はてなキーワード: 文科省とは
おまえは文科省以上に何もできないグズじゃん
散々金出して未だに大した成果が出てなきゃそりゃ財務省でなくとも「ぼくのかんがえたさいきょうのせいさく」くらい言いたくもなるものさ
しかも譲歩もせず真っ向から私達こそ大正義!外部は黙ってろ!なんて返して三流だろうとトップ組織としてどうなのって話
国のトップって言っても、他の省庁に入れなかった人が仕方なく流れて来る三流省庁だし
これも有識者とかいろんな外部からやれと言われるから仕方なく予算とって現場丸投げしてるだけで、別に文科省がやりたいことじゃないんよ
財務省は教員不足なんて気にしてないし、問題とも大して思ってない。
というより教員に限らず現存の公務員で公共サービスがある程度成り立ってるならそれはそれで良し程度の考えしか持ってないんじゃない?
ただ教員不足なんて気にしてない財務省なんだけど、文科省が乱暴と切り捨てた提案が文科省の言ってることより何万倍もまともで、文科省より問題点を良く見てたりする。
教員不足なんてほとんど気にしてない財務省が、文科省より教員不足の問題に詳しいってどういうことなの?
分かるよ?
現場の業務量を減らせと言うだけなら簡単なことで、正論パンチを振りかざすとは何事か!?
人の心が無いんか!?
そんな気持ちでいっぱいだよね。
優秀でなければならないし、答えのない問題を具体案に落とし込むのもやれて当然、要求されて当然の立場。
むしろ正論カウンターくらいできる準備をしておかなければならない。
しかし文科省は乱暴な提案だと切り捨てて、やりたこといっぱいあって人増やしたいから金寄越せとだけ言う。
どっちがより乱暴?
そんなの聞くまでもない。
国のトップに君臨する組織なら難題を吹っかけられて当たり前、熟せて当たり前。
だってトップに君臨するってことはそれだけの力量を要求されるってことなんだから。
でも文科省は難題を見て見ぬふりして、財務省が「既に金を出してる所もあるんだから業務改善の成果を見せてくれよ」という呆れ気味の問いに対しても、まだまだやること多くて教員が足りないし現職を繋ぎ止めたいから金をくれって(大事なことなので2回――)。
教員不足だから調整手当をどうにか増やそうとする文科省に対して、時間外労働を減らせば考えなくもないと言う財務省。
ただ財務省は雇用費を減らしたいとも考えてるから、彼らの言ったことを鵜呑みにしたら最終的には教員の給料はむしろ減るだろうというのは予想に付く。
とはいえ、時間外労働を減らすように何か業務を削れという至極真っ当な言葉に対して、文科省はキョウインノシツガーキョウインノミリョクガーとしか言わないあたり、教員不足の原因から目を背けてるとしか思えない。
今どきブラックで残業代出ないし事務仕事が大半だけど子供達の成長を共に歩めますよ、なんて言われても人は集まらない。
これから就活する人や転職を考えてる人たちが見てるのは、仕事内容と給与のバランスとキャリアアップに繋がるかどうかであって、仕事の魅力は二の次。
もといそういう部分に仕事の魅力を見出す人が多い印象。
試験日時を他県とずらしたり早めることで人を集めようとしてるけど、受ける側からすると滑り止め程度の物でしかないし、複数受けてるから増えてるようでそうでもない。
しかも若い人が欲しいからって長年学校を支えてきたフルタイムの非正規は半ば無視。
10年ほど前から一次試験はパスみたいなことも各県でやってるけど、新採で入ってくる大半が20代~30代前半。
んでそういう若いのが教員の世界に入ってくるんだけど、理想と現実のギャップというか……。
あまりにやること多すぎて潰れて、その穴埋めで人手不足という負のスパイラルを生み出してる。
しかし男性に比べると時間制限がある人が多くて、その穴埋めを男性が残業までしてやってる現状。
時間的にコスパは良くても総合的に働ける時間は男性よりはるかに短い。
今の現場では単純に数と時間が欲しいこともあって、時間制限のある人材は現場にとって爆弾でしかないし、いざ爆発すると過労死レベルの残業を要されることもあった。
でも肝心の文科省はキョウインノシツガ―ミリョクガーしか言わないし、教員不足の原因たらしめてる現場のブラック状況から目を背けて改善の具体案のグの字も出てこない。
という2段階を想定しているように見えることが多い。
現行法やAI推進者の多くは文科省の出している資料などを見るに
という3段階を想定している。ここが一番違うところだなあと思っている。
反AIの人は
で話が完結してしまう。
AI派は
なので、雑な人は「学習生成は真っ白だろ」というし、慎重な人は「(3段階目がどうなっているかが前の段階に波及するので)ケースバイケースですね」とか「白寄りのグレーってとこです」って言う。
ここで問題になるのは学習元のコンテンツを享受する目的だとダメっていうのが反AIにとっては難しすぎる概念なのか、もしくは都合が悪くて無視されている事情のようなんだけど、「海賊版を作る目的でやるのはさすがにあかんでしょ」ぐらいに考えとくとわかりやすい。
プロンプトに「ドラゴンボールの1234コマ目」と書いたらそのまま切り抜いて返してくれるようなDB作って売ったり誰でも使えるように公開したらそりゃ学習元が差し止めに行けるようにしなきゃいかんでしょ、って話。
で、問題なのはこの3つ目の段階にこの世の全ての邪悪が詰まってるっていう運用なのよね現状の著作権って。
紙の雑誌とか買ってくるじゃん。記事ごとに切っていい感じにまとめてスキャンするじゃん。社内共有ファイルサーバに置いて社内のみんなに見えるようにするじゃん。みんなで見るじゃん。
「いい感じにまとめて」も「スキャンする」も一応ファウルなんだけど「社内のみんなに見えるようにする」が一番のアウト行為なのね。次点で「みんなで見る」がいかん。被害額の算定とかそういう感じでやるじゃん。
なので、生成AIのモデルがインターネットで配布されています。自分のPCにインストールして動かしてみてプロンプトを工夫したらミッキーマウスの絵が作れた。みんな見てくれ!生成AIはこんなに邪悪です!ってX(Twitter)に貼り付けた反AIの人がいたとするじゃん。
悪いのは「貼り付けた」行為なんすね。ディズニーを傷つけたのは生成AIのモデルを学習させた人ではなく、手元で生成した人でもなく、ネットに貼って公表した人になる。
あれっすよ、絵師さんの書いたちょいエロ画像をフェミさんがRTして広めたのを見て傷ついた女さんがいたとして傷つけたのは絵師じゃなくてフェミっていうやつと類似。
でも反AIの人はモデルの生成がけしからんってところから全然出てこないんだよなー。モデルの利用者の責任っていうところ一切触ろうとしない。というかそこ理解しちゃうと活動が成り立たないのかもね。
まあ現状の生成AIサービスはローカルのPCで動かすのが普通の人にはなかなか難しくて、WEB上でブラウザ越しにサービス触る感じになるから生成と公表発表公衆送信が同時に起きてるように見えちゃうのがいかんのかもしれないね。
日本の教育に文句つけるときの定番「日教組ガー」にしても同様。
いや、国の文教政策の問題を論ずるのに、文教予算一手に握って中教審握って何より数十年にわたって文科省をコントロールしてきた政権与党の方針でなく、国の政策にも立法にもほとんど影響を及ぼせず、組織率すら2割程度の組合ごときが問題だと主張するとか、常識で考えておかしくね?
一企業で考えてみてもさ、わけのわからん経営方針で赤字続けてる会社の役員連中が、自分らと方針が対立しているとはいえ組織率2割程度の組合を目の敵にしてわーわー言って組合潰しに精出してたら、いや、あんたらの無能のせいで会社が絶賛傾いてる最中なんやけど?……ってならんか。
【学校健診で上半身裸「完全に全部見えている状態ですよね」 文科省が「子供の気持ちに配慮」通知 「着衣でも診察に問題ない」と医師 】
https://www.fnn.jp/articles/-/658761
記事に登場している医師が診察の場合は上半身裸である必要は無いって言ってるけど、じゃあ虐待の兆候はどうやって発見するんだよって話なんだが。
……
● 不自然な外傷
……
・服で隠れている部位の外傷
↑これをしっかり主張すべきと思うんだけど。
医師という医療のプロの目による診断で虐待の早期発見につながる大事な機会だろうし、または親が気づかない疾患にも気づいてくれるかもしれないなど、メリットは計り知れない。
「隠すもの何も持っていない上半身裸の状態でお医者さまの方と正面に座る。もう完全に、全部見えている状態にはなりますね」
呆れて言葉もねえわ。
「日本の注目論文数が世界13位であった」というニュースが今更ながら読売新聞に載っていたので、日ごろ思っていることを書いてみる
出勤前のただのガス抜き
日本「質の高い」論文数はイランに次ぐ世界13位、過去最低でも文科省研究所「下げ止まりの傾向」…自然科学分野 : 読売新聞 https://www.yomiuri.co.jp/science/20240903-OYT1T50055/
国立大学が法人化されてから20年、日本の大学における研究力の低下は歯止めがかからない。
研究力低下に対する危機感は、すでに10年以上前から言われていたが、文部科学省は長いことそれを認めなかった。
この記事のような明確なデータがようやく一般に見られるようになって、今になってあれこれ施策を出してきているが、どれもこれも遅きに失している。
大学の研究力がここまで低下した理由は、個々の教員の能力とかやる気問題ではなくて、完全に政策の問題。
個々の教員の努力でどうにかなるものではないということをはじめに書いておく。
国の研究力は(国内の研究者の数)×(研究時間)。あと金さえあれば向上する。
それがこの20年間、研究時間と金の両方が著しく減少している。
大学には金が無い、という話がネット上には溢れているのでここでは、教員の研究時間が無いことについて書く。
現状、ほんとうに時間がない。まったくない。
(わたしだって、ゆとりのある時間が確保できるのであれば、こんなところで愚痴を書かずに、ゆっくり腰を据えた研究をしている)
その原因の1つは明らかに「教育改革(笑)」に時間を投入しすぎているから。
この20年間、大学は教育改革w、教育改革w、教育改革w、そんなことばかり繰り返してきた。
これは、教育改革しないと文部科学省から予算が降りてこないからだ。
しかし、この教育改革(笑)と言うのは、ひたすらに教員の時間を奪う。それによって研究時間は大幅に減った。
学生はおおよそ4年間大学に在籍するだけで卒業していくから、その変化は感じにくいだろうし、すでに卒業後の社会人には今の大学の実情が見えていないだろう。
この教育改革には、学部改組、新規学科開設、ディプロマポリシーの明確化、カリキュラムマップ整備(笑)、シラバスの整備(笑)、成績評価の厳格化、学生からの不服申し立てへの対処法の整備、成績不振者のサポート、リメディアル教育(高校の内容の再教育)、海外留学支援、インターンシップ支援、情報リテラシー科目、データサイエンス科目の整備などなどがある。
反転授業、アクティブラーニング、グループ活動といった準備負荷の多い科目も増えた。
一般入試で入ってくる学生はひたすらに減少し、推薦、AC入試、各種特別枠で入学してくる学生が大半を占めるような大学もある。
一般入試を乗り越えていない学生は、基礎学力が怪しく学習習慣が身についていないケースも多い。おのずとサポートの負担は増加し(成績の悪い学生は呼び出して面談をしないといけない)、講義のレベルも下げざるを得ない。
アカハラ、パワハラは厳禁である。それようの講習も受けないといけない。学生に寄り添った学生の日常生活の支援、メンタルサポートも必要となってくる。
入試の多様化は入試業務の負荷増大に加え、オープンキャンパス、高校訪問、パンフレット整備、Webページ整備などの負荷も増やす(これらを教員がやっている)。
では、こういった教育改革によって大学を卒業する人材の質は向上したか。
おそらく底辺層、落ちこぼれ層の救済には一定程度貢献したに違いない。まさに我が国が得意とする、足並みをそろえて仲良く卒業しよう。という理想の実現に近づいているわけである。
(それでも、大学の教育は手抜きであって学生は遊んでいる、といつになっても非難される)
全体的に講義のレベルは下がった。授業への出席が求められるようになった。
初年次には、分野横断総合的な学習が重視され、専門を深く学ぶ機会が先送りされた。
その一方で、早くからインターンに参加し就職活動に取り組むことがあたりまえになった。総じて、深い学びの機会は失われている。
では、大学院はどうか。
大学院の重点化、大学院教育の実質化(笑)も、大学教員の負荷を確実に増やした。
修士の学生は増加傾向にあるが、残念ながら修士程度の学生は即戦力にはならない。
博士の学生や専任の研究員が減少し、修士の学生にも教員が手取足取り指導しなければならない。研究成果と言う面においては完全にマイナスの生産性だ。
こうやって育てた修士の学生が博士へ進学してくれればありがたいが、そうはならずに多くは就職してしまう。
ここ数年の博士進学実績は低下基調だ。日本のアカデミアは学生にも見限られている。
こういうった状況をスポーツ界に喩えるならば
国内トップクラスのスポーツ選手に対して、地元の中学高校の部活の面倒をみるのと同時にオリンピック出場を目指せと言うようなものだ。
さて、今後の展望。
これから少子化によって18歳人口が減少するため、ますます大学間の競争が激しくなる。一般入試を経ずに入学する学生が増えて学力は低下する。
活路を留学生に求めることになるため、ますます入試システムが複雑になり、学内には英語コースの設立が求められる。これは、新しく学科を1つ開設するのと同等の労力(つまり時間)が奪われることになる。
文部科学省(財務省)もようやく現状打破の施策を立ち上げ始めた。
博士の学生を増やすための支援を増やし、若手教員比率を高め、若手教員の研究時間確保のための取り組みを大学に求め始めた。
ゼロ年代のインターネットには、Alex Kさんという日本語が堪能なウクライナ人がいた。彼は日本語版ウィキペディアで、ウクライナに関する有益な記事をたくさん執筆していた。ウクライナ語のиをすべて「ウィ」と表記した結果、「フメリヌィツィクィイ」みたいな記事名ばっかりになっていたが、これも彼の正確さを重んじる姿勢のゆえだと好意的に見ることはできる。
しかし、Alex Kさんはウクライナ民族主義者であった。もちろん、民族主義者であっても良質な記事を書いてくれるなら問題はない。だから彼は、ウクライナの歴史上の人物や、都市や、教会についての記事を執筆し、加筆し、あるいは修正のために議論した。そしてある日、ひとりの日本人編集者が、彼の書いたウクライナにある教会に関する記事を修正しようとした。それが問題のはじまりだった。
話を150年ほど遡る。鎖国が終わり、自由にキリスト教を布教してよいことになったので、欧米人はこぞって宣教師を日本に向かわせた。宣教のためには、現地の言葉で書かれた聖書が必要不可欠である。だから宣教師たちは、それぞれが独自の日本語版聖書を作った。正教会の宣教師だったロシア人の聖ニコライは、漢文の素養のある日本人に助けられながら、教会スラヴ語(教会で用いられる古風なスラヴ語)に基づいていかめしい文体の日本語訳聖書を作った。カトリックやプロテスタントは、時代に合わせて聖書をよりやさしい日本語に置き換えてきたが、正教会の聖書は、明治時代からその言い回しなどがほとんど変わっていない。結果として、正教会の聖書は読みにくく、使われる語彙もカトリックとは異なっている。たとえば、こんなふうに。
正教会 | カトリック |
---|---|
主教 | 司教 |
顕栄 | 変容 |
生神女 | 聖母 |
至聖三者 | 三位一体 |
イイスス・ハリストス | イエス・キリスト |
これがいいか悪いかは、その人の価値観によるだろう。他の教会と共通する用語を使うべきと考える人もいれば、独自の伝統を守るべきだと考える人もいてよい。だがそれを決める権利は日本人の正教徒にしかなく、外部の者はそれを尊重すべきであるはずだ。
このようにキリスト教各派が使っている用語がバラバラなので、日本語版ウィキペディアでは、「各派の独自用語を尊重する」というデファクトスタンダードが確立された。たとえば日本政府は少し前までローマ教皇のことを「法王」と呼んでいたが、ウィキペディアではカトリック独自の呼称である「教皇」が採用された。カトリックの教会が「主教座」と表記されていたときは、カトリック用語の「司教座」に直された。だからその日本人編集者は、2009年に、Alex Kさんの書いた記事にある「三位一体」「変容」を、「至聖三者」「顕栄」に直した。
ところが、Alex Kさんにはそれが気に入らなかった。ウクライナ語や英語では、当然ながらこのような区別は存在しない。Alex Kさんは、「三位一体」は日本語の定訳なのに、なぜ「至聖三者」という日本正教会独自の用語を使わなければいけないのか? と反論した。さらに、大部の国語辞典を参照して、「顕栄」とは立身出世するという意味であり、「変容」の方が教義的に正しい、とも主張した。これに対し、日本人編集者たちは次のように答えた。
このような反論にAlex Kさんがきちんと応答していれば、もしかしたら有意義な論争になったかもしれない。だがAlex Kさんは、すでに論駁された自身の主張を繰り返すだけだった。あまつさえ、投票に参加しなかったにもかかわらず勝手に記事名を元に戻すなどの問題行動を起こした。最終的にAlex Kさんは日本語版ウィキペディアから出禁を言い渡され、現在のゆくえは杳として知れない。
Alex Kさんは何が気に食わなかったのだろうか。それはおそらく、日本正教会の立ち位置にある。実は、日本正教会は完全に独立した教会ではない。日本正教会はロシア正教会の一部なのである。
それの何が問題なのだろうか。日本のカトリック教会は、全世界の信徒を統べるカトリック教会の地方支部に過ぎないではないか。それと同じように、日本正教会がロシア正教会の支部であって何か問題があるのか? カトリックと正教会の組織運営上における最大の違いが、まさにこの点にある。カトリック教会は全世界の組織がピラミッド状になっているが、正教会では各地にある正教会は対等な存在で、それらを統べる上位者はいないのだ。つまりカトリック教会が「世界政府」だとしたら、正教会は「国際連合」のようなものなのだ(コンスタンティノポリスの全地総主教はあくまで同輩中の首席にすぎない)。
正教会において、国際連合における独立国のように振る舞うことができる教会のことを「独立教会(autocephalous church)」という。ロシア正教会やブルガリア正教会などはみな独立教会であり、対等な存在である。そして、国際連合に加盟する独立国の中にも自治区があったりするように、独立教会の内部にも自治を許された独自の組織が存在することがある。日本正教会はこのパターンで、教会内の人事は基本的に日本人の信徒や神品(聖職者)で決めているが、教会トップはモスクワから承認を受ける必要がある。日本正教会は、少数派であるキリスト教の中でもさらに少数派で、文科省の統計では人口1万人いるかいないかだ。小さな島が独立を諦めてイギリス領に留まることを選ぶのと同じように、日本正教会はロシア正教会から独立しようとしていない(というか日本だけじゃなく、そもそも東アジアに独立教会がない。中国正教会もロシア正教会の傘下だし、韓国や香港に至っては全地総主教の下の単なる府主教区であって自治権はない)。
つまり、ウクライナ民族主義者であるAlex Kさんにしてみれば、「日本正教会を尊重せよ」というのは、「ロシア正教会を尊重せよ」というふうに聞こえていたのではないか。なるほど彼からすれば、ウクライナ語では正教会とカトリックとで同じ言葉を使うのに、ロシア正教会日本支部ではわざわざ別の言葉を使ってカトリックと差異化しようとしている、と映ったのだろう(ウクライナには「儀式のやり方は正教会だが、組織としてはカトリック」という教会が存在しており、かつてロシア帝国から激しく弾圧されたことから、ウクライナ民族主義の核になっている)。
しかしAlex Kさんが見落としていたのは、日本正教会は日本人によって運営されている教会だ、という点である。確かに教会の設立はロシア人によるものだし、ある時期まではトップがロシアから派遣されていた。だが日本人の正教徒は自分たちで教会組織を運営するようになり、ここ半世紀は教会のトップも日本人が務めている。しかも、日露戦争やロシア革命によって生じた反露世論によって痛めつけられた上での話である。ロシア正教会が気に食わないというウクライナ人の気持ちは理解するが、逆風に耐えながら百年以上も信仰を守ってきた日本人信徒に対する尊重くらいは求めてもよいはずだ。
ところが、Alex Kさんが示したような日本正教会への侮蔑あるいは敵対は、残念ながらウクライナ人のあいだにしばしば見られる。たとえばウクライナ正教会は日本支部を開設しているが、その神品であるパウロ・コロリューク(Павло Королюк)は、「生神女就寝祭」を「聖母就寝祭」と呼ぶなど、日本正教会の用語法を意図的に無視する姿勢を打ち出している。ウクライナでならば好きな用語を使えばいいが、あいにくとここは日本であり、日本正教会の管轄地である。郷に入っては郷に従うべきではなかろうか。また、コロリューク神父あるいは彼に近しい誰かは、日本正教会を侮蔑するツイートを公然としている。まあ、こういうツイートでウクライナへの共感が強まると思っているならご自由にされればよい。増田は、コロリューク神父はキリル総主教の精神的双生児なのだから、似た者同士もっと仲良くすればいいのに、という感想しか持てなかったが。
(そもそも、ウクライナ正教会が日本支部を開設しようという時点で「シマ荒らし」といえる。日本在住の正教徒は基本的に日本正教会の聖堂に通うべきだからだ。とはいえ、移民が移民先に支部を作るのは米豪などでも問題になっているし、ルーマニア正教会も日本に支部を築いたことがあるので、ウクライナだけの問題ではないのだが。根本的には日本正教会が独立教会ではないのでナメられているのだろう。あるルーマニア人は「在日ルーマニア人が教会に行くのに、何でモスクワの許可が必要なんだ?」と嘯いたそうだ)
さらに、一昨年開かれたホロドモールの犠牲者を追悼する合同祈祷式には、コロリューク神父だけではなく「日本における総主教代理であるアンブロシオス府主教」が出席していた。日本の総主教代理とはどういうことか? 実は、全地総主教は日本正教会の自治権を認めておらず、韓国に派遣したギリシャ人の神品を日本の正教会のトップに任命しているのだ。彼は韓国の正教会のトップでもあるので、というかそっちが本業なので、ふだんはソウルにいる。なるほど、ウクライナ正教会が全地総主教によって承認された関係上、全地総主教が認める総主教代理を認めねばならないという事情は理解できる。だがそこでも、日本正教会が日本人の運営する教会だということは無視されている。明治時代からの由緒ある聖書を守り続けている日本人信徒がおよそ1万人いて、神学を修めた日本人の神品が何人もいるというのに、ふだんは韓国に住んでいるギリシャ人が日本の正教会のトップを名乗るというのは、日本人への侮蔑だとは思わないのだろうか?
ロシアのウクライナ侵略が許されざる暴挙であり、ウクライナ人へのジェノサイドであることにはいささかの異存もない。プーチンとプーチンを盲目的に礼賛するロシア正教会のキリル総主教は腹を切って死ぬべきである。Оккупанты, идите домой! だがそのことと、日本人が守り育んできた日本の教会を軽んじてよいかということとは、まったく別の問題であるはずだ。ウクライナ人、特にウクライナ正教会の関係者は、日本正教会に敬意を払うべきだ。彼らはどんなに苦しい状況でも正教会の信仰を守りぬいた人びとであり、彼らの培ってきた伝統は尊重されるに値する。もしもウクライナ正教会がイイスス・ハリストスの教えを日本で守り広めたいと思うなら、まずは彼らの伝統に倣うことから始めるべきだろう。
ところで、ウクライナ語版ウィキペディアの「日本正教会」の記事には、次のような記述がある。
На відміну від католицької і більшості протестантських церков Японії, Японська православна церква не використовує усталеної в японській мові християнської термінології. З 19 століття вона розробила власний словник. Більшість термінів вважаються застарілими словами і малозрозумілі для сучасних японців[13].
この「注13」は次のようなものだ。これは英語版やロシア語版にはない、ウクライナ語版オリジナルの記述である。
Наприклад звичне для японської мови слово «Трійця» саммі іттай (三位一体, дослівно: «три особи одна суть»), що зафіксоване у провідних японських словниках, японські правослані замінили на сісей санся (至聖三者, дослівно: «найсвятіші три особи»). Ця заміна сприймається неадекватно, оскільки друга частина словосполучення — санся означає не лише «три особи», а й «третю строну» або «аутсайдера». Інший приклад — «Преображення». В сучасній японській мові для позначення цього слова використовується термін хенйо (変容, дослівно: «зміна образу»). Японська православна церква замість нього вживає термін кен'ей (顕栄, дослівно: «проявлення слави»), який в японських словниках тлумачиться як «стати заможним» або «вибитися в люди».
Alex Kさん! 生きとったんかワレ! 「顕栄」についての一方的な解釈が健在なのを見てとても懐かしい気持ちにさせられた。さらに、「三者」は部外者というニュアンスもあるから、「「至聖三者」」はTrinityの正確な訳ではないそうだ。もちろんこれは日英露各版のどこにも書かれていない新発見である。確かに「第三者」という語を思い出せば、「三者」に部外者という語義があることは明白だ。このウクライナ人編集者の勉強熱心さには頭が下がるので、次はぜひ序数という概念についての記事を書いてほしい。しかし何より驚嘆すべきは、これほど独創的な日本語解釈が堂々とウクライナ語版ウィキペディアに載っているということだろう。ウクライナ人に向けて世界の言語についての知識を広めようとするAlex Kさんの思いには頭が下がる。きっとそのような手法はモスクワで身につけられたに違いない。いや、実にあっぱれ。<
なるほど。
俺は、それが理想だよなと言う意味で、一定以上お前の意見に賛同してる。
そういう前提の上なのを判ってほしいのだが。
難しいなと思うのは、
結局のところ"人生に必要な学問"を判断することが、誰にもできない。
微分が必要なやつと必要じゃないやつがいる。社会全体で突如、古文漢文が必要になるかもしれん。
となると、本人に判断させるか、という話になって。
実際それをやっている国がある。たしかアメリカにそういうとこがある?カリキュラムを低学年から選択するわけだが。
これがまた問題があって、
ガキはガキなので、他人の大人なんかよりも、もっと何が必要かなんてわからない。
いくら自分自信のこととはいえ、人生経験も脳の発達も足りなすぎる。
結果、カリキュラム選択式は、子供の可能性を伸ばすことではなく、子供に無駄に責任を負わす結果にしかならんっていうね。
そういうわけで、後の人生で要らない部分がでてくること前提で、ある程度網羅的に詰め込むしかないと俺は思う。
この「ある程度」の範囲を縮めたり広げたりすることは必要だし、今もやってるはずだけど。
ゆとり教育が悪かった点は、ゆとりが出来たあとに何をするか、そこの選択を何も用意しなかったことなんだろうな。カリキュラム選択よりもなお悪かったわけだ。たぶん、一部の天才は、ゆとり教育で浮いた時間で、自らを訓練して、社会的に成功したりしたのではないか。