はてなキーワード: 大学全入時代とは
人間の知能の尺度が学歴で測れるかどうかは別として、大学のレベルをある程度の知能の目安として考えたら、日本人の普通レベルの学歴ってどれくらいなの?個人によって色々とあると思うけどざっくりと考えて。
調べてみて驚いたんだけど、ネットではだいたい旧帝一工以外はFランみたいな感じがあるけど、国公立大全体の進学者数でも同年齢人口の数パーセントしかないんだよね。
大学全入時代といっても、大学進学者数は同年齢人口の半分くらいしかないから、日本人全体の普通レベルの学歴は大学に行くか行かないかぐらいの底辺私大・専門学校レベルになんのかな。
一般的な普通の日本人の知能が、底辺私大・専門学校レベルだと考えたら何だかなーってなるなぁ。
まあ、はてなーの平均的な学歴を、MARCH関関同立駅弁レベルと考えても、知能レベルで言えば日本の上位層の人たちがうんこ漏らしただのプリキュアだのなんだのやってるから、それも何だかなーってなるけども。
去年の僕のtwitterプロフィールに一時期掲載していたのをまとめた。誰のためでもない。自分の為でもない。
参考
僕のtwitter
前編:http://anond.hatelabo.jp/20130522180321
後編:http://anond.hatelabo.jp/20130522180539
題名:無題
何のために大学にいくのかと問われて、即答できる現代人は少ないだろう。かつて大学が数えるほどしかなかった頃、人は大いなる志と目標、夢を抱いて大学の門をくぐった。しかし、昨今の少子化と飽和状態と化した大学数のミスマッチは大学全入時代を招き、結果として「何と無く」「みんな行っているから」「学歴のため」といった本来大学に不要n
幼い頃からKO大学に行くことが夢でした。福沢先生の著作を読み漁り、キャンパスに何度も足を運び、大学の授業にも何度も潜り込みましたが、なぜか勉強できませんでした。そうこうしているうちに、僕は大学でやりたいことがないことに気づきました。KOに入ること、それだけが全てだったのです... (自伝「信者の目録」前書きより抜粋)
題名:何も産み出せない
TSFにしても、今まで3年間やってきた無駄な行いにしても、共通しているのは情報を消費しているだけで、何一つ産み出せていないことです。もちろん生きている限り全くということはないのでしょうが、その全てが自己満足で他人から評価されるようなことが全くと言ってないのです。まるでカルト宗教の信者のように。
なぜ虎になったのか。自分は周りの声を無視して上京した。親はそれを傲慢だと言ったが、実は臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の為せる業だったのだ。本当はただ勉強したくなかったからという理由を自ら認めるのを恐れ、そうかと言って、苦労して勉強以外の才を磨くのもできなかった。それが心中の虎であり、ついに本当に虎になったのだ。
養老孟司さんの著書によると、今後生命科学分野の進展によって「進化の遺伝子」が抽出される可能性が出てきたようです。分かりやすくいうと天才のDNAですかね。それが抽出された瞬間、我々凡人の存在意義は無くなります。何事も遺伝。例えば代々東大出身の家系の人はそれまで全く勉強してなくてもたった一年で東大合格したりしますからね。
養老孟司「我々がどんなに頑張ってもイチローにはなれない」by痛い信者
自分は何のために存在しているのかという疑問は、実は地元の高校に入学した時から持っていました。その後その負担に耐えきれずに、自分探しと称して学業を放り投げ東京へ。後は増田の通り。自分なんて東京のどこにもいませんでした。結局今の自分は、勉強の他にもこういった「超えるべき壁」からも、ずっと逃げ回った結果なのかもしれません。
業績業績とせっつかれているのはどこの研究者も同じだと思うんだけど、私大は特に熱心なんじゃないかと思う。
クビになりたくないという心から捏造をしてしまう研究者が出てもおかしくない状況ではある。
落ち着いてじっくり考えて研究するより、クソ論文でも一本だしたほうがいい状態だもの。
できるだけインパクトファクターの高い論文誌に、できるだけ多くの論文を掲載させる。
学生のコピペレポートに関しては、大学全入時代が現況だと思う。
進学の理由「みんな行くから」「大学入らないと就職がきついから」、専攻を選んだ理由「一番成績がよくて入れそうだったから」「暗記で試験突破できるから」
しかし、経済が縮退すれば全て壊れてしまう。大学や専門学校は高校と強いパイプを構築して高校生を進学に誘導するし、一般的な高校生は「高卒で就職」という情報をほとんど目にしないし、一般的な家庭は「高卒で働け」とは言わない。(大学に行け、とは言う)
就職状況は不安定になり、賃金は下落し、多くの企業はいつまでも大卒ばかりを採用し続ける。
という感じで、貸与型奨学金を廃止すれば格差が広がるけど、「分相応の結果」として却って幸福度が上がるんじゃないかと思う。
あ、そうそう、「自己責任」とか吠えてる奴って借りてる当時が未成年だったってことぐらいは頭回ってるんだよね。当然貸与型だろうと連帯保証人が必要だからね?
「一家もろとも路頭に迷え」って言ってるなら別にいいけど。
今どきの新しい軽自動車でも高速道路で流れを乱さない程度に走るには不安になるぐらいエンジンをぶん回さないといけないし、
ぶつかった時の壊れ具合なんか見てると走る棺桶に見えてくるし。
中古で探すと小さい普通車よりも軽自動車の方が高いことも結構あるわけで
そりゃそうだよね。
普通車よりも安い税金ですむ軽自動車の思想設計はアメリカなんかじゃ考えられないものだし。
アメリカを儲けさせることを目標にしているTPPも日本という土俵においてアメ車と軽自動車がぶつかってもどちらが潰れていくか明らかなんだからね。
まぁ、他の排気量の車でもアメ車と日本車だとどちらがより好まれるかはわかりきったことなんだけど。
そして本題。
小さい普通車と軽自動車の年間維持費の差は保険等々も含めて5万円以下。
そのまま自動車税のみで考えると差額は2万円程度。
これらを高いと思うかやすいと思うかは自由だけど、20代の方々の一つの基準である年収200万程度であっても捻出できない額ではないと思う。
月収の三分の一なので、切羽詰まった状況で無い限りで払えるぐらい。
しかし、こういう考え方自体が間違っているわけで。
その証拠に軽自動車はよく売れているんだよね。
今の若い人達に言えることだけど、大学全入時代の弊害とも言えるもので奨学金の返済なんかが馬鹿にかかる。
一部の裕福な家庭を除いてみんな借金してる。
それも今まで使っていた分で300万とかの借金を背負ったまま社会にだされる。
10年か20年ぐらいかけてゆっくり返済するんだけど、それだってきつい。
でも見立てがつかないから無理してしまって少しばかり親に払ってもらったりね。
これが本当にきつい。
自営の方もおんなじ。
大体子供がいて若い方は養育費と教育費がかかるし、子供がそれなりに大きくなったときは子供の奨学金の返済の助けとか、あるいは車の購入資金の建て替えなんかしないといけない。
それなりに年収があって働いている人は現金一括か自動車ローンを組んですんなり自動車に乗ることができる。
当たり前に幸せな家庭になるんだろうね。
必要に迫られて、あるいは見栄を張って無理をして購入するわけだ。
すでに借金にまみれていてまともなローンを借りることもできない。
しょうがないから家族に頼んだりおじいちゃんやおばあちゃんに頭下げたりするんだよ。
そして車を買うときにみんな言うんだ。
軽自動車を無理して買うぐらいなら、公共交通機関を利用しなさいという人もいる。
それはぜんぜん違う。
だってみんな車持っているのに自分だけ買わないわけにはいかないから。
みんな自動車を無理して買っているのにそれに合わせて無理しちゃう悪循環。
やめればいいのにね。
たまに、こういう人たちは保険に入っていなかったりするんだよ。
ぎりぎりにバランスを保っているだけの生活を送っている人はちょっと車をぶつけただけで首が回らなくなる。
だからこそ用心深い怖がりは車を持たなかったりもする。
その年で車持ってないのと馬鹿にされることもあるけどね。
ちなみに軽自動車の自動車税を増税することに対して「弱い者いじめで、悲しい」と発言したらしいスズキの会長の発言からこの記事を作成いたしました。
私の私怨がかなり混ざっておりますが、悪いのは自分だということはわかっているのでこんなところで書き連ねることしかできませんで。
最後にもう一つ。
この意味はもう買い方から違うっていうことが上の文章からわかっていただけたと思う。
お金はないけど車がほしいっていう人たちの頼みの綱。
つまりこれが本当の火の車というわけで。
財源はどうするんだ?なんていう野暮な話はなしで。
そりゃ最初はiTunesUとかYoutubeでの講義だろうよ。
「一般向けじゃあ高度な講義は出来ない」
「討論はどうなる?」
そういうのもとりあえず置いておこう。
おそらく、学生の質の担保が次の問題になるよな。
それだって、評価方法の効率化、正確化によって解決される技術的な問題にすぎない。
一つは、質の高い学生を集めることによって、質の高い講義を行えるということだと思う。
しかし、入学試験で学生の数を絞ることによって学生の質を保つよりも、入学者を増やし、いや、実質的に入学などという制度はなくし、無限に聴講生を増やしたほうが、質の高い学生の頭数は増やせるはずである。
もちろん、活発な討論を期待したかったら、それは有害だと言わざるを得ない。
無数の駄馬の中にG1馬が何馬いたって、いいレースになるわけがない。
無限の聴講生を受け入れたところで、成績によって学士資格を絞ることは可能なはずだからだ。
ここで、考えを切り替えたい。
古今の大学が、学生を絞っている本質的な理由は、技術的な問題で絞らざるを得なかったからだと思う。
そもそも、土地と建物が必要で、一つの教室に座れる学生の数は物理的に限られる。
声が届く範囲も限られる。
定員に対して希望者が多い場合、なんらかの方法で選抜を加えなければならない。
ただそれだけの理由が第一なんじゃないだろうか。
第一、大学の講義は、入学者だけしか知ることが出来ない、隠された真実を教えているわけではない。
普通に出版されてた書籍、論文、学会発表という形で世間に発表された内容を講義しているにすぎない。
もちろん、研究室での活動はそうではない。
研究の内容は、実験データから推論まで、基本的に発表されるまでは秘匿事項で、他言無用だ。
(個人的には、それは修士や博士にやらせればいいんじゃないかって思う。だって、研究ってつまるところビジネスじゃないか。どんな基礎研究だろうと、哲学研究だろうと、どっからか予算を引っ張ってくる飯にするわけで。学生をタダで使えればそりゃ安くあがりはするが、タダほど高くつくものはない。)
でも、それ以外は、基本的には開かれた知識を伝えてるに過ぎない。
ハード面の制約と、財源が許す限り、イデオロギーを広めたい、そう思って開学してるわけじゃん。
私学助成金なんかない時代になんとか塾、かんとか塾っていう具合に。
そんなわけでね、技術的な問題さえクリアすれば、高等教育はもっともっと開かれ、低コストになれば低価格化、ゆくゆくは無償化していく。
急激に進んだり、揺り戻しで逆行したりはあるだろうけど、長い目で見れば確実に。
たぶん、歴史のある大学、レベルの高い教育ほど、その波が早く来る。
イデオロギーを広めることが出来るってことは、教育を施す側にだってメリットだ。
あれで立派な神の兵隊になるわけだけど、それって、途上国から留学生を受け入れて、その留学生が国に戻って革命を起こしてきた20世紀の大学の在り方と、つまりは同じでしょ。
繰り返しになるけど、教育を広めることは、教育を通じてイデオロギーを広めることこそが、大学の本懐。
大学全入時代で学生の質の低下が、なんていう問題は、無償化の大きな波のなかのほんの一部でしかない。
文章力がなくて申し訳ないが、補足説明として追記する。
例えば、知識の積み重ねがなかったら、偶然の発見は、ただ一つの発見にすぎない。
知識の積み重ねがあるので、偶然の発見は、過去に累積した情報と照らし合わせて、さらにもう一つの発見、時には、二つ、三つの発見につながる。
知の再生産のためには、過去の知を多くの人に与えることが重要だ。
ただし、知を伝えることは、大きなコストだった。
Aという知を伝えるために、コストが100かかり、財源が1000しかなかったら、10人にしか伝えることが出来ない。
大半の人間に、Aという知を与えても、あらたにBという知見を返してくることはなく、ノイズばかりが返ってくる。
ならば、希望者の中からなんらかの方法で、新たな知見を返してくる可能性が高そうな人間を10人選抜して、そのものにAという知を伝える。
じゃあ、知を伝えるコストが劇的に下がったら、ノイズの中から知を拾うコストが劇的に下がったら、どうなるか?
という話が一つ。
もう一つ、アメリカが途上国から研究者の卵を招き入れて、Ph.Dとらせて国に帰しているのはなんのためか。
そんな馬鹿なと言われそうだけど、思想というのは、生活スタイルや社会制度に相当に影響される。
資格や規格はすべてアメリカのものになれば、思想だってアメリカに近づく。
資格にも規格にも設計思想が生きていて、使う人は思想にも、その根底の思想にも影響されるからだ。
知であったり思想であったり、製品であったり、人であったり、そういうものに乗せてイデオロギーは発信される。
相手しないで寝ようかと思ったけど、勘違いされたままで気持ち悪くていつまでも寝れないので書いとく。
大体自称理系でまじめに授業受けて勉強してる自称国立大生が本気で勉強しなくても良いと思ってるってそれは日本語が通じないのか?
たぶんこれ俺が書いたhttp://anond.hatelabo.jp/20130619203416に対して言ってるんでしょ?
俺が勉強しなくて良いと思ってるなんてどこに書いてあるのか聞きたい。いや、なんかみんな勘違いしてるみたいだから俺の書き方が悪いんだろう。
むしろ俺は大学は大学として高等教育(研究)機関であるべきだと思ってるし、俺自身はそうであろうと一生懸命やったよ。意識高い系(笑)とか今は笑ってるけど、傍目から見れば俺もそんなやつだったんだろうな。あの頃の友達には「よく切れるナイフみたいだったw」と揶揄される始末。大学の授業は楽しかったし、他学部の授業もとったりして。でも授業受けるよりはやっぱり自分で調べて考えるのが一番楽しかったな。学術と言えないくらい幼稚なレベルだったけど、一緒に学術的な話ができるやつがいたらと思った。同じくらいの学年の人はほとんどそういうのに興味が無いみたいだった。他学部まで探せばもっといたのかもしれないけど、50人中2人しか話に乗ってくれる人を見つけられなかった(めんどくさい奴に付き合ってくれた二人には多謝)。大学生のころに見知った博士の知り合いはみんなそういうのが自然にできてて、勉強っていうものに嫌々やるものなんてイメージを感じなかったなあ。何を言っているのかはちんぷんかんぷんだったけど、物理やら数学やらいろんな分野のハイレベルな学問の話が日常会話でされるのは聞いてるだけでもほんと面白かった。まるで漫画やラーメンの話するみたいにそんな話をするんだよ。漫画やラーメンの話もしたけど。そういうところを見つけられただけ幸せだと思う。
本題より長くなっちゃった俺の思い出話は良いとしてさ、他のとこでも書いたけどこんなにいっぱい大学生がいて、みんなが一生懸命勉強するなんて図は不自然なんだよ。だから、大学生の大多数が望んで勉学に励む状況にするためには大学に来たがる人数自体が減らなきゃいけない。そのためには企業が学歴を重視しなくなって、その事実がみんなに広まらなきゃいけない。それは俺一人の力じゃどうしようもないし、みんなで一致団結したところでどうこうなるものでもない。考えの違う他人を変えるのは難しい。
勉強したくないのに大学に来た層っていうのは就職に有利とかそういうの目当ての人たちと、「みんな大学行くから俺も」な人たちで、それもやむにやまれぬことではある。就職氷河期のうわさは高校生でも聞くし、一度そういう流れができたらその流れに逆らうのは怖い。親からも小さい頃からそれこそ刷り込みのように、塾に行って、良い成績を取って、いい大学に入って、いい会社に入ってと期待されるしさ。
こんなこと書くとまた「当たり前のことをしたり顔で書くな」とかいわれるな。
何が言いたいかというと、「勉強しなくても良い」と思ってるんではなくて「こんなの絶対良くないし嫌だけど、勉強しないやつがいっぱいいるのもしょうがないよな、今の状況じゃ」と思ってるんだということです。回りくどくてごめん。
でもこれだけ大卒が増えたら、そろそろ学歴の価値がなくなってきて大学全入時代もおわるのではないかなあと希望的観測をしてるよ。
誰が現状を肯定してるって?俺は最初に書いたとおりくそったれだと思ってるけど。
代返、人のレポートを写す(丸写しはばれるからうまく手を抜く)、過去問丸暗記で単位取得。こんなのが大学生の大半でまかり通ってて良いと思うわけないよね。
(ただ、過去問自体は悪だとは思わない。教員がテストに出すことは教員が大事だと思ってることだし、過去問使って真面目に勉強するのは良いと思う。自分は使わなかったが。)
大学生がこんなにいるって言うのはおかしいことだよ。今いる大学生みんなが学問・研究大好き!っていう状況は不自然だと思う。だから大学が大学としての役割を取り戻すには就職のための大学全入時代がおわるしかない。企業が学歴を重視しなくなって、その事実が一般に浸透するまでは変わらない。
ただ俺が見たこと、感じたことを書いた。理系だからって、何も感じないわけじゃない。数字にはできなくても自分の目で見て耳で聞いたことを信じるよ。あなたが信じなくても別に構わない。
それにその話し方は逆も言える。大半の大学生が真面目に取り組んでいるということも言えない。何も言えなくなるよ。
お前らの中では、大学出てないと「まともな企業に就職できない」扱いなんだな。
オレは奨学金問題は、ソレが元凶だと思ってる。
文部科学省が毎年やってる、学校基本調査の平成24年度結果概要からだ。
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/chousa01/kihon/kekka/k_detail/1329235.htm
世の中の半分の人間は、大学には進学してねえよ。(短大で+5.4%)
お前らの大好きな、「奨学金を背負ってでも、『企業が大学卒をモトメテルカラー』大学に進学するのがアタリマエの社会」ってやつの現実は、世の中の半分だけだよ。
奨学金の問題をやるときにゃ、次の分類が頭に入ってるべきだろ。
別に2番はほっといてイイ。遊ぶにしたって金あるんだから好きにすりゃいい。
この中で、今まで3番で済んでたヤツらが4番になって来てる、大学を卒業したのに就職できない、借金背負って大学から出てくるからドン詰まるのが困る、ってのが奨学金の名前を学資ローンにしろだの、貸与型じゃなくて上げる形式増やせとかって話になってんだろ?
この3,4番。カネがないのに大学に行くうちの、およそ半分は、高卒であるべきだった。
「大学に行けば、企業が大学卒を求めてるから、その就職割合に入れる」ってのは、キレイ事だよ。
調査結果の概要(初等中等教育機関、専修学校・各種学校) http://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2012/12/21/1329238_2_1.pdf
(ちなみに、p9 図4を見て判るように、平成元年をピークに高校生の数自体は着々と減ってる)
その後、大学等進学率がうなぎのぼりに上がるのに反比例して、就職率が下がってきた。
ただし、過去から一貫して、高卒で就職しようとする奴の就職率は、学卒で就職しようとする奴の就職率よりも、高い。高専の就職率がほぼ100%なのは有名な話だが、それ以外の高校でも高い。
(大学の就職率みたいな形で進学も就職も希望していないものを除けば、93%が仕事に就けてる)
「高卒で大卒並みの安定した職と高い給与を得る」のは絵空事だよ。誰もそんなことは言ってねえ。
「大卒よりも安い給与と不安定な職で満足するべき人間が、わざわざ奨学金で大学に行ってる」って言ってんだよ。
20年前、そんなに奨学金が問題になってないのは、単純にみんな普通に高卒で就職してたからだよ。
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んでな、色々いるが、はてブでコメント付けるような奴にバカは少ねえよ。
噛み砕いて言えば、まともなデータがあって、まともな選択肢があったら、素っ頓狂な判断する奴は少ねえと思ってる。
だから、煽り気味に書き捨てた増田のにも、当然まっとうな反論があるだろうとは思ってた。
バブルが弾けて高卒の職がなくなったから、専門学校を始め、就職以外の逃げにみんな行き始めた、それが短大や専門よりも大学という志向がより強くなってきた。
大卒の就職率の悪化っていうのは、結局のところ、高卒の就職浪人がずっと繰延されてきたのを精算しなきゃいけなくなってきているだけだ、って言うな。
だから、奨学金の問題ってのは、結局のところ金を借りて返せる環境下ではさほどの問題じゃないっていう反論は、当然あると思ってた。
ガキの数が減り続けてんのに就職状況が悪化し続けてるのは、景気のせいだ、「大人」の経済政策の失敗を高校生に押し付けるなっていうコメントは想定してた。
(あとは、女にとっては、高卒で安定職につける割合が極端に低いから、大学に進むってのは悪くない賭けだ、とかな。)
絶望したのは、はてブのスターを集めちゃうようなコメントを残しがちな村民が、「世の中の企業は大卒を求めてるし、高校生はほとんど大学に進んでる」ってのを、無意識にせよ暗に前提においてたことだ。
情強()が多いはてな村民でそれってことは、高校生はもっと素朴にそれを信じてるだろう。
大学全入時代ってのは、青少年が全員大学に行ってる事を指すんじゃなくて、入学定員総数よりも希望者が下回ってる状況のことだってのは、流石に知ってる連中も多かろう。
でも、はてブでの反応を見てると、四大卒以外を求める企業が多いってことは、あんまり知られてないんじゃないかと思ったよ。
(5年毎だからちょっとデータが古いが)全国591万1千事務所のうち90%以上が20人未満の事業所だし、世の中の「従業員」と呼ばれている人達のウチ、4割は20人未満の事務所で働いてるんだよ。
オレは奨学金問題は、「一般的な企業ってのは、株式会社の事で、大卒しか求めてないだろ?ソレが普通だろ?高卒で就職とか無謀だし勧めるのは無責任」と言う考え方を、陰に陽に児童や生徒や学生にメッセージを発信し続けた結果の就職意識の偏りが、問題のかなりの部分を占めてると思ってる。
http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamamotoichiro/20130414-00024399/
上記のエントリを読んでみての大学教員から見た現場の感想。(後から読んだらそういうことで愚痴言いたいだけになってた。すみません。)
ブラック起業が世間的に叩かれているのはもっともだと思うのですが、一方で、著しく管理の面倒な勤労者がいるのも事実です。その勤労者をどのように勤務させ、管理するのかという話において、ブラック企業を必要悪として支持する人がいるのもわからんではない。
基本的に、ブラック企業に行きたくない勤労者は勤務しなければ良いという割り切った考え方もあるかもしれません。しかし、ある程度不良な労働力を含めて、社会的安定のために失業者を減らすべきという前提からすると、なんとか労働力化しなければならないのが社会的要請な訳です。
その上で、大学という高等教育機関のあり方、もとい、現実的には一定以下の水準の大学であれば、(高等?)職業訓練学校としてのあり方も大きく問われているわけです。(まあこれから書くことはだいたい中堅以下の大学を対象にした話だと思ってください。)
まず、大学全入時代に、特に他人に説明できる専門的能力を満足に身につけさせないで、卒業させる大学の価値はいかなるものか。という問いが大学に厳しく求められている気がします。(というと、昔から大学はそんなことなかったよというおっさんの反論があるのが目に見えますが、実のところ、昔の大卒の優秀さと貴重さを今と比較すると悲惨です。若者の絶対数が減っていく中で、今の中堅大学は一昔前の下級ランクです。さらに、中国語しか聞こえない本当の底辺校も増えています。また、その点では今の学生に同情しないところもないではないですが。)
さらに、一定以上の大学であれば、大卒者は高卒より就職が良いはずで、大学を卒業すれば就職できるはずだという、「神話」を社会全体で共有して、信じている雰囲気を強く感じます。
そういう神話を信じている人には、学ぶ目的意識も希薄で、就活までの3年間学んだ内容を満足に説明できない、他人に説明できる専門的能力も無い、という人を大卒にふさわしい賃金と待遇で雇いたい人が一体誰なのか、説明して貰いたいです。
にも関わらず、現実の大学生は、大学に行って、就職活動すれば就職がなんとかなると思っています。というか、そうせざるを得ない。そのうえ、就職指導をする教員はなんとか押し込めるところがないか必死に探しています。その先がブラックであるかどうかなんてこの際どうでもよかったりします。東洋経済に報告する就職率さえ上がるのであれば。
そういう環境の中で、学生を労働力化するために、何が必要か考えたいと思うわけです。
まあ平たく言って、一定水準以下の学生に、難しい知的作業を期待することは無駄と言わざるを得ないし本人も無理だと思ってる。授業で"多変量解析~♪"とか"ユーエムエル~♫"とか教えたって、まず仕事で使わない。というか大前提として、大学で学ぶことはそもそも就職してから使う前提ではなかったりするし、そこを譲ったとしても、人には適性というものがあるので、いまさら、中堅校以下の学生に知的労働期待しないでしょう。。
また、大学の授業ってそういう「知的なこと」が中心だという大前提に立っているわけです。もちろん、知的なことが理解できて、仕事にむすびつけられる出来る学生はいいんです。そういう人は放っておいても就職も決まるし。
一方で、そういう知的なこと以外に、もう少し社会人に求められる常識があります。「挨拶ができる」「連絡が取れる」「1日8時間最低限仕事が出来る」「待ち合せなどの時間を守る」とか。そういうのは、明らかに「知的なこと」ではないので、あんまり知能的な動きと関係ないのですが、そういう仕事を一緒にしていく上での最低限の所作が出来ないと、労働力化という観点では大問題です。
しかし、現実の学生を見ていると、そっちの手当が足りてない学生がわんかさいる。そういうのを何とかするためには、今の大学は本当に向いていない。なにしろそもそもが、大学教員の少なくない割合が、がそういうのが苦手です。社会的にはダメ人間だらけで、むしろ時間管理されたくないとか、そういう理由で教員になっている物が多いから、指導できるはずがないです。
そういう最低限の労働力化に求められる能力が書いた学生を、大学教員が指導しようと思っても、なんだかこれって俺の仕事なの?って思ってしまいますよね?
少なくとも研究費もらってる研究者に同時に求められるスキルではないと思うよね。
でも実際にゼミやるとひどい。自分が必修を落として留年したことすら気づかず、頑張って就活している奴すらいる。
そういう労働力化する上で最低限のスキルさえ持てないブラック学生にはどうしたらいいんでしょう。
たまに大学来ないで自衛隊に行けばよかったのにね。って、学生には話しているのですが。資格もたくさん取れるらしいし。仕事も安泰だし。
今元増田と同じM2で、この一年は下の世代に教える立場だった。たしかにわからないところがあったら質問はして欲しい。
でも逆にググれば数秒で出るような本質的でない質問(パワポで図を書く方法がわかりません〜とか)を連発するのは勘弁。大事な質問も答える気が無くなってしまう…。
自分自身がゆとり教育もろな世代なんだが、ゆとり教育の子が何考えてるかわからないと散々言われた中で「なんですぐわかったふりするの?(≒人に聞かないの?)」というのがあった。
これがゆとり世代だけなのかはわからないけど、大学全入時代に入って試験勉強というものがかなり体系化されたせいも絡んでるんじゃないかと思ってる。参考書や問題集が充実していて、それの使い方すらマニュアル化されてるきらいがある。自分自身で試行錯誤したり他人に聞くという手法よりもそっちの方が効率的に勉強できるし、大学入試に必要なのは結局点数だからこういう体系化されたやり方ばかりが使われるようになる。もちろん、その中で試行錯誤はするんだけど0からというのとは違う。
そして大学へ、大学院へ、社会へと進んだときに戸惑うんだと思う。それらで求められるのは、大学入試で求められることと違うから。社会に出るにしたって同じ。いきなり「自分で考えろ」と言われるからうまく対応できなくて「これだからゆとり教育は…」とか言われるんだと思う。勝手だよなあ、と思ったりする。
大学全入時代という単語が最初に聞かれてから久しいが、今度は学習塾全入時代が到来するという言葉を耳にした。
実際に到来するかどうかはおいておいて、個人的にはあまり好ましいとは思えない。
勉強ができる人とできない人の割合はピラミッド型でちょうどいい。高学歴は少数いればいい。
みんながみんな東大に入れるくらいの頭脳を持っているとしたら誰が今のフリーターや派遣が支えている産業に就くというのか。
勉強ができる人間(高学歴)と言うのは往々にしてプライドが高い。そんな人間が就職で失敗して低賃金でしかも馬車馬のように働かされる飲食店で働くことになろうものなら精神崩壊して自殺するのが落ちだ。
現代の自殺の原因のひとつとしてが就職に失敗した高学歴が社会的負い目を感じて首をつるケースは確実に存在する。
高い授業料を払ってくれた親へ申し訳ないし、いままでがんばってきた自分を否定されるのだから。
もし適当に高認とって就職に失敗しても自殺するケースはさほどないだろう。
高学歴ワーキングプアという単語が最近聞かれるようになったが、このことから分かるように高学歴はあぶれている。もうこれ以上必要ない。
自分らで思ってるわりには有力でも有名でもないことで有名な私立大学の文系学部に入った春、僕は貧乏人たちと出会った。
奨学金の存在自体は知っていた。優秀な学生や困窮の極みにある優秀な学生が実質無料で高等教育が受けられるなんて、日本はなんて良い国なんだろうと思っていた。さすがは先進国だ。福祉が違う。おかげでどこかの学生みたいにバイトなんかしなくてもいいし、一心に勉学に打ち込める。うち程度の大学にはあまり縁のない話だが(まあしかしその程度でも援助に値する将来性のある人材はいるものだ)ともかくもすばらしい。大学全入時代とは、つまりみんなが好きに好きな分野を学べる、そういう幸福な時代なのだと勘違いしていた。国がお金を「くれる」ものと。
例えば目の前に一人の先輩がいる。彼をA先輩と呼ぼう。A先輩はまるで平凡なナリと面の童貞で、平凡な成績で、おそらく家庭環境も平凡なのだと推測される。父がサラリーマンで、母が主婦兼パートタイマーで、かつ子ども自身は地方公務員を志向しているような、僕の感覚すれば極めて平均的でありふれた家族。一億総中流の名残。
意味がわからない。彼の成績はなるほど悪くはないが、抜群ではないし、っていうか講義サボってるし、飲み会で聞いた生い立ちには生活保護の「せ」の字も出て来なかった。
その上バイトもしているという。
意味がわからない。あんた、奨学金受けてるんだろ? すると彼は不思議そうな顔でこう答えた。
聞けば、大学四年間で支援され他数百万を、後日弁済しないといけないという。する義務があるという。血の気が引いた。
地方公務員の給料というのがいかほどは知らないが、少なくとも完全に返済するのに何年もかかる額であることはわかる。自分の生活を切り詰めないと、ひねり出せないような負担だ。バカなのかと思った。なんでわざわざ借金しに大学に通ってるんだ? なんで高校卒業したら即就職しなかったんだ? そんないい大学でもないだろ? そんないい将来が望めるような就職予備校じゃねえだろ? マゾなのか?
もう一人、A先輩と似たような境遇の童貞が存在する。彼をB先輩と呼ぼう。バカのBだ。B先輩がA先輩と違う点は、大学院を志望している点だった。しかも、うちの大学の院。専攻は民俗学。
バカなのだろうか。バカ決定でいいと思う。
私立文系の院が絞首台への階段であることは今時分、三歳のガキでも知っている。僕ですら知っている。信じがたいことに彼は院で更に奨学金、もういい借金と呼ぼうこれは借金だ、大学院で借金を上積みしようとしている。っていうか2012年現在、彼は現在完了形で借金した。学部時代の借金と連結すると、総額で一千万に達する。
今のところ彼が富豪の隠し子で将来的に大いなる遺産が転がり込んできて紳士に成り上がるという予定は聞かない。今儲かるベンチャーの社長の出身のモードが民俗学博士号にあるという事実も聞かない。もしかしたら、その博士号がいずれ投資の倍額で売却できる日が来るかもしれない。
B先輩はA先輩や僕と違い、学問的なポテンシャルやアンビションに恵まれていた。
朝、大学図書館が開くとともに分厚い専門書を抱えて閉館時間まで篭りきりでノートをとるような人。専門外からするとフィールドワークとかしなくていいの?などと心配してしまうが、ある程度は優秀な学生ではあると思う。ある程度までは。
残念ながら、飛び抜けて優秀かといえばそうではない。彼以上の人材は世の中にゴロゴロしていて、たとえばそういう人達は国立大の院などへ籍を置いているはずだ。その差を埋めるほどに処世に長けているかといえば、大人しすぎて不器用な人なので、どうだろうか。
彼自身も漠然とした不安は度々口にしている。「このままでは先は暗い」「不安だ」。バカか。だったら、さっさとスーツ着て説明会行って訳知り顔で頷きながらメモ帳にこまめにネコの落書きを描きつつ質問タイムになったら何も考えてなくても元気よく手をあげろ。
けれど、僕はB先輩がそんなはしたない真似をできる人間ではないことを知っている。それだから、一千万の借金をひっかぶったわけだ。彼が引っ込み思案だという、それだけの理由で。まるでクソみたいに素晴らしい世界だとは思わないか。
こうした個別のケース経験から僕が学んだのは「『中流世帯』の家庭の子供もフツーに奨学金を得ている」「彼らは特に優秀なわけでも、学問的に意欲が高いわけでもない」という事実だった。一人暮らし先に引っ越す前夜、僕は父親から「お前の入る大学なんて、遊ぶかバイトするためにしか学校に通わない役立たずどもしかいない」と失望気味に脅かされたが、彼の認識は誤っていた。彼らは借金をするために大学に通っていたのだ。
ショックだった。僕はそれまで「大学に進学するには『普通の家庭』の収入で十分」と思っていたから。だって、そうじゃないと日本人の半分も大学なんかいかないでしょ? そうじゃないと誰もこんな大学入らないでしょ?
B先輩のように「学問しかない」人間ならまだ理解できる。人生を賭けるとまではいかなくても、わずかでも学問に興味を抱く人間ならば平等に機会を与えられるべきだと思う。でもほとんどの三流大学生に学習意欲などはない。彼らはただ高校時代や中学時代とおなじように「大卒」の資格を得るためだけに出席カードに名前を書いている。
わからない。そこまでして「大卒」の資格を得たいものなのか? 何百万もの借金に見合うような肩書きなのか? 半世紀前ならいざしらず、就職市場は冷えきっている現在では数年で借金を完済できるような職などまず望めない。学生時代にかけられた呪いと向こう十年二十年はつきあっていかなくてはならない。「大卒」資格と引換えに。
僕の地元の友人は、高卒で地元企業に就職した。彼は家に相応の金を入れつつ、こつこつと貯金をためながら現在の彼女との結婚のために準備しているという。
彼は兄を憎んでいる。彼の兄はやはり地方の無名私立大学に入学して、穀潰し生活の六年目に突入しており、その学費の一部は友人の「上納金」から出ている。長男にまだ一定の優越権が認められている田舎の話だ。
友人はそれなりに頭は良かった。勉強好きではなかったが、努力家だった。もし将来を見据えて本腰をいれて勉強に励めば、僕なんかよりランクが上の大学だって夢じゃなかったはずだ。だが彼は「うちにはお金がないから」という理由から進学を断念して、高校で僕と道を違えた。僕は彼の家の貧乏を哀れんだ。彼が「特別なケース」だと錯覚した。でもそうじゃなかったんだ。友人の進学を阻んだのは「お家は長男のために」という冷徹な田舎の力学であって、「経済的理由」は二次的な障壁に過ぎなかった。今うちの大学は、彼の家とそこまで経済事情の違わない別の地方の子供たちで溢れている。彼らには友人と違って、憎むべき「兄」が存在しない。自分を恨むしかない。惨めな私立にしか入れなかった自分の頭を。
就活生の狂気じみたテンションは、そんな後ろ暗さを払拭したいところから生まれたのかもしれない。そのチャンスを逃したら、借金は一気に人生を破滅させる獣へと変わるのだ。意識が高くないと、やってはいけないのだろう。
経済的価値においてはすでにひっくり返っている気がしないでもない「大卒」の肩書きを、それでも「行っといた方がベター」という空気のために、手に入れなければならない。「大卒」は「高卒」よりも選択肢の幅が広がるし、立派な生活が保証されるという。本当だろうか。東大京大早慶以外の大学でもその神話は有効なのだろうか? 明日潰れるともしれない中小ブラック営業職で十八時間労働を強いられる「大卒」は定時であがれる僕の友人より幸せなのだろうか。二十年後三十年後の給料に差はでるかもしれない。だが二十年後三十年後に前者はまだ生存していられるのだろうか。
飲み会の席で、A先輩の伯父さんが最近自殺したという話を朗らかにされた。
「そうなんだよ、死ねば奨学金帳消しになるんだよ、死ねばさあ〜」
なぜ彼は笑っていたのだろう。
ああ、オヤジの「居酒屋若者論」か、などと言わずに、聞いてほしい。
キミが生まれた20年前、偉大なる社会主義国家、ソヴィエト連邦が消えた。ベルリンの壁崩壊から2年後のクリスマスに、かって革命を夢見た全共闘世代は涙したものだ。
新聞には「資本主義が勝利したのではない。アメリカの一極支配は必ずや滅ぶ」と投書が載った。
人民を革命へと駆り立てたのは、資産家や資本主義社会への反発、不信、抵抗。ゆるやかな社会改良による解決がないわけじゃないのに、プロレタリア独裁を宣言し、ぶつかり、傷つく。
その心象が、若者の共感を呼んだ。ロシア民謡は小学校の教科書にも採用されたほどだ。
全共闘運動に詳しい社会学者の小熊英二さんは毎年、大学の授業で『共産党宣言』を読ませ、感想を問うてきた。ここ数年「暴力的なだけじゃないか」「私有財産の何が悪いのかわからない」と、批判的な意見が増えているという。
教室に居並ぶのは、親や世の中に従順な若者たち。キミと同い年なら、石川遼くん?
でも、就活の道は険しいし、滑り落ちたら、はい上がるのは難しい。時代は、国家がノルマを課したころよりずっとずっと生きづらい。
だけどキミたちは「自分にスキルが欠けるから」と、どこまでも謙虚だ。格差も貧困も「自己責任さ」と、受け入れてしまっているようにみえる。
ソヴィエトはどこへ行ったのか。
全共闘世代の仙谷由人さんには「かつて若者は暴力装置であった」と言われそうだ。
「大学解体」と「自己否定」のスローガンで機動隊と攻防戦を繰り広げたのは過去。大学全入時代で自己実現を勘違いする若者に、暴力で社会を変革するエネルギーはない、と仙石さんは語る。
革命を夢見るよりも、自己責任を受け入れて、親しい仲間と「いま、ここ」の身近な幸せをかみしめる。そんな価値観が広まっているという。
なるほどね。いくら「若者よもっと立ち上がれ」と言っても、こんな社会にした大人の責任はどうよ、と問い返されると、オヤジとしても、なあ……。
でも、言わせてもらう。
私たちは最近の社説でも、世界の政治は若者が動かし始めたと説き、若者よ当事者意識を持てと促した。それだけ社会が危うくなっていると思うからだ。
だから、くどいけれど、きょうも言う。成人の日ってのは、そんなもんだ。
ともあれ、おめでとう。
28歳貯金女子に対するはてな民の婚活意識の高さに僕も驚かされます。
学歴に関してひとこと。
必ずしもそうでないでしょう。
ちょっと単純化しすぎていて、怒られそうですが。
つまり、何が言いたかったかと言うと、別に「すごい人」でもなんでもないのです、高学歴男子とか。
元増田さんは「今の状況じゃダメだよなー、打破したいなー」と感じ、
そのためには勉強が必要だとお考えになったのではないかと推測します。
これって素敵なことではないですか?
要するに、「みんなムズカしいこと言ってるけど、それもっと知りたい!」という
純粋な知識欲じゃないかと思うんですよ。そこに、僕は魅力を感じる。
むかしの偉い人が、「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲す」と言っていたのを思い出しました。
「これ勉強すれば、金になるなー」って下品な目的で学問してる人間がいるなかで、
本当は、合コンをセットできればいいのでしょうが、僕はそういったことには縁遠いので。
お役に立てず申し訳ないです。
出会い系のサクラが出会えないで悩んでいる、というのはある種の皮肉というか。
出会い系に登録したら出会えるのでは?と思いつつも、サクラがいっぱいいるから無理なのか、と思ったり。
でも、それなら出会いない系じゃないのか、とかとか。
じゃあ、いっそのこと、合コンをセットするサービスをつくれば、
(参考)
http://www.gakuryoku.gakken.co.jp/pdf/articles/204/1975/1975685/0701_p02-05.pdf
『秋日和』と『すーちゃん』
秋の夜長と言うには少し早いけど、今日親父と話したことを書こう。
俺はいわゆる「ゆとり世代」。大学全入時代の魁で、小学校2年生くらいで土曜日の学校がなくなった。平方完成も、台形の公式も学校では教わっていないと思う。
親父はwikiで見ると「しらけ世代」というらしい。団塊のすぐ下で、新人類のちょっと前。あまり特徴がなく、人数が少なく2,3教室が余っていたほどらしい。教育は移行措置と呼ばれ、教科書が1冊に加え補助するものと2冊で構成されていた人のこと。「俺達はメディアに無視されてきた。」と親父は言う。
最初の話はニュースの円高に関する2兆円介入の話だったと思う。これは個人的な見解が人それぞれあるのだろうけど、俺が「俺が思うに日本は終わったね。」と言ったところに端を発した。
俺の中では戦後のアメリカのおかげなのか、アメリカのせいなのかわかんないけど、自分たちの本来のキャパシティを超えて日本という国は成長しすぎたと思っている。今までは世界に可愛がられていたけど、そもそも日本はモノを産出できる土地の規模に対して人数が多すぎだから、恐らく今にその矛盾に世界が気づいて、世界が日本に飽きてくるからヨーロッパの一国のように中流国家に収束するに違いないとそう言った。
そこから未来の話、特にこれからの世代の話になった。
俺達はロストジェネレーション、少子化で人数も少ない。なおかつゆとり。就職も本当に怖いし、そもそも生まれてこの方好景気の日本を見たことがない。リストラ、過労死、自殺、ひきこもり、ニート、氷河期。そんな言葉が次から次に流行る時代で、育ってきたんだ、と。ネットの知識を振りかざし、団塊とかバブル世代とか日本がイケイケドンドンだった時代の人間が俺達の社会進出の蓋しているとまで言ってのけた。時代の変曲点を経て、傾きで言えばマイナスの時期に育った俺達が政治や組織のトップにたったときどうなるものか。好景気の日本を知らないことはゴール即ち目指すべき国の姿が想像できないということ。英語だって(企業や社会からの)需要に対して(大学受験用のお粗末なJapanese英語教育により)供給が追いついてないので英語に自信がもてない→海外・留学離れ。アンタらは少なくとも好景気を見てきた。なにが原因でこうなったかを知っている。俺達の下には脱ゆとりが攻めて来てて、怖いんだ。良く道が無い。とまくし立てた。
そしたら親父が言った。
「お前の世代はわかった。で、お前個人はどうなんだ?」
俺達は団塊が残した爪痕を全部後処理してきた。学生運動をやってたやつの少し下で会社に入ってそいつらに頭を下げやってきた。バブルの時も団塊がばらまくためのお金を俺達が稼いだ。ただやたら仕事が多かっただけだ。そのうえ就職の時期がオイルショックで大手ゼネコン採用0の時代。そういう時代だから、そういう教育を受けたからと言ったって、生活を確立するのは各個人だ。そうやって時代のせいにしてやらないやつは甘え。やるやつはどの世代に入ったってやっているはずだ。自分のいる世代が暗いなら、その世代の特徴に当てはまらない人間になれ、周りと一緒に括られるな。と言った。
そういえば俺の周りはみんな海外に短期だったり1年だったり留学しているし、やっているやつはたくさんいる。世代をコンプレックスにするならそれを起爆剤にしないといけないのか。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51465063.html 池田信夫 blog : 大卒はなぜ職にあぶれるのか - ライブドアブログ
大学全入時代と呼ばれて久しい昨今、みなさまいかがお怠けでしょうか。
どこぞのブログでは「大学生が増えすぎたことが問題」と糾弾しています。そうすれば新卒雇用の問題は解決する、というのです。
そこで、彼らが見落としている、雇用問題だけでなく「大学多すぎ」厨を撲滅するキーワードをいくつか。
まず、どこぞのブログでは「文科省が介入してでも大学生を減らすべきだ」と主張しています。
確かに大学の数が減れば、大学生の数も釣られて減少し、求人数に近づけば近づくほど内定率含め数字は良くなるでしょう。
でもこれで解決したことになるんですかね?
新卒市場って大学だけにあるわけじゃないんですよ。高校生も新卒で就職するし、専門学校生だって就職するんですよ?そっちって減らした大学生を吸収できるだけの余裕あったかなあ。
まさか安直に「偏差値で50未満の大学はイラネ」とか「文系大学全部潰れろ」って言うほどの人じゃないとは思いますが、こういう人は、首都大学東京の一連の騒動をどういう風に考えているのかとても興味があったりします。あれはこういう「スクラップ」論者には十分なシミュレーションになるでしょう。
ぶっちゃけ学歴の稀少性を大きくしたいのかな、とブログ読んでいて思うんだけど、数減らしたって入学してから何もしないならたいして変わんないでしょ。それとも、エリートには許された特権なのかな?そんなのだったら「今の大学の数のままでいいから内部競争を高めろ」と主張したほうが彼にとってもよかったような気がするんだけどなあ。
これはよく言われる「私立大学から潰せ」に対しての個人的な反論なんだけども、大学教育を民営化させるっていう発想はないのかなあ、彼らには。今の風潮だと「景気が上向くまでは私立大学に頑張ってもらおう」って意見があってもおかしくないと思うんだけども、なぜか多くが私立大学から潰せ、と言う。変だなあ。
この話をする人に限って「高校に通うレベルでない」という話が出てこない。高校は義務教育じゃないんだから「そういうレベルでない」高校生が通うことは問題視しないの?
そういうレベルでない学生には辞退してもらうとして、「バカな大学から潰して」ってなんだい?
なんか他にも書きたいことあったような気がするけど、ごはんができたからまたあとでね。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51465063.html 池田信夫 blog : 大卒はなぜ職にあぶれるのか - ライブドアブログ
大学全入時代と呼ばれて久しい昨今、みなさまいかがお怠けでしょうか。
どこぞのブログでは「大学生が増えすぎたことが問題」と糾弾しています。そうすれば新卒雇用の問題は解決する、というのです。
そこで、彼らが見落としている、雇用問題だけでなく「大学多すぎ」厨を撲滅するキーワードをいくつか。
まず、どこぞのブログでは「文科省が介入してでも大学生を減らすべきだ」と主張しています。
確かに大学の数が減れば、大学生の数も釣られて減少し、求人数に近づけば近づくほど内定率含め数字は良くなるでしょう。
でもこれで解決したことになるんですかね?
新卒市場って大学だけにあるわけじゃないんですよ。高校生も新卒で就職するし、専門学校生だって就職するんですよ?そっちって減らした大学生を吸収できるだけの余裕あったかなあ。
まさか安直に「偏差値で50未満の大学はイラネ」とか「文系大学全部潰れろ」って言うほどの人じゃないとは思いますが、こういう人は、首都大学東京の一連の騒動をどういう風に考えているのかとても興味があったりします。あれはこういう「スクラップ」論者には十分なシミュレーションになるでしょう。
ぶっちゃけ学歴の稀少性を大きくしたいのかな、とブログ読んでいて思うんだけど、数減らしたって入学してから何もしないならたいして変わんないでしょ。それとも、エリートには許された特権なのかな?そんなのだったら「今の大学の数のままでいいから内部競争を高めろ」と主張したほうが彼にとってもよかったような気がするんだけどなあ。
これはよく言われる「私立大学から潰せ」に対しての個人的な反論なんだけども、大学教育を民営化させるっていう発想はないのかなあ、彼らには。今の風潮だと「景気が上向くまでは私立大学に頑張ってもらおう」って意見があってもおかしくないと思うんだけども、なぜか多くが私立大学から潰せ、と言う。変だなあ。
この話をする人に限って「高校に通うレベルでない」という話が出てこない。高校は義務教育じゃないんだから「そういうレベルでない」高校生が通うことは問題視しないの?
そういうレベルでない学生には辞退してもらうとして、「バカな大学から潰して」ってなんだい?
なんか他にも書きたいことあったような気がするけど、ピザが届いたからまたあとでね。
日本は、いい意味でも、悪い意味でも、「他人に迎合することが重要視される」社会だからだ。
僕が考えるに企業が世界で成功するためには、以下の2つの方法しかない。
・Professionalを集め、カイゼンを繰り返し続ける。
・Great Thinkerが、イノベーションを起こす。
(例:アップル)
トヨタは既にあった自動車産業に進出し、絶え間なく自動車の性能をカイゼンし続けることによって今の地位を築いたし、
マイクロソフトも、マッキントッシュを模倣したWindows、ロータスを模倣したマイクロソフトオフィスをカイゼンし続けることによって今の地位を築いている。
日本もこれまで、高い教育水準と終身雇用による人材の囲い込みによって、Professionalによるカイゼンを推し進めたから、世界で成功してこれたのだ。
逆に、これまでに日本からイノベーションを起こしたような企業はないし、これからも出ないだろう。
なぜなら、日本のような迎合社会では、他人と異なる考え方は受け入れられないため、たとえGreat Thinkerたりうる人間がいたとしても、そのものがイノベーションを起こすに至る前に潰されてしまうからだ。
例えば、ホリエモンやWinny作者もその例だ。彼らは、日本以外の国ではヒーローのような扱いをされるべきだと思うが、日本では社会によって潰され、ほとんど犯罪者のような扱いをされている。
だからホリエモンも今では、他人のために汗水かいても最終的には得をしない。という考え方や、今後も上場を目指して会社を起こすことはないだろうとTwitter上で発言している。
日本からイノベーションを起こすには、といった議論はあまり意味がないように僕は思う。
ルネサンス期のイタリアからミケランジェロやダ・ヴィンチが生まれたようにイノベーションを起こすためにはその為の文化的背景が必要であり、
日本にGreat Thinkerが出てくるような文化をこれから築くのは、無理だと思うからだ。(それは迎合的文化をやめることを意味する。)
前置きが長くなった。
しかし僕は日本にGreat Thinkerが出てこないからといって悲観する必要はない。
また、日本が今後輝きを取り戻すのも難しいとは思っていない。
かつて日本がやっていたことをもう一度やればいいのだ。Professionalを大量に雇用し、世界髄一のペースでカイゼンを行い続ける。
ところで、僕は単純に仕事という観点から人を見たとき次の4つに分類されると思う。
①既存の事業や製品をベースに、それを飛躍させることが出来る人
②既存の事業や製品をベースに、それに積み重ねるをすることが出来る人
③与えられた職務を、忠実に実行することが出来る人
(税理士、公認会計士、弁護士、アクチュアリー、医者などは知識レベルは高くても、ここに位置する)
④与えられた職務を、忠実にこなせない人
日本が今、世界の中で衰退し続けている理由はこのうちの②、③の人材が少ないからだ僕は思っている。
なぜこうなったのか?
それは、少子化により、人材の絶対数自体が減っていることに加えて、大学全入時代に突入し、大学全体の平均学力も下がり続けているからだ。(これはかつてのゆとり教育により更に助長されるような結果に陥っている。)
この現在の状況を改善することが出来るならばきっと日本は世界での地位をまた取り戻すことが出来るはずだ。
そのためには、下記のような対策を行えば良い。
①に対して
→Great Thinkerを日本から生むのは無理だと割り切り放置。
②に対して
→大学を減らし、博士号取得にかかる費用を限りなく下げることで、大卒者全体の学力レベルを大きく向上させる。
③に対して
④に対して
→ここに位置する人材は、②、③の人材の効率性を下げ、結果的に企業全体の成果を下げてしまう。
よってベーシック・インカム制度などの導入で、出来るだけ企業と関わる量を減らすことが好ましい。
【橋下知事に直言】(上)「政治手法は『いじめ型』」 神戸女学院大教授、内田樹さん
http://sankei.jp.msn.com/politics/local/100204/lcl1002040807000-n1.htm
「学力」のとらえ方を間違えている。学力は文字通り「学ぶ力」であり、学びへの欲求が活発に動いているかどうか。テストの点はその一部にすぎない。
確かに良い事を言っているように聞こえるが、これは昔からよくあるインテリのごまかしである。学力がテストの点数だけでは測れないにしても、それと「テストで点数を取れなくても良い」というのでは話が別だ。
日本の現状を見てみよう。「テストの点数では測れない学ぶ力」がどれだけ進学に影響を与えているのか。最近ではAOなども増えてきたとはいえ、依然大多数のテストではその点数により選抜が行われている。そして、こうした競争を勝ち抜いた者たちの多くが、難関国家試験に合格したり一流企業に就職したりして高給を得ている一方で、偏差値の低い大学に進学した者はFランと馬鹿にされ、中学、高校までしか出ていない者は中卒、高卒としてバカにされる。「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」と言った福沢諭吉の時代と同様、現代もテストによって評価される学力によってその本人の地位が規定されている。
「学ぶ力」が本来の学力ならば、「自主的に学ぶ姿勢」を重視した総合的な学習の時間がなぜ問題となったのか。それは日本人が「学ぶ力」の重要さを頭では知りながら、本当のところは豊かな生活をしたければ「テストで測られる点数」がなければどうしようもないということを理解しているからである。
すぐに数値で成果を求める姿勢は、ひと昔前に流行った成果主義、能力主義的発想であり、知事自身の成功体験から導かれたものだろうが、成功体験に固執すると他のさまざまな教育実践の方法に対して非寛容になる。いろんなタイプの子供がいて、いろんな能力の発現の仕方があるということを認識する必要がある。
こうしたタテマエが教育現場でまかり通り、社会の現状とはとかけ離れている状態こそが、橋下知事の指摘している問題なのではないか。
西洋における平等の概念は、決して「あらゆる人間は平等だ」という認識に立つのではない。人間は肉体的な条件はもとより、知能的にも情操的にも一人一人が違うのだし、それはごく当然のことである。こうした彼らにとっての平等とは「機会の平等」に他ならない。だからその平等は「優勝劣敗」という厳しい現実を前提としている。
ドイツでは比較的早い段階で進路が決定し、(いわゆる)勉強の得意なものはギムナジウムへ、不得意なものは専門学校へと進学する。そして自らの専門をじっくりと勉強し、自分の得意なことを身につけ、優勝劣敗の社会の中で生き残るためのスキルを身につけている。ドイツでマイスターが称賛される事情の裏には、こうした機会の平等に基づく優勝劣敗の原則と、そうした競争の中で名を上げてきた者に対する尊敬があるのである。
日本人はこうした教育制度を見て「一度落ちこぼれたら二度と戻って来られない制度」だと批難するが、本当にそうだろうか。社会の流動性が高く「一億総中流」と言われた時代は今は昔。所得格差は広がる一方で、政治家も二世三世が当たり前だし、医者の息子が病院を引き継ぐという話も珍しくない。このような状況で公教育が
という考えに走ったらどうなるか。金持ちは自費で子供により一層の勉強をさせ進学の機会を拡大させる一方で、経済的に苦しい家庭の子どもたちは、例え才能を持っていたとしても一生進学することはできなくなる。すると社会の流動性はより一層失われ、より一層の社会的格差を生む事になる。これこそ機会の平等の損失であり、本来的意味での不平等である。
現代の日本では、教育現場でタテマエとして身分も職業も超えた無差別平等が成立している。それにより全ての者が平等という原点からスタートし、努力さえすれば受験という競争を好成績で突破することが出来るようになっているという。すなわち「みんな平等なのだから受験勉強が出来無いヤツは努力が足りないだけなのだ」ということである。
ところが、現実には優勝劣敗という厳しい結果が待ち受けている。環境的にも肉体的にも異なったものを持って生まれてきた我々に、個人差がないはずはないからだ。そこで、タテマエとは逆に自由競争であるはずの受験に敗れたものは劣等者と見られ、その人たちは一段低く見られることになる。
そしてそれがまた、競争の激化を生む。こうして優越者たるインテリは現状を変える事なく偽善的に「競争」を批難し、劣等者は「平等」という正義の仮面を被ってお互いの足を引っ張りあう。ネットでは自分の方が多少でも有能であるということを確信したいばかりに、他人をFランとバカにし、こき下ろす。
色々なタイプの子供がいて、色々な能力の発現の仕方があるのならば、なぜ勉強の出来る子はもっと勉強をさせ、勉強の苦手な子供からは別の才能を伸ばしてあげるという教育が出来無いのだろうか。その為には、子どもたちを「みんな平等」だから「やればできる」と誤魔化し続けた挙句、就職活動で無残に放り出すのではなく、早い内から自分の才能を確認出来る場を与えることが必要なのではないか。その意味では、橋下が教育に対して言っていることは少なくとも評価出来ると思う。
しかし、内田さんがなぜ「いろんなタイプの子供」や「いろんな能力の発現の仕方」を認める一方で「学問に携わる」という能力だけは認ないのか、謎である。なるほど、全ての人間には等しく教育を受ける権利がある。しかし、義務教育を負えてもなお、大学まで行かなければ一国民としてきちんとした教育が受けられないというのであれば、それは教育制度の欠陥でしかない。中学や高校を卒業した後、専門知識をじっくりと習得していれば世界的なレベルになっていてもおかしくない若者たちの未来を、グダクダと学校に拘束し続けることで奪っているのである。「大学全入時代」が持つことの意味を、もう一度考えた方がいいのかもしれない。
http://www.manabinoba.com/index.cfm/4,7033,146,html
http://www.manabinoba.com/index.cfm/4,7687,146,html
何か経済系の雑誌の見出しで、「今後大学が生き残るためには、3年制が肝!」みたいなのがあったんだけれど。
なんだかそれって「専門学校化しろってことなの?」と思った。
日本は大学が確かに多くて、(すでに大学全入時代に入っているはずだが)地方の特色のない私立大学では
専門教育学部を新設するか衣替えする方法で生き残りをかけている、のにもかかわらず、なぜか定員割れが増えている。
昔ドイツは、高校まで終わったら、大学に進学するか職業訓練校に行くか選択する余地があり、たいていは校舎を選ぶと
何かの本で読んだことがあるけれど、今でもそうみたい。
まあそれは、経団連が目指しているような、「管理職は一部のホワイトカラーで占め、残りの作業的な部分は正社員でなく
非正規雇用でまかなう」みたいなものを助長する可能性が強いんだけれど。
でも地方大学の教科書やテキストを見ていると「大学へ行っているのか、それとも資格取得学校へ行っているのか」一瞥
ではわからなくなっているのは現実かな。
そらひどい目にあったなー。毅然と対応できたあんたはえらい。
トラブル起きると、ホント疲れるよな。俺も今日いやな目にあった。鬱悪化気味だわ。そんなわけで今日は増田にいる。
たまに、いや、結構最近頻繁に、思う。仕事で、自分のことをゆっくり見つめる暇もなく追い立てられ、経済に取り残されないように必死で経済記事を読み、日経を読み、保険にも入って、もちろん仕事についてきために仕事の知識も調べ、そうやってサバイバルのために知識を磨いて、誰にも負けないように、なめられないように、人並みの人生を送るために、っていつも必死にしているんだけど、私って、一体なんのために頑張っているんだろうって。
数年前の俺にちょっとカブる。てか、今のこの時期、数年前の俺より大変な環境だよな。俺はそれで、うつになって、「もういいか」って実家に帰って転職して、今じゃ無職になってるけど、貯めたお金(と親)があるおかげで今はゆっくり休んでる。十何年かぶりに昔の夢を追いかけてみて、ダメだったら何かの資格取って、最底辺あたりでも生きていくつもりだ。大学全入時代だし、子供への教育は塾に通わせなくても家で教えればいいし。核家族ではなくて三世代同居なら子育ても楽になるし光熱費も安上がりになるし。LOHASって生きかたもあるわけで。
ところでさ、日経ってひどい媒体でさ、まあ俺は日経新聞じゃなくて日経ビジネスをよく読んでたんだけど、連中、新しい経営とかを紹介した数年後にはそれを否定する記事を書くのな。最低なマッチポンプ週刊誌だよ。連中に振り回されてる企業経営者とか日本経済って、気の毒というほかない。MBAって覚えてる?300万台クラブとか、今じゃ話題のわにもならないっしょ。
もちろん、それ読む事で一社員でありながら、経営者が何考えてもの言ってんのかが分かるってご利益はある。でもそれだけといってもいい。ちなみに健康保険は共済が良いと俺は思うぞ。
もうそんな修羅で生きてく元気がこの先続くのか、来世は人間なんかに生まれ変わらずに岩とか星雲とか、生々しくない無機物に生まれ変わりたいよ。
まったくだ。生まれ変わり? No Thank youだよな。てか星雲になるっていいな。
ところで、眠れないとか早朝覚醒とか夜中に何度も目が覚めるとか、うつ状態が2週間以上続いてるとかだと、一応、燃え尽き症候群とかうつ病とか疑ってみてもいいんじゃないかと思うぞ。まあ、そんな事承知してるだろうし、なんでもかんでもメンタル系の病気扱いするはてな界隈の雰囲気も俺はどうかと思いつつ、こんな事書いて申し訳ないんだけど、一応、心配しちゃったので念のため。
これは、多分単なる「疲れ」から来る疑問でないと思う。自分の人生に根ざした、根本的な、なにか。これがいったいどこから来るのか見極めたいのだけれども、そいつの影も形も、全然見えたためしがないんで、どこからはじめたものか。ミクロ的に見れば悪いのは自分?マクロ的に見れば社会?その自分と社会をつくった国家と世界?
本当に、どこから、こんな思いがやってくるんだろう?
ビョーキの話は置いといて、取っ掛かりがほしいんなら、とりあえず整理してみようぜ。自分の性格と、価値観、社会の価値観を並べて書いて、衝突してないかチェックするんだ。
社会の価値観に自分を合わせようとして、疲れているんじゃないかとか。んじゃ自分にとって一番大事なのって、なんだろうとか。国家とか世界はちょっと大きすぎるから、それはとりあえず保留して。
で、いきなり社会といってもあまりにも多様すぎて大変なんで、自分の会社の方針(建前)と、実際に行っている事(本音)がどうなってるのか整理してみたり。
自分の理想の姿が、世の中の雰囲気の中で作られたものなのか、自分の根源的な欲求に基づくものなのか見極めてみる。自分はどうしたいのかとか。
俺の場合、高校のとき周りの目を気にしすぎて、「そういや、自分ってどんなやつだっけ」って見失っちまった時期があって、1年くらい悩んで、最終的に自分の感情を頼りに再構築した事がある。何が面白いのか、何が嫌なのか。他人がどう反応し様と、俺は面白いと思った事は面白いんだと。他の人がつまらんだじゃれだと白けて見せても、俺は自分が面白ければ笑っちまえと。
そんなわけで、何もかもが分からなくなったら、自分の感覚を頼りにするって手もあるよ。
あとは、ビジネス書はちょっと置いといて、歴史モノとか読んだりして、昔の人の考え方と、今の人の考え方の違いとかを眺めてみると面白いかもよ。
私みたいなヘタレは多分今の競争社会じゃ生きるな、つーことなんだろうか。しんどいのがデフォルトで、少しでも弱気な者から死んでいくのがこの陰惨な社会なんだろうか。
どーだろうね。未来の社会じゃ、逆転するかもよ。最近は強気のヤツでもどんどん死んじまう世の中だし。いずれゆり戻しが来るって。
で、そのしんどいの経験してるってことはさ、あとから来るヘタレが同じように悩んだとき、一般論に頼らず、自分の言葉で相手が必要とする言葉を選べる能力を獲得してるってことなんだぜ?泣いても笑っても、食って寝りゃ生きるんだから、泣きながら生きていこうや。ずるずると生きていこうや。
それに、選挙権持ってるオトナである以上、今の陰惨な社会をなんとか変えなきゃいけないと思ってるし、それは俺の目標でもある。諦めるのは、先送りにしようぜ。無理しない程度に。
てか、休もうぜ。疲れたら休むのが生き物ってもんだろ。逃げる体力は、残しとくもんだ。
今から勉強して、今年度中に入ろうと思ったら私立に入るようになるわな。
まずそんなことは無理だけど。
インターネットで「3ヶ月で早稲田入れた!」とか抜かしてる大天才とは違って、自分は馬鹿だし、
志望校に入るために一生懸命がんばってる人を今から姑息に出し抜こうとも思えない。
でもね。
「行こうかな」「がんばろう」とは何度も気軽な気持ちで思ってみるんだけど、踏ん切りがつかない。
まず世間体を気にする自分としては中途半端な年齢の時点で躊躇う。
そんな理由で、浪人失敗したときに「寮に入って二浪しろ」って言われたけど、
禁欲して必死に勉強して大学に入って、その見返りをまるで感じなかったから、やめてニートまがいのフリーターになっちゃった。
勉強目的で三年次編入してみたらって話なんだけど、実は、勉強したいことがない。
文系(笑)のスイーツ(笑)脳だから理系科目ができないし、そもそも興味がない。
じゃあ文系はどうか、っていうと、色んな人文科学には興味あるけど、うーん・・・という感じで。
まあ、今大学に行ってる子たちがどれだけ勉強に興味持ってるか知らんけど、
自分は年食っちゃったから大学は真面目に勉強しに行かなくちゃいけない。
そんな気持ちで、なぜ大学に行きたいかっていうと、
大学全入時代なんて言われてるこの時代に「高卒」とか言われる思われることが嫌というか、
単に世間体へのこだわりがどうしても捨てられないからだと理由をつけてる。
どうしたらいいのか、あれこれ様子見しながら考えてるうちに、気づいたらもう取り返しのつかない所まで来てる。
去年一年浪人して「不出来は地べたに這いつくばっていよう」って真剣に思ってたけど、
そんなこと考えてたならその時点ですぐに自殺でもしたほうが良かったとも思う。
どうしよう。