昔のヲタクは可愛らしい2次元の女性を見ることで、なんとも表現しがたい感情が「萌え」出てていたのである。
「萌え」という表現はあまりにも文学的だ。それは簡単に言ってしまえば「恋」なのだが、2次元の美少女に恋をしている人というのは常識外れで逸脱した人間だという当時の感覚があったため、ヲタクたちは社会から身を潜めるようになる。子どもでもないのに2次元のキャラを好きになる、ましてや恋愛感情を持つなんておかしい。そういう無意識下の抑圧がヲタクたちの衝動をますます2次元へと駆り立てることになる。
「萌え」は性的感情を昇華させる手段であった。結局彼らはどこかで「エロ」を求めていたのだろうが、露骨に「エロ」に走ることはなかった。それは彼らのヲタクとしてのプライドのようなものであった。ヲタクコミュニティが形成されるにつれ、作品と真摯に向き合うことが第一義とされた。エロは瑣末なものとされた。それは「エロ」を前提とするエロゲーにまで及んだ。ストーリーを感動的なものにすることで、それらは「泣きゲー」と呼ばれた。これは彼らのプライドであった。
しかし現在、社会の世代交代に従ってヲタクは市民権を勝ち取るに至った。2次元が好きなことは普通とされ、日常会話で深夜アニメの話が出ることは珍しくなくなった。だが、それと同時にヲタク文化のローコンテクスト化が進んだことは否定できない。これはヲタク産業が拡大し競争原理が働いたがゆえ、より分かりやすく「エロ」いものがウケるようになってしまったことに起因する。
コスプレも最早コスプレのテイをなしていないものが増え、エロを書かない絵師の居場所も無くなりつつある。これは以前のヲタク文化ではありえない話である。「作品と真摯に向き合うこと」がまず守られていない。それはコンテンツの制作側と受け手の両方に言えることだ。
最近エロい広告を非難されることに対して表現の自由だとか言う人もいるけれど、そんな節操ないことをしていたら社会から批判されるのは当たり前だと思う。おっぱいが大きいだの貧乳だので騒ぎすぎ。気持ち悪いと思われるのは当然。だからもう一度原点である「萌え」に立ち返るべきだと思う。「エロ」は所詮コンテンツの表面をなぞるだけの浅い思考にすぎない。もっと深く作品と向き合って、自分の中で一度完結させて欲しい。他人の意見をすぐに求めないで欲しい。ヲタクはもっと一人の時間を作るべきだ。そこから「萌え」は生まれる。今のヲタクは浅い。