いじめられた経歴を話すのは恐怖を伴う。
まるで原因がこちらにでもあるかのように。
ぼくは精神的ないじめはあまりうけてこなかったので、いじめ全体のなかから見ると比較的軽度な部類にはいると思うけど、肉体的な苦痛もそれなりに辛かった。ごくごく親しいひとにしか話せないので、記録としてここに書いておく。
記憶にある限りでは最初のいじめは小学生の頃。通っていたスイミングスクールでのこと。
いじめられるようになったのは小学校の高学年になったころだと思う。
プールに沈められるのはとても苦しい。あたりまえだが息ができない。
「これ以上もう無理だ。って思ったときにプハァーってできない」って思う恐怖がもの凄い。
行けば沈められるんだけど、プールそのもの、泳ぐことそのものは好きだったから、誰にも言いだせなくて通い続けた。
いま思えば死と隣あわせの状況だったとも思える。
スイミングスクールでのいじめは、いじめられている子が訴えない限り、スクールの先生が気づけることは少ないと思う。これを読んでいる保護者の方がいらっしゃいましたら、そのところは注意しておいたほうがいいと思う。泳いでいる子のフォームの指導をしている間に、待っている列で沈められている子がいても、まず気づかない。
次はサッカーの合宿でのことかな。宿舎でも試合中でも無視され続けた。これはそのときは、自分が下手だからと言い聞かせてやり過ごした。
それから中学校にあがって。一部のメンバーからありとあらゆる雑務を押しつけられた。彼らの機嫌が悪いときには羽交いじめにされたり、花瓶から水を飲まされたりした。3人がかりで、1人が鼻をつまみ、もう1人が顔の正面から両方の頬をつかむように握力を込めると、口をあけずにはいられない。そこに最後のひとりが花瓶からの水を注ぎ込む。これは苦しい。ムせる。あと、なぜか恥かしい。別に悪いことしてないのに、教室の真ん中でこういう儀式をされて、それをクラスの子に見られているというのが、とにかく恥かしかった。
高校に入ってからは多少の仲間はずれなどはあったものの、明確にいじめと呼ばれるようなものを受けることはなかった。ただ、いじめられていたことを知られるのは怖かった。新しい環境でもいじめが再発しそうで。
それから大学に入り楽しい学生生活を送るようになり、いじめは過去のものと思えるようになった。
だからサークルの先輩マネージャーから「松田くん(仮名)、高校のときいじめられてたんだってw?」と聞かれたときは飛びあがるほど驚いたし、黒い幕がおりてくるような感覚に襲われた。
いまでも、いじめられていたことを話すのはとても怖い。
どんな環境であっても、まったく身に覚えがなくても、突如ふってわいたかのようにいじめは発生する。
自分のもとにいじめが発生しないためなら、できる限りのことはしたいと、大人になったいまでも常におもう。
社会人にもなり家を出た後に、母親にいじめられていたことを話したら号泣していた。
あたりまえなんだけど、やっぱり知らなかったんだなあと思った。
僕は自分がいじめられていたのを、自分にも責任があるとずっと思っていた。だからどうすればいじめられなくなるか、もしくはどうしたら新しい環境でいじめられないまま過ごせるか、ずっと考えていた。大人になってから知人(僕がいじめられていたことは知らない)から、「いじめはいじめられる方は悪くない。理由もなくコトがおこる。いじめられる方にまったく非がなくてもおこるから怖いんだ」と聞かされて、なんだかスッと気持ちが軽くなった。
あれだけ環境が変わっても、そのたびにいじめられてきたので、自分にもいじめられた原因があるといまでも思っている。けれども、その知人が言ったように世の中にあるいじめでは「いじめられる側も悪い」という発想は絶対にしないようにしている。
社会に出て気づいたことがある。
いじめる側もそれがいじめだと思っていないかもしれないし、もしかしたらいじめられる側もそうとは認識していない可能性がある。いじめた経験や、いじめられた経験がないと、感度が高くないのかもしれない。けれど僕の目から見ると、超軽度なだけで、構造は完全にいじめだよなと思える現象がたくさんある。
ちなみにいじめを正義感の強い誰かが止めてくれたりすることは、まずないと思ったほうがいい。誰もいじめられたくないわけで、いじめを止めるのはハイリスクローリターンの行為としか思えないからだ。
なんにもない空っぽの主張ばっかりだったか?
いじめについて話をするとき、軽微なものなら笑いながら言えるのかもしれないが、通常いじめ、陰湿なもの、暴力的なものが多く、被害者に強いストレスを強いる。 自分の人格否定さ...