はてなキーワード: ねじとは
ガンダムWやレイズナーのOPがいかによく出てきているかを再確認できた。
よかった!
田舎なんて舞台にしてストーリー物やっても湿っぽいだけだと再確認できた。
よかった!
よかった!
お金を積んでも面白いストーリーは作れないけどきれいな映像だけならいくらでも作れると再確認できた。
よかった!
2クール目にこのアニメもう駄目なんじゃないかなと感じたらほぼ確実に当たると再確認できた。
よかった!
能力がチートすぎると概念系のバトルになって中二病全開になると再確認できた。
よかった!
あの有名人が企画しました系はセンスが古くて保守的だから微妙と再確認できた。
よかった!
主要キャラに棒声優をねじ込むと作品の空気が淀んでしまうと再確認できた。
よかった!
男の娘が可愛いと持て囃されるのは他の女キャラの魅力が足りないからと再確認できた。
よかった!
良かった!
無茶以前の出来だと5分でも見るのがキツいと再確認できた。
よかった!
いつも同じことしてる連中が同じことしてると安心すると再確認できた。
よかった!
日常系にワンアイディアプラスするだけで他と差別化できると再確認できた。
よかった!
無駄な時系列シャッフルが結局本当に無駄に終わると反対派やってた連中すらも滑稽に見えると再確認できた。
よかった!
濃い味付けの物は食べ続けるいい加減飽きてくると再確認できた。
よかった!
よかった!
青春の恋愛は異世界ファンタジーだからリアルでもなんでもないと再確認できた。
よかった!
チート性能のキャラにキチガイロールプレイさせておけば何となく漫画として成立すると再確認できた。
よかった!
おっさんだらけの日常も周りが可愛い女の子だと思いこめば楽しめる気がしてくると再確認できた。
よかった!
ペド体型のケモノでシコシコするような連中は気持ちが悪いけどたしかにシコれるかもと再確認できた。
よかった
アニメの演奏シーンなんて楽器の数がなんかおかしい気がしてもスルーされると再確認できた。
よかった!
児童文学的な雰囲気にしておけばロリコンショタコンホイホイでもバレにくいと再確認できた。
よかった!
レズがイチャイチャしてさえいれば一部のオッサンは満足するからチョロいと再確認できた。
良かった!
よかった!
アルパカみたいな首をしてても元々そういうキャラデザなら慣れれば気にならないと再確認できた。
よかった!
異世界の人間が食ってるから美味そうなんじゃなくて元々コックの腕がいいだけでもストーリーは成立すると再確認できた。
よかった!
単なる勘違いだけでドラマ作っても許されるぐらい日本の娯楽業界はユルユルだと再確認できた。
よかった!
この作者が生き残ってるんだからラノベは実力至上主義の世界ではないのだろうと再確認できた。
よかった!
クソすぎるアニメの方が一周回って面白いから半端なクソさのアニメが一番救えないと再確認できた。
よかった!
いやーよかった!よかった!
今期も色んなアニメにであえてよかった!全部よかった!どうでもよかった!
どうでもいいものを見れるような暇な時間があることを再確認できた。
よかった!よかった!
本当にどうでもいいアニメはいくら暇でも見ることすらないと再確認できた。
よかった!
皆さん早く寝かせるようにと言うけれど、全てはバランスの問題だと思っている。
私はかつて9時台に寝かせようと躍起になっていたこともあったけれど、家庭不和と児童虐待をして、子供の自主性を壊してまで達成する目標ではないと思ったので、やめた。特に、目標を達成するのが絶対となってしまって、回復運転をしようとすると、子供を無理矢理動かすことになるので、それこそ子供の成長にはマイナスだと思っている。
歩く、手洗いをする、食事をする、後片付けをする、体を洗う、体を拭く、服を着る、歯を磨く、どれもある時になったら子供が自分からやってみたくなるものだ。9時台に寝かせることに躍起になっていた頃、それを子供がすることを許せなかった。子供にやらせるとどれも時間がかかる。親がやった方が圧倒的に早いし、失敗した場合の対応も要らない。ただ、その緊急対応が続けば、子供は自分でやる必要が無いので、上達しないし、自主性も失われてしまう。子供がやりたがった時に黙らせて親がやると力でねじ伏せる感じになってしまうので、子供にとって家は自分を認めてくれる親が居る安らぎの場所ではなくいつも怒っている大人が無理矢理何かをする怖い場所になってしまう。
生きる力がある人たちは、そんなことは無理だといい、知恵を絞る。周囲の力を借り、経済力を使い、公的支援を使い、自分の願いを実現する。だが、力の乏しい人たちは、周囲を動かすことができず、唯一思い通りになるわが子を痛めつけ、自滅する。
人に何かをお願いをすることはできても、強要することはできない。その人にはその人なりの理由や優先順位があり、他人がそれをとやかく言えるものでは無い。子供の接し方でもそうだし、大人の接し方でもそう。
ルポライターの鈴木 大介さんの書かれた記事で、「相手にお願いしてやってもらっている家事は相手にとって無意味な家事で、自分が必要だと思っている家事をやってもらっているんだから、お願いしている立場は文句を言うな」というようなことが書いてあって、なるほどと思った。子育ての様々な制約もそういうものなんだと思う。
「ワンダーウーマン」を見たので感想。と言うか考えたこととかのメモ。ネタバレ気にしてないのでそういうの嫌な人は回避推奨。あらすじ解説とかもやる気ないので、見た人向けだと思います。フェミの話とかも出てくるんでそういうの苦手な人も回避でよろしくっす。
まず最初に、「ワンダーウーマン」、個人的にはそんなに評価高くない。少なくとも世間で(特に欧米で)いうほど大絶賛、大感動をすることはできなかった。これは映画を見終わったあとのファーストインプレッション。
「1800円という価格&2時間という投資に見合った体験できるのか?」という視点で自問したところ、その答えは「100点」なのだ。十分高評価だろう。いい加減な脳みそだなあ、オレ。とも思った。
なんでこんな評価のすれ違いが発生してしまったかというと、今年見たアメコミ系映画の先行2本、すなわち「レゴバットマン ザ・ムービー」と「スパイダーマン:ホームカミング」の評価が高すぎた、というのが原因であるらしい。前出の基準で言うと、「レゴバットマン」も「スパイダーマン ホームカミング」も200点くらいの評価なので、「ワンダーウーマン」はタイミング的に損をしてしまったのかもしれない。これが「ドクター・ストレンジ」のあとだったら感激できてたのに。
PC的なディレクション――批判に対して自覚的で先手を打って内容を適正に作っていこう――は最近のハリウッド映画では多かれ少なかれあるのだと思うけれど、そういう制約(どういってもある種の制約ではあるだろう)を逆手に取って笑いやネタにしたり(デッドプールにおける「女性も男同様にブン殴ったほうが公平じゃない?」)、むしろそこに正面から踏み込んでえぐり出す(スパーダーマン:ホームカミングの敵役ヴァルチャーはいま注目されている「見捨てられた白人労働者」)のにくらべ、ワンダーウーマンのそれは踏み込みが浅くどうしても「そういうルールなので設置しました」感が出てしまっている。
おそらく「ワンダーウーマン」という作品――つまり女性が戦場に出て戦うという作品を作るにあたって、制作側は、(フェミニズムを中心に)炎上の可能性を覚悟して作ったのだと思う。だから、予め潰せる問題点は潰しておいた。
それは主人公ダイアナの人物設定にも反映されていて、彼女は美女で、アマゾン族の王女で、めっちゃ強い。すごい跳躍力や筋力を持ってるし、噛み殺しの特殊能力を持つスーパーゴリラだ。だが多分そのままだと脳筋批判も巻き起こすだろうから、島で英才教育を受けてた設定になっている。作中でも数百の言語を操り、古典に詳しく、第一次世界大戦当時の最先端の化学式を読み取るなど知能面でも卓越している。(第一次世界大戦当時の)女性だからといって馬鹿ではないのだ!
しかし、だからこそというか、逆説的にというか、なんだかすごく残念な人物描写になってしまっている。
彼女は世間から隔絶された島で育ったので無垢だ……という設定なので、物語終盤になるまで「人間は悪神アレスに洗脳されているせいで地獄のような戦争をしているのだ。悪神アレスさえ倒せば人間は正義と慈悲に立ち返り戦争は即座に終わる」と信じ込んでいる。ここは物語のテーマなので、外せない重要な要素だ。
それはそうで、重要に間違いはないのだが、それってどうなのだろう。
言語というのは必ずその文化を含んでいる。外語を学んだことがある人ならわかると思うけれど、外語を学ぶというのはその言語を操る民族や地域の文化を学ぶということをニアリーイコールだ。文化も歴史も言語には含まれているからで、そこに理解無くしては言語の意味を理解するなんてできない。ましてや古典まで学んだダイアナが、人間の持つ二面性や、善悪といった内面を「全く理解してない」なんてのはありうるんだろうか? いやまあそこが物語のキーなわけだから、理解していないということにしないといけないのはわかるのだが、そういう描写にしてしまったせいで作品は別のメッセージを持ってしまった。
すなわち「知識も教育も倫理や人間についての理解の助けには全くならない。世界を良くするという意味では、教育は全く無意味である」というメッセージだ。多分これは随分うがった見方だろうし、制作側はそんなメッセージを発信するつもりはないだろう。けれど、物語上ここでねじれが生じているために、そう取られかねない「隙き」が生じてしまっている。批判される要素をなくそうと頑張っていた制作陣が、塞げなかった穴に見えてしまうのだ。こういうねじれが、どうも彼女をそこの浅い子供に見せてしまっている。
「ワンダーウーマン」は「(邦画では珍しくもないが)戦う女性主人公」「女性が監督した初めての大手スタジオによるスーパーヒーロー映画」という点で、フェミニズム界隈から賞賛を受けた。
けれど、個人的にはダイアナは女性ではないのだと思う。すくなくとも、フェミニズムが想定するような「解放されるべき女性」ではまだなくて、子供なのだ。まだ思春期すら迎えていないような子供で、世界に対して良く言えば無垢だし、シニカルに言えば無知で無責任だ。
ダイアナに強い好感を覚えられなかったのがこの映画の評価に加点が少ない理由だと、整理した今なら自覚できる。
多分、自分にとって不幸だったのはこの部分で、それは「ワンダーウーマン」を観るまえに「ウーマンリブ的な文脈でフェミニスト絶賛」みたいな評価を知ってしまった点だ。「そういうつもり」で見てしまったせいで捻じれが目についてしまった。
しかし、見終わったあとに思い返してみると、魅力的な部分がいくつもある映画だ。その最大のものがアメリカ外征軍大尉のスティーブ・トレバーである。
彼はドイツ軍をスパイした結果恐るべき毒ガス計画を知り、逃亡の最中に絶海の孤島アマゾン島に漂着し、主人公ダイアナを「外の世界」に連れ出す役目をする。無垢な美女ダイアナのエスコート役であり物語最終局面まで彼女を支えて導き続ける。
ヌードシーンがあったりもするので、女性向けの眼福要素も担当させられたイケメン俳優だと思っていたのだ。二回もイケメンって言ってしまったよ。
彼は優秀な軍人でありパイロットなのだが当然人間なので、スーパーヒーローで神の子であるダイアナに比べたら喧嘩においてはまったく弱い(軍人として適正に強くはあると思う)。おまけに非文明圏であるアマゾン島では虜囚に近い扱いも受けていたし、さらにいえば彼はアメリカ軍大尉であり、物語中盤の舞台イギリス(&イギリス議会&イギリス軍)では大きな権力を持っているわけでもない。上司に対しては愛想笑いを浮かべたり、自分の意見をひっこめたりもする。
物語中盤、未知の世界である外界に出たダイアナは完全にお上りさん状態であり、大都会ロンドンにおいて常識を知らないことから、スティーヴに迷惑をかける。それにたいしてスティーブはなだめたり、すかしたりしてダイアナに行動を抑制しようとする(そして失敗する)。スティーブはダイアナに「外の世界の常識や考え」を事細かに説明して理解を得ようとはせず、断念する。命の恩人ではあるし天下無双の戦闘能力を持ってはいるけれど、「面倒くさい子供」でしかないダイアナに呆れているように見えることもある。
こうやって説明すると際立つけれど、スティーブはイケメンが売りなだけのダイアナの介添に見えていた。
しかし、上映後に振り返ってみるとこの映画の中心はスティーブだと思う。
ド派手なCGバトルアクションとか、世間のフェミ的な評価を全部取っ払って、個人的に「ワンダーウーマン」の感想を述べるならば、「ワンダーウーマンはスティーブの映画」なのだ。
全般的に人物の内面描写が浅いきらいのあるこの映画だが、スティーブに関しては脚本も俳優も素晴らしい仕事をしている。
彼は心の中にロールを持っている男だ。それは「善き男」であり「善き大人」であり、おそらくだけど「善きアメリカ人」であり「善き隣人」だ。彼はそういうふうに生きたいのだ。正しさや信念というよりも、自分の中に理想像、ロールモデルがあると表現したほうがしっくりくるのがスティーブである。
彼が軍に身を投じたのは、混迷続く世界情勢の中で、善きアメリカ人として社会に奉仕しようとした時、そのモデルが軍人だったからである。今の価値観で言えばもちろん異論はたくさんあるだろうけれど、その当時の常識で言えばそれは愛国心であったし、善き市民の善き行動だった。
ドイツ軍に密偵した結果、彼は恐るべきマスタードガスの開発と、それが講和間近のイギリス軍へ向けられていることを知ってしまう。彼はこの情報を持ち帰るために命を捨てるような危険を犯す。それもまた、彼の中にある「それが善き男の行動」だからだ。
その過程でダイアナに命を救われ、彼女の「外の世界の戦争を止めたい」という希望を叶えるためにも、一緒にイギリスまで情報を持ち帰ることにする。
しかし、イギリスにそれを報告したが、結果ははかばかしくない。講和が間近に迫ったイギリス軍は、ドイツ軍(の一部)に災厄的な行動があったとしても全面攻勢には移りたくない。スティーブの情報は事実上握りつぶされる。
彼はここで彼自身の行動規範である「善き人」を曲げられる。軍の階級差という世俗の権力構造のせいで、彼がすべきだと信じる行為を行うことができない。
講和のためとは言え、前線舞台をマスタードガスの脅威の前に放り出してよいのか? 良いはずはないが、議会や政府の決定に従うのも「善き国民」の義務ではあるのだ。
でも隣には精神的に子供のダイアナがいて「ねえなんでなんで? なんで正義しないの? まさかここでやめるわけ? 処す? 処そうか?」という視線で見てくる。彼は、その結果、軍の命令を無視して、私費で(というかボランティアのつもりだった?)傭兵を雇い前線に向かう決意をする。彼は心の中にある「善き人」の指し示すところに従ったのだ。ダイアナがあんまりにも無垢なので引っ込みがつかなくなったという側面があったにせよ。
前線に向かい、血みどろの後背地を抜けて塹壕にたどり着き、取り残された村をダイアナの神話的な能力にも助けられて開放して、ダイアナとスティーブの関係は接近する。男女間の性愛的な意味での愛情もあったような描写だったけれど、個人的にはスティーブの父性も強く感じた。その父性というのは、子供でしかないダイアナに「善き大人」を見せるというものだ。戦争なんて醜悪なものなのだけれど、それだけではないということ、世界には「善き隣人」の「善き努力」もあるということを示したかったように見えた。孤島から世界に連れ出した人間として、世界に失望してほしくなかったのかもしれない。
終盤。マスタードガスの大量生産はすでに完了しており、その暴挙を止めるために一行は秘密基地に忍び込む。ダイアナはその中で、アレスの化身だと思われるドイツ軍ルーデンドルフ総監を倒すことに成功する。ダイアナは「これで悪神アレスの洗脳は溶けて戦争は終了する!」と歓喜するが、兵士たちは戦闘をやめない。殺戮の準備を辞めない兵士にダイアナはパニック状態になる。ダイアナにとっては今まで信じてきた世界観が崩れ去った瞬間なのだ。
そのダイアナに向かって、スティーブは今まで何度も説明しようとしてしきれなかったことを告げることになる。
それは「この戦争は人間が開始して人間が拡大させたものなんだ。神はいない。僕たちの責任だ」ということだ。その告白はとても辛い。「善き男」として生きたかったスティーブは、まったく「善き男」ではなかった。戦争をしちゃってるのだから極悪人なのだ。しかし、スティーブは「この戦争は僕達の罪なのだ」ということを認める。なぜなら、戦争の責任を誰かに転嫁するのは、戦争を始めるよりも更に恥ずべきことだからだ。「善き男」として彼は、世界の醜さの責任を取らなければいけないと決意する。
スティーブとダイアナの間にあったものは多分とても複雑で、男女でもあったし、父と娘でもあったと思う。でもその一部には神と人間というものもあった。
彼女の戦闘能力があまりにも隔絶してたからスティーブもその視点を持たざるを得なかったのだろう。
ダイアナの考えは「神が神の邪悪を振りまいたせいで人間が迷惑をしている」から「神の使命を持つ私が人間を救う」というものなわけだけれど、スティーブはこれに「善き人間」としてノーを叩きつける。ダイアナの考えはある種のパターナリズムだが、スティーブの答えはそこからの脱却だった。
神々の戦いは神々であるアレスとゼウスの娘ダイアナが決着をつけるだろうし、人間であるスティーブはそこには関与することができない。
しかし人間の始めた戦争であり、人間の悪意であるマスタードガスは人間であるスティーブが止めなければならない。筋としてそれが正しい。
ダイアナの戦闘能力やスティーブたちの状況を考え合わせると、彼らはここで戦闘を放棄すれば逃げて安全に暮らすことは十分に可能だったように見える。その場合はもちろんマスタードガスで前線の部隊は凄惨なことになるのだけれど、倫理的に考えてスティーブが彼らを救う(その結果命を落とす)絶対的な義務があったわけではない。戦争の悲惨すべてを、個人であるスティーブが背負う必要はないからだ。
スティーブが命をかけた動機として、父(先行者)として娘(後続)に「この醜悪な外の世界にも善はあるのだ」という事を示したかったのか、人間として神に「あなただけにすべてを背負わせない。人間は弱いけれどそれでも自分たちのしでかした行為の責任は取る」ということを示したかったのか、それとも男として女に「俺も戦う」といいたかったのか、それはわからない(そこが返ってスティーブという男のテーマとしてよかったと思う。彼の愛情には名前がつけられない)。
けれど、スティーブは「自分の戦い」として今まさに離陸していこうとする毒ガス満載の爆撃機を止めるために飛び出す。そして乗り込み、爆弾を抱えて、前線を救って、結果としてダイアナを残して死ぬ。
こうやって思い直してみると、中盤、ロンドンの街で常識知らずにうろつくダイアナに手を焼いていたのも、「善き大人」として子育てに苦労してたんだなあ、と思える。
スティーブは大尉だからおそらくエリートなんだろうけれど、まだ若いし、それ以前にすべての人間がそうであるように、不完全で未熟だ。しかしそうであるからこそ、彼には「こんな存在でありたい」という理想像があった。そして常にそうであろうと、努力していた。都会ではトラブルメーカーのダイアナを「善き保護者」として(オロオロしつつも新米の父親のように)導こうと思ってたし、最前線では「善き戦友」として肩を並べて戦った。戦火から救い出した村でチャーリーが歌ったときは「善き男」としてダイアナを熱っぽく見つめた。彼は最終的に、「惚れた美人との安全な生活」よりも自らの役割を優先した。自分自身の信じる正しさに殉じた。それは「善き人間」として神の前に立った時、他の誰でもなく自分が、人間すべての代表として神に「人間の誠実」を見せるべきだと思ったからだ。
それは上野千鶴子あたりの言葉を借りると「男性の安っぽいヒロイズム」であり「戦争に興ずる幼児性」なのかもしれないけれど、物語としてみるとスティーブの人物描写はこの映画の中で一番複雑で深みがあった。魅力的だった。
そんなことを考えると、「ワンダーウーマン」はウーマンリブ的な価値観の映画というよりも、男性的な価値観の、そして「神(あるいは超越的な力を持つスーパーヒーロー)の前に立った『善き人間』の覚悟と誠意」の映画だと思う。そして、そこがこの映画の美点だと思える。
どこかの弁護士が少年誌について色々あーだこーだ言っているのだけど、少年誌は有害なのか?と考えてみた。
私はもうそれなりの年齢なので、おっさんおばさんの類に属するのだけど少年誌を有害と考えたことはなかった。
子供に見せたらいけないといいますが、見たって普通に育つ子は成長します。
別にマンガ作品はエロい事に対して行為を推奨しているわけでもありませんし、マンガはマンガ。
現実と架空をごっちゃにならないように教えるのは親がすればいいだけですし。
私が子供の頃はだいたい勧善懲悪だったり、無法者の作品が多かったりでしたが
その中には当然のようにアダルトな表現(エロい意味で)もありました。
どっちかというと恥ずかしいと感じる自分だったので、それを見て性癖がうんたらかんたらって事もなく
そういう表現があると「ひゃー…」と思いながら読む人でした。
両親も少年誌は読んでいたので、当然そういうシーンも読むのですが黙々読んでしばらく経ったら
「今時はエッチな表現もするんだね。あんなのあるわけないのにね(笑)」くらいで終わりでした。これだけ。
これだけで済む話を、今の親はヒステリックに声を張り上げすぎなんです。
私も親になり子供が居ますが、子どもたちは少年誌を読んでいます。
私が知らないような少年誌を買ってきたりもしますが、「あとで読ませてね」と言い「良いよー」と子供が返してくるというやりとりで終わりです。
結構派手にエッチな表現するなぁと思っても、子どもたちには「今の絵は可愛い女の子いっぱいだね」と感想するだけです。
それ以上の言葉は要らないです。
良いこと悪いことをきちんと教えていくスタイルが大事だと思います。
あれこれと難癖付けて有害だなんだ言って無理に抑えつける方が、変に歪んだ性癖を持ってしまったりすると私は考えます。
子供が思春期になれば、エッチなことの一つや二つ想像したりするのは当たり前でしょう?
有害だから読ませないという考えで固めてしまうと、周りの友人関係も崩れる可能性が高いです。
友達は読んでいるのにボク・ワタシは読めないのは辛い・ズルいと。
結果、隠れて読むようになって歪んで何か問題を起こしてしまったりした時に
保護者は「ワタシの教育は間違っていなかった」と主張するのでしょうか?問題を起こしたのは子供で、子供が何か悪い影響を受け起こしたなんて言うんでしょうか。
抑えつけた結果で起こった場合に、子供も親も後で後悔することになるんじゃないかなと思います。
別に子供は少年誌を読んだ程度では、よっぽどじゃない限り何も起きませんよ。
去年の夏にカムバした際はほぼ全通だったので当たり前に認知されていて固定ファンサもらったりと推しともそれなりに仲がいいつもりでした。
去年末に日本活動が始まり最初の2ヶ月は身内しか集まらず、特に変化は無かったのですが、今年に入り本格的に日本活動をし出すと推しが日本活動にしか来ない子達だけにファンサをし干される(常に扱いが雑、時々無視をされる)ようになりました。
またHYのやり方や発言に納得いかないことが多く、メンタルがそこまで強くない私は推しの顔を見るだけで泣きそうになるという精神状態にまでなってしまったのでしばらく距離を置こうと日本活動を休んでいました。
今年の春にあった韓国活動は以前ほどの頻度ではないですが、3-4回渡韓し日本活動での対応が嘘のような以前と何も変わらない対応、むしろ以前以上の対応であぁ嫌われてなかったよかったととても安心しました。
ただカムバが終わり、日本デビューを踏まえての日本活動はモラルのないファンだらけな上にHYは何も変わっていなかったので引き続きお休みしていました。先日そろそろ会いたいなと思い勇気を出して日本活動に行ったのですが、すごくショックなことがありました。
1つは推しが私の顔は覚えているものの名前を忘れていて呼んでくれなかった事です。以前は3ヵ月空いても覚えていて干されていた時でも顔を見るとすぐ名前を呼んでくれてたので名前を呼んでもらえなかったことはすごくショックでした。会話の中でも私は韓国語が出来るからいい休憩になるという内容のことも言われ、息抜きになるというニュアンスならまだ韓国語が伝わらないのはストレスだよなぁで流せたかも知れませんが私の時は休めると言われたのは、私は推しのことを大切に思ってるけど推しはそうでもないんだなということをハッキリと突きつけられた気がしました。私にも生活があって休みをもらう為に毎日4-5時間残業して休んだことで同僚やクライアントに迷惑をかけないように仕事を調整してやっとの思いで来てることなんて彼にはどうでもいい事なんだろうなぁと思いました。ROMEOを好きになる前に推していたアイドルはファンを大切に思ってくれてファンとして愛されてるなぁと感じさせてくれる人たちだったので尚さら考えるものがありました。
2つ目は私は彼らがステージの上に立っている姿が大好きだったのですが明らかに覇気がなく、疲れてるとかじゃなくて怒涛の日本活動をしてきた中で手を抜いて流すってことを覚えたんだな、あぁ変わっちゃったんだなって感じました。わざわざ飛行機に乗って何見に来たんだろ私って虚しくなりました。
そして3つ目は顔見知りの方がHYに言われたことでした。彼女はおかしいと思ったことがあれば、後で言ってもうやむやになるだけだからとトラブルがあったその場で異議申し立てを出来るタイプです。ROMEOの現場はモラルのないファンが多いので全席指定にもかかわらず決められた座席に座らない人が居たりフォトタイムの際は座席など関係なしで後ろの席だろうと前まで走っていき撮影をするという状況です。正直者が損する今の状況はおかしいと思うから1人1人に声をかけることは難しくても全体向けにアナウンスするなり何とかしてほしいと彼女はHYのスタッフに伝えたところ「うちは今までもこのやり方でやって来て小さい会社だからこそのアットホーム感を大事にしてるから」という返答でした。正直とてもショックでした。好きだからこそ上を目指して欲しくて何でも受け入れることは出来なくて今までもHYにいろいろ伝えてきたつもりでした。だけどスタッフしかも最高責任者の方の口からそんな発言が出たことがすごくショックでした。
成功して欲しくて応援してきたのにその気持ちを踏みねじられてもうなんか頑張れません。そもそも私の見る目がなかったのかなとも思います。ファンを大切に出来ないアイドルと事務所に未来なんてないでしょうし、未来に希望を持たせてくれないアイドルに存在意義なんてあるのかなとも思いました。
私は今回のことでもう応援するのを辞めようと思ったのですが、昼は仕事が忙しく何も思い出すことはないのに夜になると色々考えてしまいます。目を閉じれば思い浮かぶのは推しの笑顔や楽しかった思い出ばかりでどんなに失望してもやっぱり彼が好きで捨てきれない自分がいます。メンタルは弱いのにプライドだけは一丁前なのでこんな仕打ちをされてまで推したくないという気持ちと好きだからこそやっぱりという気持ちで揺れています。私はどうすればいいんでしょうか?アドバイスいただけませんか?
筆名に名字というくくりはふさわしくないかもしれないがあくまでも遊びということで。
批評も愛憎も好き嫌いも含めて呼び捨てにされる作家たちがいる。名字だけで、名前だけで、その作家が思い起こされる作家がいる。そこに何かつながりめいたものはないか、自分の印象をちょっと羅列してみる。
大江、石牟礼、川端、塩野、志賀、司馬、城山、太宰、三島、谷崎、つか、筒井、星、津本、中上、ねじめ、野坂、灰谷、埴谷、百田、舞条、町田、丸谷、向田、安岡、横溝、横光、池波、伊坂、井伏
乱歩、独歩、安吾、花袋、蘆花、荷風、らも、昌也、芙美子、一葉、四迷、万太郎、清張、朱門、実篤、春樹、鴎外、漱石、登見彦、ナオコーラ、詠美、風太郎、一力、周五郎、獏、淳之介、ばなな、鏡花
フルネームで呼びたい
安部公房、遠藤周作、大藪春彦、佐野洋、田中芳樹、陳舜臣、小松左京、中村文則、恩田陸、南條範夫、西村健太、馳星周、長谷川伸、北杜夫、東野圭吾、平野啓一郎、福井晴敏、堀田善衛、海野十三、宇能鴻一郎、柳美里、夢野久作
紫京院ひびき様を愛している。
男装の王子様。顔が良くてお金持ちで友情を信じない気高く孤高なムービースター。
紫京院ひびき様が登場したとき、ああやっと私の信じられる王子様が現れたと思った。サファイアでもオスカルでもウテナでもない、新時代の誰より気高くて傲慢で麗しいプリンスが、女児アニメに登場したことが、この時代を象徴するのだと本気で思った。
誰かの為ではなく、自ら選んで世界さえ欺くために男装をして、そんな自分をなにより美しいと信じている姿はあまりにも尊かった。
紫京院ひびき様は公式スタッフにX自認だと明言されている。すごい。そんなことってあるんだと思った。レオナの前例があれど、ここまで踏み入ると思っていなかった。
ライブシーンに圧倒された。手に入るグッズは全部揃えた。筐体も始めた。brilliantprinceのコーデを全部集めた。
自殺願望にも似たあまりにも美しい夢が潰えた時、革命が果たされず「友情」にひびき様が敗北した時、耐えられなかった。泣いた。体調を崩した。日常生活に支障をきたした。
たかだか女児向けアイドルアニメがみーんなトモダチみーんなアイドル、かしこま!とワンクールを終えただけでめちゃくちゃになった。紫京院ひびき様は最後の集合カットでもかしこまっていなかったけれど、友情はふわりとしか認めていなかったしファルルへの尊敬も失うことは無かったけれど、それでも真中らぁらに、友情に、努力に敗北した事実は、あまりにも重かった。
界隈はカップリング論争で大荒れだったし、とにかく二期終盤は地獄めいていた。あの時から何かが変わってしまった。
3期の紫京院ひびき様は相変わらず性格はひん曲がっていたけど、やはりどこか落ち着いていた。それが辛かった。革命のためにすべて捧げていた頃のカリスマに惹かれていたのだと気づいた。
トリコロールが結成された時は幸せだった。最高の結成式と圧巻のライブだった。やっぱりなにより美しいひとだと思った。
だけどそろそろ限界が近いのかもしれない。
今日のアイドルタイムプリパラの放送が辛かった。
アイドルタイムに変わってからいい加減にギャグ文脈に落とし込まれることが耐えられなくなった。たまにしか出てこないのにどうしてそんな扱いするんだろうって思ってしまうようになった。アイドルタイムの三人組が紫京院ひびき様に無礼をはたらくシーンは必要だったのだろうか。少なくとも虹色にのちゃんは目上に対して敬意を払えるキャラクターだと思っていたけど、それをねじ曲げてまでひびき様を貶めたかったのかと思ってしまうほど苛立ってしまう。なにも面白いと思えなかった。ふわりとファルルがひびき様に抱きついてた事くらいしか記憶に残っていない。愛しい。調子に乗ってる機嫌のいい紫京院ひびき様の姿しか見たくない。ライブ前は劇場版のカット使いまわしてるし。今更プリリズを引っ張ってくるのも気に入らない。いらんことするくらいなら登場しないほうがマシだと思ってしまう。ずっと輝かしいままの姿で君臨していてほしいだけなのに。
ジャンルに不満を持つようになったら対象から外れたみたいなツイートあるけど、そう言われても困る。ほかのジャンルに移動する気も起きない。完璧で天才で最高のプリンスである紫京院ひびき様を信じていたいだけなのに。公式に直接文句は言わないけど、鍵垢で喚き散らしながら放送をみている。筐体のひびき様は裏切らないからいい。でもWithにエスコートされるひびき様なんて死んでも見たくないからドリームシアターしかやってない。
プリパズはクソゲーだし。ひびき様が出てる時は課金するけど。声優さんのツイートの件で界隈はまた荒れてたし。カップリングについては言及しません。グッズ展開は微妙だし。それでも恵まれている方だと思うし未だに新商品が出れば買い続けているけど。だってそれしか公式に紫京院ひびき様が好きだって伝える方法がないから。
つらい。
だけど、どうしても、紫京院ひびき様が好き
(追記)ブクマコメントありがとうごさいます。ちょっと憶測で誤解が生じてしまうのはさすがに勘弁していただきたいので追記させていただきますが、漫画家さんの件に関しては私は鍵垢から1度も出たことないので人違いです。
泣きながら書きなぐった文章なので冷静に見返してひどすぎて引いたんですけど、それでもプリパラというコンテンツ自体をまだ嫌いになれないので苦しみながら付き合っていくことになると思います…
LGBTは必要以上に出てるが対して批判はないのに障害者がテレビに出ると叩かれる
マイノリティをある程度無理やりねじ込んでメディアに載せるってのは必要なことなんじゃないのか?
じゃないと目の前に現れた時に対応できんだろ
障害がある人もいて当たり前なんだと認知するためには、ある程度枠を設けてそこで頑張ってもらうってのがいい
それこそフェアな社会だろ
障害者が住みやすい社会になればいいですねと言いつつ、内心自分とは関係ないことだ思ってる
実際、お前らの知り合いに障害者なんていないだろ
障害者を見せもんにすんなといいつつ、自分には関係ない存在として社会的な座敷牢に押し込む
お前ら最低だな