はてなキーワード: 必然とは
http://anond.hatelabo.jp/20110907035014
そっくりそのまま書き換えて返せるわww
「自分を叩くのは皆被害意識に浸りたいだけの人なのよ!」と思い込んでる。
違うっていうならもっと具体的に反論してみろよ。お前の経験じゃなくてブログ記事から引いてさ。
正直言うと、浸る為の材料の一つとして彼女の記事を利用させて貰っていた。
どんなネタだろうと、主目的が「『被害者である私』に浸る為」になっている人はまずい。
浸ること自体はまあいいんじゃないの。でも主目的がネタならセーフって話ではないよね。
何故自分が浸ろうとしたのかを見失うのがまずいんだ。
ネタや娯楽のつもりでそんなヘビーな話に浸るっていうそのパターン自体がそもそもやばい。ストレス解消にすらなんないでしょそんなの。
で、人生上手く行かない要因として「親に愛されていないから」と言うのは超便利かつ万能な言い訳なんだよ。
もう鉄板。これ言い出した時点で勝ち(本当に勝ちなのか、そもそも何に勝っているのかは知らん)
そんなわけねーだろ。
「親がどうこうとか言ってるのは全部逃げ」みたいに思い込み過ぎ。
アンタがかつてそうやって「カワイソウな被害者」やってたからって、加害者を告発しようという被害者がみんなアンタみたいとは限らないんだよ。
っていうか、被害者に「カワイソウな」ってつけてるってことは、必然的に加害者は「酷い、むごい」ってなるんですよね?
ブログ記事でも言われとるけど、虐待は誰でもやらかす可能性があるんですよ。つまり加害者はそのへんにいる普通の人間なんですよ。アンタや自分みたいなね。
「カワイソウな被害者」視してるかぎり、おのれが「むごい加害者」化することを疑えなくなるよ。
それにしても、「『カワイソウな被害者』に浸ってた私」を黒歴史とばかりに切り離したくてたまらない増田どの。
未だに何にも切り離せてない。かわいそうだね。
みんな結構印象で読んでるな、例の記事。
親子関係に端を発すること書いてんだからそこんとこフォーカスした内容になるのは必然。
むしろ「親のせいにしている」「こじつけている」という読み方が多いのが気になる。
優先順位のつけかたに不満があるという批判ならともかく、外を大事にすることを無条件に否定的に捉えているあたり、下手くそだなぁと思う。
無条件に否定なんかしてない。というか、母親のやり方では大事にされてるのは外ではなくて対外的な母親自身像だ。っていう話でしょ。
具体例が出ててそれに対する批判という形で書かれてるから、感覚的に具体例側に近い人が反論したくてたまらんみたいだけど。
ブログの人、自分の対人関係の問題を分析して原因を突き止めて、親子関係を何とかしようとしてるじゃん。適切な対処じゃん。
逃げで親がどうこう言ってるわけじゃあないよ。
というか、「親がどうこうとか言ってればそれは全部逃げ」みたいな認識してる増田の方がヤバイ予感。
相手が真顔なのに「殴る」とまで言うか普通。「肯定するかしないかはおいといて」一旦相手の言い分を受け取る技術が足りないんじゃないの?w
失敬失敬w
言わねーよりマシw
正直自分がこの人の親だったらこの子は社会で生きて行けるんだろうかと心配でしょうがない。
絵に描いたような「大きなお世話」。
そこまで言うならこういう人間が周囲に居て案の定失敗した時に助けてやるんですよね?
まぁ個人的にはどうでもいいんだけど、デビューアルバムがフィンランドとベルギーのiTunesエレクトロチャートで1位になるという快挙を成し遂げてしまって今やここぞとばかりにバラエティ番組にまで引っ張りだこのきゃりーぱみゅぱみゅさんだが、歌い手がPerfumeでもMEGでも鈴木亜美でもあくまで歌を素材として扱う相変わらずブレない中田ヤスタカサウンドであるとか、彼女のキャラクターを十二分に表現した奇怪なPVだとか、子供の頃の黒歴史のイメージビデオであるとか、色々と成功の要因は挙げられると思うのだが、この件に関して思うのは、紛れもなく「日本でおそらく初めてYouTubeから火がついたアーティスト」ということだ。海外だとOK GOとかYouTubeのPVからブレイクするケースはあったけど、YouTubeから無名の国産アーティストが世界的に一気にブレイクしたケースは彼女が初めてといっていいんじゃないだろうか。どういう経緯を経て海外にまでぽんぽんぽんぽん浸食していったのかは定かではないが、有名どころではLimp BizkitのFredがツイートしたあたりで加速したんだろうか。
ここで改めて思うのは、もうレコード会社はいつまでもPVや音楽の違法アップロードを躍起になって消している場合じゃないよな、ということで、公式に YouTubeなりにPVをアップするのはマーケティングとしてもはや必然なんだということを、改めて終わりかけている音楽業界に伝えておきたい。というか、目先の音楽で儲けようと考えずに、とにかく世界規模で多くの人間の目に触れられるチャンスが確実にあるわけで、当たればその先でいくらでも儲ける手段はあるんだぜ、という考えに4~5年前からシフトしていかなければいけなかったんですよ。SMEのアーティストとかもうまったく聞かないんだけど、未だに何やってんの。
あと、関係ないところでもうひとつ思うのは、こういう「ブレイク」の感覚っていうんだろうか。今や小さい規模でなら、芸能事務所やらメジャーレーベルに属さなくとも良くも悪くも似たような感覚は味わえちゃう時代になりまして、そう考えると、これからの芸能界はそれこそ世界レベルで受ける人材が求められるわけで、「ただ目立ちたかっただけ」の中途半端な芸能人やアーティストにとってはこれからますますしんどい時代になるよなぁと思うわけです。
(追記)
一応、成功例が少ないだとか偶発的な事例だとか反応があるので書いておくけど、デビューしたばかりのアーティストでいうと、¡MAYDAY!というアーティストはまだYouTubeができて間もない頃にYouTubeのPVがきっかけでブレイクしたと言えると思う。順序が違うけど、Justin BieberだってYouTubeからデビューして今や億単位の再生回数を誇っているわけで、世界的に見れば別に特別な事例でも何でもない。ただ、はっきりと「YouTubeでブレイクした」と言えるアーティストは少ないだけで、Perfumeなんかもそうだけど、確実にYouTubeがきっかけで海外のファンが増えたアーティストはいくらでもいるだろう。これは別に音楽に限った話じゃなく、今のところ全世界にコンテンツをプロモーションしかけようと思ったら、コストを考えれば、ツールはYouTubeとFacebookぐらいしか考えられないだろう、という話をしているのであって、「youtube以外のプロモーション活動無視かよ」とかいうツッコミはまったく論点が違うので、あしからず。
うーんと、
改めて確認しとくけど、論点を切り分けておくと、
A.yuhka-unoさんは、聞くに値する主張をしている
B.itiさんは、バカ
D.yuhka-unoさんは、全面的に正しい
という話はそれぞれ切り分けておきませんか。
まず、わたしは、A,Bに関しては繰り返しになるけど、
yuhka-unoさんは聞くに値すること(私も苦しめられたパターナリズム批判)をしているし、
おおざっぱに言って、itiさんはバカ、でいいと思います。
(まあ、私は、itiさんが実際に目の前にいたら「はぁ、そうですか」でスルー対応すると思うけどね…)
あと、ちょっと、あんまり強い言い方をされると、
私も書く気力をなくすので、ご配慮いただけると幸い >きゃあさん
******
で、改めて、
C.荒れるメカニズム
まず、荒れるメカニズムは絶対に、あの手の話はあると思っています。
パターナリズム批判は、批判された側が、ぜんぜん理解してくれないですよね。いっつも。
だからこそ、荒れる。荒れるのは、もう必然だと言っていいと思います。
あと、批判される側(親側)が、旧来的な何かしらの<ローカルな正義>を振りかざしていることが多いので
それを、まっこうから全部否定してしまうとね、宗教論争的な風景にならざるを得ないですよ。やっぱり。
まあ、そこで対応としては、
相手の主張を「ああ、そうですか。勝手にそう思っていてください」的なことを「やんわりと」言っていなすか
yuhka-unoさんは真っ向から対立しているので、荒れるのは仕方ないとは思います。
D.どこまで完全に正しいか
Dに関しては、まあ、おおむねyuhka-unoさんが正しいとは思うけれども、
書き方の問題はあるとはやっぱり思います。
(ちなみに、「遺伝子に感謝」の話なんかは私はしていません……
そりゃ、「遺伝子に感謝しなさい」なんていわれたら、「シネ、カス」で終わりだと思いますけれど…)
具体的には、ごく一般論として「子育てはやっぱり大変なこと」という論点はあると思います。
「親だけの手柄」じゃないのは当然だし、「私だけの手柄」だけでもない。
そこを完全に言い切るのは厳しいのではないでしょうか。
もちろん、
「育児が大変だったんだから」という主張に対する伝統的な反論として、
「子供は生まれてくる親を選べない」ということもセットであるので、
そこは、お互いに、負い目を負っていると思います。
鬼の首をとったように言い続けて恩着せがましい相手は
やっぱり下品だし、わかってないし、ひどいとは思います。
でも、そのことを完全否定しすぎるのもやっぱり、言いすぎになるかな、と。
ただ、yuhka-unoさんは、きちんと読むと「文章」の部分の功績について、自分の功績と言っているだけで、
その他の部分については、実は言及していないので、yuhka-unoさんはやはりおおむね正しいとは思いますが、
それと、
どのぐらい母親が子育てについて、放置気味だったか、そこまではよくわからないから、
部外者には何もいえないと思うんですよね…
※ちなみに、話に全然関係ないけど
ネトウヨについて僕が考えていることを書こうと思う。
この文章は割と長い。これはネトウヨに読んでもらうためにはあきらかにマイナスだ。
(1)長い文章が読めない→(2)見出しだけで内容を判断する→(3)的外れなコメントをする
ネトウヨの大部分は長い文章を読めない。
いや、正確には、長い文章を読めない者がネトウヨになる割合が多いのだ。
その理由は、この文章を最後まで読んでもらえばわかると思いたい。
では、なぜ僕は読まれないのに長い文章を書くのか。
それも、最後まで読んでもらえればわかると思う。
とりあえず、文章が長いというクレームは受け付けない。
最初に、「ネトウヨ」という呼称を使う理由について説明したい。
ここでは主に、ネット上にて
・反韓デモを扇動したり在日差別を行うやたらと排他主義的な人物
・自分は国にろくな貢献もしていないくせにやたら無根拠に自国を誇るエセ愛国者
といった人物を指してネトウヨとしている。また、これらの人物の特徴としては
・自分の主張を正当化させたり他人の正論を貶めるためには平気でデマを流す
・無知ゆえに存在しない陰謀と戦っており、自分のみが真実を得ていると思い込んでいる
などがある。
こういった人々は基本的にネトウヨと呼ばれるのを嫌う。なぜ嫌うのかはよくわからない。
もしかしたらバカにされていることに薄々感づいているのかもしれない。
でも、この文章の中ではネトウヨと呼ばせてもらう。
決してネトウヨを怒らせたいからでなく、ただ他の呼称で適当なものがみつからないからだ。
では、まず説明したいのは、ネトウヨがいかに情報に踊らされているかということだ。
ネトウヨは言う。「メディアは韓国や電通や民主党にコントロールされている」と。
まあ、当然だが現実にそんなことはない。
そういうことを言うバカがいて、ネトウヨは簡単にそいつらに踊らされる。
メディアについて、専門家が正しく解説している文章はネット上にいくらでもあるが、ネトウヨはそういう自分たちに都合の悪いものはまず読まない。
そして、家から出たこともないような引きこもりが想像で書いた落書きや、自称事情通の友人が書いた落書きだけを「真実だ」と信じ込む。
でも、残念だけど、陰謀論というのは無知な人間の間からしか発生しない。無知な人間の浅い想像とルサンチマンが、くだらない陰謀論を生む。
例えば、だれか国際金融のマーケットに立つ一流のトレーダーで、ロスチャイルド家が世界経済をコントロールしているなんて陰謀論を信じている奴が一人でもいるだろうか。
一方で、「少年ジャンプの印刷部数は集英社がコントロールしている」という事実は、集英社の社長に聞いても、大日本印刷の社長に聞いても間違いないだろう。
ある事象が陰謀論か事実なのかは、十分な知識をもった専門家がどのように考えているかを調べれば簡単にわかる。
もちろん、大勢の言うことがいつも正しいというわけではない。しかし、大勢の専門家が言うことは大抵の場合正しい。
これまでの歴史を振り返ってみて決して例外がないわけではないが、やはり大抵の場合は専門家の意見が正しい。
それを違うと思うなら、素人の想像のストーリーを鵜呑みにするのではなく、まずは自分の頭で考えることだ。
でも、大抵の人間はそれができない。ネトウヨになんてできるわけがない。
真実だと言い張る、嘘で耳になじみの良い、自分たちだけしか知らない(と思い込んだ)、バカみたいな情報に騙される。
だから、それなら専門家の言うことを信じていた方が無難だよとアドバイスしてやりたい。
専門家並みの知見を得られないのなら、専門家の言うことをだまって信じていればよいのだ。
では、話が戻ってメディアコントロールの話だが、これはありえないとメディア業界が長い僕が断言する。
そして、業界のまともな人間なら、みんながみんな、「特定の団体がメディアをコントロールするなんてありえない」と言うだろう。
でも、そんな現場ではだれもが知っていることが、噂話による想像でしか状況を思い描けないネトウヨには理解できないらしい。
仮の話だが、ここ5年、販売される同人誌をすべて分析してみた結果、登場するキャラクターの巨乳率が有意に大型化していることを発見したとしよう。
2006年は平均Cカップ弱程度だったのに、07年にはCカップ、09年にはDカップ、11年においては平均がなんとEカップものサイズになっていた。
この事実を、コミケのことを詳しく知らない人物が分析し、理由づけしたところ、
「婚期を逃した女性たちが結託して、ロリコンを撲滅し、豊満な肉体を持つ熟女の魅力を刷りこむために行っている、つまり犯人は2chの喪女だ(喪女犯人説)」
という結論に達したとする。
くだらないので例は書かないが、いくら反論されても論理的に説明できるだろう。
いざとなれば1番胸の大きい同人誌を書いている女性を連れて来たら、そんなものを書いている女性の多くは喪女だろうから、簡単に証明成功だ。
もちろん、その1番胸の大きい同人誌を書いているの女性が既婚なら、2番でも3番でもいい。
でも、そんな喪女犯人説がナンセンスなのはコミケに参加したことがある人ならだれでもわかるはずだ。
もしも同人誌の絵の胸が年々大きくなっているとすれば、それはそういう絵が流行りで、そういう絵が求められているからだ。
熟女の魅力を刷りこむなんて無駄な努力のために、全作家に巨乳を書くように頼んでまわるバカなんているわけがない。
仮に存在したとしても、作家がそんなことに協力するわけがない。この陰謀論はまったくもってバカらしい。
どうやって全メディアに偏った報道をするように頼んでまわれるというのだ。
もちろんネトウヨは可能だと言うだろう。だが、喪女犯人説だって同様に可能なのだ。
あらゆる可能性は存在するが、だからといってあらゆる真実が存在するわけではない。
喪女犯人説と同様に、現代日本でメディアコントロール説は明らかにナンセンスだと断言できる。
メディアが偏っていると憤慨しているやつは、コミケの話で言えば貧乳派だ。
だから文句を言いたいし、自分の周りはみんな貧乳派だから、巨乳派が多数だなんて認められない。
でも、コミケで年々胸が大きくなるのが流行りだったように、その報道の偏りも、いわばただの流行りなのだ。
「麻生が字を間違えたことばかりあんなに大きく報道したのに、民主党の○○はまったく報道されていない」
なんて言うやつがいるが、たんに麻生が字を間違えたことを多くの視聴者は見たがった。ただそれだけだ。
いや、見たくなかったなんて言うやつもいるかもしれないが、そういうやつこそ苦々しい顔をして繰り返し見ているものなのだ。
「私が見ていないから、みんなが見たくないはずだ」なんて思うのはばかげてる。
「私の周りはみんな見ていないから、ほとんどの人が見ていないはずだ」なんてのはナンセンスの極みだ。
ご存じのとおり、日本のメディアはそのほとんどが営利企業だ。最大多数の人が求めるものを最優先で提供するのだ。
日本のメディアがコントロールできるなら、確実に政府与党によってコントロールされているはずである。
可能ならば、以前なら自民党、今は民主党が自分たちの都合の良いようにコントロールしているはずである。
しかし現実では、今のテレビや新聞が民主党の悪口だらけなのは言うまでもない。
結局のところ、メディアが偏っていると騒ぐやつらは、自分たちの望むように偏らせたいと願うやつらなのだ。
自分たちが大切だと思うニュースを、大多数が見たいニュースより目立たせろと言うバカなのだ。
重要かどうかを決めるのはお前たちではないのだ。それぞれのメディアに専門家がいて、その責を持った者が決めるのだ。
「あのデモを取り上げなかった」「あの失言を取り上げなかった」
それを取り上げたとすれば、それこそが一般的には偏向報道なのだ。
それが、狭い世界にいて、自分だけがすべて、ネットにいる仲間たちだけがすべてだったら、理解することができないのだ。。
貧乳派が貧乳派だけで集まり、必然的に情報は偏り、制限される。
ネットの貧乳派のコミュニティを覗いて、貧乳派の声が圧倒的に大きいと感じる。
だから自分たちは正義だと思い、巨乳が増加するコミケを批判し、原因をねつ造する。
正確にはどっかのバカが想像で書いたフィクションを真実なのだと信じ込む。今やっているのはつまり、そういうことなのだ。
つまり、世の中の大多数にとって、そのデモはどうでもいいのだ。そのデモの記事なんて読みたくないのだ。
メディアの中の人間は、それがよくわかっているから、この結果になるのだ。
それが情報の制限されたネトウヨには理解できないからこそ、ネトウヨは真実にたどりつくことが決してないのだ。
と、ここまで勢いよく書いたが、上記に一点だけ付け加えたい。
メディアをコントロールできる唯一のものとして、そのメディア自身がある。つまり、「自社に直接関係する事件」はかなりの割合がなんらかの形でコントロールされる。
もちろん、自社に関係するといっても、報道媒体が「スポンサーが」なんて言うことは仕組み的にありえない。社員逮捕とか、自社の粉飾決算とか、そういう話だ。
しかし、それは民間企業として当たり前である。当事者性の観点からも、裁判が終わり事実が確定するまで自社では報道すべきではないともいえる。
そして、日本ではまったく別資本のメディアが無数にあるので、これを陰謀論の根拠とすることは不可能だ。
ちなみに、新聞社同士、テレビ局同士は仲間ではなくライバルだ。足を引っ張れるなら引っ張りたいとお互いに思いあっている関係だ。互いに擁護することなんてまずないだろう。
以上は蛇足だったとは思うが、僕は正直者なので念のため。
次に、なぜネトウヨはやたら無根拠に自国を誇るエセ愛国者なのかについて考察したい。
何かをなしとげたわけでもなく、だれかに認められた経験もない。
つまり、ネトウヨとは、自らのアイデンティティを確立することに失敗した人間たちではないかと僕は考えている。
そういった実績や経験は年を重ねて初めて身につけられることが多い。例えば、小学生で明らかな実績や経験を誇れる人間は一握りだろう。大多数の子どもは何ももっていない。
だからなのだ。
小学生から中学生の頃、親が社長だとか、親戚が芸能人だとか、自分が得たものではなく与えられたものについて、やたらと自慢する鼻つまみ者が存在したのは。
自分自身が何者でもないなら、自分自身以外から自分のアイデンティティを証明するものを持ってくるしかない。
もちろん、他所から持ってきた「自分が特別(他の人とは違う)だという証明」は、自分自身で積み重ねたものに劣る。
だから、ほとんどの人は年を重ねるにつれ、自分自身のアイデンティティを、自ら積み重ねたもので証明するようになる。
それは学校名だったり、職場名だったり、能力だったり、経験だったりするわけだ。
しかし、ネトウヨは何も持たない。正確には、何も持たないと自分で思っている者がネトウヨになりやすい。
ネトウヨは自分自身を卑下している。彼らにとって胸を張って他人に対して誇れる自分の「証明」が存在しないのだ。
そんなどうしようもない人物が、唯一手にすることができるのが「日本人」だということなのだ。
彼らはおそらくこう思っている。日本人は西洋人には劣るが、他のアジア人よりは優秀だと。西洋人には劣ると考えているため、西洋人に認められることをすごく喜ぶ。
親日的な西洋人のネタは2chのまとめブログでも人気の記事だ。一方で、アジア人(特に中国・韓国人)のことを見下しているため、アジア人に対してはまずバカにしてかかる。
しかし、残念ながら本来人種に優劣などないので、人口と土地の広い中国には必然的に抜かれそうになる。
その他新興国だって、遅れながらも成長をはじめ、先行した日本の地位を脅かし始める。
まあ社会が成長する過程において当然のことだし、まっとうな日本人なら、今の日本の発展を維持するか、今以上に成長させる方法を考える。
しかしネトウヨはそんなことは考えられない。そもそもそんなことを考える立場にもいない。それなのに、今のアジア人を見下す立場だけは死守したい。
それだけが自分の存在価値であり、人生において人を見下せる唯一の武器だからだ。
そうなると必然的にネトウヨはアジア人を叩く。とくに国際的な立場が日本に迫りつつある中国人と韓国人を叩く。自分たち自身を伸ばせないなら叩くしかない。
もちろんネトウヨがいくらわめいたところで現実は何も変わらない。でも、ネトウヨはそれしかできないからそうするしかない。
ネトウヨはアジア各国は劣っていると思いたい。日本はすばらしい優秀な国だと思いたい。
しかし、本当の愛国者は、自分の国が優秀だから愛するのではない。自分の生まれ育った国だから愛するのだ。
自分の国が優秀だから愛するのが愛国者なら、失敗国家に愛国者などいるはずがない。
愛国とは、親を愛する、子を愛するのと同じなのだ。ダメな親でも、ダメな子でも愛するように、愛国者は自分の国を愛するものなのだ。
親の悪口を言うことも、子の愚痴を言うことがあっても親子は愛し合うように、自分の国に対し批判的な意見を言っても愛国者だということは十分にありうるのだ。
ネトウヨはなぜ違うか。なぜ自分の国が優秀だと言い張り、日本の行動や歴史を批判する日本人がいれば必要以上に叩くのか。
それはネトウヨが日本を愛しているからではなく、ネトウヨにとって日本は自分のアイデンティティを証明するための道具にすぎないからだ。
道具の価値を下げられそうになれば抵抗する。それはネトウヨの気持ちになれば確かに理解できる行動だ。ただし、それが健全な行動だとは言い難い。そんなものが新の愛国者なはずがない。
どんな漫画でも映画でも小説でもなんでもよいのだが、今最も売れている漫画として、とりあえずワンピースを例にあげる。
ワンピースでは、主人公ルフィの血のつながらない兄として「エース」がいる。エースは大犯罪者の息子だ。そのために物心ついたころから差別されて育ってきた。生まれて来なければよかったと言われ、多くの人に憎まれた。
物語が進み、エースは白ひげという海賊に出会う。エースを憎むスクアードという海賊に白ひげは言う。
「親の罪を子に晴らすなんて滑稽だ。エースがお前に何をした?仲良くやんな、みんなおれの家族だぜ」
で、ここで多くの人が感動したと思う。
ワンピースは差別問題を積極的に扱っている。その差別問題のエピソードで打ち出されるメッセージはいつも「差別はよくない」だ。
よく思い出してほしい。差別されていじめられる子が登場する物語を。いつもその物語から打ち出されるメッセージは「差別はよくない」だったはずだ。
まあ、「差別しようぜ」というメッセージはかなりとがった媒体でもないと表現できないという理由もある。
しかし、それ以上に「差別はよくない」というのが僕らのモラル、そして常識と合致するからだ。だから多くの人が感動するのだ。
差別された悲劇に涙し、差別に打ち勝った勇気に打ち震えるのだ。それなのにネトウヨはアジア人を差別する。
では、彼らはワンピースに感動しないのだろうか。
いや、そんなことはない。もちろんネトウヨも人の子だ。ワンピースはともかく、なんらかの差別問題を扱ったストーリーに感銘を覚えた経験はあるはずだ。
少なくとも、ネトウヨに差別を肯定的にとらえているほど積極的に思考している人間は少ないだろう。
差別はいけないことであり、差別を克服する物語に感動するのに、なぜ彼らはアジア人を差別するのかということだ。
まず、単純だが愚かな反論として、「差別ではなく劣っているから指摘しているだけだ」というのがある。
まあ、「それが差別だ」との一言でおわる反論だが、あえて詳しく説明しよう。
・エースは大犯罪者の血をひいているだけあり、かなりの暴れ者だった。
それでも親の罪を子に晴らすなんて滑稽だし、黒人を犯罪者予備軍扱いしてはならないし、女性が学びの道に進むことを阻害してはならないのだ。
なぜなら、人には人権があり、差別されず正当に生きる権利があるからだ。一部のアジア人が不正をおかしたからといって、「あんな国は亡びればいい」だとか「あいつらは劣等民族だ」なんて言うことは明らかに誤りである。
2chのネトウヨが跋扈しているスレッドでは、目を覆うような罵詈雑言が「すべての」中国人や韓国人に投げつけられている。
彼らはワンピースに感動し、差別はよくないとうなずきながら、その手は差別用語を打ち続けるのだ。どうしてそのようなことがおこるのか。
続く→
◆美の追究一門
◆生活機能性重視派
◆性能重視派
◆ポエマー一門
◆語感がいいんだよ一門
ぼくもお答えします。
だんだん難しくなってきたのでついていけるかわかりませんが…
わかる範囲で答えたいと思います。誤解があったらすいません。
でもやっぱりちゃんと理解されるほうが嬉しいです。
「音楽を聞いて感動することはでき」ると私も考えています。ですから音楽表現の場合は私の述べた理解から共感に至るまでのプロセスはそもそも通用しませんし、最初から文章表現に限定した話をしたわけです。(書いてないことを取り上げて批判することは簡単ですが、それは藁人形論法という詭弁であることを指摘しておきます。)
絵や写真、音楽のような表現なんかは良し悪しや感動するしないがハッキリしていて理解や共感がしやすいけど、文章表現はそうじゃないという話です。
それもそうか…。音楽と文章を同じものとして扱っては余計わかりにくくなるのかもしれないね。
あと「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」なんていうのは思ってませんし、そういう話はしていません。
①人に文章表現を共感してもらうには②人から理解が必要で③そのためには発信者が正確で、分かりやすく書いたほうが望ましいという話であり、誰に対しても(自分自身に対しても)「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」というのは思っていないわけです。
そういう話じゃなかったのならぼくの誤解だったね。ごめんなさい。
ぼくはこう思うって話と
あなたはこう思うって話がとりあえず明らかになったのかなあ。
「この人の言ってることはよくわからないけど、なんとなく切羽詰まってる感じが伝わってくる」と書いてもらえれば大分理解しやすいです。
蛇足ですが、そういう人が現実生活にいた場合、相手の状態に拠って励ますか慰めるか共感するといった行動を個人的には取りますね。
文章だとそれが分からないので(文章だと相手の気持ちが分かったつもりになるのでそれは避けたい)、たぶんスルーしてしまいますが。
わかりやすかった?よかった^^
そうだよねーぼくも同じ立場だったらどういう対応をするかちょっと悩むなあ。
「完璧に論理的な文章を書くことのほうが難しい」のはもちろん同意です。というか難しいのではなくて不可能です。
「文章を書きたい」という気持ちは誰にも邪魔できません。そして文章を書くという行為自体は「敷居の高い行為」である必然性はありません。
ですが「何かを伝えたい」という目的がある場合には話は変わります。「何かを伝え」るということには当然のことですが他者の存在が必要です。
文章を紡ぐ行為の先に他者がいるということは必然的に文章が公共性が生まれ、責任が生じてきます。
そうした場合にはミスリードによって翻弄される他者も出てきます。
こういう事態に直面した時に取りうるスタンスは少なくとも2種類あります。
①「理解してくれる人はしてくれるし、してくれない人はしてくれない。」から誤解した人はスルーするというスタンスと、
②「理解してくれない人(大多数だと思います)に理解に近づけさせる」ために対話を続けたり、根気良く文章を紡いだりというスタンスです。
私は後者のスタンスです。そして前者のスタンスも認めています。
ただし前者のスタンスを採用している人たちには「人を翻弄している可能性を放置している」という事実を直視していただき、他者がいる文章表現に否応無く、避けがたく存在している責任=ハードルをぜひ自覚していただき、自覚の上でハードルの下をくぐるなり、きちんとハードルを飛び越えるなりご自由に行為を選択していただけたらなあと思います。
(念のため言っておくとハードルの下をくぐる場合でもヘイトスピーチなんかは避けてください。ヘイト野郎はどんな場合も美しくないと思いますので。)
ぼくは①と②のどっちのスタンスなんだろうなあ。
わかりやすいように書きたいとは思うけど
たしかに翻弄している可能性あるなあ。
翻弄してしまうのはイヤだけど
かといって「ある程度」以上の努力をしてしまうのもイヤなんだよなあ、わがままかなあ^^;
ハードルは飛び越えられたらいいなという願望はあるけどめんどくさかったらやめてるかも…。
「この世に神様なんていなければ世の中の宗教はほとんど詭弁だってことになる」と仰る意味がよく分かりません。
「この世に神様なんていなければ」という仮定が良く分かりませんし(だって神様が存在するか否か、実在するか否かなんて真偽の水準では判断不能ですし)、
「世の中の宗教」という言葉が組織としての宗教なのか、制度としての宗教なのか、人々の信仰対象としての宗教なのか、など
要するに、ぼくは詭弁を弄することが悪だとは思ってないってことかな。
読者に文章を理解させようとする気があるのなら
詭弁のような不当な推論はなるべくやめたほうがいいんじゃないか
もし、詭弁を使うつもりなら留保を付記しようって話だったかな(合ってる?)
うーん…。ちょっと考えてみる。
理解してもらいたいとは思ってるけど
だからといって詭弁を言ってはいけないのかどうかもわからないし
ミスリードは理解を困難にする…ような気がする。
もしそうなら、詭弁はなるべく少ないほうがいいってことになる?
ウソはついてないつもりだけど「つもり」なだけかもしれない。
なるべく詭弁を書かないつもりでいたいなら
この理解であってるなら、それに対するぼくの答えは
まず書いてしまいたい!ってことかな。
したくなったらやろうかな~。
ちょっと勉強する手間を惜しんでいるだけで
かなり間違ったことを言ってる可能性はあるのかもしれない。
そんなこと言ってる場合じゃないのかなあ。
私は貴方の「悲しいなあ」に関する表現を「『こいつはウソを言っている』と思われた場合、悲しい」と解釈しました。
それで今回の返信に「悲しいのは事実なんだよ。」と書かれてました。
私の解釈と貴方の書いたことを総合すると、「こいつはウソを言っている」と(私に)思われようが思われまいが関係なく「悲しい」ということで良いんですかね(繰り返しますが私は貴方が嘘を言っているとは思いません)。
いや、勝手な推測ですが、誤解されること自体が悲しいのでしょうか。
どういう経緯で「悲しい」と感じたのか仰っていただけると、こちらもそちらに配慮できるかもしれないので、うれしいです。
悲しいまでの経緯か~うーん・・・
的確に表す言葉が思いつかないけど
頭では誤解されることは仕方ないことだと思うけど
でも、実際に誤解されたときにはっきりと心がきしむ。
そう言いながらも実は「わかりあえるはずだ」と思っているのかもしれないけど。
「こいつはウソをついている」と思われているのならぼくは悲しい。
そう思われていないなら悲しくない。これはたぶんハッキリしてる。
誤解されること自体が悲しいということだと思います。
それは「(あなたに)誤解されることが悲しい」と言ったわけではないのです。
ぼくも「あなたに嘘つきだと誤解されている」とは思いません。
「もし誰かに誤解されることがあるとするならば、それは悲しい」ということです。
うーん・・・わかりにくかったらまた言ってください^^;
他者に「どう思ってくれてもいい」と思いながら「他者からどう思われてるかということを気にせずにはいられない」という感覚ってどんなものなんですかね。
「どう思ってくれても構わないけど誤解されると悲しい。でも誤解だろうがなんだろうが何でもオッケー。悲しいけど否定はしない。」ってスタンスなんでしょうか。
私は「ある程度こちらを理解してくれたらどう評価しても良い。明らかに誤解されてる場合は理解してもらえるよう努力する」みたいなスタンスなので後学のためにどんな感覚なのか理解したいです。いや、やっぱり書かなくて良いですよ。この辺でお話はやめておきましょう。
おおむねそんな感じです。
悲しいけど否定しないんです。
でも、諦めるってことでもないなあ。なんだろう。
ある程度の努力をしてみて
どこかにボーダーがあって、もうそれ以上は努力をやめようという気になる。
あれ?矛盾してる?
うん、「否定しない」はたぶん違う。
否定しないんじゃなくてぼくと相手の理解を近づけようとする。
それで…どこかはわからないけど
ぼくが相手に対して「この人はわかってくれたかも」と思ったら
理解を近づけることは一時停止する。
「この人はまだわかってくれてないかも」と思ったら
引き続き理解を近づけようとする。
でも、「まだわかってくれてないかも」と思う人でも
ぼくは理解を近づけることを一時停止することがある。
そのスイッチがどこにあるのかわからないけど、そんな場合があります。
「まだわかってくれてないかも」と感じるだけでも悲しくなります。
加えて、「わかってくれたかも」と感じる人でも
こんな感じです。
んー…ウソがあるかもしれない…。
あらゆる状況下でぼくの言ってることが
必ずしも再現されるかというとそうじゃない気もします。
まだわからなかったら遠慮なく言ってください。
長々と述べてきましたが、言いたいことは以上です。もしハードルの下をくぐるような無責任な文章を書いていくつもりならこれからもどんどん批判や指摘を行っていきますし、ちゃんと責任を意識した文章を書いていくのなら批判や指摘もしつつ応援していきますので、よろしくお願いします。増田ではなくてブログやツイッターなどのご自身のフィールドでやるなら批判も指摘も何も書きません。何れの文章記述のスタイルを貴方が採用するにせよ、私は貴方を応援しています。
批判や指摘は大歓迎です(でもやっぱり心がチクチク痛いです)。
わーい応援ありがとう^^
私も人が死ぬのは嫌ですし、弱い者の味方でありたいし、弱い者が弱いままで生きられるコミュニティを実現するかもしれない連帯の可能性を信じたいですから。
ちょっと救われました。ありがとう。
よかったらどうにかして繋がりましょう。
相手から文章を理解してもらい、内容を批判的に検討してもらい、受容されるというプロセスを経ない限り、文章に真に共感してもらうということはできないのではないでしょうか。
んーそうなのかなあ。わからないなあ。
あれって感覚だけのおおざっぱな理解なんじゃないかなあって思うんだよ。
あんまり言ってる意味が分からないけど、なんとなく心があたたまるような詩ってない?
「徹頭徹尾、理路整然としてなければいけない」なんてことはないと思うんだー。
もっと人の自由な感性を信じてるよ。ぼくは。
日常会話であればこうしたプロセスを経ずに共感(した振り)してもらえる可能性は残されています(そもそも日常会話においてでさえ共感してもらうというのは中々に困難であり、共感は僥倖ですが)。発信者が内容の理解しやすさに配慮しない場合でも、です。何故なら相手の誤解をコミュニケーションによって即時的に取り除くことが可能だからです。
あーたしかにそれはあるね。
口で話すより、こうやって文章に表したほうが伝わりにくくなってる気がするよ。
しかし文章表現であれば、発信者と各受信者で使ってる語句の定義や用法が異なるので、発信者側が文章を極力正確に、シンプルに記述し、理解へと促さないと共感など到底望めません。例を挙げると
「なんかわかるかも」って感じ
「難しいことはわかんない」って感じ
庶民感覚
という語句が曖昧すぎて何を含意しているか分からないので個人的には共感以前の状態です(理解できれば共感するかもしれませんが)。
うんwこれは何言ってるかわかんないかもねw
例えば
「この人の言ってることはよくわからないけど、なんとなく切羽詰まってる感じが伝わってくる」とか
そういう理解でも充分かな?
文章表現にすると伝わりにくいっていうのならなおさらね。
もっとシンプルに書ければいいんだけど難しいなあ。
それは書いて練習したいなーって思うよ。
よって読者(受信者)に文章を理解(そして共感)させるには、文章を破綻させたり読者をミスリードさせたりする詭弁のような不当な推論はなるべく(能力的に可能な範囲で)避ける必要があります。もし詭弁表現を使うのであれば留保を付記してから用いるのが良いでしょう。
もちろんここまでの水準での共感を望んでいない(つまりみんなに共感した振りをしてもらいたい)場合には別にどのように記述してもよろしいかとは思いますが、全うな読者の多くからトンデモだと思われる可能性は覚悟しなくてはなりません。
トンデモだと思われる可能性は常にあると思う。
ぼくはむしろ、完璧に論理的な文章を書くことのほうが難しいんじゃないか?って気がしてて
それで、「文章を書きたい」とか「何かを伝えたい」って思い、行為は
そんなに敷居の高い行為でなくてもいいんじゃないか?とはぼくが個人的に思うところだよー。
理解してくれる人はしてくれるし、してくれない人はしてくれない。
ぼくはそれでいいかな。
ちなみに私は「こいつはウソを言っている」とは思いません。
ほんとに??
それだけでもすごい助かるよー!
あ、でもぼくは「あなたがウソだと思ってる」とは思ってなかったけどね。
そっか~少なくともあなたにはウソとは思われてなかったのか~^^
「この人は言説に詭弁を用いてる自覚があっても言説を真だと思える人なんだろうなあ」(私は詭弁があると真偽の判定以前の問題だと思うので)
うーん。どうなんだろう。
そうかもしれないなあ。
この世に神様なんていなければ世の中の宗教はほとんど詭弁だってことになるけど
ぼくはどっちでもいいなあ。
「他者から批判された時に『悲しいなあ』というフレーズで自身の文章表現のまずさの責任を他者の誤解へと転嫁してしまうことを恥じない人なのかなあ」(そもそも他者が誤解するのは当然というか必然的ですし、きちんと理解されることの方が異常ですから他者の誤解に一々落ち込む意味などあまり無いのですが)
恥ずかしくないよー悲しいのは事実なんだよ。
文章がまずいのか誤解してるだけなのか(自分の文章がまずくないとは思わないけど…)
自分の文章がうまくなくてもいいって思ってるんだ。
相手の理解力にあまり期待もしてないし。
わかりやすいようには書いてるつもりだけど、自分が書きたいって思う気持ちを優先させてる。
だからといって、「まず人様に見せられるちゃんとした文章じゃないといけない」なんてことは思わないから
だから、誤解されるのは仕方ないけど
やっぱり悲しくなるなあ~凹んでしまう。
ぼくも仕方ないから気にすることないだろうと思ってたんだけどね…。
どうも、他者からどう思われてるかということを気にせずにはいられないみたいだ。
どう思ってくれてもいいんだよ。
1年無職で暮らせないでもない金って200万?300万?もうちょっとかな?稼ぐのも貯めるのも大変な金ではあるけど
そんくらいの金、一回災害に見舞われたらすぐに吹っ飛んじゃうような額なんだよ。
君と君の両親の住んでる処が、津波に襲われたり緊急避難区域に指定されたりしたら、必然的に使い道の決まっちゃうような金なんだよ。
悪い事は言わないから手をつけるな。貯めておけ。
それから、増田は今鬱っぽい状態みたいだけど、金持ってる奴が変にうつ病の治療して躁転すると金を使いすぎて後で後悔する事になるから
明らかに二極化は起こっている、それは分野普遍的で要するに限られた一部の選良とその他に分かれつつあるかもしれんということは毀誉褒貶激しくともしばしば指摘されつつあることではある。
ただこの情報化社会の適応の如何でこうもいわゆるQOL,人生の楽しみの度合いみたいなものが変わるのは如何なものなんだろうかなあ。
はてな村民ならわかると思うんだが、インターネットの海の泳ぎ方が分かるようになってからは、それはもうこれまでの行動様式なんてあまりに貧しいものに見えるはずだ。最近久しぶりにテレビを見ることが合ったんだが、なんだあの体たらくは。本当に心から面白く無いと言えるし、これがお茶の間に陣取って人々のアンテナの枢要な部分を占めているというのならそれにはもはや危機感すら感じる。
いや、いいんだけどね。別にさ。正直その多数に対して情報的な優位性が構築できて我々情強ッス、みたいな顔できるってのもあるからさ。ただ、なんだろう、いわゆる「分かってない奴」と話したときに感じるあの対話の断絶といった感じのものはやはり筆舌に尽くしがたいものがあるよ。なんでそんなことも知らないのだろう。疑問の深度が明らかに情報力において優れている型のそれとは異なっているんだよね。
正直まだ少数であって、虐げられる立場にあるかもしれん。以前香山リカが指摘したように、2ちゃんねらー的な過剰適応した人達が、いわゆるリア充たちのAKBのどの子がいいかなんて表層的な会話に合わせたくなくなるのはあまりに必然なんじゃないかな。そんな話をしている間に僕らはフジの免許制と今後の電波行政がどう向かうのだろうね、なんて夢想してたりするしね。いや別に貴賎を論じたいわけではないんだけどさ。
まあのんびり行こうよ。ただやっぱりこれからの時代が求めるものというのはあるし、自分がその潮流をキャッチしたのなら少数派に属するのなんて恐れちゃいけない。そういう時代は既に始まってるんじゃないかな、あらゆる側面において。
社員にまともな給料払ってる会社(ホワイト企業)と、サビ残させて不当に安い給料で働かせてる会社(ブラック企業)が、
同じ土俵でコスト競争しなきゃいけなくなったら、普通に考えたらブラック企業の方が残るだろう。人件費安いから。
業界全体がホワイト企業だけになれば、不当なコスト競争を強いられることもなくなるし、
今までサビ残で賄ってた労働力を新規雇用しなきゃいけなくなるから、失業率は下がるはず。
競合他社が労基法違反してたら労基署にチクるとかして潰しちゃえばいい。
悪評を垂れ流して、まともな取引先や求職者が相手にしなくなればいい。
多分この人だと思うんだけど
俺ちょっと前にこの人かこの人によく似た人に絡まれてさあ。
その手の口喧嘩としては珍しく勝敗がついて(俺が勝った)相手がいなくなったんだけど、
そしたら猛然と「この口喧嘩はどっちもお前が書いただろう、自作自演だろう!」って絡んで来る人が現れてさあ。
さすがに
「そんなことして俺に何の得があるんだ」
「だいたい動機を抜きにしても、俺の文と相手の文は全然違うじゃねえか、
同一人物と思える類似点があったとかいうなら面白いから教えてくれ」
というような反論をしたら
ゴニョゴニョ言いながら消えちゃって
結局「自作自演と見破った確証」は出してもらえずじまい、
っていうことがあった。
いや、ここで自作自演してる奴がいないとは言わないよ?
でも合理的な自演の例ってたとえば
・口喧嘩で反論に窮した側が第三者を装って自分に加勢、相手へ人格攻撃する
・ホッテントリ狙いで自信作投下した人が上手く注目集められなかったので自分でトラバしまくって元記事に視線誘導する
とかそういうのでしょ。
ほんとにただ、くらだない口喧嘩してるだけでさ。
で、自演だと思った理由だけは答えてくれたんだけど
…そんな状況は
誰か数名が延々口喧嘩をしてれば容易に、ていうか必然的に出現するよね?
俺と相手以外には何の重要性もないゴミツリーだからブクマがつかなかっただけじゃん?
マジで頭どうなってんのよこの人。
アート主体(そして、およそ全ての創作者)の個性は、感性、発想、技術の三要素に分解される。感性とは「何を創造するか」、すなわち創作のテーマを決定する意志である。発想とは「創造すると決定した『何か』をどのように想像するか」を決定する思考である。技術とは「どのように創造するか」を遂行する能力である。優れたアート(そして、およそ全ての創作物)は、上述した三要素のいずれかひとつ以上が優れているアート主体によって生み出されると言っていいだろう。
例えば、ここで紹介されているアートを、先ほど挙げたのとは逆順になるが、技術、発想、感性の面から見て行こう。技術については、作品の精巧な彫刻を見れば疑う余地は無いだろう。作者はこれをナイフとピンセットと外科器具によって製作しているというから驚きだ。発想も面白い。石を使う代わりに本を使って彫刻を行ったことだけでなく、例えば医学書から人体解剖図を彫り出すなど、本の内容を作品に生かす点が粋だ。
そして、最後に感性である。これは眼前にある作品から推測するしかない。だが、私は、作者の感性は「引き算と足し算のアート」にあると推測してよいと考える。本来、彫刻というものは引き算のアートである。そこに何らかの足し算(この例であれば、彫刻する対象自身の特性や、イラスト的なワンポイント)を加えることにより新たな価値を生み出そうという意志が、作者のアートには潜んでいる。重要なのは、その意志の良し悪しではなく、その意志がブレずに確固として存在することである。作者の一連の作品を見れば、その一貫性から、意志の確固たる存在は明らかであろう。
▼
では、黒瀬陽平の、いわゆる「KASANE」アートの技術、発想、感性を見てみよう。まず、技術は陳腐であると言わざるを得ない。なぜなら、他者が容易に解析・理解・模倣することができるからである。既に黒瀬の技術と同等のウェブサービスが公開されていることからも、技術の模倣可能性は疑いようがない(せめて「KASANE」るだけでなく、元画像を切り刻んだり回転させるなどの技術があれば、模倣不可能になったかもしれないのだが)。次いで発想だが、これも独自性は皆無である。画像を「KASANE」ること、すなわち差の絶対値などのモードによって画像群を統合することは、Photoshopなどの画像編集ソフトウェアに機能としてあらかじめ用意されているからである。
さて、最後に感性だ。これはやはり推測するしかない。ここで我々が立ち返るべきは「カオス*ラウンジ宣言」であろう。この宣言には「アーキテクチャによる工学的な介入」という言葉がある。これは「ウェブサービスの作りが人間の思考を規定する」と解釈するべきだろう。ここで言う「ウェブサービスの作り」とは、例えばGoogleであれば「PageRankに代表される種々のアルゴリズムによるウェブページのランキング」、またpixivであれば「デイリーランキングなどの公開ランキング」である。そして宣言にある「アーキテクチャによる工学的介入の結果」というのは、Googleであれば「検索エンジン最適化によって検索結果の上位に順位付けられたウェブページ群」、pixivであれば「ランキング上位を狙った流行ジャンルのイラスト群」と読み替えるべきだろう。こう読み替えれば、宣言の「人間の内面は、アーキテクチャによる工学的な介入によって蒸発する」という言葉は「人間は自身が作りたいものではなく、ウェブサービスが規定する『上位』に位置付けられる可能性が高いものを作るようになる」と解釈できる。これはスパムブログや「ジャンルゴロ」の存在を鑑みるに、決して的外れな解釈ではないだろう。
また、カオス*ラウンジ宣言には。「彼ら(註:カオス*ラウンジから生まれたアーティスト)は、アーキテクチャによる工学的介入の結果に対し、さらに人為的に介入を試みるのである。彼らは、アーキテクチャによって、自動的に吐き出される演算結果を収集する。そして、自らがひとつのアーキテクチャとなって、新たな演算を開始するのだ。」ともある。「工学的」と「人為的」という言葉の差は介入主体がプログラムであるか人であるかの違いを表していると読むのが自然だろう。また、文章構成から二・三文目は一文目の詳説となっているため、「演算」は単に「介入」の言い換えだろう。
ここから必然的に推測されるカオス*ラウンジの、そしてその代表者たる黒瀬の感性は「自らのアート活動(=人為的な介入)によって、各種ウェブサービスの「上位」コンテンツ(=工学的介入の結果)を規定する」ことだと言える。誤解を恐れずに平たく言えば「ウェブサービスのルールを変更する」ということである。これは、例えばGoogleに対してはランキングアルゴリズムの自発的な変更を促すこと、また、pixivに対しては流行ジャンルを変化させること、あるいは創出することを意味している。これだけ見れば、実に壮大な感性である。
では、その感性は、その意志は、黒瀬の「KASANE」アート作品に宿っているか。私はおそらくNOだと考える。なぜなら、彼の作品によってGoogleのランキングアルゴリズムあるいはpixivにおける流行ジャンルが変わったという話を耳にしないからだ。彼の感性が作品に確固として宿っていれば、種々のウェブサービスが彼の意志を汲み取り、動いてしかるべきだろう。ただ、この点においては私の観測範囲が狭いことも考えられる。また、彼のアートを理論的に解析しきれていないことも、私は否定しない。もし、この文章を読んでいるあなたが彼を擁護したいのであれば、ぜひそのようなウェブサービスの動向、あるいは彼のアートに対する理論的な解説を示して欲しい。
▼
もし、黒瀬自身あるいは他の誰かが黒瀬の感性を示すことができなければ、彼はアート主体としての存在価値を問われる。あるアート主体がアート主体として存在する価値は、その主体の個性=再現不可能性によると言っても過言ではない。あるアート主体にしか生み出せない作品があるからこそ、そのアート主体は他のアート主体と明確に区別されて存在することができるのだ。既に黒瀬の技術の模倣不可能性と発想の独自性は否定されている。その上で感性の不在まで示されてしまった場合、もはや彼のアート主体としての存在価値は皆無である。すぐに、彼と同じ技術と発想を持ち、しかし彼とは異なる感性を持ったアート主体たちが、彼に取って代わるだろう。もし「黒瀬は最初から『KASANE』の流布を意図していた」というような言葉で彼を「擁護」する者がいるのであれば、彼のためにもやめておいたほうがいい。「KASANE」に関する彼自身の発想と技術が否定された今、その言葉は彼のアート主体としての再現可能性をわざわざ示す言葉に他ならないのだから。
政治に民意が反映されていないとして長らく選挙制度改革や利権構造の問題などがメディアで取りざたされてきましたが、実際には選挙制度が変わっても利権や圧力団体をいくら叩いても「民意が反映」されるようになるどころか政治がますます民意から離れていくだけでした。
「圧力団体」「利権」とは言いますが、「選挙」と絡み合ったこれらの動きは実は「政治」に最大公約数的な民意を反映させる仕組みでもあり、こうした構造の上に日本の政治では長期にわたる安定した政権と安定した成長が保たれてきました。
選挙制度改革も、結局、従来の支持基盤を分断・破壊し、政治に有権者の声が届きにくい構造へと変わっているのが実情です。
マスメディアがやってきたことは現実には「民意」の分断と「体制」の破壊であったと言えます。
マスコミ業界には元々「インテリゲンチャ=体制・権力の分け前にあずかれなかった知識階級」が多く、そのため必然的に反体制的な性格をおびてきます。
さらに大衆の人的ネットワークを破壊し、メディアがそれに取って代わることはマスコミの「利益」にも合致したために、この破壊活動は長く、執拗に続けられてきました。
その結果が55年体制の崩壊・そして史上希に見る無能政権などの政治の混乱であると言えます。
マスメディアに悪意がある黒幕が存在するわけではないかも知れない…
しかしながらその出自からして「反体制的」であり、かつ「大衆」と「政治」を結ぶ人的ネットワークを破壊し、世論への影響力を強めることは「マスコミの利益」でもあるため、マスコミの持つ本質的な性質が有害に作用しているというのが現在の状況と言えます。
近年、マスメディアによるインターネットへのネガティブな対応・攻撃姿勢の背景にも、マスコミの影響力を弱めるような新たな人的ネットワーク構築を阻むという、いわば「マスコミの本能」があると言えます。
これが「政治」と「民意」を本来は結びつける「メディア」の役割を弱体化させ、現在の政治の混乱を招いている元凶と考えられます。
諸外国ではネットとマスメディアの関係にも共存の傾向が見られますが、「ネットに対応できない世代」の方が多数派である日本においてはマスコミの徹底的なネットとの対立が存在しています。
…「メディア」の在り方を健全化し、人的ネットワークを再構築することが必要ではありますが、残念ながら日本ではその可能性は絶望的なようです。
自分もそこら辺ひっかかった。
この定義だと広すぎてカオス自体が「コミュニティ」含まれてしまうのでは、とか
「原著作及び二次創作の送り手と受け手」まで限定したとしてもやはりまだ(二次創作者でもある)カオスが含まれるんじゃね?とか
この定義だと、これまたカオスが作った二次創作物はどうなるの?とか
http://anond.hatelabo.jp/20110803024921
『オタクコミュニティにおける「二次創作」はその成果物が必然的にコミュニティに還元されるので収奪ではない。』ってところがよくわからなくて、例えば二次創作コミュニティの中にも一次創作者や第三者がみたらちょっと目をそむけたくなるような割合が多い表現ってそれなりにあると思うんだけど(自分の主観で申し訳ないんだがR-18Gとか)、これだとそういう表現をもひとまとめに収奪としてしまいかねない気がする。
実際はそういう人たちも特に収奪とは認定されてないし、二次創作コミュニティの中にもそういうものとして存在しているし特にそれで問題はないはずなんだけど、だとすると前者とカオスラとの差はどこにあるのかということにならない?
元記事を正しく読んでほしい。二点、指摘する。
ついでに二点、蛇足する。
タイトルで言いたいことは言い切っているのだけど、以下補足。
「カオス*ラウンジがこうなら二次創作同人*1は〜」という言説は比較として正しくない。「カオス*ラウンジ」は現代アートの活動主体のひとつであり、「二次創作同人」はジャンルを指す言葉だからだ。正しく比較するなら「カオス*ラウンジがこうなら【ここに個々の二次創作同人主体(サークルもしくは作家)】は〜」もしくは「現代アートがこうなら二次創作同人は〜」である。
では「カオス*ラウンジがこうなら個々の二次創作同人主体は〜」という比較を考えてみる。文脈はもちろん著作権である。著作権法をあくまで愚直に適用するならば、原著作者の許諾を得ない限り、前者も後者も違法であることに疑いはない。ここでよく持ち出されるのが「二次創作同人は黒ではなくグレー」「〜版元から黙認されている」という言葉である。これは、二次創作同人でも言わば「一線」を越えてしまった事例が存在する(有名なものでは、ときメモビデオ事件*2、ポケモン同人誌事件*3、ドラえもん最終話事件*4など)ことを考えれば、全ての二次創作主体に対して適用できるものではない。しかし、それでも、多くの二次創作同人サークルや作家は原著作者から訴えられることなく活動している。
なぜか。もちろん、主体の数が多すぎて原著作者が訴えきれない、あるいは主体の経済的な利益が小さすぎて訴え損になるという考えはある。しかし、それに加えて、私は彼/女らがコミュニティにその成果物および/または価値を(結果的)に還元しているからだと考える。ここで言う「コミュニティ」とは、原著作の送り手、受け手、その他一切合切の関係者の集まりという意味である。彼/女らの成果物はそれが二次創作物であるがゆえに、必然的にコミュニティに還元される。二次創作物によって原著作のファンが盛り上がり、その盛り上がりがより深いコミュニティを形成し、さらに新たなファンを呼ぶ事例を、私はこれまでに何度も見て来た。とある作品の同人イベントに原著作者がお忍びでやってきて、参加者に対してこっそり「ありがとう」という言葉を残していった例も知っている。また、価値の還元としては、二次創作同人活動がきっかけで、その原著作者と関係がある商業媒体に登用された二次創作同人作者も知っている。価値とは何も経済的なものに限らない。むしろ長期的に見れば、人的な価値の還元は経済的なそれよりも利得が大きいだろう。
さて、カオス*ラウンジである。彼らは他のコミュニティから収奪を行っていると言える。彼らのホームグラウンドたる現代アートからでなく、オタク系の諸コミュニティから、だ。彼らはその「アート」の素材をオタクコミュニティに依存しているにも関わらず、その成果物は現代アートコミュニティに向けて公開されており、しかし彼らが得た価値はオタクコミュニティに還元されることはない。控えめに言っても、カオス*ラウンジからオタクコミュニティに向けて、オタクコミュニティが有する価値(=カオス*ラウンジにとっての素材)の利用について対話の申し出がなされた例を、私は知らない。この申し出は価値を利用される側であるオタクコミュニティからでなく、利用するカオス*ラウンジからなされて然るべきであろう。この対話を行わないまま、または不十分なまま事を進めるのならば、カオス*ラウンジはオタクコミュニティからの批判を甘受しなければならない。その上で、アートの力でもってオタクコミュニティを納得させる、素晴らしい作品によってグウの音も言わせないのが筋だろう。このふたつができないのならば、彼らの括弧書きの「アート」はアートではなく、ただの収奪に過ぎない。そして事実、オタクコミュニティからは彼らの「アート」活動に対する批判が上がっている。「水かけアート」に対するデザイナーからの批判*5が最も分かりやすい一例だろう。
そう、カオス*ラウンジの「アート」の諸問題の本質は、著作権法論でもなく、同人論でもなく、実はアート論でもない。コミュニティ論なのだ。対話が不十分なままに収奪する者と、収奪されることに反発するコミュニティの問題なのだ。したがって、この問題は次のいずれかが為されなければ解決したとは言えない。カオス*ラウンジがオタクコミュニティからの収奪行為を謝罪し、今後一切の収奪を行わないという宣言をし、それを履行する。あるいは、カオス*ラウンジが行う「収奪」行為が収奪でないとオタクコミュニティに対して対話または括弧書きでないアート作品の発表による説得を行う。それまでは、収奪されたオタク系の諸コミュニティ側からの「作品を勝手に使うな!」という類の非難は許され続け、カオス*ラウンジが許されることは決して無いだろう。
当たり前の事だけど、お互い成人で働いてると
10代の頃のように自由で頻繁に遊ぶ事はできない。
職種や忙しさにもよりますね。
(収入は少ないけれど)
何度か会った事ある人も多い。
長期間の付き合いが可能。
でもお互い、一応成人で働いてるし環境も異なる。
例え2年以上毎夜語り合ってきた仲でも、自然にネット上からフェードアウトしていく。
それは止めることはできない。お互い年齢が上がれば更にそれは加速する。
今のところはその気配はない。
中には、実際に会うまで発展させることも多い。(お互い恋愛感情抜き)
徐々に交流が少なくなっていく。
(それでも完全に仲が終わったわけじゃなく、最初は毎日連絡取り合っている仲でも、
いつしか1週間に1度、1ヶ月に1度、半年に1度・・・という風に間隔が開いていく)
そういった仲でなければ、何年も何年も頻繁に語らうような友人にはなれないんだなって。
(もちろん、友人の定義とは交流を頻繁に取らなくても仲が続いてる事を言うが)
SNSを見ても以前のように相手が頻繁に来なくなっていく様を見るのは寂しいものがある。
住まいが近所だったりすれば、頻繁に直接会う事もできるけれど、
なかなか近所の人間は見つからない。会えたとしても電車や車を利用して
わざわざ遠地から訪ねてきてくれる時だけ。
相手がフェードアウトしてく時期になれば、こっちも自然と他に新たな仲間が見つかりまた同じように仲を育んでいく。
たぶん自分自身が大きな環境変化(主に仕事)が起きなければ、同じような感じで歳を重ねてくんだろうなって思う。
ほぼ一生の友といえるような友人って、できるもんなのかなとたまに疑問に思う。
実はそれって、ネットだからとか関係なく現実での知人だとしても、
趣味が合う程度じゃ、電話やメール、日記等だけのやり取りだけじゃ何年も何年も交流できないのかもしれないね。
特に、近い場所に住んでいない というのが大きいのかもしれない。
そんだけの話。円高もそれに拍車をかけている。
昼間の再放送の枠が全部韓流になったなとか、通販ばっかだなと個人的に思うことはある。
しかし、通販番組がこれだけ多いのは裏に何か巨大な組織がいるのだろうか。
高田社長は実は悪の枢軸で、裏で何かつながりがあるのだろうか。
ない。コンテンツを生み出す能力がないなかで、安いコンテンツで枠を埋めれるものがそれだからにすぎない。
ある程度の品質のコンテンツが物価の安い国から出てくればこうなることは必然だった。
文化集団的に言えば、かつてだったらビジュアル系のファンになっただろう少女がボーカロイドに吸収されているように
かつてであればビルボード洋楽、ジャニーズに憧れるようなファン層がK-POPに引き寄せられている。
ビジネス的に回っているのだから、それを止めさせたいのならば法的に海外の文化輸入を規制するしかないだろう。
もちろん、そんなことをすれば、海外で評価される日本文化のダブルスタンダードが批判されるだろう。
あるいは、自前で韓国モノより高い視聴率を持つ番組を恒常的に制作する能力を作りなおすしかない。
今回の高岡蒼甫の件は、ビジネスで世界が回っていることを知らず
通販番組が多いのにはその裏に何か組織が浸食しているという構図を信じこんでしまったような、哀れな若者の例だろうと思う。
まあ彼ももう29歳なんだけど。
__________
【追記】
人権擁護法案やら特攻隊の手紙やら日本が侵略されるやら自らを特攻隊や三島由紀夫に投影したりと、あまりにも典型的なパターンばかり。
この国のことを考えようと彼は繰り返すが、そのソース元を検証しようとする姿勢が全く見えない。
あまりにも分かりやすい世界の理解の図式を知って、愛国心の名の下に気持ちよくなっている。
この「韓流が多いのは通販番組が多いのと一緒」というのも一方では真実で、また一方ではそれだけでは説明がつかないのと同様に
世界は複雑で一つの図式で理解なんて出来ない。その世界の図式を理解している、真実を知っていると語る奴は疑った方がいい。
彼は法的、経済的、文化的解決策を示さず、実態を知ろう、ここは日本だ、この国を愛しているを繰り返すばかり。
彼のような影響力のある俳優がこういうことをおおっぴらに語ってナショナリズムを喚起することに嫌悪感と危険さとむなしさを感じる。
俳優としての彼が個人的に好きだっただけに、非常に残念だ。