるくらいなら管理権を譲ってくれ!」

などと他所に書き込んでいる人も見受けられるが、

確かにその気持ちも分からんでもない

後天的にこういった人気サイトを作ろうと思ってもそれは非常に難しい事だからだ。

僕はこの一件について、以前見たマット・デイモンベン・アフレックロビン・ウィリアムス出演の映画「グッド・ウィルハンティング」の中のセリフを思い出した。

お前は宝くじの当たり券を持っていて、それを現金化する勇気がないんだ。

お前以外の皆はその券を欲しいと思ってる。

それを無駄にするなんて俺は許せない。

昨日、人気サイトの「ひろぶろ」の閉鎖に関する記事を書いたら、

今日はそれに関して心臓に悪いくらいのアクセスがあってビックリした。

あと、ひろぶろのドメインについて、

サイトコメントにて、年末まで更新されているとのことだが、

しかに、2011年12月まで期限は残っているようだが、

これは更新されているというよりも、単にそこまで契約が残っているというだけに過ぎない。

・・・と思う。

最初に「ひろぶろの閉鎖」についての記事をアップした後、

かなりのアクセス数がこのブログにあった

まりにもバカバカしい検索エンジンの、或いはSEOの在り方を垣間見たような気がした。

当方のブロググーグルトップページに「ひろぶろ」と言う検索ワードで表示され、

それ故にかなりのアクセスもあった

正直に言えば、「その3」くらいから、上記の様な理由でひろぶろの閉鎖の事なんてどうでもよかった。

以下、仕方なくヤフーへ問い合わせた苦情の内容と、ヤフーからの返答。

>当方で書いたブログの記事が、「ひろぶろ」という言葉検索出来なくなっています

>これはあまりに不公平ではありませんか?

 

検索結果は適宜更新されており、ご希望キーワードでの検索結果に、

お客様サイトが常に表示されることをお約束することができません。

要望に沿えず誠に申し訳ございませんが、何卒ご理解くださいますようお願いいたします。

「ひろぶろ」が閉鎖された時、ちょっとそのことに触れただけであれだけのアクセスがあるのだから、なんとなくその辺の事を利用しながらその「ひろぶろ」へのアクセスを流入させるべく似たようなサイトを作れば少なくともかなりのアクセスが望めるのではないか・・・

で、「ひろぶろ」閉鎖直後から、「2代目ひろぶろ」などという超あざといブログが開設された事も知っていた。

元祖ひろぶろとまったく似つかないそのサイトを観ると、若干の憤りと嫌悪感すら覚えたもの

初代nejire氏の許可なんて絶対取ってないと思うし、やっぱりその狡猾さというかアザとさに共感できないので、あえてこのページではリンクを貼らない

最近フトまた改めて2代目ひろぶろを覗いてみると、どうやら全記事を削除して事実上の閉鎖状態にあるようだった。

でだ、

3代目ってあるんだろうか・・・?と思って「3代目ひろぶろ」で検索してみると、

おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!

凄ええええ!!

ほぼ初代のレイアウトで既に始まっていました。

サイト内を色々見てみたけど今度の3代目はプロっぽい感じもするし、かつての「ひろぶろ」を彷彿とさせるレイアウトのきめ細かさは かなりリスぺクト出来る。

今度の3代目ひろぶろは良さそうだ。

今回のはかなり信用できそうなので、このページにもリンクを貼らせてもらおうと思う。

えんたんぬ哲学の道では、自ら3代目ひろぶろを始めたのにもかかわらず、まるで知らない誰かが三代目を継承していたかのように書いているのも興味深いです。

結論

現在のひろぶろの管理人hineri氏(=エンタン氏)はもともと初代ひろぶろのファンであったものの、ひろぶろの閉鎖考察記事を書いたところ、急激なアクセス増加を体験。これにより本来の目的であるはずの初代ひろぶろの「ファンのためのブログ引継ぎ」が二の次となり、「アクセス数の引き継ぎ」が目的となっていったように思います

もともと多数のブログを運営されており、アクセス集めに関し非常に興味をもっていたことは、運営しているブログからもうかがい知ることができます

二代目に関して、nejire氏に許可を取っていないことを狡猾だ、あざといと自らの文章で言及していたのに、実際には二代目と同様nejire氏に許可をとらず、「3代目ひろぶろ」でスタートしていたブログ名も、ひろぶろのドメイン取得と共に「ひろぶろ」というオリジナルと同様の名前に変更してしまっているのは、なんとも皮肉な結果です。

関連リンク

2012-09-18

http://anond.hatelabo.jp/20120918154703

音楽とかもそうなんだけど、技能教科って基礎からしっかり教えるためのものじゃなくて、世の中にはこういうものがあるんですよって体験させるためだけのものなんだよね。

基礎からやりたければクラブチームとか絵画教室とか書道教室とかスイミングスクールとかに行けっていう事なんだと思う。

で、俺の意見としては、体験させるだけにしては授業時間が多すぎ。あと「体験」と「評価」はそれほど相容れるものでもないので通知表に載せる必要なし。

運動の習慣ですらそのやり方を教えないからね。学校は。筋トレならこういう種目をこういう器具を使ってどういうタイミングでどのくらいやっていくのか、とか。基本的に教えない。

体験にすぎないなら最初に「これは体験に過ぎない」ってハッキリ宣言してくれればいいのにと思う。

2012-07-30

そんなマネできません

アラフォー差し掛かる今頃になって気づいたことがある。

どうやら自分は「他人の動きを模倣して覚える」という行為が一切できない人間らしい。


思えば不思議だった。

学校の体育の授業でやる諸々のスポーツ、皆習っていないのになんであんなに出来るのかと。

子供ながらに友だちに訊いて「えー他の人の見てたら普通にできるじゃん」と言われた記憶がある。

「へーそういうものなのかー」と思い自分も試みたんだと思う。

そこから見よう見まねでできた!という経験は今の今まで皆無だった。

結果、自分は今の今まで立派な運動音痴で来てしまっている。


何故見て覚えられないか

多分なんだけど、全体を俯瞰しつつ、同時並行的に人の各部の動きに注意することができない上、どうでもいい所に注意が行ってしまっているのだと思われる。

それに全身を使わないとこなせない理由もわからない。

例えばボール投げだったら投げる方向に対して体を利き手側に向ける、足を開く、利き手を後ろに引く、利き手の反対側の足を踏み込んで体重移動するetc.ということを把握できない。それどころかボールばっかり見ている。更にはそれで「女の子投げ」より遥かに遠くボールを飛ばせる理由が分からない。

ちなみに具体的な投げ方だけは後述のテニスの知識と、つべにあったボールの投げ方の動画からヒントを得て「ユーレカ!」となった。でもテニスやってなかったら動画見てもチンプンカンプンだったと思う。


でも全ての運動ができないわけではなく、弓道については段位を持つ程度にはなったし、テニスは少し通ったカルチャースクールダブルスゲームもどきができるくらいにはなった。あと水泳スイミングスクール行ってたかクロールくらいなら普通にできるし、スキーも高校の宿泊学習(ry

まり教本読むなりマニュアル読むなり指導者につきっきりで教えてもらうなりしてやり込めば、無難にこなせるくらいにはなるのだ。

そういう経験もあって、体育の授業や休み時間に遊ぶ程度のスポーツなど、部活やそれ以上に本格的に取り組むのに比べたら「素人のお遊び」でしかないことは分かる。


しか素人レベルですらこなせないとなると、スポーツを通じた他人との交流は全く望めないわけで。

フットサルとかビーチバレーとかソフトボールとかバスケとか、どれも全くできない(体育の授業を平均点でクリアした人ならその延長で問題なくできそうなのに)。

それも超初歩の、ボールの蹴り方・投げ方・バットの振り方・アンダーサーブの打ち方・シュートの打ち方からからない。

球技以外だと逆上がりとか2重飛びもできなかったり。


まあ今のところ、周囲とのコミュニケーションスポーツ必要な機会は皆無だからいいけど、周りができることが全くできないままなのはちょっと嫌だ。

といってもどうやって身につけるか見当もつかないし。

見て覚えられないなら本買うか、具体的にダメ出しする系の指導者に頭下げて教えてもらうしかない。

でも普通だったら見て覚えられるレベルの内容まで、詳細に書いている本が売っているとは思えない。

それに指導者だって、そのレベルからできない人なんて想像の範囲外な気がするし・・・

2012-07-24

http://anond.hatelabo.jp/20120724115037

もちろん、手当たり次第というわけではないつもりで、何度かデートして、付き合いたいな、彼女にしたいなって思ってから告白にしているよ。

でも、半年一年かけて気分をたかめていった場合に比べたら、まだよくわからない、なんとなく好きレベル告白してるとも言える。

しかし、「彼女を欲しがってる男」と「彼氏を欲しがってる女」という触れ込みでマッチングされた男女が、まずは友人として交友を深め、一年も二年もかけゆっくりお互いの気持ちをたかめて行き、晴れて結ばれる。

なんてありえるんだろうか?

欲しいのは友人じゃ無いでしょ?

水泳仲間が欲しかったらスイミングスクールに通えばいいし、だれかと登山がしたかったらそういう市民サークルに通えばいい、そういうのじゃなくて、恋人が欲しいということでノコノコやってきた2人だもの

気持ちの高まりは、全くなしとは言わないし非常に重要な部分ではあるけど、数回のデートでアリかナシかで(拒絶の場合であっても)結論を出さないとならないのでは?

たまたま高頻度で紹介され、僕としてはアリだから交際を申し込み、彼女たちからみたらナシだから拒絶された。

極端に言えば、拒絶された理由は、ナシだから、ということに他ならない。

ナシというのが、どういう理由でナシなのか。

少なからず、友人が「彼女を欲しがってる男」として紹介しているということは、友人基準で行けば紹介できる、彼氏としての基準はクリアしてるはず。

しかし、紹介された女性からはナシ。

友人基準というのは所詮客観論で、自分彼氏にしたいという基準じゃ考えてない。

当事者としては、「付き合う」と「セックス」と「妊娠」は切り離せない。

まり、究極的には、コイツの子供を孕めるか、つまり生理的に受け付けるか、ではねられているんじゃないかと推察してる。

もちろん、人の好き嫌い、とくに理屈抜きでの好き嫌いに関しては、個人差で、絶対評価じゃないと思ってる。

「面と向かって嫌いだ」

クラスの誰に言われようと、親に言われようと、それはそれとして受け止めることが出来るくらいに真っ当に育ってきた。

はいえ、ちょっとくらい凹むし、たんなる個人の相性なんかじゃなく、改善可能なものだとしたら、改善しないと損だ。

就活で落ち続けたくらいで死ぬというのはアホな理屈だけど、落ち続けていいもんじゃないでしょう?

というわけで、これからも紹介があれば、会うし、会ってみていいなと思ったら付き合って欲しいと言うつもり。

それと並行し、自分に足りない部分を補強し、矯正しなければならない部分を矯正する。

追記

すこし補足すれば、まったくの別ルートなので、女同士の情報の共有はありえないと思う。

高校の同級生であったり、大学の後輩であったり、やめていった職場パートさんであったりetc...

最後職場の後輩とパートさんは同じ職場で重なった時期が若干あるが、交友は聞かない。

どこに行ってもぼっち飯の自分に、5年も6年も連絡を取っていない友人から電話があると、

「ああ、選挙近そうだしな。こいつ創価学会だったのかな。」

と勘ぐってしまうんだが、そんなことはなく、嬉しいことに女性の紹介を受けるので、この機を逃すわけにはいかないと思ってる。

2012-07-10

いじめについて

いじめられた経歴を話すのは恐怖を伴う。

いじめられた履歴は不思議いじめを誘いやすいように思う。

いじめられていたことが、なぜかレッテルのように見える。

まるで原因がこちらにでもあるかのように。

ぼくは精神的ないじめはあまりうけてこなかったので、いじめ全体のなかから見ると比較的軽度な部類にはいると思うけど、肉体的な苦痛もそれなりに辛かった。ごくごく親しいひとにしか話せないので、記録としてここに書いておく。

記憶にある限りでは最初いじめ小学生の頃。通っていたスイミングスクールでのこと。

親に連れていかれて入ったスイミングスクール

いじめられるようになったのは小学校の高学年になったころだと思う。

の子たちが来ているときは、ぼくはいつも沈められた。

プールに沈められるのはとても苦しい。あたりまえだが息ができない。

自分限界まで息をとめるのとは苦しさの質が全然違う。

「これ以上もう無理だ。って思ったときにプハァーってできない」って思う恐怖がもの凄い。

行けば沈められるんだけど、プールのもの、泳ぐことそのものは好きだったから、誰にも言いだせなくて通い続けた。

いま思えば死と隣あわせの状況だったとも思える。

スイミングスクールでのいじめは、いじめられている子が訴えない限り、スクール先生が気づけることは少ないと思う。これを読んでいる保護者の方がいらっしゃいましたら、そのところは注意しておいたほうがいいと思う。泳いでいる子のフォームの指導をしている間に、待っている列で沈められている子がいても、まず気づかない。

次はサッカー合宿でのことかな。宿舎でも試合中でも無視され続けた。これはそのときは、自分が下手だからと言い聞かせてやり過ごした。

それから中学校にあがって。一部のメンバーからありとあらゆる雑務を押しつけられた。彼らの機嫌が悪いときには羽交いじめにされたり、花瓶から水を飲まされたりした。3人がかりで、1人が鼻をつまみ、もう1人が顔の正面から両方の頬をつかむように握力を込めると、口をあけずにはいられない。そこに最後のひとりが花瓶からの水を注ぎ込む。これは苦しい。ムせる。あと、なぜか恥かしい。別に悪いことしてないのに、教室の真ん中でこういう儀式をされて、それをクラスの子に見られているというのが、とにかく恥かしかった。

高校に入ってからは多少の仲間はずれなどはあったものの、明確にいじめと呼ばれるようなものを受けることはなかった。ただ、いじめられていたことを知られるのは怖かった。新しい環境でもいじめが再発しそうで。

それから大学に入り楽しい学生生活を送るようになり、いじめ過去のものと思えるようになった。

からサークルの先輩マネージャーから松田くん(仮名)、高校のときいじめられてたんだってw?」と聞かれたときは飛びあがるほど驚いたし、黒い幕がおりてくるような感覚に襲われた。

いまでも、いじめられていたことを話すのはとても怖い。

どんな環境であっても、まったく身に覚えがなくても、突如ふってわいたかのようにいじめは発生する。

自分のもとにいじめが発生しないためなら、できる限りのことはしたいと、大人になったいまでも常におもう。

からいじめ過去を話すことはない。

社会人にもなり家を出た後に、母親いじめられていたことを話したら号泣していた。

あたりまえなんだけど、やっぱり知らなかったんだなあと思った。

僕は自分いじめられていたのを、自分にも責任があるとずっと思っていた。だからどうすればいじめられなくなるか、もしくはどうしたら新しい環境いじめられないまま過ごせるか、ずっと考えていた。大人になってから知人(僕がいじめられていたことは知らない)から、「いじめはいじめられる方は悪くない。理由もなくコトがおこる。いじめられる方にまったく非がなくてもおこるから怖いんだ」と聞かされて、なんだかスッと気持ちが軽くなった。

あれだけ環境が変わっても、そのたびにいじめられてきたので、自分にもいじめられた原因があるといまでも思っている。けれども、その知人が言ったように世の中にあるいじめでは「いじめられる側も悪い」という発想は絶対にしないようにしている。

社会に出て気づいたことがある。

会社でもなんでも大人の世界でも小さないじめが多い。

いじめる側もそれがいじめだと思っていないかもしれないし、もしかしたらいじめられる側もそうとは認識していない可能性がある。いじめ経験や、いじめられた経験がないと、感度が高くないのかもしれない。けれど僕の目から見ると、超軽度なだけで、構造は完全にいじめだよなと思える現象がたくさんある。

ちなみにいじめ正義感の強い誰かが止めてくれたりすることは、まずないと思ったほうがいい。誰もいじめられたくないわけで、いじめを止めるのはハイリスクローリターンの行為しか思えないからだ。

いじめられたくないという強い気持ちがいじめ助長していることも忘れてはいけない。

2012-04-20

http://anond.hatelabo.jp/20120420151507

女の子は比べられるのが大嫌いなの たとえどんな友達とでも

深田恭子の「スイミングから

自分が他人と比べられるのがイヤなら、まず他の人にそれをするのはやめましょう。

2012-01-07

http://anond.hatelabo.jp/20120106185927

http://anond.hatelabo.jp/20111230232131

確たる才能もないつまらない人間であるぁたしゎ結婚相手への最低限の条件としてぇ~

首都圏に4LDKの自宅マンション子供には小学生から中学生にかけて1~2年置きに海外旅行に連れて行く

子供には中高一貫私立中学に行かせ、比較的金のかかる私大に行かせ、塾とピアノスイミング習い事もさせる

・妻は専業主婦で、手芸料理などの習い事教室によく通い、ジムにも

お金のかかるアウトドア系の趣味お金を使っても生活に支障なし

年収1000万以上稼ぐ

ような人が理想結婚相手でぇーす!キャハ☆

で、まとまったかな?

私の場合自分のことは自分で稼がないと、と思ってた(多分そう育てられた)ので、相手に何でもクレクレはありえなかった。結婚で退社とかありえない。定年まで働くし、もし給与が足りないならバイトもする気でいる。生きていくため、自分理想?の生活のためならやれることはやる。

「働かざるもの食うべからず」とまでは言わないけれど、両親とも働いていたし、祖父母もかなり高齢にもかかわらず、ずっと働いていた。社会とのつながりを絶ちたくないというよりは、祖父母こそが「働かざるもの食うべからず」的な発想だったようだ。

祖母はかなりいいところのお嬢様だったが、家族の中では末っ子乳母に育てられた。が、親だか兄弟が金遣いが荒く、家が凋落し、幼少期に親戚の間をたらいまわしにされたらしい。そこで彼女は生きるためには手に職をと考えたようで、高齢になっても年をごまかしてまでパートに出ていた(ぉ

祖父はある土地の大地主であったが、家を継がず、考えがあって大学に行き、公務員になってた。

祖父母の家は祖父の実家よりも劣悪な家庭だったと思うが、親を見るとそれに対してどうこうというのはない。祖父も自分で決めた人生に対しては特に親がこうだったからという考えは持っていなかった。

からの庇護をアテにして生きてきた子供は、ずっと誰かの庇護をアテに生きていくしかないんだろう。そういった教育を受けてしまったのだから。↓これにはぞっとした。

父も似たような調子で、彼氏を紹介すると両親共に、彼氏の肩書きに失望するんだ。

社会に出たら(20代になったら)多様な生き方は周囲にあるし、選択肢も見えてくるはずなんだけどなあ・・・

私の場合は、親って子供を「金」で育てるんじゃなくて、どんな状況でも生きる術を教えるべきなんじゃないか勝手に思ってる。

「金は無くなったり盗まれるが、身に着けたもの教養仕事術)は盗まれたりしない」と親は言っている。

2012-01-04

http://anond.hatelabo.jp/20111230232131

じゃあ女だてらに年収1000万稼げって?あはは、出来たら苦労しないよ。

夫婦正社員フルタイムならダブルインカム1000万円いかいかね? 20代だと厳しいかな。

30代なら年収500万越えるのはいるでしょ。 君の層なら尚更いるんじゃない?

元増田自身は世の中よく見えてるし、自分過大評価してる訳でも男性の状況が分かってない訳でもない。

父親の説得がハードルになってるなら、

・今は男女平等ダブルインカム当たり前。妊娠出産産休、育休時代生活レベル下がるけど私は受け入れるよパパ。

高度成長期前後生活レベル変わりすぎだよ。 お父さんとお母さんが結婚した時、どんなだったのよ。

 (というのは、元増田の4LDKのマンションって結婚当初のものか?って疑問がある。

 経済力があれば古い4LDKには住んでないような。結婚当初はもっと貧しいんじゃないか?)

でも落ち込むんだよ。育った環境よりも、自分の子供に提供できる環境が劣ることに腹が立つんだよ。

いろんな物が安かったり、手軽に品の良い輸入品を買えたりするのは最近の良いところじゃないかねー。

スイーツの種類も増えたじゃない? あと可愛いものも増えた。

小学生から中学生にかけて1~2年置きに海外旅行に連れて行ってくれたし、

中高一貫私立中学に行かせてくれたし、私大の中でも比較的金のかかる私大に行かせてくれたし、ずっと塾とピアノスイミング習い事もさせてくれていたし、

これは無理だが。

君自身、親から高度な教育教養を与えられて、今の仕事についてるんだろう。

から『親同様の教育子供に与えなければ』みたいに思うのかもしれないけど、

まぁそういうケースばかりでは無いし、日本全体が貧しくなっていくのであれば、君の子供は相対的に優秀でありえるんじゃないかね。

2011-06-01

嫁がまどか☆マギカにハマっておかしくなった。

今までは本当に普通のいい嫁だった。

俺が朝起きれば食卓には朝食が、夜疲れて帰れば疲れも吹き飛ぶような笑顔とお風呂においしい夕食。

趣味はと言えば、手芸お菓子作り、あとは週に一回のスイミング

少しドジで可愛くて優しくて、しか巨乳で本当に自分にはもったいないくらいの嫁だと思っていた。

そんな彼女がおかしくなったのは、深夜偶然見せてしまったあのアニメのせいだった……

俺は仕事帰宅があまり早くなく夕飯を食べた後、ひとりで深夜遅くまでテレビを見る習慣がある。

あの日もそんな日だった。

俺はひとりで深夜、なんとなく毎週見ていたまどか☆マギカの第三話を見ていた。

マミさんがマミられる、あの回だ。

リビングで見ていると、突然眠そうなパジャマ姿の嫁が現れた。

「なに見てるのー?こんな時間アニメ?」

嫁は冷蔵庫から出してきた麦茶をコップに注ぎながら聞いてきた。

「うん、まどか☆マギカって言うアニメだよ。おまえも見る?」

「えーどうしようかなあ」

嫁はチラッとテレビ画面を見た。

いつもならここで「眠いからいいやーおやすみ」と言って寝室に戻ってしまうのだが、この日は

「そうだねー、明日休みだし、付き合ってあげますか!!」

そう言い、俺の座っているソファの横に座ってきたのだ。

初めて見るまどマギに嫁は「このピンクの子が主人公?魔法少女なの?」とか「黄色、かわいー」とかキャッキャしながら見ていた。

が、やはり途中から飽きたらしく携帯をいじり始めていた。

そして、あのシーンがくる。

マミさん……!!

「えっ!?」

声をあげたのは嫁だった。

「えっなになに、黄色食べられちゃったの?」

「あ、見てたんだ」

「半分見てたよ。なんなの、このアニメ

「だからこれは……」

意味わかんない。このアニメってネットでも見れるの?」

「たぶん見れるよ。明日さがしてみようか」

「お願い」

そう言ったっきり、嫁は黙って食い入るように画面を見つめていた。

そして次の日、嫁と俺でそれまでのまどマギを全て視聴した

その後からだった。嫁の様子がおかしくなったのは。

朝はご飯を作ってくれるのだが、急に立ち上がって窓を見つめて

「きゅーべー……」

と呟きだしたはまだ序の口で、こないだなんて家に帰ったら

今日の夕飯はないから……」

と暗い顔で出迎えて

「なんで!?」

と聞いたら

円環の理に導かれたのよォォォォ!!!!」

そう叫んで寝室に閉じこもってしまった。わけがからない。

そしてきわめつけはベッドの中で夜の夫婦生活をお願いした

ティロ・フィナーレ!!」

と言われ玉を思いきり握られ夜の生活を拒否された。

ほんとうにこんなのおかしい……絶対おかしい!!!

俺の優しい嫁はどこに行ったんだよ!!!

そして、嫁は外出が増えた。

ネットで知り合ったという自称魔法少女達と日夜ファミレス会議を繰り返しているらしい

こないだ一度だけ、その魔法少女達が我が家にやってきた。

まどか1人と杏子1人、それになぜか人型のキュウベエ、マミさんにいたっては嫁を含めて3人いた。

もう何が何だかからない。わかりたくない。

一応、挨拶をして俺は部屋に閉じこもった。

部屋の外には異空間が広がっていて一歩も外に出られなかった。

まどマギ三話を嫁に見せたあの日からうちは変わってしまった。

おいしい手料理も優しい嫁もどこにもいない。

本当にどうしてこんなことになってしまったのだろう。

もしも本当にキュウベエが存在するのなら、俺は迷わずキュウベエと契約して「嫁を元に戻して!」と契約しようと思っている。

自分の命と引き換えだってかまわない。

から、お願い。

誰か俺の嫁を元の優しい嫁に戻してください。

2010-07-19

サボり魔は一生そのままなのか?

私はサボり魔である。筋金入りで予後不良の。

幼少の頃から厭なものから逃げ続け気がついたら三十路になってた。そんな私はサボり癖が元で精神を病み社会生活を送れない体になってしまった。

ふつう精神疾患なら投薬と適度な休養で概ね治るはずなのだが、私の場合はサボり癖という精神疾患の根元になるものがあるので質が悪い。投薬も5年以上続いているし、休養も自分でもうイヤだと思うほど取った。でも治らない。ある程度回復したと思い就職活動して仕事を始めるが長続きしない。そしてクビになってまた精神的にダウナーになり休養が必要になる。こんなのを何度も何度も繰り返した。真面目に職歴書いたら30近くになるんじゃないだろうか。20代もそんなのに翻弄され暗黒の時代、黒歴史になった。気がつけば三十路である。もう後はない。

少しづつ焦りだしてきた私はふと考えた。何故こんな風になってしまったのだろう、と。

私のサボり癖の根元を語るには幼少の頃からの話をしなければならない。


私がまだ幼稚園にも入る前の事だ。当時の私は英語に非常に興味を持っていた。よく買い物に出かけた横浜駅ジョイナス地下駐車場英語ブロック分けされていて、それを見て初めてアルファベットという物に触れた。何故か判らないけどアルファベットが非常に気に入ってしまい英語という物に少しづつはまるようになった。

ある日TV英語教室CMをやっているのを見て母に「これかよいたいー」とせがんだことがある。母はその申し出に協力的で父に頼んでみる、と言ってくれた。それを聞いてワクワクしていたのを覚えている。

しかし父は「まだ習い事するなんて早い!」と、私の幼い願いを一蹴した。英才教育なんて言葉があった時代か判らない。グローバル化のグの字もまだ無い時代だったし英語の将来性を見いだせなかったのかもしれない。ともかく私の願いは絶たれてしまった。

そのことについて父を恨むつもりはない。でもちょっと根に持っている。だってもしその時英語教室に通っていたら私の人生は大きく変わっていただろうと思う。飽きっぽいけどのめり込む時はとことんのめり込む私のことだ、通訳とか外資系エリート・・・なんて言わないけど少なくても英語には不自由しない人生を送れたかもしれない。

それから数年の時が過ぎ私は小学校3年生になった。

ある春の日のこと、私は父に呼び出された。そして「出かけるぞ」みたいな事を言われ、半ば強引に車の乗せられて駅前のダイエーに連れて行かれた。何が起こるのか全く判らない私、何も言わず私の手を引っ張る父。?マークを頭に3つくらいグルグル回しながら連れられて行き着いた先スイミングスクールの上の階の階段を下りた先の小さな部屋だった。父は「ほら行け」と言わんばかりに私をその部屋に置いてどこかへ行ってしまった。

何ここ何が起きるの?

幼いながらも恐怖した。

部屋には私と同い年くらいの子供が数人いた。大人も何人かいて、何か冊子のような物をを配っていた。私の順番がきて冊子を渡される。そこでようやく理解した。冊子の中身は全て英語だった。

父がどう心変わりしたのか判らないけれど、私は数年越しに英語教室に通うことができたのだった。

しかし、だ。

それは遅すぎた。

小学校3年の私はもうすでに英語に対する興味を失っていた。正直、いまさら?だった。

それから4年間英語教室に通った。楽しいこともあったし、友人もできたけど根底にあったのは「苦痛」だった。

その苦痛が形としてでることがあった。それは「逃避」。有り体に言うとサボリだ。一人で自転車ダイエーに行くのでサボることがバレることは基本的に無かった。何度か買い物に来た母親にサボってコロコロ読んでるところを目撃されて大目玉を喰らったことがあるがそれでもサボる事は止まらなかった。年数が経てば経つほどサボリはエスカレートしていき週一回の教室に月3回サボるなんて酷い事態になることも多々あった。何が厭だったのかは今となっては思い出せないがサボりたくなるくらい苦痛だったのは覚えている。

小学校5年の時に友人の誘いで公文に通い始めた。

初めの頃は問題もスラスラ解けて楽しかったのだけど、ランクが上がって難しくなってくると少しずつ「苦痛」になってきた。苦痛になると私は逃避を始める。サボリ始めたのだ。きっかけは些細だった。友人が「今日サボんね?」と言ってたのだ。それに乗ってしまって後はそのままズルズルと・・・。これも週二回の教室で月数回しか通わない程になり公文講師のおばちゃんに「ちゃんと毎回来なさい!」と毎回言われたものだった。

それから中学に入って少しして英語教室は辞めた。学校でも英語の授業が始まったしこれ以上受ける意義を当時の私は見いだせなかったのだ。

公文はサボリながらも中学卒業まで続けた。高校受験の時はさすがに真面目に公文勉強した。でもそれは友人が周囲にいっぱい居たからであって、私一人だけだったらどうなっていたかは判らない。

義務教育が終わりを告げ私は高校生になった。

一番の志望校じゃなかったけど目標にしていた地元の公立高校に入学した。

高校時代は楽しかった。今までの人生で一番楽しかった。友人もたくさん居たし、心から楽しいと思える授業もいくつかあった。そのせいもあって驚くことに三ヶ年皆勤卒業式の時に表彰されメダルを貰った。

なんというか極端だな・・・と。

しかし、その影にも私の逃避、サボリ癖はあった。

高校では三年間図書委員だった。特に理由はなかったけれど図書委員になっていた。

図書委員の活動は図書室の貸出係の業務と月一回の委員会活動があった。貸出係は昼休み放課後に当番であったのだけどこれに私は全くでなかった。当番は殆ど放課後だったのだけど、早く帰ってゲームしたい盛りだった私はとにかくサボってサボりまくった。たぶん3年間で10回出てないんじゃないかと思う。委員会は強制参加なので仕方なく出たのだがその時よく「貸出係をサボる輩が居ます。ちゃんと出ましょう!」とほぼ名指しで委員長に言われることがあった。挙げ句には「てめぇいい加減にしやがれ!!」とキレられたこともある。それでもゲームがしたい、寝たいばかりにさっさと自転車で家に帰る自分が居た。救いようがない。

この頃まではサボっていても何とか回っていた。学力はそこそこあったしテストでも苦手科目の数学以外はそれなりの点数を取っていた。

しかし、だ。努力する者としない者。その差をまざまざと見せつけられることになると当時の私は知らなかった。

高校二年の冬のこと。そろそろ大学受験視野に入れなければならなくなってきた。周囲でも予備校に入学して対策を講じる者が増えてきた。

私も「予備校かー、どうしようかなー」と脳天気なりにも意識し始めていた。ある日、図書室の前にあった予備校案内のチラシを見て何枚か持ち帰り検討し、その中から一行選んで入校することにした。両親は特に何も言わずに入校を許可し私は予備校に通うことになった。

地域ではマイナー予備校だったが友人もいることが判り喜び勇んで予備校行く・・・はずだった。

予備校は私が想像していた以上に過酷なモノだった。英語は毎回英単語テストがあったし数学は高校よりもずっと高度だった。正直ついていけなかった。ついていけない結果はテストダイレクトアウトプットされる。志望校合格ランクDとかEとか当たり前だった。

今までどうにかなっていたモノがどうにかいかなくなってしまった。劣等生。そんなレッテルを貼られた気がした。

それはとても苦痛だった。苦痛苦痛で仕方なかった。

苦痛の先にあるのは小学校からやらかしているサボリ、だ。

高校3年になって予備校に行かなくなった。辞めたわけでなくサボるようになった。劣等生な自分を認めるのが厭だった。劣等生であるという事実を突きつける予備校に近づきたくなかった。英語の授業は友人が来いとうるさかったので月に数回出た。数学は全くついていける気がしなかったのでチューターの人に怒られるまで殆ど出なかった。高3から受講し始めた化学は授業がすごく面白かったし得意科目で余裕でついていけたのでこれだけは出席率が高かった。それでも7割ってところだけど・・・。

がんばった者とがんばらなかった者

努力した者と努力しなかった者

逃げなかった者と逃げた者

そんな二通りの人間審判が下される時がきた。

大学受験--

無論私はボロボロだった。無惨だった。

センター試験自己採点。数学は2点だった。得意の化学でも5割いかなかった。

死を覚悟した。

一般入試が始まった。

私は高校担任教師の薦めで無名のFラン大学化学科を受けた。目標にしていた大学は「絶対に無理だからやめろ」と言われた。返す言葉もなかったので大人しく言われた大学受験した。

結果。補欠合格

はは、引っかかちゃった。

当時の私は安堵した。浪人生活をしないで済んだから。浪人は落第者で敗北者だと思っていた私は本当に喜んだ。

でも、気がつかなかった。おまえは運が良かっただけだ。

だって・・・「努力したのかい?」

大学生活が始まった。中学からずっと同じの友人が一緒の学校だったので初めはよく一緒に登校した。学科は違ったので登校と昼休みくらいしか一緒ではなかったけど知る人が居ない学内ではとても安心できるものだった。

大学1年の授業は楽しかった。特に有機化学と分析化学が好きだった。2年から生物化学の授業があってそれを目標にしていきたいと思った。

しかし、異変は訪れる。とある教科を落としてしまった。有機化学の概論。難しい授業だったけど好きな授業だった。ただ落としただけなら来年取り直せばいいだけなのだが、この授業はとても大きな、そして致命的なものがあった。

この教科を落とすと生物化学を受講できない

偏屈で有名だった生物化学教授が設けたハードル。私はものの見事にそれに引っかかってしまったのだ。

何かが壊れた。

大学2年。目標生物化学を受講できず腐った。さらに悪いことにほかの授業が難しくなった。特に物理化学は私が苦手だった物理概念が入って手に負えなくなってきた。

大学苦痛になった瞬間だった。

苦痛になると訪れる甘い囁き

「逃げちまえよ」

それにあがらえる訳がなかった。

初めは大学内の図書館で本を読むだけだった。それから街のゲームセンターになって・・・兎に角大学に近づかなくなった。金だけは親から必要額貰っていたので不自由はしなかった。適当に旅に出て時間つぶして家に帰るとかざらだった。

努力した者と努力しなかった者

その差は歴然と表れる。

次の年、私は留年ギリギリだった。

いままでどうにかなっていたものがどうにかならなくなった。

背中に火を付けられたような感じがした。

兎に角焦った。

焦って勉強をする。でもついていけなかった。下の学年の授業を受けることも多々あった。誰あいつ落とした上級生?だせぇ。そんな声が聞こえてきた気がした

屈辱的だった。変にプライドの高い私には凄まじく苦痛だった。

苦痛を感じると出てくる麻薬のような囁き。

「ニゲチャイナヨ」

でも逃げると今度は留年だ。

逃げちゃダメ

逃げちゃダメ

逃げちゃダメ

14歳の少年は逃げずに立ち向かうことを選択したのに20歳のアホは逃げることを選んでしまった。

このあたりでだんだん精神的におかしくなってきた。

不安焦燥感、誰かに笑われてる感覚、必要以上に自分を責める。木の棚にカッターで何度も切りつけて酷い跡が残ったこともあって母親にそれを見られて酷く心配されたことがあった。

ロクな精神状態じゃないときにロクな思考はできない。

真っ暗な夜道の中をひたすら逃げているような状態だった。

次の年の春。私は留年した。

その日私は父親に叱責された。この後どうするんだ、と

ロクな精神状態じゃなかったので思考は回らず兎に角逃げることしか考えられなかった。

がんばるから、がんばるから

この時はそれで何とかなった。

留年生活のことは正直覚えてない。思いだそうとしても頭がアクセス拒否をする。

唯一判るのは焦ってどうにもならなかったこと。そして逃げ回っていたこと。

翌年、再び私は留年した。

二度目の父との対話。

今度はなかった。

こうして私は大学中退した。

そして社会に放り出された私は働かなければならなかった。当時は引きこもりニートという言葉もなかった。父親には働けと強く言われたので働くしかなかった。

ハローワークにあししげく通って何度も何度も追い返されてとある会社研究所に拾われた。

そこは農薬を作っている会社研究所で初めはそこの農場のアルバイトと言うことで面接を受けた。

でも、せっかく化学バックグラウンドがあるんだしということで話が少しぐらついた。

とっさだった。とっさに私はこう言った。

お金貯めて大学に復学したいんです!」

何でこう言ったのか今では判らない。

しかしそれは項をそうした。「じゃあそういうことなら勉強する意味も込めて」と研究所助手採用してくれることになった。

運が良かった。

研究所での仕事は本当に楽しかった。学校で習いきれなかった事も学べた。とにかくがんばったので会社も評価してくれた。

「今はアルバイトだけどがんばったら正社員にもするよ」なんて総務の部長さんが冗談めいて言ってくれた。

本気にしてがんばろうと思った。

でも、なんでなんだろうね。上手く行かないときはとことんうまくいかない。

入社して少し、変な奴が研究所にいると言うのを知った。

ほぼ同じ歳で今年正社員入社。しかも京大大学院卒。

「同じ位の歳だし仲良くしたら?」と言われてそいつに会いに行った。

すんげぇイヤな奴だった。

京大大学院卒というのをさりげなくアピールしてFラン中退の私を見下してくる。

正直あんまり関わりたくなかった。

ある日、通勤バスの中でふと考えた。

なんでだろうって。

殆ど歳同じなのにあのいけ好かない奴は京大大学院卒で正社員、私はFラン中退バイト。この差はなに?

それがずっとこびりついて離れなかった。

それはそいつと顔合わせなくても研究所内に居るだけで考えてしまう。

苦痛」だった。

とにかくとにかく苦痛だった。

また別の日、通勤バスに乗っていると不思議なことが起こった。

降りるべき停留所に近づくにつれて妙に息苦しくなるのだ。そして頭が真っ白になって「ニゲロゲロ」って告げてくる。

そして降りるべき停留所が来た。

降りられなかった。

こんなことは初めてだった。なにが起きたか判らなかった。

その日は慌てて次のバス停で折り返して事なきを得た。

それから数日同じ事が何度も何度も続いた。症状はエスカレートする。降りるバス停が延びていき遅刻が酷くなる。それを上司に注意されたら今度は体調不良で休むととっさに電話で言うようになってしまった。

さらに数日して何とか出勤できた日、所属部長に呼び出された。

最近休み多いけどどうしたの?」

怒っているわけでなく本当に心配しているようだった。なので症状を正直に話すと

「無理はしないようにしてほしいけど、勤怠が悪いと正直こっちも困る」

と言われた。

その日早退し精神科を探した。

小さなクリニックで老医師がこう言った。

「そりゃウツだ」

そう診断され一日三日分のホリゾンを貰った。

ホリゾンを飲んだけど少しぼんやりしただけであまり変わらなかった。

それからも朝の戦いは続いた。負け戦ばかり。

休みが10日ほど続いたところで家に電話がいった。

「大切な話があるから明日は必ず来るように」



翌日。何とか私は出社した。

研究所入り口総務部長が待っていた。

そのまま会議室に連れて行かれた。

そこには研究所の所長と所属部長が居て3対1の面談が始まった。

単刀直入に言う。辞めてくれないかな?」

総務部長がそう言った。

そのときの私は妙に冷静でその言葉意味もきちんと理解した。

あぁ、クビか。

後は事務的に話は進みその日のうちに私は解雇された。


それからいくつかの会社を転々とした。

どこも悪いところではなかったけれど、必ず不思議なことが起きた。

朝起きて家を出ることはできるけど電車バスで最寄り駅に近づくと呼吸が荒くなって怖くなる。頭は囁く「ニゲロゲロ」と

そんな状況に陥り全く出社ができなくなってしまったのだ。

最長で半年、最短で一日。これはクビになるまでの日数。

職歴は正確に書くと30は行くんじゃないかと思う。

ここ1・2年はさらに酷くなり、部屋から出られなくなってしまった。

朝起きてその時点で恐怖発作と「ニゲロゲロ」という囁きが頭を支配する。

精神科にはもう6年かかっている。

はじめはホリゾンだけだったけど今は抗鬱剤3種類と抗不安薬睡眠薬まで貰って飲んでいる。

挙げ句には自立支援の申請をして精神障害者手帳まで交付された。

ふと思った。何でこうなってしまったんだろう、と

最近また会社をクビになったので少し考える時間ができた。で、考えを整理するためにこれを書いている。

結論を言うと私のこの病気の根元は「サボり」だと思っている。

苦痛」からの「退避」。小学校の頃の英語教室からずっと続いているこの癖。これが原因じゃないかと考えている。

おそらくこれは正しい。

正しいことは判ったが対策がわからない。

生来のサボり魔たる私はどうしたら正常の社会的な生活を送れるのだろうか?

そもそも私の病気は何だ?

鬱病適応障害?それともただの怠けでサボリなのか?

精神科で投薬治療は受けているがこれだけでは改善にいたっていない。というかここ最近悪化しているとすら思う。直近でクビになった会社では不安の恐怖、あと鬱的思考から自殺をほのめかすメールを送ってしまい大騒ぎになった。

年々悪化しているこの「現象」

いったいこれは何なんだ?

どうしたら治るんだ?

どうしたら社会的な生活を送れるんだ?

だれか、教えてほしい

2010-04-02

おれは、ゲームが作りたいんだ。


 小学校の頃に「どろけい」という遊びが流行った。

 団地中の遊びともだちでランドセル姿のまま一号棟前に集まる。

「何人いる? もうはじめる?」

「森口、まだ来てないじゃん」

「あいつ、今日スイミングスクール田無は、ピアノ

「なんだあいつ、男のくせにピアノなんてならってんの?」

田無うまいらしいぜ、東野が言ってた」

 少ないときでも十人は面子が集まる。

 今にして思えば、習い事でぽつりぽつりと面子が抜けていく直前だったから、小学校の低学年、しかも3年生ぐらいの年頃だったような気がする。

 おれの住んでいた団地新築共働き世帯ばかりがどっと入った団地だったから、小学校クラスでも団地子供が占める割合が多く、揃いも揃って鍵っ子ばかり。それでランドセル姿のままでしょっちゅう一緒になって、あれこれ新しい遊びを始めるのが常だった。

 そのとき流行っていた「どろけい」は、泥棒チームと警察チームの2チームに分かれて、泥棒はひたすらに逃げ、警察はひたすらに泥棒をつかまえるというシンプルゲーム。泥棒はつかまれば開けたところにある刑務所に入れられ、仲間の泥棒にタッチして貰えれば見事脱獄ということになる。そうなってはたまったものではないので、警察チームは刑務所を陣地にして、あれこれと泥棒をつかまえる作戦を練る。

 おれたち小学生にとっては、五号棟まであった団地は格好の遊び場で、当然ながら「どろけい」も団地舞台に繰り広げられる。団地は、最上階が8階、左右に二棟のエレベーターホールがあり、両端はどちらも非常階段になっている。高島平のような左右に長い団地想像すると分かりやすく、そこを小学生のおれたちは駆け抜けた。

 よく迷惑だと苦情が来なかったものだと思うのだが、共働き世帯ばかりだったこと、そして、今よりも寛容な時代だったのだと、振り返って思う。

 この「どろけい」という遊びは、逃げるにも追いかけるにも工夫とチームプレイが必要な遊びだ。

 舞台となっていた団地には袋小路のようなものがなかったので、泥棒をつかまえるために警察チームは、複数人での挟み撃ちをする以外にない。泥棒が潜むことができるのは二棟のエレベータホールのみで、非常階段廊下警察の陣地から丸見えなので、捕物帖が始まれば、警察の陣地から指示が飛ぶようになる。

「錦原が、五階の西! 誰か西の非常階段を抑えろ!」

非常階段、誰かいる! 降りてる!」

 三人四人で泥棒の逃げ道を封鎖していくのだ。

 警察の陣地でもひそひそと作戦会議が開かれる。

「なあ、野々村どこにいると思う? エレベータの9階(作業室があった)みたよな?」

「みたみた。そういえばこの前は非常階段の裏に隠れてたな」

 けっこう丸見えな割にはちょこっとずつ死角になるところがあり、そういった所に泥棒は好んで潜む。それを警察は必死になって探すのだ。

 泥棒の方でも無策ではなく、エレベータホールなどでばったり出くわすと、情報交換になる。

小田捕まった?」

「たぶん、みてないけど、走る音が聞こえないから」

「じゃあ、あと3人か。泉川はどこだろ?」

「あいつ、隠れてるの好きだからさ」

「じゃあ、こうしよう。おれは三階で仕掛けるから、木村は二階な。泉川は東の方にいる気がするから、おれは西の非常階段から脱獄かける。お前は東のエレベータホールな。泉川も気付いて、いっせいに脱獄かけれるかも」

「ちょ、ちょっと休ませてよ」

「たく、だらしねえな、60秒な」

 エレベータホールに囁くような60カウントが響く。

 そして、作戦開始。

 それはたぶん子供の頃の大切な思い出だった。

 「どろけい」は毎日のように号棟を換えて遊ばれる。

 おれの住んでいた団地は、おそらく建設された時期が違っていたからだと思うが、それぞれの号棟に微妙な差異があった。たとえばエレベータホールが一棟しかなかったり、廊下の柵に隠れやすい板がついていたり、階が6階までしかなかったり、屋上と称する場所があったりする。

 そうすると、号棟が変わる毎に作戦やセオリーが代わり、泥棒も警察も新しい手を考えなければならなくなるのだ。

 なので、一号棟前にランドセル姿で集まって、今日の面子をながめながら、みんなでわいわいと相談する。

「なあ、今日どうする?」

「少ないから五号棟じゃん?」(五号棟は一番ちいさい号棟だった)

「五号棟好きじゃないんだよな」(エレベータホールが一棟しかないとつまらない)

「じゃあ、こうしよう3号棟で6階まで、これならどう?」

「作業室なしかぁ。あ、お前ずるとかするなよ」

「しないって。分かった。したら3回警察でいい」(警察は不人気だった)

「よし、じゃあみんな、ずるしたら3回警察な」

「あ、あのさ、三号棟にするなら、刑務所近くしない?」(エレベータホールにの意)

「どの辺にするの?」

ピロティーを刑務所にしたらって思うんだけど」

「え? 近すぎない?」

「いいよ! いいよ! ピロティーからなら警察見えないじゃん。そっちの方が絶対面白いよ!」

 他のみんなはどうだったのかは分からないのだが、おれは分かってしまった。

 こうやって、どうすれば「どろけい」が面白くなるかという事を相談しているときが一番楽しいって。「どろけい」をしているときももちろん楽しいのだけど、それよりもルールを決めながら、どんなルールにすれば、遊び方が広がるかを考えることは、小学生のおれにとっては、とてつもなく楽しいことだったのだ。

 そうやって、少しずつ楽しさの源泉となるルールが積み上がっていき、「どろけい」はますます洗練されたゲームになっていく。おれたちは気付かないうちにゲームデザインをしていて、それは小学生のませた心に、楽しいってどういうことかって事を植え付けてしまった。

 おれは「どろけい」をしている間にも、こんなルールにすれば「どろけい」はもっと面白くなるのに、ということをしきりに考えるようになった。それで、もっとみんなが面白くなれば、それはとても嬉しいし、楽しくなる。

 この「どろけい」遊びがやがて終息していったのは、人数が増えすぎたというのが原因だった。

 この面白い遊びが徐々に広まり、仲間が増えてくると、少人数の精鋭でやっていた頃とは格好が違ってくる。日曜日などには女子まで入って数十人で「どろけい」を行ってしまう。

 そうなると、一号棟だけでは足りなくなって、一号棟から三号棟まで、といったように無秩序に規模が拡大していく。それはそれで楽しかったではあるが、やはり散漫で緊張感のない遊びになってしまった感は否めない。

 さらに、休日に数十人の小学生たちが団地中を駆け巡り、大きな声で泥棒を追い詰めたりするとなると、さすがに周囲も迷惑を感じ始める。それで、どこだったか何号棟かで禁止令が出て、それから徐々に終息していたような気がする。折良く習い事で仲間もどんどんと抜けるようになり、外で大規模に遊ぶという事はこれが最後になってしまったと思う。

 ただ、あの楽しさを味わってしまうと、今この歳になっても胸がうずく

 ああ「どろけい」がやりたい。

 楽しかったって。

 そして、あの初期にルールを作り上げていったときが一番楽しかったと。

 おれは趣味ゲームを作っていると、しばしば言われて、誤解されて困ることがある。

 増田ストーリー面白い

 増田ストーリーきゅんきゅんきた。

 おれは、そのたびに思う。

 おれは、物語が作りたいんじゃない!

 おれは、ゲームが作りたいんだ!

 「どろけい」みたいにルールを考えるのが、好きなんだよ。

 物語はその上に載っているパセリみたいな物なんだよ。

 って。

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