はてなキーワード: 総本山とは
生成AIでのパチモンが売られるようになってもう1年以上に経つがまったく規制される気配がなくて本当にイライラしてくる。最初の頃は法整備が間に合わないからとか生成AIってスゴイ感があって一時的なもんだろうと思ってたけどずっと完全放置。そもそも割れとかマジコンやら漫画村みたいなただ乗りビジネスだから大半の奴はこそこそ隠れてやっておかしなやつが目立つくらいと予想してたらそんなレベルじゃなかった。パチモン作ってマネタイズしてる分際でなんで堂々と活動してるんだよと。常識的に考えていつか規制されるか下手すれば逮捕されかねんものを売るって発想には至らんだろ。絵柄に著作権はないとかは百歩譲って現行法で逮捕できないのかもしれんが、なんで版権絵だけで学習されたloraでまんま版権絵っぽいものを出して売るバカまでOKなんだよと。
政府としては海賊版は規制するんじゃないのか?Amazonとかヤフオクの海賊版売ってた連中のほとんどは生成AIにしっかり切り替えてるぞ。生成AI使ったら海賊版でもOKなのか?それとも生成AI使ったら海賊版じゃなくなるのか?
生成AIを進めたい政府的にはそんな瑣事に構っていられないってことかもしれんが、そもそも生成AIの中心はほぼアメリカと中国じゃねーかと。"生成AI 東大松尾豊教授“日本は劣勢だが最善手続いている”"の記事で「このまま最善手を指し続け、相手がミスをすれば16パーセントが65パーセントと逆転するシナリオがあると思う」なんてまったく追い付く要素がない中で相手の失敗を今後の展望に組み込んでいる時点でもう日本に勝ち目ないって言ってるようなもん。
そもそもオープンAI社単独で1000億ドル(約10兆)調達 しているのに対して、日本政府は数十億円も研究に補助出すぞ(全体で)って・・・・。生成AI以外のまだかろうじて世界に噛り付いている分野ですら日本の研究力低下がヤバいって散々言われてて研究費や人員が足りないとわかってる。どうして既に負けてる分野で同じことやってそれで大丈夫だと思ってるんだと。一部の天才のいかれた頑張りでどうにかなってた時代だったらいいが、もうそんな時代じゃないだろ。宝くじじゃないんだから金をケチっても成果でないってのを理解してくれ。
だから研究費じゃ勝てないからって学習し放題にってことなんだろうけどそううまくいかんだろと。日本のコンテンツが学習データとして魅力的(マネタイズしやすい商品に使いやすい)なのかもしれんが、その原材料を”タダで使い放題!!”ってやって日本に利益があるのか?。みんなが欲しがる原材料だったらむしろ高額な利用料を設定して(海外向けには)、日本で進めたい生成AI企業には良質なデータを倫理的かつ合法的に収集しやすい環境を整えたほうがいいのでは?(もう無理だろうが)。ただで原材料使えるんだったら、日本由来の機能のしょぼい生成AIじゃなくて海外の最先端の生成AIで日本のコンテンツ学習させて金稼げばいいじゃんってなる(というかなってる)。
なによりクールジャパン()政策での失敗からの学びがまったくない。マレーシアでジャパンストアが大失敗した記事で指摘されている
と同じことを繰り返そうとしている。生成AIを使って商品を作ったからといってそれだけで売れるわけがない。売れるモノを綿密に研究しないしようともしないでコンテンツを作ってどうやって人気の出るモノを作れると思うのか。どんなコンテンツが売れているのか?どういう商品が売れるのか?人気がでやすいのか?を少しでもたとえ表面的にでも分析をしたか?生成AIで勝とうっていうのなら海外での生成AIへの評価・認識・環境はどうなのか?具体的にどうしたら生成AIで今から海外に勝てるか考えたのか?
今日はよく寝れたので爽快よ。
そうこなくっちゃ!って感じの日頃のこのペースが大事なのよ。
そんでさ、
いつもいつも私が困っている話題の一つとして多く取り上げられスポットを上げるとしたらのニュースでよく言ってる
つい先日Nintendo Switchの容量ももういっぱい!
ダウンロードできない!
でもできちゃってるのなんでだろうなんでだろう?って思ってたら本体の方に保存を切り替えてそっちの方に保存していたので、
そう言うことなのねって思ったわ。
でね、
ディスクの容量がなくなったら以後録画が取れなくて途中だったら録画容量がなくなりましたけどって言うのよ。
でも私安心!
膨大に録り溜めておいた朝ドラの『ブギウギ』もここ何日かに一気観!
いよいよ今週最終回だしね。
配信でなんとか見れるのよ。
切れてなーい!って言う節の言い方で番組が録れてなーい!ってなっても安心ね。
でも慌ててみないと配信の期限が切れちゃうから見逃しを見逃さないようにしないと。
でも配信終了間際21時55分まで!って切迫したときってあるじゃない。
あれってでもアプリの振る舞いか配信サービスの振る舞いか分かんないけど
少なくとも私はそれ大丈夫セーフだったみたいで、
ぎりぎりに飛び込み前転をかましたい気持ちでぎりぎり視聴するんだけど
情け容赦なく配信時館終了したらその瞬間終了になって聴けなくなっちゃうのよね。
途中でもよ。
聴き始めてから24時間以内で聴き終えないと終了しちゃうと言う。
1週間の猶予はなく、
聴き始めスタートしてから24時間以内に聴いて下さいってスタイルは切迫追い込まれる感あるわよね。
なので
結構長尺の4時間ラジオ番組とかは気合い入れて聴かないと聴ききれないのよ。
そういった
アプリかな?配信サービスの振る舞いで終了期限になったときの振る舞いが違うくなってるのあるから要注意よね。
結構2時間番組とか調子に乗って録画しちゃうと一気になくなっちゃうのよ!
もう早く見るのを終わらせないと次また新しいドラマ朝ドラ始まるじゃん!って思うけれ
よくよく考えたら
朝ドラの毎日15分の尺で半年とかよく長いのドラマやるわよね!って思うわ。
これ毎回毎回1話の終わりに波乱を起こせるわけないじゃん!って思うけど
ココ終盤になって一気にこの波乱を詰め込む感じの『ブギウギ』はなかなか面白かったと言っても過言の言い過ぎでもないかも知れないわ。
だけど『エール』の最終回のエールコンサートはあれは予想外だったので、
最終回史上最高のこえることのできない回だと思うけど、
毎回見続けていたら、
そうでも無いけれど、
今から過去の朝ドラ見始めるシリーズ長いのって思うとちょっと中長期的にと言うより長期的な尺のあの番組ドラマは観るのボリュームが重すぎるわよね。
過去の配信ドラマやってるのはいいんだけどとてもじゃないけど見きれないわ!
まあこんな感じかしら、
うふふ。
昨日晩マーケットに寄ってきたので
お疲れさま割引のくたびれた売れ残った焼き魚を私サルベージュして今日の朝ご飯のお供としました。
煮魚って余りがちだけど私好きなのよね。
魚美味しいのにみんな肉とかなのかしらね?
まあ私みたいなのがいるからそういう魚たちもサルベージュして私の朝ご飯の食卓に並びそして私の胃に沈んでいくんだけどね。
お味噌汁もあれば上等かしら?
気分もきっと上々に爆上がり間違いないこと間違いなしね!
朝起きたらお湯が沸いているの!
感激よ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
乗っかってみる。マイナー処を攻めたつもり。
上野:上野恩賜公園があり美術館やら博物館やらも楽しい。アメ横。
品川:東海道新幹線で東京の次の駅。リニアの始発駅になることもあり西の玄関口
信濃町:SGの総本山。赤坂離宮、新宿御苑、新国立等、とにかく緑が多い。森。
飯田橋:昔の印刷の町。近辺に印刷会社・出版社が集まる。神楽坂の料亭も良し。
赤羽:ひろゆきの生誕地。下町。埼玉方面への防波堤。俺の実家は近くの十条。
月島:築島の当て字で埋立地。もんじゃで起死回生。佃煮の発祥地も近く。
入谷:お風呂屋さんの聖地。上野の入谷口にも迎えに来てくれるが歩くならここから。
鶯谷:上野の少し北に位置する東京イチのラブホ街。マジでラブホのイメージしかない(偏見)
こうやって書いてるとありすぎて飽きるな。笑
私の実家は細い。
父は戦争で父(私の爺さん)を亡くし、中卒で新聞配達をしながら育ったらしい。
母も戦争で父(私の爺さん)がPTSDになり早世。同じく高卒で働いて育った。
親もそんな家庭環境で育ったため、叔父叔母も貧乏であり、学も無ければ、家に本も無く、父は飲みにケーションの営業マン、母はスーパーのパート職員をしていた。
職業からお察しの通り当然収入も少ない。にも関わらず子供を6人も産んだ。そうなると支出も増える。
クラスでみんながポケモンの話をしていてもゲームを買ってもらえない、ドラクエの話も分からない、スマブラも練習できないので弱い。そして小遣いも一切ない。
私の世代で子供の頃にゲームの話ができないというのは、友達との交流でかなり困難を極めた。
習い事も2つだけ。
地域の爺さんが趣味で教えている「そろばん」と、地域の爺さんが趣味で見守っていた「サッカー」だけだった。
サッカーは習い事ではないか。ちなみにどちらもタダだったようだ。
幸い、勉強はできる方だった。
塾や家で勉強せずとも、学校の授業だけでクラスで5位くらいには入っていた。
どうやら母方の爺さんは名家の医者だったらしく遺伝的には良いものを貰っていたようだ。
まぁ爺さんはPTSDになって一族の恥さらし扱いとなり、その名家との関係は切れてしまっていたが。
そんな私は、高校生頃まで、学校は正しい、政府は正しい、テレビは正しい、新聞は正しい、創価学会最高、共産党は悪だと、周りの大人に言われるがままに信じて育った。
外界から隔絶された田舎で、外界から情報を得る本を読む習慣も無かった私は、ずいぶんと思想面が偏ってしまっていた。
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学校では、放課後や休み時間にパソコンを貸してもらえるようになった。
最初はパソコンでゲームができるということに感動した。ソリティアの達人であった。
そして、パソコンにのめりこみ、出会ったのが「2ちゃんねる」である。
「創価学会をバカにしないでください。池田先生はとても良いことを言っています」
叩かれた。
「高校を卒業したら働こうと思っています。何の仕事が良いですか?」
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2ちゃんねるの影響で、別の面で思想が偏った私は、奨学金をギリギリまで借り、地方国立大学の工学部に進学した。
大学を卒業したとき、高校・大学合わせて奨学金の借金額は600万円まで膨らんでいた。
国立大学の工学部卒だったので、とある大企業にも就職でき、奨学金は5年ほどで全額返済できたのだ。
子供に小遣いも与えられるようになった。
私はこの現状をとても幸せに感じている。
地頭が良かっただけだろうと言う人もいると思う。確かにその面はある。
しかし、私と同じような成績だった兄弟姉妹は、それほど裕福な暮らしはできていない。
実家の太さが大事だと人は言う。地頭の良さが大事だと人は言う。
一番大事なことは、適切な進路に向かえるよう手助けする「情報」ではないかと。
あの頃、インターネットに出会わなかったらどうなっていただろうか。
2ちゃんねるで学歴厨にバカにされなかったらどうなっていただろうか。
情報が少ない地方であっても、貧富に関係なく、平等であり、忌憚のない意見が貰える、
インターネットは偉大だ。
母方の爺さんは病んではいたそうですが、戦後も生きていたので母は戦後世代です。
母の何歳頃に亡くなったのかは知らないのですが、思春期だったと聞いているので中学か高校頃までは生きていたのだと思います。
両親が学会員だったってこと?
ちなみに、自治会のリーダー格は別の宗教で、子供会と称してタダで旅行に連れて行ってくれました。天理教の総本山まで。
タダより高い物はない。
家族はたくさん私のことを愛してくれたし、友だちもみんな優しくて大好きな存在である。来世もまた私として生まれたい。それくらいに、幸せな日々を送っている。
でもひとつだけ、もし叶うのなら次の人生で中学受験はしたくないと思っている。私の人生のなかでいちばん苦しい記憶だからだ。
先に言っておくと、塾の先生たちも、両親も、みんな私のことを想ってくれていたと思う。そこに在るのは確かに愛であって、その他のなにものでもなかった。ただ、小学生の私には分からなかっただけ。すれ違ってしまっただけなのだ。だから誰も悪くないし、私は両親のことがずっと大好き。
でも、似たような気持ちを抱えている人もきっといる。だからせめて、ある程度の言葉の整理をつけられるようになった自分が残しておきたいと思う。
小学四年生のわたしは、中学受験というものをあまり理解していなかった。それまでもたくさん習い事をしていたし、いずれ塾に通うことは聞かされていたからなんとなくそういうものなんだと思っていた。
そして入ったのは、某大手中学受験塾。狙うは日本屈指の名門校。そのために毎日たくさん勉強をした。テストの点数が悪かったら怒られてしまうから、放課後は急いで帰ってすぐに塾に行って、テストが始まるまでずっと机に齧り付いて勉強していた。
小学校での成績はいちばんだった。先生に褒められて嬉しかったし、誇らしかった。友だちにすごいねって言われるたび、私は皆とは違うんだと思っていた。多分、周りを見下していた。世界は私を中心に回っていると思っていた。
同時に、朝学校で友人たちが「昨日は楽しかったね」って笑い合ってる会話についていけないことが悲しかった。前述の通り、当時わたしはだいぶ性格が悪かった。その自覚もそれなりにあって、だからこそ私にも屈託なく「次は一緒に遊ぼうね」と言ってくれる友人たちのことが本当に好きだった。本当に、大好きだった。当時は塾や家が(強制的に)勉強をさせられる場所だったからこそ、余計に。
そして小学六年生になった。
受験勉強が本格化していく。友だちと遊べる日なんて1日もなくて、土日は塾に12時間以上拘束されている。家に帰っても勉強、息抜きといえばご飯を食べながら観るテレビアニメだけ。そんな毎日だった。
でもそれは私だけじゃない。同じ塾に通う子たちもみんなそうだった。テスト中、何度も何度も鉛筆を腕に刺し続けている同級生がいた。テスト中、ずっと髪を抜き続ける同級生がいた。テストの結果が悪かった次の日、大きなもみじ型の跡を頬につけてやって来る同級生がいた。テストの結果が悪かった次の日、当時流行っていたDSを半分に折られた同級生がいた。もう勉強したくないと言って喧嘩になって、そのときいちばん大好きだった漫画をびりびりに破られたことがあった。私の部屋の壁にいくつかの穴があいた。私の部屋の壁が私の足型にへこんだ。生徒を集めた決起集会で、先生が教壇にマイクを投げつけていた。
そのひとつひとつ、すべてが誰も悪くない。何も悪くない。いまの人生への影響なんて、何ひとつない。たぶん皆そう言う。そんなこともあったなあって、しみじみ言うだけと思う。そこに在るのは、ただ、愛だった。
それでも、それでも。たぶん、そのひとつひとつの光景を死ぬまで忘れないと思う。あの時、いつも私はきっと同じ時間、公園で遊んでるのであろう大好きな友人たちのことを思い浮かべていた。目の前で広がる現実を、一歩後ろに下がったような場所で見ていた。なんで私はここにいるんだろう、そんなことをぼんやり考えていた。
そして私はついに我慢ができなくなって、中学受験したくないと親に言った。受験の総本山である夏を乗り越えた、11月のことだった。もちろん大喧嘩になった。このままいけば、確実に志望校に受かる。あと数ヶ月頑張れば終わるのに、ここまでやってきた努力に報いるためにも、あとちょっとだけ頑張ろうと言われた。それでも、当時のわたしはもう限界だった。いちど口に出してしまえば、止まらなかった。友人たちと同じ学校に行きたいし、少しでもみんなと遊びたい。そう思う今が大事なのであって、未来のことも過去のことも、どうだっていい。
そう泣き叫びながら家を飛び出して、塾をサボる日々が始まった。でも遠くに行くのは怖かったから、隣の家との塀の間にずっと隠れていた。屋根と屋根のあいだから見えた突き抜けるような青い空が綺麗だったことを今でも覚えている。当時の私は、自分の意思でもないのに、ここまで苦しい思いをして入る学校に何の意味があるんだろうと思っていた。それは実際、今でも思っている。
ただ昔と違うのは、今の私は、子どもの将来のためにレールを敷くことの大変さも分かるつもりでいる。朝6時に家を出て、夜11時に帰ってくる父親は、そのあと私に勉強を教えてくれていた。土日も、私が家にいるあいだはつきっきりでずっと。社会人になった今、それがどれだけ大変なことだったか、分かるようになった。母親は、塾のお弁当にいつも私が好きな食べ物をたくさん入れてくれていた。成績には厳しいけど、代わりに良い成績を取ったらたくさんたくさん褒めてくれたし、友人たちの誰よりもたくさんの物を買ってもらっていた。服も、本も、文房具も。不自由なんて何ひとつなかった。いつだって私は愛されていた。ずっと、愛しかなかった。でも当時の私は、その愛を目一杯享受して利用しながらも、見ないふりをしていた。
名前欄に自分の名前を書かないこともできたはずだった。でも、しなかった。わたしは名前を書いて、見直しもして、解答用紙を提出した。結果は合格だった。それが確かに自分の意思なのか、既に私の道は最初からまっすぐ一本道しかなかったのかは分からない。でも合格発表のとき、母親と抱き合って泣いた。たぶん、色んな感情があったと思う。こうして私の中学受験は幕を閉じた。
この話を通じて、中学受験の是非を問いたいわけじゃない。ただ、あの日々が健全なものだったとは今も思わない。大好きだった漫画がびりびりになったときに、一緒に破れてしまった何かはきっとあったと思う。私にも、親にも。仄暗い恨みみたいなものも長年消えなくて、中高時代は嫌なことが起こるとすべて親のせいにしてしまっていた。嫌なことが起こるたび、私にレールを敷いたあなたたちのせいだ、とずっとずっと詰っていた。今から思えば、まだ親の責任下にある「子ども」に対して与えられたひとつの逃げ道だったのに。私の言葉は、親をたくさん傷付けていたと思う。その後の大学受験では、わたしが100%自分自身の意思で選んだ進路を一切否定されなかった。そして私は私の意思で、文学部に進学した。ずっとずっと昔はいずれ医学部に行ってほしいということを言っていた親も文学部に賛成してくれた。
中高時代のわたしにとって「勉強」は、小学生時代の苦い記憶と共に在るものだった。閉塞的で、強制的な、苦しいものだった。でも大学で、自分の意思で選んだ学問は楽しくて仕方なかった。そして、不意に思い出した。ずっとずっと昔、まだ塾に入る前の小学校低学年のとき。図鑑や百科事典を読むのが楽しかったこと。いつの間にか、そうしたものが苦しい記憶と結びついて蓋をしていたけれど、たぶんいちばん初めは、わたしも勉強が好きだった。
文学部を卒業して、わたしはずっと夢だった仕事に就いた。他の誰でもない、わたし自身の選択の果てに辿り着いた。そのことを親もずっと喜んでくれていて、今は離れて暮らしているけれど、わたしの仕事を一番応援してくれている。親はめちゃめちゃわたしのことが好きなんだろうなと思う。そうやって私が自分の夢を叶えることができたのは、たぶん親がわたしの選択肢をたくさん増やしてくれたから。その始まりは、中学受験だった。中学受験してなかったら今、夢は叶えられてないかもしれない。だから、わたしはこれで良かった。中学受験が苦しかったことも、たくさん喧嘩したことも、その果てに自由な選択肢を与えられたことも。その過程はきっと健全なもので、まるごとひっくるめて正しかったと思う。でも、それでも。もしいつか自分に子どもができたとしたら、わたしは子どもに中学受験させないと思う。もちろん、本人が自分の意思で中学受験をしたいと言ったらそのときは全力で一緒に頑張るけれど。
中学受験をして得たものはたくさんある。今の私の人生、幸せだから。でも、たくさんたくさん苦しかった中学受験の記憶から救われるには、いまのわたしが幸せになることでしか報われないという意地のようなものも強かった。たぶん中学受験をしていなくても、わたしはわたしの力で、幸せになれてたと思う。もちろん、あくまで空想でしかないけれど。わたしは小学生の頃のわたしが、みんなともっと沢山遊びたかった気持ちをずっと覚えていてあげたい。世間一般から見たらわたしはめちゃめちゃ恵まれていて、小学生時代の悩みなんてたぶん本当に本当にちっぽけで、贅沢すぎる悩みだったのかもしれないけれど。それでも、わたしだけは、覚えていたい。あの日々のなかで見た光景のこと。確かに悲しかった記憶たちのこと。そうすることでしか、あの頃、家と家の隙間で泣いていた自分をひとりぼっちにさせないことができないと思うから。
AIを利用したサービスは様々あるが、特に議論を巻き起こしている「イラスト生成AI」。
chatGPTやらbingAIやら、文章生成AIがかなり好意的に捉えられている中で「イラスト生成AI」だけがやたらに目の敵にされているのは何故か?
よく言われるのは、著作権。
まあ、これも色々言えるが今回の話題ではない。
もう一つの、そして主たるイラスト生成AIが蛇蝎のごとく嫌われる理由─それはイラスト生成AIの使い手のモラルだ。
イラスト生成AIを疑問視するイラストレーターに嫌がらせのようにi2iを使用しリプライしたり、ところ構わずレスバを仕掛けたりしている様子は、AIに期待している側の私から見ても中々に見苦しく、しかも炎上によって可視化されている分だけでもそれなりの数がいるように見える。
イラスト生成AIの使い手がわざわざ人に嫌われるような言動をとってしまう理由はとても単純で、嫉妬と復讐心である。
今でこそInstagramやTikTokによってネットは現実の拡張のような風潮があるが、Twitterは各種SNSの中では特に現実と切り離されている。それゆえ、オタクは大体Twitterにいる。
オタクにも色々種類があり、その中でも最も大きく分けたのが「持つ者」「持たざる者」だ。
「持つ者」は例えばイラストが上手だったり、小説を書いていたりする有産かコミュ強である。今回はイラストの話に絞るが、小説を書くオタクやコミュ強を含めた「持つ者」のオタクはそれぞれ居場所を持っている。
オタクの中で燦然と輝く才能、それがイラストが上手ということだ。小学生男子の最大モテ要素が足の速さなのと似たようなものである。イラストの上手いオタクは、オタクからは〇〇を描いてとリクエストされ、非オタクからは文化祭のポスターや遠足のしおりの挿絵なんかをリクエストされ、とにかく承認されやすい。
現実世界での承認が足りなくても、ネットに飛び出せば相当数のコミュニティがある。よく喋れば親しみやすいキャラとされ、あまり喋らなくてもミステリアスでカッコいいとされる。
もちろん、小説よりイラストが優れているとか、イラストを描けるオタクが無産より偉いとか、そういうわけではない。イラストは「分かりやすい」。文章の読めない人のために宗教が壁画を作ったように、歴史的に見てもイラストは基本的に誰でも分かるものなのだ。
イラストレーターが強いのは、イラストそのものの強さでもある。
さて、「持つ者」のオタクが現実世界やネットで承認される一方、現実世界でもネットでも承認されないオタクがいる。それが「持たざる者」のオタクだ。
「持たざる者」のオタクは割と悲惨で、まず仲間がいない。先ほど「持つ者」の例として挙げたコミュ強オタクは、陽キャ集団でなくともそれなりにオタクで寄り集まり、コミケに一緒に行ったり文化祭で合同紙を売ったりして楽しくやっている。(側から見ればコミュ障かも知れないが)
「持たざる者」はそれに入ることが出来ない、あるいは入ることを拒否したオタクである。
さらにその名の通り、「持つ者」のオタクが持つ才能や努力を持っていない。周りに人が集まらないのは当然なのだが、残念ながらそれを理解することができない。無産のコミュ障オタクなんか星の数ほどいるのだが、ある程度の学力や努力を持っている、あるいはコミュニティに迎合する柔軟性がある。それすらも持っていない「持たざる者」はひたすらに、あらゆる方向から弱い。
「持たざる者」のオタクは、オタクなのにオタクを基本的に見下している。というか人間が嫌いで、裏切りを恐れている。
「持たざる者」のオタクはオタク同士で語らう場もなく悶々としながら、欲求不満を募らせていく。そしてそれは「持つ者」のオタクに対する恨みとして蓄積されてしまう。何故なら同類であるはずのオタクが自分の知らないところで仲良くやっているのは、裏切りに他ならないからだ。特にイラストは「分かりやすい」ゆえに矛先が向きやすい。これは持論だが、イラストが上手い人は頭が良い。さらにたゆまぬ努力を続ける忍耐力もある。しかし「持たざる者」のオタクはそれが理解できず、目の前にあるモノに飛びついてしまう。そして、こんな絵自分でも描けると嘯きながら誰からも承認されず、自分とイラストが上手い「持つ者」のオタクの差に気づくことなく、さらに恨みは嫉妬と復讐心に増幅していく。
もう分かってもらえただろう。そんな「持たざる者」のオタクにとって、「イラスト生成AI」はエクスカリバーなのだ。自分を裏切った「持つ者」のオタクという悪の総本山、そしてそのボスであるイラストが上手いオタク、イラストレーターを痛めつけることが出来る唯一の手段なのだ。
だからこそ、今までの努力を踏み躙られたとイラストレーターが嘆くと指差して笑う。もうどうしようもない。
もちろん今回の話はあくまでも、「イラストレーターを目の敵にしている、イラスト生成AIの使い手」の話だ。
実際のところ、興味深さやちょっとした趣味のようなものとしてAIで遊んでいる人がほとんどだろう。あとは個人利用目的ついでにネットにアップしている人か、将来スタンダードな技術になることを見越して先行しようとしている人ぐらいか。
諸問題が整備されていけばAIを利用したイラストは当たり前になっていくと思う。その時はその時で問題が発生するだろうが、それはまた別の話だ。
結論。イラスト生成AIを使って煽り散らかす人たちは、基本的に可哀想な人間だ。いわゆる「無敵の人」に近い。これだけで、許してやることは出来なくとも、触れない方が良いということは分かるだろう。私たちは福祉課ではないからだ。
だからもし自分の好きなイラストレーターが粘着されていたら、そっと通報・ブロックしよう。間違っても酷い、消してくださいなどと言ってはいけない。それこそが彼らを気持ち良くさせるエネルギーとなっている。
また、もし自分がイラストを描いていていじめられたら。今後AIイラストの著作権に関してはもっと分かりやすく説明されるだろうし、特にi2iは普通に現行法で違反になるだろう。そっとスクショして、気が向いた時に通報できるという心持ちがあった方が精神健康に良いのでオススメだ。訴訟にお金がかかるとかは一旦置いて、証拠集めに徹しよう。彼らは貴方個人を恨んでいるのではないため、反応がなければ満たされない。
私はイラスト生成AIはそこまで触っていないが、AIそのものが好きなので、もっと発展してほしい。今の風潮だとAIそのものが嫌われそうなので、何故嫌われるのか?という点に念頭を置いて持論を展開してみた。長々と話して結論が弱いのは承知だが、理解不能な行動を取る人の向こう側について考えると、自分が取るべき行動も分かると思う。全部上手くいってほしい。